顔が見たくて
突然の豪雨に傘もなく、渋々近くの喫茶店に入った。薄暗い店内に赤いソファーと焦げ茶のテーブルが並んでいる。客は品の良い白髪のおばさまのグループと、新聞紙を広げて難しそうな顔をしているおじさんに、年齢も性別も判別つかない読書をされている方、将棋を指しながら文句を言い合う高齢の男性二人組。店内は狭く、私が着席したら全てのテーブルが埋まってしまった。
店員の女性が私の前にコーヒーを置いて
「お客さん大変申し訳ないのだけど、相席でもいいかしら」 と言った。
「ええ。どうぞ」
長居するつもりもない、私は快諾した。雨の予報なんて全くなかったのに、早く止まないかしら。コーヒーカップを口に運び、ソーサーに置く。
「すいません、失礼します」
聞いたことのない低い声が突如、私に向かって投げかけられた。顔をあげると髪の毛やスーツを雨で濡らした若い男性が目を泳がせて申し訳なさそうに会釈している。
「あ、はい。どうぞ」
男性は何度もぺこぺこ頭を下げてからソファーに座った。しかし一度も顔をこちらに向けなかったため、私には床にお辞儀しているように見えた。男性はビジネスバッグの中からタオルを取り出してスーツや髪の毛、バッグを丁寧に拭く。口をへの字に曲げている。きっと、あー運悪いなあとかなんとか思っているのだろう。癖っ毛なのか、毛先がくるくるとしてタオルで撫でるたびに犬の毛のように柔らかに弾むのが可愛らしく、私はつい見つめてしまった。男性が私の方を向いてくれたらいいのに。
せっせと身支度を整えながら、ふと男性は私に見られていることに気が付いたらしい。動きが止まった。そして俯きながらおずおずと言った。
「えーっと、何か?水滴をそちらに飛びました?」
「いえ、ただ……」
「はい」
「あなたにキスをしていいですか?」
男性はバッと顔をあげて、初めて私の顔を見た。男性は可愛らしい髪の毛によく似会う丸い黒眼をしていた。すこし頬がふっくらとして思わず触りたくなる。
男性は口を半開きにしながらも、私の顔を見つめている。まず私の両方の目を交互に確認する。次に鼻を、そして口を見た。まるで私が本当に人間なのかチェックするかのように念入りである。再び私の目の辺りを迷子になりながらも、戻ってきて、3秒見つめてから彼は答えた。
「はい。いいです」
そして続けて、ちょっと汗臭いかもしれませんが、と男性は自分の膝を見て小さく呟いた。
私はちょっといたずらしてみようと思って言っただけだった。まさかキスをしてくれるとは思いもしていない。あわあわと口を動かすのだが上手に返事ができず、男性の髪の毛が小学生のお習字のように元気よく跳ねるのをただ凝視する他なかった。
ああ、彼はどんなキスをするのだろうか。知らない女と、恋人とは違うキスだろうか。唇は柔らかいだろうか。今までどんなキスをしてきたのだろう。どうして私とキスをしようと思うの。彼は今まで何をしていたのか。仕事は。ご出身はどこか。ああ、そして彼はどんなセックスをするのだろうか。
余計な言葉ばかりが頭を駆け巡る間にも沈黙が流れ続けている。私は今ここで話すことを諦めて、メモに私の連絡先を書いて男性に渡した。
「今は忙しいので、今晩22時にまた、ここで」と、私は言い残して逃げるように店を出た。男性は驚いていたが、メモをしっかり受け取ってくれた。きっと来てくれる。
雨は気付かぬ間に上がっていた。会社に向かって走り出す。今晩ここに来るときはちょっと濃いリップを塗ってから来よう。そしてまだ名前も知らぬ彼にキスをするのだ。
顔が見たくて