複雑時計百合小説

複雑時計の時計師と、ある少女の百合です。

ある日、ツイッターでとある百合発想つぶやきが流れてきました。
「好きな娘のために作った複雑時計の中の、一年に一度しか動かない部品にわざと不具合を残してその時がきたら止まるように作って、修理のため年に一回は必ずその娘と会えるってのが私の幸せなんよっていう奥ゆかしくもヘタレで天才なのにバカって感じの女性時計師と少女の百合ください」というものです。こちらのツイートは「おも」さんによる百合的発想を流す「おもさんの百合くれbot」より流れてきたものでした。

もうずっとこの着想をみたときから虜となってしまい、思い切っておもさんに小説にさせていただきたいです! ここで働かせて下さい! と願ったところ快くご承諾頂きました。「おもさんの百合くれbot」とは一個人の着想とは思えないほどに百合のさまざまなシチュエーションが流れてくるアカウントです。

「おもさんの百合くれbot」:https://twitter.com/omo_please_more
複雑時計師のツイート:https://twitter.com/omo_please_more/status/729630563892494336
おもさんのアカウント:https://twitter.com/FGomo_203 

遅筆ですが、少しずつ書き足してゆきたいです。時系列の進みが少し速いので後からエピソードを入れたりもするかもしれません。

幼年期

小雨の降りしきる街で音の外れた楽団がやってきて通り過ぎようとしていた。
赤に緑、紫にピンク。怪物にしては間の抜けたお面と色とりどりの衣装をまとった一揃い。
伝統的なホテルのオープンテラスで赤い髪の女が行進を眺めていた。
名をアイノという。
テーブルには焼き菓子と珈琲。
ふたつめの仕事を負えて彼女を急がせるものは今何もなかった。
彼女はキャビノチェである。メーカーに属しない複雑時計師だ。
組合から斡旋された上等の客に一年かけて製作した。
ドイツへその時計を届ける旅の帰りに、スイスの北西部バーゼルに数日滞在することにした。
丁度、季節は春を迎えようとしていた。
四旬節だ。
四旬節は、復活祭の四十六日前の水曜日から復活祭の前日までを示す。
この期間の初日は灰の水曜日と呼ばれる。
バーゼル・ファスナハトはこの翌週の月曜から三日続くカーニバルだ。
楽団の行進を眺めながら彼女は胸のうちにいくつかの計画をめぐらせる。
人生は順調だ。世界に欠けているものはない。
ふたつめの仕事のあと、アイノはこれまでよりも大きな仕事の依頼を受けていた。
春になるとこのバーゼルでは見本市が開催される。
世界一の複雑時計の展示会、バーゼル・フェアだ。
世界中のブランド、メーカーからその技巧の粋を凝らした時計が寄せられる。
今年の出展予定はないが、いずれ…
彼女はそう考えていた。
自分の名を刻むようなアイデアを打ちたてた時計を出展する。
三度目の仕事はそのための足がかりとなるだろう、と画策する。
そのためには工房が必要だった。
湖畔地方のある小さな村が今の住まいだが、それを構えるならもう少し都市部寄りがいいだろう。
あるいは…
脳裏に去来する候補地のどれが適しているかを考えながらも楽団の去るのを目で追う。
すると、店の出入り口の扉がうちから開いて少女が飛び出してきた。
片手にはチョコレートの焼き菓子を握りしめている。
しかし着ているものは絹のワンピースだ。
輝く直毛のブロンドにリボンのヘアタイ。ワンストラップのシューズ。
ホテルで何度か見かける観光客の一家の少女だ、とすぐにわかった。
エレベーターで行き会っても、ロビーで遭遇しても少女はいつでもこちらを見て何か言いたげにしたり、あるいは手を振ってくるのだった。
「エイミー!」
店の奥から母親の声が聞こえた。
「待ちなさい、エイミー」
母親が追って飛び出てきたとき、少女は楽団をついてもう街角を曲がろうとしていた。
楽団の行進を見つけて堪らなくなって出て行ったのだろう。
しかし母親はすぐに店のうちに引っ込んだ。
苦く笑うとアイノはカフェの窓を外から覗いた。
彼女の持ち出した菓子の勘定をする必要があるらしい。
それから通りへと目を向けて、それに気付いた。
石畳の路上に少女が通りがかった痕跡がある。
それは時計師でなければ気付かないような小さな細かい金具だった。
アイノは石畳へ降りた。次の楽団がやってくる前にそれを拾い上げる。
そして行進と少女の行き先へと歩いていった。

