浦島草綺譚

浦島草綺譚

浦島草幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。


 通勤途中のとある駅の近くに大きな雑木林がある。仕事場から帰る電車の窓から毎日のように見ているのだが、必ずといっていいほどなにか考えごとをしており、振り返り後ろに見送っている自分に気付く。何か棲んでいそうな暗い雑木林で、いつかその中を散策し、変わった羊歯でも見つけようとは思っていたがどうしてか通り過ぎると忘れてしまう。雑木林があるのは特急が止まらない駅で、駅名も覚えていない。
 高尾のマンションに住み、新宿のデザイン事務所に勤めるようになって一年、植物の絵を担当していることから、スケッチブックを抱えて山歩きをしたり、植物園に行ったりすることは多い。だが、なかなか通勤途中に電車を降りて、散策するということはしない。仕事仲間にその雑木林のことを話したのだが近くにそんな雑木林のある駅など知らないなあという返事をもらっただけである。
 八月も終わろうとしている暑い土曜日であった。その日は仕事も休みであり、ふとその雑木林のことを思い出して、写真機とスケッチブックを持ってマンションをでた。高尾駅の路線図で、降りる駅名を確認しようと思ったのだが、記憶があいまいで、はっきりしない。関西の芸術系の大学をでてすぐ、東京に勤めることになったので、都心はもちろん、新宿と高尾を結ぶこの電車の沿線についてもうとい。
 調度うまい具合にきた特急に乗れた。そういえば、いつも事務所からの帰りに見かけただけで、行きの電車の窓から見たことがない。林があるのは調布から明大前の間の駅である。下りの電車の左側の窓でいつも見ているので、座っていたのだが、調布から右側のドアの脇に立った。
 ところが、目を凝らして景色を見ていたのに、とうとう見つけられず、明大前に着いてしまった。しかたがない。明大前で下りて、八王子行きの各駅停車に乗り換えた。同じように、左側の入口脇に立って窓の外をながめた。止まる駅を確認しながら見ていると、はっと思ったとき、あの雑木林が後ろに遠ざかるところだった。
 次の駅でドアが開いたので、あわてて降りた。エスカレーターに乗って改札からでると、階段を下り、駅名も確認せず、駅舎から外に出た。夏の日は熱い。
 線路沿いに道がある。その道沿いには小奇麗な家が軒を連ねている。足がひとりでに動き、新宿方面に向かって歩いていた。通り過ぎた林に行くのだから、考える必要も無いだろう。ところが線路脇の道は見通しがよく、林のようなものは見えない。
 少し先の緑色の洋館から、子供がでてきた。女の子のようだ。前のほうを歩いていく。上りの電車がやってくるのが見えた。あっというまに電車は迫ってきて、ゴーっという音と共に、熱い風の渦を巻き起こして過ぎていった。ふと前を見ると、女の子の姿が見えない。隣の家にでも入ったのかと思って、女の子の出てきた緑の洋館の前を過ぎると、目の前がふわっと大きなもので塞がれてしまった。なんだろう。と見ると、大きな林が唐突に目の前に現れた。その時は、あ、やっぱり本当にあったと、ほっとしたのを覚えている。
 私は鬱蒼と茂った木々の間から中を覗いた。太陽の光が下まで届かないのであろうか、中は黒っぽく静まりかえっていた。林の縁に伸びている砂ぼこりをかぶった木立が中に入るのを拒んでいるかのように、私を見下げている。
 いきなり、冷たく湿った空気が私の顔をぬすっと撫で回した。思わず身を退け反った拍子に帽子が脱げ、スケッチブックを取り落としそうになった。それにしても外のこのぐわんぐわんとした熱さに比べてなんと冷え冷えしていることだろうか。
