脅威存
もう切らない
間違ったことに気づくのは、取り返しのつかなくなる一歩手前だ。
間違えのないように生きていくのなんて人間には不可能だ。人間には欲がある。事実上この欲を断ち切るのは不可能だ。元から欲が無い人もいるが、そういう人は明らかな無害か明らかな有害に育つ。
人にはイレギュラーがある。
“自分では正しいと思っていたことが道理を外れている”
それは明らかなイレギュラーだ。
悪いことを悪いと認識できないのは、非常にタチが悪い。
まさに俺がそうなのだ。
「あ、あ、あ、あああ、あ、ああ、あ……っっ‼︎」
「あまり声をあげるな。あまりにひどいと声帯を切断しないといけなくなるだろ」
「す、すいません……」
室内には俺と少女がいる。右手にオリジナルのペンチカッターを握った俺と背中から血を流している少女だ。
少女の全身には無数のまち針が刺さっている。当たり前のように服は着ておらず、天井から下がっている鎖に両手を繋がれ、背中は均等に並んだ四角い傷と真っ白な素肌がまだら模様のようになっている。
「今回はあと二箇所だ」
「……はい」
俺は隣に置かれた台座から定規とマッキーを取り、少女の背中に2.5cmの四角形を2つ書いた。
次にホッチキスを右手に握り、左手の親指と人差し指で四角形を二つ折りにするように摘み、そこをホッチキスで止める。流石に一度では簡単に外れてしまうから、なるべく均等に5回に分けて止める。
「咥え木を」
俺がそう言うと、少女は隣の台座においてある歯型のついた長方形の木を咥えた。
それを確認し、さっき持ち替えたオリジナルのペンチカッターで止めた部分を挟み、深呼吸をして力を込める。
「……うぐあ、あ、あ、あああ…」
止められていた部分がゆっくりと圧着されていく。それに合わせて少女が声にならない息や声をあげる。
圧着が終わると穴が空いたような傷口になり、大量の血がダラダラと流れ出す。それを小瓶に取り、半分ほど溜まったら即座にゴテで焼いて止血する。この時に一番大きな声が出る。
この一連の動作をかれこれ半年繰り返している。時には別な【痛め付け】を行うが、俺も少女もこれが1番気に入っている。
「ふぅ……。今日はここまでだな。飯食うか?」
「はぁ…はぁ…お、お願いします」
少女は力なく答えた。全身を小刻みに震わせながら、肩で息をしている。
「大丈夫か?」
「はい……なんとか……」
俺は台座から小型のライトを取り出し、少女の脈、瞳孔の具合、傷の具合を一通り診察した。
「……うん。血が足りない。あと運動不足と酸素が若干足りない。傷はなんの問題もない。処置は完璧だ」
「運動不足……ですか……」
「あぁ。今度少しだけ体を動かしに行こう」
「……はい」
少女はややあって答えた。
「疲れただろ。飯ができるまでテレビでも見ていてくれ」
俺はそう言って鎖を外した。
あの満月の夜の日から半年が経った。私が家に帰らないようになってから数ヶ月間は行方不明になったというニュースが流れていた。それも最近では見なくなった。警察がこの家を訪ねて来ることもない。
トントントンと、包丁で何かを刻む音がする。名前も知らない男の人の家で【痛め付け】を受けているのに、私はそんなに悪い気はしていなかった。身体中が尋常じゃないくらい熱くて、呼吸もできないくらい苦しくなることがあるけど、この【痛め付け】は日々行われているものじゃないからこの1回を乗り切れば、しばらくは行われない。
さっきまで吊るされていた手首がヒリヒリするけど、今日もテレビはおもしろかった。
「できたぞ。食べよう」
「これは……」
「レバニラ炒めだ」
「なるほど……血が足りないから……」
「ご名答。いいから食え。肉を食えば元気が出る」
そう言って男の人は笑った。
こんなことをされているのにこんな思いを抱くのは意味がわからないと思うけど、この人はきっと悪い人じゃない。
「……おいしい…!」
「だろ。小学生の頃から自炊してるからな。飯はそれなりにできるんだ」
こういうところだ。最初の数ヶ月で分かったことは、この人は悪い人だけど悪い人じゃなくて、私を殺すつもりはさらさらないし、誤って殺してしまう可能性も限りなく少ない。
