レジの列は途切れない

 スーパーマーケット「オレンジ」の日曜日は恒例のサービスデーだ。今日わたしが受け持つ出入り口に一番近い八番レジには、すでに客が十数人並んでいた。
 十台あるレジすべてが開放されているにもかかわらず、カゴを手に下げている者やカートに乗せている客が、レジ前の特売品ワゴンをよけながら蛇行して続いている。普段はこれほどにまで混まないが、セールの日の列はだいたいこんなものだ。
「いらっしゃいませ」
 挨拶をするのと同時に客のカゴを引き寄せた。中身はセール品、割引品、見切り品がほとんどだが、端のほうにほとんど売れたことのない高級食材が入っている。いまひとつこの客の家庭環境が想像できなくなった。そう言えばカゴの商品をスキャンするものの、わたしはまだこの客の顔を見ていない。
 スキャンし終えてから少し顔を上げた。『小計/合計』のキーを押すとレジ画面に合計金額が表示された。
「二、八五〇円ちょうだい致します」
 買い物金額を告げると客がトレーに代金を置いた。
「五、〇〇〇円お預かりします」
 置かれたのは五千円札一枚だ。札を指でパチンとはじいて確かめる。新券の、まだなめらかな感触がした。
 受け取った札はキャッシャーに入れ、排出されてきたお釣りとプリントアウトされたレシートとを一緒に客に返す。わたしは先に千円札を二枚渡し、そのあとレシートの上に硬貨一五〇円をのせて客の手のひらに置いた。
「ありがとうございます、どうぞまたお越しくださいませ」
 ここで初めて客のほうを見て、傾き十五度のお辞儀をした。このあと体を起こしたらすぐ次の客のほうに向きを換えるのだ。
 次の客に「いらっしゃいませ」と声をかける前に、レジ画面の隅のデジタル時計に目をやった。さっきの客にかけた時間は一分二八秒だ。
 客が延々と続くとき、ひとりの客をどれだけの時間で処理できるか計ってみる。今のは最速記録の三十秒だったとか、さっきのはちょっと手間取って二分かかったなどと、レジに拘束されているときのささやかなゲームである。平均してひとりに一分半ぐらいかかるのが分かってきた。今、列にはざっと見ただけで十人は並んでいるから、この客がここからいなくなるのは単純計算して十五分後ということになる。
 浅黒い肌で眉間に深いしわを刻ませた、八十歳前ぐらいの男の客がアンパンと焼き鳥を買ったのはそのあとだった。男は商品を台の上に差し出すと同時にトレーの上に千円札を置き、うつむいて小さくたたまれた持参の手提げ袋を広げ始めていた。
 二点だけ置かれた商品の精算はすぐ終わった。キャッシャーから排出されたおつりをつかみ、プリントアウトされたレシートの上に乗せる。
「八一四円のお返しです」
 ここまでは何の問題もなかった。ところがである。おつりとレシートを差し出したわたしの手を、なぜかその男が振り払ったのだ。
 頭上では店内放送が「本日広告の品、Mサイズ卵パック、残り一〇個」と伝えている。続けて「小銭をレシートの上にのせるな」と男の声が聞こえたような気がした。いや、下を向いていて分からなかったが、確かにこの男が言った。
 釣り銭はレシートの上に載せて一緒に返すのが決まりである。聞き違えたのかと思ってもう一度、レシートの上にのせたおつりを差し出した。そのとき男が顔を振り上げた。
「オイ!」
「はっ?」
「小銭だけよこせ。レシートはこの袋の中に入れろ」
 口を広げた手さげ袋が突きつけられた。どういうふうにして欲しいのか意味がよく分からなかった。しかし男は怒っている。とにかく言われたようにするしかない。
「申し訳ございません」
 素早く頭を下げて小銭だけを手渡し、レシートを手さげ袋へ入れてやった。
 こんなとき、口からは条件反射で謝罪の言葉が出る。謝罪のときのお辞儀は傾き四五度と研修で習った。いつもならこうすることで客は少々不機嫌ながらも帰って行く。しかしまだこの男の怒りはおさまらないようで、レジの横で「小銭とレシートを一緒に渡されると受け取りにくい」と文句をつけ始めたのだ。
「申し訳ございません」
 もう一度頭を下げた。
 この間にも並んでいる客の列はいっこうに途切れる様子がなく、最後尾にはひとり、またひとりと並び出す。わたしはいつまでもこの男に構っている余裕はないのだ。男がレジの横から動きそうにないのが気になったが、意を決して次の客のカゴを引き寄せた。 
 次の客はわたしを二回りほど肥らせたような女性であった。彼女にとってみれば隣のレジとの間の通路は窮屈で、カバンの中の財布を捜すだけでも男に肘や腰をぶつけてしまっていた。横で男はまだ言い足らないという顔をしていたが、肘や腰をぶつけられるのに耐えられなくなったようで、ついに押し出されるかのようにしぶしぶレジから出て行った。
 横目で男の後ろ姿を見送り、その背中がだんだん遠くなっていくのを確認してわたしはフーッと息を吐いた。まだ胸はどきどきしていたが、これでやっと次の客のスキャンに取りかかることができた。
 男はまるで駄々をこねている子供のようだった。子供なら応対次第ですぐ機嫌を直すが、変に大人なところが扱いにくい。このスーパーには、時折ああした子供を大人にしたような客が現れるのだ。三日前にはアイスクリームを買った客に、ヨーグルト、プリン用のプラスチックスプーンを要求された。プラスチックスプーンは柔らかいものをすくうにはいいが、冷凍庫から出したばかりのアイスクリームをすくったりすると折れてしまうことが多いのだ。その旨を伝えたが客はひかなかった。へらの様な木のアイスクリーム用スプーンより、プラスチックスプーンのほうが高級だとでも思っているのだろうか。しかたなくプラスチックスプーンを渡したが、透明の薄いスプーンはたぶん最初にすくうところで折れるはずである。
 今日のレシートの男といい、三日前のアイスクリームの客といい、わがままな彼らはわたしの話を聞いてくれた試しがない。
