『祝福の雨を、君に』

『祝福の雨を、君に』
 
目を開けると、私は見知らぬ部屋にいた。
 
意識が朦朧としているせいか、視界は歪んでいる。まだ使い物になりそうにない頭を引きずりながら、眼球だけを左右にスライドさせ、辺りを見回す。部屋は暖色の光に包まれ、緋色の絨毯が足元に広がっていた。目の間には、縁と脚に金の装飾をあしらった硝子テーブルと、オレンジ色の光を纏った花瓶がぼんやりと視界を照らす。生けられている花の色はおそらく青色なのだろうが、夕陽に似た照明のせいでいまいち特定できない。
やっぱり、知らない部屋だ。身動きの取れない人形のように、誰かに有無を言わさず、操られるように椅子に座らせていた。でも、この椅子の背もたれの感触は知っている気がした。否、気のせいかもしれない。
なぜ、自分がこの部屋に存在し、誰に連れてこられたのか、それとも自分の意思でこの場所に辿り着いたのか分からないが、私は不思議なことに恐怖は感じなかった。頭を駆け巡る鈍い痛みが不快なだけで、鼓動は暖かい海を漂っているかのように穏やかに音を刻み、目蓋を閉じてしまえば、今にも仄暗い深海の彼方に沈んでしまいそうな気持ちになった。空気は薄いけれども、人の温もりが溢れた部屋は不思議と居心地が良かった。
自分の身に起きた不可思議な現象に抵抗することなく、しばらく空気の海に体を委ねていると、次第に視界の靄は薄れ、頭痛が少しだけ和らぎ、意識がはっきりしてきた。しかし体は鉛のように重く、手足は痺れ、上手く体を動かすことができない。かろうじて動かせる首で左右を見渡しながら、小さい声で見えない誰かに訊ねた。
「ここはどこ?」
漫画や映画で、見知らぬ土地や得体の知れない場所に送り込まれた登場人物達が言う、お決まりのセリフを言った自分に少し驚いた。
「人間って、本当に知らない場所に突然連れてこられると、このセリフを言うのか……。いやいや、関心してる場合じゃないし!」
いつもの調子で一人ノリツッコミをしてしまった。よかった。私は、まだ大丈夫。冗談も言えるようになってきたし、体はまだ自由に動かせなくても、頭はちゃんと機能している。
試しに拳を作ろうと、目を閉じて全神経を手に集中させ、指に力を込める。動け! 動け! と何度も心の中で叫びながら指を動かそうとしたが、願いとは裏腹に力は虚しく抜けていった。
「ダメかぁ……。やっぱり、体が痺れて上手く動かせないな」
 私は拳が作れると根拠のない確信があっただけ、思い通りにならない体に対して少し苛立ちを覚えた。でも、怒っても事態は何も解決しないし、むしろ冷静さを失うとかえって事態を悪化させるだけと思い、大きく深呼吸をして気分を落ち着かせる。動かせる首を駆使し、もう一度部屋を見渡す。この状況を打破する為に、最も必要だと考えられる部屋の扉を探したが、どこにも扉は無く、むしろ窓一つなかった。無暗に動き回るのは危険だな―。
「下手に動き回るのは危険だな。とりあえず、この部屋に辿りついた理由は分からないにしても、自分がこの部屋に来るまで思い出せる限りの記憶を巻き戻してみよう」
とにかく、部屋に来るまでの経緯に関する些細な情報でも欲しかった。唯一掴んでいる情報は、私は制服を着ていることだけだ―。  
と言うことは、学校に行く途中か、授業中か、帰る途中なのかは分からないが、とにかく学校に行こうとしていたのは確かだ。その確証を得るために過去の記憶を呼び起こすことが、一番の情報収集に繋がると考えたのだ。ゆっくり目蓋を下ろし、深く息をはいた。
いつもの朝と同じように母親から叩き起こされ、慌しく制服に着替えながら朝食のパンを食べる。光の速さで身支度を済ませ、弾丸のように勢いよく家を飛び出す。玄関先に見送りに出てきた母に、自転車に跨り、振り返りもせず「いってきます!」と言って家を出た。
いつもの決められたスクールゾーンを、汗ばみながら自転車を漕ぎ、駅まで急ぐ。すでに熱を帯びた朝の青空と蝉の声が、夏の訪れを告げていた。思い出すのは、いつもの朝の風景だけだ。過去の引出しから引っ張り出してきた記憶は、あまりにも鮮明に脳裏を駆け抜けた。頬を撫でる風の色もくっきりと思い出せる。
しかし、家から駅に向かうまでの記憶は鮮明に思い起こす事ができたが、電車に乗り、学校に辿り着くまでの記憶はまったく思い出せない。なぜか記憶の糸がぷっつりと途切れてしまい、上手く紡ぎだすことができない。
「やっぱり、学校に向かったんだ。あれ、今日は学校には行ってないのかな? でも月曜日は朝テストの日だから、這ってでも行かなきゃ行けない曜日のはず……」
 私はもう一度目蓋を閉じ、記憶の海にダイブした。先ほど思い出した風景が焼きまわしのフィルムように、目の奥で再生されていくだけだった。やはり記憶の糸は切れたままで、断片だけが終わり無く宙にぶら下がったままだ。
「もしかして、学校に行ってないのかな? じゃあ、朝テスト受けてないから追試じゃん!」
記憶が曖昧になっている恐怖よりも、朝テストを受けていないことの方がショックだった。今、自分の身に起きている説明不可能な出来事よりも、自分の身に確実に降りかかる追試という悪夢の方が、よっぽどリアリティがある。私は首をがっくりと落とし、目にはうっすら涙が滲んだ。
「昨日、久しぶりに朝テストの勉強したのに……。これじゃあ、また『追試の女帝』ってみんなに言われる。いつまでも、王座に君臨する訳にはいかないぜ! 来週こそは、失脚しなければならない!」
 無意識にぐっと右手に力を込め、握り拳を作っていた。あれ? いつの間にか、右手に力が入るようになっていた。恐るおそる左手にも力を込め動かしてみる。こっちはまだ少し痺れていて、電撃を与えられたような痛みが走った。でも、両手は動くし力も入る。握られたままの拳を見ながら、さっきまで何を思い出そうとしていたのか忘れかけてしまった。
「あれ、何を思い出そうとしていたんだっけ? ―そうそう! この部屋にどうやって来たのか、思い出そうとしていたんだ。集中力ないな、私」
自分の集中力の無さに落胆しつつ、再び目蓋を閉じ、記憶の断片を見つける事に全神経を注ぎ込んだ。やはり、夏の暑さを感じながら駅に向かって自転車を漕いだ記憶はあっても、誰もいないこの部屋に辿り着くまでに、いったい何をして、どこまで自転車で駆け抜けたのか思い出せなかった。眉間に皺を寄せ、脳内の記憶を力ずくで抉じ開けようとすると、急に頭の左側に鈍い痛みを感じ、思わず顔を歪めた。私の脳は、どうしてもその情報を開示することを頑なに拒絶するようだ。
突然襲った激痛に耐えかね、記憶を掘り起こすことを諦め、改めて部屋を見渡した。薄暗い部屋の天井に、一つだけシャンデリアがぶら下がっており、闇を照らす唯一の光を宿していた。天井に吊るされた幾つもの硝子の粒の集合体は、まるで涙の結晶が集められたかのように澱みなく澄んでいて、透明で繊細なオレンジ色の明かりが、シャンデリアの美しさをより一層引き立てた。目の前には、テーブルと椅子が一脚だけあった。椅子はテーブルと同様に、脚には世界史の資料集でナポレオンが座っていた玉座のように豪華な細工と金が施され、座席の赤い背もたれとクッションシートの部分が軽くへこんでおり、今まで誰かが腰を下ろしていたような温かい痕跡があった。
テーブルの上には青い薔薇が硝子製の花瓶に生けられていた。花瓶は足から胴にかけて歪むことなく、均一な幅を保ちながら真っ直ぐに伸び、口の外周をなぞる様に施された銀の線が、シャンデリアの光を反射していた。花瓶の中まで通過した光の放射線は、小さく透明な空の中で、星のように煌いていた。
部屋を見渡してみると、あまりにも自分が暮らしてきた世界とは無縁の調度品の数々に圧倒された。そして、この空間と自分の存在があまりにもミスマッチ過ぎる。やはり、私が今まで獲得してきたすべての経験や思考、価値観を総動員しても、今の状況を説明することは不可能だった。ただ一つだけ説明できることは、私が腰を下ろしている少し固めの真っ赤なレザーの一人掛け用の椅子だけだ。これは、コタツを買いに行ったニトリで一目惚れをして以来、どうしても欲しくてお年玉で買ったお気に入りの椅子だ。何かを確かめるように、痺れが残っている左手で、ゆっくりとレザーの感触を指でなぞる。間違いなく私の椅子だった。
「これは、夢なのかなぁ……。でも、悪い夢じゃないのは確かな気がする。しっかし、夢の中でも制服を着ているなんて、どれだけ学校に心が征服されてるんだよ! って、韻を踏んでる場合じゃないか」
制服のポケットが微かに膨らんでおり、ポケットの中に手を入れてみた。膨らみの正体は、昨日友達とカラオケに行った帰りに、街頭で貰ったイカガワシイお店の広告が織り込まれたポケットティッシュが、くしゃくしゃになって入っていたせいだった。私はその丸まったティッシュの固まりを見つめながら、 
「椅子といい、このティッシュいい、夢にしては現実味がありすぎて味気ないな。とりあえず、夢でも現実でもこの際どちらでもいいから、この場所から抜け出さないと!」
 決心し、痺れを振り払うかのように力強く左手を握りしめた。
私はゆっくりと立ち上がり、辺りを見回す。やはり、どこを見ても脱出できそうな窓も扉もない。ふっと視線を目の前の壁に移すと、なんとも不思議な絵が掛けられていた。その絵に引き寄せられるように、無意識に歩き出していた。芸術や絵の知識は皆無であったが、私の心は一瞬で絵の虜になった。
 ポスターサイズの大きなキャンバスには額縁が無かった。普通は壁に飾る絵には額縁に入れられるものと思っていたので、少し疑問を持った。描かれているのは、水色の山々と、その向こうに赤、青、黄、橙、鶯色の雲が漂い、キャンバスの下から突き抜けるようにビリヤード台が傾きながら置かれている。台の上には、直角二等辺三角形の頂点を表すかのように白、赤、白の玉がひっそりと影を落としていた。言葉で上手く表現できないのは、絵の中に存在する物体同士の遠近感が明らかにでたらめに配置されていたからだ。
 私は、絵の下に掛けられた小さな金色のプレートをまじまじと覗きこむ。
「えっと、これはフランス語かな? 『La Fortuna II』。ん~、読めるけど、意味は分からないや。―作者は……書いてないな」
絵に夢中になっていると、突然、背後から冷たく突き刺さるような視線を感じた。この部屋には、私以外いないはずなのに……。
「私、霊感なかったはずだけどな。振り返るべきか、振り返えざるべきか、それが問題だ」
思わずシェークスピアの名言を、勝手にアレンジしたセリフをブツブツ呟きながら、おそるおそる振り返える。目の前には、ゴットファーザーに出てくるマフィアが放つような独特の黒いオーラを全身から漂わせ、ゴキブリも真っ青なほど黒光りしているスーツに身を包み、黒く上等な光沢を帯びたシルクハットを被った男が立っていた。スーツ下のシャツだけがやたら白く光っており、視覚がはっきりと認識できる唯一物体だった。耳の奥で、あの名曲が鳴り響いていたのは言うまでもない。
帽子のつばの隙間からかろうじて見える男の顔は、堀が深く、中性的で妖艶な顔立ちをしていた。まるで人の形を模した人形のように完璧な均整を保ち、私の息も命も吸い込まれそうになった。睫毛は瞬きをするたびに音がしそうなほど長く、頬に扇型の陰を落としていた。これは、付けまつげ愛用者の女子の嫉妬を一身に買いそうな目の作りだな。
やはり、白いシャツ以外は現実味を帯びていない。黒いオーラを纏い、現実離れした容姿からは見るからに「ザ・悪魔!」を連想させるのは容易だった。
「話しかけられたら、命は無いと思え! それに知らない人に関わってはいけません、って死んだおばあちゃんも言ってたし。うん!」
ブツブツ独り言を呟いていると、男はすべての闇を見透かすような暗く静かな眼差しで、私から目を離すことなく怪しい笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「やっべ、こっち来た!」
私は焦りながらも平常心を保ち、何食わぬ顔で鼻歌交じりに足早に通り過ぎようとした刹那、
「ちょ、ちょっと待て! 無視するな!」
男は私の腕を慌てて掴んだ。歩いている途中で、いきなり腕を掴まれた反動で転びそうになる。冷や汗が噴出し、脆弱な平常心を保てなくなった私は、反射的に男に頭を下げた。なぜ悪いことを何一つしていないのに、頭を下げたかはよく分からないけど、きっと日本人特有の負け犬根性が染み付いているせいだろう。
「ごっ、ごめんなさい! だって、私の生存本能が『無視をしろ』って指令を送ってきたんです」
 男の顔を直視できず、ひたすら赤い絨毯を見つめていた。人に謝る時は目を見て謝りなさいと、おばあちゃんに教えられたが、今は実行できそうない。ごめん、ばあちゃん!
男は、私の腕を掴んだまま怒った口調で話し始めた。
「お前はもう死んでるの! だから、生存本能も無いの! まったく、この仕事を始めて初めて無視されたぜ」
「そうでした、すみません」
 私は俯いたまま目を合わさずに、男に再度陳謝した。しかし次の瞬間、顔を上げ、男を見上げながら、先ほど耳の奥に引っかかった言葉を問いただした。
「……私、死んでるの?」

 私は再び真っ赤なレザーの椅子に腰を下ろした。男もテーブルの前に置かれているヨーロッパ貴族が好んで使うような豪華な椅子に腰を下ろす。さっきまで、この薄暗い部屋で唯一生命の息吹を感じ取ることができたテーブルの青い薔薇が、いつの間にかすべて枯れていた。数枚の朽ちた花弁は、テーブルに黒い模様を描いている。真っ黒なその姿からは、美しさの欠片はどこにもなかった。ただ、黒い物体が目の前に存在するだけ。青い薔薇の朽ち果てた姿に驚いていると、男はゆっくりと口を開いた。
「新原ハルカ、十七歳。第弐福岡高等学校所属。成績は、得意不得意の科目の差は激しいものの、平均並みだな。家族構成は、父母妹の四人暮らし。それから……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! なんで私の事をそんなに知ってるの?」
 驚いた私は、男の話を無理矢理に遮る。初めて会った相手なのに、私の学校や家族の事など、個人情報を一方的に熟知している人間は、あの名称で呼ばれている属性の奴等だけだ。
「お主、もしや新手のストーカーか!」
思わず眉間に皺をよせ、目を見開いて男を凝視した。間違えない、この男は悪魔でも何でもなく、私をストーキングしている人間だ!
「ちげーよ、バカ!」
男は吉本芸人並みの速さで突っ込んできだ。えっ、私の勘違いなの? キョトンとした顔の私に向かって男は語尾を強めながら続けた。
「とにかく、俺はお前のことを、なんでも知ってるの! 間違っても、ストーカーではないからな」
 納得のいく解答ではなかったが、ここで言い争っても仕方が無いので、納得した振りを決め込むことにした。
「そうなんだ……。でも、なんか変な感じがする」
「なんで?」
「君は私のことをなんでも知っているけど、私は君のことは何も知らない。今まで、こんな経験したことないもん」
 私の言葉を聞き終わると、徐に男は枯れたはてた薔薇を一輪もぎ取り、薔薇は小さな悲鳴を上げながら握り潰された。私はその手をじっと見つめていた。
「でも、よく考えてみろよ。大概の人間は相手の事を分かったようで、ほんの一部しか理解してない場合の方が圧倒的に多い。お前だって家族のことをすべて知り尽くしていたのか?」
 私は口を噤んだ。男の手の中から、無残な姿に変化した黒い薔薇の破片が床に零れ落ちる。漆黒の花弁の雨が、赤い絨毯を舞台にして跳ねるように踊りだす。
「とにかく、君は私のことをなんでも知っているみたいだから、一つ聞きたいことがあるんだけど、よろしいかしら?」
「いいぜ、なんでも答えてやるよ」
 男は余裕を見せ付けるかのごとく頬杖を付き、足を組み替えた。大きな瞳で上目遣いをしながら、私の顔を凝視する。
「私、なんで死んだの? さっきから頭がズキズキするのは分かるけど……」
男は私の質問に驚き、頬杖をついた手から頭が滑り、黒いシルクハットが落ちそうになっていた。しかし、男の顔を見ると、驚いたというよりも、呆れていた気がした。そんなに変な質問はした覚えはないのに……。男はずれた帽子を、定位置に戻すと、鋭い目線で私を睨みつけた。やべっ、何か怒ってる。
「お前、自分が死んだ理由も覚えてないのか? まったく、呆れてものも言えないぜ。いいぜ、そんな哀れなお前に、特別出血大サービスで見せてやるよ」
男は小言を言うと、ポケットから、いかにも占いや魔除けに使用するような透明な水晶を取り出した。二人は水晶を覗き込み、互いの顔が透明で無口な水の中で歪んでいった。しばらくすると、水晶に靄がかかり、白濁色に包まれた世界に私達の顔は消失した。
「ちょっと、何も見えないよ」
 私のクレームに、男は「しっ!」と人差し指を唇に当て、黙るようにジェスチャーで促してきた。なんだよ、と唇を砥がせていると、霧が晴れた水晶には、制服姿の私が慌しく家を飛び出し、自転車に乗り、学校に向かう映像が流れだした。この映像、見たことある。
「もしかして、今朝の私だよね?」
「そうだ。お前は、駅に向かう途中の横断歩道で、信号無視をした自動車に跳ね飛ばされて死んだ。駅には辿りついてないよ」
私は、男の言葉を鵜呑みにできず、食い入るように水晶を見つめていると、
「バンッ!」
と大きな音が耳を貫いた。男の予言どおり、私は横断歩道で車と轟音を立てて接触した。ぶつかった衝撃で体は宙を舞い、真っ逆さまに落ちていった。ぐしゃり。低く鈍い音と共に、私の体は地面にめり込む。頭部から、真っ赤な水が湧き上がり、辺りをじわりじわりと赤黒く染めていく。まるで張り詰めた糸が、突然何かの不可抗力が働いたせいで、ぷつんと糸を切られ、一瞬だけ舞い上がると、あとは行き場を無くした糸が、だらしなく宙にぶら下っているように見えた。その姿は、あの使い物にならなかった無能の記憶の糸にそっくりだ。自転車は大破し、ハンドルもタイヤも見事に拉げて、私と同じように無言で横たわっていた。
信号は青のままで、多くの通行人が集まり、辺りは騒然としていた。サラリーマンらしき男性が携帯電話で救急車を呼び、接触してきた車の運転手は、目の前で起こった現実が把握できていないのか、無表情で立ちすくんでいた。
その場面を最後に、映像は終わりを告げ、私と男の顔が再び水晶の中で歪んだ。まるで映画を見ている感覚だった。目の前を通過する映像は、確かに現実味があるが、どこかフィクションなんじゃないかと疑ってしまう。しかし、思い出そうとしても千切れたままだった記憶の断片が映しだされたのは事実だ。ようやく一本の糸を紡ぎだすことができた。
痛っ! また頭に痛みが走る。痛みで思わず目を瞑った瞬間、記憶の箱が開き、事故の記憶が洪水のように目の奥で流れ出した。その流れる記憶は、水晶に映し出された映像とまったく同じだった。    
記憶の流れが止まると、私は大きく息を吐き、目を開いた。頭痛は消えていなかったが、気分はすっきりしていた。やっと、謎が解けた。
「そうそう。自転車を鼻歌交じりにごきげんで漕いでいたら、車に吹っ飛ばされたんだ! どおりで、さっきから頭が痛む訳だ」
 私はなんだか可笑しくて、笑いながら男を見ると、彼は不思議そうに、
「お前、自分が死ぬところを見ても怖くないのか?」
 訊いてきた。
「……う~ん、なんか宙に浮かんだ時のことは覚えているよ。目の前の青空がスローモーションで動いていて、蝉の声しか聞こえなかった。そして気がついたら、ここに居た。死ぬ時は痛みも感じなかったし、ある意味ラッキーだね」
 またも私はあっけらかんと笑い、男の質問に答えた。その様子を、男が訝しそうに見つめる。でも、そんな事は微塵も気にならない。死の恐怖よりも、自分が死んだ理由を明確に知ることが出来たことの方が嬉しかった。その時、私は本気で死を怖いと思っていなかった。
「まあ、生と死は表裏一体だし。国語の教科書で志賀なんちゃらの『山崎にて』に書いてあった気がする」
 男は無言で、何か考え事をしながら、黒い薔薇に手を伸ばす。
「……それって、もしかして志賀直哉の『城の崎にて』じゃないのか。山崎ってどこだよ、誰だよ!」
「だっけ? 惜しい、私!」
 私が惚けたわけでもなく、本気で悔しがっていると、男は冷めた目線でこちらを見ていた。そして、言いようの無い感情を込めて、勢いよく薔薇を握り潰す。どうやら、空回りをしてしまったようだ。一気に二人の間に冷たい空気が流れ、沈黙が空間を支配した。男は握り潰した薔薇を、怒りに任せて床に撒き散らした。彼の足元は、赤い地面に黒い水溜りが広がっていく。気まずさに耐え切れなくなり、先に口を開いたのは私の方だ。
「ところで悪魔さん」
男は床に向けていた視線を動かすことなく、
「俺は、悪魔じゃないぜ」
と自分の不機嫌さを、敢えて私に伝えるかのような低いトーンで答えた。でも、そんな事はこの際お構いなし。空気読め! なんて自分から何も伝えようとしないくせに、相手にすべてを分かって貰う事が当然よ、なんてご都合主義の考えは、残念ながら持ち合わせていません。私は、男を上から下まで舐めるように見つめた。
「でも、どう見ても妖精には見えないのですが……」
「まっ、まあ、妖精ではないわな」
 男は拍子抜けしたのか、少し上ずった声で、先ほどとはまったく違う声のトーンで答えてくれた。このままの調子でいけば、私が聞きたいことも答えてくれるような気がした。彼の機嫌を損ねないうちに、確信に迫る。
「じゃあ、あなたは何者なの?」
私は男の正体を探るべく、じっと彼を凝視する。熱過ぎる私の視線と冷たく感情の起伏が感じられない男の視線が交錯する。私の顔を見つめながら、彼は不敵な笑みを浮かべ、
「何だと思う?」
 逆に質問をしてきた。私は自分が導き出した答えを、正直に男にぶつけてみた。 
「さっぱり、分かりません。これ以上、考えても答えが出なさそうなので、あなたの職業は『自称 悪魔』でいいですか?」
「……」
 男は、私が自前で持ち込んだ脳内すーぱーこんぴゅーたーの弾き出した結論を、全力で無視てきた。でも私は、先ほど申したように、こんな事で引き下がる空気の読める女の子ではない。さらに質問を続けた。
「ところで、あなたの名前は? 私の事ばかり、知っているのはフェアじゃない気がするから名前ぐらい教えてよ」
男はふん、と鼻を鳴らし「当ててみな」と随分偉そうに言ってきた。対戦相手もなかなか手強い。
「だからクイズとか好きじゃないんで、名前は『西川くん』でいいですか?」
 私が乱暴な口調で言い放つと、どうやら私の言葉に疑問を抱いたのか、今度は男が私に質問を返す。
「なんで、西川なの?」
「適当です。意味は無いです」
大きな声ではっきりと答える。私の堂々たる態度に男は半ば諦め気味に「もう、なんでもいいよ! 好きに呼びな」と溜め息混じりに言った。彼の溜め息が、黒い薔薇にかかり、微かに花を揺らす。風に揺らめく動作は、いくらドライフラワーと呼称される姿に変えられても、生花の薔薇と変わらずに、優雅の中に切なさを潜ませながら揺らめいていた。薔薇は、やっぱり薔薇なのか……。名前なんて所詮個を特定する為の記号であり、意味は無いのだ。
私は部屋を見渡しながら、少し疲れ気味なのか、また俯きはじめた西川に訊いてみた。
「ここは天国でも地獄でもなさそうだけど、どこなの?」
「天国と地獄の間と言うより、生と死の境界線上みたいなものかな」
「生と死の境界線上?」
「そうだ。正確に言うと、お前は、まだ死んではいない。生き返ることも死ぬこともできる」
 西川は俯き、何かを隠す訳でもなく、淡々と私の質問に答える。全てが分かりきったように話す西川とは反対に、私は彼が何を言っているのかチンプンカンプンだった。とりあえず、気になった言葉を拾い集めてみる。
「生き返ることができる、ってどういう意味なんですか?」
 彼はテーブルに置かれたままだった水晶をポケットにしまいながら、私が予想もしなかったプランを提案してきた。
「お前を一週間だけ生き返らせてやる」
「なんですか、藪からスティックに!」
 巷で一時期流行していたお寒いギャグが、思わず口から飛び出した。同時に噴出した唾が西川の顔に直撃する。彼は慌てて高級そうなスーツの袖で、何の躊躇いもなくゴシゴシと顔を拭う。
「うわっ! 汚ったねぇな。って言うか、お前はルー大柴かよ! あんまりふざけた事言うと、お前の鼻穴に、スティック突っ込むぞ! 近頃に人間は、他人様に唾を吐きかけるのが流行ってんの?……突然死んで、お前は向こうの世界に未練とかないか?」
 西川は不快そうに一度舌打ちをし、袖で顔を拭いながら訊いてきた。未練? 自分が死んだのを自覚しても、そんなことは一度も思いつかなかった。 
「―特に無いです」
「マジで!」
西川は驚いたのか、目を見開き、息が掛かるほど顔を近づけてきた。今度は彼の放った唾が、私の顔に直撃する。敵に報復された。私は顔についた唾を「最悪~!」と語尾を上げ気味に言いながら、手で顔を拭った。少し湿った手を制服のスカートに擦りつける。その瞬間、ポケットティッシュの事が脳裏に蘇り、今使えば良かったと、少し後悔した。西川はまだ驚いた顔のまま硬直している。
「本当に、未練はないのか?」
「えっ、うん。普通に幸せな毎日だったし、特別大事な人なんて居なかった。『未練? それっておいしいの?』って感じかな。だから、別に生き返らなくていいよ」
彼は再び呆気に取られ、溜め息をついた。驚いたり、溜め息をついたり忙しい人だな。
そんな彼の様子を横目に、私は顎に手を当て、部屋の天井からぶら下がるシャンデリアを見つめ、「そうね~」と気だるそうに呟く。やはり、この光は死後の世界のものとは思えないほど暖かく、夕焼けにも似た優しさに満ちながらも、寂しさを帯びた柔らかいオレンジ色の光を放出していた。
「敢えて言うなら、お腹いっぱいになるまでイクラとマグロのお寿司を食っとけばよかったことぐらいかなぁ。あの光を見ていたら、イクラを連想させられたよ」
 先週、家族で行った回転寿司を思い出す。気が済むまでイクラの軍艦巻きを食べ、
「高いお皿ばっかり食べちゃダメ! お母さんとお父さん、かっぱ巻きとゲソしか食べてないじゃない!」
母が鬼の形相で怒っていたのを思い出した。舌にじわりと唾液が湧き上がる。おいしかったな、お寿司―。寿司を思い出し、顔が綻んでいる私の様子を、西川が不気味そうに見つめる。
「……お前、本当に幸せだったみたいだな」
「まあね。お寿司はいいよ。日本人の心ご飯だね。……ところで、本当に生き返らせてくれるの?」
「お前自身が、望んで生き返りたい意思がある場合は、な」
 私は意味ありげに「ふ~ん」と含み笑いをし、指で髪をクルクルと捻る。
「じゃあ、とりあえず生き返ってみるか。そんでもって、『未練』というものを体験してみるよ。今度、本当に死ぬ時に『未練がある』って思えたなら、それだけ大切なモノが現実に存在することを証明できることになるだろうし。まぁ、一週間生き返ったぐらいで、そんなに大切なモノや執着する事がすぐ見つかるとは思えないけどね。何か変わるなんて事は、さらさら期待はしてない。一度死んだのに、生き返ることができるなんて、私はラッキーだな」
 その時、私は全く深く考えていなかった。寿命が一週間延びたぐらいで、自分の中の何かが変わるとは到底思えなかったからだ。頭の中は、寿司でいっぱいだった。どうしても、もう一度、オレンジ色の宝石が敷き詰められた軍艦船を、箸で掴み、宝石達がぷちっと口の中で無数に砲弾される感覚を味わいたかった。
「お前、変わってるな」
「君には、言われたくないな。君の存在自体が、私の常識では考えられないよ」 
 西川は「確かに」と言い、腕を組みながら笑った。テーブルの薔薇が彼の柔らかい笑い声に共鳴するかのように、少しだけ揺れる。
「まあ、そうだよな。とりあえず、お前には生き返る意思があるんだな」
「うん。ゲーム感覚だけどね」
「ゲームでも、何でもいいよ。ただし一つだけ条件があって、生き返るには、お前の存在を知っている人間の命と引き換えに生き返らなければならない。誰の命と交換する?」
 私の表情が一瞬で曇る。私を知る人間と命の交換? 何それ?
「ちょ、ちょっと待ってよ。誰かの命と引き換えに、生き返るなんて聞いてないよ!」
「おいおい、待てよ。今、初めてお前に生き返る条件を提示したんだから、聞いてないのは当たり前じゃないか。怒る方がお門違いだぜ」
 西川の言葉に、妙に納得した自分がいた。確かに彼の言うとおり、生き返る条件は、今初めて聞かされた。彼に怒りをぶつけるのは、間違いだ。
「そうでした。いきなり怒ってごめんなさい」
 私は怒りを飲み込み、素直に謝罪し頭を下げた。しかし、誰かの命と引き換えに生き返るのはさすがに躊躇った。だって、人を殺してまで生き延びる時間が欲しいとは到底思えなかった。
「その条件なら、生き返るのを辞退しようかな……。だって、なんだか臓器移植みたいだよね。誰かの命と引き換えに、自分が生きる権利を持つなんて。……んっ? この話、どこかで聞いたことあるような気がする。確か、『KARAAGE』って言う映画か本に似たようなストーリーが……」
 本だったか映画だったか植物の名前だったか、何の媒体かは忘れたが、臓器移植を扱った物語のストーリーが思い出せそうだ。私は眉間に皺を寄せ、少ない脳みそをフル回転させて考える。
 その様子を見ていた西川は慌てて、思い出そうとする私の思考を強制的に遮断させようと、大きな声で警告を発した。
「お前、それ以上言うと、黒い組織に殺されて、体バラされるぞ!」
「マジで?」
「マジで!」
 西川は目の奥から、「これ以上詮索するんじゃない」と無言で圧力をかけてきた。その迫力に負け、私はそれ以上考えるのを中止した。でも彼の方こそ、黒の組織なんじゃないかと、疑った。
 西川は高圧的な視線を解除し、冷たい眼差しで沈黙している黒い薔薇に手をかざした。
「臓器移植問題は、デリケートな部分が多いからここでは何も言わない。そもそも生きる事は、生き物の命を喰らうことでしか成り立たない。食物連鎖がいい例だ。今更、命の重みについて考えても無駄だぜ。お前の命は、もうどこにもないからな。自分の事だけ考えろ。それとも、生き返るのは辞めるか?」
 そう言い終わると、薔薇は不思議なことに、元のとおり青く美しい優美な姿に戻っていった。テーブルに落ちていた花弁や、絨毯の上に砕け散った花弁までも、本来の青色に染められていた。私は自分の目の前で起きている現象が何なのか理解できなかった。しかし、西川の言葉に言いようのない怒りを感じたことだけは分かった。
「よく分からないけど、激しくムカつく! 生きているのか、死んでいるのかもわからないあなたに、命について御託並べて欲しくない!」
「だったら、俺を納得させることができる『命の尊さ』について語ってみろよ。今のお前だって、命の意味なんて分からないはずだぜ。死ぬまでに、頭が狂うぐらい本気でその事を考えたことはあるか? おまけに、万人が納得できる答えが発見されていれば、哲学者は要らないはずだ」
私は大きな溜め息をついた。西川の言っている事が、すべてが正しいとは思えなかったが、今の私には反論することはできなかった。悔しいことに、彼の言うとおりだ。私は命の意味なんて真剣に考えたことなんてなかった。命は重いのか、軽いのか、という問題にすら答えられない。下を向いて黙っている私の様子を見かねて、西川が口を開いた。
「まあ、ここで不毛な議論をしても疲れるだけだから、とりあえず生き返ってみろよ。それで、俺に『命の尊さ』について教えてくれよ」
西川が、俯いたままの私の顔を覗き込む。  
「……わかった」
俯いたまま、足元に広がる血の色に似た赤い絨毯を見つめながら力なく答えた。それ以外に言葉が見つからなかった。否、見つけられなかっただけだ。
「いろいろなことを考える時間は、死んだら嫌って言うほどあるから心配するな。とりあえず、今考えるべき事は、誰の命と引き換えに生き返るのか決めることだ。あんまり深く考えるな。これはお前の言うとおり、ゲーム感覚で事を進めればいいよ」
 思考の海に深く沈んでいる私とは裏腹に、西川はあっけらかんと説明を続ける。その温度差に若干苛だったが、今まで考えたこともない問題を投げかけられた。「お前が命を奪いたい人間は誰だ?」そう問われている気がした。当然だが、すぐに思い付く訳がない。それ以上に、自分は殺人者になることになる。出来るわけない!
「私は、誰も殺したくない! やっぱり、このゲームから降りるよ」
 私は意を決して、西川に自分の意思をはっきりと伝えた。恐怖で強張った私の心を見透かすように、
「あぁ、その点は心配いらない。選ばれた人間は、お前が殺すわけでも、俺が殺すわけでもない。だから、本当にゲームだと思っていいから。お前は、誰も殺さないよ」
 と西川が優しく諭す。その声を聞いてほんの少しだけ安心した。それなら、このゲームに参加してみよう。なぜ、自分が選ばれたのかは分からない。正直怖い気持ちもあるが、少しわくわくしていた。自分だけが特別で、選ばれた人間に思えた。本当は、男の手の中で踊らされているただの操り人形でしかないのに―。
「そうだな~。嫌いな奴から命を貰うのはシャクだし、私の存在を認識している人なら誰でもいいの?」
「そうだよ。顔見知り程度でも、大丈夫だ」
「いいこと思いついた! じゃあ、今知りあった君の命をおくれよ」
「それはダメ! アンパンマンの頭を貰うみたいな言い方してもダメ!」
「ちぇ、嘘つき!」
不服そうな私を見ながら、西川が肩を落とす。頭をボリボリ掻きながら苦悩していると、彼が助け舟を出してくれた。
「じゃあ、今から俺が言う五人の中から君が選んでくれ。『なんで五人なの?』って質問は禁止だからな」
西川がこっちを極妻もびっくりな勢いで睨んできたので、私は何も聞けなかった。やっぱりこいつ、悪魔だ……。
西川が大きく手を開き、私の顔の前に差し出す。
「一人目は、お前を殺した車の運転手の高見屋ケンイチ。二人目は、お前を殺した男の恋人、朝倉ヒロコ。三人目は、事故現場に居合わせたにも関わらず何もしない傍観者の平尾キミエ。四人目は、事故現場を面白可笑しく携帯電話で写真を撮っていた高校生の白木イチロー」
彼が一人一人名前を読み上げながら、細く長い華奢な指をゆっくりと死の宣告をするように折っていく。その指を見ていると、なぜか鼓動が加速する。私は、制服のスカートをぎゅっと掴んだ。
「最後は……」
緊張から視界が霞んでいき、眩暈を起こして倒れないように深く息を吸い込んだ。誰なんだろう? 悪い予感がする。仲の良い人だったら嫌だ。息をゆっくり吐き、西川の目を見つめる。
「クラスメートのNだ!」
「なんで一人だけイニシャルトークなの!」
予想外の答えに、私は思わず叫んだ。同時に体中の力が抜け落ちる。西川は、これまでで一番不敵な笑みを浮かべながら、
「誰か分からない方が面白いだろ」
と言った。私は本当に眩暈がして倒れそうになった。なんだか、彼に遊ばれている気がしてならなかった。西川は新しいおもちゃを買ってもらった子供のように眩しい笑顔で、楽しそうに話を続けた。
「試しに聞いてみるけど、誰だと思う? イニシャルが分かっているから、検討のつく人間は限られてくるけどな。俺様って優しすぎ。自分の優しさにクラクラして、眩暈がするぜ」
「……」
今度は私が西川の言葉を、全力で無視をした。私は彼の浮かれている気分を他所に、腕を組み、シャンデリアを見ながら、生前にはまったくと言っていいほど使わなかった脳みそをフル可動させて精一杯考えた。イニシャルから推測すると、頭文字は、ナ行の人間だな。クラスメート全員の顔と苗字は覚えていないが、とりあえず、ナ行の人間を思い出せるだけ思い出してみる。彼らの顔が次々と浮かんでは消えてゆく。
「中村さんかな? あっ、わかった。中田君でしょう!」
「お前のクラスに中村も中田もいねぇよ! お前、どんだけ他人に興味ないんだ」
西川はぷりぷりと怒りだした。一生懸命思い出そうとしたが、この二人以外に該当者がいなかった。
「そうだっけ?」
 私は再び頭をボリボリと掻いた。もう一度、よく考えてみたが、頭文字『N』はやはり思いつかない。答えの見えない問題を、当てもなく考えていると、
「生き返ってからのお楽しみということで、Nで決まりだな」
 痺れを切らした西川が、勝手に話を進めてきた。多少、気に入らない点があるものの私は渋々承諾した。これ以上考えても、仕方がない。
「いいよ」
 私は愛想なく、返事をする。西川は黙って頷いた。
「ところで今日は何月何日だっけ?」
私はふっと、自分の時間はいつから止まっているのか気になり、部屋を見回す。壁に掛けてある時計を発見した。そこには、あるはずの長針と短針がなかった。ただ1から12までの数字が、四角い額の中に丸く円を描くように規則正しく並べられているだけ。ただ、秒針だけが永遠に回り続けることを宿命づけられるかのように、時を刻むという終わりのない孤独なループに、囚われていた。
「今日は、七月一日だ」
 時計を食い入るように見つめる私に、西川が今日の日付を告げる。
その日は私の命日でもある。しかし、私はこれから生き返るのだから、命日は変わるのか。否、そもそも借物の命を頂戴するから、命日は変わらないのか、と複雑な心境になった。でも、そんなことを今更考えるだけ無駄か。どう転んでも、私は死んだんだから。
「今日から一週間だから、タイムリミットは七月七日になるね。七夕の日を別れの日に選ぶなんて、悪魔のくせにロマンティストだね」
「悪魔は確かに『死』を扱う仕事だけど、その他の人間が持つイメージは、人間が『死』を理解しようとしたり、定義付けするために勝手に造り上げた都合のいい幻想なんだよ。だから、ロマンティストでもいいの!」 
 西川はむきになり、少し顔を赤らめながら怒った。その顔が可愛くて、私はからかうように薄ら笑いを浮かべた。私の顔が気に入らなかったのか、彼は露骨に視線を外す。可愛いところあるじゃん!  
西川の赤くなった頬を見ていると、あの絵を思い出した。私は絵の方向を指差した。
「君の赤い頬が、ビリヤード玉に似ているか思い出したんだけど、あの絵は君が描いたの?」
「あの絵? ああ、違うよ。これは『マン・レイ』と言うアメリカの画家が描いた絵だ」
「えっ! そうなの? 題名がフランス語だから、てっきりフランス人の画家かと思った」
「お前、フランス語がわかるのか?」
 西川が関心したように、私を見つめる。彼はまだ少し頬が赤い。私も褒められたのが嬉しくて、照れてしまったせいか、頬が熱くなるのを感じた。人は大きくなると、善い行いをしても、なかなか褒めて貰えない。善行が当たり前であり、大人としての義務である。でも、いくつになっても他人から褒めてもらうのは、素直に嬉しかった。
「バンド名がフランス語の人たちが好きで、お母さんが大学時代にフランス語を勉強していたから、少しだけ教えてもらったの。でも、単語は全然知らないから、タイトルが解からないんだ」
「そういうことか。この絵のタイトルは『幸運Ⅱ』だよ」
「あの絵は、幸運を描いているの? どこにも、そんな要素は見つからないんだけど……」
 食い入るように絵を見つめる。あまりにも抽象的過ぎて、天国を描いているのか、現世を描いているのかも分からない。幸運? 偶然の悪戯で、幸せを掴むことだよね。ビリヤードのことを象徴しているのか。
 またも答えのない迷路に迷い込んだ私を、西川が迷路の出口を作ってくれた。
「まあ、彼は写真や絵画だけでなく、オブジェも多数制作していた。他人にあなたは何者だ、と訊ねられた時、彼は自分自身の事を『私は、謎だ』と言っていた。掴みどころがなく、何にも縛られない光のような人間だったから、絵を理解できなくても心配するな」
 西川は説明を終えると、組んでいた足を元に戻し、テーブルに落ちていた、花弁を一枚拾い上げる。それを徐に、私に差し出してきた。私は花弁を受け取り、「もらっていい?」と訊くと、彼は了承してくれた。花弁を大事そうにポケットにしまい、再び絵を見ながら、マン・レイの言葉が頭を過ぎる。ふっと西川に似ていると思った。
「君みたいな感じだね」
「何が?」
「掴みどころがない所かな。もしや、得体の知れない物体? みたいな」
「人を未確認生物みたいに言うな! でも、女は謎多き男が好きだろ?」
 彼が自信満々に述べる恋愛論に、思わず顔を歪めた。どうして、顔のいい男は、どいつもこいつもナルシストに陥り易いんだろう。きっと、恋愛で苦労せずに育ってきたのだろう。いや、人生で躓いた経験すらなさそうだ。悪魔に愛とか恋とか人生があるとは思えないけど。
「何、そのステレオタイプの思考回路! ほんとに、自分が好きなんだね」
「うるせぇよ! でもな、自分を好きになれない奴は、他人を好きになんかなれないぜ。所詮、人間なんて自分に余裕がなきゃ、他人になんか優しくも出来ない生き物なんだから」
「うっ! 急に、人間の真理を突いてきたね」
 またしても、西川に論破されてしまい、悔しい気持ちになった。口喧嘩にも負けた事がなさそうだ。
「あのさぁ~。そろそろ、生き返る話を進めていいか?」
 西川は、悔しがる私など眼中にないようで、さっさと話を進めてきた。
「え~、もう生き返るの? 生き返ったら、この部屋には戻って来れないんだよね?」
「そうだな」
 私は部屋をゆっくりと見回し、目を閉じた。まるで春の晴天に浮かぶ太陽を、いっぱいに吸収した温かい布団の匂いを嗅ぐように、鼻を大きく膨らませ、深々と息を吸い込んだ。
「この部屋、居心地がいいだ。初めて来た場所なのに、初めてじゃない感じがするの。不思議な部屋だよね。匂いなのかな? 懐かしい匂いがする……」
「お前、勘がいいな。その感覚は間違ってないぜ」
「どういうこと?」
西川の想定外の返事に驚いた。二人の視線が交わり、一瞬だけ血の生臭い臭いが私の鼻をついた。思わず鼻と口に手をあてる。急に、胸に言いようのない圧迫感が襲い、胃液が逆流してくる気がして、必死に息を止めた。何とか嘔吐せずに済んだが、鼻と口の中がつんとする嫌な臭いが残っていた。覆っていた手を離し、大きく息をはく。大丈夫だ。
「今、一瞬……」
か細く途切れるような私の声を突っぱねるように、西川が冷たく言い放つ。
「それよりも、お前と話していると話が進まない。もうプロローグは十分だろ! この話が映画なら、前置きが長くて観客がすでに飽きて、トイレ行きだす時間だぜ」
「トイレは、映画の始まる前に行きなさい! そして、ポップコーンは映画を見ている時に食べると、以外にうるさくて周りの人に迷惑なの。もう、話逸らしたでしょ!」
「脱線させまくってるのは、お前の方だろ! この部屋の秘密を知りたければ、大人しく生き返ってください!」
西川があまりにも怒った口調だったので、私はそれ以上この部屋の秘密について聞くことをやめた。今、彼にしつこく質問をしても上手くはぐらかされる気がした。いつの間にか、得体の知れない気持ち悪さが消えていた。
「しょうがないなあ。生き返ってやるか」
西川が吐き捨てるように「ありがとよ!」と言い、ふんぞり返るように足を組んだ。もう、時間なんだね。我侭を言えば、もう少しだけ、君と話がしたかった。でも、照れくさくてそんな事は言えないから、せめて別れる前に、もう一つだけ確認したいことがあった。
「一つだけ、聞いてもいい?」
「なんだ、短く言えよ」
「一週間だけ生き返った後は、私は死ぬの?」
 西川は私の目を直視しながら、親が子供に大事な教えを説くように、ゆっくりと話てくれた。
「そうだ。よくあるおとぎ話や感動映画のように、もう一度命が与えられ、生き返ることはできない。物語としてはつまらないだろうが、結末は決まっている。今度こそお前は、間違いなく死ぬ」
「……そっかぁ……」
 私は急に寂しい気持ちになり、力なく答えた。西川が言うセリフを予見していたとは言え、現実を突きつけられると心が軋むように痛む。一度目の死は怖くなかった。死の実感すら、手の中を擦り抜ける水のように透明で実態が掴めなかった。けれど、今度は確実に命が尽きる時間が提示されている。死は遠い世界の出来事ではない。その恐怖に耐えられるの?
「心配するな。ちゃんと迎えに行くから、死後の世界に行く時は一人じゃない」
 西川の優しい言葉に、声も無く頷いた。一人じゃない。それだけで、十分ではないか。今はそう思い込んで、心に麻酔をかけよう。
彼は私の目の前に手をかざし、穏やかな笑みを浮かべながら、「ゆっくり、目を閉じて」と囁いた。
 彼の言葉に従い、ゆっくりと目を閉じる。このまま目を覚まさずに、自分の存在が消えてしまうかもしれない恐怖はなかった。西川の口調が柔らかく、暖かい日差しに包まれているような気持ちになれたからだ。私は目を瞑りながら、気が付いた。
頭の痛みが、消えていた。

