未来人への手紙

未来人への手紙


序(2017/09/28)
さて今この文章を読んでおられる読者の方々はどの時代を生きておられるのであろうか?
2020年代、2030年代、それとも2050年代?
いずれにせよ、諸君らが未来においてこの文章に接することを最大の目的としてこの書は書かれることとなる
今日は2017年9月28日である、諸君、読み進んでいただければ自ずと明白になるのであろうが、以下私が記す内容を私の同世代の人々が理解することはかなり高い確率でない、IoTが進行しつつある現在、人々は瞬間熱と予定調和の渦に翻弄されることをむしろ自ら望んでいるかのように振る舞っている、このような傾向は今後も当分の間続くと思われ、そのことは私の精神に一定の危機感を抱かせたままになっている
人間にとって重要故に普遍的な価値を持つものは、それに相応しいスピードで進行する、そして概ねそのスピードは緩慢と思えるほど時にゆっくりである、これは人がすべて何にせよ「後で気付く」存在であることにも80%以上の確率で関係しているものと思われる、だが今時代は急速に変化しつつある、一瞬で通り過ぎると思えるほどにあっという間に消えていくものも少なくなく、それは人から上記したような重要故に普遍的な価値を持つものを認識させるうえで欠かせない精神の運動である「待つ」を奪いつつある
これを時代の要請の一言で片づけてしまうことはもしかしたら可能なのかもしれないが、だがハイスピードの時代は今後しばらく続きその後それが崩壊したときにはきっと私たちは後戻りできない体質へと変化してしまっているであろう
ポイント・オブ・ノーリターン
そこを通り過ぎるということはそれを望むか否かにかかわらずすでに決断したと見做すということだ
誰がそう見做すのか?
時代が、である
おそらくここには一つの転機があるのであろう
時代を作ったのは他ならぬ私たち自身であるはずなのにそれが概念的に巨大化しもはや人間個々人の手におえないところで跋扈するようになる、これは私が作った絵空事ではない、私たちはすでにそれに近い現象を目撃している
核である
核は私たち人類が作ったものだ、だがその核はまるで一つの人格を持つかのように独り歩きし始めている、今こう言い切ることはおそらくそれほど僭越ではあるまい、核を造った私たちが核に翻弄されているのだ
このフランケンシュタイン現象とでも呼ぶべき恐るべき現象はしかし今後も肥大していくことはあってもその逆はないと思われる
自分が造ったものに滅ぼされる
この喜劇以上の悲劇は、すでに目前にまで迫ってきているのだが不思議なことに誰も警鐘を鳴らそうとはしない、故に未来人よ、諸君らの出番となるわけである

甚だ僭越ながら以下記す文言の内容は少なくとも日本人には同時代的にはおおよそ理解されないであろう、私はここに世俗ではなくその対照的な存在となるべきものに自分の未来を捧げようと正式に表明する
その対照的なものとは精神である
世俗は今その頂点にある、そしてそれに比例して貧富の格差が史上最高値を更新し続けている、このことは環境問題と伴にいま世界が抱える諸問題の筆頭に並べ評されるべきものであるが、にもかかわらずジャーナリズムが訴える危機的な認識に呼応する声は極めて少ない
未来人よ、どうかこの書に記されるであろう文言に真摯に耳を傾けていただきたい、なぜならば諸君らが生を受けたその時代において人類の危機は今以上に高まっていることはまったくもって論を待たないからである、諸君、貴兄らの先輩(後輩)たちはすでに火星に到達したであろうか、そうだとしても有益な何かを見つけることにはおそらく成功していないであろう、私たちがこの21世紀に抱える諸問題というものは概ね内省的なものにその端を発し、数値化されるものの帳尻合わせまたは人類の視点を地球外に向けることによって解決されるものでは到底ないと容易に想像されるからである、この真に終末的な現実は私たちのうちの数パーセントが回帰の必然性に気付くことによって少しずつ解消されるべき運命にあると想像するが、きっと回帰が本格化するまではもう100年余が必要なのであろう、そしてその後も私たちが利便性の向上という言葉で表現することができるような状況が続く限りにおいて、人類の危機的状況はあくまでも一部が解消されるに過ぎない状態が続くのであろう
人類の危機的状況とは何か?
それは精神の危機である
そしてそれを世俗的な価値を持つもので贖うことはできないのである

未来人よ、今貴兄がすでに22世紀を生きているならば、以下私が記す文言を一定の距離感を保ちつつ眺めることができるであろう、それをこそ私は望むのであるが、なぜならばそれが真にいかなる価値を持ち得るかを判断するには対象までの長さと時間のその両方においてそれぞれの個に相応しい距離感というものがそこに存在することが必要とされるからである、ここには瞬間熱と予定調和による快楽に日常の90%以上を支配されている人々には間違いなく想像すらできない範疇に属する数えられないものの価値のその神髄ともいえる精神のエッセンスが漂っているのであるが、故に私は今絶望のただなかにおいてこの文章を書いていることになる

未来人よ、どうか私のせめて生きる上での僅かでもよい糧となって私の今に存在し続けていただきたい、急速に減じ行く希望の光の群れの中で孤独に喘ぐ、きっと私一人ではあるまい、確固たる意志を持つが故に定住地さえ覚束ないさまよえる精神の咆哮に耳を澄ませていただきたい、産業革命以降の衝撃を伴うが故に有り余る富を手に入れたセレブリティたちの改革に終止符を打つべく、その頂点において発せられつつある完全孤立者の叫びに憐れみを感じ取っていただきたい、今、平等は崩れ、平和はアッパーミドル(upper middle)以上に属す一部の人々の決定によってどうにでもなる事態が続いている、未来人よこのままいけば諸君らの孫の世代でこの世は勝者と敗者に完全分割され後者は結婚どころか日々の生活さえままならぬであろう
だが、それでよいのか?
このような表現を使うことを何卒お許しいただきたい
諸君らがこの書に目を通すことができるのであれば、諸君らこそこの世の改革を行うのに最も相応しい人々なのだ、諸君らのうち1%でよい、意を決し、世の過ちをただすその行動に直ちに取り掛かっていただきたい、今、幸福は世俗勢力により金銭によって骨抜きにされその本質をもアッパーミドル以上の人々に都合のいいように変質させられようとしている
未来人よ、何卒、何卒お聞き届けいただきたい
変革とはいついかなるものであれすべての人々にとっての救済の役割を果たし得るものでなければならない、だがそれとは真逆の仮面をつけたエスタブリッシュメント(establishment)をこそ人生の最終目標に据える偽庇護者がまるで我こそが弱者の味方とでも言いたげにメインストリートを闊歩している、そのような絶望的現実にくさびを打ち込みそこに変革のための何らかの実践を行いうるのは、ほかならぬ未来人の人々よ、あなたたちなのである
以下私が記すすべての文言はもしかしたら貴兄らのうち、順調に人生を推移させている人々の何割かの感情を著しく損ねることになるかもしれない、だがどうか私が一時の気まぐれでこのような文章を書き連ねているわけではないということだけは何卒ご理解いただきたい、そして可能ならばそこに論理的な反駁を加えることでこの書の一部にあるであろう不完全性を暴きしかしその一方でこの書に記されているいくつかの文言を精査、判別し更なる高みへとその批判精神をもって引き上げていただきたい

序の最後にもう一言記させていただきたい
如何なる時代であれ私たちの文明そのものをより望ましいものへと少しずつ動かしまた最終的に変貌させていく力を有する者はそこに動機として存在するものは何であれ一念発起し「昨日までとは違う今日」を生きる決断をした人々たちだけなのである、そのように考えるとこの書は一定の経験を有する者でなければ理解されえない部分を多く含みながらもやはりこれまでのすべての時代に書かれたものと同様若者たちのためにこそ書かれたともいえるのかもしれない
諸君、私は信ずるところのある人であればこの書がまったく持って無益なものに終わるであろうとは考えていない、どうかせめて前半部分だけでも目を通していただけるのであればこれにすぐる喜びはない
では本論に入るとしよう

第一章  対象、長さについて(1)

対象(2017/10/09 )

私たちが日々生きていると感じる時、私たちの認識がそこに捉えているものは果たして何であろうか?

対象

対象は私たちを孤独から解放するための第一の存在、それはしばしば希望でありまた救済のための精神を牽引する役割を担うものである、だがここでいう対象とは認識のためのあらゆる存在の筆頭に来るべきもののみを指す、なぜならば私たちは生きていると同時にまったく同じ割合でまた生かされている存在でもあるからだ
夢を私たちは数えることができるであろうか?
また私たちは幸福を数えることができるであろうか?
無一文でいることが即絶望を意味するのではない、たとえそこがゼロであったとしても視線が上を向いているならば彼は無の中に救いを見出すであろう、故に私たちを「生かす」ものは第一に数えられるものではない

知は美を包含できるか?
また美は善を凌駕できるか?
もしそこに精神の優位性を確認できるのであれば、少なくともその答えを自身に対しては自身に最も都合の良い形で示すことができる、だがきっとそれは容易なことではあるまい、未来人よ、貴兄がここで貴兄自身の人生のイニシアティヴ(initiative)を放棄したくないのであれば、貴兄は20世紀以降の人類が囚われ続けてきた二つのものを遠ざける必要があるであろう

それは光と喧騒である

この二つは以下のものとしばしば同義語であった

成功

21世紀の後半において既に回帰の現象が世界の一部において見られているとすれば貴兄らはきっと救われているのであろう、だがそうでなければ金、モノ、人の一方通行には終わりが見えず格差の拡大は貴兄が置かれている状況によっては極めて不条理な選択を結果的にせよ貴兄に迫るかもしれない

ではどうすればそこから解放されるのか?

未来人よ、貴兄の対象は何か?

なるほど、きっとそうでなければならない
では人類の対象は何か?
未来
だがもう一つある
それは地球、そう、この惑星である
ここは故郷でもよい
なぜ私たちは回帰するのか?
それは以下の表現が最も適切なのであろう、私たちが直面する実は最大の課題

フロンティアの消滅

地理上のフロンティアの消滅は精神的なフロンティアの消滅を以下の条件においては実証することになる

ほぼ絶対的な序列を肯定するための尺度の存続

モチヴェーションの確保のためのツールの維持が20世紀的な価値観によって正当化され続けてはならない
数値によって示されるデータによる裏付けを必要とするものが対象を知るうえでその筆頭に来てはならない、ここに20世紀最大の誤謬がある
このことはある人類の進歩のためには無視できないはずのものの価値を著しく損なわせてしまった

それは歴史

1960年代以降人類は先達が明文化しきれなかった複数のルールを自分たちに都合の良いように一方的に解釈して、そこに客観的にも信頼のおける数字によって構築された論理の橋をいくつもかけてしまった
現時点では宗教は科学の前に完全に屈服した形となっている
人類の火星移住計画または太陽系いずれかの惑星及び衛星における生命体の発見のために費やされるであろう膨大な知的エネルギーは、しかしその一方で現時点では未知のものでしかないと推測されるであろう物質や現象の計測にも成功し、それはついに科学とは真逆の方向にしかないものの再発見をも促すのであろう
その真逆にあるものとは?