「ありがとうございます、三、七五二円のお買い上げです。一、二四八円お返しです」
 レシート男を押し出してくれた客にかけた時間は一分四六秒だった。
 一息つく間もなく目の前に次の客が現れていた。その客は満杯になったカゴを乱暴に台の上に置いた。すると一番上にのっていた特売の卵パックが勢い余ってこちら側に滑り落ちてきたのである。とっさに受け止めようと手を伸ばしたが遅かった。パックはわたしの足下でガシャッと音をたてた。
 拾い上げるとパックの端の卵が二~三個割れていた。今日は災難日なのだろう。小さなため息がでた。
「お客様、割れておりますね。ただいま新しいものとお取り替え致しますので、少々お待ち下さい」
「早くしてよ。もう!」
 まるでこちらの手落ちだとでも言わんばかりの物言いである。わたしはすぐ卵担当者を呼び、新しいものと取り替える手筈をとった。
 すでに特売品のMサイズは売り切れていたらしく、担当者は代替え品として一ランク上のLサイズの卵を持ってきて客に渡した。客は何も言わず当たり前のように受け取りカゴに入れた。おそらくこれも特価のMサイズと思い込んでいるようだ。担当者はこの客に対して、これはLサイズでしかも特価ではないということを伝えなかったのだ。
 わたしはキーの上で指を止め、客の顔を見た。客は少しあごを突き出し、黒々とした鼻の穴を見せている。
 『価格変更』は簡単なキー操作だったが、どうしてもこの客に卵の値段を安くしてやる気になれなかった。わたしは一度はキーの上に持っていった指を、やはり素通りさせた。結果、この客がレシートを見て値段の違いに気づき、「あのレジが間違えた」と名指しで苦情が入ったとしてもである。  
 一般に「レジ」と呼ばれている職種は、正式にはチェッカーという。離婚と同時にこの仕事を始めたからそろそろ一年になる。年齢が四四歳にもなれば正社員での採用はそうそうみつからない。車で二十分ぐらいのところにあるこの職場も、採用条件はやはりパートであった。かつては休日ごとに家族で買い物していたこのスーパーで今、十二時から十六時まで働いている。
 最初難しそうに思えた機械の操作は一週間で一通りできた。半月で独り立ちし、研修期間二ヶ月を終える頃には前からいた人のようにこなせるようになっていた。いろんな仕事をしてきたが、こんな短期間で習熟できた仕事は他にあまり憶えがない。
「ありがとうございます。四、二六〇円ちょうだい致します」
 画面へこの客の買い物額を表示させると、客はぶっきらぼうにトレーに一万円札を置いた。
「一万円お預かりします」
 キャッシャーにすっとお金が吸い込まれ、お釣りが吐きだされる。
「先にお札五、〇〇〇円お返しです」
 さっきの卵でべたついた手でわたしはお札の端をつまんだ。客はそれに気づいたかどうかは分からないが、客に向かって愛想笑いしながら、「これはあなたの卵の黄身だから」と心のなかでつぶやいた。
「あと残り二四〇円とレシートのお返しです、お確かめください。ありがとうございました。どうぞまたお越しくださいませ」
 決まり通りレシートの上にお釣りを載せて手渡し、軽く体を傾けた。客はいつも十五度のお辞儀の中を無言で去っていく。
 ふと、爪の間に卵の黄身が入り込んでいるのが目に入った。とたんに背筋がざわざわっとして居ても立ってもいられなくなり、わたしは並んでいる客もおかまいなしに無理矢理「レジ休止中」の休止板を立て、レジから飛び出した。爪先が汚れるのだけは我慢できないのだ。客の文句が耳の端に聞こえたような気がしたが戻る気はなかった。
 どの通路を通り、どうやってドアを開け、いつたどり着いたか分からなかったが、気がつくとトイレでゴシゴシ手を洗っていた。何か動いたような気がして少し顔を上げると、店内クリーニングのオバさんがこちらを見ている姿が鏡に映っていた。わたしは振り返って八番レジの床の清掃を頼んだ。
 そのあと洗面台に目を戻し、もう一度備え付けの緑色の液体石けんをぎゅっと押し出した。黄身は爪の隙間まで染みこみなかなか取り除くことができない。業務用の石けんが独特の臭いを放っていて、しばらく消えそうにないように思えた。
 もちろん時間をはかる遊びも、卵の客のせいでゲームオーバーになったのは言うまでもない。やっと洗い流してレジに戻ると、サービスカウンターには八番レジに対する苦情が三件入っていた。
「あと一件名指しで苦情が入ったら、いったん総菜作りに回ってもらうわよ」
 その日の帰りがけ、チーフに呼び止められて言われた。

 次の日、わたしがタイムカードを通してサービスカウンターへ行くと、先輩チェッカーの柳川さんと石橋さんが連絡ノートを読んでいた。ここがチェッカーたちの指令所なのだ。
「おはようございます」とあいさつをしながら、柳川さんの横から今日の連絡ページを覗きこんだ。
 ――昨日、中村さん、三番レジ、誤差五〇円。
 中村さんの誤差が赤のペンで書かれていた。
 先日自分が誤差を出したときのことを思い出した。ノートには「谷水さん、八番レジ、誤差五〇〇円」と同じ文言が書かれていたが、たいして気にも止めずわたしは翌日普通に出勤した。その一〇分の一の金額なのに、中村さんという人は姿を現さないらしい。彼女の名前は連絡ノートや掲示版でときどき見かけたが、本人を見たことはない。勤務時間が全く違っていると同じチェッカー仲間でも一度も顔を合わさない人が多くいる。
 続けて今日の連絡ページを読んでいると、チーフが初めて見る若い女の子を連れて現れた。
「今日からここで働くことになった高木さんです」
 パート社員はよく入れ替わる。そのせいか「オレンジ」では年中パートの募集をしていた。何度見ても時給が上がっていることはなかったが、求人誌の毎号決まって後ろから三ページのところに記載されているのを知っている。 