七月一日

 目蓋を開けると、見覚えのある天井が視界を覆う。頭は重く、意識ははっきりしない。あれは、夢なのか? それとも、今見ている景色が夢の中なのか? 起きているのか、寝ているのか分からない混濁した意識の中、ぼんやりと天井を眺めた。真っ白な天井にある歪な形をした赤茶色の染みは、去年私が蚊と戦って勝利した痕跡だ。夢じゃない?
ゆっくりと体を起こす。頭を金槌で殴られたように鈍い痛みが、体中に伝達されていく。痛みだけがリアルだった。
まだ変な夢を見ている気がしていたので、半信半疑で部屋を見渡す。ベッドの周りに散乱している漫画本と、枕元にある充電切れのショッキングピンクの携帯電話、整理整頓がされていないお年頃の女子とは思えない汚い机、半分扉が開いた状態のクローゼットから、雑にハンガー掛けされた見慣れた制服がだらしなくはみ出している。すべてが私の日常だった。
溶けるように眩い光が半開きの目に突き刺さる。少々気味の悪いデフォルメされた動物柄のカーテンは、私が小学生の時に駄々をこねて買ってもらったものだ。カーテンの隙間から、初夏の朝日が差し込んでいる。
朝日で目をこじ開けて、梟も驚くくらい首をゆっくり回しながら、視線は部屋を一周する。間違いなく私の部屋だ。
「私、生き返ったの?」
まだ、フル回転していない頭で、さっきまで自分の身に起こった事を思い出そうとした。回転の遅い頭のネジを巻けるだけ巻いて、記憶を呼び起こす。……やはり、上手く思い出せない。実を言うと、私は頭が働いている時間や意識レベルの高さに関係なく、自慢じゃないが、友人から、「あんた、脳みそ三グラムしかないんじゃい?」と笑いながら、冗談にならない冗談を言われるほど、物忘れが激しい。英語や歴史など、暗記すべきことが多い科目の成績評価にはいつもアヒルがついていた。その代わりに、数学や物理、化学などは数式と最低限の暗記で済み、後は計算式で解くことができる科目なので、評価は五がつけられていた。
「なんか、記憶があやふや過ぎて何も思い出せない。いや、そもそも夢なのではないだろうか……」
などと、髪の毛が寝癖で爆発している姿で、ブツブツ呟いていると、激しくドアを叩く音がした。思わず体がビクッとなり、心臓が飛び出しそうになった。
「ハルカ、いつまで寝てるの? 早く起きなさい!」
部屋のドア越しから、毎朝の号令のような母の声が聞こえた。
「……、あい」
「あら、起きてるの?珍しいわね。朝食の準備できてるから、早く降りてらっしゃい!」
母の声と慌ただしく階段を駆け降りるが混ざり合いながら、部屋中に響きわたる。唇は夜中に水分を失ったせいか、カラカラに乾いていて、飲み込んだ唾が喉の奥に染みる。まだ、私の心臓は激しく脈を打ち、汗が頬と背中を伝い落ちる感覚がした。
「まるでヤクザの借金の取り立てにあってる気分だぜ」
私は鼓動の速さで膨張した体を起こし、汗でべっとり張り付いたパジャマのまま部屋を出た。あれはよくできた夢に違いない。カーテンは閉めたままだった。
頭の痛みはまだ引いていない。

「おはよう」
教室に到着し、頬を伝う汗を拭い、重たい腰を椅子に下ろすなり、友人の若松サヲリがいつもと変わらない様子で挨拶をしてきた。窓を全開にしているのに、教室は朝から熱気が充満している。生徒達の燃え盛る若い命は、夏の朝より熱く輝いている。
「おはようございまふ」
「どうしたの? 語尾がおかしくなってるよ」
低血圧の私と正反対のテンションでサヲリがけらけらと悪戯っぽく笑う。サヲリの大きな垂れ目は、笑うとより一層目尻が下がり、彼女の可愛さが増した。私は痛みの引かない頭を軽く小突く。
「頭が痛いせいかな?」
「頭痛いの? 私、頭痛薬持ってるからあげようか?」
 眉毛を八の字型に曲げ、心配そうに私の顔を覗き込む。サヲリのメンソレータムタイプの爽やかなリップの香りが鼻を擽る。
「かたじけない。しかし、気持ちだけありがたく頂いておくよ。拙者の武士道に反するからな」
私は真顔で答える。自分でも何が言いたいのかさっぱり分からないが、とにかく薬を頂戴するのは申し訳ないと思った。しかし、我ながら言い訳が下手くそだ。
サヲリは、さらにけらけらと笑いながら、
「いつから侍に転職したの? ついでに、どんな武士道を貫いて生きているのか詳しく教えて頂きたいでござる」
二人で阿呆丸出しの会話を、朝から機嫌良くしていると、
「おはよう、サヲリちゃん」
「おはよう、チアキ。今日は早いね!」
「おはよう、若松」
「おはよう、赤間君」
クラスメイト達がサヲリとすれ違う度に挨拶を交わす。私にはなぜか、誰も声を掛けてくれない。不思議だ。まあ、私も自分から声を掛けないけど。
サヲリは友人が多い。平たく言うと、クラスの人気者だ。さらに平たく言うと、クラスのマドンナ的存在だ。男子の大半が、サヲリに好意的な気持ちを抱いているのは鈍感な私から見ても間違いない。しかも、同性からも好かれるという珍獣ハンターもびっくりするぐらい珍しい存在だ。私は心の中で秘かに、サヲリの前世はパンダだと勝手に思い込んでいた。それならば、かつて一世を風靡したあの垂れ目パンダの人気にも納得できた。
 毎朝と変わらない風景が、目の前に広がっていた。朝のホームルームが始まるまでの束の間の休息を、友達同士で昨夜のテレビ番組の話をしたり、好きな相手とメールをして、一喜一憂している高校生特有の甘い恋の話など、みんなが学校外であった出来事を報告し合う。この朝の時間は一日の内で最も新鮮で、みんなのきらきらと輝く顔は朝日の眩しさに似ていた。
「静かに! 席に着きなさい」
担任の柳川先生が、勢いよくドアを開ける。先生の鶴の一声で、報告会は中断され、生徒達は渋々と各々の席に着く。みんな喋り足りないのだ。サヲリが横目で先生を見る。
「じゃあ、またあとでね」
「御意」
「そろそろ現代に戻ってきなさい!」
「ちゃんと分かってるよ」
彼女が柔らかい笑みを浮かべながら、私の斜め前の席に早足で戻る。全員が席に着き、教卓を見つめる。
この日の柳川先生は、いつもと様子が違っていた。陽気で冗談ばかり言っている先生の表情は硬く、目の周りが心なしか赤く腫れあがっている。みんな何となく先生の異変に気付いているのか、教室は短い命を燃やす蝉の声だけが響き渡っている。
「……今日、先生はみんなに話さなければならないことがあります」
やはり、いつもと違う先生の声のトーンに、教室に張り詰めた空気が流れた。先生に教室中の視線が集中する。
「昨日、部活帰りに西川君が事故に遭い……」
先生は声が詰まり、絞り出すようにか細い声で、
「亡くなりました」
その言葉を言い終わるのと同時に、崩れるように泣き出した。
生徒達は一斉に互いの顔を見合す。驚きと恐怖が入り混じった互いの顔は、鏡合わせのようだった。先生は両手を教卓につき、自分を支える事もぎりぎりの状態で何とか立っていた。教室がざわめきだす。
私はただ下を向いていた。西川君って、誰だっけ? 驚きよりも先に頭を過った疑問は、誰にも訊けずに机の底に沈んでいった。
皆が口々に「なぜ?」「どうして西川君が―」という、答えのない質問をし合っていた。その答えを誰も知るよしもないし、答えを見つけ出したとしても、誰も納得することはできない。どんな問いも答えも声も、すでに遅すぎた。
誰かが「先生、嘘だろ!」と震えた声で言うと、
「こんな嘘、冗談でもつけるか!」
先生は、涙と悲しみでぐしゃぐしゃになった顔で、怒りをあらわにした。一瞬で教室は静まりかえる。先生が、怒鳴り声を上げるのを、今まで誰も聞いたことがなかった。素行に問題がある生徒にも、頭ごなしに叱りつける事はけっしてしなかった。ROOKIESフリークで有名で、漫画の主人公「川等幸一」に強い憧れを持っているのも納得できるくらい、生徒に優しく、叱る時は愛の鞭を振りかざす先生だ。
そんな先生が生徒も受け入れられない現実を否定してほしい質問に対して、冷静な対応ができないほど心は痛みと悲しみで満ちていた。声を詰まらせながら、懸命に連絡事項を話す。
「詳しい事は、帰りのホームルームで話します。本当は、帰りのホームルームで話そうと思っていたが、みんなも心の整理が必要だと思って……。夕方から西川君のお通夜があるから、クラス全員で行きます。場所と時間は―」
先生の話が続く中、教室には声を押し殺した泣き声が、いくつも重なり合っていた。しかし、私は西川君と接点がなく、会話をした記憶はどこにもない。もしかしたら、どこかで挨拶程度の会話を交わしたことがあったかもしれないが、思い出すことができないくらい取り留めのない会話だったのだろう。
教室に響き渡る涙の音は止むどころか、大きくなっていき、悲しみで満ち満ちていく。クラスメイトが死んで、悲しい気持ちはあったが、深い悲しみの中で静かに泣いている彼らと同じ悲しみと痛みを共有することは、不可能な事に気が付いた。
 私はふっと、窓に視線を逃がす。そこには、いつもと変わらず雲が浮かびあがり、青い空が四角に切り取られ、夏の香りにトロケルように蝉が鳴いていた。そう、変わってしまったのは、この教室から西川君の存在が消えてしまったことだけ。それだけだ。

午後五時から、西川ダイスケ君のお通夜が行われた。その時、私は初めて西川君の下の名を知った。夏の気配が近いせいか空はまだ明るく、オレンジ色の光の放射に辺りは包まれていた。お通夜の日とは思えないほど、穏やかで緩やかな空気が頬を撫でる。
会場に着くと、西川君のご両親が深々と、クラス全員に頭を下げた。すでに、親族や親戚の方、西川君の学校外の親しい友人達が大勢集まっていた。
まもなく、導師による読経が始まるらしく、私達は出席番号順に用意されたパイプ椅子に腰を下ろしていった。みんなハンケチで涙を拭う。朝もあんなに泣いていたのに、人間の涙はどれだけ流せばなくなるのだろうか。泣けない私は、そんな事ばかり考えていた。
導師が入場し、厳かな雰囲気で読経が始まった。お経は独特のイントネーションがあり、意味はさっぱり分からないが、不思議と心が静まるのを感じた。だから、死者も心穏やかに、親しい人と別れを向かえることができるような気がした。
読経の中、喪主の西川君のお父さんを先頭に親族、一般参列者の順に焼香が行われた。ご両親は、参列者の一人ひとりに丁寧に頭を下げていた。
私の番になり、焼香台に進み出て、合唱をし、一礼をする。抹香を一掴み手に取り、頭に近づけ、抹香を香炉に静かにくべた。再び、合掌をする。写真の中の西川君は満面の笑みで、話したことのない私に微笑みかけてくれた。それがとても不思議だった。でも、私は笑い返すことはできない。
西川君のご両親に一礼をした。お母さんの袖をぎゅっと掴んで、声を上げずに泣いている黒い品の良いワンピースを着た小さい女の子は、彼の妹だろうか。まだ小学校低学年ぐらいに見える。本当は大声を上げて、思いっきり泣きたいのに、場の空気を読み、小さいながらも自分を抑えながら悲しみに暮れる姿は心に突き刺さった。彼女は大好きなお兄ちゃんが居なくなった世界で、生きていかなければならない。彼の影を追い求めて、過去を擦り切れるまで思い出しながら、彼女だけが成長していく―。
説法が終わり、導師が退場していく。最後に、喪主である西川君のお父さんの挨拶が始まった。深々と頭を下げ、しっかりと前を見据えながら顔を上げる。そして、会場に居る全員に語りかけた。
「遺族を代表し、一言ご挨拶を申し上げます。本日はご多忙のところ、遠路ご会葬いただき、厚く御礼を申し上げます。
 息子の死はあまりに突然でした。柩を閉じた今でも信じられない気持ちです。いつもと同じように、元気で学校に登校していき、学校の帰りに事故に遭うとは……。病院に駆けつけたとき、ベッドの上で白い布に覆われた顔が、息子のものであるなどとは信じられませんでした。唯一の救いは、顔は事故の損傷がなく、綺麗で苦しみのない顔で眠っていたことです。今でも元気だった息子の顔が目の前にあります。夢であってくれたらと叶わぬ願いを抱いております。
 学校の方や友人の皆様の方には、本当によくしていただきました。今はただ悲しみに暮れている状態ではございます。しかし、いつまでも泣いてばかりはいられません。悲しみで背中を丸めていたら、息子に背中を思いっきり叩かれ、『父さん、しっかりしろ! 妹のリナを頼んだぞ』と叱咤激励を受けそうです。私にとっては、死んでもしっかり者の息子のままです。
 息子は幸せ者だと思います。けっして長くはなかったかも知れませんが、精一杯人生を走りきり、こうして皆様に暖かく見守られ旅立つことができるのですから。本日はありがとうございました」
 喪主は背筋を伸ばし、しっかりした口調で挨拶を読み上げた。参列者がまたも涙を流す中、西川君のご両親は悲しみに堪え、気丈に振舞っていた。
 その時、私は「死」を心のどこかで遠くの出来事のように客観視していた。今日、人生で初めてお通夜に参加した。幸運なことに、私の家系は長生きで健康志向の強い方が大勢いるので、今まで誰の死にも触れたことがない。親族や仲の良い友達なら、心が壊れるほど悲しみに暮れるだろう。でも、私に死の実感を与える為に用意された彼の死は、あまりにも遠かった。今思えば、自分が死んでいることなどすっかり忘れ、四角に切り取られた夕刻の空に残る途切れた白線を見ていた。
お通夜が全て終了し、クラス全員で会場の外に待機していると、先生が会場から出てきたのを合図に、彼の元に集合する。先生は汗と涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになっていた。みんなも目の周りが赤く腫れていた。
「お通夜は、これで終わりだ。みんな、ありがとう。西川君もきっと喜んでくれただろう。安心して天国に旅立って、またみんなに逢える日を待っていると思う。告別式は昼間に行われるから、そのことはまた連絡するから。じゃあ……」
 そうみんなに先生が告げると、背後から、
「待ってください!」
 西川君のお母さんが真っ白いハンケチを握り締めながら走ってきた。彼女は胸に手を当て、穢れないハンケチで汗を拭い、呼吸を整えながら、
「よかったら、皆さんもお料理を食べていってください。あの子が寂しくないように、一緒にご飯を食べてやってください。……もう少しだけ、あの子と一緒にいてください」
 かき消されそうなか細い声で言い、ハンケチで目頭を押さえながら頭を下げた。
もう少しだけ、あの子と一緒にいてください、かぁ……。それは、西川君の気持ちでもあり、彼と親しかったみんなの願いだった。
私達は会場を移動し、ホールに案内された。お通夜が終わった後に行われる「通夜振る舞い」の料理が大皿に並べられていた。テーブルには、お酒やジュース、サンドウィッチのほかに、大好物の寿司が置かれていた。すでに、親族の方々は食事を始めていた。
各々が皿と箸を取り、料理を皿にのせていく。私は「やった! 寿司だ!」と心の中で浮かれながら、真っ先に寿司が盛られた皿に向かった。でも、そこには残念なことに、大好物のイクラとマグロは居なかった。皿の上には、巻き寿司といなりとガリだけが、寂しく盛られていた。
「なんだ、巻き寿司といなりだけか……」
 私は肩を落とし、河童巻きといなりを手早く取り、席に着き、早速河童巻きを口に放り込む。
「うおっ! この河童巻き、なんでワサビが入ってるの!」
 ワサビがつんと鼻を突き、じんわりと涙が溢れる。思わず温かいお茶を啜り、舌と鼻を落ち着かせる。
「はぁ~、辛かった」
 間一髪のところで、大泣きせずに済んだ。緑茶で一息ついていると、後ろのテーブルから鼻水を啜る音が聞こえた。私と同じようにワサビで泣いているのかな? 振り返ると、男子三人が泣いていた。
「あいつがいたから、うちの高校は去年インターハイに行けたんだ。あいつがいなかったら、絶対無理だったよな。西川がチームを盛り上げてくれたから、みんな頑張れたのに……」
「うん。俺もサッカーで辛い時に、ダイスケが励ましてくれたから、今もサッカー続けている。サッカーを続けることは、自分の為でもあり、ダイスケの為でもあった。あいつが人一倍頑張ってる姿を見たら、『俺も頑張ろう』って思えたのに……」
 黙って二人の話を聞いていた一人が、突然テーブルをバンと叩き、聞き耳を立てていた私は驚き、お茶を溢しそうになった。
「本当だよ! なんで、あいつが死ななきゃいけないんだ! 何も悪いことをしてないのに、死ぬなんておかしいよ! おかしいよ……」
 彼らはやり場のない怒りを涙に変え、何とか平静を保っていた。三人の西川君への愛が痛いほど伝わってきた。私は重たく冷たい鉄のような物体が圧し掛かり、心が潰れそうになった。背中を丸め、静かに俯くしかなかった。西川君は、こんなにも友達から愛されていたんだ。私のときは、誰が泣いてくれるのかな……。