「エイミー」
名前を呼びながら雑踏を探した。
ぐずるような声がしてそちらへ向かう。
街灯のそばにしゃがんでいるエイミーを見つけて、アイノは声をかけた。
スカートの裾が道路について汚れてしまう。
「お姫様」
呼びかけて、体を支えて抱き上げた。
「私がわかる?」
顔を近寄せて尋ねると、エイミーは頷いた。
「ホテルで何度か見かけたわ」
「そう、アイノというの。よろしくね」
「アイノ」
「お母さんが探してるわ。帰らなきゃ」
ホテルの側へ抱き上げたまま向かおうとすると、姫は足をばたつかせて嫌がった。
「嫌! 帰らない…ずり落ちちゃったの」
少女はべそをかきながら手に強く握りしめた首飾りを差し出した。
「壊れちゃったの」
菫と薔薇を模したモチーフのぶらさがった首飾りだ。
子供のものだと思っていたが、イミテーションではない。
縁取りにいくつか宝石があしらわれていた。
「あなたの宝物?」
エイミーは頷いた。
「おばあちゃんのカタミだって。旅行中だけ、無くさない約束でお母さんが貸してくれたの。壊したなんて知られたら怒られる」
形見の意味をわかっているのか知れないが、ことの重要性は理解しているようだった。
黙ってアイノは頷いた。
「直してあげる」
「直す? 直せるの?」
「けれどお母さんに知られないようにホテルに戻らなきゃ。私の部屋に道具があるの」
「裏口を知ってるわ」
その言葉にアイノは驚いた。
あんなホテルの裏口をどうして知っているのだろう。

「探検しているうちに見つけたの」
「うん」
「何故かこっちに来たがらない人の方が多いけれど」
「でしょうね」
ホテルの裏側には非常階段があった。駐車場とゴミ捨て場に囲まれているので悪臭がする。先を行くエイミーの足取りは軽やかだが、アイノは不安だった。
手すりが今にも落ちそうなくらいに古い階段なのだ。
そして、立ち入り禁止、という看板を見た気がする。
この階段からホテルの内に通じているのだろうか? 
「ここよ」
三階にあたる扉の手前でエイミーは立ち止まり振り返った。
「その扉があいているの?」
「ううん。この柵をよじ登ってあの隣のテラスに飛び移ると窓が開いてトイレに通じているの」
言うが早いかエイミーは柵によじ登り、ひょいと隣のテラスへ飛び移った。
そして窓を開いた。
内側へとひらりと身を引っ込めた。
窓から顔を覗かせてアイノを促す。
「早く」
柵からテラスまでは六十センチほどの間があり、それほど遠くは感じない。
しかしアイノの体にエイミーほどの身軽さはない。
下を見ないようにしてアイノは柵へと身を乗り出した。
なんてことだ、と考えながら。


アイノの部屋はホテル最上階のスイートルームだ。
劇場の緞帳のようなカーテンに天蓋つきのベッド。
猫足つきの浴槽。応接用の革張りソファ。
しかし何よりもトランクから引っ張り出された多数の道具にエイミーは目を輝かせた。
特殊なやすりに拡大鏡、いくつもの工具。
それらが宝石のように緩衝材つきの箱のなかに収められていた。
執務机の椅子を部屋のうちに向けてアイノは選んだ工具で彼女のアクセサリーを直した。
道で拾った金具はネックレスの肝要な部分だった。
元通りにして持ち上げるとエイミーは頬を紅潮させる。
「すごい! 魔法使いなの?」
アイノは笑う。
指先が器用なだけだ、とは言わずにおいた。
「そうかも。でもあなたのお母さんより力はないわ。あなたとネックレスを早く帰さなきゃね」
抱き上げようとすると少女は逃げた。
「ほら! 心配してると思うわ」
「だって、もっと魔法が見たい。お母さんのところにいてもつまんない」
「そんなこと言わないの」
焦れてアイノはネックレスを掲げる。
「こんなに綺麗な宝物、そうはないわ。戻らなきゃ」
「だって、あれしなさい、これしなさい、ばっかりなんだもの。おとなしくしてなくちゃならないんだもの…」
子供の好奇心は旺盛だ。
アイノは思案した。
「魔法を見たら戻る?」
エイミーは頷いた。