 チーフが紹介する横でその子は無言で頭を下げた。こっちも軽く頭を下げて、それぞれが担当するレジへ向かった。今日のわたしの担当は一番レジだ。
「あの子時給いくらかな」
「新しく入る人から時給上がるってことないだろうね」
「なくはないね」
 レジへ向かう途中、柳川さんと石橋さんがそんな話をしたので、気になってしかたがなかった。今日は新しい求人誌が発行されているだろうから、帰りにもらっていくのを忘れてはならない。レジへ入ってすぐ手のひらに、ボールペンで「求人誌もらう」と書いた。
 一番レジの目の前は歯磨きやティッシュなどの生活雑貨コーナーだ。客が途切れたので有料レジ袋を整理しながらぼんやり正面を見ていると、ひとりの女性が夢中で歯ブラシを物色している姿が目に入った。わたしと同世代ぐらいに見える。女はいったい何にこだわって何を基準に歯ブラシを選んでいるのか、ピンクと青と黄色の三本を手にとり、代わる代わる見比べながら裏の説明書を読んでいる。確かに、たかが歯ブラシといえど細部にまでこだわりたい気持ちが分からなくはない。しかもすでにカゴに入っているジャガイモとほうれん草に見慣れた「無農薬」のマークが付いている。うちの冷蔵庫に入っているのと同じである。
「中村さん、辞めたんだって」
「やっぱり。誤差には耐えられないよね、彼女」
「完璧主義者なのよ、何にでも。入社して今まで一度も誤差を出したこと無かったんだって。すごいよね~」
 後ろのレジから柳川さんと石橋さんの話す声が聞こえてきた。いっぽう生活雑貨コーナーでは、女性は未だ歯ブラシを手放さないでいる。
「それにねあの人、食べるものも添加物がどうの、農薬がどうのってうるさいのなんのって」
「そんな細かいことにまでうるさいの?」
「それに子供にも絶対に間違いを許さないらしいよ」
「かわいそう。萎縮しちゃうんじゃない」
 ふたりの会話がいつの間にか誤差のことから無農薬野菜に移り、うるさい性格というところにまで及んでいた。いつも無農薬野菜を買っていることですら、下手にしゃべると人間性に悪影響を与えかねないのだ、と心した。
 と、そのときお尻に何かがあたった。――おやっ、と振り返ると、カゴを片づけるオジさんが真後ろに立っていた。
 スーパー「オレンジ」では三ヶ月前から、店内で客が買い物する際商品を入れる赤い「買い物用カゴ」と、精算し終わった商品を入れるための緑の「買い物済み用カゴ」とが分けられるようになっていた。未精算商品の店外持ち出しがあとを絶たないからで、それに伴い急遽導入されたオジさんなのだ。チェッカーが赤いカゴの中の商品をスキャンして、緑のカゴに移し替えていく。オジさんは、チェッカーが精算を済ませて横に退けた赤いカゴを引き上げ、緑のカゴを補充していた。
 オジさんはたくさんのカゴを、とても手際よく片づけていく。ただ、なぜかいつのときも、忙しくて客を流しているのに必死のときか、今みたいに何かに気を取られているときに気配を殺すようにやってくる。まるでどこかから様子を伺っているようである。
 そう言えばこのまえ、山畑さんがチーフに「オジさんにお尻を触られた」とすごい剣幕で文句を言っていたことがあった。チーフは「言っておくから」と山畑さんをなだめていたが、実際に注意をしたかどうかまでは聞いていない。もし注意を受けたらオジさんはすんなり態度を改めるのだろうか。オジさんの本当の関心は、お尻にあるのかカゴの整理にあるのかよく分からない。
 そのとき「レジ袋をくれ」と客の声がしたのでその客にレジ袋を渡した。そしてもう一度振り向くとオジさんの姿は消えていた。振り向きざまに焼きたてパンの匂いが鼻先をくすぐったから、きっとオジさんは午後の休憩に入ったのだな、と思った。
 三時ごろからは少し忙しくなった。レジの前を客がどんどん流れていた。こんなふうに絶え間なくレジを打ち続けていると、突然意味のない楽しさに襲われることがあるのだ。それはたいてい、レジを打っていて気力と体力が疲労の極限に達したときに現れる。心臓がどきどきし始め、体が軽くなって気分が浮き浮きしてくるのである。
 それがやってきた。一年前の離婚がちっぽけなことのように感じてきて、「ひとりでも楽しく生きていけるさ」と、レジを打ちながらつい笑みがこぼれだした。こうやってレジを打つのは天職で、行く先に広がっているのはどんな世界だろうと胸が膨らんできた。
 妙に楽しい気分のなかで、少しだけレジから顔をそらして客の列を見た。
 そこには一心にわたしの手元を見つめているいくつもの客の目があった。よく見ると彼らの視線はどの人間にも全く興味を示さず、スキャンしていくわたしの手元にのみ注がれていた。先の客のスキャンされていく商品をひとつひとつ穴が空くほど見つめ、早く、もっと早くと訴えているのである。
 野菜のバーコードが何度スキャンしても通らなかった。ふいに客が小さく舌打ちする。突然わたしの手先がむずがゆくなって、すぐに体全体にまで及んでいく。どこの誰とも分からない客の視線や、こんな小さな舌打ちがいつも、浮き浮きとした気分を目の前のレジに引き戻すのだ。そうするとさっきまでの細やかで弱々しい幸せはするするっと消えていき、今度は代わりに一刻も早くレジから解放されたいという気持ちがこみ上げてくる。
 ――そうだこっちが現実なんだ。
「谷水さん、お疲れ様」
 声をかけられハッと気がついた。
 仕事を終え買い物を済ませた石橋さんがレジに並んでいたのだ。石橋さんはいつも十五時にあがる。とっさに画面の隅に表示されている小さな時計を見ると、契約時間の一六時まではあと三十分だった。それを見てレジに縛られている苦痛が少し和らいだ。
「にんじんとヨーグルトと挽肉が安いわよ」
 彼女のカゴには多量の魚や菓子類のほか、にんじんが十本と、大きいサイズのヨーグルトが六個、三百グラムの挽肉が四パック入っていた。それになぜか昨日特売だった卵が五パックも入れられている。