 小一時間ほどで会食も終わり、お通夜は終了した。時間は、七時を少し回っていた。まだ外は明るかったものの、さっきまでの暖かい夕暮れは、冷たい灰色の空に姿を変えていた。
みんな先生から解散を告げられたものの、一人で悲しみを抱え込みたくないのか、なかなか帰ろうとはしない。泣いているサヲリの姿を見つけた。他の友達と一緒に何か話し込んでいる。みんな涙が頬を伝っていなくても、心は泣いている。私も悲しい気持ちは一緒だが、やっぱりみんなとは、気持ちを分かち合えない。
行き場を無くした私は、一人で帰りたい気分だったので、誰とも会話を交わさず足早に会場を後にし、駅に向かう。一心不乱に駅に向かう途中、突然聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。声の主は、幼馴染の水城アキだった。
「お前、一人で帰ってるのか?」
「……うん」
「よかったら、一緒に帰らない? 俺、今は一人になりたくない気分なんだ」
 私はアキとは反対に、一人になりたかった。しかし、その理由を聞かれても上手く答える自信がなかったので、彼の提案に黙って頷く。
 二人で、今にも雨が降りそうな不安定な空の下を歩き出す。私は話しかける話題が思いつかないので、無言でアキの隣を歩く。アキの顔を横目で覗くと、目の下がほんのり赤く膨れていた。アキも泣いたんだ……。当然だよね。
「お前、西川の通夜で何か思った事とかあるか?」
 アキが何の脈絡もなく、唐突に訊いてきた。思ったことはあった。けれど―。
「……別に、特に無いです。強いて言えば、巻き寿司のシャリが少し乾いていたのが気になったぐらいかな」
私は嘘をついた。寿司の乾きが気になったのは嘘ではないが、心に重く引っかかる鉄の存在をアキに言うことができなかった。正確には、どんな言葉を紡いで表現すればよいのか分からなかった。
「まあ、お前は西川とはあんまり話したことがなかったからな。実は、俺もそんなに親しかった訳じゃないんだ。高二で初めて顔を見た奴だったし、一緒の教室に居たのも三ヶ月だけだしな。体育のサッカーで一緒にチーム組んだ思い出しかないけど、あいつサッカー上手かったのは覚えてるよ」
 アキは目を潤ませながら、曇天の空を見上げる。きっと、その時の光景を灰色のスクリーンに映し出しているのだろう。天国の西川君に届くように。
「西川君って、サッカー部だったらしいよ」
「お前、西川と仲良かったのか?」
「ううん。お通夜の後でお寿司を食べている時、サッカー部の人たちが『あいつがいたから、うちの高校は去年インターハイに行けたんだ』って、咽び泣きながら言ってたのを聞いた。確かに、祭壇にはサッカーボールがあった気がしないでもない」
アキは目を丸くし、少し嬉しそうに「お前、よく見てるな」と私を褒めた。
「ごめん、サッカーボールは幻覚かもしれない。寿司のワサビが多すぎたせいだ」
彼は「あははっ」と苦笑しながら、
「サッカー部のエースだったのか。どおりでサッカー上手い訳だ」と納得していた。アキも、西川君と思い出はあまりないらしい。それなのに、お通夜で何を感じたんだろうと思い、彼の顔を横目で気づかれないように見る。アキは、空を見上げたままだ。
そんなにサッカーが上手なら、将来有望視されていたのだろう。西川君は夢半ばで、突然人生に幕を下ろされたから、この世に未練が残っただろうに……。ん、未練? なぜか、この単語が頭の奥でぐるぐる回りだす。とても大事な言葉のような気がする。でも、なんで大事なの?
解けない謎を考えている私を尻目に、突然「あっ!」と、アキが空を指差しながら声を上げた。
「雨降ってきた!」
 私もつられて空を見上げる。額に大粒の雫が落ちてきた。雫は額から頬を伝い、泣けない私に涙を与えてくれた。
「俺、傘持ってきてるから、一緒に入ろう」
 アキがビニール傘を開き、二人で一つの傘に寄り添いながら歩く。申し訳ないので、傘から少し肩をはみ出しながら歩いていると、「肩が濡れているから、もうちょっと中に入りなよ」
アキが優しく言ってくれた。彼の方を見ると、私以上に肩が濡れている。私はお礼も言うことも、寄り添うこともできず、黙って雫が着いたローファーを見つめていた。
顔を上げると、アキとふっと目が合う。その眼差しはいつもの優しい目ではなく、強く澄んだ光に満ちていた。なぜだか分からないが、私は思わず目を反らした。
「俺さ、実は誰にも言ってない夢があるんだ」
 私は無言で下を向く。ローファーが水を弾きながら、右、左、右と意志とは関係なく、規則正しく機械的に靴が動いている。
「俺、ピアノを本格的に学びたいんだ。まあ、ピアニストになれる才能は無いけど、自分が納得いくまで勉強したいんだ」
 アキは三歳からピアノ教室に通っていた。私達が幼稚園生や小学生の時、アキがピアノを弾き、私が酷く音程を外しながら童謡やアニメの主題歌を歌っていた。私の歌声を聞くたびに、彼はいつも爆笑しながらピアノを弾いていた。他愛もない事だったが、私達の関係を結びつける大切な遊びだった。
しかし、小学四年生の時に、アキは野球を始めた。理由は、イチローに憧れたからだ。何とも分かり易い。でも、彼の家族はオリックスでもマリナーズのファンでもなく、全員巨人ファンだ。なんだか矛盾している。
アキに与えられたポジションは、セカンド。打撃だけでなく守備も上手く、俊足であったことから、すぐに頭角を現し、レギュラーの座を獲得した。彼は今でも変わらず、ピアノと野球の二束の草鞋を履いている。
私はアキの語った夢にどう答えていいのか分からず、愛想なく言葉を返す。
「なんで、そんな大事な夢を私なんかに話すの? 彼女に話しなよ」
「こんな言い方したら誤解されるかもしれないけど、俺にとってお前は家族みたいな存在なんだ」
「家族じゃないし……」
私は俯いたまま、ぶっきらぼうに答えた。嬉しい半面、どんな顔をすればいいか分からなかった。アキは、優しく少しハスキーな声で「そりゃ、そうだ」とまた笑った。
二人の世界は、雨が傘を弾く音に包まれていた。私は少しだけ顔を上げた。ビニール傘から見える透明な八角形の規則正しく切り取られた空は、灰色の空の向こうのまだ見ぬ広大な世界に繋がっている気がした。本当は、どこかに繋がっているようで、どこにも繋がっていない世界だ。
「ハルカは、もし明日死ぬとしたらどうする?」
アキが真面目な顔で問いかける。ゆっくりとアキの顔を見つめると、彼の黒眼に反射したあの力強い光はまだ瞳に宿ったままだった。
「わからない」
そう答えるのが精一杯だった。急に頭に鋭利な刃物で刺されたような痛みが駆け巡る。今朝見た夢がフラッシュバックする。もしかして、私、死んでるの?
「そうだよな。明日、自分が死ぬなんて考えないよな。だけど、当たり前のように明日は来ないんだ、って今日のお通夜の席で改めて実感した。だから、ハルカにピアノの話をしたんだ。なんだか、無性に誰かに自分の夢を聞いて欲しかった。でも、笑うだろ? 俺がピアニストになりたいなんて」
アキの言葉が雨音にかき消されて、よく聞こえない。本当に死の淵から生き返ったの? じゃあ、私も一週間後に、さっき見た西川君のように青白い顔で冷たい柩の中で眠らなければならないの?
「ハルカは、夢とかないの?」
 見知らぬ誰かに、目隠しされた。死ぬの、私? 否、一度は死んでるから死ぬのは怖くないはずだ。そう、怖くない。死は意味を持たない―。
「ハルカ!」
 アキの声が目隠しをした手を振りほどく。視界は光を与えられたが、私は水の上を歩いているような浮遊感に包まれた。
「あっ、えっ? 何?」
「俺の話聞いてなかったの?」
「……ごめん。で、何?」
 アキは少し寂しそうに私の顔を見つめる。彼の肩は、さっきより濡れていて、白いシャツが小麦色に染められていた。
「ハルカは、将来の夢とかないの?」
 将来の夢? 赤黒い影を胸の奥に流し込む。アキの質問に、何も答えることができなかった。幼い頃は、ケーキ屋か花屋になりたかった。でも、その夢は漠然とただ憧れていた職業なだけだ。砂糖菓子のような甘ったるいだけの、実像のない夢。彼のように、自分の強い意志でなんとしてでもやり遂げたい夢は、ポケットの中にも鞄の中にも、どこにもなかった。ポケットにあるのは、イカガワシイ広告が入ったゴミ屑同然の皺くちゃになったティッシュと、鞄の中には乱暴に押し込まれた落書きだらけの教科書だけだ。
この時、初めて自分には叶えたい夢も、生きる目標もないことに気がついた。ただ、この世に生まれ落ちることを偶然に赦され、透明な水が指の隙間から落ちるようにあっけなく死んでいった。手を伸ばしても何も掴めす、目の前は真っ白で何も見えない白く濁ったゼリーの海に溺れてしまいそうになった。いや、どうせ溺れるのなら、アキの蒼く甘い夢の中に溺れたいと思った。
「アキ!」
 私の思考を打ち切るかのように、背後から甲高い女の声が聞こえてきた。アキと同時に振り返ると、アキの彼女の善導寺リンカが傘も差さずに、息を切らしながら走ってきた。
「アキ、一緒に帰ろう!」
「えっ! でもハルカは、傘持ってないし……」
「私も、傘持ってないよ」
 リンカちゃんは「はぁ、はぁ」と色っぽく息を漏らし、濡れた髪を仕切りにいじりながら、アキに甘えるように上目遣いで見つめている。その潤んだ瞳は、どんな言葉よりも男の気を引かせる有効な手段だ。
「私のことは、いいから二人で帰りなよ」
 私はこれ以上面倒なことは起こしたくなかったので、アキの傘から離れた。今は他人の恋路なんてどうでもいい。リンカちゃんはすかさず傘に入り、彼の腕にしがみつき、私を睨みつけた。
アキは心配そうな顔で、雨が支配する世界に放り出され、全身が濡れ始めた私に声をかける。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ。駅まであと少しだし、何とかなるよ。ほら、早く行きなよ! 彼女が濡れて風邪ひくほうが大変だよ」
 私は精一杯の笑顔で二人を見送った。二人は腕を組みながら歩いていく。駅と未来に向って―。
二人の後ろを歩くのは気まずかったし、歩きたくなかったので、角を曲がり、別のルートで駅に向かうことにした。耳障りな哀しい雨音を遮断する為に、鞄の中からウォークマンを取り出すが、こんな時に限って電池切れだ。しかたなく、無言で駅に向かって歩いた。この道は駅にしか繋がらない大きな道だ。
雨はさらに激しさを増し、私の心を容赦なく掻き毟る。逃げるように俯きながら歩いていると、鞄を頭に乗せたサラリーマン風の男が息を切らしながら横を急ぎ足で走り抜けて行った。雨を蹴りながら走る足音は、見知らぬ彼が懸命に生きている証に思えた。次第に、私達の距離が離れて行く。自分と同じように傘も差さずに、同じ道を同じ目的地に向かっているはずなのに、何かが違う。
私は脳みそ三グラムをフル回転させて、一つだけ分かったことがあった。二人が決定的に違うことは、目的地は同じでも企業戦士は前を向いて走っている。社会という、マニュアルが存在するようでしない、どんな屈強で健全な精神を持った者ですら一度はラビリンスに迷い込むという道筋無き道で戦っている。彼の視界は激しい雨の中でも、見えない光を求め走り続けている。今の私の目に映るすべての景色の色は死んでいた。
足を止めた。雨が髪を濡らし、伝い落ちる雫が硬く結んでいる唇に触れる。ローファーだけを見つめ、雨に打たれていると、急に雨が止んだ。びしょ濡れの顔を上げると、隣に見覚えのある真っ黒な高級なスーツを身に纏った男が立っていた。西川がこうもり傘を持って、隣に佇んでいた。
「いつから、そこにいたの?」
私は固く結んだ口を開いた。西川は目を合わすことなく、冷たい口調で「さっき」とだけ答えた。彼の顔を見た瞬間、大事なことを思い出した。
「もしかして『クラスメイトのN』て、西川君のことだったの?」
「今更、気が付いたのかよ! 死んで生き返ったことは思い出していたみたいだが、肝心なことは覚えてなかったんだな」
「自慢じゃないけど、記憶力はすこぶる悪いんだ。……じゃあ、彼は私の代わりに死んだの?」
西川は、雨が降りしきる空を見つめながら、「ん~」と、意味ありげに口を尖らせた。
「何かあるの?」
 自分の声が少し震えている事に気が付いた。震えていることを認識した瞬間、得体の知らない恐怖が体中を駆け巡り、背筋が凍りついた。二人の間に冷たい沈黙が流れる。傘を弾く乾いた雨音が、やたらうるさく思えた。何か話そうとしても、沈黙からくる緊張と恐怖から、喉はカラカラに渇き、唾を飲み込むのも困難になっていた。
西川が重い口を開いた。
「時期がきたら、話すよ」
 私はその言葉に怒りが込上げてきた。
「時期って何? いつなのよ! そもそも、私はあと一週間で死ぬんでしょ。あなたが言う『時期』っていう時間は私に訪れるの? でたらめ言わないでよ! 私には時間も無いし、未来も無いし、夢も無い。韻を踏むテンポも無ければ、ティンポも無い! あぁ~、何か意味分からない寒い下ネタラップまで飛び出すし、鬱になる!」
私は顔を真っ赤にしながら、怒りにまかせて、八つ当たりするように吐き捨てた。雨と怒りでくしゃくしゃになった顔を、両手で勢いよくゴシゴシと擦った。
「お前、鬱病の気があるのか?」
西川が少し心配そうに、顔を覗きながら真面目な顔で訊いてきた。私は思いっきり彼を睨みつけながら、「自己診断だよ!」と大きな声で堂々と答えた。
「心配した俺が馬鹿だったよ」
西川は呆れ気味に、雨に溶け合うように溜め息をついた。私はくしゃくしゃになった顔のまま、西川を見た。彼は私の無残な顔を見ると、冷笑し、慰めの言葉をかけてはくれなかった。
「どうだ、欝になる気分は? お前には、ほんの少しだけ赦された時間はあるが、未来はない。惨めなものだろ?」
「どうして私を生き返らせたの? こんな思いに苛まれるぐらいなら、あのまま死んだ方がよかった……」
 柩の中で静かに眠る西川君の顔が目の奥で蘇る。生気のない、ただの肉塊に成り果てた男の子。彼の体も心もすべて消えた。どこにも存在しない。そして、火葬されるまでの腐敗だけが彼の最後の仕事。腐る臭いを周囲に撒き散らすことでしか、自己の在り処を主張できない。
雨音と共に、強烈な吐き気が胸を込上げる。恐怖を吐き出さないように、下唇を痛いくらいに噛む。
「その顔が見たかったからさ」
 西川の歪んだ笑顔が、私の心を後悔と絶望の渦の中へ追いやる。
「まあ、俺様も悪魔じゃないから、お前が懇願するなら、今なら教えてあげてもいいけど」
 何時にも増して、意地の悪い。西川君の死の真相や、なぜ私が生き返るのを赦されたのか、訊きたいことは山ほどある。ここは意地を張ってる場合じゃない。
「教えてください。……お願いします」
 吐き気を堪え、不本意だったけど、素直に頭を下げた。今度は口の中に鉄の味が広がる。強く噛みすぎて、唇が切れていた。濡れた手の甲で唇を拭うと、透明な液に血が滲む。
西川は優越感に浸り、偉そうに語りかける。
「素直でよろしい。じゃあ、お前にだけ教えてやるよ」
 私は彼の言葉に耳を傾ける。どんな理由が存在するのか恐怖でもあったが、好奇心の方が勝っていた。
「実は、お前が死んだ直接的な理由は事故だが、本当の理由は違う。お前の命の代わりに、別の人間が一週間生き返っているんだ。だから西川ダイスケも、今頃あの部屋に行ってるよ」
 私は西川が言っている事がまったく理解できなかった。私が死んだ理由が事故じゃない? 別の人間が生き返る? 西川ダイスケ君があの部屋にいる? いったい何の話をしているの?
 私は混乱する頭で必死に西川の言葉の意図を理解しようと試みるが、冷静を装うとする思考とは裏腹に、鼓動は胸を締め付けるかのように動きを加速させる。
「……何でそんなことをするの? じゃあ、私が死んだ本当の理由は違うんだね」
 締め付ける胸から、無理矢理に血を絞り出すように掠れた声で、彼に尋ねるのが精一杯だった。西川は私の目を見ようとはせず、泣き叫ぶように雨が降る空を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「あの部屋での話、覚えているか?」
 そう彼は小さな声で、私にではなく泣き止まない空に向かって呟いた。正直に言って、私は西川と話した事柄なんて、ほとんど覚えていなかった。唯一覚えていたのは、一週間だけ生き返る話と、あとは―。
「話って、もしかして寿司の話かい」
「いい加減、寿司から離れなさい。『命の意味』とは何ぞや、て話だよ」
 今度は私の目を真っ直ぐに見ながら、彼ははっきりとした口調で答えた。どうやら私の勘は外れたらしい。それどころか、まったく的を得てないばかりか、西川の言う「命の意味」なんて、小難しい議論を彼と交わした記憶はまったくない。私は、西川の質問に首を思いっきり横に振った。
 西川は首を擡げながら「はぁー……」と大きな溜め息をつくと、またしても鉛色の空を見上げる。思い出したくない重く閉ざされた過去の扉を慎重に開くように、話し出した。
「人間は命の危機を自覚したり、死んでから、初めて命について真面目に考え出す生き物だ。特に、若い奴等は生きている事が当たり前だと思い込んでいる傾向が強い。―もう、ずいぶん前になるが、こっちの世界を散歩していると、いきなり目の前に女が落っこちてきた。大抵の事では驚かない俺様でも、さすがにびっくりしたよ。一瞬、お前ら人間が作った有名なアニメの天空の城なんたら、って言う映画かと思った。もしくは、俺が見ることは絶対に赦されない天使が、誤って天空から落ちてきたのかと思ったよ。残念なことに、俺の浅はかな憶測は両方とも外れた。どうやら、女は俺の真横に聳え立っていた高層ビルから飛び降りたらしい。その女は、まだ中学生ぐらいだったかなぁ。頭は陥没して、足はあらぬ方向に曲がっていた。でも、腕を広げて飛び降りたせいか、拉げた腕と飛び散った血のせいで、まるで飛ぶ機能を自ら捨てた羽根が、無残にも地面にめり込んでいるかのように見えた。しかし、不思議なことに女の表情は、穏やかで幸せそうだった。表情だけなら、神から束の間の安息を与えられた天使のように優しい笑顔だった……」
西川は少しだけ、遠くの空を見つめながら話を続けた。それは、横に居る私に語りかけているのではなく、きっと死んでしまった女の子に対して話しかけていることは明らかだった。
「なんか、よくわかんねぇけど、そいつが可哀想に思えて、地獄に逝く前の彼女の魂を、あの部屋に呼び出したんだ。とりあえず、死んだ理由だけ訊き出して、お前と同じ条件で一週間だけ生き返らせた。そいつは、自分を振った同級生の命を代償に生き返った。死んだ理由は、お察しの通り失恋だ。初めて、人生に躓いたらしい。まったく、中学生のくせにプライドだけは富士山級だぜ」
西川は呆れ口調になりながらも、哀しそうに笑っていた。その苦しい笑顔は私の胸をまたもきゅっと締め付ける。さっきとは違う痛みが体中に広がるのを感じながら、私は西川に何一つ声を掛けられずに、立ち尽くしていた。目の前で落ち込んでいる人が居ながら、気の利いた言葉一つ掛けられない、自分の役立たなさに腹が立つ。
そんな私の様子を尻目に、西川が「でもな……」と言った時、口元は笑っていたが悲しみを帯びた声だった。もう、彼は過去の悲しみを隠しきれずにいた。
「あの女は、自分が死んだことなんて、無かった事のように普通に暮らしていた。寝て、起きて、食べて、学校に行って、友達としょうもない話をして、風呂に入って、テレビ見て、夕食を食って、寝るだけの繰り返し。あいつは、死の恐怖に怯えることもなく、命や人生の意味なんて1ミリも考えてなかった。ただ、無駄に時間を垂れ流し、命を消費していた。俺はじっとあの水晶で、女の様子を見つめていた。お前の時みたいに、けっして姿は現さなかった。そして、砂時計のように時間はあっと言う間に過ぎ、あいつを迎えに行く日になった。俺はあいつとの別れの時、生き返った感想を聞いたが、『別に』て答えた。予想外の解答に戸惑っていた俺を見ながら、女は最後に『一週間なんて、大して意味の無い時間だね』て、言いながら消えていった。その時、あいつの笑顔は歪んでいて、目は当の昔に死んでいたかのように、真っ暗で凍るような眼差しを俺に向けた。彼女はビルから飛び降り、血塗れの天使になった日の方が、明らかに幸せそうな顔で死んでいた気がした。その顔を見ながら、もしかして俺は余計な事をしたんじゃないかという罪悪感と、生物の命って何だ、て考え始めた」
西川は幻の翼が生えた天使の話を終えた時、私はそっと彼の顔を覗き込んだ。彼は頑なに目を閉じ、私の顔を見ようとはしていなかった。まるで出口のない迷路に迷いこみ、自力では脱出することが不可能な事を悟り、初めて絶望と言う名の苦いスパイスを何とかして飲み込もうと必死だった。
私は西川が肩で大きく息を吐き、ゆっくりと開いた目を見つめながら、目を開くと同時に、またしても彼が過去の扉に頑丈な施錠をした金属の甲高い音が聞こえた気がした。
「それから俺は、神から受諾された死のリストから、若くて能天気な、そうお前みたいな人間を選び出しては、あの部屋に連れて行き、他人と命と引き換えに有無を言わさず、生き返らせて、最後の一週間を観察しているんだ。そして、次の人間が死んでは生き返る―。以下、ループ中て訳だ」
 西川の話を聞きながら、私の死は運命などと不確かな事象によって与えられたのではなく、死は必然であり、彼の壮大な実験の一部に自分が組み込まれ、仮初めの命を与えられていることを知った。でも、不思議と怒りや憎悪は沸いてこなかった。きっと、彼の痛みが理解できたからだ。それよりも、一つだけ腑に落ちない点があった。
「ねえ、聞きたいことは山ほど在るんだけど、一つだけ聞いていい? 西川は私に生まれ変わる為に必要な命を、五人の人間から選ばせたよね。あのメンバーはどうやって選抜したの? 全員が死のリストに掲載されていたとしても、私が西川ダイスケ君を選ばなかったら、どうしてたの? そして、私が選ばれる事は前に死んだ人間が決めたことなの?」
 自分でも気付かないくらい早口で、一気に捲くし立てる様に質問詰めをした。一旦口を開くと、聞きたいことは一つじゃ収まらなかった。興奮気味の私を宥めるかのように、西川が優しく肩に手を置いてきた。手は少し雨に濡れていて、生温い水が制服からじんわりと肌に伝導してきたが、掌は悪魔とは思えないほど温かかった。
「まず、お前の死は、確かに以前に実験した人間が指名した。しかし、そう仕向けたのは俺だ。だから、初めからお前が西川を選ぶ事は決められていたんだよ。さっき言った死のリストは、神から与えられたものだが、今は俺が書き込むことが赦されている。意味わかるよな? でも、その人間が与えられた寿命を無理矢理に短くすることは絶対にしない。あくまでも、初めから定められた寿命の消費期限が間近に迫り、前に死んだ人間に近すぎず、遠からずの人物から命を剥奪することしている。それは、軽い顔見知り程度の人間でも、自分の為に死んだと考えたら、多少なりとも俺があの時感じた罪の意識に苛まれるんじゃないかと思ってね。生き返った人間を観察しつつ、次々とターゲットを常に探しているんだ。だから、西川ダイスケの次の人間は、お前の同行を見ながら探しているから、俺もなかなか忙しいんだぜ」
 彼は澱みなく説明を終えたが、私はいまいち理解することができなかった。きっと、私の頭の容量を超える情報量を一気に流し込まれたせいだ。頭から煙が出そうな私の様子に気がついた西川が、頬を掻きながら、
「ダラダラ話した内容を簡単にまとめると、俺には時間も命も無限に存在する。だから、死ぬことも出来ない。でも、人間の時間と命は有限なのに、無駄遣いばかりしやがる。おまけに、他の命の上に自分の命が成立していることに感謝すらしない。不思議でしょうがなかった。だから、俺自身が知りえない『命の意味』を、お前ら人間を使って見つけようと思った。きっと、正解は存在しないが、生き返らせた人間が限りある時間の中で、見つけ出した答えにも興味があった。だから、このゲームを始めた。死のリストを駆使して、芋づる式で命を生かしも殺しもしている。まあ、そんなところだな」
 と要約したのか、してないの分からない答えを提示してくれた。肩に触れていた温かい手がそっと離れていった。そういえば、西川は一体何者なの? 以前聞いたときは答えてくれなかったが、今なら答えてくれそうな気がした。根拠はないけれど、なぜかそう思えた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くぜ」
 西川は秒針しか時を刻んでいない腕時計を見ながら、唐突に別れを切り出した。私は慌てて彼の高級そうな真っ黒いスーツの袖を思いっきり掴み、必死に食い下がった。
「最後に、もう一つだけ聞かせて! 君は一体何者なの?」
 彼は私の気迫に驚いたのか、スーツを掴んだ手を振りほどくことなく、目を丸くし、長い睫に覆われた大きな瞳がより一層大きくなっていく。その瞳を見つめていると、何度も吸い込まれそうになった。
 西川は、固まったままの私の腕をゆっくりと解き、おそらく誰にも話したことがない秘密を打ち明けてくれた。
「俺は死んだ魂を、きちんと天国か地獄まで送り届ける仕事をしている。自分の意思とは関係なく、突然この世界から肉体が消失してしまった人間は、自分が死んだ事を認めないのはおろか、無理矢理にでもこの世に留まろうとする。そういう魂は初めからリストアップされていて、俺はそのリストに従って一日何人もの魂を迎えに行っている。まあ、素直に俺の言うことを聞いてくれる人間はなかなか居ないから、神から委託されたサービス業とは言え、けっこう大変なんだぜ。潔く説得に応じる人間なんていないようなもんだしな。まあ、よく考えてみれば、いきなり変な男が現れて『あなたは死んだので、魂を迎えにきました』て言っても、信じる人なんていないよな。ちなみに、俺と同じ仕事をしている奴はあと二百人ほどいるんだぜ」
「にっ、二百人もいるの!」
 私はその数字の多さに驚き、大きな声で聞き返した。悪魔て、そんなに存在するの? 私の困惑した表情を見た西川は、にやりと不敵に笑い、自慢するように高らかに話し続けた。
「そうだよ。何て言ったって、我々の業務は全世界をフィールドに遂行されているので、それぐらいの従業員は必要だろ? ちなみに、日本担当は俺を含めた四人だ。あとの三人は俺のやっている実験に関しては知らないけどな」
「いっ、色々な職業があるんだね……」
 声が上ずり、そう言い返すのが精一杯だった。私の反応がいまいち面白くなかったのか、西川は口を尖らせる。
「それでは質問は以上を持って、終了とします。じゃあ、俺はもう行くからな。あとは自分の少ない脳ミソで考えな。七日には迎えに来るから、適当に頑張んな」
 一方的に別れの言葉を言い放つと、びゅっ、と風が空気を切り裂く大きな音が辺りに響くと、突風が体を駆け抜け、私は反射的に目を閉じる。風が通り過ぎたのを体で感じ取り、恐るおそる目を開く。
 さっきまでとは違う、西川の冷たい視線と交わる。
「まあ、お前は空っぽな人生だったから、未練も執着もない人生を送れたんだから、それはそれでいいじゃないか。空っぽだった人生を、今更後悔しても遅いと思うけどな。まあ、存分に余生を楽しめばいい。この一週間をどう使うかは、お前の自由だし」
 西川はそう突き放すと「じゃあな」とだけ言い残し、私を置き去りにして歩き出した。私の頭上から、再び雨が降り始めた。
「雨が降りそうな日は、ちゃんと傘持って出かけろよ」
彼は背中越しに、振り返りもせず、手をひらひらさせながら去っていった。
私は雨の中をひとり立ち尽くす。冷たい雨の音がすべてを切り裂いていく。呼吸も、希望も、心すらも……。雨が指からすべり落ちてゆく感覚だけが、やけにリアルだった。
アキは私の知らない人になっていく。でも、私は何も変えることができない。時が過ぎれば、アキは私の事を忘れてしまうだろう。忘れはしなくても、時間の経過と共に記憶は曖昧になり、過去を緩やかに昇華し、今日話した大事な会話ですら、彼の記憶の底に深く沈んでしまう。自分が死んだ事実より、他人の記憶から存在が消えてしまうことの方が怖かった。
死にたくない―。初めてそう思った。否、思えた。抑えていた感情が一気に溢れ出す。
泣き叫ぶ声は雨に吸い込まれ、誰にも届かない。


七月二日
 
今朝も昨日と同じように、母親の号令で叩き起こされた。体を起こすと、背中から大量の寝汗が噴出しており、Tシャツがじっとりと張り付いていた。朝から気分は最悪だ。
朝食のパンを食べながら、ぼんやりと天気予報を見ると、今朝の気温は今期最高の値を示していた。どうりで、寝汗が凄いわけだ。 
母が入れたての紅茶を差し出す。微かにオレンジの香りが辺りを優しく包む。大好きなオレンジペコだ。パンと暑さで乾いた喉を潤していると、母は私の目が腫れていることに気付いた。
「どうしたの? 目が腫れてるわよ」
「なんでもないよ……。ごちそうさま」
心配する母に上手く誤魔化すことができず、適当に返事をし、席を立った。食欲がなく、大好きなクロワッサンを半分しか食べられなかった。あと幾つクロワッサンを食べれるのかな……。
慌ただしく学校の支度を済ませ、家を出た。私は自転車に乗ろうか迷ったが、事故の記憶が頭を掠め、乗るのをやめた。なんとなく不吉な予感がして、駅まで走って行った。
汗だくになりながら、いつもの電車に乗り込む。車内は通勤客で溢れかえり、クーラーはまったく効果を発揮していなかった。遅刻ギリギリで汗まみれで席に着くと、いつもと同じようにサヲリが愛くるしい笑顔で挨拶をしてくれた。
教室はいつもと変わらない慌しさに包まれている。昨日の焼き回しのような学校生活。ひとつだけ昨日と違ったことは、西川君の机に綺麗な花が生けられた花瓶が、ひっそりと佇んでいた。
柳川先生が教室のドアを開ける音を合図に、生徒達は席に着く。
「みんな、おはよう。今日の午後一時から、西川君の告別式が執り行われます。告別式は授業などの関係で、サッカー部と西川君と親しかった生徒だけ連れて行きます。どうしても告別式に行って、お別れをしたい希望者は先生に申告してください。以上です」
先生は疲れが滲み出ていて、声も少し枯れていた。彼は早々にホームルームを切り上げ、教室を後にした。誰も口を開く者はおらず、教室は静けさと悲しみだけが漂っていた。
 私は西川君に対する罪悪感と、いずれ自分に訪れる死の恐怖で押しつぶされそうになった。今まで経験したことのない感覚に、どう対処すればいいの? 誰か教えてよ! 縋るように見えない誰かに救いを求めた。分かりきった事だが、誰も返事をする者はいない。
空っぽの授業が終わり、そそくさと帰りの支度をしていると、サヲリが「一緒に帰ろう」と誘ってきた。サヲリには申し訳ないが、今日はどうしても一人になりたかった。
「ごめん。今日寄りたい所があるから、先に帰るね」
「……そっか。わかった! また明日ね」
 嘘をついた。サヲリは私の嘘に気がついたのか、それ以上何も言わなかった。本当はどこにも寄る予定はないが、他に誘いを断る言い訳が思いつかなかった。彼女は疑いもせず、ひらひらと手を振ってくれた。それに答えて、私もひらひらと手を振り、サヨナラの挨拶を交わす。
 私は無言で駅まで歩いた。いつもならお気に入りの音楽を聴き、学校から開放された喜びいっぱいで軽快な足取りで駅に向かうのだが、今日は音楽すら聴く気になれなかった。どんな音楽を聴いても、心の隙間を埋めることができない。
 昨夜、天井の赤黒い染みを見つめながら、改めて死について考えた。どうして、死は怖いものなの? 私が死んだら、家族はどれほど悲しむのかな? どうして人は死と言う概念を持ってしまったの? 答えのない問いが天井に貼りつく。聖人君子が死の哲学や生の尊さについて熱く述べられても、今の私はきっと納得できない。だって、彼等は死ぬ日を知らない。いつかくる死に備えて、哲学を学んでいる。だから余裕を持って、死や生を考えられる。余命五日の私は、そんな猶予はない。あっ、西川が言っていたのは、この事だったのね。彼に言うとおり、今更「生きたい」なんて虫が良すぎるか……。天井がぐにゃりと歪む。もうすぐ、みんなとサヨナラをしなければならない。家族やサヲリにも会えなくなる。そしてアキにも―。一人は嫌だ! でも遅かれ早かれ、人は平等に死を与えられている。私は人より少しだけ天国に逝くのが早いだけ。それなら、みんなが来るまで暖かいふかふかの雲のベッドで寝て待っていれば、寂しくない。そうだ、寂しくなんかない! 安っぽい自己暗示を掛け、なんとか狂いそうな心を縛り付け、夢の世界に沈んでいった―。
改札を通り過ぎ、駅の階段を一段一段ゆっくり下った。足を下ろすたびに、コツコツと履きなれたローファーから冷たく乾いた音が鳴り、人気のない階段に響きわたる。
ホームの椅子に腰を下ろし、空を見上げた。昨日の暗く重い空とは違い、白い雲が悠然と流れ、青く澄みきった世界が目の前に広がっていた。遮断機の悲鳴のような警告音と、蝉が短い命を精一杯燃やし尽くすさんばかりに鳴き散らしている声だけが、耳の奥に鳴り響いていた。
私は線路を何も考えずに、ただ見つめていた。冷たい二本の線は、平行で絶対的な距離を保ち、決して交わることはない。まるで余命五日しかない自分と、目の前を通過していく未来が当たり前のように訪れる人々との心の距離に似ていた。両者は、近いようであまりにも遠くの存在になっていた。私は五日後にこの世から消えるのか。自分が消えても、クラスのみんなも、電車に乗り降りする人間も、この世界も何も変わらず動き続けるのか……。その思いに獲りつかれると居た堪れない気分になり肩を落とした。
「まもなく七番線ホームに、第二新福岡行き下り電車が参ります。黄色い線の内側までお待ちください」
いつもと変わらないテンプレート通りの場内アナウンスが流れる。
私は電車が来る方向に、虚ろな視線を流す。まだ電車は着いていないようだ。視線の先に、黒い光沢を帯びた背広を着た男が、ホームの片隅に立っていた。男はさっきまでの私と同様に、ぼんやりと線路を見つめていた。
「こんな時間にサラリーマンがいるなんて珍しいなあ……」
時刻は午後四時。新小郡駅は住宅地にあるので、企業戦士たちが帰宅の地に向かうには少し早すぎる。どう言う訳か、男から視線を外せなかった。そこへ下り電車がカーブを曲がり、姿を現した。
私は重い腰を上げ、ドアが開く番号が書かれた黄色い線の位置に並び、電車を迎える準備をする。電車の位置を確認しようと、視線を左に逃がすと男が視界に映りこんだ。男がゆっくりと、黄色の線に向かって歩き出す。あのサラリーマン、まさか電車に飛び込むつもりかな? いや、それはないでしょう。心の中で思っていると、男は見えない手に導かれるようによろよろと歩き、黄色い線を越えた。
「おいおい、マジかよ!」
電車はカーブを曲がり、ライトを点滅させながらホームに向かってくる。男は目を瞑り、両手を広げ、線路に飛び降りようとしている。男の存在に気が付いたのか、電車が叫ぶように警告音を鳴らし始めた。女性の「キャー!」と切り裂くような悲鳴が、ホーム中に響き渡る。
「ちょ、おまっ!」
私は女子の風上にも置けないような言葉を発しながら、鞄を投げ捨てて、全速力で男に駆け寄った。男は両目を固く閉じ、今にも線路に吸い込まれそうになったとき、横から飛び掛り、思いっきりタックルを掛けた。男は「ぐぇ!」と言葉にならない奇声を上げながら、二人はホームを派手に転がった。
次の瞬間、電車はホームに滑りこみ、間一髪で男は一命を取り留めた。
「何やってるんですか!」
 私は男を取り押さえながら、大声で怒鳴りつけた。男は地面に打ちつけた頭を、手で押さえ、痛みで顔を引き攣らせていた。
「止めないで! 私は一思いに死にたいの!」
「誰のおかげで、マグロにならずに済んだと思ってるの! 今死んだら、みんなの迷惑になるんだよ! 死ぬなら誰にも迷惑掛けずに、孤独に死になさいよ」
 勝手に死ぬことを選択して、たくさんの人を悲しませるのに、死ぬ時まで人に迷惑をかけるなんて、いい大人のくせに信じられない。
私は心に傷を負っている人に対して、説教をするなんて自分でも大人気ないと気づいていたが、怒りを抑制させることができなかった。
「ひどいわ……」
 男は涙を薄っすらと浮かべながら、怯えた小動物のように私を見つめる。でも、命を粗末にしようとしたあなたに、私は同情しない。
ホームいた人々は、私達を横目で見ながら通り過ぎ、何事も無かったかのように電車に乗り込む。誰も話しかける者はいない。電車のドアはあっけなく閉まり、二人を置いて駅から出発してしまった。私は顔を上げ、車内を見ると、ドア越しに乗客が私達を見下ろしていた。まるで未来がない自分と、未来を自らの手で終わらせようとした男を哀れむかのように……。
「電車行っちゃった……」
「私のせいで、ごめんね」
 呆然と電車を見送る私に、男が申し訳なさそうに言った。謝られても、電車は帰ってこない。どんなに悔いても、巻き戻せない時間がある。そんなこと、今更考えてもしょうがないか。それよりも、恥ずかしいから、早く立ち上がらないと!
「とりあえず、立ちましょうか。みんながこっち見てたし」
「そうね」
二人は「どっこいしょ」と言いながら立ちあがる。私はスカートに付いた砂を叩き落とし、男は砂が付いたズボンを丁寧に叩いた。叩き終わると私達は、なぜか無言で見つめ合った。私は何か慰めの言葉を探している訳でもなく、何も考えずただ男を見つめていた。
「あの……」
私達は同時に、同じ言葉を発した。また二人の間に沈黙が流れる。でも嫌な沈黙ではなかった。私は男との間の距離に、どこか心地の良さを感じていた。先に口を開いたのは男だった。
「あの、膝を擦り剥いてますよ」
 私はびっくりして、急いで膝を見る。男を助けるためにタックルを炸裂させた時、膝を負傷してしまったようだ。「ホントだ」と言いながら、膝から流れる真っ赤な血を見つめた。夏の光に反射して血は鮮やかさを増し、付着した砂利が傷口にめり込み、表面がクレーターのようだった。まるで真っ赤に染まった満月だ。
「膝を擦りむくなんて、久しぶりだ」
私は痛いはずなのに、なんだか嬉しかった。流れる血が膝を伝い落ちる感覚がまるで生きている証のように思えた。そんな私の様子を、男が怪訝そうに見つめる。
「あなた、血を見るのが好きなの? もしかしてさっき倒れた時に、頭を打って、おかしくなっちゃったの!」
「勝手に頭を打って、おかしくなったとか言わないでください! なんでもないです」
 私はそんなに薄ら笑いを浮かべていたと思うと、少し恥ずかしくなって、顔を赤らめた。男は鞄の中をゴソゴソと漁り、可愛らしい蛇柄のポーチを取り出した。可愛いけど、私とは趣味が合わなさそうだ。
「これ、使って」
 差し出された絆創膏は、お花を持った可愛いウサギが描かれていた。蛇柄のポーチからウサギの絆創膏が出てくるのは、シュールだ。そう思いながらも、絆創膏をありがたく頂戴する。
「ありがとうございます」
「いいのよ。私の方こそお礼を言わなきゃいけないわ」
「いえいえ、お気になさらずに。じゃあ、私は次の電車が着たら帰りますね」
「あなた、私が死のうとした理由聞かないのね……」
私は男も言葉を聞くなり、さっさと歩き出した。
「興味ないんで」
振り返りもせず、それだけ言い残して立ち去ろうした。
「ちょっと、待って! お願いだから、興味をもって!」
男は前を横切る私の腕を力強く掴んできた。私は必死の形相で抵抗する。
「痛っ! 離してくださいよ! 知ってしまうと、面倒な事に巻き込まれそうな予感がするので、遠慮しておきます」
「そんなこと言わないで! お願い、少しだけでいいから一緒にいて! 今は独りになりたくないのよ……」
 決死の抵抗も空しく、馬鹿力の男から逃れられなかった。はぁーと、大きな溜め息をつき、全身の力が一気に抜けていくのを感じた。
「ちょっとだけですよ」
「うん! 私の悩みを、先っちょだけ聞いてくれたらいいから」
「……下ネタはいいです」

