てんとう虫の涙は日に輝いた
雪が溶けだして、それでも気温はまだ五度にしか達しなくて、コートを羽織ってアパートを出た。線路脇の駐車場まで歩いていくと、日産のフェアレディZに乗り込んでエンジンを温めた。送風口から温かな空気が胸元にあたって、少しだけ気持ちが和らいできた。日曜日ということもあって、まだ午前7時の夕張は誰も姿を現してなくて、しんと静まりかえっていた。そこに電信柱にカラスが止まって、突然鳴き声を、谷間に響かせて、初めて自分が孤独から抜け出していたことを実感するのだった。友市(ともいち)は札幌に向けて車を走らせると、ラジオをNHKに合わせて、ディスクジョッキーが軽快で軽やかな語り口で、今、評判となっているドラマについて語っていた。しかし友市はそのドラマを見たことがなかったので、チャンネルをFM局に変えて、クラシック音楽を流させ、それに合わせて口笛を吹くのだった。俺は今日、札幌に出て、いったいどんな体験をするのだろう?きっと多くの人が行っているように、たいしたこともないデパートでそんなに興味もない洋服を手に取ったり、スターバックスでコーヒーを飲みながら、書店で買った小説を読むのだろうか。人生はあまりにも短く、それでいて、今という時間は長く感じることもあって、自分で今、何をしたらよいのか困ってしまうこともあったが、それでも時間は前に進んでいって、少しずつ、自分の体が老化していくことに不思議な感興を覚えながら、俺もいつか、死ぬんだなと、現実を直視して、これからは自分の生き様を、もっと重要視しなければいけないと、そう単純に思うのであった。人生はもっときらびやかで、充実したものであるべきだけど、どうやって、それを温かくて、きめ細やかなバームクーヘンのような重層的なやりがいのある生活を送ることができるのだろうかと、疑問に思い、それに答えを出すことができなくて、ふふ、と、思わずひとり笑いながら、国道を札幌に向けてひた走るのだった。
札幌の中心ともいえるススキノまで来ると、コインパーキングに車を止めて、ホテルに併設されているカフェに向かった。店員に朝食ランチを注文して、席に着くと、窓ガラス越しに太陽が自分の身体に丁度当たるように日が差してきて、心も温かくなってきた。コーヒーを飲みながら、鞄から、筆記用具のボールペンと大学ノートを取り出すと、慎重な手つきで、今日の日付を書いた。店員が朝食セットを運んできて、友市は、ありがとう、と店員に最大限の笑顔を振り向けた。店員はにっこりと営業的だが、それでも、他の人の心をつかむ、微笑みを浮かべて、去って行こうとした。そこで友市は、
「お名前は何と言うんですか?名札がありませんけど」と、とっさにその女性店員に声をかけた。
「高橋と言います。よくある名前ですよね」店員は自分に関心を向けてくれたことに対して、感謝しているようだった。
「そうですか、よろしかったら下の名前も教えてくれますか?」
「愛と言います。人を愛するのアイです。これもまた、世界中に沢山ありそうな名前ですけど」
「いいえ、とても素敵な名前だ。両親の愛情が伝わってきます。高橋愛さんか、わたしは下村友市といいます。世界にもそう、多くは無い名前かもしれません。でも自分の名前だから、けっこう気にいってはいます。でも、なぜそんな名前を付けたのかはいまだに謎のままです。何故両親にそのことを今まで聞かなかったのか、自分でも不思議です」友市は、とっさに、しかし、優しい手つきで左手で高橋愛の右手に触れた。
「とても温かい手ですね。突然すみません。ほとんど赤の他人なのに、こんな行為をしてしまって」
「いいえ、とても自然な行為のような感じがします。正直言って、とても嬉しいです。どうもありがとうございます。人にこんな風に触れられたのは、きっと初めてです。二十五年間生きていて」
「わたしも初めてなんです。こんな風に人に触れるなんて。でもとても高橋さんが言うように、自然な行為のような気がします。なんだか不思議な感じがします。でもまるで、自然界で広い空間に雀(すずめ)が一匹空を飛んでいて、そこでもう一匹の雀に出会って近づくように、とても、自然で、心地よいような気持ちです」友市は財布から名刺を一枚取り出して、高橋愛に渡した。彼女は両手で名刺を受け取った。そして、名刺に書かれている情報を読み取った。
「カメラマンなんですか?」
「うん、そうです。夕張の自然や、荒れ果てていく人工物を撮影しています。とても興味深いんです。こんなに興奮を誘われる造形はありません。愛さんは夕張に行かれたことはありますか?」
「いいえ、ありません。わたし、神奈川県出身なんです。生まれも育ちも神奈川の川崎で」
「そうなんですか。それでは就職で札幌に?」
「はい、ホテルマンに憧れていて、就職しました」