 卵パックは思いがけず滑り落ちてくることがあったので、気をつけて緑カゴに移し替えなければならなかった。挽肉は四つともなんのために押さえたのか分からないへこんだ指のあとがあって、そのうちひとつは小さく破れてほんの少し挽肉がはみ出している。
「またたくさん買ったのね」
「ふふ。うちは大家族だからどれだけあっても足らないわ。卵なんて昨日のうちに買って鮮魚さんの冷蔵庫に入れさせてもらってたのよ」
「大家族かあ、にぎやかそうね……。あ、八、九七二円ちょうだいします」
 金額を告げると石橋さんが千円札を九枚、せわしげにトレーの上に置いた。お札はカサカサと音をたてて飛んでいきそうなしわくちゃで、また気が滅入ってしまった。石橋さんに見られないようお札のしわを何度も伸ばし、キャッシャーに入れた。
「二八円のお返しです。お疲れ様でした」
 おつりを渡すとき触れた石橋さんの手はごわごわと硬く、ところどころに赤く荒れたひび割れができていた。彼女はそんな手を自慢げに広げておつりを受け取った。
「お先にぃ。にんじんとヨーグルトと挽肉よ」
 それから彼女は今日の特価品を復唱して、レジをあとにした。
 わたしも仕事が終わると帰りにスーパー「オレンジ」で買い物をする。今度は客になるのだ。石橋さんの言うとおり、ヨーグルトと挽肉は買ったが、にんじんは買わなかった。長持ちするのをいいことに冷蔵庫に放置してしまい、前もその前も結局腐らせてしまったからだ。ヨーグルトは日持ちしないので一個が限度である。ただ挽肉は冷凍しておけばいいので三百グラムのものを石橋さんと同じく四パック買った。なるべく脂肪分の少ないものを選んで買った。
 夕方なのでどのレジにも行列ができている。一番レジと、三番レジが比較的客が少ない。レジに並んでいる客の買い物商品の量を見比べ、迷ったあげく一番レジに並んだ。
 さっきまでわたしが入っていた一番レジにいたのは柳川さんだった。彼女は淡々と商品をスキャンし、スムーズに客を流していた。隣は山畑さんでその隣のレジにはチーフも入っていた。みんなが一様に決まった動作を繰り返していて、客の列はどれも計ったように流れている。チェッカーたちはみな機械になっているのかも知れない。たまにふと顔を上げる動きを見せたがそれは個々の機械の持つ微細な癖のようなものに見える。もちろん自分も、さっきまではそんな様子だったに違いない。
「いらっしゃいませ」
 柳川さんにマニュアル通りの挨拶をされた。一般客と思い込んでいるようだ。
 彼女がわたしのカゴを引き寄せスキャンし始めた。カゴの中の商品を手際よくさばいていく。チェッカー検定一級の彼女は、他の誰が商品をスキャンするよりもずっと早い。あっという間に作業を終えた。
「一、五三八円ちょうだいします」
 彼女はこちらを向くことはなく、視線をチェッカー側の画面からキャッシャー側の画面へスッと切り替えた。そしてトレーに置いた五千円札をすかさず機械に投入した。キャッシャーがカシャカシャと音をたてる。
 いつだったかお金を詰まらせてエラーをだしたとき、社員の西村さんがやってきて機械を開けたことがあった。レジ下は全て、繊細そうなそれでいて無感動そうな装置で埋まっていた。ひととおりチェックを終えて試しに西村さんが千円札を通すと、目にもとまらないスピードでお札は消えた。こんな狭いところをあんな早さでお金は巡っていくのだと感心した。
「先に三千円お返しです」
 差し出されたのはしわくちゃの千円札だった。それを見てこれは間違いなくさっき石橋さんから受け取ったものだと思った。前に受け取ったお金はこうして何人かあとにおつりとして排出されてくるときがある。
「残り硬貨四六二円とレシートになります」
 そう言ってわたしの手のひらにお釣りとレシートを置いてきたにも関わらず、柳川さんにはとうとう気づいてもらうことはなかった。

 家に着いて庭に車を停めると、二階の窓越しにこちらを見ている猫のハナと目が合った。
 玄関の表札は今も、家族四人の名前がそのまま並んでいる。この家は祖母が亡くなり空き家になっていたのを、夫とふたりでリフォームしたものだった。日本家屋風に仕上げたいという夫の希望を無視して、わたし好みの洋風に仕上げた。
 ここに住んで十九年と三ヶ月だから、ハナとの暮らしももう十九年と二ヶ月ということになる。家の外観はすでに流行遅れになり、ハナはオムツを付けるようになっていた。
 ハナは、結婚して間もないころ夫が会社の上司と飲みに行った帰りに拾ってきた猫だ。わたしより一回り大きい夫の手のひらの中で、白い綿毛の猫は必死の形相でニャーニャーと鳴いていた。猫と言えばトラ猫しか見たことがなかったので、真っ白で頭としっぽだけが黒い猫は初めてだった。ハナは顔ものっぺりしていて、よく見ると眉毛のないマヌケな顔をしていたのだ。
「ブサイクな猫」
 思わず吹き出してしまい、それが飼うきっかけになった。「ハナ」と名前をつけたのも夫である。当時人気のあった連ドラの主人公の名前で、夫がその女優さんが好きだったという単純な理由だった。
 家へ入りリビングのドアを開けると、すでにハナは一階に降りてきていた。脚にまとわりついて何かをせがんできたが、立ちっぱなしの仕事のせいで膝下は砂袋をぶらさげているように重い。とてもハナにかまけてやる心境ではなかった。すぐにソファに体と荷物を投げ出し、食卓代わりのセンターテーブルに脚を放り上げた。
 ふーっと息を吐いて見上げると、夫が吸っていた煙草のせいでうっすらとヤニに染まった天井があった。そこからふたつ、ねじ穴が見下ろしているのに気づいた。模様替えで照明の位置を変えたときのものだと思い出した。