 林の中は背丈の高い下草で被われており、中に入るにも、道らしきものが見当たらない。躊躇していると、ぴちゃっと弾力のある物がズボンの上から私の足に押しつけられた。私はよろっとよろけ、足が縺れて林の中に身を躍らせていた。なんだ、頭が真っ白になった。犬の鼻が押しつけられたのだとわかるまでかなりの時を要した。転ぶまいとして、手を不格好に振り回わしている私を、茶色の老犬が上目使いで見ている。かなり大きな犬である。所々薄く禿てこそいるが毛繕いは綺麗になされており、若い頃はさぞ見事なものであったろう。グレートデンに日本犬の血が半分混じっているといった感じだろうか。老犬は大きな羊歯の葉に乗っていた私の帽子を咥えると、姿勢をとりもどした私の脇を擦り抜け、生い茂る羊歯の中へ後ろ姿を見せて歩いて行ってしまった。犬の目が黒でも茶でもなく、青っぽく、いやむしろ緑色に見えたのは空の青と羊歯の緑に惑わされたためだろうか。
 犬ががさがさと羊歯をかき分けていく。帽子を取り戻さなければ、と私は犬の後を追って歩き始めた。犬がこのような湿った空気を好むわけもないだろうに、なぜ入ってきたのだろう。住処でもあるのだろうか。犬は急ぐわけでもなく、草をかき分ける音が、気持ちの良いリズムを刻んでいる。あの緑色のバケットハットは卒業旅行で行ったフィンランドで買ったものだ。私は犬の後を追った。
 しばらく歩くと、砂を被って灰白色を呈していた私の靴は、草の汁で茶色の地が現われた。回りの羊歯は思っていたよりは背丈があり、いや羊歯ばかりではなかった、キクやセリ科と思われる名も知らない雑草たちも私の下半身を覆うほど成長している。そう言えば、電車の沿線のはずだが、頻繁に通るはずの電車の音も聞こえない。
 私は前を見た。前を歩いているはずの犬の姿は見えない。がさがさと揺れ動く羊歯の葉が見える。
 犬のたてる音と私の歩く音だけが雑木林の中に和して響きわたる。
 足元からぼんやりと乳色の霞が漂い、冷たく私を包みはじめた。振り向いてみると、さほど歩いたとは思われないが、今入って来た林の縁が霞んで見える。そういえば蝉の鳴き声も鳥の声も聞こえない。林の中を歩けば必ず往生する蜘蛛の巣すら一つも見ることが出来ない。やけに静かな林である。
 私はただ帽子を取り戻そうと犬を追いかけた。
 犬の歩くリズムは変らないのに追いつかない。大きな雑木林だ。方向を失ったら出る道がわからなくなるかもしれないと思ったが、よく考えるとそんなに大きな林であるはずはない。犬は林の中であれ外であれ、自分の住処に行くはずである。
 林の中では大きな木が根を張り、太い枝をたらしている。その中でも一際目立つ、そそりたつ一本の?の木に行きあたった。根はごつごつと地上に這い出して生きもののように羊歯をけ散らしている。
 その木を迂回して、さらに中に進むと、そこを境にして、おやっと思うほど景色が変わった。羊歯が主だった下草が大きな笠をゆらんゆらんと揺する浦島草の群落になった。もう花の時期は終わったはずなのに、どの株にも花がついている。浦島草はどこでも見られるが、ここのものは倍程も背が高く大きい。花が私の目の高さにまでくるものまである。私はこの花が好きで良くスケッチをしたものだ。濃紫色の壷のような花の中から長い一本の蔓のようなひげが出ており、そのひげがやぶれた笠のような葉に絡みつき、ふらふらと揺れ動く様は、笠をさしてこの世に迷いでたものに似た感があり、子供の頃はお化けの花だと騒いだものである。本当は釣りをする浦島の姿からこの名が付いたようである。