精神

これは世俗の対照的な存在としてこそ認識されるべきものであり、直ちに信仰を呼び起こすものではないが、本来拮抗して然るべき正と負の均衡が崩れて久しい現在、人類の知の最先端水準にあると思われる人々の手によって常に未来の扉は開かれるのであって、そのように考えると歴史が曲線的に進行すると仮定した場合最先端はいつかかつて人類が経験したに違いないのとほぼ同じ地点を通り過ぎることになるのであろう
つまり対象とは未来のある地点にのみ存在するものでありながら、人生が、また歴史が一周して必然的回帰を経験する時、一周前とほぼ同地点を通過するのであって、そこにおいては過去において行ったすべてから生まれるべきインスピレーションが一時的にせよ復活し、彼にそして彼らに過去と現在と未来の3つの地点との不思議な相関関係を垣間見せる、だがそれを明確に精神的な過渡期として体感できるのはきっと「選ばれたる」という表現を使っても差し障りのないような人々だけであって、さらに言えばそこに単なる偶然ではない何か神の意志とでも呼ぶべきものを認めることができるのは実にごく少数のものだけなのであろう
ここは慎重に筆を進めなければならない場面であるが、きっと今私が見ている、失われつつある数値化できないものの価値を再確認できるのは未来をこそ生きるべきそのような少数の人々だけなのであろう
対象はそれが私の人格をも反映するものであると言い切れる場合のみ、「私」と「対象」との間に絶対的な一本の「つながり」を生む、だがそれこそがデータやインフォメーションで日常における意識のすべてが覆いつくされるときに、私を解放するその糸口となるべきものであって、ここが曖昧なままではきっと若いうちはともかく五十歳を過ぎてからは、本来自分が占めるべき立ち位置というものが極めて不明確なまま老後に突入していくということになり、それは時に鬱や不眠を伴った深刻な神経障害という形で還暦間近の彼を襲うのではなかろうかと私は今危惧しているのである
このハイスピードで時代を駆け抜けているであろう若者たちからすれば杞憂に終わるとしか思えないような一初老人の呟きはしかし時代が大きな変革期を迎えていると言い切ってもおかしくはないであろうこの2020年前後、僭越ながら重要な意味を持つと私自身ある種の確信をもって今ここにその文言を記しているのである

きっとそうなのであろう
時代の変革とはいつもあっという間でありそれに異を唱えようとする者がその準備をしている間に幾つもの既成事実が積みあがっていく、それを知るのは過去、現在、未来の3点の不思議な謎解きをインスピレーションを軸とするパズルの組み合わせで明らかにしようと試みることができるようなそんな芸術家肌の敏感な人たちだけだが、彼の憂鬱は狂騒の渦中にある者には届くまい
したがってここで一つの結論を導き出すのは一定の割合で有益であろう

見えるものと見えないものとの価値は拮抗しているのが望ましい

きっと1950年代末まではそれが概ね維持されていた、だが1960年代になってそれは変わった、ビートルズのデビューは今私たちが振り返った時に感じるような居心地の良い印象を世界中に与えるようなものでは実はない
これはきっとレコードプレイヤーなどのオーディオ製品やまたトランジスタラジオ、及びテレビの普及、そして車の購入や冷蔵庫や洗濯機などの家電を揃えることで、さらに言えばスーパーマーケットや通信販売などが主婦や若者たちに身近な存在になったことなど、一般家庭に暮らす人々の日常生活における利便性が急速に発達していったことと大いに関係していることであろう
また旅客機の発達と空港の整備により、人々は遠距離であっても短時間で移動することができるようになった、きっと「時差ぼけ」などという言葉は当時の年配の人たちには奇妙な新語、流行語として聞こえていたに違いない
そしてそのような新しい文化全体の旗手的存在がビートルズであった、文字通り1960年代こそがニューウェイヴ(New Wave)の勃興期、ビートルズだけではあるまい、フランソワーズ・トリュフォーもジャン・リュック・ゴダールも、またジミ・ヘンドリックスもアンディ・ウォーホールも、そしてイヴ・サンローランも皆、このように表現することができるであろう

破壊の時代の先駆者たち

彼らは悉く「旧」を破壊した、それは電気による革命でありまた情報による革命であった、フランク・シナトラは時代遅れとなり、フレッド・アステアも過去の人となった、それはアメリカンドリームの終わり、白人だけしか登場しない多様性を否定したような映画や演劇の終わり、そしてヴェトナム戦争は結果的にせよそれを速めてしまった
アメリカの一フォーク歌手に過ぎなかったボブ・ディランは五十年以上の歳月を経てノーベル文学賞を受賞した、時代に「異」を唱える人々がついに勝利した瞬間だった
「旧」を否定し、「異」に寛容であること
このような時代はいつまで続くのであろうか?
スティーヴ・ジョブズはビートルズを超えたのだろうか?
だが両者の違いは後者には多くの抵抗勢力がいたのに前者にはあまりそれが見られないことにある
だが抵抗勢力の欠如は以下のようなおそらく人類史上初めての事態を現出させるかもしれない

合理的、効率的であることに対する懐疑

1960年代は覚醒の時代であった、当時の若者たちはただその青春を彩る心の風景と偶然にせよ一致する時代の大きな波にただ従順に従っていただけなのであろうが、新しく生まれた方程式は今重大な岐路に差し掛かっているようだ
革新的であること、いや現実的にはそのようなふりをすることも含むであろう、それは結果的にせよ世界の経済及び文化の急上昇とベクトルを一致させていた、だから誰もが合理的に活動することは最終的には善につながるのだと無意識のうちにもそう思い込んでいたのである

合理的、効率的であること=善(この章ではAとする)

だが以下の二つの21世紀的な問題がそれにクエスチョンマークを突き付けている、貧富の格差問題と環境問題である、何れもそれほど時間的猶予の感じられない問題であるが、Aに染まる私たちはそこに横たわる暗闇の深刻さを理解しつつもAに代わる方程式がわからないためにただ手をこまねいているように見える
私たちはきっと1960年代以降の破壊の時代の先駆者たちの遺産の価値を認めながらもその延長線上にはない新しい価値の創造のための何かを始めなければならないのであろう
「旧」を排し「異」を受け入れる(以下、この章ではBとする)
これはdiversityという言葉ですでに私たちにはお馴染みの概念であるが、この言葉で表されるようなつまり「多様性の尊重」が個々人の認識内において一定の価値を持ったものとして定着すれば「旧い世界の破壊=善」であることに対する懐疑から、Aに対する疑念が派生し、それは「世俗=数えられるものの価値」を超える「精神=数えられないものの価値」の新しい時代に沿った捉え直しに社会的につながるであろう
だが重要なのはここで述べられていることは決して「旧」の復活ではないということである
ここで重要な言葉が登場することになる

回帰

この言葉はこの書において論理的なバックボーンの一つを担う重要な言葉であり故に今後もたびたび登場することになるが、私たちは回帰を知ることで緊張と弛緩の繰り返しが行き着く先を朧気にではあっても知ることになるのであり、それはAとBとの間に横たわる論理的な整合性のための一助になるのである
故に以下のようになる

合理的であるということは、それを正、そしてその対象となるべきものを負とした場合、両者の拮抗した状態を是とすることを必ずしも否定するものではない

私は思う、合理的であるということは、おそらく「後悔」と「逡巡」という人生を幸福から遠ざけようとする最大の要因を日常から排除しうることに概ね成功すると
であれば、合理的であるとは「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」の拮抗を否定しない、いやそれどころかそれを積極的に肯定するものであると考えられるのである
ここでは強者の論理が否定されている、議席の三分の二を制し、そのような状態の可能な限りの永続化を目論む、これは理想に反する考え方でありまた民主主義にも反する、「しばしば対照的な存在でもある対象」(この章ではCとする)が一定の力を有することは個の精神的な成長を考えたときには実は外せない要素であり、無論譲歩のうえそのような状況を意図的に作り出そうとする必要はないが、個がその能力を最大限に発揮しようとするときに最も必要となるべき存在がこのCであり、このCがなければ個はまるでブレーキのない自動車のようにスピードは出るが(アクセルはある)、僅かでも間違えば大事故につながるということになってしまう、ここでキーとなる言葉は「不安」である
この「不安」という負は、おそらく幸福だけではなく成功という切り口から人生を眺めたときにもほぼ同じだけの役割を果たすものと個人的には考えるが、視界良好でないことや、行く手に多くの凹凸を見ることができることは特に感受性の強い青春期の若者たちにとっては短期的には負担にしかならないが、中長期的には逆にプラスにのみなる
「短期的」という象徴的な言葉が登場した
いい機会なのでここで一旦話を転じて、この「短期的」というワードから21世紀がどのように20世紀と異なるのかについて私なりの分析を試みてみよう

この西暦2020年前後が世界的な見地に立って物事を俯瞰してみた場合、おおよそ時代の実に大きな転換期に直面しているとここで私が断じたとしてもきっとそれはほとんど差し障りあるまい、なぜならばそう考えている人は、特に先進国においては学生等も含めて数多くいると容易に推察できるからである
このメガチェンジとでも名付けたくなるような大きな変革はかなり高い確率で「数えられるものの価値」にも「数えられないものの価値」にもその両方に多大な影響を及ぼすであろうと私は考える、ここも多くの人々の共感を得られるところであろう、だがここに一つの法則のような明確な流れを読み取ろうとすることは可能であるかもしれない
それは以下の如きものであろう

「単眼的かつ短期的な物の見方」から「複眼的かつ中長期的な物の見方」への意識、認識のシフト(この章ではDとする)

物事にはすべて二つの側面がある、直線的にそれを見るかまたは曲線的にそれを見るか、数字によってそれを判断するか善悪によってそれを判断するか、理想的に判断するか現実的に判断するか、そして「結果がすべて」と考えることは是か非か
言うまでもないことではあるが、ここではこれまでの数十年間にわたるつまり今現在の私たちの価値判断に大きな影響を知らず知らずのうちに与え続けているであろうと思われる経済的な側面を度外視して考察を試みることはできない
そのように考えると我が国日本の場合奇跡の復興とも、そしてその後はジャパン・アズ・ナンバーワンとも呼ばれた1960年代から1980年代にかけてのおおよそ30年間を無視してここを論ずることはできないということになる
さらに言えばこの国は地理的にも太平洋という広大な大洋によって隔てられているとはいえ二つの大国に挟まれているという、好むと好まざるとにかかわらず複眼的であることを強要されるというやや複雑な政治的状況に置かれていると断ずることもできるようだ
もう一つここに加えるとすれば、上記した30年間が分不相応に平和であったということも関係してくるのかもしれない、分不相応とはつまり世界はなおも平和ではなくにもかかわらずそのような現実に対して国家としてこの国が何らかの積極的な関わりを演じていたわけではないという、無論悪意はないのだが、結果的にせよ将来不作為の罪(平和ボケではない、日本人はよく歴史を学んでいる)とでも呼ばれかねないような、世界への積極的関与をおざなりにしてきたという現実がそこにあるという意味においてである
ここでは論調が過度に政治的になることは避けるためにもこれ以上の言及は控えるが、いずれにせよこの30年間の我が国の営みのすべてが今現在の私たちに与えた影響がDが私たちの共有可能な認識になることを妨げているという側面は確かにあると思う
これはdiversityという言葉が巷でよく聞かれるようになった昨今、至急改善されるべき現実なのではあるが、上から下へのまたは大から小への一方通行はどうやら留まることを知らず、「数えられるものの価値」がそれと拮抗するべきその対照的な対象との距離を徐々に引き離しつつあるようだ
Cは無視されるかまたは都合の悪いものとして排除される運命にあり、したがって敏感な人々でさえ今Dを視界に捉えることはほぼ不可能である
ここでdiversityと並ぶもう一つのキーワードが登場することになる
Interactiveである
Diversity が「多様性」ならばinteractiveは「双方向通行」である
僭越ながら21世紀の諸問題を論理的にも感覚的にも紐解こうとするときにこの二つのワードは決して外すことのできないものでありここを理解できないとそれこそ短期的に私たちは落ちぶれていくことになるのかもしれない
これは私たちの認識の問題でありルールやシステムの問題ではない、したがって「難しい問題は優秀な人々に任せておけばいい」は通用せず、それぞれ個々人がその置かれている状況に関係なく自分が考えるべき課題を見つけそれを時間をかけて解いていくということが必要になると考えられる、ここで重要なのは答えを探すではなく課題を探すである、これについてはまたこの後でも触れることになると思うが、答えではなく課題を見つけるということの方がより重要であると認識できることによって私たちは短期的ではなく中長期的に諸問題と対峙するという二十世紀までとは異なる考え方に行き着くことができる、無論真に望ましい恒久的な答えなど見つかるはずもなく、答えが見つかってもその瞬間から新たな問題が生じる、の繰り返しなのであるが、しかしここで上記したような認識を私たちが持つことで、短期的、単眼的であるが故の最大の負から私たちは解放されることになる

それは近視眼的であるということである

言うまでもなく環境問題がその重要性をすでに私たちに告げている
短期的な「利」のために中長期的な「理」が犠牲になる(この章ではEとする)
二十世紀まではまさにこのEの時代であった、そしてこのEこそがかつては「理に適った」ことだったのである
そういう意味では天邪鬼的表現になるが私たちは環境問題にこそ感謝しなければならないのかもしれない、環境問題とは温室効果ガスの問題だけではなく産業廃棄物の問題(海洋投棄された大量のプラスチックごみの問題など)や核廃棄物の問題、最終的には食の問題(やがて世界人口は100億に達する)も絡む問題となるのであろうが、ここで私たちがEは間違いであるということに気付けば、人類がポイント・オブ・ノーリターンを過ぎ去ってしまうことを防ぐことができるかも知れないのである

私は思う
地球資源を考えた場合、22世紀以降の人々の取り分は果たしてどれくらい残されているのだろうか?
足りない分は火星や木星の4つの衛星などから取ってくればよいと考えている人もいるのだろうが、事はそう簡単であろうか?
利便性の向上がもし私たちの子や孫に多大な負担を強いることになるのであれば私たちはそれがわかった時点で速やかに方向転換すべきだが、そのためにはDが必要になるのだが、そのためにはCの存在が不可欠になる
Cの重要性を考える上でのキーワードは「拮抗」である
権力を与る者とそれに対抗する者との力関係は常に拮抗していなければならないのだ、このバランスが崩れることはいついかなる時であっても好ましからざることであり、故にそのような自体が生じた場合は至急そのような状態が改善されるような対策を直ちに打つ必要があるのだが、僭越ながらこのことに気付いている日本人はこの2017年現在ほとんどいないのではあるまいか?

