黒い森の中の狩り人の狼と子羊の仮面は青く光り

いつの間にかそこにいる二匹の獣

私たちは、いつも一人……もしくは、二人でした。
別に、一人、ないし二人きりであったことで寂しく思ったことはありません。
その理由はいつも、私の隣には私が、もしくは誰かが、いたからでした。
私たちは二人で一つであり、一つを二人で分け合ったような、そんな存在でした。
その黒い森の中では、私たち以外の全ては私たちに対して敵意を持っていました。
それは動くもの、だけではなく動かぬもの、例えば草木、例えば湖、そして空気さえも、
私たちの敵でした。
最初は独りだったことを覚えています。
けれどもいつからこうして二人になったのかは、もう覚えてはいません。
その子は私と違い、白い毛皮を持つ子羊でした。

「狼さん」

私は狼と呼ばれています。

「なんでしょうか、子羊」

子羊はいつも仮面をつけているため、その表情を知ることはできません。

「今日はどこに行きましょうか」

この黒い森の中、どこに行っても黒い森の中であり、
少し大きな湖とか太陽の光を見ることができる空き地とか、そんな場所があるぐらいの、
森の中でした。
だからその言葉に困ってしまいます。きっと、子羊は私を困らせているのでしょう。
だから、そう言っては笑っているのでしょう。

「行く当てなんかありますか?」

子羊は静かに笑います。震える空気は、まるでそよ風のようでした。

「ありませんね」

だと思いました。
しかし、こうしてこの大きな樹の洞に身を休ませて、もう十日にはなるでしょうか?
そろそろお腹もすいてきました。ああ、いいえ、本当ならば食べる必要はありません。
ですが子羊は、食べることを望むために私は狩をしています。
しかしきっと子羊は、私の狩る姿を見るのが目的なのでしょう。
私が用意した肉を食べる素振りはありません。いつも、その場で捨ててしまいます。

「今日は、狩ってくれますか?」

今日ぐらいは狩ってみましょうか。私の身体は黒い狼のそれであり、
だから狩りに適しています。
強靭な四肢で、黒い毛並みで、牙があり、そして割れた仮面が両眼を塞いでいます。
青い光が強く光っている、そうです。
私は自分の姿を、湖の水面でしか見ることはできません。
そして、自分の姿を嫌悪しています。私は、白い子羊の姿が好きでした。

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その二匹の姿は、きっと私の目には奇妙に映ったのだろう。
だから私は、手に持っていた剣を振り上げ、その二匹に向けて振り下ろしたのだろう。
でもそれよりも早く、白い毛並みの獣はその青い光が灯る眼で私を見据え、
黒い毛並みの獣はその牙でその剣を受け止めた。
だから私はこう叫んだのだろう。「化け物どもめ!」、と。

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「化け物?」

化け物だなんて。そんなことは、見ればわかるでしょうに。
狼さんはその牙で、その口で、その粗末な剣を受け止めているから喋ることができず、
だから私がこの愚か者と喋らなければならなくなった。まぁ、それはいつものこと。

「ええ、化け物に見えるのでしょうね、貴方からは」

笑うと、その愚か者は怖い顔をした。顔は紅潮し、歯をむき出して、私たちに言った。

「死ね! 死んじまえ! 化け物め!」

過剰な敵意。それは私にとってはいつものことであり、もう慣れたもの。
でもなぜか、私がなぜかと思うときは、決まって狼さんがそう思っているからではあるが、
私はその愚か者に興味を持ってしまった。だから狼さんを少し呪ってしまう。
こんな愚か者のことなんぞ、放っておけばいいのに、と。

「……ええ、そうですね」

まず、何を言えばこの敵意が収まるだろうか。
いいえ、もしかするとこの敵意は永遠に失われぬものであり、
私たちは敵意を持たれながらその姿を捉えられなければならないのだろう。
きっと、そうなっているのだ。だからその時は、率直に話すことにした。
私の気持ちを伝えることにした。それが正解かどうか、まだわからない。

