喜楽な俺の話
なんか先日一時感じた話を抽出、例示してみた話です。
ちょいちょい更新していきます…
第一話 これまでこんな経験をしました
ぼくはみていた。
ひとしくんはゆうすけくんにおこっていた。
ゆうすけくんはないていた。
ぼくは、しょうがないんだなとおもった。
そうしたら、ぼくはせんせいに「はなれて」といわれた。
なにもできなくてなんかいやだった。
ぼくは聞いていた。
さつきちゃんはぼくの左どなりの席でぼくの右どなりの席のけい子ちゃんと話していた。
ぼくもいっしょに話したかった。
話しかけたらいっしょに話してくれた。
ぼくはうれしかった。
そうしたら男の子たちに笑われた。
なんかいやなきもちになった。
おれは泣いた。
中学校に進学して、小学校では負けなしだった持久走で初めて負けた。
自分のプライドがめちゃくちゃに傷ついた。
すごい絶望した。
これから頑張ってもう負けないようにしよう、もうやだこの分野で戦いたくない逃げたい、負けるのはつらい、負けるのは仕方がない、努力すればどうにかなる、努力なんて無駄、優先順位、自殺、無価値、挫折、超再生、人間の可能性、・・・
もう何にも分からなくなった。
その日、頭から白髪が出た。
俺は知った。
好意は友情だけじゃないと。
俺が恋をしたわけではない。寧ろ逆。俺が好意を抱かれた。
卒業式の後に突然呼び止められ、告白をされた。同じクラスの山内皐月だ。
これまで「友達」だとしか思っていなかった人間に異なる感情をぶつけられた。
理解できなかった。俺は馬鹿だからか。結論を先延ばしにした。
何も感じなかった。
俺は学んだ。
山内は高校で成績不振らしい。あいつは中学ではトップクラスの成績で、進学先の高校でも十分活躍できると見られていた人間だった。
それが卒業以来鬱のような状態で、元気がないようだったという。
原因は俺ではないか、俺はそう考えた。
俺の判断一つ、それで傷つく人間もいる。それ故俺は学んだ。
俺は誰に対してもやさしさを以て生きねばならないのだと。
第二話 定義の繰り返し
人には優しく接さなければいけない。
俺は幼いときにそう教わった。だから俺は、友達(と呼べるであろう存在)が困ったときには手を差し伸べ、温和に振る舞った。
しかし、いつだったか、否定されたのだった。
何歳かは覚えていない。だが、俺が学校の友達(と呼べるであろう存在)に金を貸したことがきっかけで、俺は母に叱責された。
「優しすぎるのよ、アンタは。もっと厳しくていいのよ。」
甚だ理解できない。周囲は俺を、"親身になって接してくれるいい奴"と思っている。それに対して反旗を翻すかのようなことをするなど、到底ばかげている。そう思った。
俺は"優しく"接している。それに変わりは無い筈だ。
人には優しく接さなければならない。
これに間違いは無い。
しかし、ここで反例がある。憲法や条約などでは、公布、批准した後、解釈を歪めて事実上改変できる。これと同様。
"優しさ"というものは曖昧だ。だから、解釈のしようで変わってしまう。いや、変えてしまえる。
俺自身、"優しい"行動に対して猜疑心があった。日々、友達(と呼べるであろう存在)に優しく振る舞っても、それで別段金を得るわけでもなく、その人人に特段優しくされるわけでもない。経済的な考えをしてしまえば、赤字状態である。
喜楽な俺の話
口調で年代を表現しようとしたのは・・・自明のことですよね。拙い表現で申し訳ないです。