斜陽
「二人ともやめてー!」暁闇を劈き木霊する女の声。それはやがて金切り声と変わり、男の発する断末魔の悲鳴と重なった。悲鳴が止むのと同時に、西瓜の割れるような図太い破裂音を中心に、静寂の面紗を破門状に揺らす。
情状酌量は認められたが、ひと一人の尊い命が失われた事実に償いの日々が幕を開けた。
『それで、ノリコとはどうなの?うまくいってる?』
「そんな事を聞きたくて呼び出したのか?近況報告なら女同士の専売特許だろ?」
『もう直ぐパパになる話は聞いてるわ。しかし下手な言い回し方ねぇ、そこがタカオらしいっちゃタカオらしいんだけどね。そんな事より、実は相談があるの、ヤスオの事なんだけど…』
「大学中退してから、変な連中と連んでたらしいが、もう手は切れたんだろ?」
『うん、繋がりは無いみたい。でもね、昔の仲間とか云う人たちがバイト先に現れたり、内勤すれば電話を掛けてきたりして、まるで嫌がらせのように付き纏うの…それで職場に居られなくなるって彼悩んでるみたいなの。』
「そうか…ノリコとの仲を取り持ってくれたリッちゃんの頼みだ、近いうちに会ってみるよ。気晴らしに居酒屋にでも誘ってみるかな。」
『そうしてくれると助かるわ。』
「ああ、そうするよ。じゃあまた。」
二人は別々の方向へ歩き出す。タカオは自分の子を宿すノリコを変に不安がらせないよう伝書鳩のような暮らし振りに徹していた。勿論、リツコと会う事も事前に報告済みで了解も得ていた。
「あれ?お前、ヤスオの女じゃねーか?ヤスオをどこに隠したんだ?」
『知らないわよ。』
「知らないで通るワケないだろ?さてさて、ヤスオちゃんを呼び出してもらおうかな。」
『だから知らないって!』
「なーに、携帯のボタンを押すだけでいいんだよ、何も無理な頼みじゃないと思うがねぇ」
「リツコ乗れ!」
駐車場から出てきたタカオが絡まれているリツコを見つけ叫ぶ。
『タカオ!』
けたたましくドアを開け乗り込むリツコ。タカオは車を急発進させた。
「しつこいなぁあいつ等、まだ追って来やがる。ま、プロの転がし屋の腕に敵うワケ無いって事を思い知らせてやるか。」
『ねぇ前みて…』
追っ手を確認していたルームミラーから前方に視線を移すと、ハイビームをつけた数台の車がセンターラインを跨ぎ猛スピードで迫って来る。
「チッ!仲間を呼びやがったか…リッちゃん、妙案があるんだが、いや、説明は後だ!」
タカオの車はタイヤを軋ませモーテルに飛び込んだ。
「リッちゃん、ごめん」
『いいの、警察署よりここの方が安心だわ。監視カメラもあるし…、第一、男とラブホに入ったとなれば、あの人たちだってヤスオと切れたって思うわよ。』
「そう云う事。と、簡単に済めばいいんだけど…。」
中学高校の6年間、タカオとヤスオはバッテリーを組んでいた。女房役のヤスオはタカオの左腕から繰り出される球種豊富な球を一度も後逸した事が無かった。タカオはヤスオの動体視力の良さに安心し切っていた。それにヤスオの組み立ての的確さにシャッポを脱ぎ、我を通す事なく構えたミットからミリ単位もズレない投球を熟(こな)した。
タカオとヤスオ、二人の名前は高1の頃からプロのスカウトマンの間でも評判だった。しかし、野球とはチームプレー、高1高2と打点の少なさから甲子園を逃した。高3の夏、地区予選でさえ新人戦紛いに3年生の抜けたチームが目立つ中、実業高の強みか気心知れた繰り上がりのチームで挑むこととなった。
ヤスオの読みは冴え渡り、一回戦では完全試合をやってのけた。二回戦・三回戦を完封で勝ち進む。勢いづいたチームを抑え込むチームは現れず、すんなりと甲子園への切符を手にした。