準備ができたというので、エイミーはそれを覗き込んだ。
執務室の上に据えられた実体顕微鏡を覗き込む。
それは懐中時計の内側だった。
二千を越える部品が百分の一単位の空間で重なり合い組み合わさり回転している。
途切れずに動き続けるその流れが拡大されて視界に迫る。
少女は声をあげた。
「すごい! 工場で作るの?」
「私が作ったんだよ」
「え?」
少女は振り向いた。
十六の時に自分が製作した、とアイノは告げた。
工場ではない。
「私は時計師なの。今はその旅の途中でここに滞在している」
エイミーは黙った。
「…素敵ね」
「面白かった?」
少女は頷いた。
「じゃあ、戻りましょうか。お姫様」
しかし、エイミーは熱っぽい瞳でアイノを見上げると彼女の手を掴んだ。
「ねえ、アイノ。あたしにも作って――」
本気で言っているらしかった。
これは魔法ではなく技術に過ぎないのだが、そしてそれなりの値が備わるものなのだが。
少女がそれを知っているはずもない。
こんな小さなお客様は初めてだ、と彼女は思った。
「そうね。あなたのご両親がいいと言ってくださるなら…」
そうはならないだろうと思いながらもそう言った。軽はずみに。
「作ってあげる」
「本当?」
「嘘はつかない。約束する」
果たしてアイノはロビーでかわいい娘を探している両親の元へ彼女を連れて行った。
そして彼らが英国のさる高貴な血筋の一家であることを知った。
エイミーがいずれ寄宿舎に入るであろうことも。
その年になったら、きっと依頼を受けてくれるかという申し出に、アイノは断る理由を見出せずに頷いた。
とんだお姫様だ、と時計師は思った。
滞在中にエイミーは何度もアイノの部屋へやってきた。
両親からの許しを得た姫に怖いものなど何もなかった。
明日は村へ戻るという日になると、彼女はむっと黙り込んだ。
見送りに来てくれる? と尋ねても口をきいてくれなかった。
出立の日にフロントでアイノは小さな贈り物を受け取った。
それはある日二人で出かけたときにメアリーが詰んだシロツメクサの束だ。
フロントのスタッフが気をきかせて、枯らさないように花瓶にさしておいてくれたのだ。
「本人は?」
茎を不器用にまとめている青いリボンに見覚えがあった。
ふたりで出かけた日にエイミーの髪をくくっていたものだ。
フロントの中年の男は肩をすくめた。
「お部屋にはいらっしゃると思いますが…会いたくないと」
「ちょっと待って」
連絡先を記したメモは既に両親に渡してある。
しかし、アイノはメモを借りると礼の言葉と連絡先を記してフロントに渡した。
「お姫様に渡してください」
「承ります」
また来年会えるだろうか。
しかしそれにはあまりに名残惜しい…
もうすっかりエイミーを好きになってしまっている!
それを自覚した。
こんな旅になるとは思っていなかったものを。

少女期

ジュネーブから60キロ離れた集落を黒塗りの車が走る。
北東に山脈の連なる山間の村だ。
かつて時計作りは農家の副業だった。
この一帯はその手わざを伝統的に引き継いできた山村である。
その古い土地にアイノは居を構えた。
ジュネーヴのような都会では存分に仕事ができないと考えてのことだ。
農家の離れを買い取り、屋根裏を工房に据えた。
量産品の部品は用いずに自らすべてを設計し組み立てる。
それにふさわしい静謐があった。
けれども、遠方はるばる訪れる彼女の客はそれに不満を感じていた。
両親の運転する車の後部座席で、顔をしかめている。
かつて幼かった面立ちにはしっかりと意思の色があらわれ、彼女は13歳になろうとしていた。
両親はもっと早く寮にいれたがっていたが仕事の都合でそれがかなわなかった。
「こんなに遠いところにいるなんて」
少女は不満そうだ。
ただ遠いだけが不満なのではない。
ジュネーブの郊外ならいいと言ったのに、アイノは渓谷の地方に引っ込んでしまった。
それが気に入らないのだった。
やがてアイノの間借りしている家が見えてきた。