「少し話しませんか? あなたのことをもっと知りたいのですよ」

その時のその愚か者のその可笑しな顔は、きっと忘れることができないだろう。
場所が許せば、笑っていたに違いなかった。

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私たちはその者を、ついさっきまで私たちが眠っていた樹の洞に案内しました。
もちろん、私たちに危害を加えることができないように、
剣はあらかじめ私の牙でへし折っています。
今やその者が持つ武器は両の手ぐらいで、
それは私の牙に比べるとはるかに見劣りするものでした。
だから、そうですね、油断していました。
油断をしていても、その者は私たちに危害を加えるようなことはしませんでしたけれど。

「……で、何を話そうというんだ?」

その者は相変わらず、どこか難しい顔で子羊と、その横にいる私とを見比べています。
思えばこうして、人のような存在とお喋りをするのは、
少なくとも私が覚えている中では初めての経験であり、
だから何を話せば良いのか迷ってしまいました。

「狼、さん?」

子羊の、青い光が私を射抜きます。

「子羊。何を話そうか?」

尋ねると、子羊は笑いました。それはそよ風よりも穏やかであり、けれどもどこか楽しげで、
だから私も楽しくなって、笑ってしまいました。

「何を笑っている」

その者は笑ってはいません。当然でしょう。
楽しいのは私たち二人だけであり、その者は決して楽しくなんかないでしょうから。
笑い終えた子羊が、私と似たような、
けれども割れていない仮面のままその者へと視線を移します。
その者は子羊を見ています。
私はその者を見て……そうですね、次第に我慢ができなくなってきました。
もう少し具体的に言うと、やはりその者は私たちの敵ですから、
襲いたくなってくるのです。
その細い首に、私のこの自慢の牙を突き刺し、捻り、地面に叩きつけ、
捩じ切ってしまいたいという、そんな欲望です。
この気持ちを子羊は知っているのでしょうか?
そちらを見ると、子羊はその者を見ていました。

「女性、ですか」

私たちには、きっと性別なんてないのでしょう。
しかしその者は違うようで、長い黒髪は、黒曜石の如く黒い瞳と相まって、
それ全てがまるで宝石のように、しかし輝くことはなく、そこに居ます。
細い身体には、恐らくは狩り人なのでしょうか? 皮製の鎧を纏っており、
今は空になった鞘を腰から下げていました。きっと、その姿は美しいというのでしょう。
私たちにはわからない感情ですが、そう思います。

「だからどうした?」

その顔にはまだ怒りのようなものが張り付いています。
ですが私たちには怒りというものはわかりません。
子羊もわからぬようで、しかし青い光でその者を見ています。

「……そうですね」

子羊は私を見て、そしてその者を見て、また私を見て、ついに切り出しました。

「どこに住んでいるのでしょうか? そこに人はいるのでしょうか?
私たちも連れて行ってくれませんか?」

その意味を子羊が理解している、と思います。
ですが私には理解できず、そしてそれは目の前で大きく眼を見開き、
声を失ってしまっているその者も同じようで、
しばらくは何も言うことができず固まっていました。

目の見えぬ娘が視る二匹の獣

その娘は眼が見えないらしかった。
しかしそのことを誰かに言うことはなく、
そしてその娘も眼が見えないとは思わせない足つきで、その町の中を歩いていた。
なにがどこにある、というのは知っている。
だから見えなくても歩くことができるし、別に怖くなんかない、と。
あとは風とか音なんかを頼りにして、歩いている人は避けているといっていた。
実際に、その娘は眼が見えているかのように、
もしかすると眼で見ている以上にその町を自由に歩いていた。
ほとんど人にもぶつからなかった。

いちおう、僕がその娘の補助をする係りになっている。教育係、というほうが近いだろうか。
勉強や品行、その他にも必要なことを必要なだけ教えて、必要なものを与える。
それはその娘が幼いころから続いており、
僕もその娘からは「お兄ちゃん」と親しく呼ばれている。
年はそれなりに離れてはいるが、僕は年不相応に幼い見た目をしているらしく、
兄妹のようだねと町の皆からはからかわれている。決して満更ではなかった。

今日は天気が良い。あまり気温も高くなく、青すぎる空に白ひとつもなく、散歩日和だった。
だからその娘も外に連れ出した。空は青いよ。
そういうと、その娘は役に立たぬ両眼で空を見上げ、笑った。