「多様性」と「効率性」の両方を同時に担保するものだけが価値を持つ(この章ではFとする)

環境問題と拡大の一途を辿る貧富の格差問題のいずれをも解消の方向に向かわせるにはこのFの認識が不可欠であると私は考えるが、しかしこれは「循環」よりも「拡大」を優先させる現時点での方程式からは容易には導き出せないものである、故に「より速く」、「より多く」から「より寛大に」、「より慎重に」への経済のシフトが必要になるがこれは雇用の問題も絡むため相当に困難であろう
対象との距離とは「時間」と「空間」のその両方に適用されるべきであるが、残されている時間は実は短く、また地域間格差はポイント・オブ・ノーリターン寸前である
ここまでは「対象」についてややスケールの大きいつまり非内省的な問題を多く取り上げてきたが、ここからは内省的な問題についても述べることにしよう

(2)

対象との間に取るべき然るべき距離感は、客観的な数値やまたはその事象を俯瞰して眺めることだけでは足りず実はここで主観的なつまりその個にのみ当て嵌まる、100%肯定的に見為されるべき美徳にも通じうる要素が必要になる
それはまず信仰であるが、それに続いて以下の言葉を挙げることができる

夢または目標

これは青春期を生きる人々にのみ理解できるものではなくそれどころか五十歳を超えた人々にも併せて理解可能なものである、良い機会なのでここでそれについて述べようと思う
私たち日本人はこの21世紀において人類史上初といってよいような現実に突き当たることになる、言うまでもない、それは人生百年という現実である
これについてはきっと欧米諸国もこの今後自分たちにも降りかかってくるに違いない歴史的難題に日本がどのように対処していくかを実に今注意深く見守っていることであろう
だが私たちはこの人生百年といういつかは越えなければならない現実的な障壁をむしろ肯定的に捉えるべきであると私は考える、つまり五十歳になってもまだ人生の半分なのだからとうに諦めていた夢を取り戻すべくまた日々精進すればよいのである、だがそのためには条件がいる、ここでの問いはたった一つである

貴兄の青春期の夢は何でしたか?

ここでは「如何に生きてきたか」が問われている、私の経験上感受性が成長していく時期とはおおよそ14歳から21歳までの7~8年間であり、その後はしばらくその状態を維持するが、早ければ二十代後半で緩やかな下降局面に入る、だが青春期を生きる少年少女たちは経験不足故にこのような状態が長く続くと大きな勘違いをしており、したがって気付いた時にはもう手遅れということもきっと散見されるのであろう
ややこの辺りは長くなりそうだが何卒ご理解の上読み進んでいただけるようお願い申し上げる
この感受性豊かな時期にある程度でいいので以下のことを認識しておく必要がある

自分が何を好きで何をやりたいか(以下この章ではGとする)

この単純明快な問いの答えが明確に認識されているのであれば問題はないが、そうでなくともその方向性のようなものは自覚できている必要がある、そうでなければ人生百年の時代、五十歳を過ぎてまだ費やしたのと同じくらいの時間が残っているのに何をすればよいかがわからないということになりこれは最悪の場合かなりの鬱症状となって自分に戻ってくるかもしれない
五十歳、人生百年を考えたときにこれ以上重要な年齢はあるまい、人生の折り返し点でありしかし老いの始まる年齢でもある、五十歳とはその感受性は青春期において芸術やスポーツといったつまり感性が鈍ると味わうことの難しいものに多く触れていない限りはもはや使い物にならないものであり、しかしその一方で体力的にも老い故に明らかに低下していく、そのような年齢である
私は老いの始まりを「たそがれの扉」を開けることだと考えている、つまり五十歳になって人生のたそがれが始まるまさにその瞬間を「たそがれの扉」という言葉で表現しているのである、この言葉は人生が百年であっても生産活動に従事できるのはおそらく七十代後半くらいまでであろうと推測されることからも容易に想像できる言葉であろう
さてここからが本筋なのであるが私は人生百年の時代ならば尚更のこと、このたそがれの扉つまり老いの始まりは実は喜ばしいことなのではないかと考えているのである、無論、Gを満たしていることがその第一条件であるが、そうであれば五十歳を迎えるということは「良いこと」以外の何物でもないように私には思える
五十歳、それは「捨てる」と「チャレンジする」がようやく拮抗する年齢、「諦め」が直情的で論理性をまったく伴っていないものから、冷静で理性的な判断によるものへと変化するその最初の時期、ここには実は真の愛の目覚めがある
夢や目標、それをとうに忘れていたとしてもそれを認識のレヴェルで復活させることができるのであれば、きっと私たちは「信じること」の重要性を再認識できるであろう、信じる力の最終目標は「私たちは一人で生きているのではない」であり、故に「きっといつかはわかってもらえる」である、信仰が宗教的な衣を纏わなくても意味を持つと考えられるのは、人間が最も死に近づく時が強い「孤独感」に苛まれるときであると想定できることからもこれは理解可能であろう
どんなに苦しくてもその苦しみには終わりがある
だがそう思えるためには感受性豊かな時期にGを自らに問うことによる「自分探し」を一定量経験しておく必要があるのだ、ここでのキーワードは「反抗」である
特に「数えられるものの価値」が「数えられないものの価値」を大きく上回るような状況が続いているこの21世紀前半において、もしそこに「反抗」がなければ数値化された目標を人生そのものの目標と見誤った人々はしかし数字による客観的な価値付けによるハードルのクリアには成功することもあるために、たそがれの扉を開けてからこそ(かつての)自分が何を好きで何をやりたいかがわかっていなかったが故のひどい社会的な疎外感に苦しむこととなるであろう、彼らをこそ高く評価していた大人たちはもういない(すでに鬼籍に入っている)
答えを見つけることは得意でも課題を見つけることは生来不得意であった彼らは、エリート街道を突き進んでいったが故に最後はひとりぼっちで夢中になれるもののない老後を送ることになる
反抗とは何か?
それは元来海図などない人生という名の航海において自分にしか当てはまらない法則を見つけることによってしか辿り着くことのできない目的地を見定めるためのその基準となるべき星(これが水先案内人の役割を果たすが、時に六等星の輝きしかない)を探り当てるための少年少女たちにとっては必要不可欠な精神の運動
したがって反抗しないと優秀な子供たちほどその時々の最も確率の高い成功事例に人生そのものを翻弄されることになる(主体性重視ではなく効率性重視となる)

我が国日本において、この21世紀初頭が1960年代からの30年間と根本的に異なる点は実はたった二つしかない、それは経済的なパイの縮小と超高齢化社会の到来である、このたった二つの「違い」が、それに気付く人とそうでない人とをその能力ではなく、その感性によって決定的に区分することになる、きっとどんなに頭脳明晰でもそれに気付くことが遅れた人はたそがれの扉を開けた後に懐かしいメロディが連れてくるはずの夢のかけらを取り戻すことができずに、静かに「降下していく」人生を送ることになる
だがこれは軟着陸という言葉で表せるようなスマートな話ではない、なぜならば降下が軟着陸に変化するためには、その都度時代の要請に応えていく必要があるからだ、AIやドローン、クラウドソーシングそしてテレワークなどのデジタルによる社会的変革は夢や目標を知っている人々の側にこそ立つ、ここでは「面白い」が「儲かる」を凌駕している、しかしだからこそFになるのであり、故に多くの人々に平等にチャンスが与えられ、その結果としてdiversityが流行語にもなっているのである
僭越ながらDの要素を満たさない限り「多様性の尊重」という言葉はいくら唱えても実効性のないものとなる、なるほど草創期というものは如何なるものであれ人間を近視眼的にするのだと言うこともできるのかもしれない、IT革命というアメリカ合衆国発の第二次産業革命(イギリス発の第一次産業革命は「重厚長大」で表すことができ、第二次の方は「軽薄短小」で表すことができる)は現時点ではまだその草創期にあると認識することができるのでそのように考えると、いわゆる試行錯誤が今後もしばらくの間特に進歩的知識人たちの間で続くことになるのであろう、自分が感受性の強い時期に経験しなかったものが35歳を過ぎてから現れると人は必ずと言っていいほどそれに対する強い拒否反応を示すことでそれに対抗しようとする、エレキギターはその代表であった、ロック=反体制的では必ずしもなかったにもかかわらず、エレキギターを弾くこと自体が当時の大人たちには脅威に映ったようだ、特に日本ではそれがビートルズの来日と重なったために一層増幅された感がある
だがここで注意しなければならないのはエレキギターとITツールとの両者の間には決定的な違いがあるということである

さて私はすでにビートルズを破壊の時代の先駆者と表現したが、ではなぜ彼らはそのような存在になれたのであろうか?
私は思う、それは彼らが100%の支持率を得ていなかったからだと
真に革新的なものが支持率100%の中からは生まれることはない、なぜならば革新とはそれ自体がある言葉または概念を内包しているからだ
それはきっとこれだ

前衛

では前衛とは何か?
私はこう思う
それは突然変異のことであると
この「前衛」と「突然変異」という言葉はAIに関する部分でも再登場することになるが、人間の想像力と創造力が時代の追い風を受けてある種宿命的な変革を人類にもたらそうとするときに避けては通れないのがこの前衛であると私は考える、きっと文明という概念が人類すべてにほぼ共通の価値を持つものとして歴史の俎上に乗った時にその最初の一ページが刻まれたのであろう、極めて不完全であるにもかかわらず人間そして人類が偉大であると仮定するならばそのための筆頭の条件は「普遍の利益のために多大な犠牲を覚悟してでも理想の実現のために自己をも犠牲にする」であり、それは突然の決意により行われることもあるのだ
私はこれを前衛と呼ぶ
これはすでに述べたD、E、Fに関連することであり、また個人的な対象に過ぎなかったものを人類的な規模にまで普遍化させたという点においてCにも関連しうるものである
では前衛の対象は何か?
それは人間の不完全性である
では不完全性の対照は何か?
それは普遍である
本来はここで神=普遍が出てくるのだがここではこの部分は曖昧にしたまま論を進める

突然変異、それは時に狂気のことでもあろう、果たしてAIに狂気はあるのか?だが芸術を考えるとき、この狂気はしばしば肯定的な要素として評論家たちの脳裏に浮かぶ、慣習を踏襲しないそれどころか人類の常識そのものをその根本から否定する、きっと狂気を宿す天才はしかし俗世的には「鼻持ちならない驕慢な男」と一笑に付されるのであろう、狂気を同世代の人間たちが理解することはない、A、B、Cの次にKがまたはK1が来る、しんがりを歩んでいたものがまるでワープしたみたいに先頭へと躍り出る、しかも突然そうなるのだ、これを堅実派のエリートが快く思うはずはない、突然変異した天才は堅実派のエリートたちが十年かけてようやくその目前まで辿り着いた利益をあっという間に掠め取っていってしまう、こんな不愉快なことが他にあろうか?
だがホモサピエンスがもし神の期待に副う存在であるならばこういうことを数多く経ることでしか、私たちは前進していくことはできないのであろう、ここは数字によって表されるもののみをその対象とするのではない、むしろここは損得よりもプライドの問題であろう、平均睡眠時間五時間の平日朝6時には起床している男が昼まで寝ている男にプライドを傷つけられるのだ、これは俗世を生きる人々にとってはそこが都会であればあるほど我慢ならないことであろう、
しかも時代がマイナスに触れた場合、数字を稼ぐことでそういう天才たちを出し抜くことは徐々に難しくなっていくのかもしれない、年収の増大=幸福の増大は果たして今後も私たちの人生観のメインストリートを突っ走っていくのであろうか?IT革命とは中央と地方との情報格差を縮めたことにこそその第一の意義があるように私には思えるのだが
ならば時代は明らかに「一方通行」から「双方向通行(interactive)」へと移行しつつあるということになるが
前世代的価値観がメインストリートから逸れた瞬間いわゆる世代交代が実現する、そしてAIの登場はこの21世紀最初の世代交代が実に歴史的な出来事になるということをすでに示唆している
もしかしたら前衛を否定することがAIによる過剰な人類への干渉を認めることにつながるかもしれない
果たしてホモサピエンスがホモサピエンスとしての主体性を失わないためにはどうすればよいのか?
この問い自体1930~40年代生まれの人たちにはついに理解されないままに終わるのではなかろうか?
想定外も無論誤作動もAIにはあり得ることであるが、突然変異は果たしてそこに含まれるのであろうか?
これはきっと細胞レヴェルの話であろう、AIの細胞、もしAIも人間の細胞とまったく同じものによって構成されているのであれば、AIにも突然変異があるということになるが、さてどうであろうか?
細胞、脳、血液、精子、卵子そして生殖活動
対象が何であれそれを捉えまた超えるには、一度でいいのでそれをその外から眺めることが必要になる、したがってAIが人間を超えるには一度でいいのでAIが人間というものをその外から眺める必要があるように思えるが、そのためにはAIたちがその共同体の中枢に位置し、人間たちを自由にコントロールする必要があるということになる、無論そこでは双方通行ではなく一方通行となる、そしてそのAIたちのリーダーが人間を超えるその最終的な段階に踏み込むことを認めるという判断を行う必要がある、逆に言えばそうならない限りはAIがホモサピエンスを超えることはないと思うが
ということは、ホモサピエンスがその主体性を失えば失うほどAIたちにその共同体の主導権を明け渡すそのきっかけを結果的にせよ作ってしまうということになるのではなかろうか?
ではそうならないためにはどうすればよいのか?
その答えに辿り着くためにはきっと神によって与えられた課題について私たちは考える必要があるのであろう
そしてそのためのヒントはこの言葉の中にある