 歩いていくと、どうしても私の通った後では浦島草の花が頚の骨を折った首の様にうなだれてしまう。ところが犬は浦島草たちを乱すことなく進んでいるようだ。
 この花の根には大きな薯(いも)が出来ているはずである。花の様子から毒があると思い込んでいたことがあったが、本当に毒があるかどうか知らない。浦島草の仲間の蝮草には毒があると思ったが。
 随分大きな群落である。いつまで続くのだろうかと少し気味悪くなってきた頃だった。前方の木立の陰に建物らしき物が見えて来た。もしかすると、犬がすんでいるところかもしれない。
 歩を早めて木々の間を抜けると、古い社のある苔に覆われた広場にでた。社の朽ち掛けた屋根には草が生えている。犬はきっとこの中にいると思い、社の回りを歩いてみた。ところが入口も窓もない。木の壁は土埃にまみれ、はめ板の境など見分けがつかない。いつごろ建てられたものか想像がつかないがかなり古い。立ち止まっていると、壁から白い紐のようなものがでてきて首筋に巻き付いた。冷たいと思って手で払うと、するっと社に消えていった。土埃が舞い上がった。なんだ。
 首を上げると、社の向いの樹齢千年にもなろうかと思われる杉の老木が眼にはいった。木の上の上のほうに小さな紐にしか見えないが、恐らくかなりの太さがあろうと思われる注連繩らしきものが掛けてある。社の中になにが祀ってあったのか分からないが、昔はここで大儀な催しが行なわれていたことは想像に堅くない。浦島草神社、そんな言葉が頭の中をかすめた。
 風が止まっている。私は腕時計を見た。もう五時近くだ。駅に着いたのは朝まだ早い頃であった。いったい、どのくらい歩いたのだろうか。手巻きの古い時計で、よく狂うが。
 それにしても、おかしい、私は帽子をあきらめて戻ろうと、来た方向に足を向けた。その時、浦島草の群落の中からかさかさと音がすると茶色の耳が見えた。何時の間にか、犬より私の方が先に社に着いてしまっていたようだ。ところが、犬が顔を出すのを待ったがなかなか現われない。そればかりか、とうとう音もしなくなってしまった。
 私の思い違いなのかもしれないと、戻るつもりで、もう一度社に眼を向けると。社の前で紫色のワンピースを着た、おかっぱ頭をした丸顔の少女が大きな黒い目で私を見ている。私が気がついたことを知ると、少女は目を反らして表情も変えずに杉の木に向かって歩き始めた。
 こんなところに女の子が一人で何をしているのだろう。こんにちわと咽まで声がでかかった時だった。少女が振り向いた。私を見上げ、目じりを下げると、ぐぐぐと声にならない笑いをもらした。
 その笑い顔を見た私は、冷たいなめくじが頚筋をぬるぬると這い上ってきたような身震いを感じ、からだじゅうの皮膚が一瞬に縮んでしまった。足が震え、手を顔にもっていくとまだざらざらしている。腕を見ると鳥肌が消えていない。
 少女の薄く開かれた口の中は真っ黒な虚空であった。歯がない。いや真っ黒な歯だ。御歯黒をしている。御歯黒を施すなど今の時代にありえない。ましてや十か十二ほどの子供である。
 鉄漿付けは早くても十八歳前後の結婚直前に行なわれ、既婚者の証しのようなものであったはずである。小さな子供にも施したこともないわけではないらしいが、当時としても一部の階級のそれも例外的なことであった。
  私は少女を再び見た。少女の目はあまりにも澄みすぎていて子供の目とは思われず、といって大人の女の潤んだ目ではない。林の入り口で出会った老犬の目を思い出した。似ている。犬と少女。
 少女がすっと背を向け、折れそうに細い足を引きずるように歩き始めた。