「リッちゃん、ヤスオに電話しといた方がいいんじゃない?」
『そーね…。』
促され、リツコはヤスオに電話を掛ける。
『アッ…ヤっちゃん、帰り遅くなりそうなの…うん…いや、何にも無いよ、友だちと話し込んじゃって、うん、昔話で盛り上がってね、気が付いたらこんな時間になってて…うん、そろそろ切り上げて帰るから…大丈夫だって、心配しないで大丈夫だから。』
普段気に話しをして電話を切ったリツコ。タカオはそんな普段過ぎるリツコの話し振りに疑念を持った。日常の会話が成り立つ相手ならば、わざわざ俺のところに相談に来なくとも二人で解決できるだろうと…。
「どうだった?」
さり気無くタカオが問う。
『凄い剣幕だった…』
ベッドに腰掛け俯くリツコは、両手で包んだ携帯を焦点の定まらぬ目で見つめ呟いた。
「コーヒー…入れようか。」
そう云うタカオに対し、ヤスオの愚痴は云うまいとリツコは思うのだった。
「ほら、なんちゃってドリップコーヒーできたよ。」
『なんちゃってコーヒー?』
「そ、ワンパックづつペーパーに包まれた挽きたて豆ってあり?既に酸化してるだろって話。」
『そーか…』
「そ、あの夏、ひと試合ひと試合挽きたて豆みたいに新鮮だったら負けはしなかった…。今はさ、先発・中継ぎ・抑えって救援(リリーフ)投手がいるけど、あの頃は背番号1を背負った投手が地区予選から全国大会まで全試合マウンドに立つ、それが伝統でもあったんだ。
洗濯して泥汚れの落ちたユニフォームに包まれてはいても、中の人間は出涸らしのコーヒー豆みたいなもの…味も香りも出せやしない。」
『甲子園の初戦で肩を壊したんだっけ?』
「ああ、地区予選が終わり全国大会まで日にちがあったからマッサージに行ったんだ。投球には影響しない程度の軽いチクッとした痛みが気になってね。そしたら鍼灸院を進められ…うちじゃ分からないから大病院に行けって云われて…
MRIを撮ったら靭帯が少し切れていると云われた。でも、切れた靭帯は再生しないらしく他の靭帯を移植するしかないと云われ、試合が終わったらと考えていたんだ。そうそう、靭帯と腱の違いってわかる?」
『どちらも筋じゃないの?』
「ははは…、靭帯は骨と骨を繋ぐもので腱は骨と筋肉を繋ぐものなんだ。どちらもレントゲンには写らないから関節の稼働域や痛みで判別するらしく、俺の場合は靭帯だけじゃなく腱も切れかかっていたのが診断できなかったってワケ。それでぶん投げたもんだから、先に靭帯が切れて関節がガタガタになり、次に腱が切れて肘が曲がらなくなった…。背中にのし掛かる重圧からか痛みは感じなかった。
俺もヤスオもプロでやって行けると思ってた。それが二人の間が疎遠になる切っ掛けかな。」
『嫌なこと思い出させちゃってごめんなさい…』
「いいよ、事実なんだから。俺、ヤスオには悪いことしたと思ってる。俺の肩が壊れなきゃ、ヤスオは今頃プロのマスク被っていたはずなんだ。ヤスオをグレさせた原因は俺にもあるんだ。」
『…』
タカオの吐き出す煙草の煙は間接照明の裏側に入り込み、二度と漂うことはなかった。
「あいつ等いい加減に諦めただろう…。」
リツコに返事を求めるでもなく独り言のように呟くと、タカオは個室の窓を開けて辺りを見回した。時刻は午前2時を過ぎ、煌煌と路地を照らしていた飲食店街のネオンも消え失せ、夜のしじまに包まれていた。
「そろそろふけるか」
『私は?』
「心配するな、家まで送り届けるさ。」
『サンキュー』
二人はエレベーターに乗り込むと最上階のボタンを押した。このモーテルでは、無銭宿泊防止のため最上階が駐車場になっていた。最上階に着き、エレベーターから降りたリツコはタカオの腕に手を回した。