「そうだね、青い青い」

それはまるで、歌うような軽い口ぶり。
この娘にとって、青いとはどういうことなのだろうか。昔に尋ねたことはある。
しかしはるか昔のことであり、
だからその応えも「なんかまとわりつくような、でも冷たくて好きな感じ」といったような、
漠然としたものだった。

「今日はどこに行こっかなー」

その言葉に、少し考え込む。
そういえばどこに行こうかだなんて、あまり考えていなかった。
ただ漠然と天気が良いから外に出歩こうと、その娘を誘っただけ、なのだから。

「僕は君と歩きたかっただけだよ」

率直な気持ちでそう伝えると、その娘は振り向いた。
両眼は、しかし光さえ灯さぬ黒い宝石のように、僕を射抜く。
黒く長い髪がぬるい風に流れる。美しい娘に成長した、と思う。
その表情は、楽しそうに笑っていた。

「デート、ってやつかなぁ」

笑うその表情とは裏腹のからかう口調。ばつが悪く頬を指で引っかく。デート、デートか。

「別に君を恋人と思ったことはないよ。僕はただの教育係なのだから」

だいたい、このやり取りも慣れたものだった。
僕はその娘を連れ出し、その度にその娘はデートという。悪い気はしなかった。

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その町は、なんと言うか、居心地が悪いところでした。
皆が私の、白い子羊と黒い狼の姿を見て怪訝な表情を浮かべています。
私たちを連れてきた者は周りのそんな表情さえを気にせず、私たちを先導しています。
何を考えているのでしょうか? それは後姿からではわかりませんでした。

「やはり嫌われていますね、狼さん」

子羊がそういいます。白い毛並みは、その身長も相まってやはりひときわ目立っていました。
子羊は人間の四肢を持っています。
ふくよかな身体はひどく女性的であり、
汚れのない白い毛並みは黒髪だらけのその町の中で映えていました。
仮面の下はどうなっているのでしょうか?
そもそもなぜ私は、この人型の存在を子羊と呼んでいるのでしょうか。

「どうしましたか? 狼さん」

私の身体は、狼のそれです。
黒い毛並みは薄汚れ、ただ大きいだけの獣の姿で、子羊の横に付き添っています。
町の人たちは、私の姿を見てここまで嫌悪しているのでしょうか?
子羊だけならば、もっと好意的な目で見られていたのでしょうか?

「そんなことはありませんよ、狼さん」

そうでしょうか? 首をかしげ、子羊を見上げます。
子羊は割れていない仮面で、私を見ていました。
私の考えていることは、子羊は全てわかっているようでした。
その仮面の下は、その瞬く青い光は、きっと笑っているのでしょう。

「私たちは、結局は化け物なのですよ? 化け物なのです」

それはいつもの笑うような調子でしたが、けれどもどこか悲しそうで……、
ああ、でもそれは私の気のせいかもしれません。子羊は、いつもの様子でした。

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「あの二人……」

二人? ……ああ、あの二匹のことを言っているのだろうか。
白い毛並みの子羊と、薄汚い狼のことなのだろう。アレらは二人というのではない。
二匹、というのだ。

「君には、あの二匹……二人は、どのように“視える”んだい?」

だがこの娘は、あの二匹のことを二人と形容した。
だったら僕もそれに合わせるべきなのだろう。そして気になる。
どうしてこの娘は、あの二匹を二人などと言うのだろうか、と。
僕にとって、もしくは眼に見えるものにとってはあの二匹はどうしても獣畜生でしかなく、
忌避すべき薄汚い存在でしかありえないのだから。

「白い子羊さんはね、楽しんでる」

……どうして、その子羊の色を知っている? なぜ楽しんでいると形容している?
問いただそうかとも思った。
でもその時は、ただこの娘があの二匹をどう感じているのか、どのように“視て”いるのか。
眼は見えないはず。そしてそれが嘘だとは思えない。
僕は、この娘とそれなりに長い間、一緒にいるのだから。

「でも狼さんは、悲しんでる」

悲しむ? あの狼が? 町を歩く二匹を見る。
白い毛並み、豊潤な体つき、そして背の高い子羊。
この娘ぐらいならば一のみにしてしまうだろう、
そのぐらいの身体の大きさを持つ黒い毛並みの狼。
どちらも、白い獣は割れておらず、黒い獣は割れているが、
青い光を宿す石の仮面をつけている。
だからその表情は見えない。だが、悲しんでいるだなんて。それも、あの巨大な狼が。