 少女は杉の老木の下に立った。そのまま私に背を向け、樹に向き合い、つぶれたような声で呟き始めた。呟く重苦しい声は地面を漂い、やがて唸りになり、少女の手がゆるゆると伸び、杉の樹肌に爪を立てた。
 少女は幾度か腕を伸ばし、幹に爪をたて苔をむしり取る。杉の幹の表面には幾筋もの爪の痕がつけられていく。杉の樹に覆いかぶさるようにして、粗い息ずかいを始めた。口を大きく開け胸を大きく動かし折れてしまいそうな喉がひくひくと引攣っている。
 その時、私は少女の腹部が異様に大きいのに気が付いた。細い足がよく支えることができると思われる程大きい。その腹が杉の幹に擦り付けられている。少女は手を止めると、杉の樹に顔を埋めるようにして肩で息をしている。草の匂がぷーんと鼻を突いた。風が少し出てきたようだ。
 私が我に返り、少女の方に向かおうとした時だった。少女の体が杉の根元に崩れ落ちた。おかっぱの頭が風に揺れる浦島草のように右へ左へと動き始めた。私はまた立ち止まっていた。
 少女の頚の振りが激しくなった。それにつれてどこからか、ぎぎー、ぎぎー、と戸の軋む音がきこえてきた。私が振り返ると社の埃に塗れた木壁が大きく二つに開いていくところであった。
 ぽっかりと開いていく薄暗い社の中には天井から垂れ下がった茶色く煤けた二本の布紐がゆるやかに動いている。おや、なにかいると目を凝らして見ると社の暗がりの中に茶色の老犬が私を睨むように毅然と座っていた。そばに私の帽子が落ちている。
 やがて、犬は少女の後ろ姿に目を移し、笑った。鼻の根元にしわを寄せて人のように笑ったのである。少女の手が杉の根元から離れ、社のほうに向き、うわむきにのけぞると低い唸り声を上げた。それに和したように犬の呻き声が始まった。
 犬の声は私のからだの、腹の中へぐうんぐうんとくいこんでくる。老犬は目を閉じて口を半ば開き首を後ろに傾けている。
 犬は後ろ足で体を持ち上げると、前足を天井から吊るされている布紐にからませ揺れ始めた。目の前に芝居の舞台が広がっているように、私は現実から浮遊してその劇の中へ何の不思議もなく入り込んでしまっていた。
 少女が閉じていた目をかっと見開くと、弓のようにのけぞりざま黒い歯を露わにして金切り声を上げた。地に擦りつけられた頭が緑色の苔をむしり取る。体を支える細い腕に力がはいり、少女は両足を開き大きく膨らんだ腹を波打たせる。少女の叫びが間断なく続く。
 社の中では腹を膨らませた老犬の粗い息ずかいが洩れる。女たちの匂があたりに満ち、草の匂と混じる。この匂はどこかで嗅いだ経験がある、そうだ浦島草の匂だ。
 くっくっくと、痛みを耐える少女に木立から日が差し込み、引攣る顔を浮かび上がった。私の下腹までがずきんずきんと痛む。
 杉の老木につけられた少女の爪痕がナメクジの通った跡のようにぬるぬる濡れ始め、液を垂らし始めた。社では犬も顔を歪め、歯をむき出してうなっている。
 犬の体が不自然な動きを始めた。
 その時、杉の老木の太い幹がみしりと軋み、息づくように膨らみ始め、緑色の大きな鰐の膚のようになり、やがてぶよぶよの蛙の腹の皮膚のような光沢と張りがでてくると、じわじわと緑色の液をもらし始めた。太い幹がぎーと捩れるたびに、緑色の雫が飛び散り、少女の上に振り注ぐ。
 雫が降り掛かるたびに少女の口から叫びがおき、林の中に響く。私の腹はしくしく絶え間なく痛む。私は腹を抑えてしゃがみ込んだ。痛い。
 顔を上げると目の前には杉の老木が立ちはだかり枝の先まで波打たせ、ゆっさゆっさと揺れていた。枝の擦り合う音がしいしいと津波のように私の耳に押し寄せて来る。緑色の樹液が私に降り掛かり私の手足が緑色に変わっていく。