「何やってんだよ。」
『いいじゃない、場所が場所なんだから。雰囲気よ雰囲気。』
タカオはノリコの彼氏、そんな事は構わなかった。いや、ノリコはタカオの子を宿していて、二人には幸せが約束されている。その幸せに向かってゆっくりだが着実に歩むふたりが羨ましく思えるのだった。リツコはヤスオの友だちのタカオに、自分の友だちのノリコを紹介した。もしこれが…もし、ノリコがヤスオと付き合っていてノリコが自分とタカオを引き合わせてくれたなら、私が幸せへの階段を登っていたはず。そんな仮想的な現実を、腕を組むと云う細やかな仕草で感じたかった…その思いがタカオの腕に手を回させたのだ。
それは嫉妬かもしれない、でも目の前にいるタカオはヤスオとは比べものにならないくらい頼り甲斐がある。二人しか居ないこの場所で、ほんの少しの時間、甘えていたかったのだ。
『二人だけの秘密…』
リツコは小さく呟いた。
「え?何か云った?」
『何でもない…』
リツコはクスッと微笑んだ。5~6回瞬きをする程度の時間で二人はタカオの車に近づく。タカオがオートロックを解除しウインカーが二回点滅した瞬間、暗闇から男の声がした。
「タカオー、久しぶりだなぁ…」
『ヤっちゃん!』
声の主はヤスオだった。
「ヤスオ、こんなとこで何してんだ?」
「それはこっちの台詞だろ?え?タカオ。」
夕方の連中ならともかく、ヤスオが現れた事に頭が混乱するタカオとリツコ。
『ヤっちゃん、何でここが分かったの?』
「何で?よく云うよまったく…。昨夜お前が電話を切ったあと心配になって街に出たんだよ、お前を探しに。そしたら昔の連れが居てさ、俺はシカトしたんだ。そうシカトした。すると奴ら変な事を云い出したんだ、女がラブホに入って行くのを見たってな。俺は奴らを疑ったさ、罠に嵌めようとしてるんじゃないかと…そして奴らの顔を見たんだ、罠なら顔に出る、以外と正直なんだよな奴ら…罠ならニヤケんだよ顔がさ。それが違ったんだ、何て云うか…俺を憐れんでやがった!奴ら、この俺を憐れんでやがったんだ!それでこの場所を教えてもらったのさ。持つべきは友、ワルはワルにしか分かんねーそんな関係なんだよ。
さぁてタカオ、説明して貰おうか!」
そう云うと同時にタカオは殴り倒された。
『やめて!ヤっちゃん!』
「お前は黙ってろ!」
再びタカオは殴り倒された。ヤスオは渾身の力を込めタカオを殴った。しかし、タカオは無抵抗だった。
「タカオ!何で手を出さない!罪滅しのつもりか?気に入らねーヤロウだなぁ!」
タカオは無抵抗だった。両手は握り拳を握っていたが無言で殴られ続けた。
「タカオ!お前が肩さえ壊さなければ!お前が肩の調整をちゃんとやっていれば!俺がどんな思いで大学に進学したか分かるか?俺は大学なんかどうでも良かった。俺はお前とプロになる事だけを考えて野球を続けてきたんだ。何とか云えコノヤロー!」
ヤスオはタカオに馬乗りになり殴り続けた。だがその力も次第に弱まりヨロヨロと立ち上がると、タカオの襟首を掴んだまま屋上の端に揺らぐように立ち竦んだ。
『ヤっちゃん!何する気!』
ヤスオはリツコを無視した。いや、リツコの声など聞こえてはいなかった。その場でタカオを掴んだ手を解き、罵り始めた。右手で投げろとか、肩の手術は成功したのに意気地無し…とか、そして罵りはタカオの女に及んだ。それは侮辱だった。タカオにとってこれ程の侮辱は無かった。自分の事なら何と云われようが構わないが、ノリコに対する侮辱は赦す事が出来なかった。タカオは顔を上げヤスオを睨んだ。
「ほぉーヤル気になったか?殴り返してこいよ!ほら!殴れ!殴って来いタカオ!」