「アイノ!」
「!」
手を広げて飛びつくように背伸びするエイミーを彼女は抱きとめた。
「驚いた…」
そう呟いて、床に下ろす。
入り口に立つ少女を改めて見下ろす。
身にまとっているのは彼女が通うことになる学校の制服だ。
襟元のリボンが愛らしい。あどけなさの払拭されたその姿に、アイノは驚いていた。
これほどに綺麗になるとは思わなかった。
「久しぶりね、エイミー」
「久しぶりね…いつも手紙の返事が遅いんだから」
彼女たちは手紙を交わしていたが、どうしてもアイノの仕事が忙しくなると返事が途切れがちになるのだった。
けれどもアイノはエイミーを忘れたことはなかった。
会わずにいる間もしばしば彼女を思い出したし、それが制作意欲の源泉にもなっていた。
ただ余りに長い間会わずにいたので、そして自分には年の近い姉妹もいないので、数年会わないだけでもあの幼かった子がこんな具合に大人びてしまうとは思いもよらずにいたのだ。
「エイミー、失礼だろう」
「ご無沙汰していたわ、アイノ」
エイミーに続いて現れた彼女の両親に、アイノは社交的な笑みを向ける。
「ご無沙汰しています。この度は仕事のご依頼をくださいまして、どうも…本当にありがとう」
感慨深く彼らは握手する。
彼ら夫妻は本当に約束を違えなかった。
独立時計師としての地位を確立しつつあるアイノに、両親は仕事を依頼したのだった。
娘のために時計を、と。
二人がエイミーに向ける愛情は本当に思いやり深いものだ。
例え寮に入ってしばらく会えなくなるとしても、さみしくならないように。
そんなものを作ってほしいというのが依頼の内容だった。
「どうぞ。今お茶をいれます」
通された居室の奥に階段がある。
それを見てエイミーは瞳を輝かせる。
「ねえ、上に工房があるの? …見せてくれる?」
そうねだる。
アイノは戸惑った。
「エイミー、けれどご両親は長い時間ドライブしてきたんでしょう…」
たしなめて台所へ向かう。
すると付いてきて勝手にカップを戸棚から探し始めた。
「じゃあ私も手伝うから」
ため息をついてアイノはポットに水を注いだ。
夫妻は苦笑いしてエイミーの非礼を詫びたが、アイノは一向気にかけない。
けれど二人が自分たちは後でいいからエイミーに見せてやってくれないか、と言い出したときにはさすがに慌てた。
「そんなわけには…どうぞお掛けになってください」
「私たちはいいのよ。けれど娘は本当にあなたの時計を心待ちにしていたの…」
控えめだが確固たる口調で夫人に微笑まれて、アイノは肩をすくめた。
「そうなの?」
エイミーに問いかける。
さすがにバツが悪そうにエイミーは頬を赤らめた。
「だって…いいでしょ…工房が見たいだけよ…」
少女の肩に優しい母親は手を置いた。
「早速見せてあげてほしいの。時計も」
アイノは頷いた。
「時計も上にあります。確かにエイミーのものだから」
「いいの?」
無邪気に満面の笑みを浮かべる、その表情にアイノはしばし見入った。
それはまるっきり最初に会ったときの、幼い頃のエイミーそのものだった。
ああ、変わっていない。
大きくなったけれども…
無意識に彼女はエイミーに手を差し伸べた。
「抱き上げて運んであげる? 小さい頃みたいに」
「何言ってるの。子供じゃないんだから…」
けれども少女は素直に時計師の手をとると、導かれるままに階段をのぼりはじめた。