 私達は新小郡駅の改札を潜り、駅から徒歩五分程にあるカフェに入った。おしゃれなカフェで、いかにも女子高生や女子大生が好みそうな真っ白な壁とテーブル、パステルカラーの椅子が、規則正しく並べられた店だ。BGMは、流行のJポップの軽快なメロディーが店内を満たしている。学校の近くにこんなカフェがあったんだ。しかし、男の人がよくこんなお店を知っているな。
私が感心していると、おしゃれなエプロンをしたモデル並に目鼻立ちが整った店員さんが水とメニュー表を運んできた。あまりの綺麗さに、思わず店員に見とれてしまい、「ども」と低音ボイスで応答するのが精一杯だった。それに引き換え、男は「ありがとう」と慣れた雰囲気で返事をする。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
 アジアの妖精のように美しい店員は、私達に一礼すると、シュシュで束ねた黒髪を靡かせ、風のように去っていった。後ろ姿まで美しい。
 私が店員に、淡い憧れを抱いていると、
「このお店は、ミルクティーとシナモンロールが美味しいのよ。特にシナモンは性欲を減退、抑制させる効果があるから、とってもお薦めよ」
 誰も訊いてもいないのに、男が勝手に店のオススメメニューを提案してきた。さっきまでの妖精への淡い恋心が、急速に冷めていった。
「……じゃあ、アイスレモンティーだけでいいです」
「ちょっとあんた、人の話聞いてるの!」
「別に性欲を抑制しなくていいし、むしろ私は活性化されていい年齢だし」
「あら、そうなの? じゃあ、オススメは……」
 男が頬を緩ませながらメニューをめくり、性欲が活性化する成分が含まれていそうな飲み物を頼んでもいないのに探しだす。私は間髪入れずに、彼に突っ込む。
「だからと言って、性欲を爆発させなくていいですから!」
「ちょっとは、人の話を聞きなさいよ。まったく、つまらない子よね」
こいつには敵わない。私の本能がそう囁いた。これ以上、言い合っても話が進まないのは明白だったから、私は頭を掻き、自棄になりながら答える。
「わかりましたよ! シナモンロール一丁、喜んで頂きます!」
「居酒屋のノリは、このお店には合わないわよ。もっと可愛く言いなさい」
男は先輩風を吹かせながら、偉そうにアドバイスしてくれた。私は、唇と頬を引きつらせる。この男、見殺しにしておけばよかった。本気で心の中で思った。
男は「すみませ~ん!」と手を上げ、先ほどの美人店員を呼び、またも慣れた様子でオーダーを伝えた。さっさとアイスティーを飲み干して帰ってやる! シナモンロールはなんだか食べる気になれなかった。グラスの水は半分氷が溶けており、水滴がグラスを伝い落ちていく。水を飲みながら、男をまじまじと見つめていると、さっきまで死を覚悟した人間と思えないほど生き生きとしていた。
「そんなに見つめられたら、恥ずかしいじゃない。やだ、顔に何かついてるの?」
 誰も羨望の眼差しで見てないし! 私は無言で音を立てながら、水を啜った。「やだ、汚い飲みかたね」と男も小言を言いながら、汗をかいたグラスを手に取り、水を飲み始めた。
グラスを置き、男に出会った時からずっと聞きたかった質問をぶつけてみた。
「あなたは、ホモですか?」
男は喉に水を詰まらせ、「ゴホゴホッ」と大きく太い声で咽ぶ。
「いきなり何を言い出すと思ったら、ずいぶんと単刀直入に聞くのね」
「回りくどいのはあまり好きではないので」
男もグラスを置き、息を整えながら「そうよ」と躊躇うことも無く、はっきりと答えた。私はやっぱりと思いながら、質問を続けた。
「ちなみに猫と太刀、どちらですか?」
男は少し視線を外し、そして上目遣いで私の顔を覗き込むように見ながら、不敵な笑みを浮かべた。私は背筋に鳥肌が立つのを感じた。グラスの氷が音を立てて揺れる。
「うふふ、どっちだと思う?」
「やっぱりいいです。すみません、今の質問は忘れてください」
私はテーブルに額が付くぐらい頭を下げた。男の微笑みを目の当たりにした瞬間、私は自分で質問しておきながら得体の知れないぬるっとした恐怖が背筋に張り付いた。答えを知ってしまえば、何か大事な物を失う気がした。私の一方的な言葉に、男は顔を赤くしながら怒り出す。
「自分から聞いてきたんでしょう? 最後まで責任持って聞きなさいよ!」
「このままだと、下ネタだけで話が終わりそうなので遠慮しておきます」
 私も負けるわけにはいかないので、全力で抗戦をする。男は店内に響き渡るくらい大きな声で笑い、私は周囲の視線を痛いほど感じた。
「笑い過ぎですよ! 恥ずかしいなあ~」
「だって、あんたおもしろいもの!」
「普通ですよ、あなたに比べたら」
「そうかしら?」
男が目を細めながらはにかんでいたので、なんだかくすぐったい気持ちになり、再びグラスに手を伸ばした。
「そういえば、あなたの名前をまだ聞いていなかったよね? カフェに案内する前に、聞いておけばよかったわ」
「そうでしたっけ? なんだか、すでに知っている気になっていました」
男はゴホン、と咳払いをして、一呼吸置く。私もグラスをテーブルに静かに置いた。
「私の名前は、瀬高エイジ。改めてよろしく」
「私は、新原ハルカです。改めてよろしくお願いします」
 私達は互いに頭を深々と下げ、挨拶を交わした。顔を上げ、視線を交差させながら笑い合う。私は自分で言うのは大変恥ずかしいのだが、ハイパー人見知りの性格であり、初めて会った人間と会話をするのが頗る苦手だ。ましてや年の離れた女性、いや男性とスムーズに会話をするのは、自分の中では考えられない現象だ。やっぱりこの人とは、すごく心地の良い距離感で会話ができるんだ。
「失礼します。ご注文の品をお持ち致しました」
 美人店員が柔らかい笑みを傾けながら、品物を二人のテーブルに手早く並べていく。真っ白なテーブルに、美味しそうな香りのお皿達の色が咲き始める。
「ご注文のお品はお揃いでしょうか。ごゆっくりお召し上がりください」
再度丁寧に一礼をすると、美人店員は颯爽と去っていった。彼女の綺麗さの中に滲み出ている上品な仕草に見とれてしまった。
瀬高さんはさっそくミルクティーを一口飲み、至高の喜びを手に入れたように、幸せ一杯に頬を緩める。顔は熊のように強面の男性が、満面の笑みで花柄のティーカップを持っているのも、なかなか良いのかもしれない。たぶん。
「やっぱり、ここのミルクティーは紅茶の香りが良くて、ミルクも滑らかでおいしいわ。さあ、食べましょう! シナモンロールは温かいうちに食べなさい」
「あっ、シナモンロールはいいです。あんまりお腹が空いてないんで……」
「いいから、騙されたと思って食べてみなさい!」
 瀬高さんが、粉砂糖でコーティングされたシナモンロールが盛られたバスケットを差し出す。温かい湯気が立っていて、甘いシナモン独特の香りが鼻を擽る。
私は一つ手に取り、熱さで思わず「あちっ」と声をもらす。一口パンを含んだ瞬間、口いっぱいにシナモンと粉砂糖の甘さが広がった。
「おいしいです。甘いけど、そんなにしつこい甘さじゃなくて食べやすいですね」
「でしょ? だから、あなたに薦めたのよ」
「瀬高さんの勧誘はしつこいですけどね」
「まったく、この子は!」
プリプリ怒る瀬高さんを見ながら、アイスレモンティーを一口だけ飲んだ。レモンの酸味が甘くなった口内を浄化してゆく。
瀬高さんは「やだわ」と、またも小言を言いながら、シナモンロールに手を伸ばす。幸せそうな顔で頬張る彼を眺めつつ、私もシナモンロールを口に放り込む。
店内は夕日が差し込み、ゆったりと時間が流れた。昨日の雨も悪夢も嘘のように、世界は温かく美しかった。
「さっきは、ありがとう」
瀬高さんは夕日に照らされた窓を眺めながら、少し寂しそうな声で言った。そこには哀しみの色が滲んでいた。私は礼を言われることなど何もしていないはずだが―。
「何が、ですか?」
「さっき、電車に飛び込もうとして助けてくれた事よ! もう、他にあなたに礼を言わなければならない理由はないわ!」
 彼が語気を強めて言った。瀬高さんは怒りっぽい人だな。この人には糖分より、カルシウムが不足している。
「あぁ、その事でしたか。お気になさらずに」
「でも、膝を擦り剥かせてしまったのは、申し訳ないわ。……あなた、何も聞かないのね」
 瀬高さんは太く立派な指でカップを手に取り、ミルクティーを飲む。私もつられて、汗をかいたアイスレモンティーを引き寄せる。氷が半分以上溶けていて、少し味が薄くなっていた。レモンの酸味だけが口の中に残った。本当は聞きたい事が、山ほどあった。しかし、いくら二人の距離が縮んだとはいえ、私から聞くのは躊躇うことばかりだ。なぜなら、彼の寂しそうな表情は硝子細工のように壊れそうだったからだ。そんな私の思いを見透かすように、
「ごめんなさい。私から話さないと、聞きづらいわよね」
 彼はミルクティーのカップをゆっくりと置いた。
「あなたの知っているとおり、私は男が好きなの。でも、普段の格好は別に女性でいたいとは強く思わない。女装は、時々趣味程度に嗜むぐらいね」
「嗜む程度って……。どこで嗜んでいらっしゃるかは、詳しく聞きませんが、よく言われる、性同一障害ですか?」
「……どうかしら。病院で診察してもらったことは無いの。確かに、気の知れた人達には女性らしい言葉を使うけど、仕事場では至って普通の標準語よ。女性にはできない危険な現場の仕事を任されるのは凄く嬉しいし、やりがいもある。私は男でいたい部分もあるし、女でいたい部分もある。でも心と体は男を求めてしまう。人間の心は複雑ね」
「じゃあ、なんで死のうとしたの?」 
 私の言葉で二人の間に流れる淡いブルーのような時間が、一瞬だけ止まった。瀬高さんは冷めたミルクティーを飲み干すと、まるで叱られた小さい子供のように肩を竦め、ゆっくりと時間の針を動かし始める。
「昨夜、実家の父親から電話があったの。父は田舎者で、厳格な人間だから、私の心が理解できないみたい。父親に秘密を打ち明けた時『お前は、男色なのか!』て、罵倒されて逃げるように東京で就職先を見つけたわ。それ以来絶縁状態だったけど、急に電話が掛かってきたの」
「それで、用件はなんだったの?」
 今にも泣きそうな瀬高さんは、破裂しそうな胸を押さえながら苦しそうに笑う。その作り笑顔を見ていたら、私の胸も切なさで締め付けられた。
「一方的に『お前もいい年だからお見合いしろ!』だって。本当に、恥ずかしいくらい前時代的な人間よ。八年ぶりの会話が結婚の話題だけ。きっと、近所の体裁があるからだわ。でもね、女性と結婚することは、私にとって自分を殺す行為に等しいのよ……」
「断固拒否すればいいじゃないですか!」
 私も言葉に熱が帯びる。自分の子供を理解しようとせず、周りの視線ばかり気にして、一体何を得たいのだろう。自己保全の為だけに子供を生き地獄に突き落とすなんて、親の所業じゃないわ!
「もちろんお断りよ! 誰があんなブスと結婚するもんですか!」
 瀬高さんのブス発言に私は驚きつつも、彼に向かって身を乗り出す。
「相手の顔、知ってるの?」
「否、全然知らないわよ。想像だけど、きっと行き遅れの牛みたいなブスに決まっているわ!」
 瀬高さんは頬を膨らませながら、お菓子を取り上げられた小さい子供のように怒り出した。なんだ、ただの憶測か。
私は残っていたアイスレモンティーを、軽快に音を立てながら飲み干した。瀬高さんは頬杖をつき「お行儀の悪い子ね」と呆れ気味に言い放った。飲み干したグラスを置き、瀬高さんに少しぎこちない声で訊ねた。
「お父さんが嫌いなの?」
瀬高さんは頬杖をついたまま、視線を空っぽのカップに移し、首を振る。カップの底にはミルクティー色の水溜りが一人ぼっち。
「嫌いじゃないの、ただ苦手なだけ。本当は認めてくれなくてもいいから、受け入れて欲しい。―ううん、ただ話しを聞いてくれるだけでも十分だわ」
「だから、今日死のうとしたの?」
「なんだか、このまま生きていても父親とは和解できそうにないし、どこかで自分は欠陥人間だと思っていた。さっき『男でありたい部分と、女でいたい部分がある』て、言ったじゃない? でも逆に考えれば、男としても生きられない、女としても生きられない私の存在は、人間として不遜なんじゃないか、てね……。柄にもなく深く考えすぎたわ。昨日、夕方から雨が降ったでしょ。雨の音を聞いていたら、なぜか分からないけど、死にたいと思ったの。今思えば、本気で死のうとしたのか分からない。ただ父親から逃げたかっただけね」
 彼はまた夕日が差し込む窓の外に視線を移した。夕日はさらに濃いオレンジ色になり、東の空には群青色のカーテンが広がり始めている。店内は人が疎らになっていた。
私は頭を掻きながら、気だるそうに答える。
「難しい問題だから正直よく分からないけど、別に、男にも女にもならなくていいんじゃないですか?」
 瀬高さんは私の予想外の答えに目を丸くし、驚いていた。
「どういう意味?」
「だから、男とか女とか性別を気にして、自分の存在を否定するぐらいなら、無理矢理カテゴライズする必要はないと思う。安っぽい言葉だけど、自分らしく生きたらいいんじゃないですか? 自分の人生だけが、誰にも真似できないオリジナルの作品だと思うから、他人の顔色ばかり気にして、人生謳歌できなかったら、死ぬ時絶対に後悔しますよ。男とか女とか、性別を一番気にしているのは瀬高さん自身なんじゃないかな、って」
 彼は目を見開き、口も大きく開いていた。その顔を見て、何か言ってはいけないことを言ったのではないかとあせった。
「あなた、そんな事考えながら生きてきたの?」
 今度は瀬高さんの想定外の言葉に、私が面を喰らう。
「いや、思いつきで話しているだけなんで、アドバイス程度に受け取って頂けると幸いです。むしろ、偉そうに御託を並べてすみません」
「目から鱗だわ」
「へっ?」
思わず間の抜けた声を発してしまった。瀬高さんの目が、キラキラと少女マンガのヒロインのように輝いている。彼の笑顔があまりにも眩しく不気味に思い、咄嗟に目を逸らした。
「今までは、中途半端な性を持った自分が、吐き気がするほど嫌だったの。そうよね! 男も女も超越した人間になればいいのよ」
「まあ、よく分からないですけど、瀬高さんが元気になれたなら、それでいいです」
「あっ、あなたの連絡先聞いてもいい? これも何かの縁だし、友達になりたいわ」
私は躊躇した。西川との黒い約束通りだと、自分はあと五日しかこの世界に居座ることしか出来ない。友達ができても仕方がない気がした。否、自分から極力他人との接触を拒んでいた。サヲリにだって―。
「どうしたの?」
 返事もせずに俯く私に、瀬高さんが心配そうに声をかける。
「……パソコンのアドレスでもいいですか?」
 パソコンのアドレスなら、起動していないのを言い訳にメールを放置できる。我ながら名案だ。
「せっかくなら、携帯の番号とアドレスがいいわ。赤外線で、お茶の子さいさいじゃない! ほら、あなたの携帯借りるわよ」
「あっ!」
 計画は頓挫し、テーブルの上に置いていた私のショッキングピンクの携帯電話を、まるで獲物を狩るハゲタカのように素早い動きで瀬高さんが奪い取る。彼は慣れた手つきで、瞬く間に赤外線通信を行う。その一連の作業を、黙って見つめていた。
「手つきがプロ並ですね」
「うふふ、携帯には詳しいの。気に入った可愛い男の子の連絡先を逃さない為にも、携帯電話の操作方法は日夜勉強しているの。今は機種が多様化しているから、覚えるのも一苦労なのよ。気に入った相手の連絡先は必ずゲットするのが、恋愛百戦錬磨の秘訣よ。これ、マスト! 人生の先輩からのアドバイスね。あなたも性欲活性時期なら、これぐらい勉強しておかないと、ワンナイトラブばかり繰り返すわよ!」
「……」
 私は人生の先輩の参考にならないアドバイスを、無言で付き返したい気分だった。瀬高さんは「できた」と満足そうに言うと、携帯電話を返してくれた。
「私の連絡先は『え~ちゃん』で入っているから、いつでも連絡してね」
「はぁ……。どこかで聞いたことのある、ニックネームを足して2で割った感じですね」
強制的に連絡交換を終え、私達は店を後にした。代金はすべて瀬高さんが支払った。「これぐらいさせて!」と言って頑なに私の意見を聞かなかったので、命を助けた謝礼金の代わりとしてありがたくご馳走になった。
空はすでに暗く深い青色を帯び、明るい星が瞬いていた。昼間の気だるい暑さにかわり、優しい風が二人の間を吹き抜ける。
 瀬高さんと駅で別れ、家に辿り着いた時には七時を過ぎていた。「ただいま」
ドアを開けると同時に言い、靴を乱雑に脱ぎ散らかす。
「おかえりなさい。どこをフラフラ歩いてたの! 心配したじゃない。ほら、靴はきちんと揃えて脱ぎなさい!」
出迎えに来たエプロン姿の母が玄関先で怒りながら、私の脱ぎ散らかした靴を揃えた。煮物の甘辛い匂いが母の体から香ってきた。
「ごめん、寄り道してたら遅くなった」
「連絡ぐらい入れなさいよ、まったく。そういえば、さっきアキ君が来たわよ」
「なんで?」
 母の横を素通りしようとしたが、私は気になって足を止めた。
「さあ? あなたがまだ帰ってない事を伝えたら、帰っちゃったわよ。久しぶりにアキ君を見たけど、背が伸びてかっこよくなってるわね! もしかして、付き合ってるの?」
 何か邪な事を考えながら母はニヤニヤ薄ら笑いを浮かべ、私の顔を見つめる。私は無性に腹が立ち、母を睨みつける。
「付き合ってないよ、あいつ彼女いるし。ただの幼馴染だよ。それ以上でも以下でもない、ドライな関係よ」
「大人ぶった言い方なんかしちゃって。学校であなたが元気無かったから、せっかく心配して来てくれたのに、冷たい子ね」
「別に心配される筋合いないし。今日はもう疲れたから、お風呂入って寝るね。夕飯はいいや」
「あら、珍しい。どんなに買い食いしても、いつも夕飯だけはしっかり食べるのに。朝ごはんも全然食べてなかったじゃない。やっぱり、どこか体調悪いの?」
私は階段を上りながら「別に」と言い、自分の部屋に入った。
部屋は蒸し暑く、鞄を放り投げると、すぐに窓を開けた。生ぬるい風が頬を撫でる。ベッドに転がり込み、天井をぼんやりと見つめながら、瀬高さんに言った言葉を思い出す。
「私、人生を謳歌せずに終わるのかな……。このままじゃ、つまらないまま人生強制終了しちゃう。なんとかしなきゃ。でも、今の私に何ができるの?」
答えの無い自問自答の言葉が、部屋を駆け巡る。赤黒い染みだけが私を見下ろす。
「チャララッ、チャラ~ン」
 鞄の中から聞こえてくる間抜けな電子音が、私の深刻な悩みを嘲笑するかのように鳴り響く。ゴソゴソとベッドから転がり落ち、芋虫のような匍匐前進で鞄に向かう。メールの着信は「え~ちゃん」からだった。
『家には無事に着いたかしら? 今日は、先っちょだけ悩みを聞いてもらうどころか、私の奥深くの悩みまで聞いてくれて嬉しかった。あなたとはもっとディープな関係になりたいから、もう一度会えないかしら? 九日は空いてる?』
私はお尻の穴がキュッとなり、おそるおそるメールを打つ。
『送る相手を間違っていますよ。私は可愛い男の子じゃないです』
携帯をベッドに無造作に投げると同時に返事がきた。
『は~ちゃんに送ってるの! メールマスターをなめたらアカンぜよ!』
「勝手に変なニックネームつけないでよ。瀬高さんに『メールマスター』の称号なんて、誰が授けたんだか。……九日は、もう死んでるから無理だな」
ブツブツ文句を言いながら手早く返信を打つ。本当なら九日に会いたいけど、それだけは叶いそうにない。あっちの世界に行かなくちゃいけない―。メールを打つ手が、不意に震えた。やっぱり、怖いよね。
『失礼致しました、メールマスター殿。九日は別の処に出かける用事があるので、会えません』
 感傷的な気分にも浸れないまま、またも驚くべきスピードで返信がくる。メールマスターとは、一体何者なんだ。
『それは、残念無念だわ。じゃあ、四日は空いてる?』
 正直あまり乗り気ではなかったが、この人からは逃げられないと思い、半ば諦め気味に『大丈夫です』と一言だけ返信を打つ。
『OK☆ じゃあ、四日の午後五時に今日のカフェで待ち合わせね。遅刻したら罰として、あんたの舌を引っこ抜くからね!』
 私は眉間に皺と寄せ、携帯の画面をじっと見つめながら「……最後、脅迫文になっているんですけど」と苦笑いし、携帯を枕元に置いた。アキからのメールはなかった。
風呂に入る支度をし、Tシャツと短パンを持って一階に下りていく。
 リビングの扉を開けると、父と母と妹のユイが美味しそうな夕食が盛られたテーブルを囲んでいる。今夜はエビフライに、ジャガイモの煮付け、タコの酢の物とごはんだ。揚げ物の香ばしい匂いに舌が疼く。
「お姉ちゃん夕飯食べないの?」
「……うん。今からお風呂入って、命の洗濯してくる」
「しっかり洗濯しておいで! お姉ちゃん分のエビフライ食べていい?」
「いいよ」
ユイは私の返事を聞く前に箸を伸ばし、「おいし~!」と幸せそうにエビフライを頬張っていた。
「おかえり」
父はビールを飲みながら、抑揚のない声で言った。私は父と目を合わさずに「うん」と素っ気ない返事をし、足早に風呂場へ向かう。
汗で湿っている制服のブラウスや下着を脱ぎ捨て、スカートは洗濯機の上に丁寧に畳んでおく。
すっきり爽快感があるアクアブルーの入浴剤を入れ、湯船に浸かる。毎年夏になると、お母さんが買ってきてくれるこの入浴剤がお気に入りだ。青く染まったお湯が、小さな海に漂っているかのような錯覚を与えてくれるからだ。
小さな海を見つめながら、瀬高さんが父親について話していたことを思い返した。私も彼と同じで、父親が苦手だ。思春期特有の親への反発からくる感情のせいかもしれない。仲良くしようと思いながら会話を交わすのだが、些細な意見の違いから喧嘩になり、傷つけ合ってしまう。
私が中学二年生の時、父親とひどく言い合いになった事があった。その夜、声を押し殺して泣いた。朝、目が覚めたとき、あることを決心した。
「何度も喧嘩を繰り返えすぐらいなら、仲良くしないほうがいい」
それ以来、互いに傷付かないで済む「当たり障りのない会話」だけを交わすようになった。父も何となく私の態度の変化に気が付き、私に対してあまり口うるさく言わなくなった。互いに距離を置き、必要最低限の会話だけを交わす年月は、三年目に突入していた。
「私なんかが、瀬高さんに偉そうな事言う資格どこにもないなあ……」
瀬高さんとは違い、自分は父親から存在を否定された事はない。自惚れているかもしれないが、最低限の会話しかしていない中にも愛されていることは実感していた。でも、どうしても上手く思いを伝える事ができずにいる。そんな父とも、あと五日で二度と会えなくなる。残りの数日間は、父と少しでも会話をしたいと心から思った。否、瀬高さんのお陰でそう思えた。
 大きく息を吸い込み、湯船に頭を沈めた。視覚は塞がれ、水の音だけが聴覚に流れ込む。心地よい水の音を、ずっと聞き続けたかったが、次第に息が苦しくなり「ぶはっ」と大きく息を吐きながら、湯船から顔を出した。乱れた呼吸を整えていると、目から生暖かい雫が頬を伝い、小さな青い海に落下していった。澄み切った青い湯船を見つめていると、後悔の念が体中を支配した。
お父さん、ごめんね……。

七月三日

「ピピピピピピッ」 
 目覚まし時計の電子音が、夢と現実の境界線で漂う頭に容赦なく響く。空手チョップで勢いよく目覚まし時計を止め、重たい体を起こす。半開きの目を擦り、近藤勇もびっくりするぐらい大きな口で欠伸をした。
背伸びをしながら窓に目を向けると、カーテンの隙間から透明で眩しい太陽の光が放射され、朝の訪れを告げていた。暑さのせいで気だるくなった体をベッドから起こし、カーテンを開けた。
朝日が突き刺さすように光の矢を放ち、半開きの目には刺激が強すぎた。上手く目を開けられないまま、手探りで窓を開ける。
窓を開けると、隣の家からピアノの音色が聞こえてきた。部屋中に、太陽の光とピアノの音が広がっていく。朝早くからアキがピアノの練習に勤しんでいた。ピアノの音に乗って爽やかな風が髪を揺らし、汗ばんだ背中が少しひんやりとした。優しいピアノの音色が抱えている灰色の塊を少しだけ溶かしてくれた。でも、重苦しい気分は二日寝ても、一向に過ぎ去ってはくれない。この思いを抱えたまま、誰の手も光も届かない海底に沈んでいくしかないのかな?
無理に大きく肩を動かしながら深呼吸をし、部屋を後にした。

「おはよう」
 腰を曲げ、項垂れながら下駄箱でローファーから上履きに履き替えていると、アキが夏の朝に相応しい爽やかな笑顔で立っていた。
「ちす」
 私は朝の清々しい雰囲気とは正反対の気だるく、低い声で挨拶をする。アキのピアノが聞けるのも、あと少しかぁ―。
「相変わらず、テンション低いな。幼稚園の時から変わってないね」
 アキは悪戯っぽく笑い、運動靴から上履きに履き替える。私は口を尖らせ、「悪かったわね」とぶっきら棒に答え、スタスタと歩き始める。
「ちょっと、待てよ! 一緒に教室まで行こうよ」
 アキが慌てて後を着いてくる。私達は並んで教室に歩いていく。朝の廊下は慌しく、忙しなく生徒が往来していく。私はちらりと横目でアキを見た。幼稚園や小学校の頃は、二人で歩くと肩を並べて歩いていたが、今では私の顔はアキの肩の高さしかなかった。顔は見上げないと目を合わせることができない。幼い頃のあどけなさは薄れ始め、窓から差し込む夏の眩しい朝日を浴びる端正な顔立ちは、彼が男に成長している片鱗を照らし出した。
「ん?」
そんな思いに耽っている私の心を見透かしたように、アキが柔和な笑顔を見せる。私は咄嗟に目を逸らす。
「なんだよ、人の顔をジロジロ見て」
 アキが顔を覗き込むように話すので、急に恥ずかしくなり頬が紅潮していく。 
「髭の剃り残しがあったから、気になっただけ!」
 何時ものごとく嘘は下手くそだ。
「あっ、ほんとだ」
彼は徐に下あごを触りと無邪気に笑った。本当に剃り残しがあったんだ……。嘘が現実になり、ほっと胸を撫で下ろす。
 アキが大きな欠伸をし、眠たそうな目を擦る。目の下には扇形のくまがあった。
「今朝、ピアノの練習してたね」
「ごめん、うるさかっただろ?」
「別に。下手くそなピアノだったら、頭叩き割りに行くけど、上手だからむしろ優雅な朝を迎えられて光栄だよ」
 アキが声を上げて楽しそうに笑う。そんな彼を見ながら、朝からよく笑うヤツだな、と素直に思った。いつもと変わらない屈託のないアキの笑顔―。
「頭叩き割られなくてよかったよ。ハルカのチョップは強烈だからな!」
「毎朝、目覚まし時計で訓練してるからね。年季が入ってるよ」
 アキは「お~、コワっ」とおどけて見せる。いつものアキだ。そう思っていたら、急に彼が真剣な顔付きに変化した。
「実は、もうすぐ大事なコンクールがあるんだ。それに優勝したら一年間パリに留学できる。しかも全額免除なんだ!」
 思いもよらぬアキの報告に、私の胸も自然と高鳴る。久しぶりに良い知らせを聞いた。彼の弾んだ言葉に、蝉の軋んだ声が混ざり合う。
「凄いじゃん! タダなら行くしかないね。この世で一番素敵な響きだ」
「ハルカは相変わらず銭ゲバだな」
「一円を笑うやつは、一円に泣くんだよ! ところで、いつがコンクールなの?」
アキは少し言いにくそうに「七日」と事務的な用事を伝えるように端的に言った。
「七日か……。もう少しだね」
そう答えるのが精一杯だった。それは、私にとって約束の日だ。しばらく二人は黙ったまま廊下を歩いた。アキが暗い表情で、ぽつりと言葉を零す。
「でも、出られるかわからない」
「なんで?」
「なんで、ってお前……」
 そう言いかけると、「アキ!」と後ろから呼ぶ声が聞こえた。リンカちゃんが仁王立ちで立っていた。リンカちゃんの姿を見るなり、アキは「悪い、また後で話そうな」と言い残すと彼女の方に駆け寄った。リンカちゃんが、眼光鋭いまなざしで私を睨む。二人はそのまま教室とは反対の方向に歩いていった。
 教室はいつもと変わらず慌しい朝を迎えていた。席に着くと、いつもと同じようにサヲリが笑顔で挨拶をしてくれた。毎日が何の変化もない学校生活。西川君の机の花も、昨日と同じように置かれていただけだった。ただ垂れ流すだけの時間と命だけが、教室に溢れかえっていた。その事実に気がついているのは、私とアキだけか。
授業の黒板を機械のように書き写し、休み時間には、友人と巷ではガールズトークと言われる会話を交わしあった。いつもの日常の連続だ。そして、不自然なくらい誰も西川君の話をしなかった。一昨日、あんなに咽び泣いていたサッカー部の連中ですら、放課後は部活に勤しんでいた。いつもと変わらなすぎる日常に、私は堪らなく寂しい気持ちと苛立ちを覚えた。
私は終業のチャイムと同時に、誰よりも早く帰りの身支度を整える。帰り際にサヲリが、駅の近くにオープンしたクレープ屋に行こうと誘ってきたが、クレープのように甘ったるい気分に浸れない気持ちだった。
「夕方から、お腹が痛くなる予定なんだ。エヘッ☆」
ペコちゃんのように舌を出し、適当すぎる嘘をついて一人で足早に教室を去る。やっぱり、嘘は苦手だ。
下駄箱に続く廊下を歩いていると、リンカちゃんが壁に寄りかかり、腕を組んで立っていた。彼女は気が強く、少々口調もきつい。それが原因なのか、女友達と一緒にいるところを見かけたことがない。なので、学校ではアキにべったりくっついている。彼氏への愛情ゆえの嫉妬心からか、私に対してやたらと突っかかってくるので、あまり関わりたくないと常々思っていた。それさえなければ、嫌いなタイプの人間ではないので、もっと仲良くできるはずなのに……。
いつものように、面倒くさい事に巻き込まれそうな予感がしたので、リンカちゃんの前を「さいなら」と目を合わさず声を掛け、何事もないように通りすぎようとした刹那、
「ねえ、一昨日あった西川君のお通夜の後、なんでアキと一緒にいたの?」
嫌な予感は的中し、やはり話しかけられた。しかも、面倒くさい展開になるのは目に見えていた。嫌な予感ほど不思議なくらいよく当たる。私は平静を装い、リンカちゃんに話しかける。
「一緒に帰っただけだよ」
「ホントに?」
「本当だよ。疑うなら、アキに直接聞けばいいじゃん」
「人の彼氏に向かって『アキ』て呼び捨てしないでよ!」
彼女がものすごい剣幕で怒り出したので、私は思わず「ごめん」と謝る。やはり面倒な女だ。
「呼び捨てしたのは悪かったよ。でも、リンカちゃんが心配するような事は何もないから」
「何かあってからじゃ、遅いから警察並みに尋問しているんでしょ?」
「警察の中でも特高並だね」
 私が笑いながら冗談を言うと、リンカちゃんが「あぁ!」とヤクザもびっくりするようなドス声を発したので、またも「ごめん」と謝った。冗談も通じない女だな。もう一回冗談を言ったら、吊るし上げにあいそうな雰囲気だぜ。彼女の尋問のレベルの高さを実感しながら心の中で思った。
「とにかく、話はそれだけだから、帰っていいよ」
「……あい」
 やっと解放され、無事にシャバに戻れた事に安堵した。「あばよ」と捨て台詞を言い、リンカちゃんの前を去ろうとした。 
「あっ、ちょっと待って!」
「何? 任意の尋問なら拒否するよ」
「任意でも、半ば強制執行できるんだよ。それはいいとして、最近、アキは何か悩み事とかあるの?」
 私は振り返らずに「なんで?」と問い返す。思い当たる節はあるが、それは私の口から言っていい事ではない。彼自身がリンカちゃんに話さなければ意味がない。
「西川君のお通夜が行われた日から様子がおかしいの。ずっと上の空で、話しかけても反応が薄いし、メールも電話も返ってこないの」
「水城君に関する情報は『彼女』であるリンカちゃんの方が詳しいと思うよ。私に聞いても無駄だよ」
「今週は、野球の大事な試合があるから心配なのよ!」
リンカちゃんの強い口調から、試合内容を訊かなくても、その試合が重要な意味を持つことが感じ取れた。
「そんなに大事な試合があるの?」
「知らないの? 七日に第弐東福岡高校との試合があるの。教室の後ろの黒板にも書いてあったじゃない! その試合には、スカウトの人たちも見に来るて、噂なの」
「そうなんだ……」
「だから、アキの事で知っていることがあったら教えてよね!」
 今にもリンカちゃんに胸倉を掴まれるような勢いだった。彼女はアキのことになると、尋常じゃないくらい感情を剥き出しにする。
「わかったよ! 何か小耳に挟んだら教えるから、もう帰るね」
 必死の思いで彼女の尋問から逃げ切り、早足で下駄箱に向かう。息を切らし、止め処なく頬を流れる汗を拭いながら靴を履き替える。
「七日は、大事なピアノのコンクールの日だ。優勝したら留学できるチャンスがある。でも大事な野球の試合と重なったから、さっきピアノの大会に『出れるか分からない』て言ったんだ」
 朝のアキの暗い表情をした理由がやっと理解できた。彼に未知なる未来への葛藤がある。でも私の葛藤は未来に向かう事は、もう有り得ないのだ。二人で並んで歩く時にできるアキの影が、見えなくなりそうだ。
 