ーータカオ、俺はお前のコントロールに惚れ込んでんだ。組み立ては俺がやる、お前は俺が構えたミットめがけ寸分の狂い無く投げ込めばいい。そうだ!次はここだ!タカオ、決め球はここだ!迷うな!渾身の力を込めて投げ込め!タカオ!ーー
ヤスオは両手を自分の腹の前で重ねた。それはキャッチャーがピッチャーの球を受けるように…。
ドスン…。タカオの左拳がヤスオの構える両手にめり込んだ。
「タカオ…肩、治ってるじゃないか…ありがとうな…今日までありがとう…」
ヤスオの体は屋上の柵を超え宙に舞った。
『主文、被告人を懲役7年6月に処す』続いて判決理由が読み上げられた。粛々と読み上げられる判決理由は、罪状認否の時みたいに熱い血潮の微塵も感じられないものだった。現場のモーテルから提出された監視カメラに録画された映像は、タカオにとって有利な証拠品と思われた。だが思いとは裏腹に、裁判員に悪い心象を与えるものとなったのだ。
被告であるタカオと第二当事者リツコは、警察署で嘘偽り無く供述した。その供述をもとに監視カメラの映像を観れば、確かに辻褄が合う。それに対し、逮捕するのは警察官の役目、取り調べるのは検察官の役目と云われるように、検察は警察の供述調書に異論を唱え、不倫発覚の末の犯行と推測したのだ。
監視カメラの映像には、モーテルに入るタカオの車・エレベーター内の様子・通路を歩く姿・帰りのエレベーター内の様子・駐車場での行動、と、映っていたのだが、音声の録れないカメラだった。無音のまま映像を観れば、どちらとも取れた。だが、裁判員のひとりが帰りのエレベーターから降りてからの行動に疑念を抱いた。弁護側は、個室でコーヒーを飲み相談を受けただけと強く主張したが、二人が居た個室を警察官が現場保存に駆け付けた時には、清掃を終え次の客が入っていた。清掃員にも参考人として聴取したが、まぐわいの跡を確認する趣味は無いの一点張り、シーツはダスターシューターでリネン室に落とされ、既に洗濯槽の中だった。
結局、モーテルの滞在時間と腕を組み歩く姿から検察側の主張を認めた上で、計画性は無く突発的な犯行として減刑し、判決が下された。
タカオが拘置所に収監されると、リツコはほぼ毎日のように面会に来た。ヤスオの初七日が過ぎ四十九日が過ぎても、リツコはタカオの元へ足を運んだ。最初の頃は、よく泣いていたが、月日が経つに連れ涙を見せない日が増えて行った。タカオは気づいていた、リツコがタカオを頼って来ている事を。タカオは考えた、リツコからヤスオを奪った事やノリコの事、それから生まれくる子どもの事。ある日、タカオは面会に来たリツコに云った。
「リッちゃん、もう俺等のことは忘れなよ。」
『なぜ?もう面会に来るなって云ってるの?』
「そう…そう云ってる。」
『なぜ?私が良ければそれでいいんじゃないの?」
「リッちゃん、リッちゃんはまだ若い。これからいろんな出会いがあるはず。だから、過去に囚われいつ迄もこんなとこで立ち止まってちゃいけないんだ。」
『…』
リツコは無言で面接室を出た。タカオはこれでいいと思った。出来もしない気休めは、相手を深く傷つけるだけだと考えてリツコを遠ざけた。
『ママー!ねぇ見て見て!キャッチボールのおじちゃんがテレビで歌ってるよ!』
のど自慢に出場し眉間に皺を寄せて歌う男を指差し、尞が云った、
「キャッチボールのおじちゃん?」
尞の声に家事の手を休めノリコがテレビに目を遣ると、これからサビに入ろうかとする感情移入の瞬間に合格の鐘が鳴り響いた。
ーー今日はどちらから?
「不知火町から来ました。」
ーージヨーリノイエさんの「それだけしか言えない」熱唱でした。意中の方に想いは伝わったでしょうか?