満月の夜にこいつをさらって半年。なんでこいつはこの場所から逃げ出さないのか。なぜ俺を殺さないのか。最近はそんなことを考えている。
【痛め付け】の時以外は、こいつを拘束していない。どちらもすぐに実行可能だ。なのに、こいつは夜になるとわざわざ俺の布団に潜り込んで眠る。そして大粒の涙を流しながら寝る。嫌なら逃げ出せばいいのに。逃げられないなら俺を殺せばいいのに。
こいつもある意味じゃイレギュラーなのかもしれない。俺とは違う種のイレギュラー。辛いことの延長線上に俺と出会い、この“行為”自体がそれを発散するきっかけになってしまった。都合よく解釈すればそうだが、果たしてこれが正解なのだろうか。それがいつかわかる日がくるのか。そんなことを考えながら少女の頭を撫でた。今日も少女は泣いていた。
いつも通りの朝が来た。どこかで鳥が鳴いて、朝の心地よい青い風が網戸から入ってきてる。背中の痛みを我慢しながら体を起こすと、男の人がこちらに気づいた。
「起きたか。飯作っといたから適当に食ってくれ」
「……はい」
「じゃ、俺はちょっと出る。18時には戻ると思う」
「……分かりました」
私が言い終わると、男の人は頷いて、出て行った。
今日も空白のような1日が始まる。
机の上に置いてあった朝食は、いつも通りのハムエッグ。ゆっくりと時間をかけて食べるのも日課。皿を持ち上げると毎回書き置きが置いてある。
今日の書き置きは、
“傷が痛くなって来たら棚に入ってる『3番』の錠剤を2錠飲め”
だった。
朝食が終わると、棚に入っている8番の錠剤を飲む。これも2錠。何の薬かは知らないけど、これを飲むと体が軽くなったように感じて、心地いい。
テレビをつけても、朝のこの時間は面白いテレビは全然ない。朝の情報番組では今日も誰かが殺されたとか、芸能人が不倫したとか、マイナスなニュースしかない。
朝は『今日のワンコ』を何部にも分けて永遠に流してくれればそれでいいのに。
お昼までは男の人が前に使っていたゲームを永遠とやる。意外と楽しい。気難しい家に育った私は、こういうものに縁がなかったから最初は全然わからなくておもしろくなかったけど、今はこれがないとつまらなくなってしまった。クラスでよくゲームばかりしている男の子がいたけど、何となくわかる気がするな。
お昼になるとこの家に些細な来場者がくる。
扉をガリガリ引っ掻くのが合図。
「いらっしゃい」
私が声をかけても、彼はうんともすんとも言わない。
ちょっとだけ開けた隙間から中に入り、キッチンに垂れて溜まった水を飲んでいた。
彼の名前はノーマン。男の人が餌をあげたら懐いたらしい猫。
「今日も時間ぴったりだったね。時計を持ってるの?」
声をかけても返事はないことは知っている。彼は鳴けない。多分だけど、他の猫との喧嘩に負けて喉をやられてしまっている。
ノーマンとの時間はほんの数分。気分屋の彼は私にはあまり懐いてくれない。触れる時間のほんの数分。だけど私はこの数分が大好きだ。
帰るときも扉をガリガリと引っ掻く。私が動かずにノーマンを眺めていると、彼は私を睨んで鳴くような仕草をする。もちろん声は出ない。
「じゃあまたね。ノーマン」
扉を開けると、入ってきた時よりもゆっくりと出て行く。どこに行くのかとずっと見ていると、ノーマンはこっちを見て鳴く仕草をする。あざとい猫だ。
それからの数時間は特に決まった過ごし方はない。ゲームをしたり、寝たり、知恵の輪やルービックキューブで遊んだり、男の人の部屋を物色してみたり。
監禁されているわけではないのに、私はここを出ようとはしない。出ようと思って扉の前に立つと、吐き気がする。急に目の前が揺れ始めて、今立っている地面が波のようにうねっている感覚に落ちる。
「ただいま」
玄関を開けると、少女が倒れていた。買ってきた食材を地面に投げ出し、急いで脈の確認を行った。
「…またか」
これで何度目だろうか。数え切れないほどこの場面には遭遇している。玄関先で気を失っている少女。身体に異常はない。原因も不明。何故そうなってしまったのか俺が聞いても、この質問だけは意地でも答えようとしない。口を閉ざすか、「何となく気分が悪くなって」と明らかな嘘をつく。少女は嘘をつくときに一瞬右上を見る癖が色濃く出る。これは人間が嘘をつくときに行ってしまう反射だ。
