いつだか羊の居た夢のはなし
浅いゆるやかな川の中に、私はただぽつんと立っておりました。
足元を流れる冷たい水の感覚はどこかぼんやりとして、辺りは霧に包まれたように――とはいえ、真昼のようにひどく明るいところでありましたが――空気がぼんやりと、濃く白く濁っているのでありました。
私はすぐに、ああこれはきっと夢だろうと分かりました。夢のうちに居る時にそれを夢だと自覚するのは、滅多にないことではありますが、その時の私はぼんやりした頭の中で、それだけを確かにはっきりと理解したのでございます。
けれども夢というものは、何か自分の力の働かない何かに因って動いてゆくものでありましょう。私はいきなりへんに、その川下が恐ろしくなって、ばしゃばしゃと水しぶきをあげて、上流のほうへ走ってゆきました。
息が切れ、足がじわりじわりと冷えるような感覚がし、それでもずっと進んでゆくと、水はだんだんと減ってゆき、はじめはふくらはぎほどまであった水面は、足首のあたりまで下がってきておりました。
私はやがて走るのをやめて、歩き始めました。つい先ほどまでひどく息切れしていたのに、まるで少しも疲れていないのに気がつきましたが、夢の中では大したことではないと思い、すぐに気に留めるのは止めました。
私はふと、何か遠くから声がするのに気がつきました。それも幼い子どもの声です。私は耳を澄ましました。
「ひとーつ、ふたーつ、みいーっつ」
子どもの声は、そう言っているようでした。一人だけではなく、何人もいるようで、いろんな声が重なって聞こえます。拍子のついた声は七つまで数えて、また一へ戻ってぐるぐると繰り返しています。私はそれが気になって、川を外れて声のする方へ歩いてみることにいたしました。するとやがて、白い霧の中にぼんやりと、色とりどりのボールが跳ねているのが見えました。
そこでまたようく注意してみると、それぞれの数で、決まった色のボールが跳び跳ねていることに気がつきました。ひとつめは赤、ふたつめは橙色、みっつめは黄色、よっつめは緑……というふうに、虹の七色が、まるできちんと並べられたクレヨンみたいな順番に飛んで、それに合わせて子どもたちは歌っているのです。
一から七まで順番に弧をえがくボールを見つめていると、なんだかまるでお手玉遊びみたいだと、そう思えました。私も昔はよくお手玉遊びをしておりましたが、それでも四つがせいぜいでしたので、七つも回し続けるのは大したものだと思いました。
さらに近づいてみると、そのボールが次第にはっきりと見えてきて、私は驚きました。ボールと思ったのは、七匹の羊であったのです。羊は一匹ずつ毛の色が違って、しかも体がたいそう丸々としていたので、それで色のついたボールに見えていたのです。
羊たちは柵を飛び越えながら、自分らでその数を数えていました。赤い羊でひとつ、橙色の羊でふたつ、黄色の羊でみっつ……というふうに順番に、大縄跳びのようにぐるぐると、休むことなく飛んで、歌うように数えているのでありました。
その時です。七つめの、紫色をした羊が、跳び跳ねたあとにつまづいて、ころんと横へ転がってしまいました。
次にやってきた赤い羊は、それを構うことなく柵を飛び越えて、その次もその次も、何も変わらずに羊たちは飛びはね続けておりました。ただ、彼らの歌う数は、次から六つまでになってしまいました。
私が心配になって駆け寄ると、紫の羊は起きあがって、柵のあるのとは反対向きに、とぼとぼと歩き始めました。私がそれを追って声をかけようとした時、羊は自分から独り言のように話しはじめました。少年のような声でした。
「ぼくもう、何べんも柵を飛び越えているんです。皆ああやって歌いながら、何度もおんなじことばかり繰り返すのをやめないのですが、ぼくばかり疲れてしまって、皆のめいわくになってしまっているんです」
羊がそれはひどく悲しそうに言うので、私は彼のことをあわれに思いました。それで私は言いました。
「羊くん、それなら君はどうしたいんだい」
羊は私の顔を、その黒くて大きな目で見て、それからひとつ悲しいため息を吐きました。
「ぼく、お家へ帰りたいんです。もうずっと帰っていないから……」
「君の家族も、おんなじ色をしているのかね」
「ええ、そうですとも。それにぼくのかあさんは、誰より素敵な紫色をしているんです。まるでみかんの木みたいに。ああ、お家へ帰りたい……」
私は首をかしげました。
「みかんが紫色をしているのかい」
すると羊がきょとんとした顔で、あんまり当たり前のことのように
「ええ、当たり前でしょう」
と言うので、私は確かにみかんは紫色だったと、そんな気がしてくるのでありました。
羊は言いました。
「ここからすぐ近くに、立派なみかんの木があるんです。ぼくは悲しくなると、いつもそこへ行くんです」
それなら行こうか、と私が言うと、羊は少し笑って頷きました。
みかんの木は、羊の言う通り、とても立派なものでした。私の背の何倍もの高さがあり、狭い公園くらいの広さがある木陰が、その下に広がっていました。私と羊はその木の根本へ行って、腰を下ろしました。
真っ白い幹はつるつるとしており、頭の上に広がる赤い枝には、いばらのような棘がいくつもつき、葉っぱは鮮やかな橙色をして、その中に沢山なっている実は、羊と同じような紫色でした。夢の中では仕方のないことでありますが、私はその時そのみかんの木を見て、何てことない普通の木だと、そう思ったのです。
ふと自分の側にうつ伏せた羊を見ると、彼は静かに涙を流しておりました。私はぎょっとして、何か私が悪いことをしてしまったのだろうかと訊ねると、羊は首を振って言いました。
「いいえ、いいえ。何も悪くはありません。ぼく、家のことを思い出して悲しくなっているだけなのです。ああ帰りたい、帰りたい……」
羊は、それに、とつけ加えて言いました。
「いつもこの木の下へ来ると涙が出てきて、そのうえ鼻もむずむずして止まらないのです」
それから羊は、くしゅんとひとつくしゃみをしました。私は少し考えて、それから言いました。
「それは、アレルギーってやつではないのかい。まるで花粉症みたいじゃあないか」
それを聞いて羊は首をかしげます。
「そうは言いますけれど、今はみかんの花は咲いていないじゃあないですか」
私は確かにそうだと思い、ため息を吐きました。それから、ひとまずみかんを食べようと立ち上がって、実を二つもぎりました。するとどういうことでしょう、木は全部黒い霧になって、ざあっと消えてしまったのでございます。後に残ったのは、私と羊と、二つのみかんだけでした。辺りはもう真っ白で、何にも見えません。
羊はぱっと顔をあげて、木が消えたことなんか気付いていない風に口を開きました。あるいは、本当にみかんの木のことなんか、どうでも良かったのかもしれません。
「ああ分かりました。きっとぼくは、ホームシック・アレルギーなんです」
羊はひとつあくびをして、さっき柵のあったほうへ――それがどちらの方角なのか、私が聞かれたとしてもはっきりとは答えられなかったでしょうが、きっとそうなのだろうという自信はあったのです――勢いよく走ってゆきました。私はその背中を見送りながら、手に持った実の片方をがりりとかじりました。紫色のみかんの実は、梨みたいにみずみずしくて、さっぱりとした味をしていました。
その後、夢の中でどうしたかはもうぼんやりとして、ひとつも覚えておりません。ただ目が覚めても口の中に、梨の味が薄っすらと残っておりました。
お終い
いつだか羊の居た夢のはなし