前衛

前衛とは、まさにその動きを始めるその瞬間までに生じたすべての知的な運動の集合体のその裏側から突然現れたその主体さえ(おそらく)予想すらしなかったであろうインスピレーションがしかも時に連続し、また時にその意思とは無関係に体系づけられていったその結論として認識されるべき(神懸かり的な)叡智による思想的な裏付けのある生産物、またはそれが象徴するもののことである
つまり前衛とは天才のみが到達しうる悟りの境地
そしてそこでのみ人間は人間をその外側から眺めることができる、故に彼は同時代的にはついに理解されえぬままに終わるのである
この言葉はAIが登場さえしなければきっと歴史の渦の中に飲み込まれていく運命にあったはずなのだが、前衛とはほぼ無関係の歴史を持つアメリカ合衆国からAIが生まれたというのは何という奇妙な取り合わせであろうか?
インスピレーションの反意語は何か?
それは伝統(tradition)である
いずれにせよAIを生み出した人々はこの両者ともが欠落しているが故にフランケンシュタイン博士の如き運命をもしかしたら辿ることになるのかもしれない
時代が大きなうねりを見せる時おそらく時間は一瞬だがその連続性が停止し、しかし次の瞬間まったく別のところからその続きが始まる
このあたりは論理的にはかなり飛躍している
だが僭越ながら未来人はここに時代を読み解くためのヒントのようなものを見つけるかもしれない、そして結論はこうなる

人間が造ったものは人間が不完全であるが故に人間そのものを超えることはない

ここでも対象が顔を出している、そして対象を認識する時に同時に意識しなければならないのがそれとの距離感であるが、任意の対象が増えれば増えるほどそれらとの距離感を保つのが難しくなる、私の経験上任意の対象が増えることは最終的には鬱症状の発生にしかつながらない
ではどうすればよいのか?
任意のものとは対照的な対象を見つければよいのである
それは独自性(オリジナリティ)であろう
任意性が強いとはつまり「どれでもいい」ということである、だが実際には選択しなければならないので何かを基準にする必要がある
そこで出てくるのが数字、つまりデータである
私たちが今スマートフォンで接している情報には実にこの数値化されたデータが多い、ではどうすれば独自性を強めることができるのか?
答えは二つである
メッセージ(短期的なもの)とストーリー(長期的なもの)である
ここでのキーワードは「好き」である、つまり感性の能動的な動きである
感性の反意語は言うまでもなく理性であるが、しかし「好き」に理性は関係ない、理性的に判断した結果これを好きになったなどという話は聞いたことがない、皆それを好きにならずにいられないからそれを好きになるのである
だが「好き」からメッセージやストーリーが生まれるためにはやはり条件がいる
それは直感的なものだが同時に静謐なものでもある
彼は運命を感じる必要があるのだ
本来ならばここで信仰が顔をのぞかせなければならないが、それをすると以下試みるべき考察がやや複雑な展開になることが予想されるのでそれについてはここでは述べない
ここでの論点は彼がその運命を俗世的なものに変換させてしまうのではないかということである

おそらくこういうことはあるであろう
ある国際的な評価では中級に属すると思われるオーケストラ(ここではAオーケストラとする)が例えばモーツァルト交響曲第40番を録音したとする、最初の録音で素晴らしい演奏をすることができた、しかしモーツァルトの交響曲を私たちが一発でうまく演奏できるはずはないと考えもう一回録音し、その二回目の録音の方をCDなどにして発表した
ここでの論点は「私たち程度のオーケストラがモーツァルトの交響曲を一回で成功させることができるはずはないと考えた」点にある、だが実際にはこういうことはある、それほど有名でないオーケストラやまたはアーティストが一回目で驚くような演奏をする、だがそんなことがあるはずはないと考えて本来ならばする必要のない「やり直し」をしてしまう
もしAオーケストラが一回目に録音したヴァージョンを発表していたら、世界は変わったかもしれない、だがそれを許さないものが世界にはある
それが「俗世」である
「俗世」は中級またはそれ以下の評価しかないものがどのようなものであれ世界を動かすということを認めようとしない、ここでは秩序がおそらくは経済的な事柄(数値化されうるものという意味)を理由に幅を利かせすぎてしまいその結果世に出るべき才能やその断片を殺してしまっている、おそらくAIが登場してこなければ上記した例などそれほど気に留める必要性は生じないのであろうが、AIの登場によりホモサピエンスの主体性の著しい劣化つまり文化芸術的なレヴェルの想像力と創造力のもしかしたら致命的な損壊につながりうる何か、が現実的な問題として多くの人々に認識されるかもしれないと容易に想像される今、この突然変異によって出現する(きっと常にそうだ)天才たちの驚くべきその生産物を社会はどこかで受け入れるかどうかの判断を迫られることになるのであろう
なるほど1960年代におけるビートルズの登場とその成功の原因について考えるとき、冷戦下における東西両陣営の政治的緊張関係にその一因があるとここで言い切ることは相当な無理があるのであろう、つまりキューバ危機以降の人類の終末を思わせる極めて悲観的な未来の予測が当時の若者たちをして過度の緊張故に『「異」をこそ受け入れるべきである』がイコール(=)「ある種の前衛を受け入れる」という精神的な姿勢につながったのではないかという考え方についてである
だが実際には世界は1960年代後半に向けて混乱を極めた、にもかかわらずその一方で音楽でも映画でも文学でもそこに新しい潮流が生まれてきたのも事実だ、なぜあの時社会は特に若者たちはあれほどのエネルギーを宿すことができたのであろうか
私はビートルズに代表されるような特に若者たちの理想を追求するが故にであろう噴出したエネルギーを以下の言葉で表したいと思う

Naked

そう「裸の」という意味である、そこには「覆い」がなかった、しかしそれ故に私たちはありのままの若者たちの精神の発露を目撃できたのである、「ありのままの」である、それは現状維持ということでは無論なく、「こうあるべきだ」への強いこだわり、John Lennonが”All you need is love”と歌ったとき、若者たちは間違いなくそこに普遍を見ていた、それは強い力を持ちしかし次々と生まれ変わるものではないもの、たとえ瞬間的に発したものであったとしてもにもかかわらずそこに永遠を漂わせることができるもの、なるほどJohn Lennonにはloveという言葉が似合う、Loveの次にくる言葉は何であろうか?

Peace

であるならば、それを感じるためには「覆い」を取り去らなければならないはずであるが
では21世紀における「覆い」とは?

AI?

もしそうではないと言い切れるのであれば、私たちはAIが私たちの日常生活に深く入り込むことになってもその主体性を失うことはないと結論付けられるはずであるが……

私が恐怖するのはPCやスマートフォンの登場による情報通信革命が「知らず知らずのうちに」20世紀末までの人類が何とか保っていた対象との距離感を一気に縮めてしまうかまたは意味のないものにしてしまうのではないかということである、すでに任意の対象物が増えるとそれらとの距離感を保つのは難しくなると書いた、ここは人類にとっては未知の領域であるが故にまたかつてない広大な市場が眠っていると推測されるが故に「拡大」をこそ人生のテーマに掲げる野心溢れる人々にとっては間違いなく簡単には譲歩できないところであろう
AIの先にあるのは何か?
私はそれは火星であると思う
テラフォーミングなどとも紹介される火星移住計画は火星が人類にとって極めて危険なものであったとしてもそこに人類が利用可能な資源がまったくないことが証明されない限りは、拡大論者にとっては夢の惑星であり続けるであろう
私はこれを恐ろしいことと感じる
やはりここでは信仰が顔を出さずには済ませられないが、私たちがもし人類の進歩の分岐点に今あると考えられるのであれば尚更のこと、私たちはここで慎重に数ある選択肢の中から然るべきものを選択しなければならない、きっとここではこの言葉がキーワードとなる

循環

原子力発電所の事故は一旦ポイント・オブ・ノーリターンを過ぎてしまうと私たちの生活は取り返しのつかないことになることをすでに人類に示している
そういう意味ではもう気付くべき時は迫っているのかもしれない
この辺りはやや暗示的な文章が続くことになる
これまでも分岐点は人類には数多くあった、だが1945年の8月6日にすべてが変わった、人間を滅ぼすのは神ではなく人間自身であることが科学的に証明されたのだ、「最悪の結果に到ってもやり直すことができる時代」はあの時終わった、だが原子力は平和利用に徹すれば夢のエネルギーになれるのではなかったのか?

対象との距離感

やはりここでついに神の登場ということになる
神とは何か?
それは普遍(universe)のことである
ではその反意語は何か?
国、または地域(domestic)である
Universeにあってdomesticにないものは何か?
それは永遠
では永遠とは何か?
それは循環のことである

すべてはいつか始まりに戻る

では循環が意味するものは?

再生

再生を別の言葉で言い換えると?

未来

人生とは渦巻き状につまり曲線的に進行する、したがって終わりはてっぺんにあるのではなく真ん中にある、真ん中まで行くと今度は始まりに戻る、その時に浄化が起こり再生が起こる、再生には二通りあると考えられる、社会的な意味と個人的な意味である、前者の場合のキーワードは「バトン」である、私たちは皆如何なる時代を生きる者たちであれ前世代を生きた者たちと次世代を生きる者たちとの橋渡し役に過ぎない、私たちは前世代から受け取ったバトンをその肯定的に評価されるべき諸価値において社会を劣化させることなく次世代に引き継がせていく役割を担っているだけだ、だがここでのポイントでもある「社会を劣化させない」ためには私たちは限界までのチャレンジをしてそこに次世代の人々のための新しい道を創造しなければならない、だからこそ民主主義の枠組みの維持こそが最低限の選択肢を確保したまま適切に世代交代するための最重要要素となるわけであるが、ここでは21世紀的に考えた場合、「効率性」よりも「多様性」が優先されている、しかし僭越ながらこのことに気付いていない人々は日本人ならずとも相当な数に上るのではないかと考えられる
Diversityもinteractiveも21世紀を語るべき言葉としてはこの上なく望ましいものだが、しかしこの両者の延長線上にあるものは実は20世紀の方程式をそのまま用いることによって私的利益を上げている人々や既得権益にこだわらずにはおられない人々が期待する未来予想図とは真逆のところにその最終地点を設えている
いい機会かもしれないここで簡単に説明しておこう