「気が付いたか?」
「……はい」
「とりあえず脈と身体に異常はない。このまましばらく休んでろ」
「……分かりました」
だから俺も深くは聞かないことにした。この少女が何を考えているのかは全くわからない。形は異質だが半年間を共にしながら、俺はこの子のことは何も知らない。今後、この少女をどうするのか。ふと考えることがあるが、答えはでない。俺は自分の『イレギュラー』が消化できればそれでいい。
休んでいろと言われてしばらく経った。いつにも増してだるい身体、曇る視界、熱を孕んでいる背中。キッチンで何かを刻む音がするが、それに耳を貸してもぼんやりとしか聞こえない。
私はその状態が怖くなった。もしかすると死んでしまうんじゃないか。一度その思考に陥ると、思考の分岐が全て死に向かう。呼吸が荒くなって行く。ぼやけた視界がゆっくりと闇に覆われて行く。
「……お………い………‼︎」
異変に気付いた男の人が駆け寄って名前を呼んでいるが、水の中のように声が奥から響いているようでよく聞こえない。
しばらくして目が覚めると、いつもとは違う部屋にいた。
「目が覚めたかい」
かなり嗄れた声が部屋の中から発せられた。
「おー、まだ動かない方がいい。無理はいかん」
その声と共に、私の視界におじいさんが現れた。
「……あまり驚かないんじゃな。声は出るかい?」
「……はい。出ます」
「それは良かった」
「……ここはどこですか?」
「どこ、か。それは伝えることはできんが、安心せぇ。ここはいいとこでも悪いとこでもねぇ」
「……じゃあ、貴方は?」
「君を監禁していた男の知り合いじゃよ。俗に言う闇医者じゃ」
おじいさんはそう言って笑った。
「お、噂をすれば、じゃな」
その声と一緒に、扉が開く音がした。
「はぁ…はぁ…。ヤンさん、彼女は……?」
「目は覚めとるよ。安心せぇ、軽い疲労じゃ。背中の傷からするに、かなり無理をしたじゃろ。処置は完璧じゃったが、少女の体が持たんかったな」
「そうですか……」
男はそう言いながら私のそばに来た。
「大丈夫か?」
「……はい」
「なら良かった」
その言葉っきり、薄暗い部屋にしばしの沈黙が流れる。
これからどうしたらいいのかはっきり分からなかった。少女をこのまま家に連れ帰り、また【痛め付け】を行うこともできる。しかし俺の脳内には『このまま少女を元いた場所に返す』という選択肢も存在していた。これは新たなイレギュラーだ。せっかく自分のイレギュラーを満たせる器を見つけたのに、自らそれを手放そうとしている。
少女の代わりがいるわけではない。少女が必要じゃなくなったわけでもない。【痛め付け】が可哀想になったわけでもない。なんだこの感情は。俺の人生上で抱いたことのない感情だ。
これからどうしたらいいのかはっきり分からなかった。男の人にこのまま家に連れ帰られて、また【痛め付け】を受ける日々を送る。そう思いながらも、私の脳内には『このまま男の人のそばに居たらいけない』という選択肢が色濃く主張していた。
どうして私は男の人のそばにいるんだろう。別に【痛め付け】を受けたいわけじゃないのに。男の人なんて私には不要なのに。不思議な感情だ。中学最後の夏に経験した恋に似てる。
“これから、どうしたらいい……”
「とりあえず一緒に帰りなさい。ここは入院対応まではしとらんのじゃよ」
沈黙を破ったのはおじいさんだった。
「とりあえずじゃ。とりあえず一緒に帰りなさい」
そう言われるがまま、2人はおじいさんの元を後にした。
帰りの車の中はどんな顔で居たらいいのか分からなかった。空気は重いし、私自身、どんな顔をしてたのか想像もつかない。
帰りの車の中はどんな顔で居たらいいのか分からな買った。空気は重い、俺自身、どんな顔をしてたのか想像もつかない。
家に帰り着くと同時に気がついた。そういえば、久しぶりに外を歩いたなぁっと。やっぱり家は落ち着くもんだ。
「あ……」
「うん?どうした」
「……あ、いえ……なんでも……」