家に帰り、リビングで何も考えずにぼんやりとテレビを見ていた。毎週欠かさず見ている大好きなアニメの再放送なのに、内容がまったく頭に入ってこない。母が慌しくリビングのドアを開く。
「ハンバーグに使う牛乳買うの忘れたから、コンビニで牛乳買ってきてよ。一番小さいパックでいいから」
「やだ! 七時から『名探偵コカンちゃん』見なきゃ行けないもん」
私は頑なに拒否をする。母は呆れた様子で財布の中から千円札を取り出す。
「家から歩いて、たったの五分じゃない! まだ六時半だから、間に合うから行ってきてよ。お釣りはあげるから」
「行かせていただきます!」
 千円札を目の前にした私は、大きな声で即答した。母から千円札を奪い、ポケットに素早くしまいこむと、一緒にテレビを見ていたユイがソファーから身を乗り出す。
「あっ、お姉ちゃんコンビニ行くの? アイス買ってきてよ。カリカリ君ソーダ味がいいなあ」
「いやだ! 自分で行きなさい。アイス買ったら、お小遣い減るもん」
「じゃあ、この前お姉ちゃんが勝手に食べたコンビニ限定の『ぷれみあ~むプリン』買ってきてよ。まあ、あれは三百円するけどね」
「ユイ様のカリカリ君買ってくるよ!」
私はユイの言葉を聞き終えると、一目散で家を飛び出した。
 コンビニはちょうど夕飯時の前ということもあり、学校帰りの学生や、夕食を買いに来ているサラリーマンなどで客が多かった。品定めをしている人を避けながら、足早にドリンクケースに向かう。最初に牛乳パックを籠にいれ、喉が渇いたのでミネラルウォーターも籠に入れた。最後にユイに頼まれたアイスを取りに行くだけだ。    
アイスクリームケースには、小学生の二人組の女の子がカリカリ君を嬉しそうに握り締めている。私も彼女達に続き、カリカリ君を手に取る。パッケージのイラストは、間抜け面の猫が壁を引っかきながら「カリカリ君ソーダ味だそーだ」と低クオリティのギャグを炸裂させている。私はアイス会社のセンスの無さに脱帽した。
 会計を済ませ、コンビニを出ると、七時近い時刻にも関わらず、空は夕焼けと薄明るい青色が混在していた。鞄からウォークマンを取り出し、イヤフォンを耳にかける。首筋から汗が滲み出る。お気に入りの曲を聴こうとウォークマンを操作する。
「ハルカ!」
背後から名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、部活帰りのアキが朝と変わらず爽やかな笑顔で自転車に乗っていた。
「今、帰りなの?」
「うん。部活の練習が長引いてさ」
そう言いながら自転車から降り、「一緒に歩いて帰ろう」と言ってきた。私は黙って頷く。
「しかし、あっちーな! まだ梅雨明けしてないのにこの暑さはきついわ」
 ゴゾゴゾとコンビニの袋を漁り、腕で顔を拭うアキにアイスを取り出し、差し出した。
「これ、あげるよ」
「マジで! ありがとう。でも、いいの?」
「いいよ。所詮、妹に頼まれた物だし。親から貰った足が丈夫なうちは、自分で買いに行けるし、かまわんよ」
「相変わらず、ユイちゃんには厳しいな。せっかくだから、ありがたく頂くよ」
 アキが一気にアイスの袋を開けると、夏の青空のように澄んだ色のアイスが顔を出す。
「うむ。人の好意はありがたく受け取るのが、大人の対応だ」
アキはあははと笑い、アイスを勢いよく頬張る。練習のせいだろうか、部活帰りの彼の頬と鼻の頭が赤く日焼けしていた。
「夏はカリカリ君に限るよな。安いし、学生の強い味方だな」
「アイスの名前からは、強さは一切感じないけどね」
「あはは! 言われてみれば、たしかにそうだな」
 私は歩くのが遅い。集中して音楽を聴きながら歩く癖が付いているせいか、ゆっくりと歩く。学校でもサヲリと一緒に歩いていたはずなのに、「遅いぞ!」と言われ、よく置いてきぼりをくらってしまう。
でも、アキはいつも私の速さに合わせてくれる。背の高さも、歩幅も違うのに歩く速度を自然と合わせてくれる。アキはいつも優しい。
「ごちそうさま」
「もう、食べたの? 早いね」
「男の子ですから。はい、あげる」
アキがアイスの棒を手渡してきた。
「ゴミは自分で捨ててよね!」
「ゴミはゴミでも、ただのゴミじゃないよ。ほら、よく見て」
 私は訝しげにアイスの棒を見る。そこには、「1本当たりだにゃ~」と間抜け面の猫が書かれていた。カリカリ君の当たり棒、初めて見た!
「当たったんだ!」
「これ、ユイちゃんにあげてね。あっ、ちゃんと洗ってからあげてよね」
「猫ババしようと思ったのに!」
「そう言うと思ったから、先手を打っておいた。今度ユイちゃんにあったら聞くから、猫ババするなよ」
「わかりましたよ!」
 ちぇっ、と悔しそうな顔をし、アイスの棒を袋に突っ込んだ。アキは火照った体が少し冷えたのか、綻んだ笑顔が夕日に照らされていた。
私は昼間のリンカちゃんとの会話がずっと心の奥に引っかかっていた。野球の試合とピアノコンクールが同じ日程なことは、アキはもちろん知っている。どうしても、彼に訊きたいことがある。しかし、いきなり話の核心を突く勇気はなかったので、少し距離を置きながら、訊いてみることにした。 
「ねえ、突然だけど、野球とピアノどっちが好きなの?」
「……正直選べない。それぞれ、違う魅力があるから」
「あんまり難しい事は分からないから、手短に教えて」
アキは顎に手を当て、遠くを見ながら話し出した。彼の視線の先には、地平線に沈みかけた大きな太陽が悠然と存在していた。
「そうだなあ……。極端に言えば、ピアノは個人戦だから、すべての成果は自分に返ってくる。勉強と一緒で、努力した分だけ伸びる。予定調和の結果の連続だな。でも、自分一人の力で成し遂げるから、達成感はもの凄い。だけど、野球は団体戦だから、自分の力ではコントロールできない不測の事態が起こる。それはいいケースと悪いケースがあるけど、『神のみぞ知る』って世界だ。だから、最後まで結果は分からない。その緊張感の中で、みんなで一つの目標を達成して、喜びを分かち合うのは楽しいよ。簡単に言えば、得られる達成感が違うから、どちらも選べないのかも」
「自分一人で獲得した喜びと、大勢で得られる喜びは、少し違うよね。でも、どっちも大切な宝物だね」
「だから、どちらも好きだし、捨てられない」
アキは戸惑いながら哀しそうに呟いた。私は彼の苦しい葛藤を知りながらも、どうしても聞きたかった。
「七日は野球の試合とコンクール、どっちに行くの?」
アキが、ふうーっと長い溜め息をつき「まだ迷ってる」と正直に答えてくれた。
「今年の野球部は、去年のチームと比べ物にならないくらい弱くなっているから、レギュラー陣は全力で勝ちに行かないと勝てない。エースの先輩も、四番花形スラッガーの先輩も卒業したから、戦力ダウンしたんだ。おまけに監督は痔の手術で七日の試合には来られない。だからチームに余力が無い上に、指揮官もいない状態だ。三年生は二人しかいないから、俺たち二年も頑張らないと到底勝てる相手じゃない」
「そうなんだ。何も知らなかった」
「あんまり『ウチのチーム弱いです』なんて、大声で言って回る奴はいないから、知らなくて当然だよ」
 アキは私を責めることなく笑っていたが、私はぎこちなく「そうだね」と言った。それ以外に、適切な言葉が見つからなかった。
二人の間に沈黙が流れる。聞こえてくるのは、自転車のタイヤが規則正しく回る機械的な音と叫ぶような蝉の声だけだった。
アキが急に足を止めた。私は驚いて彼の顔を見上げる。
「ごめん、嘘ついた。さっきのは建前で、正直に言うと、ここで俺が試合に出なくて野球部が負けたら、今後一切みんなからシカトされそうな気がして怖いんだ。そうなったら、部活も辞めなきゃいけないし、クラスでハブられるのは確実だ。俺の高校生活は死んだも同然になっちまう。本当は自分の中で答えは出ているのに、情けない話だろ? 笑ってもいいよ」
 アキが苦しそうに笑う。私は彼を真っ直ぐに見つめる。
「そんなことないと思う。私だって、仲間からシカトされるのは辛いよ。ましてや、大好きな野球が出来なくなるのは尚更辛いよね。アキだけじゃないよ。だから、自分のこと情けないとか言うなよ」
 彼は驚いて、目を丸くした。私は上手く励ませたかどうか、不安にかられた。もしかしたら、逆効果だったかも……。
「ありがとう」
次の瞬間、アキは小さく笑いながら、柔らかな口調で答えた。
 大人になれば、周りの目や「教室」という小さな世界のことばかり気にして、自分の夢を犠牲にしていきことを恥じる時が来るかも知れない。でも、今の私達にとってその偏狭な世界で拒絶されることは、苦痛しか待ちうけていない世界の幕開けになる。自分を殺して、他人の顔色を伺いながら生活することは、社会人になれば必ず必要になる。しかし、夢のある若者にとっては自分を殺し続けていくのはあまりにも酷な行為だ。
 二人はあっと言う間に、アキの家の前に到着した。
「じゃあ、また明日な」
「うん。早くお風呂入って、部活の汗を流しなさい」
「わかったよ。ハルカも早く風呂入って、寝なよ」
「ところで、コンクールはどこであるの?」
「日武会館で午後一時から開演だよ。行けたらハルカにも来て欲しいな」
「なんで?」
 疑問に思い、アキの顔をじっと見つめた。どうして、リンカちゃんではなくて私がピアノコンクールに行くの? 彼は少しだけ顔が赤く染まっていた。夕日のせいかもしれないが……。
「だって、俺だけ観客がいなかったら寂しいだろ!」
「そういう理由か! 確かにせっかくのコンクールなのに、誰も応援してくれる人がいないのは寂しいよね。いいよ、行ってあげるよ」
アキの子供みたいな理由に、私はおかしくて笑った。高校生男子が、そんな事を普通言うかよ。私の様子を、なぜか彼は落胆しているように見ていた。
「本当に、お前ってヤツは……。まあ、行けたらの話だけどな! ほら、早く家に入れよ」 
「わかったよ。バイバイ、アキ!」
 二人は手を振り合い、それぞれの家の門を開く。オレンジ色の夕焼けは姿を消し、空一面に薄明るい青色が帯びていた。
「ただいま」
 サンダルを脱いでいると、ユイが満面の笑みを浮かべながら擦り寄ってきた。
「お姉ちゃん、アイス買ってきてくれた?」
「おかえりの前にアイスの話かよ! 買ってきたよ、ほら」
 さっきの当たり棒ユイに渡す。彼女は訝しげに、棒を見つめている。
「何これ? アイスじゃないよ。お姉ちゃん、食べちゃったの?」
「違うよ。さっきアキに会ったから、アイスあげたの。そしたら、当たりが出たからユイにあげろ、って命令されたの。洗ってコンビニ持って行けば、カリカリ君貰えるよ」
「お姉ちゃんが行ってきてよ」
「イヤだよ! お姉ちゃんは年だから、あんまり歩くと膝に水が溜まっちゃうの。若いユイちゃんが自分で行きなさい」
ユイは怒りながらに「嘘つき!」と言い、台所に行き、当たり棒を洗っていた。台所の扉を開き、テーブルに買ってきた牛乳置く。
「お母さん、牛乳買ってきたよ」
「ありがとう。そこに置いておいて」
 母が手際よく夕飯の支度をしている。サラダを作りながら、かぼちゃの煮付けとハンバーグに添えるニンジンのグラッセも作っていた。そのため、台所から甘い匂いが立ち込めており、私の腹の虫が大声で鳴き出した。コンビニの袋から、ミネラルウォーターを取り出す。サラダに使うハムをつまみ食いながらし、自分の部屋に上がっていく。
部屋に入り、喉が渇いていたせいか、水を一気に半分まで飲み干した。
「ぶはー、生き返る!」
まるで、仕事上がりのサラリーマンが駆けつけ1杯目のビールを飲んだ後に言う、解放感たっぷりのセリフだ。ペットボトルの蓋を閉め、ベッドに腰を下ろす。窓の方へ視線を移すと、窓が閉められていた。
「暑いから、開けておこう。クーラーより、扇風機の方が好きだし」 
 重い腰をあげ、窓を開けると、生温い風が吹いてきた。風に吹かれていると、アキの言葉が頭を過ぎった。でも、私にはどうすることの出来ない問題だ。彼自身が望んだ答えを見つけないと意味が無い。無責任にどうこう言う訳にはいかないしなあ……。
 藍色の空に輝き始めた星を見つめていた。アキの力になりたい気持ちでいっぱいだったが、自分がどう行動すればよいのか分からなかった。感傷的な気分に浸っていると、
「ハルカー。先に、お風呂入りなさい!」
一階から母のお風呂コールが聞こえてきた。私はすっきりしない頭を引きずりながら、パジャマを持って部屋を出た。窓から吹き入る風が、カーテンをゆったりと膨らませていた。
 風呂から上がり、リビングに行くと、テーブルにおいしそうな夕飯が並べられていた。私以外の家族は、すでに夕飯を食べていた。
「お姉ちゃん、先に食べててごめんね。お腹空いちゃって、我慢できなかったの。さっき、お父さんも帰って来たし」
ユイがハンバーグを幸せそうに食べている。本当にこの子は、食べている時が一番幸せなのだろう。
「ほら、ハルカも早く食べなさい。冷めちゃうわよ」
 母が、私専用の虎のイラストが描かれたガラスコップに、麦茶を注ぐ。コップの中の氷が、カランと軽快な音を立てて浮かび上がった。私は無言で席に着き、ハンバーグに添えられたグラッセを箸で摘む。それを見た父が、語気を強め注意する。
「いただきますぐらい、ちゃんと言いなさい」
「いただきます……」
 気だるそうに返事をし、ハンバーグに箸をつける。父はビールを飲みながら、野球中継を見ていた。私はアキの事を思い出し、野球を見る気になれなかった。リモコンを取り、チャンネルを回す。
その時、はっとして時計を見ると、七時半を回っていた。楽しみにしていたアニメが、すでに終了していたのだ。
「お母さん! お風呂入ってる間にアニメ終わっちゃったじゃん!楽しみにしてたのに!」
「あらら、気が付かなかったわ。ごめんね」
 母が申し訳なさそうにしているのか判らない声のトーンで謝ってきた。父がテーブルの上に置かれたリモコンを無言で取り、野球中継の番組に戻す。「今日は、野球中継じゃなくてバラエティが見たい! リモコン貸してよ」
 少し声を荒げ、父に牙を向いた。父は鋭い眼差しで、私を睨んできた。私も負けじと睨み返す。
「今、いいところなんだから、あとで見なさい」
「いいところって、何? どうせ、夜のスポーツニュースでダイジェストが流れるんだから、番組譲ってよ」
 一歩も引かない二人の様子を、母とユイが心配そうに私達を見つめながら、サラダを取り分けている。今度は父が大きな声で、怒鳴り返す。
「いい加減にしろ! 親に向かってなんだ、その口の利き方は!」
「じゃあ、どんな口の利き方なら納得するわけ! 野球は最後までどうなるか分からないスポーツなら、結果だけ知ればいいじゃん」
 父が怒りに任せてリモコンを思いっきりテーブルに叩きつけた。
「今後一切、食事時にテレビを見ることを禁止する!」
「禁止にすれば! こっちは、お父さんと一緒にご飯を食べなければいいだけだもん」
「お前という娘は!」
 父の顔がアルコールと怒りのせいで、真っ赤に染まる。たとえ父に殴られても、私は引くわけにはいかない。
「ご馳走様!」
 私は力いっぱい箸をテーブルに叩きつけ、席を立った。バタバタと、逃げるように二階に駆け上がる音がリビングルームに響き渡る。
ユイは唖然としながら、母の顔を見つめる。母は困惑した顔で、ハンバーグを口に放り込む。
「お姉ちゃん、どうしたんだろう? こんなに怒ることなんて、珍しいね」 
 父はビールを飲み、野球を見ながら、ユイに八つ当たりするかのように厳しい言葉を投げかける。
「あいつの事はいいから、早くご飯食べなさい!」
「は~い……」
 ユイは唇を尖らせ、嫌そうに返事をした。三人は無言で野球中継を見ながら、夕飯を食べ進めた。私のハンバーグはまだ半分以上残っていた。
 私は部屋に入ると、電気もつけずにベッドに倒れこんだ。枕に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。たしかに、野球を見る気分ではなかった。しかし、あんな言い方をするつもりは毛頭なかった。あの時は一歩も引く気はなかったが、どうしてあんなに意固地になっていたのだろう。
「どうして、もっと優しく言えなかったのかな……」
 自己嫌悪で吐きそうになる。昨日、残りの数日ぐらいは父と友好な関係を築こうと決心した矢先の出来事に、自分の意思の弱さに反吐がでそうになる。
「こんな優しさの欠片も無い人間が、アキに優しい言葉をかけてあげることなんて到底不可能だ。……あはは、自分が情けなくて笑えてくる」
 鼻水と涙で、顔がぐちゃぐちゃになっていく。鼻水を啜り、音楽で外の世界を遮断しようと思い、床に転がったままのウォークマンに手を伸ばす。コードが無造作に絡まり合い、私の心模様と重なった。コードの絡まりを解き、耳に装着しようとした瞬間、開けっ放しの窓からピアノの音が聞こえてきた。
アキのピアノの音だ。朝と変わらず、優しい音が部屋に響きわたる。ピアノの音は私の頬から流れ落ちる涙を拭うように、ひっそりと寄り添ってくれた。
ピアノの音に包まれながら、泣き疲れて眠りに落ちた。

七月四日
 
いつもとなんら代わり映えのしない単調な学校生活を終え、そそくさと教室を出た。
今日は瀬高さんとカフェで待ち合わせの日だ。遅刻をしたら舌を引っこ抜かれるので、絶対に遅刻は赦されない。ただの脅しだとしても、怒らせてしまったら、彼なら本気でやりかねない気がした。
下駄箱に向かう途中、廊下で掃除当番のサヲリとすれ違う。彼女はゴミ捨てに行った帰りで、大きなゴミ箱を片手で引きずるように持っていた。
「バイバイ、サヲリ!」
「あれ、今日も早いね。ちょっと待って! 一緒に帰ろうよ。もうすぐ掃除終わるから」
 サヲリが慌てて、私を引きとめようとする。私は顔の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに彼女に断りをいれる。
「ごめん。今日も寄る所があるから、先に帰るね」
「そっか。引き止めてごめんね」
 サヲリは寂しそうな表情で、逆に謝ってきた。彼女の八の字に曲がった眉を見ていると、こっちまで悲しい気分になった。私は罪滅ぼしの為、サヲリに明日の約束を取り付けた。
「明日の放課後は、この前サヲリが教えてくれたクレープ屋さんに行こう!」
「うん、絶対だからね! バイバイ」
 サヲリが嬉しそうに弾けるような声で、手を振りながらに言った。その表情を見て私も安心して手を振り、下駄箱へ走った。
駅前のカフェに着くと、すでに瀬高さんはアイスミルクティーを優雅に飲んでいた。
「ごめんなさい。遅くなって」
小走りにテーブル駆け寄る私の姿に気づき、瀬高さんがスーツの袖を捲り、腕時計に目を落とす。
「大丈夫よ、まだ五時になる五分前だから。あと五分遅れたら、予告通り舌を引っこ抜く気でいたわ」
 命の危機を感じながらも、遅れなくてよかったと、心底思った。
「いらっしゃいませ」
椅子に座ると同時に、この前の美人店員が水とメニュー表を運んできた。何時ものように、慣れた手つきでコースターを手早くひき、グラスを丁寧に乗せていく。
「ご注文が決まりましたら、お呼び下さい」
 花のように笑い、一礼をすると、店員はゆっくりとテーブルを去る。私はまたしても、店員の女性としての仕草や言葉遣いの美しさに、うっとりしていた。彼女の背中を見つめながら「ローマの休日」のワンシーンを思い浮かべた。
 そんな、私の様子に気が付いた瀬高さんはニヤニヤしていた。
「あら、あなた。あの女が気に入ったの?」
「えっ、なんで分かったんですか! もしかして、瀬高さんはエスパーなんですか?」
 自分の気持ちが見透かされた気がして、額から汗が噴出する。私の焦った様子を、瀬高さんは面白そうに見つめる。
「うふふ。私、鼻はよく効くほうなのよ」
「へえ~、嗅覚は犬並みなんですね」
「ちょっと、誰が野良犬だって!」
「そこまで酷いこと、言ってませんから!」
 隣のテーブルに座っている素敵な雰囲気の女子大生達が、私達の会話を聞いていたのか、こっちを見ながらクスクス笑っていた。私はまた恥ずかしくて、顔から火を噴きそうになった。
「バカねえ~、あんな女ほど家でスエット着て、お腹ボリボリ掻きながら、ワイドショーと煎餅が大好物なオバサン化してるものよ」
「夢を壊すような事、言わないで下さい! まるで、見たことあるような口ぶりですね」
 冷えたグラスを手に取り、顔をしかめて水を飲む。汗で失われた水分を補給しなければ!
「だって、私の妹だもの」
 私は瀬高さんの突然の告白に、思いっきり水を噴出し、「変なとこに入った」とゴホゴホと咳き込み、胸を押さえた。
「やだっ! お行儀が悪い子ね。ほら、口の周り拭きなさい」
 瀬高さんがテーブルに備え付けられた紙ナプキンを二~三枚取り出し、差し出してくれた。私は咳き込みながらそれを受け取る。ふうーっと、大きく息をはき、なんとか呼吸を整えた。
「本当に、兄妹なんですか?」
「そうよ、私は就職で上京していたら、あの子が東京に遊びに来たの。それ以来、うちに猫みたいに居ついたの。ただのパラサイトよ」
 彼は困惑した表情で赤いストローを親指と人差し指で摘み、アイスミルクティーを飲んだ。
「ひっでえ」
 自分の妹をパラサイト呼ばわりするなんて。瀬高さん流の辛口コメントに笑いながら、メニュー表をパラパラとめくる。
「だって、料理や掃除がまったくできない子なんだから! 洗濯すら満足にできないのよ。あの女の下着は、私がちゃんとパンティーを手洗いして、ブラはネットに入れて洗濯してるんだから! 見てくれは多少いいかもしれないけど、中身はそこらへんの子豚ちゃんと同じよ。食っちゃ寝しかしないわ。いや、子豚ちゃんの方が愛嬌も生産性もあるから、あの子より全然マシだわ!」
「兄貴、厳しいっすね」
「それより、あなた注文するもの決めた?」
 瀬高兄さんの妹批評に気を取られ、肝心なことを忘れていた。
「この前と同じアイスレモンティーでいいです」
「それなら、アイスミルクティーにしなさい。おいしいから。私も二杯目を頂くわ。夏になると、飲んでも飲んでも喉が渇くからいやだわ」
「じゃあ、それにします」
確かに、初めて会った時から、瀬高さんはこの店に詳しかった。気に入って通っていたことは間違いないが、本当は妹が心配で店に通っているような気がした。
「憎まれ口ばかり言っているけど、妹思いの優しいお兄さんですね」
 私の褒め言葉に、彼はふんと鼻を鳴らした。
「姉として心配なだけよ! 別にあの女がヘマをして、この店を首になっても気にならないわ」
 顔を背け、口を尖らせて答えた。顔が少し赤くなっているのに気が付き、私は「ふ~ん、そうなんですか」と悪戯っぽく言ってみた。
「それよりも、早く注文しなさい! 暑くて、喉がカラカラでしょ!」
「そうですね。今日は、私が注文しますね。すみませーん!」
大きな声で手を上げ、店員を呼んだ。その声に気づいた瀬高さんの妹が、笑みを浮かべながら近づいて来る。
「お伺い致します」
「えっと、アイスミルクティーを二つお願いします」
「かしこまりました」
 妹さんは素早くメモを取り、メニュー表を下げ、「少々お待ちください」と言って、瀬高さんにウインクをした。彼は照れくさそうに、顔を背けた。彼女はくすりと微笑み、厨房に向かっていく。私は二人のやり取りを横目で見ながら、少し幸せな気持ちになった。
しばらくすると、アイスミルクティー運ばれてきた。今度は瀬高さんの妹ではなく、別の店員だった。少し瀬高さんが残念そうな顔をしていた。やっぱり、妹思いのいいお兄さんじゃん。否、お姉さんの方かな。
アイスミルクティーは、濃い目の紅茶に滑らかなミルクが絶妙に絡み合い、シロップの程よい甘さが夏バテ気味の体を癒してくれた。夕刻の時間が近いせいか、店内は女子高生や若い女性達で賑わっていて、席は満席に近い状態になっていた。 
 私は思い切って、アキのことを瀬高さんに相談してみることにした。誰にも相談せずに抱え込んでいられなかった。
「私、幼稚園からずっと隣の家に住んでいる幼馴染がいるんです。その子の事で、ちょっと相談があるんですけど……」
「その子は、男なの女なの?」
 彼が頬杖をつきながら、にやりと笑った。
「男です。残念ながら、瀬高さんが思っているような恋愛相談じゃないですよ」
「あら、なんでわかったの?」
 瀬高さんがワザとらしく、おどけた顔をする。
「そのにやけ顔見たら、瀬高さんが良からぬ事を考えている、て私のゴーストが囁いたんです」
「なんだ。面白くないわね」
 彼は興味無さそうな顔で、アイスミルクティーを飲み干した。そんなに露骨に態度を変える人なんて、初めて見たよ。
「興味無くても、今度は私の話を、先っちょだけでもいいから聞いてください! 昨日、そいつから悩みを打ち明けられたんですけど、上手くアドバイスというか、励ますことが出来なかったんです……。ちなみに、ヤツの名前は『水城アキ』です。アキは勉強もスポーツもできて、友達も多くて、おまけにピアノまで弾ける完璧な人間なんです」
「それで? 非の打ち所が無い完璧人間に、どんなお悩み相談されたの?」
 私は落ち着かない様子で、アイスミルクティーをストローで何度もかき混ぜる。
「大事な野球の試合とピアノのコンクールが重なったらしくて、どちらに行くか迷っているみたいなんです。アキは『どちらも選べない』て言っていたけど、たぶん本人は結論が出ているんです。でも、あと一歩を踏み出す勇気がないみたいで……。勇気をあげたいけど、踏み出せない理由を聞いたら、コンクール行きなさいよて、気安く背中を押せなかったんです」
 彼は時々相槌を打ちながら、黙って私の話に耳を傾けていた。もう一つ、瀬高さんに報告したいことがある。
「あと、この前瀬高さんに親子関係について、偉そうにアドバイスにもならない意見を述べていましたが、私も父親と円滑な関係を築けていないんです。互いを傷つけあうことでしか、コミュニケーションを図れないんです。仲良くしようと努力しても、すぐに喧嘩をしてしまいます。私も、瀬高さんと同じなんです……」
 汗をかいたグラスから、水滴が頬を伝う涙のように滑り落ちていくのを、ぼんやりと見つめていた。私の相談を聞き終わると、瀬高さんは何も言わずに伝票を取り、立ち上がった。
「さっさと、ミルクティー飲んでしまいなさい! 行くわよ!」
「えっ? 行くわよって、どこに行くんですか? あなたと心中なんて、ごめんですよ」
まったく状況が読めない。ってか、私の相談内容はどこに行ったのかしら?
「失礼な! こっちこそ、あんたとなんかごめんよ! 私には愛する嫁がいるんだからね!」
「瀬高さん、結婚してるんですか?」
「バカね、女の嫁じゃないわよ」
「あぁ……、そういう事ですね」
「そんな事は、いいから早く飲みなさい!」
 私は何がなにやら分からないまま、彼に急かされ、一気にミルクティーを飲み干す。口の中に甘ったるい匂いが残ったまま店を出る。会計は、またも瀬高さんの奢りだった。私が財布を出す隙を与えないほど、素早く会計を済ませていた。さすがに、二回連続で奢ってもらうのは悪い気がしたので、彼に千円札を差し出す。
「今度は、自分で払いますよ」
「いいわよ! それで、お菓子でも買いなさい。それより急ぐわよ!」
 瀬高さんは、猪のように猛烈な勢いで走り出した。彼の中に眠る男の片鱗を垣間見た気がした。
「急ぐって、どこにいくんですか?」
「ヒ・ミ・ツ」
 彼は振り返りながら、少女マンガのようなウインクを投げかけてきた。私は、もう七月だというのに、背筋が凍る感覚がした。寒さを打ち消すように、私も走り出した。
 黄昏の街を駆け抜ける二人の影は、寄り添いながら伸びていた。明日は晴れるだろう。
「よかった、間に合って」
 私達は、駅の近くを流れる大きな川の河川敷にいた。日が傾き、昼間の気だるい暑さからほんの少し解放された河川敷には、犬の散歩やランニングする人たちで賑わっていた。飛行機が通過する音がした。見上げると、川の向こうの空に飛行機雲が発生し、オレンジ色の空に一本の白線が途切れることなく真っ直ぐに伸びている。
私達は座り心地が良さそうな斜面に腰を下ろした。ここは市民の憩いの場になっているので、河川敷の草は綺麗に刈られ、整備されていた。
 夕日がキラキラと水面に反射し、透明な水は黄金の光を纏っている。遠くで、子供を呼ぶ父親の声が聞こえた。私は声が聞こえた方向を見ると、幼稚園の制服を着た子供と会社帰りの背広を着た父親が、仲良く手を繋いで歩いていた。子供の顔が、川の水面のように輝いている。
私達は肩を並べ、川の流れを静かに見つめていた。二人の間を風が吹きぬけ、髪が微かに靡く。
「私、嫌なことや落ち込むことがあると、いつもここに来るの。そして何も考えずにぼーっと、川を見つめるの。時間は決まって夕暮れ時だわ。太陽の光も昼間と違って突き刺すように痛くないし、何より人の顔や表情が少しだけぼやけるじゃない? だから、ここでなら、あなたと本音を言い合える気がしたの」
「だから、急いで店を出たんですね」
 瀬高さんが風に髪を揺らしながら、優しい笑顔で頷く。その笑顔につられて、私の顔も自然と綻ぶ。
「早くしないと、夜になっちゃうから。ここは見て分かると思うけど、犬の散歩コースになっているから、暗くなってここを通るとウンコ踏んじゃうの」
「俗に言う『経験者は語る』て、感じですね」
「相変わらず鋭いわね」
「そこらへんは、瀬高さんに負けず嗅覚は犬並ですから」
 私達は大きな声で笑いあった。二人の間に流れていた重たい空気が、吹き抜ける風のように一気に軽くなる。
「さっきのアキ君の話しだけど、ピアノのコンクールに行くように
背中を押してみたら?」
川を見つめながら瀬高さんは優しい口調で、提案してきた。私は不安そうに、暗い声で言った。
「でも、アキが抜けたせいで試合に負けて、あいつがイジメられたらどうしよう……」
 私は足元の草をちぎり、乱暴に投げ捨てた。そんな私を見つめ、彼は変わらず優しい声で話を続けた。
「無責任に言っている訳じゃないわ。ただ、本当に叶えたい夢だったら、多少の犠牲と覚悟は必要よ。捨てなくちゃいけない思いもある。あなたと出会ってそう思ったの。『自分らしく生きよう』てね。他人の目を気にして、自分を殺して生きていくのは、やめようと決意したわ。この生き方が正しいかどうか分からない。きっと、辛い事や心が壊れるくらい傷つく事もあると思う。でも、後悔だけはせずに生きられると思った」
 黙って彼の話を聞いていた。私はあと数日の命だが、アキはこれから長い高校生活が続くはずだ。それを考えると、どうしても言い出せない自分がまだいた。でも、本当は他にも理由があった……。
「だから、六日に実家に帰って父と向き合ってくるわ。今度こそ、逃げない」
「えっ! 本当にお父さんに会いに行くんですか?」
 私は驚いて、瀬高さんの顔を見た。彼の目には、強い決心の光が宿っていた。澄み切った目を、直視することが出来ず、思わず目を逸らす。彼は、自分の力で壁を飛び越えようとしている。それに引き換え、自分だけがここから動けずにいるのは、堪らなく嫌だった。私は声を絞りだすように、自分の心に潜む臆病な心情を吐露した。
「私は、瀬高さんが思っているような立派な人間じゃないですよ。……本当は、アキに嫌われるのが怖いんです。下手にアドバイスをして、アキがピアノを選んだ結果、落選して留学もできない、おまけに野球部でイジメられて、野球もできなくなったら、どうやって責任とればいいかわからない。その道を選んだのはアキ自身の意思だとしても、心のどこかで『お前のせいだ!』って思われそうで怖かった。だから、曖昧な返事しかできなかった。本当は、自分が傷つくのが怖かっただけなんです。お父さんのことも同じです。本音で話すと、余計に傷つくから逃げていただけなんです」
少し涙ぐみ、所々言葉を詰まらせながら答えた。上手く自分の気持ちを説明できたか分からない。しかし、私の言葉に嘘はなかった。自分の弱さを認め、正直に瀬高さんに今の思いを打ち明けた。
そんな臆病者の私に、瀬高さんは優しく肩に手を置いた。その手はとても温かかった。
「私が、あなたを立派な人間だと思うのは、あなたは自分の弱さを素直に認められるところよ。これは簡単そうに思えるけど、実はすごく難しいことなの。誰だって弱みは見せたくないわ。でも弱さを見せ合うことで、互いに強くなれることもあるわ。一人じゃない、と思えるから」
瀬高さんは夕日に照らされながら、にこりと笑う。目の輝きは失われることなく、むしろすべてを包み込むような優しさに溢れた目をしていた。今度は目を逸らさずに、彼の目の輝きを真っ直ぐに受け止めることができ、私も微笑む。
「しかしコンクールなんて、懐かしい響きだわ」
「えっ? 瀬高さんもピアノ習ってたんですか?」
「そうよ。幼稚園の時から、社会人二年目まで教室に通っていたわ。あなた、ピアノは良家の子女の嗜みよ。何度か名前を偽ってコンクールにエントリーして、ドレスで出場したこともあるのよ」
「本当ですか!」
 私は驚くというよりも、呆気にとられた。瀬高さんは笑いながら頷いた。
「どうしてもドレスを着て、大衆の前でピアノを弾きたかったの。でも先生の手前、毎回は無理だったけどね。だから、うちのクローゼットには、ドレスとタキシードがたくさん眠っているのよ」
「そうなんですか」
「だから、アキ君がどれだけ努力しているか、身に染みて分かるの。野球とピアノの両立は大変難しいわ。おまけに、どちらもプロになるのは茨の道よ。だからこそ、私もアキ君には後悔のない選択をして欲しいの。もちろん、自分の意思でね」
 私は瀬高さんの話に、黙って頷いた。私もアキには後悔が残る人生を歩んで欲しくなかった。その選択が、たとえ間違っていたとしても……。
「生きていると、いいことも、悪いことも、すべて自分の中に流れ込んでくるわ。いつか夕日に照らされたこの川のように、すべての思い出たちがキラキラ輝きますように、て願っているの」
 瀬高さんが川を見つめながら、切ない願いを浮かべていた。私も彼と同じように、黄金に光る川に願い事を浮かべてみた。
「私も逃げずに頑張ってみます。アキのことも、お父さんのことも……」 
私は空を見上げた。夕焼け空に架かる飛行機雲は途切れることなく、真っ直ぐな白線を描いていた。