「お兄ちゃん……狼さんは悲しんでる、よ?」

娘が私を見た。
役に立たぬはずの、光を灯さぬ両眼は、
黒ずんだ黒曜石よりも深い黒色で僕を見透かしていた。
ああ、そうだ。僕がこの娘に教えていたのだ。
困ったもの、悲しんでいるものがいたならば手を貸してあげなさい、と。
だからこの娘は僕を見て、尋ねているのだろう。
狼が悲しんでいるのだから、手を貸すべきではないのか、と。

困り果てて笑うばかりの二匹の獣

なぜ私がこんな獣畜生のために町の案内などを。悪態をつきたくなる。
私はお前らなんかのために時間を喰うほど暇ではないのだ、と。
ならば本人にそう言えば良いではないか。振り向くと、二匹は素直に私についてきている。
周りを見ながら、子羊は楽しげな足取りで、狼は物憂そうな様子で、
そして遠巻きに見る町の人たちは、獣を連れる私を見て何を思うだろうか。
どのような噂を流すだろうか。気にはなるが……それは今に始まったことではない。
どうせ、私に対する風当たりがまた強くなるだけなのだ。
慣れたくはないが……もう、慣れた。慣れてしまった。

私はこの町を管理している者に仕えている。そしてその者は、決して町民に優しくはない。
むしろ厳しいぐらいなのだろう。多くの税をとり、多数の法で縛り付ける。
その代わりにその者は、この町に安全をもたらしている。
私のような防人を雇い、もしくは育てることによって。
それはお金がかかるため、そしてこの町は絶えず発展しているために、
より徴税が厳しくなる。
そのことを知らぬ町人たちにとって、きっと私は敵なのだろう。別に構わないさ。
私が守らなければ、獣畜生に蹂躙されるだけの存在なのだから。

そんな私が、その獣畜生を町にいれて、なおかつ連れ添っている。
縄など何もつけてはいない。
狼なんかは、今はただ私について来ているだけではあるが、
その気になれば町人に襲い掛かるだろう。
もしそうなれば、もちろん容赦はしない。それはもちろん、町人のためではない。
しかしこの町でそのような行動を許すわけには行かない。誰でもない、私のために。

「良い町ですね」

背後から、子羊の声。それは酷く女性的であり、
そして余裕と傲慢を混ぜ合わしたかのような、挑発的なものだった。
良い町? それは皮肉?

「良い町だろう?」

これは皮肉。私はこの町を良いところだとは露さえも思っていない。
牢獄なんかに近しいんじゃないか? といつも思っている。
この町の人たちは、防壁から外に出る自由さえありはしないのだ。
やることは、全てあの者によって決められているのだ。
それらを蔑ろにすると、厳しい処罰が待っている。

ああ、良い町じゃないか。少なくとも、あの者にとっては。

「やはり嫌われていますね」

その言葉に振り向く。しかしそれは狼に向けて言った言葉であり、私に対してではない。
前を向く。さっさとこの二匹を閉じ込めてしまおう。
私の部屋の中ならば、おとなしくしているだろうか。

「そんなことはありませんよ」

後ろで、二匹が話している。気にするな。そう自分に語りかける。
私の考えが読めるわけではないのだから。

「私たちは、結局は化け物なのですよ?」

ああ、そうだ。だから私はお前たちを監禁するのだ。
幸いなことに私の家は、この町の辺境にある。
火をつけたって、他の家々に被害が及ぶことはない。焼け死んでしまえば良い。
化け物ども。

「化け物なのです」

……化け物どもめ。

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こちらに近づいてくる少女と、その付き添いでしょうか?
青年が近づいてくるのが見えました。少女の両眼は私を捉えています。
青年は子羊を見ています。でも子羊は近づいてくる二人に興味はないようでした。
そちらへと顔を向けることさえしません。
青年は私たちの眼を歩いている女性へと声をかけました。
どのような会話をしたのか、聞き取ることはできません。
しばらくすると足を止め、少女が私の元へと歩み寄ってきました。

