水膨れ
ぱしゃり、という音すらも立てなかった。ほんの一瞬のうちに、そして静かに、私の手の甲に在った水膨れは弾けてしまった。
私の不注意が原因であることは明らかだった。シャワーを浴びた後、鈍った体をほぐそうと腕をぐるりと回したのだが、その場所が良くなかった。洗濯物を放り込むために使っていたかごの淵に、大胆にぶつけてしまったのだ。私はもっと周りを見るべきだったし、それの危ういまでに柔らかなことを、もっと大きく考えてやるべきだったのに。何といっても、数秒前まで在ったそれは、三島から千葉までの間を共に旅してきた仲であり、あの春の麗らかな休暇を思い起こさせる唯一のものだったのだから。
私は弾けてしまったそれを見て、思わず顔を覆った。
シリコンのように弾力を持ち、ピンクグレープフルーツのように透き通った色をしていたそれは、今や何に例えることも出来ないような姿になっていた。強いて例えるとすれば、月のクレーターだろうか。いや、やはり、それは何にも例えることは出来ない。それはただの水膨れの跡であり、一つの傷に過ぎなかった。丸く切り取られ、失われた私の古い皮膚と、生成されかけていた新たな皮膚。淵からじわりと滲む真っ赤な血と、留まる場所を失った血漿。愛着すら持ち始めていたそれは、弾けてしまった途端、醜くなってしまった。
はがれてしまった古い表皮を丁寧に取り除いていると、虚しく、それでいて悲しかった。今日話をした女子高生の顔が浮かぶ。彼女は若かった。ほんの数年しか年が離れていないようであっても、女子高生とそうでない者の差は大きい。彼女は人生初の火傷を負った私に、自分が過去に火傷をした時の話をしてくれた。傷が残らなかったという話だった。私はその時は安堵したが、水膨れが弾けた今、それは彼女が若かったからではないか、という不安の波が押し寄せてくるのだ。私の場合、もう傷は治らないかもしれない。肌を引っ張って無理に縫い止めたような、醜い跡が残るかもしれない。別にそのこと自体は特に問題は無いはずだった。と言うのも、一般的にそうであるように、私の体にも、数え切れないほどの古傷たちが存在するからだ。しかし、今はどうしてか、そんな些細なことが気になって仕方がなかった。私の肌は、もう元に戻る力なんか無いのではないだろうか。綺麗になることのない肌を、私は一生見ていかなければないのだろうか。
今も火傷の傷は、私の手の甲に在る。人に診てもらったところ、湿潤療法で傷を出来るだけ残さないように出来ると言われた。しかしそれは絶対的な確証を示すものではない。残るときは残るし、運が良ければ残らない。もし残ったとして、私はその跡を見る度に思うのだろう。「私はもう若くはない」と。そう考えるだけで、私は泣けてきてしまうのだ。
水膨れ
10代じゃないってだけでもうつらい。
やけどにはじゃがいも。