七月五日

 今朝も、アキの奏でるピアノの音で目が覚めた。体を起こすと、毎朝のように寝汗で、背中がぐっしょりと濡れていた。暑さのせいで何度も夜中に目が覚め、深い眠りから覚めた爽快感はまったく無く、浅い眠りの連続からくる疲労感だけが体を支配していた。でも、怖くはない。残り少ない時間の中でも、私にはやるべき事が見つかった。いつまでも、死とは何ぞやと、考えている暇はない。西川の言ったように、死んでから考えればいい。今は、自分が成すべき事だけ考えよう。そうしたら、死の影に怯えなくていいもの―。
 眠たい目を擦りながら枕もとの携帯電話を見ると、まだ朝の六時半だった。二度寝する時間は残されていたが、どうせ寝ても疲れるだけだと、思い、カーテンと窓を開けた。目を明けられないほど眩しい朝日が、部屋に広がっていく。ピアノの音色に乗って、涼しい風が舞い込んできた。風が汗ばんだ背中と額の汗を優しく乾かす。
「今朝も早くから練習しているな。今日はちゃんとアキと話をしないと! 放課後はサヲリとクレープ食べに行くから、朝一緒に学校行こうかな……」
 ピアノの音を聞きながら携帯電話を取り、アキにメールを打とうとした。しかし、リンカちゃんの顔が頭に浮かび、メールを打つのをやめた。一緒にいるところを見られたら、また面倒な事が起きる気がした。
 頭をボリボリ掻きながら「どうしよう……」と考えていると、腹の虫がグゥ~と大きな声で挨拶をした。
「とりあえず、ご飯でも食べてこよう。腹が減っては、戦はできぬ!」
 携帯電話を鞄の上の放り投げ、一階に下りていった。一階に下りると、母の用意したパンの香ばしい香りが扉の向こうまで、香ってきた。
「おはよう」
 新小郡駅の改札を出ると、アキが声をかけてきた。私はウォークマンの音を止め、イヤフォンを外し、押し込むように鞄の中に入れた。
「はよ。同じ電車だったんだね」
「さっき気が付いたんだ。電車から降りて、何気なく振り返ったら、死んだ魚のような目をしたヤツを見かけたんだ。一発でハルカだとわかったよ」
「鮮度100%、ピチピチ現役女子高校生に向かって、なんと失礼なヤツだ!」
「今どきピチピチなんて、うちの親父でも使わないぜ」
「るっさい!」 
 私は怒りに任せて、早足で歩き出す。アキがからかう様に笑いながら、後ろをついてくる。
「怒るなよ、一緒に行こうぜ」
「そこら辺にいる、ピッチピチの女子高生をナンパして、学校に行けば! 私と歩くと、死んだ魚の匂いが移るぜ! 気をつけな、兄ちゃん」
「朝から怖いね。お前は、俺の中では鯛と同じくらい高嶺の花だよ。鯛は腐っても鯛だから大丈夫!」
「フォローになってないし!」
「そうか? ごめんな」 
いつの間にか追いついたアキが、悪戯っぽく笑う。部活道具がパンパンに詰め込まれた鞄を揺らし、私の速さに合わせて隣を歩く。彼の顔の日焼けが、少しだけ濃くなった気がした。今朝は少しだけ暑さが和らぎ、涼しい初夏らしい風が吹いていた。私は今朝の事を思い出し、アキと話をする絶好のチャンスだと思った。
「あのさ」
話を切り出した瞬間、「あっ!」とアキが声を上げた。私は突然の声にビックリして、両肩が上がる。アキが眉間に皺を寄せて、私の顔を見つめた。
「今日、何日だっけ?」
「……五日だけど」
「今日、化学で当たる日だ! 俺、出席番号に数字の五がつくもん! 昨日出された化学の宿題やってきた?」
「一応ね」
「お願い、ノート貸して! お前、化学得意だよな」
 私は鞄の中から化学のノートを取り出し、アキに渡した。彼は嬉しそうにノートを受け取り、
「俺、先に行ってノート写してくるわ。写し終わったら机に入れておくから、心配しなくていよ」
 と言い残し、一人で颯爽と学校に走って行った。
「えっ、ちょっと待ってよ!」 
 私が鞄を閉じる時には、彼の姿は小さくなっていた。私の話、終わってないよ……。
一人で学校に着くと、すでに机の中に化学のノートが入っていた。表紙には「サンキュー」と書かれた付箋が貼られていた。相変わらず律儀なヤツだなと、思っていると、背後から突き刺さるような視線を感じた。リンカちゃんに、ポンと肩を叩かれた。私はまるでリストラにあったサラリーマンのように、強張った表情で彼女の顔を見る。今まで見たことのない満面の笑みで、リンカちゃんが目の前に立っていた。
「それ、アキの字だよね? 仲がいいのね」
「リンカちゃんほどではないよ」
「あたり前じゃない!」
 肩に置かれた手に力がこもり、痛くて思わず顔を歪めた。そんな私の様子を無視するように、彼女の戦慄の話は続く。
「あのさ、放課後に話あるから、面貸せや!」
 リンカちゃんが笑いながら、呼び出してきたのが余計怖かった。
「……放課後はサヲリと約束があるから、無理です」
「じゃあ、昼休みに体育館の裏で待ってるから来てね。もしも来なかったら、お前を消す!」
 さっきまでの笑みは消え、彼女の眼光が鋭く光った。私は怯えながら「……はい」とだけ返事をした。
「待ってるからね、ハルカちゃん!」
 そう言い残すと、彼女は満足そうに去っていった。
「あの眼は、絶対何人かヤッてる眼だ……」
 結局面倒なことに巻き込まれて、私は大きな溜め息をついた。教室は朝にも関わらず、夏の暑さが充満していた。私は鞄から下敷きを取り出し、パタパタと扇いだ。
 今日も、空は青さを称えるように晴れ渡っている。
 四限目の終わりを告げるチャイムが、学校中に響き渡る。生徒達は一斉にお昼ご飯の準備に取りかかる。私も、いつもと同じようにサヲリとお弁当を食べようと思い、鞄から弁当を取り出す。
「ハル! 早く、こっちにおいで~」
 サヲリが手招きをしながら、呼んでいた。
「今行くよ」
 私はお弁当を持って、サヲリの元に駆け寄り、食堂に向かった。食堂に向かう途中、大事なことを思い出した。
「ごめん、先に行ってて! 私、リンカちゃんに呼び出しくらってるんだった」
「そうなの? じゃあ、ミサキ達と一緒にいるから、早く来てね」
「うん。もし遅くなったら、先に食べてていいから」
「わかった、気をつけてね」
 私はサヲリと別れ、一目散に体育館に向かった。間に合わなかったら、確実に殺される! リンカちゃんが、まだ体育館に到着していないことを祈るばかりだ。
私の祈りも虚しく、リンカちゃんはすでに仁王立ちで体育館の裏で待っていた。
「遅い!」
 開口一番、彼女に叱られた。
「ごっ、ごめん! すっかり、忘れてて」
 息を切らしながら、必死に謝った。あんなに祈ったのに、願いが叶わないなんて。この世界には、神様はいない。
「まあ、今回だけは私の寛大な心で赦してあげる」
 捨てる神在れば、拾う神在りとは、このことだ。何とか、リンカちゃんから赦しを請うことができた。
「ありがとうございます。ところで、話って何?」
「アキの事に決まってるじゃない! あんたを呼び出す理由なんて、他にないわよ。私が新原さんに興味があるとでも思ったの?」
「いちいち、棘のある言い方するよね」
私はぼそりと呟く。
「何か言った?」
 再び、リンカちゃんの眼に黒くて鋭い光が宿る。私は思いっきり首を横に振った。
「もう一度聞くけど、アキのことで何か知っていることある?」
「本当に、何も知らないよ! 何度も言うけど、彼女のリンカちゃんの方がアキと一緒にいる時間は圧倒的に長いんだから、リンカちゃんが知らないことは、私も知らないよ!」
「圧倒的に長いのは、あんたの方じゃん! 幼馴染なんだから!」
「あっ、そういえばそうだね……」
「私、本当はあんたの事大っ嫌いなの!」
 リンカちゃんが私に対して敵対視していたのは、気が付いていたが、面と向かって嫌いと言われると、さすがに傷ついた。
「だって、私の知らないアキをあんたはいっぱい知ってるし、アキは私に向ける笑顔とあんたに向ける笑顔は全然違うもの……」
 さっきまでの敵意剥き出しの表情が消え、泣きそうな顔をしていた。その顔を見ていると、アキの悩みを教えてあげようと思ったが、彼が自分の口で言わない悩みを、私が彼女に教えるのは失礼だと思ったのでやめた。
「アキが心から好きなのは、リンカちゃんだけだよ。確かに、昔のアキのことならたくさん知ってるけど、未来のアキの姿を隣で見ることができるのは、私には無理なんだ」
「どういうこと?」
 リンカちゃんが目に涙を溜めながら、不思議そうな顔をしていた。
「まあ、細かいことは気にしなくていいよ。それよりも、アキのことを本当に好きなら、無理に知ろうとせずに、相手が話すまで信じて待ってあげたら?」
 リンカちゃんの目から涙が零れ落ちた。私はポケットから、くしゃくしゃになったままの例のイカガワシイティッシュを取り出し、彼女に差し出す。リンカちゃんはティッシュを見るなり、
「……いらない」
 丁重に断った。私は、仕方なくポケットに押し込んだ。
「わかった、アキが話すまで待ってみるよ。別に、あんたに言われたからそうする訳じゃないからね!」
 何、このツンデレ。でも、嫌いじゃない。リンカちゃんはいい子だよ。
「鬼の目にも涙だね」
「るっさい!」
 リンカちゃんがいつもの口調に戻ったので、私は安心した。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、私達は教室に戻った。ほんの少しだけ彼女との心の距離が縮まったのは、確かな事実だ。
本日の授業も何事もなく終わり、帰る支度を済まし、サヲリと一緒に下校した。下駄箱に向かう途中、窓の外から野球の練習をしているアキの姿が目に映った。懸命にボールを追い、掛け声を出す姿に少し胸が痛くなった。ぼんやりと窓の外を見つめる私に、サヲリが不思議そうに顔を近づける。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
「そうなの? あっ、野球部頑張ってるよね! 明後日の試合は、去年の雪辱を返す為の試合だから、負けられないもんね。気合入ってるね~」
 サヲリが窓の枠に手を置き、身を乗り出す。
「去年、何かあったの?」
 私の質問に、野球部の練習を見ていたサヲリが、驚いた顔を向けた。
「知らないの? 去年の試合は、九回の裏で逆転負けしたんだ。相手チームのただのフライを、守備の一年生が取れなかったせいで負けたみたい。つまり、今の二年生の選手だね。そのせいで、うちの学校は県の代表になれなかったんだ」
「そんなことがあったんだ……」
「その時、先輩達に責められてた選手を水城君が一生懸命庇っていたんだよ。いい人だよね、負けて自分も悔しい思いをしたのに」
「……ふ~ん」
 彼は相手が先輩であろうと、困っていたり、落ち込んでいる人がいたら全力で仲間を庇う人だ。アキはそういう男だ。
「行こうか。早く行かないと、クレープ屋閉まっちゃうよ」
「うん」
 サヲリが弾けるような声で返事をし、二人で下駄箱に向かった。だから大事な試合なんだ。アキ、何も知らないでごめんね。どう
して、彼ともっと大事な話をしてこなかったのかな……。
駅前にオープンした新しいクレープ屋には、同じ制服を着た女子
高生やカップルがすでに十数人並んでいた。サヲリが長い列を見ながら溜め息交じりに言った。
「チャイムが鳴ってから、ソッコー来たのにこんなに並んでるなんて……」
「せっかく来たから、暑いけど気長に並ぼうか」
「そうだね。ハルと話しながら並べば、楽しいし!」
 サヲリが白い歯を覗かせ、にっこりと笑う。それにつられて、私も笑った。
暑さのせいで汗が止まることなく、頬や首を流れ落ちる。私は鞄からマフラータオルを取り出し、汗を拭う。それを見たサヲリも、
「私も、今日はそのタオル持って来たんだ!」
嬉しそうに鞄から同じタオルを取り出し、汗を拭き、首にかけた。このマフラータオルは、彼女が「ハルに似てるからあげるね」と言って、プレゼントしてくれた。スカジャンのバックプリントに刺繍されていてもおかしくないくらい、リアルな白虎が描かれたタオルは、女子高生が贈り物にチョイスするには少々変わっていた。私は、彼女の好意を無駄にできないと思い、そのタオルを愛用していた。凶暴な見た目とは裏腹に、肌触りもよく、汗の吸収力も抜群によかった。
しばらく二人で他愛もない話に花を咲かせる。今回の話題は、最近読んで面白かった漫画の話だ。サヲリは少女漫画しか読まない。でも、その分知識は半端なかった。それとは逆に、私は任侠漫画やギャグ漫画に詳しかった。二人の趣味はまったく噛み合わなかったが、私達は面白い作品は読まなきゃ気が済まない性分だった。互いの趣味を頭ごなしに否定することは、決してしない。百聞は一見にしかず、がモットーだ。
漫画談義に夢中になっていると、いつの間にか、前には四人しかいなかった。
「そろそろだね!」
「うん。サヲリは何を頼むか決めた?」
 私達は店頭に立てかけてあるメニュー表を見ながら、品物を決めていく。
「私は、一番人気のイチゴチョコソースクレープにするんだ。ハルは?」
「じゃあ、四番目に人気のバナナカスタードソースクレープにするよ」
 メニューが決まると、私達は鞄から財布を取り出す。サヲリが財布の中身を確かめている。
「じゃあ、私がまとめて注文するね」
「かたじけない」
「まだ、武士道貫いてるんだ!」
 私は黙って頷く。サヲリは、またにっこりと笑う。困った顔の彼女も可愛いが、サヲリには笑顔が一番似合う。
「いらっしゃいませ」
「すみません、イチゴチョコソースとバナナカスタードソースのクレープをお願いします」
店員は注文を受けると、手際よくクレープを作っていく。生クリームを塗り、フルーツを散りばめ、ソースは左右にゆるやかな曲線を描き、生地をクルクルと巻いていく。サヲリは小さい子供のように目を輝かせながらクレープを見つめていた。
「お待たせ致しました」
 店員からクレープを受け取り、私達は駅のホームに急いだ。サヲリは今すぐにでも食べたい気持ちでいっぱいだったが、「ゆっくり味わいたいから、駅のベンチまで食べるの我慢する!」と言っていた。まるで、お預けを命令された子犬のように、駅のホームに繋がる階段を下りながら、クレープを涙目で見つめていた。
ベンチに腰を下ろし、私達はクレープを食べながら、電車を待った。サヲリはクレープを頬張り、「おいひ~」と至福の笑みを浮かべている。
「並んだ甲斐があったね! 新しいお店だし、せっかくならハルと一緒に来たかったんだ。バナナはおいしい?」
「うん。おいしいよ、バナナ」
「ねえ、一口ちょうだい」
 私は「いいよ」と言い、サヲリにバナナクレープを差し出す。彼女はバナナクレープを一口食べ、
「こっちも、おいしいね! 私もバナナにすれば良かったかな~」
 少し悔しそうに、バナナクレープをじっと見つめていた。その顔を見ながら、私はくすりと笑う。
「可愛いサヲリには、イチゴの方が似合うよ」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
「やだ、褒めたって何も出てこないよ。」
 サヲリの顔が少し赤くなり、やっぱり彼女はイチゴが似合うと、心の中で呟いた。
 ホームには同じように、クレープ食べながら電車を待つ生徒が数人いた。男女関係無くどの子も、幸せそうにクレープを食べている。
「みんな幸せそうにクレープを食べてるね」
 サヲリがはにかみながら、嬉しそうに言った。でも、サヲリが一番幸せそうにクレープを食べている気がする。
「どっかのドーナッツ屋が『怒りながら、ドーナッツを食べるのは難しいね』てキャッチコピーを打ち出してたけど、たしかに甘いものを食べながら怒るのは至難の業だね。サヲリの場合は特にそうだね」
「うん! 男の子も女の子も、甘いもの食べると幸せな気分になるよね。私、甘い物大好き!」
素直に好きなものを好きだと言えるサヲリが、少し羨ましくなる。そんな彼女をまじまじと見ながら、私は唐突に切り出した。
「サヲリって、クレープに似てるね」
「突然、なんでござるか!」 
サヲリは私の突然のクレープ発言に驚き、大きな目をさらに大きく見開いた。
「いや、なんていうか特に深い意味は無いんだけど、みんなサヲリと友達になると幸せな気分に浸れるって言うのかな? 初めはサヲリのこと、日本人ならみんなが大好きなパンダに似ていると思ってたんだ。ほら、目も垂れ目で可愛いし。だけど、見た目も可愛いし、その場を甘い雰囲気でクルッと包んでくれるクレープに似てる気がしたんだ」
サヲリはキョトンとしていた。次の瞬間、彼女が大声で笑いだす。
「例えが下手くそだね!」
 お腹を抱えながら苦しそうにしていた。横で笑っているサヲリを見ると、私は急に恥ずかしくなった。
「笑いすぎだよ!」
「だって、人間をクレープに例える人なんて、そうそう居ないよ!あ~、お腹痛い」
 お腹を押さえながら、笑いで溢れた涙を白虎タオルで拭う。私は恥ずかしさを誤魔化すように、クレープを一気に貪り食う。その様子を見たサヲリも一気にクレープを食べる。私は頬一杯にクレープを押し込み、彼女を睨んだ。サヲリもクレープを頬張り、私を見つめる。二人は互いの口元を指差し、
「ぐりーぶ、づいでるよ!(クリーム、付いてるよ!)」
 同時に同じセリフを言った。私達はおかしくて、クレープを噴き出しそうになり、白虎タオルで口を拭いた。私は赤くなった顔をタオルで隠す。
「ハルが慌てるなんて珍しいね。まさか、二人とも口にクリームつけるなんて、可笑しいよね!」
「なに、この少女マンガみたいなノリは! しかも、古そう。ナウなノリではないね」
「ナウは死語だよ!」 
 サヲリが鋭いツッコミをいれた。私は自分の失言で、より一層恥ずかしくなった。
 電車のアナウンスかホームにこだまする。人々が、電車のドアが開く番号が白線で書かれた位置に並び始める。私とサヲリも立ち上がり、白線に内側に並び始めた。まだ、口の中にクレープの甘ったるい後味が広がっていた。 
私達は電車に乗り込む。帰宅途中の学生が多く、少し込み合っていたせいか空席が見あたらなかったので、ドアの横に立った。電車が走り出し、体が電車の動きに合わせて左右に揺れる。電車の揺れとクーラーの風のせいで、サヲリの黒く長い髪がゆったりと靡く。
「この車両、弱冷房車じゃなくてよかったね!」
彼女は髪を靡かせながら、涼しげに言った。私も頷き、彼女の意見に同意するサインを送る。
「混んでいるから、こっちで正解だね。クーラーは人類の偉大な発明の一つだね」
「確かに! クーラーは現代人にとって必要不可欠だね」
 しかし、どんなに偉大な発明品でも必ず欠点が存在する。その要因の多くは構造上の問題ではなく、使う立場の人間に問題がある。
「でも、朝は汗掻いたまま普通車両に乗ると、汗で体が冷えてお腹が痛くなることもあるよね」
「あるある! お腹がキューッて、締め付けられるように痛くなるよね」
 サヲリがお腹を押さえながら、ジェスチャーを交えて話す。人間は機械以上に予期せぬ行動を取るものだ。
 ドアから夕日が差し込み、二人の笑った顔がオレンジ色に染まる。車窓から見える景色は、いつもと変わらず穏やかに流れていく。サヲリは嬉しそうに話し出した。
「今日は楽しかった! また、クレープ食べに行こうね」
「うん。いいよ」
「約束だからね!」
 私は果たすことのできない約束を交わすことに、躊躇した。自分が消えることなんて、彼女は夢にも思っていないだろう。何気ない言葉が心に重く引っかかる。私の不安そうな様子に、サヲリは気がついた。
「どうしたの? お腹が痛くなったの?」
「違うよ。わかった、約束するよ」
「うん!」
 この約束を交わすことが、正しいとは言えないかもしれない。しかし、サヲリの無邪気な顔を見ていたら、嘘でもいいから彼女を悲しませてはならないと思った。あと少しで二人のお別れの時間なら、ずっと胸に秘めていた疑問を彼女に訊いてみた。
「あのさ、サヲリはなんで私と仲良くしてくれるの? いつも私の事誘ってくれるし、学校でも二人で行動することも多いじゃん。私は人見知りだから、昔から友達多くないけど、サヲリはみんなに好かれているし、大勢の友人に囲まれているイメージがあるから、私とは対極の存在なのに仲良くできるのが不思議に思って……」
何の脈力もない突然の質問にも関わらず、サヲリは驚いてはいなかった。彼女はふっと笑い、私の顔を覗き込む。
「友達になるのに、理由なんていらないよ。私がハルを好きな理由? そんなの、ハルが面白いし、助けてくれたからだよ」
「助けた? 私が、サヲリを?」
 そんな記憶はまったくない。むしろ、私のほうがサヲリに助けてもらった思い出しかない。思い出せない私を、サヲリが少し寂しそうに見つめる。
「そっか、覚えてないか……。あのさ、入学当初は奇数クラスと偶数クラスを交互に、体育教師が朝のホームルーム中に新入生の頭髪と服装検査に来てたよね。違反したら、放課後に校庭を五周走らされる罰が課されていた事は、さすがに覚えてるよね?」
「それぐらいは、脳みそ三グラムの私でも覚えていますよ!」
「服装検査の中に、名札の有無が項目にあって、名札を忘れちゃった日があったの。私、運動が苦手だったから、頭抱えて困っていたら、ハルが『隣のクラスの若松さんに借りたら? あっちは今日の服装検査ないし、ばれないよ』ってアドバイスしてくれたの。隣のクラスの若松さんに名札を借りて、何とか罰を受けずに済んだ。その後、お礼を言いに行ったら『別に』って表情一つ変えずにハルが言ったの。この人は笑うのが苦手なのかな、て思っていたら、その時読んでいた本が、ギャグ漫画の『クレパス☆じんちゃん』だったから、びっくりしたよ。それが、なんだか可笑しくて」
 サヲリが思い出し笑いをするのを、私はなんだかくすぐったい気持ちで見つめていた。
「あの頃は、その漫画にハマっていたのは覚えてるよ。でも、名札の事は記憶に無いなあ」
「ハルが覚えてなくても、私には大事な思い出なんだ」
 確かに『クレパス☆じんちゃん』を読み漁っていた頃、サヲリがやたら話しかけに来ていた。その頃から、私達はクラスで行動を共にするようになり、知人から友達に関係が変化していった。
「しかも、ハルが思うより、私達はよく似ているよ」
「どういうこと?」
「私、本当はすごく人見知りなんだ。だから、ハルが高校入学してから、クラスに馴染めなくて、一人でいたのが気になってた。この子は人見知りなんじゃないかなって。そしたら、あの時ハルが助けてくれた。ぶっきらぼうだけど、優しい子なんだって思った。同時に確信したよ。やっぱり、この人は同じ匂いがするって!」
 サヲリの意外な告白に、私は驚いた。まさか、彼女も人見知りなんて、まったく感じたことはなかった。
「そうだったんだ。サヲリが人見知りだったなんて意外だよ」
「うん。幼稚園の時は全然友達いなくて、先生が心配するぐらいだった。でも小学生の時は、うちは引越しが多かったんだ。そのたびに、一から人間関係を築かなきゃいけなし、暗いヤツだと思われたら虐められるから、必死で明るいキャラを演じて、クラスメイトに話しかけた。そしたら、いつの間にか人見知りしなくなったけど、今度は『あいつ、八方美人だよ』って言われるようになった。今でも、陰口叩かれているけどね。難しいね、人間関係は」
 サヲリが苦笑いを浮かべる。私はみんなに好かれているサヲリが、人間関係で悩みがあるとは思いもよらなかった。彼女が無理矢理に作った笑顔が、余計に切ない。
「サヲリは、そのままでいいよ。陰口叩くヤツなんか放っておけ。言いたいヤツには言わせておきな。私は、サヲリの良いところをいっぱい知ってるよ。悪いところは、……そうだなぁ。女子高生なのに虎柄のタオルをプレゼントしちゃうセンスぐらいかな。まあ、私なんかに褒められても、嬉しくないだろうけど」
 喜んでくれるかどうか分からないが、精一杯サヲリを慰めようとした。彼女が大きく首を左右に振る。
「そんなことないよ。ありがとう」
 そう言って、彼女は笑った。その顔は、さっきまでの苦しそうな笑みではなかった。
「まもなく、新宮ノ陣駅に停車します。お忘れ物の無いように、ご注意ください」 
サヲリが降りる駅名が車内にアナウンスされる。彼女は私の二つ手前の駅で降りる。
電車がホームに停車し、車掌が吹く笛を合図に扉が音を立てて開く。
「じゃあ、降りるね」
「うん。また明日ね」
「明日は、土曜日だよ」
「あっ、そうか……」
 私は日にちばかり気にしていて、いつの間にか曜日の感覚が抜け落ちていた。
「だから、次会うのは月曜日の朝だね。朝テストの日だから、ちゃんと勉強して、今度こそ『追試の女帝』の冠を脱がなきゃね!」
「そうだね」
 私は困った顔で笑った。死ぬ前日も、月曜日の朝テストの事ばかり考えていたな。
「ハル、どうしたの?」
「なんでもないよ。ほら、早く行かなきゃドアが閉まるよ!」
「えっ、ああ! じゃあ、またね」
「バイバイ、サヲリ」
 サヲリが間一髪で扉を通過し、ホームに下りる。ドア越しに、彼女の不安そうな顔が目に映った。私は精一杯の作り笑いをし、彼女に手を振る。サヲリは何かを察したのか、今にも泣きそうな顔で手を振っていた。電車が走り出す。私達はお互いの顔が見えなくなるまで、見つめ合いながら手を振った。 
サヲリと別れた後、ドアの外を流れる風景を見ながら、鞄からウォークマンを取り出す。いつも鞄に放り込むように入れているので、イヤフォンのコードは絡まっていた。コードの絡みを解いていると、もっとサヲリと一緒にいたいと思った。帰りにクレープを頬張りながら、馬鹿な会話をしたり、悩んだ時は一緒に頭を抱えて悩み、一人が涙で暮れる日は、肩を寄り添いながら慰めあったり……。
たくさん二人で思い出を共有し、大人になり、いつかこんな日々を笑い合いながら話せる日が来たら、どんなに幸せなことだろう……。コードを解こうとするが、手が震えて上手く解けない。涙で視界がぼやけ、コードが幾重にも重なってみえた。
何気ない「今」を積み重ね、明日を紡いでいくことが、どれほど愛おしくて、大切な事なのかを、今更ながら気づかされた。頬を伝う涙が、解き終わった真っ直ぐな白いコードの上に音も無く落ちていった。
電車を降り、駅から歩いて家に帰った。ウォークマンから流れてくる音楽は、今の季節とは真逆の冬の夕暮れと恋人をテーマにした歌だ。私はこの曲が大好きで、夕暮れ時は季節に関係なくほぼ毎日聞いていた。曲を聴くたびに、早く冬にならないかなあ、と届かない願いを夕日に浮かべた。しかし、私の願いは果たされる事はない。それでも、今日もいつもと同じように、届かない願いを思いながら夕日を眺めた。早く冬にならないかな―。
 音楽に心を沈め、ただ機械のように足を動かし歩いた。人や車とすれ違っても、物体が横切るだけで、頭の中を満たす音楽と黄昏時の大きな太陽だけが、私を取り巻く世界の全てだった。 
 家に辿り着く最後の交差点に差し掛かる。青信号が点滅を帯びている。走れば間に合う距離だが、走ることはしなかった。お気に入りの曲を聴きながら、少しでも長く夕景の中を歩いていたかった。信号が赤に変わり、足を止める。何気なく辺りを見回す。
「あっ、ここで私は死んだんだ……」
 赤信号を見つめていると、死んだ日の記憶が鮮明に蘇った。車と接触する直前のブレーキ音が、耳の奥で鳴り響いた瞬間、背筋が凍る感覚が走った。私は、ごくりと唾を飲み込む。頭の左側に、電流が走ったように痺れる感覚がした。目を瞑り、胸に手を当て、大きく深呼吸をする。もう大丈夫。心の中で安堵した瞬間、足に何か毛の生えた物体が擦り寄ってくるのを感じた。
「うわっ!」
突然の毛深い生物の襲来に驚き、思わず声を発した。足元を見ると、小さい子猫がペロペロと靴を舐めていた。
私は猫や犬を飼った事がなく、猫に関する知識は皆無だったが、あまりに小さい猫の大きさから推測して、生後間もないことだけは分かった。猫は泥の汚れや黄ばみが目立つせいで、毛が黄色かかった濁った白色になっていた。
私は子猫をひょいと持ち上げる。両手に収まる大きさで、体は少しベトベトしており、どことなく生ごみ臭い。私のイメージする子猫は、ふわふわの白い毛並みで、いい匂いがするはずだった。しかし、目の前にいる子猫の姿が現実だ。鳴き声も「にゃ~」ではなく、「ブニャーオ!」と不細工な鳴き声だ。
信号が青に変わる。このまま子猫を見殺しにすることができず、私は家に連れて帰った。家につく間に、子猫は安心しきったのか、手の中で「ブジュ……、ブジュ……」となんとも可愛げのない、小さな寝息を立てながら眠っていた。
「ただいま」
 家に着くと、夕食の美味しそうな匂いが玄関にまで漂っていた。ローファーを脱ごうとすると、玄関の隅に大きな革靴がきちんと両足を揃えて並べられていた。
「お父さん、もう帰ってたんだ。珍しいなあ。まだ六時半なのに」
 私はいつものように靴を脱ぎ散らかし、しょうがないよ、猫を抱いてるしと、自分に言い訳をする。
 リビングに入ると、ソファーの上で寝転びながら雑誌を読んでいたユイがこっちを見るなり、ドリフのコントのようにソファーから転げ落ちた。
「うわっ! お姉ちゃん、なに持って帰ってきたの?」
「猫だよ。見て分からないの? ユイは、猫も知らないのかい?」
 子猫が「ブミャーゴォ!」とこれまた可愛げのない声で、ユイに挨拶をする。小さいながらも、なかなか礼儀正しいやつだ。
「猫ぐらい知ってるよ! 汚いよ、その子猫。しかも、鳴き声可愛くないし。お母さ~ん!」
 ユイが雑誌を放り投げて、慌てて台所に走っていく。ユイに背中を押され、濡れた手をエプロンで拭きながら、母がリビングに入ってくる。
「あらあら、どうしたの?」
「お姉ちゃんが汚い猫を拾ってきたの!」
「まあ、ほんとね」
 母は私に抱かれた子猫をまじまじと見つめる。子猫がブニャー、と精一杯口を開いて鳴いた。私は子猫の喉を鳴らしながら、
「この子、うちで飼っていい?」
 母に訊いた。母の後ろに隠れていたユイが、いきなり烈火のごとく怒り出す。
「嫌だ! お姉ちゃんが今までまともに世話できたのは、サボテンだけじゃん。昔、飼った金魚も鈴虫もインコも全部世話をしたのは私だよ。絶対、お姉ちゃんは世話しなくなるから猫を飼うのは断固反対! お姉ちゃんは昔から、面倒なことは何でも私に押し付けてきたもん。お母さんも何か言ってよ!」
「そうね、ユイの言い分も分かるけど、まずはお父さんにお伺いを立ててみないとね……」
 母は困った顔で、リビングのソファーで新聞を読んでいる父をちらりと見る。、
「いいよ」
 父は新聞を読んだままの視線で即答した。動物嫌いな父の意外すぎる答えに、三人とも驚きを隠せなかった。
「えっ! お父さん、正気ですか?」
 ユイは思わず父に詰め寄る。父が新聞を折りたたみ、テーブルに置くと、私に近づき両手を差し出した。差し出された手に無言で猫を乗せる。久しぶりに父の手に触れた気がした。彼の大きな手は、私の二倍ぐらいあり、温かい手をしていた。
「とりあえず、猫を風呂場で洗ってくるよ」
 父はそう言い残し、風呂場に向かった。三人は呆然と立ち尽くし、リビングに取り残された。
父の手で丹精込めて洗われた子猫は、さっきまでの黄ばみや汚れは無くなっていた。真っ白な毛色になり、ふわふわとした毛並みは、まるで真綿のように柔らかかった。本来あるべき姿に戻っただけなのだが、以前の姿からは想像もできないほど大変身を遂げていた。
父は風呂から上がったばかりの子猫にミルクを与える。お腹が空いていたのか、一心不乱にミルクを飲む猫の頭を、父が優しく撫でる。私はその様子を、少し後ろから眺めていた。
「明日、獣医のところに行って、ちゃんと予防注射を打ってもらわないとな。ハルカも一緒に来なさい」
「え……、私はいいよ。お父さん行ってきてよ」
 私は父と二人で出かけるのが少し怖かった。せっかく、子猫のおかげで距離を縮めることが出来たのに、また喧嘩をして、仲違いするのは嫌だった。何より、私には残された時間があとわずかしかないので、これ以上傷つけあいたくなかった。
「お前が拾ってきた猫だろ。ハルカはこの子の母さんなんだから、責任持って子育てしなさい」
「じゃあ、この子をあやす時は猫耳とか猫の肉球付き手袋しなきゃいけないね。あとで、ドンキに行かなきゃ」
 それを聞いた父は大きな声で笑った。
「今は猫耳とか兎耳が流行っている時代なんだから、いいんじゃないか? なんでもありの時代だから、この際腹を決めて、お前も猫の親になりなさい!」
「……、お父さん詳しいね」
「物知りだろ? 朝食を食べながら、毎朝『めざめたTV』のトレンドコーナーを見てるから、若者文化にも詳しくなったよ!」
 父が無邪気に目を輝かせ、自慢をしてきたので、私も思わず笑みがこぼれた。父と普通に会話したのは、何年ぶりだろう。
 夕食と風呂を済ませ、自分の部屋に戻った。夕食の間、ユイはずっと黙ったままで不機嫌な顔をしていた。彼女から発生した癒しのないマイナスイオンのおかげで、誰一人しゃべることなく夕食は終了した。ぎこちなさは残るものの、父と少しだけ親子のような会話ができたのに、今日も楽しい食卓には程遠かった。
「明日こそは楽しい食卓になるといいな」
 私は窓を開け、星屑が散りばめられた夜空を見ながら、小さく祈った。
鞄からいつもの間抜けなメール着信音が鳴り、現実に引き戻される。メールの送り主は瀬高さんからだ。
『明日、父に会いに行ってくるわ。おしっこチビりそうなぐらい怖いけど、あなたとの約束を守るためにも頑張って、話をしてくるわ。でも、殺されたらどうしよう……』
「そっか、明日は瀬高さんの男の戦いの日だった!」 
私は真剣な顔で、冗談にならない返信を打ち込む。
『パンツの替えを持っていけば、大丈夫でござるよ! 万が一死んだ時は、天国で待っていて下さい。すぐに遊びに行くから!』
 すぐに返事がきた。相変わらず、メールマスターからの返信は早い。
『パンツは三枚持っていくわ。備えあれば、憂いなし! ちょっと、アンタ! 冗談でも、死ぬなんて言うのはダメよ。ダメ、絶対!』
「冗談じゃなく、明後日には天国行きなんだけどなあ。最後の一文は、薬物乱用防止のキャッチフレーズじゃん!」
メールの文面にツッコミを入れ、頭をポリポリ掻きながらメールを打つ。
『私も頑張るから、え~ちゃんも頑張って下さい。え~ちゃんは一人じゃないよ。では、オヤスミナサイ』
『初めて、その名前で呼んでくれて嬉しいわ。あなたも、アキ君とお父様に自分の気持ちぶつけなさいよ! 一緒に頑張りましょうね。また、メールします。それでは、おやすみなさい❤』
 最後のハートマークに多少恐怖を感じ、私もおしっこがチビりそうになった。携帯電話を閉じ、ベッドに放り投げる。
今夜も、アキのピアノの音が聞こえてきた。今夜は昨日と違い、曲が何度も途切れたり、途中からテンポが速くなったり、素人が聞いても分かるぐらいミスが目立った。
私はベッドに倒れこみ、ぼんやりと天井の染みを見つめた。あの染みはいつになったら消え去るのかな?
「アキも私も、明後日が決戦の日か……。明日こそは、アキと話ができるといいな」
ポツリと囁いた。    