 座頭虫が私の足にはい登って来た。太ももを通り腹に来た。細長い足をせわしく動かし私の顔をめざしてやってくる。もがこうとしても体を動かすことが出来ない。そんな気配を感じとったのであろうか座頭虫はあわてて足を高く持ち上げるとそそくさと逃げていってしまった。
 回りの空気がやけに湿っぽくなってきた。顔をなでていく風はぴりぴりと放電を始めている。シャツの下を汗がすーと筋をなして流れ落ちる。
 老犬がふいと息の詰まったような声を上げた。
 「ぐぐぐ ぐぐぐ」
 声だ、私は少女に向かって声をかけようとした。しかしそれはグーという唸りにしかならなかった。犬の叫びとどこも違わない。少女は私の声に気付かない。
 老犬が私を見た。私は犬の方を振り向いた。犬は血走った目を私に向け、顔を涙でぐしょぐしょに濡らしてきばっている。
 仰向けにのけぞっている少女が私を見た。ゆがんだ顔が私の腹をひねる。私の腹がきりきりと痛む。私は少女から目をそらし地面に寝転ぶと空を見上げた。明るい青空の中に薄く汚れた雲がぽかんと浮かんでいる。苔と幹の匂、羊歯の胞子の舞う空気、緑色の樹液、揺れる枝、私の目はくらくらと霞む。
 下腹部にきりが差し込まれたような痛さが走った。私は海老のように体を捩った。老杉の二つに分かれた根元がみしりと動いた。太い枝がぐぐぐと持ち上がり、幹に亀裂がはいると更に濃い緑色のどろりとした液が流れ始めた。高い枝から葉が落ち、私の顔に振りかかる。
 空が赤くなってきた。痛い。杉の幹からは白く濁った液が吹き出し始めた。私はその液の中でむせた。稲妻が光り、少女の脇に赤い固まりがころがり落ちた。
 時間の感覚はない。痛みが去り、木立を見上げると青空に白い雲が浮かんでいる。
 私は起き上がり、少女を見た。丸まった少女は私に背を向けてぴくとも動かない。社の戸はもはや閉じられ、私がここに来た時と同じように埃にまみれ立たずんでいる。
 しばらくすると、少女の上半身が動いた。むくりと起き上がると、私を見て黒い口を開きほほ笑んだ。両手に抱えられた赤い固まりがある。立ち上がるとゆっくりゆっくりまるで夢の中にいる生きもののように歩いて来る。少女は私の目の前に立った。裸の赤子が私に向かって差し出された。そして少女は黒い口を開けて笑った。
 私は声をかけた。しかし、ぐっとしか声は出なかった。
 少女はなおも赤子を私の胸にに押しつける。
 私は赤子を受け取っていた。赤子は手の中で猫のように蠢(うごめ)くのだが、おぎゃあとも声を上げない。
 私はどうしたらいいのだろう。
 手の中の赤子がいきなり大きな目を開けた。私は驚いて取り落としそうになった。しかし、赤子はすぐに目を瞑り寝てしまった。
 少女は私に背を向け、無言のまま浦島草の群落の中へと入っていく。私の手の中にあるのは生まれたての赤子である。このような生きものを抱いたことのない私は壊してしまいそうで怖い。力が入ってしまいそうだ。あわてて少女の後を追った。
 赤子は小さな手をこそっと動かしている。臍の緒の切り口に黒くなった血がこびりついている。どこからともなく現われた青い蝿が、赤子の臍の緒に止まろうとしつっこく飛び回わる。私はそいつを追い払うのに気がきではない。
 浦島草の群落の中をどのくらい歩いただろうか、雑木林の切れ目に出た。背の高い芦が生い茂り、水が流れる音がする。少女は芦の間を足早に進んでいく。
 私の手の中で赤子はむずむずと動く。手がしびれてきた。
 芦の間から黒い古屋が見えた。壁板は朽ち、緑色の苔がこびりついている。