「狼さん狼さん。なんで、そんなにも悲しんでるの?」

悲しんでいる? その言葉の意味がわからず、子羊を見ます。
子羊はそんな私の視線に気づいたようで、青い光を私のほうへと向けました。

「悲しんでいたのですか?」

子羊は、笑っています。声にも出さず、口調はいつもの様子でしたが、口元は歪んでいます。
悲しむ、というのはどういう意味でしょうか? その意味を尋ねるべきなのでしょうか? 
少女を見ます。少女の両眼は、光を灯していないようで、私の姿を映してはいませんでした。

「いいえ、悲しんでなんかいませんよ?」

そうはいっても、少女はやはり悲しそうな表情を浮かべていました。
私よりも、少女のほうが悲しそうでした。それもそのはずです。
私は悲しくなんかいないのですから。まず悲しいということがわかりません。
少女の表情が、悲しいということなのでしょうか?

「狼さん、かわいそう」

かわいそう。それはわかります。ですが私はそう思ったことはありません。
狩をして、その喉仏に牙を突き刺し、悲痛な悲鳴を聞いたとき、
きっとこの時にかわいそうだというのだろうかと、思ったことはあります。
でも私は狼ですから、かわいそうだなんて思いません。当然でした。

「かわいそうでもありませんよ」

そうはいっても、やはり少女はかわいそうな表情を浮かべていました。
私はついに困ってしまい、子羊に視線を向けます。
子羊は青年と女性と共に、私と少女を見守っていました。口元が歪んでいます。
私が困っている姿を見て、楽しんでいるのでしょうか?

「お話、してあげる」

だから一緒に行こう? そう少女が言いました。青年は困ったように眉をひそめます。
女性も困ったように腕を組んでいます。
ですが子羊は、ついに口元に手を添えて笑っていました。とても楽しげに、とても嬉しげに。

「それは良いですね、狼さん」

私にとっては良くありません。
だいたい、少女といえば総じて狩の対象であり、私がその生を奪うものです。
しかしこのように、相手のほうから近づいてくることなんかあり得ませんでした。
好奇心が強いのでしょうか? それとも、これが優しいというのでしょうか。
その優しさは、私を悩ませてくれます。
ここでその細い首筋を噛み切ってしまいましょうか? 考えましたが、やめました。
今は狩をする気分にはなりませんでしたから。

「楽しんでいますか? 子羊」

軽い声で笑い続ける子羊に尋ねます。

「楽しいですよ、狼さん」

そうでしょう。それはその表情から、その声からわかることができます。
なにが楽しいのでしょうか? 私が困っているのが楽しいのでしょうか。
それとも、少女が優しいのが楽しいのでしょうか?
青年と女性が困り果てているのが楽しいのでしょうか?
その全てが、子羊にとっては楽しいものなのでしょうか?
まだ笑い続けている子羊が、何を考えているのか理解ができませんでした。

「それは困るぞ」

女性が言いました。

「困りませんよ。ねぇ、狼さん」

その言葉を子羊が否定します。私は女性を見ます。女性は……とても困った様子でした。

光を灯さぬ娘に懐かれた二匹の獣

少女は私たちについてきました。
女性は困ったように、何度も何度もついてくるなと言っていましたが、
少女は耳を貸す様子さえありません。
見えぬその両眼は、女性のその苛立ちを隠せない、
もしくは隠してなんかいない表情を見ずに済んでいるのならば、
それだけで意義のあるものなのでしょう。
青年は困っていました。
無理にでも少女の手を引き、私たちから遠ざけようとしたこともありました。
しかしその度に少女は嫌がり、手を振り払い、私に近づきます。
青年は露骨に私から距離をとっていました。狼が苦手なのでしょう。
そもそも言葉を話す狼だなんてただただ気味の悪い存在なのですから、
青年のように距離をとることや、
女性のように明らかな悪意を向けることは当然といえます。
少女がこうして私に容易に近づけるのも、恐らくは眼が見えないからなのでしょう。
眼が見えていれば、こうして近づこうと考えさえしないはずです。

「懐かれましたね、狼さん」

困っているのですから、少しぐらい助けたらどうなのでしょうか。
見て笑うばかりの子羊は椅子に座り、あの女性を待っています。
青年も、気がつけばその姿を消していました。どこに行ったのでしょうか?
顔を上げ、左右に首を振ると少女の手が伸びてきて、首に巻きつきました。