 ずいぶんお腹がすいていた。なにか作らないといけないと目をやると、台所が遠くに感じ体はなかなか動こうとしなかった。とりあえず生ものだけはしまおうと重い体と脚をひきずって冷蔵庫に行った。中では先週の安売りのとき買ったヨーグルトが二個並んでいた。 そのヨーグルトを端に追いやって、今日買ってきたヨーグルトと挽肉のパック一つを押し込み、残りの三パックは冷凍庫に入れた。冷凍庫の隅の方には固めたオレンジジュースを入れたコップがころがっていた。
 この家へわたしとハナだけを残し、夫は子供二人を連れて去っていった。義父が亡くなって稼業を継ぐのに郷里に戻ったのである。娘は高校を、息子は中学校を転校させてまで連れて行ったが、どうしてもわたしはついて行く気にならなかった。稼業はレンコン栽培である。
 義父が死んで初七日に参列した次の日のことだった。
「強くこするなよ。タワシでちょっと傷をつけただけでも売り物にならなくなるからな」
 昼間なのに薄暗い納屋の中で、沼田から掘り上げたばかりのレンコンを洗い桶の中に入れながら夫が言った。わたしがレンコンを洗うのはそのときが初めてだった。
 粒子の細かいまるで粘土のような泥は、わたしの住んでいるところの土とは全く異質のものだった。土質というものが、土地によってこうも変わるというのが信じられなかった。それは初めて見る色で、初めて嗅ぐ臭いをしていたのだ。
「おまえ、爪は短く切ってあるだろうな。ひっかき傷も厳禁だぞ」
 夫が言う横で、レンコンを洗うたびに泥がわたしの爪と指の間に入り込んできた。レンコンを握って指先に力を入れると泥は少しだけ爪の先から押し出されたが、洗い始めるとまた入り込んでくる。泥が指先をしつこく圧迫してくるのがたまらなく嫌だった。
 洗濯物がたまっていても、観葉植物が干上がっていても、ハナが壁で爪を研いでも、子供たちが家の中で騒いでいても、夫の帰りが遅くても気にならなかったのに、爪先の汚れにはこれほどまでも敏感であるのに気づいたのはこのときだ。そのうち吐き気をもよおしてきて、どうしてわたしがレンコンを洗わなければいけないのか理解ができなくなってきた。
 そんなとき夫と姑がわたしに、この土地でレンコン栽培をするようにと言ったのだ。それを拒否すると夫は「どうしてできないんだ」と、問い正してきた。 
 潮っぽくカビ臭い洗い桶の中で、小さな泥の粒子がわたしの指先をどす黒く染めている。
 さらに姑が「泥がどうした!」と畳みかけてきた。普段白い爪先は、爪がはがれ落ちてしまうのではないかと思うほど泥が詰まって黒々としていた。黙って洗い桶の中から手を出し、それを夫と姑の前にかざした。
「爪の中に泥が……」
 すると夫は「お前には絶望した」とびっくりするような大声で言った。そばにいた姑が、「息子を愛していないのか!」と責めたててきたのにも驚いた。
「絶望」だの「愛してない」だの言われて困惑した。同時に、知らない土地の土とその泥が爪の間に入り込むとこんなに手が汚れるのかと参ってしまった。
 横でハナが小さく鳴いて爪をたて、ソファの生地を引っかけプチンと音をさせた。その音さえが大きく響き渡る。人間ひとりと一匹ぐらいなら簡単に部屋の底に沈んでいってしまいそうな気がしてきた。
 ――この家は少し大きすぎる。
 がらんとした部屋を見て、ときどき自分自身を食べさせていけるのか不安になるときがある。先頃今の職場はパートの雇用形態が変わって、一日四時間までで月に二〇日までしか働けなくなった。かといって半年前のように職場の掛け持ちをすれば、また体調を崩して病院通いをするはめになるだろう。あのときはかえって生活が苦しくなったものだ。
 レジの仕事をする前は、ゆがんでいたり引きつっていたりする服や、すぐ持ち手が取れてしまうバッグを作って、子供たちに着せたり持たせたりするのがわたしの仕事だと自負していた。小さいうちは喜んで身につけてくれた子供たちも、小学校の四年生ぐらいになると可愛いキャラクターを好むようになり、母親の手作りなど見向きもしなくなった。それでも日長一日、家の南西の一番居心地のいい部屋でそんなものを作り続けていたものだ。
 つまりそれまで専業主婦だったせいだろう、長い時間職場で働く癖がついていないのだ。どのみちこれ以上働けないのが定めなのだとあきらめた。
 自分ひとり食べさせるのさえこんなに大変なのに、以前の夫は家族四人を食べさせていた。これは尊敬に値することだ。あのころこの尊敬の気持ちが少しでもあったなら、離婚することはなかったかも知れない。夫が朝ご飯も食べず仕事に出かけていく後ろ姿が少しだけ頭をよぎって、すぐに消えた。たまの休みもみんなに振り回されていた夫の疲れた顔が、頭のどこかに澱のように残っていた。
 そんな夫とは違いわたしは、スーパー公休日の朝は目覚めてすぐ布団から出ることはしない。枕元にクマの形の目覚まし時計、電池の切れた婦人体温計、願い事成就のお守り、それと毎晩読む何かしらの小説があるベッドで、長いときは二時間近くも過ごすのだ。
 時計は何度合わせてもいつの間にか五分進んでいた。婦人体温計は電池が切れ、お守りは去年神社に返し忘れているものだ。昨夜読んだチェーホフの戯曲の、「今まで片目ををつぶって世の中を見てたんだわ、と私は思う」というくだりがまだ頭の隅に残っている。
 羽毛の掛け布団を棒状にまとめ、腕を回し、同時に腿と腿ではさんだ。猫が日向ぼっこをしたあとのような匂いのする布団を抱くのはとても心地よかった。ベッドは家の中でどこにも勝るすばらしいスペースなのだ。
 開けたままにしてある裏庭側の二階の寝室の窓の外から、田へ水を引く用水の音と雀のさえずりが聞こえている。――ああこれが休日なのだな、と布団を抱いたまま寝返りをした。すると足下でハナがぎゅーっと伸びをしてわたしの脚を押し返した。寝返りをした拍子に目覚めたようだ。ハナが起きたのでいったんベッドから出ることにした。
 階段を降りていく途中でハナがわたしを追い越していった。先に台所に行ってエサの皿の前で待つのが癖なのだ。ハナはエサを入れてやるまで、それはそれはしつこく鳴いてせがむ。