諸君、頭の中に黒板を用意してくれ給え
そしてちょうど真ん中で交差するように縦軸と横軸を同じ長さで描いていただきたい
そう、数学のグラフのような感じである
交差している点がゼロで当然縦軸は上がプラス、横軸は右側がプラスである
さて横軸を基準にした場合上半分がupperとなり、下半分がlowerとなる
また縦軸を基準とした場合右半分が保守派であり、左半分がリベラル派である
つまり縦軸と横軸に区切られたその黒板には都合四面あることになる
ここまでは誰でも理解できるところであろう
さてその四面のうち左上からつまりupperのリベラルが属する区域から順に時計回りにA、B、C、Dとアルファベットで区分していただきたい
つまり左の上がAで、左の下の区域、lowerのリベラルがDである
このうち20世紀的な価値観に基づく方程式を採用した場合、発言権を増していくのがA、B、Cの3区域に属する人々である、一方、diversityやinteractiveといった象徴的な言葉に導かれるべき21世紀型の新しい方程式を模索しようとするのがDに属する人々である
私は無論Dの区域に属するのであるが諸君おわかりのように単純計算の結果、Dの区域に属する人々は全体の4分の1に過ぎない、ところが世の中を見渡してみれば面白いことにA、B、Cの3区域に明らかに属していると思われる人々が、diversityやinteractiveといった言葉を多用しているのである
ここに21世紀の社会における民主主義の危機を読み取ることは実に用意であろう、upper層、または保守層が見つめるのは間違いなく効率性であり、そこではすでに記したFつまり『「多様性」と「効率性」の両方を同時に担保するものだけが価値を持つ』は単なる標語として、彼らにとって都合のいい部分だけが取り上げられまた新聞の紙面を飾ることになる、だが彼らは全体の少なくとも4分の3を数的に占めているためにそこに異論があったとしてもそれは少数派の意見としてのみ取り上げられることとなる
おそらくそこではすでに述べたDつまり『「単眼的かつ短期的な物の見方」から「複眼的かつ中長期的な物の見方」への意識、認識のシフト』はあまり顧みられないであろう、故に期待を未来人に託し少なくともB区域に属する人々を除く残り3区域(特にAとC)に属する人々の認識が今後大きく変化することを望むわけであるが、残念ながらこの21世紀初頭における俗世的な価値観を重視するいわゆる「拡大」と「効率」を伴に担保する政策を支持する人々は増加する一方のようだ
いわゆる「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」はその影響力において拮抗していなければならないと私は考えている、そうでなければ「循環」は適わずまた「多様性の尊重」も実現しないであろう、だがそれでは今私たちが抱える二つの大問題、つまり貧富の格差の問題と環境問題のいずれもが解決の糸口さえ見つけられないまま次の世代にバトンが渡されることになり、すでに記した「社会の劣化」が現実のものとなることになる、それでは20世紀と何も変わらないということになってしまうのではなかろうか?
いったい私たちは歴史から何を学んだのであろうか?
もう一度先ほどの頭の中の黒板に描かれたグラフを思い出していただきたい
現時点では守旧派に結果的にせよ属する人々たちが4分の3を占めているために変革は起こりにくい状況になっている、ここに目をつけているのが扇動者である、つまり民衆の庇護者を自認し(実際には偽庇護者である)、社会の不満を吸収し私益のために法を操ろうとしている輩である、彼は多数決では社会の変革は起こりえないと説き(事実4分の3が結果的にせよ守旧派に回ることもあり得るためかなり高い確率で社会の浄化は起こらない)、独裁に突破口を見出そうとするであろう
これは由々しき事態である
ここでポピュリストを例に挙げるのは至極簡単だが、しかし彼らの言動は実はこの一筋縄ではいかぬ現実をよく表してもいるのである

独裁的な傾向を持つ有力者がなぜ民衆を惹きつけるのかといえばこのような輩は概ね個の確立に成功しているからだ、また頭脳明晰で高学歴である例も少なくあるまい
ここに善の要素を見てとることは難しい、またこれから生まれてくる人々のことを慮るという言動も少ないであろう、だがそれ故にであろうか、彼は大衆というものの本質をよく理解しているようだ
このような人々を理解するには以下の二つのキーワードが必要であろう
「瞬間熱」と「素早い回復」である
扇動的な言葉というものは、それが民主主義の原則に反している場合でも強い力を持つ場合がある、だがそれは瞬間的な熱情であるために効力としては短命に終わる、個の確立に成功しているが故にそのことをよく知っている彼らは瞬間熱が冷め始めた瞬間次の一手を繰り出す、この辺りはきっと見事なものであったに違いなくまた今後も同じことが繰り返されていくのであろう

パンと見世物

だが民主主義の枠組みを守っていく以上、これは必要不可欠なものであるとここで断定せざるを得ない

緊張と弛緩

人生とはこの両者の延々たる繰り返しであるが、だからこそ「週末の愉しみ」のための予算とエネルギーは少なくとも金曜日の夕方までは確保されていなければならない
大衆が望むものは時に頽廃的だ、だが面白いことに頽廃をこそ嫌う野心家こそが上記した扇動者の諸条件を最もよく満たすものであるのだ
たとえ最初の一手が失敗に終わっても絶妙のタイミングで次の有効な一手が繰り出されれば昨日までのことはあっという間に忘却の中へと去っていく、そこでは真理を知らないまたは追求しないことが彼の利点として、不満をこそ知る故に議論を尽くすことでしか達成されないはずの「次世代のための有効な一手」を曖昧なままにした状態を放置する人々によって追認されていくことになる
これを覆すにはD区域が属する人々が中心となってAおよびC区域の人々との連帯を模索するしかないのだが、この2017年現在、AおよびCの区域に属する人々の視線はB区域に属する人々の方に注がれているようだ
ここに私がこの書で言いたいこと重要な論点の一つがある
キーワードはreverse、returnまたはget backであろうか
だがこれはdiversityとinteractiveがもしこの21世紀の世界を読み解くキーワードになるのであるという前提で議論を行った場合、当然の如く登場するワードなのである

この世はすべて二つで一つである
明と暗
昼と夜
緊張と弛緩
確信と懐疑
直線と曲線
西洋と東洋
北半球と南半球
生と死
暖かいと寒い
硬いと柔らかい
出会いと別れ
数値化できるものと数値化できないもの
安定と混乱

したがって私たちは現時点における理想の限界を認めつつもにもかかわらず現実の追認のみに時間を消費してはいけないのである
実はここで想起されなければならないのは普遍的な価値を持つものの存在である
ここでは善や夢、または目標と記すことにするがここは当然神、つまり信仰が来るべきところである、普遍というからにはこの地球上に存在するすべての人類(ホモサピエンスしか生き残っていない)の合意を取り付けることが可能なものでなければならない、そのように考えるとここは抽象的な概念によってのみ認識されうるべきものつまり霊的な存在が来なければならないはずなのだが、それをここですると諸々の考察そのものがかなり壮大なもの(人類の歴史そのもの及び宇宙という空間をも包含するもの)となる懼れがあるためここではそれについては触れないまま次へ進みたいと思う

おおよそここで以下のように断言することは可能なのかもしれない

この世の真理は相異なる役割を担う二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動であると

すべては「行ったり来たり」の繰り返し、これは即ち循環を意味しているが、だがこの21世紀初頭(2017年)人類の関心は20世紀と何ら変化がなく拡大に注がれている
拡大とは直線である
そして循環とは曲線である

(3)

諸君すでにお気付きのようにすでに記したAからGまでのすべてがこの「循環=曲線」に属する、直線は如何なるものであれ最終的には加速していくことをその属性として明確に示すものであり故に「多様性の尊重」にも当たらなければ「複眼的かつ中長期的な視点」にも当たらない、当然「異」を受け入れることにもならず、またおそらく長期的には「合理的」でもない(私は火星などから人類が使用可能な資源を奪ってくることには現時点では反対である)
そして何よりも直線では「行ったり来たり」にならないのである
すべては二つで一つなのだから、始点からスタートしたものは一周するたびに始点に戻ってこなければならない、つまりスタートし始点から徐々に離れていくが最も離れた地点を通過すると今度は逆方向から始点に向かってそれまでとは逆の軌道を描いて始点に近づいていくということにならなければならない
つまり円を描くように物事は進行していくべきなのである
これによって「多様性」も「複眼的」も、「中長期的」な視点も「異」も「合理性」も担保されることになる
人生もまたそうである
時は曲線的に円を描くように進む、ただ人生の場合明確に終わりがあるためにそれは渦巻き状に進むことになる、つまり終わりはてっぺんではなく真ん中にあるということになる、だから一周するたびに人は始点の近くを通過することになる、このように考えれば年をとればとるほど一年があっという間に過ぎるように思えるという時間に関する認識の変化も理解できるのである
だが私は思う
このような考えは幸福をキーワードに人生を捉えようとするとき僭越ながら実に有効なのではないかと
幸福と成功の最大の相違点は成功には僅か数種類の形があるだけでありまた数字または数値による裏付けが必ず必要になる(そうでなければただの自己満足である)が、幸福はそこに一万人いたらそこには一万通りの幸福の形があるということである
山間部の寒村に住んでいるからといって彼が不幸であるなどとは誰も言えないのである
そして貧富の格差の拡大が一方的に進行しつつある現在、このような視点はきっと重要なのであろう、そうでなければ一工夫すればチャンスを得られるような恵まれた環境に生まれた少年少女たちを除いて、時間が経過すればするほど相対的に見てノーチャンスに終わる確率の高い少年少女たちが増えるということにもなりかねず、これは不平等であると同時に22世紀を生きる人々に対する背信行為でもあると思う
私たちは衣食住が整ってさえいれば今22世紀に思いを馳せることが十分可能である、そして現在そこにある平和も繁栄も20世紀を生きた衣食住の整ったつまりわずかではあっても精神的に余裕のある人々が必死になってその平和と繁栄を未来に残そうと努めた結果である、ならばこの21世紀を生きる人々のうち一定の条件を満たす人々は22世紀のことをやはり考えるべき時に来ているのではなかろうか
今日は2017年12月15日である、つまり今日生まれた子は比較的高い確率で22世紀を生きることになる、したがってすでに22世紀を想像するということは有益なことと言えるのである

対象とは「時間的」な場合と「空間的」な場合の二種類あると考えられるが、いずれにせよそこにオリジナリティを少なくとも一定の割合で確立できなければ、その認識はおおよそ曖昧で時間的な継続性すら覚束ない不確かなものとなるであろう、そうならないためには最も感受性の強い時期つまり14歳から21歳までにある程度の自分探しを行っておく必要がありそしてその結果自分が「何を好きで何をやりたいか」を朧気にでも認識しておく必要がある
だが問題はIoTの結果、人々の志向というものが、任意性の強いものに変化しつつあるのではないかと思えることに端を発しているように私には思える

今やスマートフォンのない生活というものはおおよそ老若男女すべてにおいて考えられないものとなりつつあるが、ではこのSNSに代表されるような何につけネットを介さないと成立しない私たちの日常生活とはいったいどのようなものと考えることができるのであろうか?
ここは単刀直入に私論を展開していこう
ネットの世界とはつまり極めて任意性の高い世界と言い切ることができるであろう
今手にしているものが最新の型であればiPhoneであれandroidであれユーザーがそれに異を唱えることはないであろう、そこでは最新のツールとアプリによる利便性の向上がユーザーの満足度にほぼそのまま直結しそこでは以下の言葉がおそらくはほぼ完全に欠落している

カスタマイズ

ここがオーディオとの相違点である
オーディオの場合はアンプにせよスピーカーにせよまたケーブルにせよそこには様々な個々人の独断による主観的な要素の入り込む余地が豊富にあり故にアンプが同じでもそれ以外が違うことによって出てくるサウンドの質が場合によっては決定的に異なるという状況が生じうるのである、当然どのような音楽を聴くのかというつまりソフトの問題もそこには時に複雑に絡んでくるため(アナログレコードを聴く人もいる)、言うまでもなくそこでは一定の専門的な知識というものが必要になる、専門的な知識は専門用語によってサポートされている、したがってそこではインピーダンスといったオーディオに関心のない人ならば一生耳にすることはないであろう用語が頻繁に登場することになる
だがこのことはカスタマイズの喜びを知る人であればそこに一定の知識情報を共有できるつまり「仲間」を見つけることができるということでもある、また彼はそこでは「仲間意識」の醸成を主体的に企図することができることを知っているであろう
カスタマイズとはしばしばそれに「付属させる」でありまた一部を「変更する」である、そこでは互換性の有無が実に重要な役割を果たしている
この互換性の有無は個人的には中長期的に見た場合IoTにある種の革命的な変革をもたらす可能性があるのではないかと思えるのであるが、現時点ではスマートフォンに「付属させる」ものはイヤフォンくらいでありまた互換性がないために「変更する」はおおよそ意味を持たないものであろう
小学生にアンケートをすると憧れの職業として、You Tuberが登場しているようだがこれは上記した二つの「付属させる」と「変更する」の要素が欠けていることがその第一の要因であると考えられる、つまりスマートフォンの原理を、ハードに関する知識を基に合理的に理解するのは小学生でも可能であるということである
無論だからこそ短期的に爆発的にヒットしたわけであるが、そこにカスタマイズの喜びがないということは、そこに複雑多岐にわたる専門性の高い分野が存在しにくいことを証明している
ポルシェ911という車がある、私は無論運転したことはないため経験値で何かを語ることはできないが、この車は15万km走ってもびくともしない強度な耐久性を備えている、したがって中古車であっても燃費が悪いにもかかわらず高価格を維持しているわけであるが、しかしここにはすでに記した「付属させる」と「変更する」の要素も併せて見て取れるのではなかろうかと思う
例えばシートやステアリング、そしてホイールなどである
ポルシェに乗るような人はおそらく車の走りそのものを楽しもうとする人が多いような印象があるので、カーオーディオにはそれほどこだわらないかもしれないが、いずれにせよここでも互換性が顔をのぞかせている

すでに「カスタマイズ」「付属させる」「変更する」そして「互換性」といったキーワードが登場しているが、これらのキーワードは共通の方向性を有しているように思える、その共通の方向性の先にあるものは何か?