「さぁ…でも伝わったと信じています。」
ーーだと良いですね。
タカオとノリコが初めて会ったのは高3に上がる春休み。リツコが歌の上手い男を紹介するからとノリコをカラオケボックスに誘い出したのだ。タカオは照れ臭いのかなかなか歌おうとはせず、ヤスオと野球の事ばかりを話していた。時折、身振り手振りでノリコやリツコに野球の話しをしてくるタカオ。背が高く爽やかな表情のタカオにノリコは好感を持った。
『歌、上手いんだって?』
「そんな事ないよ」
タカオとノリコが不自然に言葉を交わした時、リツコが選曲した歌の前奏が流れ出し、タカオは仕方なさそうにマイクを取る。
それだけしか言えない
ジョーリノイエ
画面に映るタイトルと歌手名、まったく聞き覚えのない歌だとノリコは思った。前奏が終わりタカオの歌が始まる。画面には歌詞が映し出され、それを読むノリコはタカオの声に聞き惚れた。そして、この歌詞のように想われたいと願った。タカオが歌い終わると、その対象がタカオであればと考えていた。
「ねぇ尞くん。何でこのおじちゃん知ってるの?」
『夕方になると公園に来て、僕とキャッチボールしてくれるおじちゃんだよ。』
勤め人の母親に代わり、近所のママ友に連れられ公園で遊ぶ尞。女の子が多いためか、いつも一人遊びだった。母親に与えられた柔らかなケンコーボールを壁にぶつけては、つまらなさそうに夕暮れを過ごしていた。そんなある日、取り損ねたボールが公園のベンチ近くに転がって、男の足元で止まった。男はタカオだった。
『おじちゃん、ボール取って!』
「キャッチボールの相手は居ないのか?」
『ママ仕事だし、忙しいし、いつも疲れてるし…』
「よーし!ほら、受け取れ!」
タカオはボールを拾うと尞に緩く投げた。
『おじちゃん、もっと強く投げても大丈夫。ちゃんと取れるからさ。』
タカオは、前よりもほんの少しだけ強く投げた。
『おじちゃん!ちゃんと投げなきゃ練習になんないよ!』
こんなやり取りが暫く続き陽が暮れ始め、ママ友が近づいて来た。タカオは軽く会釈をし「またな」と背中で告げながら立ち去った。
『おじちゃん、またね。約束だよ。』
タカオは後ろ向きのまま左手で返事をした。
タカオが投獄され、ノリコは一度だけ面会に訪れた。産まれる子どもが男の子で予定日が5月5日、端午の節句にちなみ名前は尞とする事、尞「りょう」それは篝火「かがりび」とも読み、節句の飾り付けに一対の篝火を置き警護と灯りを役割に持つ。転じて人の世を照らす暖かな男になれと願いを込め命名したと云う。そして、サヨナラを告げ去って行った。ノリコは口にこそしなかったが、お腹の子を犯罪者の子どもにしたくなかった。自問自答を繰り返した結果の判断だった。タカオはそうなる事は予想していた。だが、はっきりとした言葉で聞きたかった。そうしなければ、望みを捨てきれないからだ。タカオは獄中からノリコに宛て手紙を書いた。しかしそれは受取拒否の横版が押され送り返されてきた。何通出しても返事は横版だった。タカオは考えた、封書では無く葉書ならば手にした瞬間目に入るはずだと…。
「子どもは無事に産まれたのか?ノリコが一番不安な時期に、そばに居てやれなくてすまない。それから、子どもにケンコーボールをオモチャのひとつに与えて欲しい。僕が出て来たらキャッチボールが出来るように…。」
一縷の望みを託した葉書も、次からは横版のハンコが押され送り返されるようになった。いつからか横版は、宛先不明に取って変わられた。
タカオは出所すると、元の職場に戻った。タカオの勤める運送会社の社長は、体裁や格好付けではなく、分別のある大人とみたら前科等に囚われず広く雇用する性分だった。タカオののど自慢の録画の日が近づくと、出勤扱いでカラオケボックスに向かわせ歌の練習をさせたりもした。
タカオは深夜の定期便に配属され、毎日同じルートを走っていた。いよいよのど自慢が放送される日の未明、ノリコがのど自慢を見てくれる事を心で願った。福岡県と熊本県の県境に差し掛かり、あと2時間で帰社出来ると気を引き締め乍らも、夕方の公園を想像していた。もしノリコが放送を見たならば、二人して公園に現れるのでは無いか…いや、放送など知らず、息子ひとりで壁にケンコーボールをぶつけているのだろう…。いずれにしても、今日は早起きして公園に行こうと、配送途中に買ったケンコーボールを見つめ心が逸った。