「大丈夫、狼さん。大丈夫だからね」

ええ、大丈夫なのは知っています。
そしてこの場所が、決して大丈夫ではないことも知っています。
あの女性は隠しているつもりなのでしょうか?
私が狼であることを甘く見ているのでしょうか。
それとも、狼がこのような悪意に敏感であることを知らないだけの、
愚か者なのでしょうか。
この家は、なんと言えば良いか、燃え盛る牢屋でした。
今はただ火がついていないだけで、少しの火種で辺りの全てを燃やしつくし、
私も子羊も、この少女でさえ、ただの灰にしてしまうでしょう。
そしてあの女性は、それをします。私にはわかります。
あの女性はこの町の住民を快く思ってはいませんから。
ゴミよりも下ではないでしょうか?

「子羊も、わかっていましたか?」

私を、まるで小動物を見つけたような笑みを浮かべて見るばかりの子羊に尋ねます。

「燃やされるのでしょう?」

やはり、子羊も気づいていました。

「逃げたほうが良いのでは?」

子羊は口に手を沿え、白い毛並みを揺らし、笑いました。

「死にませんよ、私たちは、このぐらいで」

ええ、私たちはたとえ四方が火の海でも、八方が刃の山でも、死ぬことはあり得ません。
ですが少女は違います。この子は……どうして、私は少女の心配をしているのでしょうか? 
懐かれたから?

「私たちは死ななくても、この子が焼け死にますよ?」

そう訴えると、子羊はいつものように、いつも以上に口元を歪ませ、嗤いました。

「いつの間に、狼さんは優しくなったのでしょうか?」

その答えを出すことはできません。
無言でいると、笑い声まで聞こえそうなほど口元を歪ませた子羊は、
ついにその嗤い声を漏らしました。
気味が悪く、二度と聞きたくないような、そんな声でした。
どれだけの悪意をその身に潜ませていれば、そんな声を出せるのでしょうか?
どれだけ少女と、私を嫌っていればそのように嗤うことが出来るのでしょうか。

「おかしいですね、狼さん」

笑い声にまぎれる子羊の声は、酷く冷静なものに聞こえます。
気がつけばその嗤い声も聞こえません。
子羊は嗤ってはなく、しかし口元はいつものように歪み、
しかしそれは実に楽しそうな笑みに他なりません。

「おかしいですよ、狼さん」

私はおかしくありません。なにもかも。いつもと同じです。
子羊こそ、どこか様子がおかしいのです。

「子羊。楽しいですか?」

尋ねると、子羊は頭を振りました。

「楽しくはないですね。狼さん」

その声は、本当に面白くなさそうな様子でした。

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「そんなこと、あり得ません」

その女性、名前はピナレロと名乗ったが、の言動にはとてもではないが賛同できなかった。
今からこの家に火をかけて、あの化け物どもを焼き殺すと。
もちろん、その近くにいる少女には犠牲になってもらうと。それは必要な犠牲なのだ、と。

「だがこれは好機だ。あの少女には悪いことをするが、
そのおかげで二体の化け物を始末することができる」

なんて傲慢だろうか。防人のはずなのに、その心に慈悲など存在しないのだろうか。

「正気なのでしょうか」

とても正気とは思えない。
いくら化け物を退治するためとはいえ、あの娘を犠牲にして良いはずがない。狂っている。

「どうだろうな」

ピナレロは否定さえしなかった。

「ただ私はあの二体が、それこそ臓腑が煮えくり返るぐらい憎いだけだ。
恐らくは、君の言うとおりにもはや正気ではないのかもしれないな」

半ば認めているその言葉は嘲るように、その表情にはどこか、疲れのようなものが見えた。
僕たちは防人と話す機会はそうありはしない。僕たちが防人を避けているからだ。
この町を守っているのは知っている。
だがそれは金銭のためであり、僕たちを守るためではないことも知っている。
だから、どこか憎かった。