オリジナリティである

おそらく利便性が最終的に幸福というものにつながりうるか否かはそこにこのオリジナリティがあるかどうかにかかっているように思える
ネットの世界では利便性が実はそれとは無縁であるはずの普遍性を伴うものとしてなぜか人々(user)の間では認識されている、もしそこに普遍性があるのであればそれは知恵の応用、つまりカスタマイズをこそ肯定するはずであるが、スマートフォンにイヤフォン以外のアタッチメントを着けている人をいまだ見たことがない、つまりスマートフォンとはもはや単なる通信のためのツールではないのだから、スマートフォンを中心にして派生的にアプリとは別のツールつまりハードがもっと発達してもよいはずなのだが、bluetoothのスピーカーなどを除けばそのようなものをあまり目にすることはない
ここではおそらく100%「量」が「質」を上回っている、つまり「つながる」こと自体が目的であり、そこから生じるはずの「つながりのためのバリエーション」が乏しいのである
だからであろうか、スマートフォンに関しては男女差というものがほぼない
例えば車であれば若い男性であればFR(後輪駆動)、それ以外の人であればFF(前輪駆動)といったおおまかな括りがかつてはできたのであるが、どうやらネットの世界では性別はまたは個々の置かれた環境故の時に細かい差異、つまりバリエーションが不足しているようだ
車もスマートフォンも日常生活において不可欠なものであるという点では変わりがない、また利便性の向上に資するという点でも同じだ、さらにいえば「スピード」という共通のワードも見え隠れする、環境問題があるとはいえこの両者の特に若者たちに対する影響力という点ではなぜかくも違いがあるのか?
もうおわかりであろう
ここにこのワードが来るのである

任意性の多寡

スマートフォンは任意性が極めて高く故にそこにはカスタマイズが生じにくくしたがってそれが最新の型であればそこにはそれ以上の条件が付かないのである
だが車はそれぞれの置かれた状況に応じた、つまり独自性(オリジナリティ)が重要になってくる、北海道のような寒冷地に住む人々と九州のような温暖な気候に暮らす人々とが車の趣味に対して違う傾向を持つのはまったく不思議なことではない、また車に関するハードはおおよそ互換性があるためそこでは工夫が可能であり、そのことがいわゆる「マニア」の生じる余地を残している
だがスマートフォンにはこのマニアがなく故に車のウェブカタログに興じる人はいてもスマートフォンのウェブカタログに興じる人は少ないのである
だが中長期的に見た場合この違いは大きな結果となって現れる可能性がある、なぜならば文明を高めていくのは実はすでに記したカスタマイズやオリジナリティからこそ生まれると考えられるからである
これは「多様性の尊重」に合致しまた「均一及び均質の否定」にもまた同様に合致する
つまり時代の要請に適っているのはマニアの方であってSNSではない
事実1996年のappleのCMでは以下のようなコピーが使われていた

はみ出し者歓迎

果たしてはみ出し者とはマニアの方かそれともSNSユーザーの方か?

だが時代の趨勢はこれとは逆の方向にものすごいスピードで進んでいる、もし今急ブレーキがかかったらスマートフォントレインの乗客たちは如何なる事態となるのであろうか?
スティーブ・ジョブズはついにそれを語らないままに旅立ったようだ
私はすでにビートルズを筆頭に、彼らは皆破壊の時代の先駆者たちだったと書いた、だが彼らはおおよそ支持率100%ではなかった、それどころかビートルズなどは当初は否定的な人々の方が圧倒的に多かったはずだ、だがスマートフォンは違う
間違いなくその支持率は99%を越えている
この人類史上最高の任意性を誇る最新のツールはカスタマイズの余地が少ないがために一度故障を発するとその使用者は容易にパニックに陥るようだ、しかもそこでは互換性というものがほぼ無視され故にそれは極めて独占性の強い性質を持っているため、ほかのツールで代用するということがほとんどできない、さらに言えばデジタルネイティヴ第一世代は彼らが最初であるがために30代以上の人々の意見を参考にすることができない、任意性の反意語は個性である、だがimaginationもcreationも個性の産物でありその逆では決してない、にもかかわらず誰も経験していないのでデジタルネイティヴにそのことを告げることができない

これは悲劇なの、それとも喜劇なの?

13歳の億万長者
だがもうそのカウントダウンに入っている
ティーンセレブリティ
だが彼の行く末には巨大な暗雲が立ち込めている、環境問題一つをとってもそれを解決するにはimaginationとcreationが必要であることは論を待たない、だが13歳でも億単位の金を稼げるこの任意性最優先の世界は年々複雑化していく文明の未来の逆を行っているのである

どこでもいい、いつでもいい、何でもいい

だが幸福はこのいずれの範疇にも属さない、なぜならば幸福の源となる感動とはどこにでもあるものではないからだ、また感動とは「何を」の中にはなく「いかに」の中にある、だから幸福のための絶対法則というものはないのである、それは個々人がそれぞれの個性を活かしてその日常の中から見つけるべきものであるのだから

「任意」は「相違」をしばしば否定する

だがこの21世紀を紐解くキーワードの一つといえるであろうdiversityは任意の中にはなく相違の中にある、任意性が高まれば高まるほどカスタマイズの需要は低下するのである
幸福は100の中にはない
幸福は時に55.0634、また時に70.3871、また時に49.9999の中にある、そして49.9999と50.0001はまったく別のものである

神々は細部に宿る

無論この表現はデジタルを即否定するものではない、だが同時にアナログがデジタルの下にあるわけではないことも意味している
このことはiPodが必ずしも音楽市場を活性化させていないことと背後で強く結びついている、ポータブルレコードプレーヤーの登場はビートルズの成功を強力に後押しした、またMTVがなければマイケル・ジャクソンの成功はなかったであろう、どのような分野であれ新しいツールやメディアの登場はそれが属する分野の市場の活性化を必ず誘発してきた、だがデジタルでは必ずしもそうはなっていないようだ、我が国日本における音楽市場の不活性化は1980年代の邦楽洋楽その両方の隆盛を知る私にとっては何とも不思議な現象だ、確かにヒップホップは英語が理解できない人には単なる英単語の羅列にしか聴こえないであろう、そこにはリズムしかなくつまりメロディがない、だがスマートフォンとYou Tubeは13歳の初心者には映画にせよ音楽にせよそれは無尽蔵の感動の宝庫でしかないはずなのだが、例えばMTV全盛期のジュリアン・テンプルやゴドレイ・アンド・クレームのような映像作家の名前がYou Tubeから聞こえてこないのはなぜなのか?
新進気鋭の映像作家にとってYou Tubeほどその登竜門として好ましい存在はないはずであり、当然そこから長編を撮るようになった映画監督も続出するはずだが……
私ならばビートルズなどの1960年代のアーティストたちの楽曲を使用してオリジナルのビデオを作成しそれをアップするであろう、それが素晴らしいものであればきっと100万回を超える再生回数を記録し当然ネット上で話題にもなるであろう、だがYou Tubeで話題になる動画は言ってみれば瞬間的な効果を持つものに限られており、芸術性の高いものが大きく取り上げられることはほとんどないようだ、ならばYou Tubeの向こうを張ってArt Tubeが登場するべきであるが、ネットそのものが任意性の強いものであるせいであろうかそのようなものは存在しにくいようだ
このことは長期的には市場の不活性化要因にしかならずしたがってそれは新しい(優れた)アーティストの登場を阻害し新しい芸術的チャレンジの必要性を著しく減じさせる
SNSにそれは象徴的に現れているのであろうが、参入と退出の自由が確保されている共通の仮想広場が大きければ大きいほど私たちのコミュニケーションの範囲は限定される、それはキーワードとなるべきものに深い精神性を伴う普遍性が感じられないからであり、またそのことは結果的にせよその仮想空間における任意性の発揚を一層促すことになるために、いってみれば「当たり障りのないもの」つまり強いメッセージ性を持たないものが幅を利かせ続けることになる(長期的には負の性質の強いコンテンツは排除されていくであろう)
これらはいずれも互換性のないそして選択肢の限られたつまり情報の発信者に多くの権限が結果的にせよ付与されているカスタマイズの余地の少ない然るに個性やオリジナリティを感じさせない、故に「三次元的かつ有機質的」なものではなく、その逆「二次元的かつ無機質的」なものに特に若者たちの精神のほとんどが思い切った表現を用いれば乗っ取られている結果であり、それはおそらくは近い将来極度の睡眠不足に端を発する何らかの神経系統の異常を特に若年層に併発させることになるかもしれないと思われる、それは神経衰弱であろうかそれともパニック障害?
よく考えてみればSNSとは史上最強のコミュニケーションツールであるはずなのにSNS婚が流行語にならないのはなぜだろうか?そういう事例がないはずはないのだが、出会いのチャンスが増えれば増えるほど、出会いのための仮想空間が盛況を為せば為すほど実際の出会いは数的には減じていくということなのか?
ではいったい何のためのコミュニケーションツールなのか?
私は思う
スマートフォンによる利便性がいくら増したとしてもポルシェをスマートフォンで買う人はいないであろうと
なぜならばポルシェは「三次元的かつ有機質的」なものであり、仮想空間における「二次元的かつ無機質的」なものとはついに一線を画したままに終わるであろうと思うからだ
ここでもう一度、1996年のappleのCMのコピーを思い出していただきたい

はみ出し者歓迎

だがデジタルネイティヴは僅かもスマートフォンからはみ出してはいない
なぜか?
そこにカスタマイズがないからだ
カスタマイズを知らない情報の受け手が発信者に変わるとき錯誤が起きる、如何なる時代であれ如何なる分野であれ、その寵児と呼ばれる者は皆オリジナルの確立者だ、そういう意味ではデジタルネイティヴ第一世代からはジョン・レノンもボブ・ディランも現れない、なぜならば誰かのまたは何かの延長線上にそれがある限りそれはオリジナルの確立ではないからだ、そしてスティーブ・ジョブズもまたオリジナルの確立者であった
だがジョン・レノンやボブ・ディランにあってスティーブ・ジョブズにないもの、それは抵抗勢力の存在だ
抵抗勢力(大人とは限らない)による否定なくして恒久的善的世界の構築はあり得ない
私は”imagine”のスピリットをスマートフォンの中に感じることはできない
“imagine”の歌詞にもあるようにきっと当時は多くの人がこれは夢想家の独り言に過ぎないと感じたのであろう、だが優れた楽曲は必ずや時代を超え生き続ける
なぜか?
そこに普遍性があるからだ
これは最終的には信仰に結びつき得るものであるが、私はそこに普遍性があるのであればそれは最終的には善を目指すのだと思う、無論私は性善説を支持するほど楽天家ではない、なるほど悪意は時にそこに強い連帯を瞬間的にであれ生み出す、したがって孤立感に苛まれる一任意の人物が拡散故に大きな力を持ちうるものに短期的にせよなびくというのは十分考えられることだ
おそらくここで私が以下のように述べることは間違っていない

善意は沈殿していく、そして悪意は拡散していく

悪事千里を走る
だがそれは人類の歴史によっても証明されている、ではそれを食い止めるのは何なのか?
ここで再びこの言葉が登場する

前衛

なぜ前衛がここで出てくるのか?
前衛とは突然変異のことだ、人は何であれ「後で気付く」存在であるため、善と悪では悪の方が常に先んじる、したがって善がイニシアチヴを奪い返すにはこれが必要になる

瞬間移動

ここは豹変でもよい
いずれにせよ、今いるその位置から瞬間的にまったく別の地点に移動する必要があるのだ、そしておそらくこれができるのは人間だけでAIにはできない
継続により人は力を得る、したがって誰でも一本の線を引くように日々の生活を送っている、一見望ましいこの生活様式を支える意識はしかし負が社会的に増大していっているときには実はおおよそ効力を持ちえない、だから瞬間移動してそれまでとは違うスタイルを確立する必要がある
もしそうしなければどうなるのか?
悪意に善意は負けることになる
確かに紋切り型の結論だが、しかし甚だ僭越ながらこの結論には一定の議論の余地が保たれている

それまでの生き方を全否定してその地点から少し離れたところから新しい何かを始める、だがそのためにはある種の確信が必要になる、したがってここでは道徳ではなく信仰の出番になるのだが、神に悪意はないという前提に立てば信仰は悪意が瞬間的にせよなぜか社会的に大きな力を持ち始めているときにこそその役割を果たす、ここでは神こそが善を信じる人々の唯一の対象となっている
そしてここにそれでもなお善意を信じる人々の連帯が実現すればそれは悪意の連帯を上回るであろう、なぜならばそれは21世紀の理想に適っているからだ、私はそれをすでに記している

「旧」を排し「異」を受け入れる

これを一言でいうとdiversityとなる
悪意はむしろ「異」を排除する、もし今後もITが現在の位置及びその方向性を維持し続けるのであればすでに答えは出ているのであろうと思う
きっと富は善に反する
なぜか?
間違いなく富は沈殿ではなく拡大を志向するものであるからだ
ここでもう一つのキーワードを記させていただきたい

帰郷

そう、かつて私たちがいたところに戻るのである
それは小川のせせらぎが似合う場所?
それとも縦横に地下鉄の走るコンクリートジャングルと呼ばれるような場所?
そして富はそのいずれに属するの?
ツールの発達は人々の何に資するの?
成功それとも幸福?
そして利便性の追求に邁進する人はいずれをその目標にしているの?
彼らが欲しいのはどっちなの?
富?
友達?