七月六日

今朝もアキのピアノの音で、眠りから覚めた。太陽は、すでに熱を帯びた光を放っていた。今日のピアノの音色は昨日と違っていた。落ち着いていて、どこか悲しい旋律を奏でている。燃えるような朝日とは混ざり合えない音だ。アキは結局どうするんだろう……。気だるい体を起こし、一階に下りていった。
すでにテーブルは、朝食の準備がなされており、焼きたてのトーストと煎れたてのコーヒーの香りが鼻を優しく撫でる。すでに外気の温度が高いせいで、湯気はカップの縁で舞い上がるくらいだったが、コーヒーの香りは部屋を満たし、朝の訪れを告げていた。
「あら、今日は土曜日なのに早起きね。あなたも、母性本能が目覚めたのかしら」
 母がふふっと、嬉しそうに笑う。母が朝から何を言っているのか理解できないまま、コーヒーにミルクを注いだ。
「何言ってるの? ちょっと、アキの家に行こうと思って早起きしたの」
「でも、今日はお父さんと獣医さんに行くんじゃないの?」
「あっ、忘れてた」
 トーストにバターを塗りながら、そんな話を父としていた事を思い出す。
「それじゃあ、立派なぷにゃんちゃんの母親になれないわよ!」
「誰だよ、そのセンスゼロの名前付けたの?」
 朝から悪い冗談はよしてくれ、母さん。私は焼きたてのトーストを一口齧る。バターがほんのり染みて、おいしい。
「もちろん、お母さんよ。かわいいでしょ? とにかく病院は九時からだから、お父さんと行ってきてね。お母さんはぷにゃんちゃんにミルクをあげてくるから、早くパン食べなさい」
 母は冷蔵庫から牛乳を取り出し、私が昔使っていた特撮戦隊ヒーローのイラストが描かれた皿に牛乳を注ぎ入れた。リビングに置かれているダンボールで作られた即席子猫ハウスに、小走りに駆け寄る。
「ぷにゃんちゃ~ん、ご飯でしゅよ」
 母は赤ちゃん言葉で子猫に話しかける。新原サエ、御年四十五歳。
 私は呆気にとられながら、パンをもう一口齧る。すでにバターが溶けきってしまい、表面と中がしっとりしていた。コーヒーの熱はミルクの冷たさで緩和され、程よい熱さになっていた。
母はミルクを飲むぷにゃんちゃんを嬉しそうに見つめ、「おいしい?」と頭を撫でながら話しかけている。「ブニャー」と濁声をあげながら、ぷにゃんちゃんが返事をする。
 私はパンを食べながら、母に訊いてみた。
「なんで、その名前なの?」
「コラ、物を食べながら喋らない! お行儀が悪いでしょ!」
「ごめん」
 母に叱られ、パンをコーヒーで一気に流し込む。胃の中が急激に満たされていくのを感じた。
「なんとなくよ」
「えっ!」
「だから、なんとなくよ。昨日この子の寝顔を見ていたら、この名前が降りてきたのよ」
どうやら、母は神懸り的なお告げを受けたらしい。私は彼女の目が本気だったので、それ以上何も聞かなかった。
父が新聞を片手に、リビングに入ってきた。父は寝起きが悪く、眉間に皺を寄せていた。私の寝起きの悪さは父譲りだ。母が立ち上がり、洗面台に手を洗いに行く。
「お父さん、おはよう。朝食の準備できてるわよ」
「母さん、おはよう」
「ほら、ハルカもお父さんに朝の挨拶をしなさい」
「……はよ」
「おはよう」
 父が目の前の椅子に座り、新聞を広げる。私はコーヒーにミルクを追加するふりをして、目を逸らす。母は手を洗い終え、父のマグカップにコーヒーを注ぐ。またもコーヒーの香りがリビングに漂う。
「あなた、今日はハルカとぷにゃんちゃんを病院に連れて行くんでしょ?」
「そうだな。早く行って、予防注射を打ってもらわないとな。人間が引っ掻かれた時が大変だからな」
 父は新聞を四つに折りたたみ、テーブルに置き、ブラックのままのコーヒーを一口飲んだ。私は父の顔色を伺いながら、
「あっ、その前にアキの家に行って来ていい? すぐ帰ってくるから」
 そう言うと、父は目線を合わせずに、黙って頷いた。母はトースターにパンを入ると、私の顔をじっと見つめてきた。
「最近、アキ君は毎日ピアノの練習をしているわね。今朝もピアノの音が聞こえて、清々しい気持ちで朝食の準備ができたわ。何かコンクールでもあるのかしら? ハルカ、何か聞いてないの」
「知らない。顔洗って、着替えてくる」
 私は母の視線を振り切り、急いで立ち上がり二階に向かう。
「ちゃんと、歯も磨くのよ」
「分かってるよ! 幼稚園児じゃないんだから、歯も舌も磨いてるよ!」
 母はいつまで経っても、子供扱いしてくる。いい加減子離れして欲しいものだ。そう思いながらさっさと着替えを済ませ、洗面台で顔を洗い、歯と舌を入念に磨いた。
簡単に支度を済ませ、アキの家に向かう。チャイムを鳴らすと、
「はい」
 上品な声がインターフォン越しに返ってくる。アキのお母さんだ。
「あっ、おはようございます。ハルカです」
「あら、おはよう! どうぞ、お入りになって」
アキのお母さんとインターフォン越しに挨拶を交わす。相変わらず、言葉使いが丁寧なお方だ。門を開けると、おばさんがドアを開け、手を振っていた。私は軽く会釈をし、おばさんに駆け寄る。彼女はまだ朝の八時だというのに、化粧をばっちりしていた。未だにおばさんの素ッピンを見たことがない。
「おはようございます」
「おはよう、ハルちゃん。こんな朝早くにどうしたの?」
「あの、アキ君いますか?」
「アキはもう野球の練習に出かけたわ。たぶん、学校に行ってると思うけど……」
遅かったか、と私が悔しそうな顔をする。こんなに早い時間から野球部の練習に励んでいるなんて、知らなかったな。
「アキに何か伝えておきましょうか?」
おばさんが私を気遣ってくれた。
「大丈夫ですよ。大した事ではないので……」
 本当はとても大切な話だったが、アキには直接言いたかったので、咄嗟に嘘をついた。
おばさんが急に表情を曇らせながら、「あのね……」と声を詰まらせながら話しを切り出した。
「最近、アキの様子がおかしいの」
「様子がおかしい?」
「ぼんやりしてると思ったら、急に一心不乱でピアノを弾きだしたり、物干し竿に掛かっている洗濯した野球のユニホームをじっと見つめていたり……。何か悩んでいるのか聞いても『別に』て答えるだけで、何も話してくれないの」
 私はおばさんの話の内容に驚いた。アキは、私以外に誰にも本当のことを打ち明けていないのかな?
「アキ君から、何も聞いてないんですか?」
「あの子、何かあったの? どんなに聞いても、何も答えてくれないの……」
 おばさんは沈痛な面持ちで俯いた。どうやらアキは、おばさんに野球のことも、ピアノのコンクールのことも話してないようだ。自分の悩みで、おばさんを心配させたくないからだろう。アキらしい。
「男の子は、思春期になると母親を心配させない為に、寡黙になるものですよ」
「そうなの?」
「たぶん。なんとなく、そんな気がします」
 またも、懲りずに下手くそな嘘をつく。でも、それで誰かが幸せな気持ちになってくれるなら、残酷な真実より百万倍マシだ。私はそう信じている。
 おばさんがほっと胸を撫で下ろす。
「ハルちゃんがそう言うなら、大丈夫ね。あの子のこと一番理解しているもの」
「それは、違うと思いますよ」
 私の返答が聞こえていなかったのか、おばさんはクスクスと上品な笑いを浮かべる。
「あの子、この前遊びに来た彼女のリンカちゃんの事を聞いても、積極的に話そうとはしないけど、ハルちゃんと話したことや、アイスを貰ったことは嬉しそうに話すのよ」
「それは母親に彼女の話をするのは、照れくさいからだと思いますよ」
 アキが私の事を、おばさんに話すところを想像したら、思わずこっちが恥ずかしくなった。
「私は、ハルちゃんがアキの彼女になってくれたらいいのにて、ずっと思っているの」
「それは、残念ながらないです!」
 私はきっぱり断った。おばさんは私の解答に「そうなの?」と悲しそうな顔をした。
「アキ君は、私にとって大事な幼馴染なんです。もし恋愛感情の縺れで二度と顔を合わせる事ができなくなったら、私は死ぬほど悲しいです。彼は私の人生で、初めてできた友達だから、誰よりも幸せになって欲しいんです。辛いことがあっても、ずっと笑いながら生きていて欲しいんです。私じゃない他の誰かがアキ隣にいて、彼が幸せなら私は満足だし、安心して死ねます!」
 思いもよらない言葉を発した自分に驚愕した。これじゃあ、アキを好きなことを告白しているようなものじゃん! おばさんも驚いて、瞬きをしている。
「すみません、出すぎたことを言いました。今のはすべて忘れてください!」
 私は思いっきり頭を下げた。スピードをつけすぎたのか、額と足の膝がぶつかり、「いてっ」と声が洩れてしまった。顔を上げ、おそるおそるおばさんの顔を見る。おばさんは優しい笑みで私を見ていた。
「ありがとう。あの子のこと、そんな風に思ってくれて。おばさんこそ、変なこといってごめんなさい」
 そう言うと、今度はおばさんが頭を下げた。
「頭を上げてください! 私が夏の暑さのせいで熱く語り過ぎてしまったのが、そもそもの原因ですし……。そう、この暑さがいけないんです!」
 私は慌てて釈明する。ぶつけた額から、尋常じゃないほど汗が噴出す。きっとこの顔は、今までの人生の中で一番赤面していたと思う。そんな私の挙動不審な様子を見ながら、おばさんは「うふふ」と柔らかく笑ってくれた。その顔はアキの笑った顔に似ており、やっぱり親子なんだと、私は再確認した。
「えっと、じゃあ、私はこれで……」
「また、いつでも遊びにきてね」
「はい!」
 おばさんに一礼をし、アキの家を後にした。おばさんは私が見えなくなるまで、手を振ってくれた。
「ただいま」
 母が掃除機を掛けながら、私を出迎える。
「おかえり。お父さん、もう車の中で待ってるわよ」
「はやっ!」
 急いで車に向かい、ドアを開け、車に乗り込む。後部座席には、ぷにゃんが入ったダンボールが置かれ、シートベルトできちんと固定されていた。
「シートベルト締めたか?」
「締めたよ」
 安全確認の為の短い会話を交わすと、父が車を発進させる。やはり話すことが無く、しばらく沈黙が流れた。気まずい空気に耐えられなくなり、CDをかける事にした。
しかし、手に取ったCDがまずかった。このバンドのアルバムは、マジメなロックの曲も入っていたが、歌詞が下ネタ満載の曲も多く収録されていた。車内に怪しげなメロディーと淫靡な歌詞が響き渡る。年頃の娘が、父親と一緒に聞く音楽では無い気がした。車内は、さらに気まずい空気に包まれた。
「お前、こんな曲を毎日聞いているのか?」
「……うん」
「あははは! 面白いな、この曲」
父が笑い出す。意外な反応にこっちが驚いた。父は、もっぱら七十年代フォークソング世代なので、まさか受け入れてもらえるとは思わなかった。父との距離が、また少しずつ縮まっていく。
「そういえば、どこの病院なの?」
「『ビッグ・ブリッジ動物クリニック』だ」
 私は変わった名前の病院だな。しかし、最近の世の中はなんでもアリの世の中なので、さして気にも留めなかった。
「病院まで、あとどれくらいなの?」
「次の信号を曲がったら、すぐだ。昨日の夜に予約しておいたから、すぐに診察してもらえるぞ」
家族で外食をする際、父が自分でお店の予約をしたことなど一度もなかった。その父が、電話で病院の予約を取り付けているなんて、夢にも思わなかった。父の段取りの良さに、ぷにゃんへの愛情を感じた。
 病院に到着し、私がぷにゃんが入ったダンボールを抱きかかえ、父が受付へ向かう。
「おはようございます。昨日、電話で猫の予防接種を予約した新原です」
「おはようございます。では、カルテを作成するので、猫のお名前を教えて下さい」
看護師が天使の微笑で挨拶をし、胸ポケットからボールペンを取り出す。
「『ぷにゃん』です」
「えっ?」
 天使の表情が曇る。その理由を私は手に取るように理解できたが、何も言えなかった。
「だから、猫の名前は『ぷにゃん』です」
「えっと、猫の名前は『新原ぷにゃん』ちゃんですね?」
「はい」
 父は真顔だった。看護師がくすりと笑いながら、カルテにボールペンを走らせる。私は恥ずかしくて、帰りたい気分になった。
「それでは、準備ができましたら御呼び致しますので、掛けてお待ちください」
 私達は待合室のソファーに腰を下ろした。父と並んで座るのは、なんだか恥ずかしかったので、ぷにゃんが入ったダンボールを挟んで座った。朝も早く、休日のせいか、待合室には私達以外に患者はいなかった。
 ぷにゃんはダンボールの中で、またも可愛げのない寝息を立てて眠っていた。それを父は嬉しそうに眺めている。私は、どうして父がすんなり猫を飼うことを了承してくれたのか気になっていた。父は特別動物が好きな訳でもないし、ましてや、犬や猫を飼ったことがあるなんて聞いたことがない。そんな父が、こんなに猫を可愛がるのか不思議だった。 
 そんな思いを巡らせていると、
「新原さ~ん!診察室へどうぞ」
 看護師から名前を呼ばれ、診察室に通された。
「おはようございます。猫のワクチン接種ですね。では、横の診察台に猫を置いてください」
 獣医は若い男性で、引き締まった顔つきをしていた。名札を見ると「大橋」と書かれていた。だからこの病院はあの名前なんだ、と一人で納得していた。父はダンボールからぷにゃんを取り出し、診察台に乗せた。先生は触診をしながら、いくつか質問をしてきた。
「この猫は、拾ってきたのですか?」
「はい、昨日娘が拾ってきました。なるべく、早く予防接種を受けておいた方がいいと思いまして……」
「この子は、まだ生後一ヵ月半ぐらいですね。本当は生後六十日ぐらいから、接種をするのですが、この子のように親から早く離れた場合は、早めに接種をしても大丈夫なので、三種混合のワクチンを注射しておきますね」
 手早く診察を終えると、大橋先生はぷにゃんの頭を撫でると笑顔で答えた。
「お願いします」
 父は先生に向かって、丁寧に頭を下げる。
「しかし、かわいい名前ですね。ちょっと変わっていうけど」
 大橋先生は笑いながらカルテを書いている。私と父は「あなたに言われたくないな!」という気持ちで目を合わた。
「初回接種後の一ヵ月半後に、追加ワクチンを接種します。その次は、一年後になります。なので、また一ヶ月半後に来てください」
「はい、わかりました」
「では、今からワクチンを注射しますので、待合室でお待ちください」
 私と父は先生に会釈をし、診察室を後にした。待合室に戻ると、まだ他の患者は来ていないようだ。十五分ほど待合室で待機していると、看護師から名前を呼ばれた。どうやら、無事に終わったようだ。ダンボールの中のぷにゃんは、少しぐったりした様子だった。父は心配そうにぷにゃんを見つめていた。
すぐに受付の看護師に呼ばれ、父に「会計を済ませてくるから、先に車に乗っておきなさい」と言われ、車のキーを渡された。
車のドアを開け、後部座席にダンボールを置き、朝と同じようにシートベルトでしっかり固定した。ぷにゃんは落ち着きが無く、敷かれたタオルをずっと噛んでいた。私は心配になり、ぷにゃんの小さな額を人差し指で撫でた。ぷにゃんは「ブニャー」と小さく鳴き、私の親指をぺろぺろ舐め始めた。
「初めての注射だったから、緊張と痛みで、体も心も疲れたんだね。帰ったらミルクを飲もうね」
 そう語りかけると、ぷにゃんは今度は大きな声で鳴いた。
 父が会計を済ませ、運転席に乗り込む。慣れた手つきでシートベルトを締め、車のキーを回し、エンジンをかける。車内の温度は高く、窓を開けずにはいられなかった。涼しさはあまりないものの、朝特有の爽やかな風が頬を撫でる。
車を走行中に、父親と女の子が手を繋いで歩道を仲良く歩いていた。車は彼らを簡単に追い越し、私はサイドミラーに映った二人の姿をぼんやりと見つめていた。
「そういえば、なんでこの猫飼う時反対しなかったの?」
横目でちらりと父を見る。父は真っ直ぐ前を見ながら、
「お前がまだ六歳の時、今回みたいに小さい猫を拾ってきたことがあった。覚えているか?」
 問いかけてきた。私はまったく記憶にない。
「まったく覚えてない……」
「あはは、そうかあ。父さんは、あの時の約束を果たしただけなんだよ」
「約束?」
 何のことか理解できなかった。今まで父と交わした約束は、小学生の時に「ゲームは一日三時間までにすること」だけだと思っていた。
 信号が赤になり、停車する。窓を開けているせいか、エンジン音と蝉の声がやたら耳の奥でざわついている。
「ある日、お前が子猫を抱いて帰ってきた。ちょうど今と反対の季節で、秋と冬の間だった。猫もお前も泥だらけで、何かを訴えるように潤んだ目をしていて、よく似ていたのを覚えているよ。『この猫を飼いたい』ってお前が言い出したんだが、その頃はユイの喘息が治っていなかったから、父さんも母さんも反対したんだ。そしたら、お前は泣きながら『この子と暮らすんだ!』て言って、子猫を抱いたまま家を飛び出して、夕方まで帰ってこなかった。慌てて探しに行ったら、公園の遊具にある土管の中で眠っていたんだ。お前を起こすと、辺りを見回しながら泣き出した。どうしたんだ? て聞くと『さっきまで、ぷにゃんと一緒に寝てたのに、居なくなっちゃった……。ぷにゃんは友達なのに!』ってまた泣き出した」
「ぷにゃん、って私が言ったの?」
「そうだよ。昨夜、母さんも今のぷにゃんを見て、同じ名前をつけたから驚いたよ。でも、発想が同じところを見ると、やっぱり親子なんだな」
 父が優しい顔で笑い、私の顔を真っ直ぐ見た。信号が青に変わり、車が再び走り出す。そんな事、全然覚えてない―。
「あの頃のハルカは、今まで以上に人見知りで、学校にあまり友達がいないことを知っていたから、やっとできた友達と引き離してしまい、申し訳ないと思った。影が伸びる夕焼けの中、手を繋いで家に帰るとき、お前と約束したんだ。『今度、友達がお家に来たら、そのときはずっと一緒にいようね』て。ハルカは手を引かれながら、黙って頷いたよ」
「そんなことが、あったんだ……」
 それ以上何も言えなくなって、私は俯いた。残念ながら、猫を拾ったことも、約束もまったく覚えていない。だから、そのとき自分がどんな顔をして、父の言葉に頷いたのかわからない。でも、きっと今の私は、あの頃と同じ顔で俯いていたと思う。父の優しさが痛いほど伝わった。
 一つの謎が解けるたびに、サヲリや父が自分に対して温かい愛情を注いでくれたことを知る。それは一つずつ幸せを運んでくれるのと同時に、私の心に一つずつ死へ恐怖の種を植え付けた。その種が成長し、花をつけないように必死で地面を踏みつける。
私の重い気分を打ち消すかのように、間抜けなメールの着信音が聞こえてきた。なんだよ、と思いながら、受信ボックスを開くと、見覚えのないアドレスだった。エッチなサイトからだったら、クロヤギさんと同じように読まずに消してやるつもりだったが、とりあえずメールを開いてみる。
 リンカちゃんからだ。脳内でクロヤギが走り回り、やっぱり読まずに消すべきか迷った。しかし、無視をしたらその後がまた面倒なことが起きるので、とりあえず読むことにした。
『助けて!
 アキが他の野球部員に囲まれてるの!
 何か揉んでいるみたいなんだけど、私には減員がわからないの。
 とにかく、がつこうにきて!』
 よほど焦っていたのか、誤字脱字がひどい内容だった。とりあえず文面を解読しつつ、返信を打つ。
『何が起こっているのかわからないけど、今から学校に行くよ。
まずは、君が落ち着け』
 携帯電話を閉じ、ポケットに押し込む。
「友達からか?」
 父が横目で私を見ながら、訊いてきた。
「友達じゃないけど、なんか助けて欲しいことがあるみたいだから、ちょっと学校に行ってくるよ」
「友達じゃないのか? でも必要とされて、躊躇うことなく、すぐに助けに行こうと思える人は友達だと思うけどな」
「そうなのかなあ……」
 私は父の言葉に激しく違和感を覚えながら、返事をした。果たして、リンカちゃんと私は友達なのだろうか?
家に着き、ぷにゃんを父に任せ、足早に部屋に戻った。急いで制服に着替え、学校に向かう。駅まで走っていこうと思ったが、そんな悠長な事は言っていられない。意を決して、自転車に跨る。もう、怖くはなかった。自転車で車を追い越し、駅まで急いだ。何とか、間に合ってくれ!
学校の門を潜ると同時に、携帯が震えだす。リンカちゃんからだ。
『学校に着いた?
 着いたら、グランドに来て!』
 私は返事も打たずに、携帯電話を鞄に押し込み、グラウンドに全速力で向かった。グランドに着くと、リンカちゃんが駆け寄ってきた。
「どうしよう、アキがみんなに囲まれているの!」
 リンカちゃんは明らかに動揺しており、声は震え、目は赤く腫れていた。
「落ち着いて状況を説明して。アキが大変なのはわかるけど、まずはリンカちゃんがしっかりしないと。アキの彼女なんでしょ?」
 リンカちゃんは涙を堪えながら「わかってるし!」といつもの強い口調で答えた。彼女は気持ちを落ち着かせる為に、大きく深呼吸をした。
「練習前のウォーミングアップの後、ミーティングがあったの。その時に、アキがみんなに『明日の試合には出れません』て言い出したの。フェンスの向こうで見ていた私もみんなも、何がなんだかさっぱり分からなくて……」
 リンカちゃんは何度も声を詰まらせながら、一生懸命に話してくれた。私は彼女の背中を擦りながら「ありがとう」と言い、フェンスのドアを開け、グラウンドに入っていく。
 ベンチの前に部員が集まっていて、彼女の言うとおりアキが部員達に囲まれていた。グラウンドに張り詰めた空気が漂う中で、部員の怒号のような声が響き渡る。
「なんで明日の試合に来れないんだよ! 監督も不在で、お前がいなかったら、勝てるわけないだろ! 俺たち三年もお前を頼りにしてることぐらい、分かってるはずだぜ。とりあえず、部員全員が納得のいく理由を言えよ!」
 アキが胸倉を掴まれる。でも、彼は一切抵抗しなかった。その代わりに、じっと部員の目を見つめていた。無言の抵抗だ。
「理由は……」
 アキが言葉を詰まらせると、
「なんだ、理由も言えないのかよ! この裏切り者が!」
 部員が吐き捨てるように言い放った。私はその言葉を、黙って聞いていられなかった。
「てめぇら、そこまでだ! アキから手を離さんかい、ワレ!」
私は語気を強め、任侠漫画から学んだチンピラがよく言うセリフを言いながら、胸倉を掴んでいる部員に詰め寄る。
「外野は黙ってろ!」
「野次を飛ばすのは、外野のお家芸だぜ。とにかく、手を離しな!暴力で解決できるなら、警察はいらないんだよ」
「小学生みたいなこと言ってんじゃねぇよ! お前は、グラウンドから出ていけ!」
 部員はアキを振り払うと、私の前に立ちはだかった。アキが強張った表情で叫ぶ。
「ハルカ! いいから、出ていけ!」
「いいや、私は引かないよ。ここで引いたら、志麻姐さんに顔向けできないぜ! アキはどうしても、行かなければならない場所があるんです。そこに行かなかった、彼は死ぬまで後悔します。真っ直ぐで不器用なヤツだから、割り切ることができないんです!」
 私と部員は、蛇とマングースのように睨み合った。お互いに一歩も引かない。
「もう、やめないか」
 ずっと黙っていた一人の部員が口を開いた。私達の睨み合いの喧嘩は突然終わりを告げられた。口を開いた部員が見たことのない顔だったので、私は思わず「誰?」と訊いてしまった。彼は白い歯を覗かせ、「同じクラスの太宰だよ」と答えた。
「俺、水城の変化に気が付いていたよ」 
 アキは驚いた顔で太宰君を見ていた。
「本当か?」
「うん。何があったか聞かなかったが、時々上の空で練習をしていたり、口数が少なくなっていたのが気になってたんだ」
 太宰君が先輩のもとに歩み寄った。
「キャプテン、水城を行かせてあげてくれませんか?」
「何、言ってんだよ! お前、自分が言っている意味がわかってんのか?」
 先輩は太宰君を頭ごなしに怒鳴りつけた。
「いいよ、ワタル。俺は明日の試合に行くよ」
 私は思わず、「アキ!」と叫んだ。いい加減、優柔不断なアキに怒りを込みあがってくる。
「去年の試合で、俺が先輩達や同級生にどんなに責められても、お前だけが味方になってくれた。だから、今度は僕が君を助ける番だ」
 太宰君はアキを見つめ、にっこりと笑った。
「みんな。もう、水城一人に責任を負わせるのはやめにしよう。僕も君に頼りすぎていたよ。ごめんな」
太宰君は帽子を脱ぎ、アキに深々と頭を下げた。
他の部員はしばらく黙ったままだった。気まずい空気がグラウンドに漂う。
「そうだな……。誰よりも野球の練習をしているアキが、野球の試合に出れないぐらい、大事な用事があるならしかたないな。俺たち三年もお前に頼りすぎていたよ。本当は、キャプテン俺がしっかりしなきゃいけないのに、悪かったよ」
 今度はキャプテンが帽子を脱ぎ、アキに頭を下げた。
「頭を上げてください、キャプテン!」
アキが慌てて先輩に駆け寄る。キャプテンは頭を上げようとしない。
「みんなも赦してあげてくれ。アキは気にせず、大事な用事に行って来いよ。その分、俺たちも頑張るから、お前もしっかり頑張れよ!」
 頭を上げたキャプテンが、アキの肩をポンと叩く。アキは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「みんな、迷惑かけてすみません」
 頭を下げて、必死に謝罪した。アキの姿に心を打たれたのか、数人の部員が彼に駆け寄る。
「お前がいなくても勝てる事を証明できるいいチャンスだ! 行ってこいよ」
「貝塚……」
「そうだよ、もっと同期の俺らを信用しろよな!」
「井尻、ありがとう」
「そうだ! お前達にも期待してるぞ!じゃあ、練習を再開するか!」
 キャプテンの鶴の一声で練習が再開された。アキは太宰君と貝塚君、井尻君に肩を叩かれ、練習に戻っていった。しかし、納得のいかない表情をしている部員もいた。満場一致ではないものの、それでも太宰君と同期の仲間、キャプテンの説得により、なんとか明日のコンクールに参加できるようになった。
 私はグラウンドを後にし、リンカちゃんに歩み寄る。彼女はほっとした顔をしていた。
「やっぱり、何か知ってたんだ」
「……ごめん」
「いいよ。私、アキが話してくれるまで待つつもりだったから。だから明日の事も、自分で彼に直接訊いてみるよ。話してくれなかったら、悲しいけどね」
 リンカちゃんは少しだけ不安そうな顔で笑った。
「大丈夫。今のリンカちゃんになら、アキは話してくれるよ」
 私は彼女の肩を叩きながら「頑張れ!」と言い、一足先に学校を去った。
 駅で下りの電車を待っていると、鞄の中からメールの着信音がした。送り主は瀬高さんだ。
『今日、父と話してくるわ。怖いけど、頑張って向き合ってみるよ。直接話したいことがあるから、明日会えないかな? 報告も兼ねてガールズトークしましょう! あなたの方は、お父様とアキ君の事はどうなったかしら?』
 メールの「ガールズトーク」の単語が気になったが、明日のコンクールは午後からだから、午前中なら大丈夫だと判断し、手早く返信を打つ。
『明日は、午前中なら空いてますよ。私もアキとお父さんの事を詳しくお話します。瀬高さんも頑張ってくださいね。パンツはたくさん持っていきましたか?』
すぐにメールの返事がきた。
『パンツは日付にちなんで、六枚ほど鞄に入れているわ。って、レディにこんなこと言わせんじゃないわよ! じゃあ、この前二人で行った川に九時に待ち合わせね。遅れてきたら、今度はコークスクリューパンチを喰らわすからね!』
お~、怖っ。『了解!』と短く返事を打つ。携帯電話を閉じ、鞄に入れようとした時、後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
声がした方向を見ると、サヲリが手を振りながら、小走りで階段を下ってきた。
「階段を下りてたら、ホームに気だるそうに立っている子がいるなあと、思って目を凝らしたら、やっぱりハルだった!」
「どうしたの?」
「吹奏楽部の練習があったんだ。今日は午前中で終わりだけど、午後からお姉の買い物に付き合わなきゃいけないんだ。せっかくの小粋な休日なのに!」
 サヲリは小さい子供のように頬を膨らませた。
「相変わらず、お姉さんの言いなりなんだね」
「そうだよ! いつまでたっても、お姉の良いように使われるんだ!」
「それだけ、仲がいいって事だよ」
 サヲリのむくれた顔が笑顔に変わる。他人の前で、堂々と姉妹の話が出来ること事態、仲の良い証拠だ。
「でも、ハルもユイちゃんと仲良いよね」
「そうかな? でも、今は喧嘩中なんだ」
「なんで喧嘩したの?」
サヲリが心配そうな顔で訊いてきた。彼女になら相談できそうなので、思いきって話してみた。
「実は、昨日猫を拾ってきたんだ。両親は飼うのに賛成してくれたけど、妹だけが猛反対して、それが原因で口をきいてもらえなくなったんだ。私が昔から生き物を飼ったら世話をせずに、全部妹に押し付けてきたのがいけないんだけどね」
 サヲリは私の話を真剣な顔で、相槌を打ちながら聞いてくれた。彼女は少し空を見上げ、ゆっくりと口を開いた。
「なんとなく、ユイちゃんの気持ち分かるかも……。私も、お姉ちゃんがほったらかしにした物の後始末は、いつも私の役目だった。おもちゃでも洋服でも、お姉ちゃんの物は私が片付けていた。本当は嫌でしょうがなかったけど、妹だからお姉ちゃんの命令は絶対だったし、小さい頃からそう刷り込まれてきた。おまけに、お姉ちゃんは美人で頭も良かったから、転校先でよく比べられたの。そのたびに、劣等感に打ちひしがれて、余計にお姉ちゃんに逆らえなくなった。一度、些細な事が原因で、すっごい大きな喧嘩をしたの。その時、今まで自分の中に溜め込んでいた思いを、全部ぶちまけたんだ。お姉ちゃんも最初は怒ってたけど、素直に謝ってくれて、今では蟠りもなく仲良くやってるよ。でも、相変わらず振り回されてる毎日だけどね」
 サヲリはちょっぴり苦い昔の事を思い出し、苦しそうな笑顔で空を見上げていた。彼女は普段からお姉さんの話を嬉しそうに話してくれていたから、そんな姉妹の歴史があるとは夢にも思わなかった。彼女はさらに続けた。
「今は、本気で喧嘩してよかったと思ってる。あの事件があってから、お互いに本当の意味で姉妹になれたし。なんか、私のせいで話が飛んじゃったけど、ハルは本気で猫を飼いたいんだよね? 今度はちゃんと世話もできるよね?」
 私はサヲリの話に、黙って力強く頷いた。
「ユイちゃんに、今の自分の思いを素直に伝えたら大丈夫だよ。きっと分かってくれるよ。喧嘩したら溜め込まずに、本音で言い合ったほうがいいよ。せっかく縁があって姉妹に生まれたわけだし、上辺だけで付き合うのは悲しいよ」
 サヲリは柔らかい顔で、私に笑いかけた。その笑顔を見たら、頑張らずには入られない気がした。
「わかった、頑張って話してみるよ。先輩からありがたいアドバイスも頂けたし!」
「うん、素直でよろしい!」
 私達は大きな声で笑い合った。サヲリの言うように、縁があってユイと姉妹になれた。たった一人の妹と喧嘩別れするのは、大変寂しいことだ。でも、私はサヲリのように素直に自分の弱い部分を、互いに曝け出せる友人に出会えた縁にも感謝した。
 電車の到着を告げるアナウンスがホームに流れ、私達は電車が乗り込んだ。土曜日の午前中なので、車内は家族連れやカップルで賑わっていた。私達は空いていた座席に腰を下ろした。サヲリは手で顔を仰いでいる。
「しかし、今日も暑いね。弱冷房車じゃ耐えられないよ!」
 クーラーの風と手扇子で綺麗な髪が揺れている。
「確かに暑いよね。まだ梅雨明けしてないなんて、信じられないよ」
「でも、明日は雨降るみたいよ」
「そうなの?」
 明日はせっかくの七夕なのに、雨なんて悲しいな。最後の太陽を浴びたかったのに残念だ。
「うん。晴れ時々雨、ってめざめたTVで言ってた。でも、雨降りそうにないよね。今日の空は雲もないくらい青空だし、この暑さだもんね」
「ホントだね……」
 私達は景色が流れていく窓から、青い空に溶け込むように眩い光を放つ太陽を見上げた。夏はすぐ傍まで来ている。電車に揺られながら、私は大事なことを思い出した。サヲリへの最後のお願いだ。そう、これが最後だ―。
「あっ、サヲリにお願いがあるんだ」
「急に、どうしたの?」
「サヲリは、リンカちゃんのこと好き?」
 サヲリは私の脈絡のない質問に、若干戸惑っていた。
「善導寺さんのこと? 正直、あまり話したことないから何とも言えないけど、別に嫌いじゃないよ。確かに気は強そうだけど、中身は悪い人じゃないと思う。そうじゃなかったら、あの水城君が付き合うわけないもん」
「よかった」
 私はほっとした。サヲリはまだ、不思議そうな顔をしている。
「善導寺さんがどうしたの?」
「よかったら、リンカちゃんと友達になってくれないかな?」
私の突拍子もない提案に、彼女は驚いた顔で見つめてきた。
「サヲリも知っていると思うけど、リンカちゃんは人間関係において少し不器用だから、女友達があんまり居ないんだ。だから、今すぐに友達にならなくてもいいから、気にかけてやって欲しいんだ」
「わかった。ハルがそう言うなら、今度勇気を出して善導寺さんに話しかけてみるよ! いきなり睨まれたら怖いけどね」
 彼女は驚きつつも、私の提案が理解できたのか、笑いながら答えてくれた。その表情を見ると、私は安堵して胸を撫で下ろした。人のことを気遣える彼女のことだから、もしかしら何かを察してくれたのかな。
「大丈夫だよ。命を取って、食われる訳じゃないから。ありがとう、サヲリ」
「いつものハルらしくないぞ。私はハルの役に立てるのは嬉しいから、『ありがとう』て言われて、素直に嬉しいよ」
 二人で笑い合いながら、電車に揺られた。私のほうこそ、サヲリには感謝しきれないほど助けてもらった。ありがとう、あなたに出会えて本当によかった。大好きな友達ができて嬉しいよ。西川にも自慢してやらなきゃね。
 電車がサヲリの降りる新艦内駅に到着した。彼女は立ち上がり、にっこりと微笑んだ。大好きな可愛い笑顔だ。
「じゃあ、降りるね」
「うん、バイバイ!」
「バイバイ!」 
 今度はいつもと同じように、笑顔で別れの挨拶ができた。サヲリの笑顔は、私の心の中に温かい最後を与えてくれた。
さよなら、サヲリ―。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 エプロン姿の母が、玄関で出迎えてくれた。時間はちょうど十二時を回っていた。
「お昼ご飯は食べたの? 今支度してるから、ハルカも食べるでしょ」
「お昼ご飯はいいや。ユイは部屋にいるの?」
「ええ、起きていると思うけど、今日は一度も部屋から出てきてないのよ……」
心配そうな母を横目に、私は靴を揃え、二階に向かった。
「あら、今日はちゃんと靴が揃えてあるわ! ハルカもやれば出来る子じゃない」
 母は玄関にきっちり揃って置かれた靴を見て感動していた。
「自分でやらなければ、何もできないままだしね」
「えっ、どういうこと?」
 私は母の問いに答えることなく、階段を上がった。自分の部屋に鞄を置き、ユイの部屋のドアをノックする。
「ユイ、話があるんだ。開けるよ」
 返事はなかった。私はもう一度ドアをノックする。またしても返事はない。このままでは埒が明かないので、ドアをゆっくり開けた。ユイはベッドに横たわり、枕に顔を埋めていた。私は、彼女の勉強机にある椅子に腰を下ろした。
「今まで、嫌な思いをさせてごめんね。お姉ちゃん、無意識にユイに何でも押し付けていたね。ユイはしっかり者だから、いつも甘えてばかりだった」
言葉を丁寧に選びながら、ゆっくりとユイに語りかけた。彼女は微動だにせず、私の話を聞いていた。
「でもね、今度の猫はどうしても飼いたいんだ。もしかしたら、今までみたいに迷惑かけるかもしれないけど、あの子だけは幸せにしたいんだ。何よりも、このままユイと喧嘩したままでいるのが、嫌なんだ……」
 私は声を詰まらせても、一生懸命にユイに話かけた。やはり、返事はない。やっぱりダメかと思い、椅子から立ち上がり、部屋を出ようとした。その時、
「……いいよ」
 ユイが枕に顔を埋めたまま、返事をしてくれた。私は振り返り、顔を伏せたままの彼女に向かって、「ありがとう、ユイ」心からお礼を言い、部屋のドアを静かに閉じた。本当にありがとう、ユイ。
自分の部屋に戻り、鞄から携帯電話を取り出し、ベッドに寝転がった。待ち受け画面のサヲリと撮った変顔をしたプリクラを眺める。
「明日で、最後か……」
 そう呟いた瞬間、朝から歩き回って疲れたせいか、携帯電話を握り締めたまま重たい目蓋を閉じていた。
「ハルカー、夕食だから降りてらっしゃい!」
 母の声で、強制的に現実世界に引き戻された。知らないうちに眠りに落ちてしまっていた。おぼつかない足取りで立ち上がり、制服から部屋着に着替え、意識がはっきりしないままの頭のまま、一階に下りていった。
リビングに入ると、すでに夕食がテーブルに並べられていた。今夜はエビフライだ。椅子に座り、お気に入りのコップに麦茶を注ぐ。喉がカラカラに渇いていたので、一気に麦茶を流し込む。冷たい麦茶のお陰で、頭が少しだけすっきりしてきた。
「おっ、今日はエビフライだな」
 父が冷蔵庫からビールを取り出し、椅子に座った。プシュッ、とビール缶から軽快な音が鳴る。
「スーパーで有頭の大きな海老が売ってたのよ! この前ハルカが食べなかったから、今夜はエビフライにしてみたの」
 母が嬉しそうに味噌汁を注ぎ、テーブルに並べていく。味噌汁には、私の大好物の茄子が入っていた。
「この茄子は、昨日おじいちゃんにもらった物よ。だから、ハルカの一番好きな茄子のお味噌汁にしたのよ」
 私の祖父は七つ先の駅に住んでおり、家の近所に畑を持っている。夏になると、きゅうりやトマト、茄子などをよく持ってきてくれていた。
「もう茄子ができる季節なんだね」
 私はまじまじと味噌汁を見て、素直に感心した。
「そうよ、夏はそこまで来てるのよ。今年もおじいちゃんが作った野菜を、いっぱい食べれるといいわね」
 母は幸せそうに笑っていた。祖父が作ってくれた野菜を最後に食べることができてよかった。心底そう思った。ドアが開き、リビングにユイが入ってきた。彼女は無言で私の隣に座り、コップに注がれた麦茶を一気飲みした。私の顔を見ようとせず、テーブルに置かれた大きなエブフライをじっと見つめている。
「じゃあ、家族全員揃ったことだし、温かいうちに食べましょうか!」
 母が努めて明るい声で合掌し、「いただきます」を言おうとした時、
「ちょっと待って! その前に、みんなに言いたいことがある」
 ユイが口を開いた。
「私、猫飼うの賛成してもいいよ」
 その言葉を聞いた時、私以上に父は嬉しそうな顔をしていた。
「そうか、よかった!」
 父が満面の笑みで、ビールを一口飲んだ。
「お姉ちゃん、昨日はごめんね。私こそ言い過ぎたよ」
 ユイは真っ直ぐな目で私を見つめ、頭を下げた。私は思いっきり首を横に振り、
「私こそごめんね。我侭ばっかり言って!」
 ユイに頭を下げると、ゴッ! と大きな音を立て、彼女の後頭部に額をぶつけてしまった。二人で涙目になりながら、頭を抑えていると、その様子を見ていた両親は爆笑していた。
「二人共、大丈夫? とりあえず、家族が増えたことを祝って、乾杯しましょう!」
 無邪気な母の様子を見た私とユイは、薄っすら涙を滲ませた目を合わせて笑い合い、みんなで乾杯をした。
久しぶりに家族全員が心から笑い合って食事をした。話題はもっぱらぷにゃんの事だった。首輪や餌の皿は何色にするか、どんなおもちゃを買ってあげるべきか、など話は尽きなかった。新しい家族は、思わぬ贈り物をたくさん授けてくれた。あたり前の幸せが、こんなに暖かくて、心地よいものだと、今まで気が付かなかった。否、気が付いていたのかもしれないが、あたり前過ぎて知らず知らずの内に通り過ぎていた。私は家族の絆と大切さを再確認し、お腹も心も満たされた。今夜のこと、忘れないからね。
 食事を済ませ、風呂から上がり、ミネラルウォーター入りのペットボトルを片手に二階に上がった。
「キリストには申し訳ないが、私の最後の晩餐は最高の食卓になったよ!」
窓を開け、夜空に向かって見えない神様に自慢した。当然返事はないのだが、私は今の幸せを誰かに自慢したくてしょうがなかった。死ぬ事は怖いけど、生きる事を怖がっては何も得られない。それだけで、十分なんじゃないかな?
まだ濡れている髪に夜風が当たり、火照った体を少しだけ冷ましてくれた。ミネラルウォーターを飲みながら夜空を眺めていると、今夜はアキのピアノの音が聞こえてこなかった。
「どうしたんだろ? 明日はコンクールなのに……」
 心配になり、アキにメールをしようとして携帯電話を握り締める。しかし、邪魔をしては悪いと思い、メールを送るのをやめた。
「明日は九時に瀬高さんと待ち合わせだから、早く寝ないと。コークスクリューパンチなんて喰らったら、顔が腫れ上がって、コンクールに行けなくなっちゃよ……」
時刻は午後十時を回ったばかりにも関わらず、私はベッドに体を沈めた。天井の赤い染みはまだ消えていない。
私は不思議と、明日消えてしまう恐怖は感じなかった。それ以上に、丸く暖かい幸せが心を包んでいた。ゆっくり目蓋を閉じると、深い眠りに落ちていった。怖くなんかない、怖くなんかない、怖くなんか……ない。
 