 少女はがたがたと戸を開け中に入った。
 私も後に続く。角が壊れた敷居を跨ぐと、土間になり六畳程の部屋の中は擦り切れた畳が敷き詰められている。
 少女は土間に古びて茶色になった木のたらいを置くと、七輪の上の煮え立つやかんの湯を注ぎ入れた。バケツをとり私の脇を擦り抜けると外に出た。やがて重そうに水を汲んで来るとたらいに注ぎ、突っ立っていた私を見上げて言った。
 「子供をいれますの、手伝って下さいません」
 おとなびた低い声が私を身振るいさせた。どのようにしたらいいのだろう。とまどっている私に少女の両手が差しだされた。わたしは反射的に赤子を少女の手に委ねた。
 少女は赤子の両手と頚を抱えて湯の中に静かに沈めていく。赤子は気持ちが良いのであろう、小さな口を開けて笑い顔をつくっている。肌が次第に赤くなっていく。
 「さあ、あげますわ。そこのタオルを取って下さらない」
 少女は目で箪笥の前に重ねてあるタオルを示した。
 古屋の中をあらためて見回わした。生活に必要と思われる道具は一通り揃っている。
 少女が私の思いを断ち切るように言った。
 「タオルを早くしてくださいませね」
 少女は私の手からタオルを抜き取ると、
 「さーきれいきれいね」
 と、なれた手つきで赤子をタオルに包み、はたくように水気を取った。抱えて畳の上にあがるとオシメをあてがう。
 「お父さま、子供の顔を見て下さいな」
 少女は私に手招きをする。
 私は糸に操られる人形のように、すやすやと寝息をたて始めた赤子の顔をのぞき込んでいた。お父さまと呼ばれた私は奇妙な顔をしていたに違いない。
 「私が産みましたのよ」
 少女が不思議そうな顔をして私を見た。
 「お父さま、見ていらしたのでしょう」
 「お父さまって」私がつぶやくと、
 少女は目をそらしながら言った。
 「あなたよ」
 何が起きているのか私に理解できるわけがない。寒気を感じ、町に戻らなければという思いが戻ってきて立ち上がろうとした時、赤子のかんだかい鳴き声が古屋の中に響き渡った。
 「少し抱いていて下さいな」
 少女の低い声が私に行動をうながした。赤子は少女に運ばれてきて私の手の中に収まる。赤子はすぐに泣きやむと、私を見てなぜか笑った。
 少女は胸の釦を外してはだけると、小さな乳を露にした。赤く熱くなった乳首から黄色い液が滲み始め、やがて雫となって畳の上に滴り落ちた。
 少女は無言のまま、ふたたび私から赤子を受け取ると、赤子の口を乳首に近づけた。赤子は乳に武者ぶり付き、生まれたばかりとは思えない力で乳を吸いこんだ。
 自分の力がからだからすーと逃げ出していき、何処かへ飛んでいってしまいそうだ。
 少女の目は赤子の顔に吸いつけられている。
 「お父さま、七厘におやかんをかけておいてくださいな」
 私は言われるがままに、黒く煤け凹みのあるやかんに、水瓶から杓で水を汲み、炭火の上に置いた。くべられている炭は真っ赤に焼け、部屋の中が臭う。腕時計をみると九時を少し回っている。なのに外はまだ明るい。そうか、手巻き時計は狂っている。
 私は天井を見た。天井板の隙間から黒い木立の影がほのかな月の光にふらふらと揺れている。また窓から外を見る。真っ暗な夜になっていた。時などどこかにいってしまった。
 
 天井の鴨居からつるされた石油ランプの光の下で、私は少女に付き添って寝ていた。少女の脇では生まれたての赤子が乳を欲しくて鼻をならし、やがて大声で泣き始める。