「さあ、上がって…」
屋根裏を利用した工房は窓が広く明るい。
作業台は北向きに据えられ、その上には数多のやすりと作業工具が並んでいた。
エイミーは息を呑んであたりを見回す。
広い窓から見える峰峰のシルエットに目を凝らした。
この冴えた自然のうちに時計師が身を投じた理由がわかった気がした。
「素敵な眺め…」
うっとりと窓に寄り添う。
そしてその台の中央にたった今出来上がったばかりの腕時計が置かれていた。
気が付いて、エイミーは時計師を見た。
時計師は頷く。
「あなたのものよ…つけてみて」
そう促されたにも関わらず、少女はじっと盤面を見据えたまま動かない。
「でも…いいの?」
「あなたのものだから」
淡い藍色のケース。
盤面はシンプルな装飾だが、ところどころに星のように小さな宝石が散りばめられている。
豪奢ではなく、控えめに。
グリーン、ピンク、ブルー、イエロウ…
「…気に入らないの?」
躊躇っている少女の背後にアイノは近寄った。
「気に入らないなんて! そんなはずない…」
エイミーは俯いた。
「あんまり綺麗だから…でも、私は…こんなに素敵な時計が待ってるなんて思ってなくて…ふさわしくないんじゃないかって」
「…そこまで言ってもらえるとは思ってなかった」
本当に、そんなにお気に召して頂けるとは!
アイノはそっと時計を持ち上げた。
「これはね…そのう…カーニバルの灯をイメージしたの…覚えてる?」
恥ずかしそうにそう告げる。
エイミーははっと目を見開いた。
「あなたと出会えたときのカーニバルの灯は、こんな風に色とりどりで明るかった。あなたはまだ幼かったから…今になって思い出すのは難しいかもしれないけれども、これから寮に入るんでしょう? あんな風にご両親があなたを素敵なお祭りに連れていってくれたことを忘れないように…」
「……」
「本当はもっとシンプルにしようかと思ったの。でもあなたには明るい宝石が似合う」
「アイノ!」
少女が突然抱きついてきたので、アイノは時計を手にしたまま硬直した。
「嬉しい…ありがとう…」
「気に入ってくれて良かった!」
心からそう告げる。
本当に。
ただの依頼人に必要とされる以上に、この少女のための時計を製作するのは楽しかった。
作っている間、ずっとこの女の子のことを考えていた…
どんな風に成長しているのか。
どんな友達ができたのだろうか。
そして、どんな大人になっていくのだろう…
エイミーが腕を突き出す。
「あなたの手で嵌めて。アイノ」
「私が?」
「お願い」
小さい頃と変わりのない口調だった。
この少女には不思議な強制力がある。それに従うのが心地いい。
司祭が儀式を司るような厳かな態度でアイノはその手首に腕時計を装着してやる。
「リュウズを巻いてみて…試験はしてあるけれど、あなたが最初に巻かなければ」
おずおずとエイミーはそれに指を添えた。
リュウズを巻くことでそれは彼女のものになるのだ。
この先も、ずっと。

思春期

「ごきげんよう、アイノ」
「ごきげんよう…また綺麗になって! レディ」
エイミーはちょっと頬を膨らませた。
「変なこと言うのはやめて」
文句を言ったが機嫌が悪いわけではなさそうだった。
「いくつになるんだっけ」
「16よ…レディと呼ぶ相手に年齢をきくなんて失礼だわ!」
アイノは苦く笑って謝った。
既にアイノは一定の地位を築いていた。
バーゼルフェアにめでたくも三回目の出展を控えていた。
丁寧な仕事をする時計師として名実ともにその名は浸透しつつあった。
時計師はもう童女とは呼べないその人を眺める。
ブロンドは輝きを増して瞳には知的な光が備わっている。
けれど淑女にしてはまだまだ負けん気が強い態度だ。
「それは失礼」
あたりのざわめきが遠ざかる。
ジュネーブ駅の構内に一人で降り立った彼女を迎える。
一人で飛行機にも乗ってきたことを褒めては、お気に障るだろう。
そんなことを考えながら彼女の荷物を引き取る。
大きなトランクだ。
「あ、ありがと…」
「随分多いのね、荷物が」
「泊めてくれるでしょう?」
「え?」
アイノは眉をあげた。
「迷惑?」
「まさか」
「湖とあなたの仕事が見たいと思ったの」
それは光栄だ。
けれどもどうして急に?
複雑な気分だ。
「嬉しい。ゆっくりしていって」
「ありがとう」
アイノの車で二人は渓谷へ向かった。