県境を過ぎると長い下り坂が始まる。右は山肌、左は断崖の緩やかな右カーブに差し掛かる時、その手前の路面が濡れているのに気付いた。タカオは排気ブレーキを掛け速度を控え目にした。トラックの前輪が濡れた路面に差し掛かると遠心力で左側に滑り始めた。横転を避けようと左にハンドルを切る。スリップした時はスリップする方向にハンドルを切るのが基本だ。と、突然グリップを取り戻しトラックは右に傾き、そのまま左側のガードレールに持って行かれる。このままではガードレールを突き破り崖下に転落してしまう。タカオはハンドルを右に戻す、その時再び後輪がスリップし始めた。トラックの傾きは復元する事なく進行方向だけは保っていた。やがてトラックは捩れに耐え切れず、運転席を下に横転してしまった。幸い交通量の少ない時間帯でもあり、事故に巻き込まれた車両はいなかった。どれくらいの時間が経過しただろう…、横転した弾みで抜けた燃料噴射ポンプの配管から滴り落ちる燃料がポタポタと顔にかかりタカオは我に帰った。
『タカオさーん?事故ったんですか?』
タカオは声のする方を見た。だが滴る燃料と滲む血が目に入り、明暗以外判別がつかなかった。それでもタカオの名前を呼ぶ相手に、通り掛かった運転手仲間だと思い助けを求めた。
「ああ、路上のオイルか何かにハンドル取られちまって、このザマよ。悪いが警察呼んでくれないか。」
『任せときなって、困った時はお互い様だ。んで、どーする?救急車も呼んどくか?霊柩車の方が手っ取り早くていいかもしんねーなぁ…。』
タカオは考えた。この状況下でそんな冗談吐いてしまう運転手仲間なんて思い当たらない…こいつ一体誰なんだ…。そんな謎も直ぐに解けた。男の方からペラペラ喋り始めたのだ。
『タカオさん?俺が誰なのか考えてるんでしょ?一度だけ、そう8年くらい前に一度だけ会った事のある俺ですよ。忘れちまったんですか?オタクは忘れても、俺は忘れるワケにはいかないんだよ。ほら、目を見開いてよーく見て見なよ。』
タカオは自分の手の感覚を確かめた。右手は地面に叩きつけ使い物にならなかった。僅かに動く左手で、手探りに雑巾だかタオルだか分からない布切れを掴むと、ベトベトになった自分の顔を拭った。それは拭うと云うより、布切れを掴んだ手に顔を左右に降り擦り付けるようなものだった。
ボンヤリと男の顔が見えたが見覚えのある顔では無かった。
「おたく誰よ。」
『ったく、ラブホの前であんた等を取り逃がした俺だよ。』
「そのお前が俺に何の用だ?ヤスオは死んだ。それで終わりだろーが。」
『タカオさん、あんたなーんにも分かっちゃいない。あのラブホ、監視カメラがあるのは知ってるよね?裁判に持ち出した代物だ、知らんとは云わねーよな。ラブホの玄関先にも監視カメラが2台あって、俺等があんたの車を挟み込んだところがクッキリ映っててよ…そうだタカオさん当番弁護士(国選弁護人)付けたでしょ?あー勿体無い、私選弁護士ならば事の起こりであるラブホの玄関先のビデオを証拠品として出しただろーに。割れたんでしょ?不倫か逆上かに…。ラブホの使用目的がハッキリすれば、判決も違ってきたんじゃないの?はは…手遅れだけどさ…ふはは…。話は逸れたが、ヤスオが転落死した現場の監視カメラに俺等が映ってた、それって生活安全課にとってはタナボタみたいなもんでさ、直ぐさま俺等は別件で逮捕された。警察署内の縦割りの成せる技だよまったく。クスリの売買で目を付けていたヤスオと近くに居た俺等、叩けば何でも出るって踏んだんだな生活安全課は。そんで俺等が鉄格子に入ってる隙に家宅捜索かけたんだよ事務所に。事務所には留守番がひとり、まだ未成年だった。場数踏んでない未成年がだ、機動隊連れて防弾チョッキ着た私服警官が集団で来てみろ、どーぞどーぞと事務所に通すわな。下手踏んだのは俺等だが、そのキッカケ作っちまったのはタカオさん、あんたなんだよ。俺はさ、ケジメつけなきゃなんねーの。相場はエンコか腕一本、腕一本てーのは行きすぎだが、俺、あんた殺さにゃ気が済まんのよ。わりーね。』