「あなたこそ化け物ではありませんか」

自分でも、思った以上に冷静に、しかしピナレロを拒絶した。

「そうかも知れないな」

その言葉は吐き捨てられ、その表情は……僕を睨みつけていた。
そこで、恐らくは遅いのだろう、恐怖した。
ピナレロは、この女は人を人とも思っていない、ただの化け物なのだと理解した。
あの娘を助けなければ。こんな女と話している暇は――――……。

「だったら、君も化け物だ。私と同じなのだからな」

最初は痛みさえ感じなかった。

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あの女のことだ、きっとこの女の子ごと私たちを焼き尽くすだろう。
私の知っているあの女ならば、本気なのは間違いない。しかし、それは困る。
せっかく狼さんに貴重な友達ができたのだ。
その友達を失えば、きっと狼さんは……狼さんは、どう思うだろうか?
試しても良いかもしれない。そう思いながら、女の子を見た。
女の子は気づいているのだろうか?
今から、貴方と同じ人間が貴方を殺そうとすることを。

「子羊。楽しいですか?」

そう尋ねられて、どうして私がさっきまで嗤っていたのか、その理由がわかった気がする。

「楽しくはないですね」

どうして楽しくはないのか。

「それよりも、ずいぶんと楽しそうですね? 狼さん」

つまりはこういうことなのだ。私は狼さんに、もしくは女の子に。
素直になることはできないからこそ、
私は軽口や憎まれ口を叩くことぐらいしかできなくて、でも私は狼さんの半身で、
狼さんは私だってのに、私だって狼さんなのに、狼さんにばかり女の子は懐き……。

「……火の匂い……」

ああ、本当に、間の悪い。

火に巻かれ仮面が割れた二匹の獣

この家ごと私たちを焼き殺す。何人の犠牲が出ようと関係ない。誰が死のうか構わない。
私たちを殺すころができるならば、あの女は実行すると思っていた。
そしてその通りになった。それでもあの女は英雄として称えられるだろう。
なんせ、化け物を退治したのだ。自分の家を犠牲にしてまで。
この女の子と、あの青年を犠牲にしてまで。
ああ、それはさぞかし素晴らしいことなのだろう。反吐が出る。

「逃げなくて良いのですか? 狼さん」

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まだここまで火は回ってきてはいません。
しかし確実に空気は熱せられ、何かが弾ける音や、家具が倒れる音でしょうか?
そんな様々な音が迫ってきています。この場所も、決して長くは持たないでしょう。ですが。

「死にはしないと言ったのは、子羊ですよ」

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そう言い返されるのは予想外だった。
ついさっきまでその女の子を心配していた狼さんはどこに行ったのだろうか。
それとも、女の子を見殺すことにしたのだろうか。
だとすると、なんとつまらない選択なのだろう。

……つまらない?

……そう、私が思ったのだろうか?

私の考えは、つまり狼さんの考えでもある。
私は狼さんと二人で一つであり、それは狼さんも理解しているはずだった。
だってのに狼さんは、つまらない、と考えている。私の考えに当てられたのかもしれない。

……私は狼さんが何を考えているのか、わかる。

わかるのだ。狼さんは今……なにを、考えているのだろう? わからない。
こんなことは初めてで……いや、初めてではない。
私は最初から狼さんが何を考えているのか知ることはできない。
ただ、狼さんを知っていたような気になっていただけ、なのかも知れない。

頭を振る。強く、強く。その際に石の仮面が外れてしまった。
私の素顔を隠し、狼さんと同じにしてくれる仮面は木の床に落ちて、音を立てた。

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「……おねえさん? どうしたの?」

町のみんなは、子羊さんのことをばけものだ、ばけものだといっています。
でも、わたしはそうはおもいませんでした。子羊さんは、わたしとおなじです。

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「久しぶりにその顔を見ましたよ、子羊」

ただの白い人でした。白い髪に碧い瞳。
白い肌は白い毛皮に隠されているだけで、
そして……きっとその風貌は美しいというのでしょう。ただの女性でした。

「あまり見ないでください、狼さん」

子羊は床に落ちた石の仮面を拾い上げます。
その両眼は顔から外れたいまでも青い光を灯しており、
そして少し欠けてしまった様子でした。
それを見て、子羊はため息を漏らします。
少し躊躇した様子で、眉間にしわを寄せ、
しかし火の熱さはついにこの部屋のすぐ横にまで迫ったらしく、
ついに時間に迫られその仮面を顔につけました。いつものように口元を歪ませています。
私は子羊が何を考えているのか、理解できません。