「いつもこの時期なのよね…」
「んー?」
「四旬節の頃になると時計の調子が悪くなるわ」
屋根裏の工房のその机には、少女の時計が置かれた。
キャビノチェはそれに向かい合うと腰かけて、そのバンドを外す。
それからカバーを外す。
「作業の邪魔じゃない?」
エイミーは壁際のカウチに座り、その背を見ている。
「私は構わない。それに荷物を置いて着替えて来たら?」
アイノは単眼レンズを額にあてがい、工具を手にした。
「いいの。ここにいていい?」
「どうぞ。それで今度はどんな調子ですって?」
竜頭をまわし、その動作を確かめながら持ち主にアイノは問いかけた。
「永久カレンダーが切り替わらないのよ。そんなことってある?」
「ああ」
「試験だってあったのに困っちゃった」
「それは申し訳なかったわ」
心からアイノはそう述べる。
クッションを抱えると、エイミーはソファに寝そべった。
仕立てのいい服の汚れるのも構わず。
「最初は竜頭が外れて、それから短針の遅れ。次の年は秒針の狂いで、それからベルが壊れて…」
「壊れたわけじゃなかったわ。鳴らなくなっただけ」
「でも変だわ」
「何が?」
努めて平坦にアイノは振る舞う。
何が変なのか。
そろそろ、それに少女が気付いてもおかしくはないのかもしれない。
「だってあなたは有能なキャビノチェなのに、毎年、どこかしら私の時計がおかしくなるじゃない?」
「そうねえ…」
のらりくらりとアイノは首を傾げた。
「フェアに出している時計はとても高く売れて不具合もないっていうじゃない? だから、こないだ寮生にあなたの作品だって教えたら、そんなはずがないわって言うの。その子は私の時計が毎年狂うのを知っていて…しかもいつも同じところが狂うわけじゃないから」
「まったく申し訳ないと思うのよ、その点については」
「あ、別に責めてるわけじゃないわ。だって、そういうの…『初期不良』っていうんでしょう?」
まことに身勝手で、けれどもありがたい解釈だ、とアイノは思った。
「ねえ、そうでしょ! あなたの修練が実る前の作品だから…いつもどこかしらあちこちおかしくなるんだわ。私はそう言ったのに、そいつ、いつまでも笑ってるの。あなたの作品だって信じないのよ…銘だって入っているのに」
クッションに顔を埋めて、エイミーは不貞腐れる。
「エイミー」
振り向かず作業に専心しながらも、アイノは言った。
「確かにこれは私の作品よ。そうして、あなたのためだけの…それが証拠に、私にしか直せない…私だから直せるの」
そう言って、アイノはカバーを閉じてバンドを戻した時計を持ち上げた。
それをエイミーのもとへと運ぶ。
寝そべっていた少女は起き上がった。
「もう直ったの?」
「ええ。竜頭を巻いたわ…音を確かめて」
直接、アイノの両の手のひらから受け渡された時計を、エイミーは耳にあてた。
それは鼓動よりも無機質に、けれど優しく時を刻んでいる。
「カレンダーは大丈夫?」
「万全よ」
「大好きよ、私の修理師さん!」
エイミーが無邪気に両手を広げた。
戸惑いをあらわしてはならない、とアイノは刹那に判断した。
彼女を抱き寄せることを躊躇するそぶりを見せてはならない。
まだ中身は子供なのだから。
ぎゅっとハグすると、その髪が鼻先に触れる。
このあたりにはない、それは洗練された街中で生きている少女の髪の整髪料の香りだった。
アイノはすぐに離れた。
「夕食にする?」
「手伝うわ」
エイミーは微笑する。
ひとつも、あの初めて会ったときから変わらない笑顔。
いいや、変わりゆくものはいくらでもある…
もう昔のように小さな女の子ではない。
背が伸びて、大人びて、マナーを身につけ、やがては内面も未熟ではなくなっていく。
目に見えて彼女は美しい少女に育った。
時計は同じ円盤をただ繰り返しまわるようでいて、少しずつ重力の影響を受ける。そのくらいの変化は起こる。
けれど人間は時計のように微々たる変化で済むものではない。
おのずからそれは大人になりゆく。
その変化を、どうせ変わっていくものなら、ひとつでも見過ごしてしまいたくない!
その時計は来年には長針が遅れるのだ。
アイノはそれを知っていた。
自分が今、カレンダーを直すと同時にそうなるように仕掛けを施したからだ。
ちょうどまた、来年の四旬節の頃にはそうなるように。
そうして、また、この人が私に会いにくるように。
小屋にこもりきりの時計師にとっては、それが今ではささやかな幸福となりつつあった。エイミーは未だにその仕掛けに気づかない。
当然だ。
カバーの下の複雑な仕組みを彼女は理解していないのだから。
今でも、ただの魔法だと、いや、さすがにそんな年齢ではないとしても…自分の考えも及ばない場所だと考えている。
寮生の友人がその魔法をといてしまいそうになったと聞いて肝が冷えたが。
台所で二人はじゃがいもの皮を剥いた。
長期休暇の予定を話す生き生きとした表情からは、疑いの欠片も見受けられない。
アイノは少女を釣りに誘った。
美術館に、ドライブに誘った。
エイミーを連れているだけで、観光客はこちらを振り向いた。
誇らしい一方で、アイノは心に陰りを覚えた。
いつまでもこの少女を放っておく世間ではないだろう。
今はまだ寮に通っているが、そこを出た時に、彼女を見つけ出すのは誰だろう?
それは明らかに自分ではないだろうと知っていた。
けれど、それが何であろう…
例え彼女が誰のものになろうとも、この時計の修理師はこの世に自分ひとりである。それだけは不変だ。

【この章つづく】

複雑時計百合小説

複雑時計百合小説

複雑時計の時計師とある少女の百合です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 幼年期
  2. 少女期
  3. 思春期