 四個入りパックの猫缶の一缶が一食分と決めている。スプーンでちょっとほぐして入れてやると、ハナは脇目も振らず食べ出した。この間にオムツ交換してやるとハナはあまり抵抗しない。一日はいつもこのハナの食事とオムツ交換から始まる。離婚して得たものは孤独だが自由な時間であり、反対に失くしたものは友達とお茶でも飲みながら、子供と夫の愚痴を引け目なく話せる生活だろう。
 インスタントコーヒーに砂糖と牛乳を入れ、賞味期限が切れて三日目のパンを一枚焼いた。少し酸っぱい臭いがしたが食べられないことはなかった。
 パンを食べ終えてからコーヒーの入ったマグカップを片手に洗濯機を回した。昨日からたまっていたのを合わせてもひとり分は一回まわせば終わってしまう。洗濯機が止まるまでは約四十分あるので、また二階へ上がっていってベッドに入った。
 ベッドに入ったら、もう一つ失くしたものがあったのに気づいた。寝室にかかっていたカーテンである。我が家で一番高価なカーテンで、夫がはずして持っていったのだ。それは天井近くから床までの長さの、たっぷりとヒダの入った色白の肌のような色のカーテンだった。夏は涼しげに冬は暖かく感じそうだと夫が買ったもので、色に似つかわしいさわさわっとした感触は人肌のようだった。
 あれが失くなって寝室はずいぶん貧相になったが、圧迫感がなくなったのもまた事実である。そのまま一年も放ったらかしにしている窓からはちょうど、青い葉を付けた栗の枝と、だらりと電線を下げた電信柱が見えていた。
 その電信柱にカラスが一羽やってきて、先端にとまって鳴きだした。すると二本向こうの電信柱でもカラスが鳴いた。喉を丸くして穏やかに片方が鳴くと、同じように喉を丸くしてもう片方がそれに答えている。
 五分遅れの時計が、風のない昼前の静かな枕元でカチカチと時間を刻んでいた。刻んでいる音に洗濯機の止まった音が混じった。すぐ降りていって洗濯物を干そうと思ったが、もうしばらくカラスの鳴き声を聞いていることにした。二羽のカラスは飽きもせず語り続けて飛び立っていく気配はない。きっと二羽は夫婦なのだ。
 カラスの夫婦はいつも何について語り合っているのだろうか。今日のエサのことか、それとも子供のことか。まさか遠い故郷へついて行くかどうかや、レンコン栽培を手伝わないのを責め合っているわけではあるまい。隣同士の電信柱にいながら、どちらも譲るあてのない話し合いに疲れ果て、お互いが別々の方向へ飛んで行くことにならなければいいが、と思った。
 考えながらベッドに寝っ転がって本棚の本を物色していると、ガサガサという音をさせてハナがベッドに上ってきた。体を起こし、オムツが半分ずり落ちそうになっているハナを抱いてベッドから下りた。そして本棚の前で三冊を手に取り、その中から知り合いから借りっぱなしになっている「シーシュポスの神話」を選んで読むことにした。
 短編だったその物語は、シーシュポスの思い上がった行動に怒った神が、彼に大岩を山頂に押し上げさせる罰を与える話だった。難所を越してシーシュポスが安堵したのもつかの間、大岩は跳ね返ってまっさかさまに転がり落ちていくのだ。いつになっても終わることのない、苦悩の繰り返しが描かれていることに引き込まれた。ただシーシュポスほど思い上がった人間であれば、神から罰を与えられることにどうして抵抗しなかったのかよく分からなかった。結局その日、その物語を三回読んだ。  
 その夜、三日ぶりにじんましんに悩まされた。レジの仕事を始めたのと同時期ぐらいに始まったもので起こるのはたいてい夜中である。昼間仕事に気を取られていると忘れている程度のもので、辛抱しているうちに眠ってしまうときもあったが、今夜のかゆみはキツくてなかなか寝付けなかった。明日もまた忙しくなるだろうから眠っておかないといけないと思い、医者からもらっているかゆみ止めを飲むことにした。
 薬を飲みに暗い一階へ降りていくと、ソファーで丸くなって眠っているハナの姿が白くぼんやり浮かんでいた。今夜は足下が軽いと思ったらハナはここで眠っていたのだ。今までなら足音に気づいて目を覚ましたのに、ぐっすりと眠っていて起きる気配がなかった。もしかすると耳が遠くなってきているのだろうか。猫の十九歳は人間に換算すると九二歳ぐらいになるらしい。九二歳といえば祖母が亡くなった歳と同じだから、ハナの寿命もあとわずかでもおかしくはない。
 ついでにトイレに寄った。用を足してドアを閉めると月明かりがドアの隙間に見えた。二階へ上がっていく途中で一ヶ所、階段がパシッときしんだ。近頃そんなきしみがよく走る。
 再びベッドに入って思い浮かべた。ハナの寿命のこと、トイレのドアのこと、階段のきしみのこと、じんましんのこと。シーシュポスが押し上げる大岩のことと、レジに延々と並ぶ客の列のこと、そして今どうしてハナとここに残されているのかを……。ふいに爪の先に泥が詰まる感覚がよみがえり、指先がむずむずしだした。
 いつもならすぐに眠くなってくるはずなのに、その夜のかゆみ止めはなかなか効いてこなかった。

 スーパー「オレンジ」の木曜日の朝は早い。シルバーデーだからである。年配の人の朝が早いのに合わせて、一時間早く店が開いた。店の前にはすでに、手押し車でやってきたおばあさんや、自転車できたおじいさんたちが、スーパーの庭に巣くった蟻のようにゾロゾロと集まっていた。今日は二番レジである。
 今日は六五歳以上の客は一〇パーセントオフで買い物できる。その際年齢を証明する免許証か保険証を提示してもらうことになっていた。しかしこれはあくまでも自己申告が鉄則で、こちらからは働きかけることはしないことになっている。
 隣の三番レジは、この春からアルバイトを始めた大学生の山口さんが入っていた。
 開店して三〇分ぐらいしたころ、ひとりの年配女性客が三番レジに並んだ。山口さんがその女性に尋ねた。
