甘い劇薬
匣は凡そ金属製であり、其れを左ポケットに携帯するのが男の常だった。中からは甘さが馥郁し、些かの幽棲を赦す。煩瑣な俗世からの離脱は、言い知れぬ快楽を齎すのだ。男は度々此の匣を開いては、匂いを楽しんでいた。況や肉荳蒄である。男が此れに執着する所以は、芳香だけではない。死への接近でもあるのだ。甘い抱擁の中、気を抜くと晦冥の底へ引き摺り込まれてしまう。其んな綱渡りを愉しんでいた。
幾許の年を過ごしたであろうか。厭世的思考に苛まれ、此の世を去ろうとした其の時、男は或る一点について疑念を抱いた。其れ迄幾度となく死への接触を実行してきた男は、依然として俗世でのうのうと暮らしている。男は悟った。此の抵触は、肉荳蒄の無毒性を示している。総て己の勘違い、根も葉もない噂を盲信したに過ぎなかったのである。
男は匣を開けた。最期は、無味乾燥な種子の馨だったという。
甘い劇薬