七月七日

 目を覚ますと、目覚まし時計はすでに七時を回っていた。
「やっべ、遅刻する!」
 私は飛び跳ねるようにベッドから体を起こし、急いでパジャマを脱ぎ始めた。どうやら無意識の内に、時計のベルを止めてしまったみたいだ。
「瀬高さんと話してから、直接コンクール会場に行くから家に戻ってくる時間はないな。そういえば、コンクールの客はどんな服装で行けばいいのかな? フォーマルな服なんて持ってないよ!」
 焦りながらクローゼットを開き、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤を繰り返しているうちに、すでに時刻は七時二十分を過ぎていた。
「分かんないから、制服でいいや! お通夜も制服で行ったし、大丈夫でしょう」
 根拠のない自信を頼りに、急いで制服に着替える。部屋は出しっぱなしの服や脱ぎっぱなしのパジャマが散乱していた。
「もう、立つ鳥後を濁しまくりじゃん! でも、片付けている時間はどこにもないから、しょうがないか」
ベッドに置かれたままの携帯電話を急いで鞄に投げ入れ、散らかしたまま部屋を出ようとした。そのとき、あることに気が付いた。今朝はアキのピアノの音がしなかった。どうしたんだろう、と思い窓を開ける。やはりピアノの音は聞こえてこない。
「今日はコンクールの日だから、ゆっくり寝てるのかな? もしかして……」
 変な胸騒ぎがした。しかし、ゆっくり考えている時間はない。私は嫌な予感を打ち消すように部屋のドアを思いっきり閉めた。
 リビングではエプロン姿の母が、焼きたてのクロワッサンをのせた皿を持っていた。制服姿の私に驚いた顔をしていた。
「日曜日なのに、学校に行くの?」
「うん、ちょっと野暮用で出かけてくるよ」
「帰りは遅くなるの? 今日は天気予報で雨が降るかも知れないから、傘を持って行きなさい」
「大丈夫だよ、こんなに青空が広がっているんだよ。……帰りは、ちょっとだけ遅くなるから先に夕飯食べてていいよ。私のことは、待たなくていいから」
「そうなの? 心配だから、遅くなる時は連絡しなさいよ。あと、このタオルは持っていきなさい。大事なタオルなんでしょう?」
 そう言って、綺麗に洗濯され、ソファーに置かれた白虎タオルを母が渡してくれた。私は「ありがとう」とお礼を言い、鞄に詰め込む。
「とりあえず、パンぐらい食べていきなさい。朝ごはんを食べないと力が出ないわよ」
 芳醇なバターの香りが鼻を擽り、私はクロワッサンを手に取った。焼きたてのクロワッサンを冷たい牛乳で一気に流し込む。
「ごちそうさま!」
「もういいの? 気をつけて行ってくるのよ」
「お母さん、いつもご飯おいしかったよ! ありがとう」
 母は不思議そうな顔をしていた。
「急にどうしたの? そんなこと、今まで一度の言わなかったのに……」
「なんとなく、そう言いたくなっただけだよ。じゃあ、いってきます!」
 私は笑顔で母に手を振った。
「いってらっしゃい!」
 彼女も私の笑顔に答えるように、弾けるような大きな声で見送ってくれた。
 玄関に置いてあるダンボールを見ると、ぷにゃんがつぶらな瞳でこっちを見ていた。私は彼女の喉をコロコロと鳴らす。
「私の代わりに、この家の家族になってね。簡単に死ぬんじゃないぞ!」
 そう話しかけると、ぷにゃんは「ブニャーオ!」と野太い声で力強く返事をしてくれた。私は頼もしい家族ができて安心だ。これで、私が消えてもみんな寂しくないね……。靴を履いていると、背中越しに父の声が聞こえた。
「出かけるのか?」
「うん」
「気をつけてな」
 初めて父から、そんな言葉を言われた気がした。
「ありがとう。いってきます!」
 私は振り返り、満面の笑みで父に別れを告げた。玄関の扉を開けると、太陽の眩しい光が私を外に連れ出した。
駅まで全速力で走り、駆け込むように電車に乗り込んだ。電車は日曜日の朝なので乗客は少なく、ゆったりとした時間が流れていた。
新小郡駅に到着すると、瀬高さんと待ち合わせした学校近くの川に向かった。待ち合わせの場所に走って行くと、彼はすでに来ていた。河川敷に座り、おいしそうに缶コーヒーを飲んでいる。
「遅くなって、すみません!」
 私は息を切らしながら、瀬高さんに駆け寄った。
「おはよう。まだ八時五十分だから遅刻じゃないわ」
 瀬高さんは穏やかな笑顔で私に挨拶し、まだ開けていない缶コーヒーを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言い、彼の横に腰を下ろす。朝の爽やかな風が足元の草を揺らし、私の額から流れる汗を乾かしてくれた。冷えた缶コーヒーを開け、喉の渇きを潤す。コーヒーはミルクが多めで、瀬高さん好みのまろやかな味だった。眼下に流れる川は、朝日に照らされて金色の眩い光を纏っていた。
「今日はありがとう。来てくれて本当に嬉しいわ」
「友達との約束はちゃんと守りますよ」
「私達、友達なの?」
「えっ、違うんですか?」
 私は瀬高さんの思わぬ質問に驚きを隠せなかった。瀬高さんと自分はてっきり友達だと思っていたからだ。彼は大きく首を左右に振り、「そうじゃないの!」と必死に否定した。
「あなたが、私のことを友達だと思っていてくれた事が嬉しいの。私が一方的に友達だと思い込んでいた気がしたから……」
「そんなことないですよ。私達は友達ですよ」
 私達は目を合わせ笑い合う。暖かく柔らかい風が、二人の間を通り抜けた。瀬高さんにはサヲリと同じように、自分の弱い部分を曝け出すことができる。そして、何よりも心から笑い合えるのは友達だからできることだ。
 私は彼に昨日の事を訊いてみた。
「……そういえば、お父さんとお話できましたか?」
 彼は俯き、ゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。
「やっぱり、ダメだった。実家に帰って、すぐに見合いの話をされたわ。だから、思い切って自分の正直な気持ちを伝えたの。自分らしく生きていきたいから結婚できない、って……。そしたら『この親不孝物が!』て怒鳴りつけられて、見合い相手の写真を投げられたわ。それでも、食い下がって何とか自分の思いを伝えたけど、結局分かってもらえなかった」
「そうでしたか……」
 私は何と言って慰めたらよいのか分からず、気の聞いた言葉を言えなかった。そんな自分が堪らなく情けない。
「でも、まだ諦めてないわ。何年かかっても、父を説得してみせる。だって、あなたと約束したもの。私も友達の約束はちゃんと守るわ」
 瀬高さんの言葉からは意志の強さがはっきりと感じられた。逃げも隠れもしないで、正面から自分の父親と向き合い、分かり合おうとしていた。その言葉だけで、私は安心できた。
「そういえば、見合い相手の写真は見ましたか?」
「見たわよ! 私の予想通り、牛みたいな行き遅れ女だったわ。女と結婚なんかするもんじゃないわね! やっぱり、あなたみたいな女友達が一番大事よ」
「相変わらず、辛口コメントですね」
 瀬高さんの辛辣なコメントぶりの健在に、少しほっとした。出会った時と同じで気が強いままだ。
「ところで、あなたの方はどうだったの?」
「私は、父親と仲良くなれたかどうかはわからないけど、久しぶりに笑い合いながら夕飯を食べました。それだけですけどね。全然大した事じゃなくて、すみません」
 私が申し訳なさそうに笑うと、瀬高さんが満面の笑みで祝福してくれた。
「それだけで、十分仲良くなれた証拠になるわ。よかったわね」
 彼は目を細め、私の顔を見つめた。私は親孝行らしきことが何一つ出来ないまま死んでいくのが心残りだった。しかし、彼の笑顔で心は軽くなり、少しだけ救われたような気がした。
突然、メールの受信音が鞄の奥底から微かに聞こえてきた。
「ちょっと、すみません」
そう瀬高さんに言い、鞄から携帯電話を取り出す。送り主はアキからだった。
『やっぱり、今日は野球の試合に行きます。約束守れなくて、ごめんな』
 自分の目を疑った。昨日、仲間が必死で行かせてくれたコンクールに行かないことが信じられなかった。そんな私の様子に瀬高さんが気づき、声を掛ける。
「どうしたの?」
「ちょっと、これ見てくださいよ!」
 私は怒りに任せて、彼にメールを見せた。
「どういうこと? アキ君はコンクールに行くんじゃなかったの?」
「あいつ、何を考えてるんだ! 確か、今日の試合は私の学校であったはず……。瀬高さん、すみません。今から学校に行くので、またあとでメールします!」
 鞄に携帯電話をしまい込み、急いで立ち上がった。
「ちょっと待って。車で来てるから、学校まで乗せて行くわ!」
 瀬高さんが私の腕を掴み、彼も立ち上がった。
「ありがとう、え~ちゃん!」
 私達は瀬高さんが車を止めている駐車場まで全速力で走り、車に乗り込み、シートベルトを締めた。いつの間にか太陽は姿を隠し、鉛色の雲が重なり合っていた。フロントガラスに雨の雫が散りばめられている。どうやら嫌な予感は当たってしまったらしい。
「しっかり捕まっときな、お嬢ちゃん!」
 瀬高さんはアクセルをベタ踏みしながら、車を急発進させた。あまりにも危険な運転行為に、学校に着く前に天国に行き着いてしまう気がした。
「どうか間に合って! そして、まだ天国へのお迎えは来ないで!」
私は祈るように、冷たい雨が降り注ぐ空を見上げた。
学校の校門近くに車を止め、瀬高さんは部外者なので、車の中で待機してもらうことにした。
「ありがとうございます! お陰で間に合いました。軽く臨死体験もできましたけどね」
「まだ、親からもらった足が地に着いているから死んでないわよ。足が無くなる前に、しっかりやるんだよ!」
 瀬高さんの男らしい激励を受け、素早く車から降り、門を潜る。雨が顔と目に当たり、上手く走れない。おまけに水溜りの中を走った衝撃で、真っ白な靴下に雨水と泥が付着した。そんなことに構っている暇はなく、一心不乱でグラウンドを目指した。
 息を切らし、グラウンドに到着すると、野球部員達が試合前にウォーミングアップをしていた。どうやら対戦校は、まだ来ていないようだ。グラウンドを見渡すと、アキは部員達と肩慣らしのキャッチボールをしていた。
「アキ!」
 私は脇目も振らずに、フェンス越しに大声でアキの名前を叫んだ。急に大声を出したので、喉が痛くなり咳き込む。アキも他の部員もびっくりして、私を見ていた。アキはフェンスのドアを開け、咳き込む私に駆け寄ってきた。
「どうしたんだよ! なんでここに居るの?」
「今日は、何の日か分かってるはずだよね?」
 思いっきりアキを睨みつける。彼は目を逸らし、何も答えなかった。私は呼吸を整え、ふぅーと一息つき、
「この、大馬鹿野朗!」
渾身の力を込めてアキを殴った。彼は衝撃で倒れこみ、「痛ってーな!」と頬を手で押さえている。私は生まれて初めて人を殴った。拳の痺れる痛みよりも、心が痛くて泣きそうになった。
「あんた、どこまで仲間を裏切れば分かるの? 昨日のキャプテンや太宰君達の話、聞いてなかったのかよ。脳みそ三グラムの私ですら覚えているんだから、覚えてないとは言わせねぇーよ! どんな思いであんたを送り出したか考えなさいよ!」
「でも、絶対に腹の中では俺の事恨んでるし、納得できない顔してたヤツもいたよ……」
 彼は俯きながら答えた。私達の間を雨が見えない壁を作り、隔てている。
「アキが怖がっているのは何なの? この期に及んで、まだ嫌われるのが怖いとか思ってんの?」
「そうだよ、悪りぃかよ!」
 アキは私にやり場のない怒りをぶつけてきた。彼の気持ちは痛いほど分かる。しかし、ここで引くわけにはいかい。私はアキの胸倉を掴む。
「ちょっとは、仲間のこと信用しなさいよ! 少なくとも、昨日アキを庇ってくれた人たちは信用しなさい。他人に嫌われたら、また好きになってもらう努力をしたらいいじゃん。私の友達は、自分を拒絶した相手と逃げずに向き合っている。……コンクールに行くことが絶対に正解だとは限らない。あとでコンクールに行ったことを後悔するかもしれない。でも、自分の夢に一歩前に進めたことになる。アキが居るべき場所はどっちなの? 他人じゃなくて、あなた自身の答えを見つけなさい」
 自分の思いを正直に伝えた。アキはまたも目を逸らした。でも、私は彼から一時も目を離さなかった。
「……俺、ピアノが弾きたいよ……」
 アキは、小さく擦れるような声で呟いた。
二人の間に雨は降り続いていたが、私達の間にあった見えない壁は雨音と一緒に崩れ去った。
「先に行っててほしい」
アキに言われたので、私は一足早く瀬高さんの車に戻った。きっと野球部員達に、彼の言葉でけじめをつけるつもりだろう。助手席に乗り込み、鞄から白虎タオルを取り出し、濡れた体を拭った。
「アキ君、コンクールに行くのかしら?」
瀬高さんが心配そうに訊いてきた。正直、私もアキが戻って来ないんじゃないかと思った。でも、今は彼を信じるしかない。
「心配しなくても、アキはきっと来ますよ!」
タオルで顔を拭きながら、そう瀬高さんに告げると同時に、自分にも言い聞かせた。
 しばらく待っていると、アキがこっちに向かって走ってくるのが見えた。私は車を降り、アキに大きく手を振った。彼はいつもの優しい笑顔で手を降り返した。私は雨の中、アキに駆け寄る。
「遅くなって、ごめんな」
「大丈夫だよ。それより、みんなにちゃんと言えた?」
「うん。みんな呆れてたけど、なんとかなるよ。見捨てられたら、また拾ってもらえるように頑張る」
 アキはなんだか吹っ切れたような顔をしていた。先ほどまでとは、まったく違う精悍な顔付きだった。車からクラクションの音がした。瀬高さんが窓を開け、手招きをしていた。
「雨に濡れちゃうから、二人とも早く車に乗りなさい!」
 私達は車に乗り、学校を後にした。雨は止むことなく降り注いでいる。
「はじめまして、アキ君。瀬高エイジと申します」
「こちらこそ、はじめまして。水城アキです」
二人は車内で挨拶を交わした。私は後部座席のアキに白虎タオルを差し出す。彼は「ありがとう」と言い、濡れた顔を拭いていた。
「このタオル、若松さんとお揃いだよね?」
「なんで知ってるの?」
「若松さんが首に掛けているのを、見たことがあるんだ。この猛々しいデザインのタオルは、一度見たら忘れないよ!」 
 アキがタオルを返してくれたので、「そうかなぁ」と言いながら、まじまじとタオルを見つめた。
「確かに、このタオルはインパクト大だわ!」
 瀬高さんが横目でタオルを見ると、アキの意見に妙に納得していた。この可愛さがわからないなんて! 私は怒りながら鞄に詰め込む。
車のワイパーが視界を塞ぐ雨を拭っていく。雨足が少し強くなってきた気がした。瀬高さんが、ルームミラー越しにアキに話しかけた。
「でも、こんなに雨降っていたら試合は中止じゃないの?」
「まだ小雨ですし、天気予報によると晴れる確立も高いので、試合はあると思います」
「あら、そうなの? じゃあ、みんな雨と汗に濡れながら、白い球体を追いかけるのね。思い出すわ、元カレとの愛の球技大会!」
「へえ~、そんな球技大会があるんですね」
「今度、たっぷり時間をかけてレクチャーしてあげるわ。アキ君なら授業料免除してあげる。その代わりに、番号教えてね」
 瀬高さんがウインクをしながら、携帯電話を後部座席のアキに手渡そうとした。私はすかさず、携帯電話を奪い取った。
「アキに変なこと教えないで下さい! それに、運転中に携帯電話を操作しちゃダメでしょ!」
「やだ、この娘ったら嫉妬しちゃって! 冗談に決まってるでしょ。アンタとなんか、シスターになりたくないわよ!」
「こっちだって願い下げですよ!」
 私達のお下品な会話を、アキが後部座席で笑いながら聞いていた。
「ところで、アキ君はコンクールではどんな衣装で出場するのかしら?」
「何も用意できなかったので、制服のままで出ようと思います。今から家に帰って、着替えてくる時間はないですし……」
 冴えない口調で答えるアキに、今まで機嫌よくしゃべっていた瀬高さんが、般若のような顔つきで怒り始めた。
「何を言ってるの! せっかくのコンクールなのに制服で出るとかありえないわ! まだ時間があるから、私の家に行きましょう。ちょうどこの近くだし、衣装ならたくさん揃えてあるのよ。晴れ舞台なんだから、正装しなきゃダメよ。親が赦しても、私が赦さないからね!」
 あまりの迫力に、アキと私は何も言い返せなかった。そう言うと、瀬高さんは思いっきりハンドルを切り、車をUターンさせる。車内は激しく揺れ、またしても生きた心地がしなかった。
 車を五分ほど走らせると、目の前に高級タワーマンションが現れた。このマンションは、よくテレビや雑誌で紹介されるほど有名な建物だ。
「このマンション知ってるよ! 有名人とか政治家が住んでいるんでしょう?」
 私は窓ガラスに鼻を押しつけて、高層ビルを見上げる。首が痛くなるほど見上げなければならない建造物は、富と権力の象徴だ。
「よく知ってるわね。ここが私の家よ」
「えっ! ここに住んでいるんですか? そういえば、瀬高さんのお仕事って何ですか?」
 彼は不敵な笑みを浮かべ「ヒ・ミ・ツ」とだけ答えた。私はそれ以上聞いてしまうと、知ってはいけない秘密を聞いてしまうような気がしたので、何も聞かなかった。アキも何も言わなかった。車を停止させ、降りる準備をしていると、
「さあ、アキ君降りましょう。あなたは車にいなさい」
 なぜか私だけ留守番を命じられた。
「どうして?」
「今日は妹が家にいるの。あなた、妹の真の姿を見ないほういいわよ。夢が粉々に壊れるわよ!」
 なんだか自分だけ仲間はずれにされて、少し寂しい気持ちもしたが、大人しく車の中に残ることにした。
「……わかりました。ただし、アキに変なことしないで下さいよ!」
 瀬高さんに厳重に忠告すると、彼とアキは高級タワーマンションの中に消えていった。
 フロントガラスには、雨の雫が止め処なく落下する。次第に視界は歪んでゆき、車内には静かに雨音だけが響き渡っていた。心地よい自然のメロディーに包まれながら、私はいつの間にか目を閉じていた。
「コンコンッ」
 窓を叩く音で目が覚め、私は一瞬で現実の世界に戻された。目の前には、黒く光沢のあるタキシードを身に纏い、傘を差しながら、瀬高さんをエスコートするアキの姿があった。今まで見てきたアキとは、まったく違う紳士な魅力を放っている。私は思わず見とれてしまった。     
二人が車に乗り込む。
「私のコーディネート能力はどうかしら?」
 瀬高さんは自慢げに訊いてきた。私は興奮気味に「バッチリです!」と答えた。アキは照れくさそうに、はにかんでいる。
「サイズも私の見立てた通り、ピッタリの衣装を選んだの。このタキシードは、私が社会人になって、初めて出場したコンクールに着て行った物なの。奮発して買ったタキシードだから、どこに着て行っても恥ずかしくないわ」
 瀬高さんが嬉しそうに話してくれた。いつか彼のピアノも聞いてみたい。叶わぬ願いだとしても、そう願わずにはいられなかった。
「本当はドレスも試着して欲しかったのよ。でも、残念なことに時間がなかったわ」
 アキは困った顔で笑っていた。私はそんなアキの様子が可笑しかった。瀬高さんが車を走らせる。今度こそ目的地は、日武会場だ。 
「なんだか、不思議な縁よね。あなたが居なかったら、私とアキ君はこうしてドライブデートできなかったんだもの。デートはおろか、出会えてなかった訳だし……」
 瀬高さんが車を運転しながら、急に感慨深そうに語りだした。
「確かにハルカが居なかったら、俺は瀬高さんと出会えてなくて、コンクールに出場できなかったかもしれない。瀬高さんに出会えてよかったです」
 アキも窓の外を見ながら、穏やかな声で答えた。
「すべては、は~ちゃんのおかげね」
「そうですね。ありがとう、ハルカ」
 二人は笑いながら、私の顔を見つめてきた。
「やめてよ、照れるじゃない!」
 急いで鞄からタオルを取り出し、顔を隠した。人に褒めてもらうのは慣れていないせいか、どんな顔で二人と目を合わせて良いのかわからなかった。
「さあ、着いたわよ!」
 顔を上げると、日武会場に到着していた。私とアキが車を降りたが、瀬高さんは車に乗ったままだった。
「私はここで帰るわ」
「どうしてですか? 一緒に会場に入りましょうよ!」
 私は瀬高さんに懇願した。しかし、彼は首を横に振った。
「私の役目はここまでよ。あとは二人で行きなさい。その傘は餞別代わりにあげるから、しっかり頑張ってね」
アキは力強く「はい!」と返事した。私は涙を堪えながら、瀬高さんに力いっぱい抱きついた。体が痛いくらい、彼も抱きしめてくれた。
「ありがとう、瀬高さん! ありがとう……」
「泣き虫な子ね。そんなんじゃ、弱肉強食で誘惑たっぷりの大人の世界を生きて行けないわよ。……私こそ、ありがとう」
 瀬高さんは、私の頭を大きく温かいゴツゴツした手で撫でてくれた。
「さよなら、え~ちゃん」
「バイバイ、は~ちゃん」
 私の頬に瀬高さんが優しくキスをした。私が驚いていると、微笑みながら素早く窓を閉め、車を発進させた。車はあっと言う間に見えなくなり、私は呆然と立ち尽くす。アキが心配そうに、「大丈夫か?」と訊いてきた。
「大丈夫だよ! え~ちゃんらしい別れの挨拶だった。やっぱり、百戦錬磨のメールマスターは凄いね! 一瞬、好きになりかけたよ」
 まだ頬に唇の感触が残っていたが、さっきまでの胸を締め付けるような悲しい気持ちはどこにもなかった。
「さあ、行こうか」
 私の言葉にアキは頷き、私達は瀬高さんの傘に守られながら会場に続く階段を上った。
 受付を済ませ、アキは出演者に用意された控え室に行き、私は客席に向かった。開演時間に近かったせいか、ロビーは他の出演者や観客が慌しく動き回っていた。やはり、留学がかかったコンクールなので、出演者だけでなく、先生や家族の熱気の方が凄かった。私はアキとの別れ際に、「頑張れ!」と一言だけ言葉をかけた。彼は、「ありがとう」と緊張した面持ちで返事をした。
 客席に座り、ロビーで渡されたパンフレットに目を通す。アキの名前は七番目に明記されていた。
「アキの演奏する曲は『フレデリック・フランソワ・ショパン 練習曲集 第三番 別れの曲 ホ長調』なんだ。私、聞いたことあるのかな?」
 クラシック音楽に対して無知なので、他の演奏者の曲もまったくわからなかった。
 パンフレットを眺めていると、急に視界が暗くなる。会場の電気が落とされ、コンクールが開演した。初めに、司会の女性がコンクールの歴史や意義について手短に説明をし、開演の挨拶をした。
「それでは一番目の奏者、高宮チサトさんによる『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト ピアノソナタ 第九番 ニ長調 第二楽章』をお聞きください」
 司会の女性が一礼し、舞台袖に捌けていった。入れ替わりに、華やかで気品漂う青色のドレスに身を包んだ女性が登場した。客席から拍手が起こり、女性はゆっくりと一礼し、ピアノを演奏し始めた。 
演奏曲は、自然の中を雄大に流れる川のように、ゆったりとした曲調だった。演奏者は一つ一つの音を丁寧に拾いながら、感情を込めて弾いている。素人の私が聞いても、素晴らしい演奏だった。
 弾き終わると、女性は客席に向かって一礼をし、堂々とした姿勢で舞台を去っていった。会場から惜しみない拍手が沸き起こる。司会の女性が再度登場し、同様の進行で次々と演奏者が舞台に上がっていった。どの演奏者も、素晴らしい演奏を披露してくれた。しかし、私の心の奥深くにまで響く人は誰もいなかった。
 とうとうアキの出番がきた。
「それでは七番目の奏者、水城アキさんによる『フレデリック・フランソワ・ショパン 練習曲集 第三番 別れの曲 ホ長調』をお聞きください」
 司会の女性と入れ替わりに、アキが舞台に登場した。客席に一礼をしたアキの表情は、遠目から見ても緊張しているのが伝わってきた。私は祈るような気持ちで彼を見守った。
 アキが演奏したのは、毎朝練習していた曲だった。私はそれ以前にも聞いたことがある気がした。懸命に記憶の糸を手繰り寄せる。 
思い出した! 高校に入学したばかりのとき、友達が出来なくて落ち込んでいた私を慰める為に、音楽室で演奏してくれた曲だ。アキはいつも優しくしてくれた。でも、その優しさは決して押し付けがましくなく、落ち込んでいるとひっそりと寄り添うように励ましてくれた。
アキの指から紡ぎだされる硝子細工のように繊細な旋律は、悲しみに満ちた音ではなかった。別れの中にも、どこか心地の良い温かさに包まれていた。目を閉じると、彼と過ごした日々が古い8ミリフィルムの映画のように蘇った。色褪せた思い出は、断片的でけっして鮮やかとは言えないが、夕日に照らされた川の水面のように、キラキラと黄金に輝いていた。頬を暖かい涙が伝い落ちた。 
アキの演奏が終わり、彼は客席に深々と頭を下げる。私は心の中で精一杯の感謝を込めて拍手をした。結果がどうなろうと、彼が弾き終わった時に見せた力強い目の輝きを見ることができただけで十分だった。アキが魂を込めて弾いてくれた「別れの曲」は、絶望や悲壮感だけが漂うのではなく、悲しくも慈愛に満ちた別れを与えてくれた。
最後に聞いた音楽が、この曲でよかった。ありがとう、アキ。私はゆっくりと席を立ち、会場のドアを開いた。
会場外の階段を下り、私は駅に向かった。雨は降り続いていたが小雨になっていたので、雨に打たれながら駅まで歩こうと思った。最後に浴びる雨が、優しく体を濡らしてゆく。傘を差し、慌しく駅に向かうサラリーマンとすれ違う。私はすれ違った瞬間、はっとした。
「あの人は、この前すれ違ったサラリーマンかな? 否、人違いかな……」
 信号の青が点滅し始めた。サラリーマンは一度も足を止めることなく信号を渡りきり、駅まで一気に走り抜けた。その後ろ姿を嬉しそうに眺めていた。信号は赤に変わり、足を止める。目の前を車が水しぶきを上げ、通り過ぎる。
俯きながら雨に打たれていると、急に雨が止んだ。顔を上げると、隣に見覚えのある真っ黒な高級スーツを身に纏った男が立っていた。西川がこうもり傘を持って、隣に佇んでいた。
「いつから、そこにいたの?」
私は驚きながら問うと、西川は目を合わすことなく、
「傘を持って行け、って忠告したはずだぜ。……今度の声は明るいな」
と答えになってない答えを返してきた。
「どういうこと?」
「別に」
私の質問に西川が無愛想に答える。信号は変わらずに赤のままだ。
「どうだった?」
「何が?」
「何がって、お前なあ……」
「心配しなくても、分かってるよ! そうね、君と初めて会った時と同じようにこの世界に未練はないよ。でも、いい意味で未練はないかな。やっぱり命の尊さについては、正直よく分からない。でも、どんなことがあっても、後悔だけはしないように生きていくことの大切さは身をもって体感したよ」
 私は微笑み、彼の顔を見つめる。西川がニヒルな笑顔を向ける。
「お前の顔を見れば分かるよ」
「さすが、ストーカー! 私の些細な変化も見逃さないね」
「だから、ストーカーじゃないってば!」
 顔を赤くして怒る西川の顔がなんだか可愛く思えた。その顔を見ていると、重要なことを思い出した。
「あっ!」
「どうした、急に大きな声出して?」
「お寿司、食べ損ねた! 君のイクラみたいに赤い顔を見ていたら、思い出しちゃったじゃない。やっぱり未練タラタラタラちゃんだから、もう一週間生き長らえさせろ! バブー」
 私は今にも泣きそうな顔をしながら、西川にしがみ付く。
「イクラちゃんの物まねしてもダメ! ダメなものはダメよ、未練タラタラタラ夫ちゃん!」
 やっぱりむきになって怒る彼が面白くて、私は笑いながら「嘘だよ」と言った。
「冗談はさて置き、西川は私を迎えに来たんでしょ?」
「そうだ。約束の時だ」
 本当は寿司以外のことで、この世界に未練が残っていた。それは、アキときちんと別れの挨拶をしていないことだ。しかし時間がきてしまい、その願いは叶わない。
諦めかけていた時、背後から大声で名前を呼ばれた。振り返ると、タキシード姿のアキが傘を差しながら走ってきた。
「どうしたの?」
 アキが苦しそうに肩で息をし、ネクタイを緩める。ふっと隣を見ると、西川の姿がなかった。
「コンクールが終わって、ロビーに出たら、ハルカが会場から出て行く姿が見えたから、走って追いかけてきたんだ。せっかくだから、一緒に帰ろうよ」
「勝手に一人で帰ってごめんね」
 アキは呼吸を整えながら傘を差し出し、私達は雨のない世界を共有した。信号が青に変わり、二人は歩き出す。
 雨は小降りになってきたが、鉛色の空は厚い雲に覆われていた。今夜は晴れそうにないらしい……。
「そういえば、いつ帰ったの?」
 アキがいつもの穏和な口調で訊ねてくる。
「アキの演奏が終わってから、すぐに帰ったかな」
「……じゃあ、結果知らないんだ」
「うん」
「そうか……」
 二人の間を沈黙が流れる。駅に続く道にある最後の信号に引っかかり、私達は足を止めた。彼は何か大切なことを言おうとしていたが、私はそれを遮るように、
「アキが優勝したら一番嬉しいけど、優勝できなくても、またコンクールに挑戦すればいいよ。打ちのめされたら、何度でも立ち上がればいい。人生はその繰り返しだと思うから。私の中では、ぶっちぎりでアキが優勝だけどね! 身内贔屓無しに、素直に感動したよ」
 自分の思いを率直に伝えた。
「ありがとう」
アキはお礼を言って、頭を撫でてくれた。彼の掌は少し硬くてゴツゴツしていたが、華奢で繊細な指をしていた。気づかぬうちに心の中に張り詰めていた緊張の糸が、ゆっくりと解けていく。
アキの背中越しに、まるで遠くから見守っているかのような西川の姿が見えた。
「ごめん。ちょっと呼ばれてたから、もう行かなきゃ」
「誰に?」
「寂しがり屋の新しい友達ができたんだ。だから、先に駅に行ってていいよ。傘はアキにあげるから、風邪ひかないようにね!」
「そっかあ……。ありがとな」
「うん、私こそアキに出会えてよかったよ。ありがとう」
 私はアキに手を差し出す。それに答えるように、彼も手を差し伸べてくれた。私達は固い握手を交わす。
「バイバイ、ハルカ。また明日な!」
「バイバイ、アキ。また逢おうね!」
私達は笑顔で互いの手を離した。二人の間に別れの悲しみはどこにもなかった。いつもと何一つ変わらない、優しい「さよなら」だった。また、必ず逢おうね。逢うんだぞ、私達。この手の温もりを、どうか忘れないでね。
 アキは振り返ることなく駅に向かい、私は西川の元に駆け寄った。
「ごめんね、待たせて!」
「別にいいよ」
「おっ、今度は愛想良く返事したね!」
「うるせーよ! ほら、中に入れよ」
 西川が傘を差し出してくれたので、ありがたく中に入れさせてもらった。傘の世界から、雨が降りしきる空を見上げた。
「ねえ、最後に1つだけ願いを叶えて欲しいの」
「いいぜ。寿司の代わりの餞別に、願いを叶えてやるよ」
「今日は七夕でしょ。雨が降ったままだったら、織姫と彦星がかわいそうだよ」
「わかった」
西川がふぅーと空に向かって息をはいた。その瞬間、鉛色の雲に覆われた真っ暗な空は引き裂かれ、夕焼けの光が街を包み込んでいく。やがて雲は消え、夕焼けの光に反射した黄金の雨が降り注いだ。冷たい雨は、私の大切な人達にこれから訪れる未来を称えるかのように、祝福の雨に変わった。
「ありがとう」
 私は西川にこれまでの人生の中で、一番輝いている笑顔でお礼を言う。
「今日は七夕だし、愛し合う男女の特別な日だからな」
「やっぱり君は、ロマンティストだね」
「うっせー!」
 からかうとすぐにムキになって怒る西川の反応が面白くて、ついいじめたくなる。西川の性格、嫌いじゃないよ。人間関係に不器用な、あの娘とそっくりだ。
「もう少し一緒にいれたら、君とは友達になれたかもね」
「まあ、友達になれたかどうかは不明だけど、俺はお前のこと嫌いじゃないぜ」
「素直になりなよ、かわいくないな~。そんなんじゃ、いい恋できないよ」
「なんで急に上から目線なんだよ!」
 彼のご期待通りの反応に、私は思わず笑みが零れる。
「西川くんはいいツッコミの技術を持っているから、悪魔に飽きたら芸人に転職することを薦めておくよ」
「一人で漫才やっても、おもしろくねぇよ」
「その時は、私がコンビ組んであげるよ」
 西川は少し照れながら「ありがとよ!」と言った。彼の照れた顔が可愛くて、私は思わずはにかむ。
「ところで今更感全開なんだけど、君の本当の名前は?」
「ケイ」
「なんだ、『きよし』じゃないんだ」
「お前だって、横山でも、やすしでもないだろ!」
「そうだったね」
私達は馬鹿みたいにくだらない会話をしながら、笑い合った。私は二度と着ることのない制服のスカートで手をこれでもか、とゴシゴシ拭く。今日は朝から走り回ったせいか、スカートは砂埃で汚れていて、ざらざらしていた。
「ありがとう」
私は手を差し出す。ケイも初めて会った時に着ていた、黒光りの高級なスーツのズボンで手をゴシゴシ拭き、二人は握手を交わす。ケイはこれまでで一番穏やかで優しさに満ちた笑みを浮かべていた。
「初めて本気で笑った顔を見せてくれたね」
私の体は薄れてゆき、夕焼けの柔らかいオレンジ色の光が体を支配していく。
「さよなら、ケイ」
私は消えていくことに対して、微塵も恐怖を感じていなかった。しだいに意識は薄れ、私のすべての温度がケイの手の中から消えていった。
「バイバイ、ハルカ」
ケイが振り返ると、日は沈み、夕焼けの空には高層ビルで形成された地平線の隙間から、星を繋ぎながら夜のカーテンがかかり始めていた。
「今夜は晴れるな」
淡い蝋燭の炎のような青い空に輝く星達に向かって、ケイが呟いた。それはまるで、祈りにも似た願いだった。その時、生暖かく、柔らかな風が彼の頬を撫でる。雨のせいか、風は少しだけ湿っぽかった。それはさっきまで傍にいて感じていたハルカの体温と、手の感触を思い起こさせた。ケイは、どこかでハルカは今も笑っている気がした。
 駅のホームから、アキは空を見上げていた。足元の水たまりは、流れる雲と夕焼けの美しい景色を、永遠に閉じ込めるかのように輝いていた。まるで、降り注ぐすべての光を集めているかのようだった。
雨音のかわりに蝉が鳴き始めた。

『祝福の雨を、君に』

『祝福の雨を、君に』

目を開くと、見知らぬ部屋にいた―。不慮の事故に遭い、何の前触れもなく死んでしまった高校二年生の新原ハルカ。しかし、彼女が行き着いた先は、天国でも地獄でもない、小さな部屋だった。そこには、一人の男がいた。男は「お前を一週間だけ生き返らせてやる。ただし、条件がある。一人の命と引き換えに、お前は生き返る」と言った。彼女は「どこかで見たことある映画みたいな話だ」と深く考えもせず、軽い気持ちで、男の申し入れを承諾する。命の消費期限は七月七日。ハルカは、たった一週間寿命が延びても、何も変わらないと思っていた。そう信じて疑わなかった。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-17

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著作権法内での利用のみを許可します。

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