 少女はそのたびに上体を起こし、赤子を抱え上げると甲斐甲斐しくおむつを取り替え、乳を露にする。私は見ないように横をむく。疲れているにも係わらず一晩中眠りが浅く、幾度となく目があく。少女に話かけようかと思ったりもしたが、少女は赤子に乳を与えるとすぐに強い睡魔に襲われるとみえ、前後不覚の眠りにおちいってしまう。おかっぱの頭がときどき、びくと動くだけである。
 やがて夜も白々と明け始め、天井の隙き間から見える木立が緑に輝き始めた頃、私は突然の眠りにおちていた。
 どのくらい寝たのであろう、頭の方からかたかたという物音がきこえてきて、目が覚めた。首を反らしてみると少女が古惚けた鏡台にむかい、横ざまに座って髪に櫛をいれている。寝たまま少女に目がすいつけられていた。櫛が少女の手に吸いついているように髪の中にもぐりこんでいく。少女の手の柔らかな動きはどうだろう、熟しきった女ですらこのように完成された動きは出来まい。
 「起こしてしまいましたわね」
 少女は梳(くしけず)る手を止めることなく私の方を向くと微笑んだ。
 私は起き上がりながら少女に尋ねた。
 「君はいくつ」
 少女は片手で五と三を示した。八である。赤子がくすんくすん言い始めた。
 少女は赤子を抱き上げると乳をふくませた。
「お父さま、水を汲んできてくださいません」
 私は昨日少女がしたようにバケツをもつと戸を開けた。朝の光が部屋の中に差し込み少女と赤子の姿が橙色の霏の中に霞んでしまう。
 「川の縁はすべりますから気を付けてくださいね」
 少女の声が後ろから聞こえた。
 外に出ると目に入ったのは緑色の目をした老犬であった。老犬は少し離れた木の根元に横たわり、上半身を起こしてスフィンクスのように私をみつめている。目が合った。犬の目が私をその場に縛りつける。
 それでも私は重い足を一歩一歩前に進め、犬の脇を通り過ぎた。犬は動こうとするわけでもなく、私を見ているわけでもなく、ただ古屋を見つめているだけである。入り口を振り返えると少女が立っている。赤子を胸に抱き犬を見ている。犬はのそりと起き上がると少女の脇に歩み寄り、いきなり少女から赤子を咥え取ると、身を翻して芦の中に走り去ってしまった。
 少女はなにもなかったように立たずみ、はだけた胸を服で覆った。
 その時、私の頭の中で、戻るという声が聞こえた。私も走った。全く犬とは反対の方に走っていた。芦の群落から雑木林の中に飛び込んだ。何も後を追って来る気配はない、しかし後を振り向くのは怖い、一心に走った。あの社でもいいどこか見たところに出ることが出来れば。
 浦島草ががさがさと倒れていく。額から汗が吹き出す。息切れがして足が止まってしまった時である。前の浦島草の茂みからいきなり少年が現われた。
肌の色が透き通るように白い。青い半ずぼんから細い足がのぞいている。
 少年は私を見上げた。
 「母が待っています」
 「君は」
 「母が待ってます、急いで下さい」
 少年はそう言うときびすを返して歩き始めた。
 私は後に従うことになった。
 林の中はますます蒸し暑くなり、浦島草の匂が鼻を突く。
 やがて社に着いた。社の前の壁がぽっかりと洞穴の入り口のように開かれている。
 「中へお入り下さい」
 少年は私を中へ入るように促した。
 薄暗い中で黒い影が動いた
 「お帰りなさい」
 少女の声が私を向かえた
 辺りが明るくなった。少年がランプを吊るしている。
 「朝のお食事が出来ていましてよ。こちらに」
 社の真ん中に丸い卓袱台が据えられ、白い器に芋が盛つけられている。
 少女も少年も机の前に座った。
 「どうぞ」
 赤い目をして微笑んだ少女は私に座るように促した。
 「おいしいですわよ、どうぞ」
 机の前に座ったが、どうしてよいかわからない。