「ぜひとも今度夕張にいらしてください。高橋さんならきっと気に入ってくれると思います。とても落ち着くところですよ。近くに温泉施設もあって、ゆっくりできます。名刺に書かれている電話番号に連絡してください、夕張を案内しますよ」
「ほんとですか?ありがとうございます。ではぜひともお願いします。わたし、幸福の黄色いハンカチという映画を見たことがあるんです。その舞台が夕張ですよね。一度行ってみたいと思っていたんです」
「そうですね、わたしもその映画何度も見ています。何回見ても飽きない映画です。そのロケ地も見に行きましょうか」
「ええ、それでは、わたし仕事に戻らなければいけません。どうも、ありがとうございます」そう言って高橋愛は去って行った。友市はその美しい背中を眺めながら、なんて素敵な人なんだろうと見送った。鞄に入っていた、夕張を写した写真をテーブルの上に並べて見ながら、ほんと、夕張は孤独で寂れていて、なんて美しいんだろうと、感動して、思いをはせた。
食事を済ませると、会計を終わらせて、店の奥で仕事をしていた高橋愛に右手を挙げて挨拶をすると、彼女もそれに気づいて手を挙げ返した。ホテルを出て、デパートに向かい、洋服を何着か買ってから、書店に入った。外国人作家の棚を見て、それから、写真集コーナーに立ち寄って、アイドルの写真集の隣にある風景写真集を見ていると、自分の写真集があって、それを手に取ってみた。夕張を題材にした、五冊目のアルバムだった。しかし、カメラマンとして、それだけで生活することは難しく、夕張にある喫茶店で住み込みで働いて、何とか生活を維持しているのだった。
写真集を棚に戻して書店を出ると、鞄に入れていた一眼レフカメラを持って、札幌の街並みを撮影していく。ビルで覆われた、その姿は、ここが札幌であっても、東京であっても、仙台であってもおかしくない風景に違いなかった。大通り公園に向かい、テレビ塔の近くまで歩くと、ベンチに座り、道行く観光客の人たちを眺めた。どの顔も表情は明るくて、本当に幸せそうであった。それは、原住民には無い表情だ。その一点だけで、つまり、笑顔だけで、観光客か、地元の人かを判断できる。表情の度合いが柔らかであればあるほど、遠い地からやってきたと思わせるものがあるのだった。
夕張の風景を撮影しながら、友市は懐かしいような原風景を撮影しながら、感動というか、寂しさと、初恋の時の甘酸っぱいような、ときめきを併せ持ったような気持ちを抱きながら、ファインダーを通して、景色を切り取っていくのであった。それは自分の、まるで過去を振り返るような気持ちであったし、これから先、自分が老化していくという、そのものを写し取っているようでもあった。
ベンチに座りながら、観光客が通り過ぎてゆく姿をぼーっとして見ていると、隣のベンチに浮浪者らしき人が座っているのに気づいた。それは自分の生き写しのような、自分の双子の片割れであるかのような姿であった。友市は思わずカメラでその浮浪者を撮影した。それは自分では意識していないほど自然と撮れたものだった。浮浪者は撮影されたことに気づいていなかった。友市は何故、そんな自分に似た浮浪者をカメラを通して自分の心に刻んだか、分からなかった。きっと、カメラを通さなくても、多分、何十年もその心の内に、一つの思い出として、記憶することはできたであろうと知っていたからだ。その浮浪者は何処にも視線を向けていなかった。きっと、己の心の内を凝視していたのだろう。すると、その視線はテレビ塔の最上部を見るように、じっと注がれた。それから、ふと気づいたように、友市の姿を捉えて、にっこりと笑うのであった。友市は鞄の中に入っていた写真を一枚取り出すと、その浮浪者に近づいて手渡した。
「よかったらどうぞ、あなたに差し上げます」
「これは夕張だね、わたしにはわかるんだ。むかし炭鉱マンとして働いていたからね。その時の夕張は活気があって華やいでいたんだよ。ところが今では寂れて、汲々としている。でもそれも時代の流れというものだ。ほんと、あの頃の風景は懐かしいばかりだ。ありがとう、そんな思い出を振りかえさせてくれて」すると、浮浪者はその皺(しわ)くちゃな顔から、涙をこぼしながら、にっこりと笑った。その光景は、友市が浮浪者に渡した写真の題名そのものだった。友市は大きく息を吐き、老人の手を握りしめた。そして、鞄に入っていた、沢山の夕張の写真を、その老人に手渡した。
「よかったら、お荷物にならないなら、受け取ってください。一枚一枚にはあなたの原風景がおさめられています。きっと、いっぱい涙を流すでしょう。でも、いっぱい、喜びに溢れるでしょう」
友市はその老人の、将来自分が迎えなければならない姿をそこに見て、昆虫が涙を流す姿を思い浮かべるのであった。
てんとう虫の涙は日に輝いた