「……時間がないのでしょう、子羊」

なにをそんなに悩んでいるのでしょうか?
このままでは、化け物ではない貴女は焼け死んでしまうというのに。
しかし子羊は女の子を見て、何かを考えています。何を考えているのでしょうか?
下唇に丸めた指先を添えて、少しだけうつむき、
ついに火は部屋の中にまで侵入してきました。本当に、時間がありません。

「子羊!」

大きな声を出します。私は、何もできません。

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熱い火はついに部屋を包み込み始めた。このままでは、私も死んでしまうだろうか。
狼さんは死にはしないだろう。私は化け物ではなく、しかし狼さんは化け物なのだ。
正真正銘の。

「そろそろ逃げましょうか。狼さん」

壁を指差す。それとほぼ同時に、狼さんは指差された壁に思いっきり体当たりをする。
それだけで火がつき、炭化しかけ、ほぼ崩れていた木の壁には大きな穴があき、
外へと逃げることができるようになった。
そこからまずは女の子が走り出ていった。私はそれに続き、狼さんは最後だった。

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焼け落ちる家の周りには、誰もいない。興味がないのだろうか。
それとも、あの女が人を遠ざけたのだろうか。
危ないから、もしくは見られたくないから。それとも、私たちを逃すために?
バカバカしい。それならそもそも、自分の家を燃やすものか。

「助かりましたね、狼さん」

狼さんは平然と私を見上げ、少女の両腕は狼さんの首に絡まっていた。
もう離れるつもりはないのだろう。だとすると連れて歩くしかない。
余計な荷物が増えた。ため息を漏らす。

「貴女も助かりましたね」

その少女の名前は知らない。膝を折り、少女に顔を近づける。

「なんで、それ……えっと……」

仮面を指差された。
狼さんとおそろいの、しかし狼さんはいくつもの場所がひび割れてしまっていて、
けれども両眼に灯る青い光は消える様子はない。
さっき落としてしまったから、仮面の端が欠けてしまった。
それは残念ではあるが、狼さんと同じようになれると思えば……。
いや、やはり残念でしかない。
ひび割れ、欠けるばかりの狼さんの仮面と違って完璧だった私の仮面は、
ある意味で自慢にしていたものなのだ。

「狼さんとおそろい、だからですよ」

微笑むと、少女は狼さんの黒い毛に顔を埋めた。
どうやら嫌われたようではあるが……きっとその方が良い。狼さんは困るだろうか。
それもまたちょうど良い。困る姿を見て、楽しむことができるのだから。

「どうしましょうか、子羊」

確かにどうしようか。
まさかこの少女を連れて、あの黒い森の中に帰るなんてことはできない。
帰ったところで少女は一夜で獣の餌食となり、狼さんはそのことを悔やみ、
私はそんな狼さんを見ることができるのだろう。

……悪くはない、が。

「あの女を捜しましょう、狼さん」

まずは報復が先だろう。

「こんなことをして許されるとは思っていないでしょう。
それに、あの青年もきっと殺されたのですから」

少女のほうを見る。私を見て、首をかしげている。まだ私の言葉を理解していないのだろう。

「なぜわかるのですか? 子羊」

狼さんも首をかしげる。なぜわかるかって? そんなの、決まっている。

「私もきっと同じことを考えるからですよ、狼さん。
化け物の思考は、化け物なら良くわかるのですから」

私は自分が化け物であることを認めている。
白い髪は化け物の証だってお前らが言ったではないか。
だから、私は化け物になってやるのだ。

……いつ、そのように言われたのだろう?

……白い髪は、自慢にしていた。

「そうですか」

狼さんは、頷いただけだった。

黒い森の中の狩り人の狼と子羊の仮面は青く光り

黒い森の中の狩り人の狼と子羊の仮面は青く光り

白い子羊は黒い狼は二人で、もしくはたった一人きりで、光の届かぬ森の中にいました。 それらは全てに疎まれていました。しかしそのことは、二人にとってはどうでも良いことでした。

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登録日
2018-05-21

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