ここで私は以下のような疑問を抱くのである

いったい天国に何を持っていけるというの?

この疑問に明確な答えが用意されない限り、上記のクエスチョンに関しては私の方に分があることになる
人生は渦巻き状に曲線的に進行する、したがって終わりはてっぺんではなく真ん中にある
この前提に立てば幸福のための条件の上位に来るものはそのほとんどが私たちの心の中にあるということがわかる、ただここで気を付けなければならないのは外的な条件の中に答えを見出そうとしてそれがうまくいった場合引き返すことが難しくなるかもしれないということだ
ここで新たな難題が持ち上がることになる

(4)

超高齢化社会の到来

人生百年の時代
この部分では日本がその最先端を突っ走っている、無論これは喜ばしいことである、孫、曾孫のみならず人生百年ならば玄孫までも視野に入ることになる
これは人類史上初めてのことである
モノ、金、情報
だが八十歳を超えて頼りになるのはそのいずれでもあるまい
では何が頼りになるのか?
生きがいである

自分は何が好きで何をやりたかったのか?

そう、自分の青春時代が何とここで甦ることになる
八十歳はまだお迎えが来るには早すぎるのだ、おそらくここで頼りになるのは有り余る富ではなく友人である、故にいい趣味を持ちある種のリスペクトの対象であることが求められる、そこで青春時代にいったい何に傾倒していたかが問われることになる
ビートルズがデビューしたころ、ロックンロールが三十代後半になっても通用するなどと考えていた若者は皆無に等しかったに違いない、ところがローリング・ストーンズはいまだに活動を続けている、彼らが自分たちが何を好きで何をやりたいかが明確に分かっていたが故にそれがついには社会をも動かし、今彼らはロックのレジェンドとしてリスペクトの対象になっているのだ

夢を追い続けることはただ慣習を踏襲することよりも尊い

ここでそう断言することはできないのだとしても、徐々にその方向に進んでいっているのだと言い切ることはできるかもしれない、ここでは「好き」がそれ以外のすべての要素を上回っている
「好き」とは感性の能動的な動きのことである、しかもそこでは中間の部分が一切排除されている、つまり「理由はわからないがとにかくそれが好き」なのである、熟慮に熟慮を重ねた結果それを好きになったなどという文句は聞いたことがない、「好き」とは直感であり、その対象は恋愛に限らない、だからここでは夢がその対象物として浮上してくるのだ
夢はひたむきな継続性がそこにある限りいつかリスペクトの対象となる、無論その夢は善的なものであることが求められるが、そうでありさえすれば彼が精神的に完全に孤立する可能性は低いと思う、「好き」は人を動かす、なぜならば「好き」の向こう側には幸福が待っているからだ、ここが成功ではなく幸福になっていることにどうか注目していただきたい、「好き(悪意はゼロと見做す)」は当初は個人的なものでも継続の結果それは社会的なものとなり、また一定の成功がなされれば後継者が生まれそこには一つの体系付けられた潮流が生まれることになる、ここではそこまで論を進めないが、悪意ゼロは「異」を受け入れるためにそこには多様性故に普遍性が生まれるであろうことが容易に推測される、このことはこの21世紀、20世紀以上に重視されるべき部分であり論点である、ナショナリズムにも結び付き得る「一民族、一国家、一指導者」といったスローガンなどはここでは完全否定されている、論理の飛躍でも何でもなく超高齢化社会が第二夢追い人を生み、その結果定年までサラリーマンとして勤め上げた人が青春時代の夢を再び追いかけついに小説家や漫画家としてデビューするなどということが現実のものとなるであろうしまたそうならなければならない、超高齢化社会とは彼が青春時代に一定の自分探しをやっていたことが条件にはなるが夢の復活を一部意味するのである
昔取った杵柄
この言葉をこの2017年に聞くことはそれほど多くないが2037年には頻繁に聞くことになるであろう、老後のことを心配して貯蓄にひたすら励むのではなく第二の人生のために五十歳を過ぎたあたりから再び切磋琢磨する
「好き」から「稼ぎ」が生まれる、その額はそれほど多くないかもしれないが、だが彼はまだ六十五歳なのに何もやりたいことがないという人々を遥か後方に見据えることになるであろう、なぜならば社会がそのような第二夢追い人を放っておかないからだ、彼らは22世紀を生きる人々の模範となりうるのである
そういうときにこそSNSは活用されるべきである
逃避のためではなく挑戦のためにこそ

遮断ではなく開放
吝嗇のための節約ではなく夢の実現ための節約
そして富の重視ではなく友人の重視

僭越ながらここには人間の理想がある、上から押し付けられる善ではなく自発的な善がある、故にボトムアップとなる、このことは今私たちが直面する二つの問題、貧富の格差問題と環境問題を伴に解決に導くにちがいないその糸口をいつか私たちに示すであろう、なぜならばボトムアップによってこそそこにあるべき問題意識の共有が可能になるからだ
人種差別はなぜいけないの?
それは先生がそう言っているから
だがこれは望ましい回答ではない
望ましい回答は自分自身で導き出すものだ
だから自分で考える必要がある、自分で模索する必要がある
そしてそのような望ましい状況に自分を導くためにこそ夢が存在するのだ、その時は叶わなくてもよい、だがこれからは人生百年の時代になるのだから夢を追いかけていたころの自分だけは否定してはいけない、貴兄が意志を持ち続ければ時代さえもがいつか貴兄の前に跪くかもしれない、そう貴兄がその第一号となるのだ
幸福は紆余曲折の果てにしか存在しない、なぜならば幸福は「数えられないものの価値」に属するからだ、数値化できないが故に自分が幸福であるかどうかは自分で決めるしかない、だがそのためには自分独自の対象を見つける必要があるのだ

映画、音楽、文学、演劇、ファッションデザイン、商業デザイン、漫画、鉄道、自動車、建築、歴史、ジャーナリズム、食およびスイーツなど
野球、サッカー、バレーボール、バスケットボール、テニス、ゴルフ、水泳、格闘技、陸上競技、スノーボード、スキー、スケート、カーリングなど

そういう意味では14歳から21歳くらいまでの感受性の最も強い時期にこそ自分探しをある程度行っておく必要がある、この時期はあっという間に過ぎ去るものであるが故にある種の「抗う」がそこにないといわゆる「共通」の価値観に17歳であっても人生を翻弄されてしまうかもしれない、さらに言えば「大人の期待=将来の自分」の中に幸福はないとここで言い切ったとしてもそれはそれほど間違っていないのかもしれない、ここに見え隠れするのは成功への意志であり、自分探しと必ずやセットになっているつまり幸福と強く結びつき得る「夢=なりたい自分」ではない、夢も目標も17歳以降は自分で見つけるべきものだ、だから答えを探すのではなく課題を探すが重要になる、僭越ながらこれは自己完結という意味でも若者であるからこそ重要な問いであると言える、課題は与えられるものではなく自分で探すものだ、そして幸福もまたそうなのである
成功の形は数種類しかない、なぜならば成功には社会のお墨付きが必要になるからだ、したがって成功を望み努力したにもかかわらず然るべき数字を得られなかった者は容易に絶望してしまう、だが幸福は違う、そこに一万人いたらそこには一万通りの幸福の形がある、地方の寒村に住んでいるからといってただそれだけで彼が不幸などとは無論言えない、成功しているか否かは社会が決めるが幸福であるか否かは自分で決めるのだ、そしてそのために必要な夢、目標こそが彼の対象となりうるものである

万物は対象を求める
ここには信仰の萌芽を見て取ることができる、そして信仰は道徳の上位に来るものと見做すことができる、なぜならば信仰は「異」を受け入れ、故に異邦人間においても有効なものとなりうるからだ、私にとって唯一の対象は神だがここではそこまで論じ詰めなくとも個を最終的に孤立から救うのは、何かを自身の内側においてその経験を基にある種の用心深さをもってつぶさに検証することで個々が自分に当て嵌まる法則のようなものを導き出すことであり、それは誰であれ可能であると私は思う、ここで論点になりうるものは彼の能力ではなく彼が彼に放たれるインスピレーションから何を得ることができるかという感受性である、だから14歳から21歳くらいまでの最も感受性の強い時期にクラシック音楽や古典文学や芸術性の高い映画などに一度でいいので触れておくべきなのである、無論大型テーマパークに代表されるような予定調和の世界を完全否定するつもりはないがしかしそれが青春のすべてであってよいとも思わない、オリジナリティは予定調和の反対側にある、だからオリジナルを確立すれば最悪の場合かなりの孤独を味わう羽目になるのだが、だが人生百年の時代ならばまた人生において保障というものは不透明なものでしかないのであれば、最後の最後でものをいうのは彼が如何なる人生を送ってきたかである、そこでは「何を為したか」ではなく「如何に生きたか」の方に優先権がある、したがって常に夢や目標を視界に捉えて生きる必要がある、そういう意味では夢や目標は追い続けるものであり叶えるものでは必ずしもないということになるのかもしれない、なぜならば夢を叶えるには一定の取引が必要になるからだ、すでに「好き」は人を動かすと書いた、ならば「好き」は彼の後継者において彼の夢を間接的に叶えるということにもつながるかもしれない、「好き」は能動的である、また「好き」は直感的である、手続きが排除されているということはつまりそれ(任意の対象)を好きになるのに条件は要らないということだ、そしてこれの真逆を行くのが偏差値教育である

きっとこういうことであろう
チャレンジするべき対象を見つけた者が紆余曲折の結果つまり多くの積極的失敗の結果自分にしか当てはまらない法則を発見することができる

積極的失敗の連続は成功の連続に勝る、なぜならば成功の連続は成功それ自体が目的になってしまうかもしれないというリスクを孕んでいるからだ、無論一度も失敗したことのない人などこの世にはいないのだろうが、数値化された目標をクリアしてしまうとそこが彼の青春の基準そして結果的にせよ人生の基準になってしまうかもしれない、おおよそ試験というものは何であれゴールにはなり得ない、大学には余力をもって入学するべきであり、学問とは人生を豊かにする手段(目的ではない)であると認識するべきだ、そういう意味でも若者のみならず「霊的な」とでも表現することも可能な世俗的ではない精神的な目標が人生においては必要になるのである
だがこれは何ら難しいことではない、まだ子供の頃に自分が何に最も興味を持っていたかを思い出しさえすればよいのだ、例えば子供の頃私は時刻表を見るのが好きだった、旅をしたり、遠くに行くことに憧れていたのだ、また中にはクリスマスの時期のイルミネーションを見るのが好きだったという人もいるかもしれない、そういう人は現実的ではない何か幻想的、芸術的なものに憧れているのであろう、子供は決して自分に嘘をつかない、だから子供の好奇心は大人たちを時に驚嘆させるのである
独自の対象を見つけ、それとの距離感をベスト(最もよい)な状態に保つ、これを人は幸福と呼ぶ
だから幸福のただなかにいる人からは迷いが感じられないのだ
彼は自分が何を好きであるかをよくわかっている、成功を意識する人の場合彼は故意に迷いを消し去るが、幸福を意識する人の場合そんなことをせずとも迷いの方から自然と消えていくのだ、したがって彼は自身に嘘をつく必要がない、これは実に大きなアドヴァンテージだ、幸福者はついに成功者の後塵を拝することはない、彼は自己完結しているのだ

手段と目的の置換、本来手段であるべきものが目的となりまた本来目的であるべきものが手段となる
なぜそうなるのか?
私はここにいわゆるトップダウンというものが孕むリスクの一端を見ることができるように思う
では、なぜボトムアップの方が望ましいのか?
それは一番下に基準を置くことで原点回帰が容易になり故に抑制的に物事を進めることができるからだ
抑制的、または引き際の見極め
これは「拡大」から「循環」への、「追求」から「分配」への、そして「効率性」から「多様性」へのこの21世紀の望ましい動きとその底辺において実によく通じている
限界への挑戦による新しい価値の創造が次の世代の人々のための道を造る
だがこの次の人々のための新しい道はある理念と矛盾するものであってはならない、それはきっと民主主義の理念をほぼそのまま踏襲する