 「お父さまが召し上がらないと、この子もいただけませんわ」
 一つ手に取り口に入れてみる。ほろ苦い。
 少年もおずおずと手を伸ばし、一つとると口にもっていった。少女は黒い歯をみせ、笑みを浮かべて、少年を見つめる。
 「お父さまに似ていますでしょ、この子」
 私は無言だった。
 「これは浦島草の根ですの」
 少女が言うと、少年は、
 「浦島草の根は毒じゃないのですよ、蝮草だってね」
 ともう一つ口にもっていった。
 少女は、
 「もう召し上がりませんの」
 と湯を茶わんに注ぎ私に差し出した。
 甘い茶である。
 「赤ちゃんはどうしたの」
 「あら、この子じゃないですか」
 少女は少年を引き寄せると自分の膝に抱き上げた。
 自分より大きい少年を赤子のように膝の上で揺すり始めた。
 「おかあさん」
 少年は少女を見てあまえるように体をあずける。
 おかっぱの少女は体を揺すりながら歌い始めた。
 「ひとつ、独寝、浦島草
  ふたつ、文月、遅すぎて
  みっつ、密なし、すすき蝿
  よっつ、夜なべで、閻魔虫
  いつつ、居着きの、白拍子
  むっつ、迎火、みな燃やせ」
 少年の体が芋虫のようにのたくり始める。
 「ななつ、泣く子は、浦島草
  やっつ、矢がすり、やぶれがさ
  ここのつ、こくりこ、眠り草
  とうは、遠吠、耳隠せ
  じゅういち、数珠玉、耳飾り
  じゅうに、戻るか、浦島草」
 少女の膝の上では赤子が足を激しく動かし泣き声を上げた。
 おかっぱの少女は赤子を揺すり、私に向かって大きく裂けた真っ黒な口を大きく開け、ぐぐぐと笑った。
 回りが暗くなっていく。
 少女の姿だけがぼうーと光の中に浮き出ている。
 少女は私を見て、はーとため息をつくと、真黒な口の中に赤子をほうり込んだ。赤子は見る間に少女の口の中に消えていく。
 少女の姿も霞んできた。
 「お父さま」
 少女の最後の声がきこえた。薄明るい光は小さな玉になって私の足元に二つころがっている。干からびた浦島草の根の固まりのようだ。
 目の前にふらふらと揺れる二本の布紐が天井から垂れ下がり、空(くう)を舞う。
 闇が迫って来た。自分の心臓の高鳴りが首の血管を伝わり頭に響く。四つんばいになり手探りで回りの床を確かめていく。
 手に触れたのは犬の骨だ。霞んだ目に見えたのは大きな犬の骨だ。犬の腹の辺りに子供の骨が一つ横たわっている。手を伸ばし、子供の頭蓋骨に指が触れると、コロンと転がった。転がった頭蓋骨が、さらにその隣のもっと小さな子供の骨に当たる。赤子の骨だ。赤子の骨はほこりを上げてぐずぐずと崩れた。
 浦島草のげっぷが込み上げてくる。眠気が襲ってきた。手が動かない。足も動かない。私は真っ暗な浦島草神社の社の中で、どさっと倒れ、犬の骨の脇に横たわった。
 少女と赤子と犬の骨の脇で永遠の眠りについた。
 土埃が舞い上がった。私の上にそれは降り注ぎ、私は埃に埋もれてしまった。
 やがて、時が経ち、私の体から浦島草が芽生える。浦島草は大きな真っ白な花をつけ、長いべろをだして、ゆらゆらと揺れながら社を訪れる者を待つことになるのである。

「お化け草」所収、自費出版33部 2018年 一粒社

浦島草綺譚

浦島草綺譚

林の中に迷い込む、ウラシマソウの群れに囲まれ古い社が現れる。そこに女の子が一人、苦しく悶え赤子を産む。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-18

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