ついつい声が漏れてしまった。半年の間、この場所に閉じ込められて、【痛め付け】なる攻めを受けていたのに、私の心の中では、ここが帰るべき家になっていたんだ。これからもきっとこんな日々が続くのに、私の口元はやけに嬉しそうに笑っていた。
家に帰り着くと同時に、またここに帰って来てしまったと思った。
この部屋は『俺と少女の欲を満たす部屋』だ。しかし今の俺に欲はない。……はずだった。
車の中ではどんな風に別れを切り出すか迷っていた。それと同時に、人体に一生残る傷を負わせた少女をまた現実に戻そうとしている愚かさに気付いた。
……もう、俺と少女に帰る場所はないんだ。
半年前の満月の夜、シャッターの陰でひっそりと泣いている少女に声をかけた。
「俺の欲を満たす道具になってくれないか?」
夜の静けさの中に放たれた俺の声は、少女に届く前に闇に呑まれかけたが、寸前で少女に届いたらしく、下げていた顔をこちらに向けた。
綺麗な顔だった。今にも消えそうなロウソクにも見えた。
「……道具になってもいいんですか?」
思いもよらない答えが返って来た。イレギュラーに悩み、欲をさらけ出せないまま生きて生きて、もう捕まってもいい。なんなら死んでもいいという状況でこの返答。俺は理性を失い、しゃがんでいた少女の手を引いて自宅に連れ込んだ。
最初の【痛め付け】はリストカットから始まった。ただのリストカットじゃなくて、定規とペンで線を引いた場所をメスでゆっくりと切られていく。
尋常ない痛みがゆっくりと身体を這っていく感覚が妙に心地よかったのを覚えている。
それから徐々にエスカレートしていったけど、身体を切断したり、どうにもならないような傷を作るようなことはしなかった。
少女は逃げなかった。
私は逃げなかった。
「……どうする。これから」
薄暗いいつもの部屋で、少女に聞いた。
「……どうしましょうか。私もそれを考えてました」
少し微笑みながら少女は言った。
「正直、俺はもうお前のことを【痛め付け】ることはしない」
男の人はそう言い切った。その目に迷いはない。
「……そうですか」
「あぁ」
男の人はそう言いと、俯いて何かを考えていた。
その顔が、妙にイラっとした。
「……それは、あまりに無責任すぎませんか」
「…………」
「確かにあの日、付いて行った私にも批はありますが、こんな身体にしておいて、今更私を捨てようなんて、どうかしてます」
呼吸が荒くなっていくのが自分でも分かった。どうかしてますなんて言葉も、私の口から出てくる言葉も、この人には元から通じないんだろうと思ってた。でも今のこの人になら通じる。そんな気がした。
少女の言っている事はごもっともだ。俺はどうかしてる。人の人生に傷を付けた段階で、責任が伴うことぐらいは分かってる。ただ━━━。
「……確かにもう、お前を【痛め付け】る事はしないと言ったが、俺はお前を捨てるとは言ってない」
そう言うと、男の人はこっちを見て少し微笑んだ。
「だから、これからも一緒にいてくれ」
何を言ってるんだろうこの人は。
「……自分が何を言ってるのか分かってますか?」
「あぁ。分かってるよ」
少女はそんなことを言いながらも、何故だか少し笑っていた。
「貴方はどうかしています」
「あぁ。俺はどうかしてる」
「分かってます。ですが、貴方のせいで私もどうかしてしまったみたいです」
私は一拍置いて、いつもの調子で言った。
「……私も、貴方と一緒にいたいです」
その言葉を聞いた瞬間、俺は少女を抱きしめていた。
背中の傷をかばうように優しく。
抱きしめられた反動で、少しだけ傷が痛かったけど、痛みよりも温もりの方が勝った。
人にはイレギュラーがある。
“自分では正しいと思っていたことが道理を外れている”
それは明らかなイレギュラーだ。
ただ、結局は価値観の違いなんだ。倫理というのは認められたその瞬間に否定から肯定に変わる。
異質な空間、時間を過ごしているうちに、その空間では異質が日常に変わる。
多数決で決められた倫理なんか、人の本質を否定するためにあるようなもんだ。
貫けばいい。たとえそれが人の一生を狂わせようと、自分の一生を狂わせようと。
脅威存