「免許証か保険証はお持ちですか」
 わたしは――あっ、と思ったがすでに遅かった。
「え、どうして?」
 女性客は山口さんの顔を見て怪訝そうに聞き返す。
「今日はシルバーデーですので、六五歳以上の方は一〇パーセント引かせていただいてます」
 横目でそっと伺ってみると、財布を開きかけていた女性客の手がピタリと止まって、甲を少し筋だせた。かたや山口さんはなおも微笑みをたたえてツヤツヤの頬を見せている。女性客の形相がだんだん険しくなってくるのにまるで気づいていないのだ。
「ちょっと、あなた!」
「はい?」
 女性客はヴィトンまがいのバッグをすごい勢いでかき回すと、中から免許証を取り出して山口さんに突きつけた。
「店長を呼びなさい、店長を!」
 怒りをあらわにしたすさまじい声である。わたしのレジに並んでいた客までが、一斉にそちらを振り向いた。
「ワタクシのどこが六五歳以上なの?」
 女性客は、しばらくして駆けつけた店長にも免許証を突きつけた。ちょっと薄めの前髪を手で払いのけ、口をぐっと突き出してにらみつけている。唇の先だけにちょこんとのったワインカラーの口紅がどうにも滑稽だ。
「え、いやそんなとんでもない。お若いですよ。このたびはうちの者がとんだ失礼を……」 店長は謝りながら「ほら君、きちんと謝りなさい」と、横で突っ立ったままの山口さんを肘で突っついた。
「申し訳ございません」
 山口さんの出した声は、女性客の声よりトーンが高くて数倍も可愛らしい。謝りながら茶色い髪の毛を揺らして、その女性客に向け何度も四五度のお辞儀を繰り返す。
「二度と来ませんからね!」
 顔を真っ赤にした女性客は捨てゼリフを吐き、カゴを床に投げ捨てて店を出ていった。そのカゴをどこかで見ていたのか、オジさんがさっとやってきて片づけるのが見えた。
 免許証の誕生日から逆算したところによると、彼女は六三歳だったらしい。わたしやその女性客には一歳二歳が一大事であるが、若い山口さんから見れば年齢のひとつやふたつなどどうでもいいのだろう。
 その女性客は確かに六五歳以上に見えたが、彼女の鏡台にはまだ美しく化粧した若い頃の姿が映っているのに違いない。あれからもう幾年も経っていることを知らずにいるのである。
 その日の午後レジチーフから全員に、年齢チェックはこちらからは絶対しないという鉄則が、再度言い渡された。

 翌日の金曜日は「子育てママの日」だった。中学生以下の子供がいるママには千円買い物するごとに五〇円の割引券が渡される。ママの日はまたシルバーデーと違った気苦労があった。ママであるのを証明するものが特にないのである。仮にママと分かっても、中学生以下の子供がいるママかどうかの見極めが六五歳以上かどうかより難しい。それこそその客が何歳の子供を連れているかを、辺りを見て確かめるしかないのだ。
 券を求めレジにはまた朝から長い列ができていた。今日の担当は真ん中あたりの五番レジだ。
 左前方から、商品を山積みにしたカゴをカートにのせた客が歩いてきたのは一〇時前だった。カートの前で双子らしい男の子と女の子がはしゃいでいるからその母親に間違いない。母親はときどき子供たちを注意しながら前を通り過ぎていった。
「お弁当のお箸は何膳おつけ致しましょうか?」
「三膳ください。あとレジ袋も」
 今日は朝からトラブルもなく、どのレジも順調である。後ろの四番レジからは歯切れのよいやりとりが聞こえてきている。わたしもまたひとりレジを済ませた客に十五度のお辞儀をして見送った。
 何度めかのお辞儀をして顔を上げると、台の上にはなにもなかった。まさにこの瞬間の、客が流れたあとの真っ白な台の上が、わたしは一番好きなのだ。店の中のどこよりもすばらしくそしてすがすがしい。さらに台の上はダスターで丁寧に拭き上げると、蛍光灯の灯りが反射してまるでネオンサインのように輝くのである。
 そのときさっき通り過ぎたはずの子供連れの母親が、カートをひきかえしてわたしのレジへ入ってきた。そして真っ白な台の上へ山積みのカゴを勢いよく置いた。
 置いた衝撃で商品が三つ四つ床にこぼれ落ちたが、彼女はそれを拾い山に積まれた商品のほんの少しの隙間をみつけてぎゅっと押し添えた。加えてレジ脇のお菓子の袋を二つばかりを手に取り、崩れそうな山の上に置いてバランスを取る。それから『レジ袋』と書かれた札を差し出し指を三本立てた。買い物袋も持っていないのだ。
 目の前では子供たちが騒いでいた。今にもくずれ落ちそうになった商品は、まるで手品でも見せられているかのように、胸の高さにまで積み上げられている。なぜこの客は二つのカゴに分けてこないのか。きっとひどくズボラな性格に違いない。いらだちの中でその姿をじっくり観察したい衝動にかられ、目が合うのを覚悟で彼女に目をやってみた。
 だが彼女の視線はこちらにも、子供にも、自分が山積みにしたカゴにも向けられていなかった。ただぼんやりと、隣のレジ前にあるガムの棚や向こうに見える惣菜コーナー、それにここからは死角になっている肉コーナーを見ているだけだ。これほど買っているにもかかわらず、彼女はまだ何か買い足りないようだ。
 あまりの不安定さに置かれたカゴには触れられず、まずは山のてっぺんからそっとスキャンするしかなかった。およそ一〇個の商品をスキャンし終わり、山の上の部分を取り除いてからやっとカゴをゆっくり手前に引くことができた。
 お菓子に続いて牛乳をスキャンすると、下からひしゃげた食パンが現れた。その下には洗剤があった。さらに進むと挽肉のパックのあと、「揚げたて」のシールが付いたコロッケが現れ、次にビールと犬のエサが現れた。手当たり次第、衝動的に放り込んだに違いない。こんなカゴにはいつも反感を覚えるのだ。こういうカゴを差し出す人間は、他人の気持ちを察することができないはずなのだ。
 ――泥がどうした!