「話しは終わったか…」
『強がんなさんなって、どーせあんた、もうじき終わるんだ。』
「いや、そんな意味じゃないんだが…」
男はタカオの言葉に耳を貸さず、誰かを手招きした。
『殺れ…』
それはタカオの耳にも届いた。
『あんたタカオさんての?あの赤い点滅、なぁに?まさか自動消化装置?まさかね、そんなの無いよねぇ。』
まだ若く声の軽いくわえ煙草の男がタカオに話し掛けた。
「赤い点滅?まさかお前、煙草吸ってるのか!」
『俺の云ってる赤いってのは…まあいいや。タカオさん、トラック乗りなら知ってるよね、軽油って直接火を着けても燃えない事。』
そう云うと、若い男は火の着いたままの煙草を漏れた軽油溜まりに落とした。煙草はジュッと音を立てて消えた。
『ふふ…ビックリした?あれ?タカオさん目が良く見えないの?そりゃあ残念だ。面倒だから説明はしないけどさ。』
若い男はタオルを取り出しそれにライターの火を着けた。坂道を流れる軽油の先に火の着いたタオルを置き、その周りに新聞紙やら杉の枯れ枝やら燃え易い物を集めた。
『タカオさん、悪く思わないでね。あの日の留守番、俺なんだわ。』
若い男は、左手を広げタカオに見せて、そして笑った。
『じやあね、タカオさん。』
タカオの意識は飛び始めていた。薄れゆく意識の中で、タカオは車内に転がるケンコーボールを掴もうと懸命に左手を伸ばした。伸ばしては力尽き、また伸ばしては力尽きる。温められた軽油は揮発性が増す。坂道の先にあった火は、次第にトラックに近づく。
『おじちゃん、ボール取って。』
薄れゆく意識の中に尞の声が聞こえ、タカオは目を見開いた。
『タカオ!バックホームだ!トスしろ!』
甲子園での一回戦、靭帯は切れ肩の関節がギシギシと悲鳴をあげていた。ヤスオは思っていたーーもう勝負どころではない、早くタカオを休ませなければーー当たり損ねのボテボテのピッチャーゴロ、タカオは素早いフィールディングでボールを拾うと、ヤスオのミットに手首のスナップを効かせ放った。
ビーッ…ビビビビビッ!
タカオが放ったケンコーボールはドライブレコーダーに当たった。ドライブレコーダーとは、ある一定の振動を感知すると、その前後15秒間の映像を記録する装置である。記録を開始した合図がピー音である。
「あいつらやっぱり馬鹿だわ。若い方の男の顔はくっきり映っているはずだ。
ヤスオ、待たせたな。キャッチボールしようか…お前、覚えてるか?小学生の頃、ケンコーボールの一番柔らかい球でキャッチボールした時、取り損ねて額に当たりベソかいてたよな…ヤスオ…」
「尞くん、パパに会いたい?」
のど自慢を見終えたノリコが問い掛ける。
『うーん…、ママが居るから大丈夫だよ。』
「キャッチボールの相手、欲しいでしょ?」
『うーん…、キャッチボールのおじちゃんがいるからいいや。』
「じゃあ、キャッチボールのおじちゃんに会いに行こうか。」
『うん!賛成!』
二人は買い物を済ませ、公園へ出掛けた。
『おじちゃん、早く来ないかなー』
尞は、いつものように壁に向かってボール投げをして遊んだ。ノリコはブランコに腰掛けると、真新しい左利き用のグローブを両手で胸に抱きしめ、短く切り揃えた髪を風に靡かせ、タカオが現れるのを待った。
飽きたのか、尞が両手で空に放り投げたケンコーボールは、秋晴れの深い青に吸い込まれ二度と落ちては来なかった。
『ママ…僕のケンコーボール、お空に引っ掛かっちゃった。』
「あら、キャッチボールのおじちゃんが新しいケンコーボール持って来てくれるわよ。」
『うん、そうだね。おじちゃん早く来ないかなぁ…』
ノリコは、遊び疲れた尞を抱きかかえブランコに腰掛ける。ノリコの左手に包まれて寝息を立て始めた尞は、真新しい左利き用のグローブを大事そうに小さな両手で抱きしめていた。
ふたりは暖かな釣瓶落としの赤い陽に包まれていた…。
斜陽