それは人々に与えられるべき「チャンスの平等」であり、そしてもう一つはこれであろう

「その出自や属性に一切関係なく、その素養と能力によってのみその人を評価、判断する」

僭越ながらこの理念は両者伴にIoTによる未来予想図の一丁目一番地にあるべき理念とほぼ一致する

必要な時に、必要な量を、然るべき人に、然るべき報酬で
故にこうなる
この21世紀、効率性は同時に多様性を担保するものだけが価値を持つ
無駄を省くとはつまり可能な限り平等にということである、なぜならば、そうすることによってその市場への参入と退出がより自由になるからだ、だがここには一つだけ問題点がある、市場の活性化を目論んだ場合その時点での需要に最も適合したモノ及び情報を供給できる者(サプライヤー)のところに富が集中するということである、この富の集中はそこにおいてモノ及び情報の供給による「効率性」と「多様性」の両方が同時に担保されている限り続くことになるため、タイムリーなサプライヤーになりうるクリエーター(creator)は、まさしく時の人となる、そしてその結果生まれる貧富の格差の拡大は今後私たちが想像すらできない地点にまで達するかもしれない
この状況を改善するにはワンランク上のセレブリティになった者たちの積極的譲歩を待つしかないのであろうが、それが為されない場合は相対的に見て貧しい人々の絶望感はより深まることになるだろう
この書はすでにお気付きのように成功よりも幸福をより多く重視しているために、この貧富の格差の拡大について何らかの有効な提言をここですることは残念ながらできない、したがって環境問題と並ぶ深刻な問題が今現在そこに生じていることは認識しつつもそれについては黙認したうえで次に進むしかない、何卒ご了承願いたい

(5)

さて話をボトムアップに戻そう
ボトムアップにあってトップダウンにないものは何か?
一つはすでに述べた民主主義の理念であるが、今一つはこれであろう

夢または目標の適切な設定

適切な設定とはやや妙な表現だが、夢や目標をより有効なものとするためにはしかしこの認識が必要になる

捨てる

「捨てる」これは実は「孤独を受け入れる」とほぼ同義語である、夢または目標はすべての夢追い人が必ずしも平等に結果を残せるわけではないことが明らかなことからも、また夢も目標もその個人の個性を強く反映したものであることが容易に想像されることからも、夢追い人はどこかで現実と夢、目標との間に明確な線引きをしなければならない
夢を叶えるためには皆と同じ青春を歩むことはできないのである
夢を叶えるためにそれを捨てるとはつまり「普通を犠牲にする」ということである、普通とは安定のことであろうか、そして夢または目標とは自由のことであろうか、いずれにせよその両方を同じだけ得るなどということは現実には相当に難しいことは誰にでもわかっていただけるであろう、「安定」をとるのか「自由」をとるのか、たとえ十六歳の少年少女でもここでは厳密さが要求される、そういう意味では自分をある程度客観的に見られるようになる十七歳くらいになったら、彼(夢追い人)はどこかで現実との取引を迫られるということになるのかもしれない
きっとこういうことだ
100を犠牲にした者だけが100を得ることができる
だから「適切な設定」になるのである
ボトムアップは時に屈辱、また時に彷徨、だが最後には確信
この確信は「核心を知る」のことでもある
では何の核心なのか?
人生の核心である
夢はゼロからではなくマイナスから始まる、だから「孤独を受け入れる」になるのであるが(スタート地点が人によって異なるということ)、しかしそれができれば彼は彼だけに通用する法則を得る、そこではチャレンジがそれから生まれる数多の失敗を含めて他のすべてに優先されている、そしてその結果一番下から上を見上げる者だけが知ることのできるものがある
それはいってみれば六等星の輝きしか放てないもの

それは真実

少なくとも彼にとっての真実
だから人生には夢や目標が必要なのだ
真実とは?
普遍
普遍とは?

神とは?

善とは?
それはこれだ
永遠

ここに調和を見出すことはきっと難しいことではない、調和とは規則正しい循環のことであり私たちはその最もよい例を太陽と地球の関係に見ることができる
果たしてこの地球の四十八億年の歴史においてそしてこの惑星の任意の一地点において太陽が昇ってこなかった日など一日でもあったのであろうか?
私はここに神の完全なる善意を見ることができるように思う、たとえ人類が悪意をもって神により知恵を与えられたことに時に報いるのだとしても、その誤り(過ちではない)に神がホモサピエンスの絶滅をもって対抗しようとする気配が少なくとも現時点においておおよそ見られないのは神の理想に適う存在に私たちがなれる可能性がまだわずかながら残っているということなのかもしれない
もし任意の一個人の夢または目標のなかに普遍性がまったく感じられないのであればおそらくその夢または目標は比較的高い確率で叶うことはあるまい、多くの人々を納得させるだけの材料がそこにない場合つまりそこにあるべき普遍性が極端に少ない場合たとえ夢や目標を叶えたとしても彼は否定的な存在として歴史にその名を刻むということになるのであろう、神が今もって私たちを滅ぼさないのはそこにまだ希望が完全には失われていないということの何よりの証拠であり故に私たちは夢や目標が私たちに教える「なりたい自分」とそこにあるべき普遍性に含まれる善や調和との整合性を最大限図らねばならない、
甚だ僭越ながらここには人類の彼岸がある、無論これは人類の悲願にも通じるものであり、だからこそ私たちはただ生きるのではなく然るべき対象を見つけて生きることが重要になるのである
ここではすでに自由の問題が提起されている
自由とは「何もしない」ということではなく複数の選択肢の中から「それを選択する」ということである、故に自由とは選択の自由でありしたがってここに民主主義が出てくるのであるがそれについてはここで多くを私が述べる必要はないであろう、独裁の肯定はそこで下される決断のすべての責任を必ずしも選挙によらない一政治家の手に委ねるということになり、そこには手続き上の多くの問題が発生することが容易に考えられる
「なぜ彼だけが例外扱いされるのか?」
この答えは最終的にはたとえ初代が有能であったとしても、彼が成功すればするほどその恩恵に与る人々の数も増えるために、長期的には世界が大きなうねりに直面したときに本来政治に必要な「修正」や「微調整」が難しくなり、その結果社会の「浄化」が起こりにくい政治的体質になると考えられる、これは「これから生まれてくる人々」のことを相対的に見て軽視する結果にしかつながらずやや突き放した表現をすれば「今のことしか考えないという驕り」に権力そのものが覆われるということを意味する
故に自由とは何かと問われれば以下のように答えるしかない

自由とは「自己を理想的に規律すること」である

ここにも善的な対象を見ることができる、対象を知ることで私たちはここと対象との間をいわゆる「行ったり来たり」することができるために自然と複眼的になる、例えば歴史がそうである、歴史に”if”は禁物であるというがしかし歴史に”if”がなければ私たちは敗者からは多くを学ぶことはできないということになるであろう、歴史には当然勝者と敗者がいる、だが「行ったり来たり」の結果自然に身に着く複眼的な視点がそこに”if”を差し挟むことによって物事にはそれが如何なるものであれ複数の視点を持つが故に一つの論点があることを知ることができるのである、ここでは理性が本来そこにあるべき能力を上手に発揮して理性によって導かれた意識が極めて慎重かつ冷静な分析を時に広大な情報範囲を検証しつつ望ましい結論に向かって実にゆっくりと前進するのであろう
複眼的に考えるとは中、長期的に考えるということだ
したがってここでは「より速く」も「より多く」も排除され、「慎重であること」と「寛大であること」がより優先されることとなる
ここでのキーワードは「漸進」である
「漸進」は結果よりも過程を重視する、なぜならば「より慎重に」と「より寛大に」は結果の確実性を増すために手続きを重視するからだ、簡易な手続きによって下された結論でも一度公にそれが示されればそれは一定の効力を持つ、発言の撤回は容易でも失われた信用の回復はきっと相当難しい、だがその原因は何であれ発言権を持つ人々によって一度律せられた社会は、それがスピードを増した場合たとえそこに何らかの精神上の(つまり目に見えない部分における)欠損が時に多く生じたとしても簡単にはそれを修復できないであろう
ではそうならないためにはどうすればよいのか?

対象を持てばよい

「行ったり来たり」は最終的には身の回りのすべてに対する複眼的な視点を養うことになる、それは紆余曲折を経て善へとつながる
私は思う
複眼的にそして中、長期的に諸々の物事に接しようとした結果私たちの認識が到達するのはきっと「生きている自分」と「生かされている自分」との両方がほぼ交互に折あるごとに意識上に現れるいわゆる自分という存在の相対化の現象であろうと
これは間違いなく以下の認識を個のうちに生む

信仰

かなり本質的な考察の結果分析が描写を大きく上回っているが何卒もうしばらくこのまま読み進んでいただきたい
「生かされている自分」ここに認識が到るには「老い」の自覚または死線をさまようような文字通り生命の危機的な状況を数度経験することなどがその条件となるが、だが青春期の生命の躍動を経験した者であればその条件を満たすことで「生かされている自分」に辿り着くことができる、ここは「感じる力」の為せる業であり能力や知識はおそらくあまり関係がない、故に「若さ」または「健康」の喪失によって私たちは「生きている自分」と「生かされている自分」の両方を経験することができる、これは一人間として「成長する」や「いつまでも若く」を結果的にせよ体現させることになるので、ここに実は喪失が隠し持つ正の要素を私たちはある種の内省的な精神の動きの結果獲得することができるのである
喪失を含め私たちは負を知ることでその「両方を知る」ことができる、ここは第二章で述べるべき部分であるが、正と負は常にお互いがお互いの対象となりそしてここが重要なのだが拮抗した力関係のもとにあって初めて互いの能力を最大限に発揮することができる、そしてここは民主主義とも密接に関連している箇所でもある、つまり与党と野党の力は拮抗していなければならないのだ、なるほど自分が第一勢力となった場合、第二勢力との差を広げれば広げるほどそれが安心につながると考えるのは当然のことなのかもしれない、だが僭越ながらここに私は再びこの言葉を挙げることでそこにある種の批判を加えたいと思う

真実

すでに真実とは六等星の輝きしか放てないものだと書いた、ならばもしそれを確認したいと思うのであれば私たちは一定の緊張感をもってそれに対峙する必要があるのだ、無論目を凝らさなければ六等星の輝きを見つけることはできずまた都市のように光の洪水に覆われた場所では目を凝らしてもそれは難しいかもしれない
私は思う
私たちは実は前世代と次世代の間の橋渡しをしているその役割を負っているだけなのだと、前々世代のバトンを前世代が引き継ぎ、それを今現世代が引き継いでいる、だから現世代に任された務めは次世代にそのバトンを社会の劣化を最低限にとどめたままつまり何が起きても引き返すことができる状態を維持したまま引き継がせることだけであると
社会の劣化とは何か?
またここで民主主義が出てくる
独裁の否定は現世代が科学技術の進歩などを理由に本来次世代と共同で解決していくべきであるといえるような諸問題をある意味一方的に現世代だけで解決してしまおうと考えることの危険性の認識から始まる
ここには環境問題がまず入る、また人口増加に伴う食糧問題や環境問題ともリンクするエネルギーの問題も入る
言うまでもなく「天国に私たちはいったい何を持っていけるというの?」である
ここが永遠にわからない以上、そこにどのような進歩が起き開発が行われようとも現世代のいわゆる消費が次世代の取り分をわずかであっても侵食してはならない
ここでは火星などの太陽系の他の惑星や衛星におそらくは眠っているであろう資源についても同じことが言える、もし一億年後火星などにおいて何らかの生命体が生まれ育まれる可能性がわずかでもあるのであれば私たちはそれが可能であっても火星などに眠る資源に手を付けてはならない
ここは礼節の問題でもあるがそれ以上にプライドの問題である
私たちホモサピエンスはそのプライド故神に言い訳のできない行為を正当化してはならないのである
ここに信仰が再び登場する
なぜ信仰が顔を出すのか?
そこには理想があるからだ
それは誰の理想なのか?
神の理想である、だがもし神を私たちの対象と認識することができるのであれば、私たちは信仰の割合に応じて六等星の輝きしか放てない真実のかけらのようなものに気付くことができる
なぜ神なのか?
神とは普遍のことであるからだ
ここに善や調和への渇望のようなものを見て取ることは容易であろう
なぜそうなるのか?
負を知っているからだ
負を知ることで最終的には私たちは然るべき精神の運用の方法を知ることになる

それは小さく、柔らかく、そして下から上への精神の動きの確認

どうやらそろそろ第二章へと移らなければならないようだ、信仰が対象、つまり距離(=長さ)であるならば負の肯定は洞察、つまり重さである、私たちは信仰によって対象までの距離を知り、洞察によって真実の深さを知るのである、つまりそれぞれが縦軸または横軸となって個々人それぞれがその置かれた環境に伴う諸条件をクリアした結果、オリジナルの地点をそこに見出しそこから最も理想的な未来予想図をそこに描いていくのである
だからこそそのための地図またはビタミンとしての夢または目標が必要になるのである

続きは第二章で述べよう

未来人への手紙

未来人への手紙

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-19

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  1. 第一章  対象、長さについて(1)
  2. (2)
  3. (3)
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  5. (5)