 ふと瞼にレンコン洗いのときの姑の顔がよみがえった気がした。きっと姑の買い物カゴもこんなのなんだろう。
 こういう人間にはこちらの気持ちを伝えてやるしかない。精算後の緑カゴも二つに分けずにひとつに山積みにしてやることにしよう、と考えた。彼女がしてきたように食パンの上に気にせず洗剤を置き、揚げたてのコロッケの次に挽肉を置いて、山ができたあたりから、バランスをとるように慎重に商品を盛っていけばいい。
 いつもより時間をかけ、最後に犬のエサをてっぺんに置いてスキャンを終えた。胸元までの商品の山を作ってその客に差し出すと、わたしの気持ちは少しおさまった。
「八、一五三円ちょうだい致します」
 あれほど手間をかけて作った山の値段は意外にも安いのが少し悔しかったが、それからわたしはすぐにいつものへりくだった口調に戻って、
「ありがとうございます、またお越し下さいませ」
 と言い、レジ袋三枚と五〇円の割引券を八枚手渡した。
 客は無言で受け取り、カートをお腹で押しながら山積みのカゴを一番近くのサッカー台へ運んでいった。母親の周りにまとわりつく子供たちはまるでハエのようで、母親がうっとうしそうに払いのけると、いったんはパッと散ったがまたすぐ寄っていった。その繰り返しがいつまでも続いていた。

 オムツをしているハナは下半身をよく汚ごす。毎回ではないものの、オムツ交換のとき風呂場の流しで洗ってやらねばならなかった。
 猫という生き物は元来、体を濡らすのがとても嫌いな質で、まるで殺されるとでも言わんばかりに泣き叫ぶ。逃げ出さないよう閉めきった風呂場では、その声が反響して耳栓が欲しくなるほどだった。こうなると一刻も早く解放されたいのはハナよりこっちのほうで、洗うのもそこそこにざっと流して終わることになる。
 ハナを抱いて脱衣所に出ると、ふとハナの下腹部が目に入った。オムツでこすれ幾分薄くなった毛の下に、かすかな傷あとが残っている。ハナが初めて迎える発情期を前に、避妊手術をした痕だった。
 子供のころ、我が家でも猫を飼っていた記憶がある。白地の毛に茶色と黒が入ったメス猫だった。当時は今みたいに避妊手術などすることはなかったから、毎年何回か子猫が産まれたものだ。
 両親はそのたびに母猫をエサでおびきよせ、子猫から離れた隙を見計らって子猫だけを箱に入れ、どこかへ捨ててくるのだった。だからわたしが子猫と接していられるのはほんの一週間ほどで、学校から帰ってくると子猫はいきなりいなくなっていた。それが不思議で、そのたびに子猫はどこへ行ったのかと聞いたものだ。
「オス猫が食べてしまったんだよ」
 いつもそれが両親の答えだったが、あれは本当のことだったのだろうか。もしも本当なら……。ガッと歯を立てられたときの子猫の痛みはどれほどだったろうか。だいいち、オス猫はいったいどんな顔をして子猫を頬ばったのだろうか。
 そんなことがあったので、ハナには一度も子供を産ませていない。もちろん妊娠もしたことがないのは言うまでもない。
 ハナはあの痛みや、その前にある妊娠初期の食べ物を受け付けない体や、だんだんお腹が出てきて、徐々に自分の体が自分のものでなくなっていくあの不安を知らないのだ。
 わたしの一回目の妊娠のときだった。
「お産って痛い?」
 と聞くと、
「ああ、気が遠のくほど痛いねえ」
 台所で洗い物をしていた母が向こうむきのままなんの感情も見せずに答えた。振り向きもしない母のさらっとした言い様が食器のぶつかる音や蛇口から流れ出る水の音に混じって、かえって恐ろしさを強めさせた。そのあと、自分のお腹をつねってみて母の言う痛みを体験しようと考えた。少しつねって「ああ、お産はこんなもんじゃないだろう」と思い、今度はもっと力を入れてつねってみた。しかしアザになるほどつねってもその痛みというものはよく分からなかった。お産という大変なことに脚を突っこんでしまい、取り返しがつかなくなってしまったような気がした。
 うつむいても爪先が見えないほど出っ張ったお腹を見て、――しかしこれを体から出すには、もう産むしか方法はない、と、不安げにお腹に手をあてたとき、ちょうどそこがぐにゅっと動いたのだ。
 本能はうまくできている。この予測もしない動きが妊娠の喜びを抱かせて、気持ちを修正させたのだ。このおかげで、これから産まれてくる子供との世界が素敵なものに思えてきて、産みへの不安はだんだんなりをひそめていったのである。ただ母の言った、とんでもない痛みを実感するのはお産に直面してからだった。
 お産のあと夫が「どれぐらい痛いの?」とわたしに聞いてきた。
「すっごい下痢でお腹が痛くて、内臓が飛び出しそうなこと、なかった?」
「あった、あった。オレ子供のころ夏にスイカ食べ過ぎて、三回ぐらいトイレにかけ込んだんだ。あの痛みを味わってからスイカ大嫌いになったんだ」
 産後まだぺしゃんこにならないわたしのお腹を見ながら夫が言った。そして「お前はスイカが大好きでよく買ってきたけどな」と付け加えた。そう言えば、何度スイカを買ってきても夫は一口も食べなかった。
「その痛みが産まれるまで何時間も続くのよ。終いのほうは喰い殺されそうになって、もうたまらない」
 夫の顔がこちらを見て恐ろしそうに歪んでいた。「でもねえ……」
 わたしは言いかけて、少し顔をほころばせて言葉を止めた。一刻も早く逃れたいほどの痛みが、実はそのあとに大きな喜びをもたらすということを夫に伝えたかったのだ。
「ひえ~、オレ男でよかった。そんなの想像するだけでも身震いするよ」
 とっさに夫はその言葉を打ち消し逃げ出していった。ふと夫の後ろ姿が遠い人のように見えた。もしかするとそのときすでにふたりの間には、何か気づかない溝ができていたのかも知れない。
 脱衣所の床に座り込んで、ハナの背中を拭きながらハナに言った。
「なあおまえ、あの痛みに遭わなくてよかったぞ」
 ハナの毛はしっかり水を吸っていて、タオルはすぐベタベタになった。タオルを新しいものに変えて、今度はお腹のほうを拭いた。しっかり水を吸い込んでいるハナのお腹を見て思った。しかし、あの痛みのあとに訪れる喜びはなにものにも代え難い。
「うん、子供を産んで育ててみるのもいいか」
 と、拭きながらつぶやいて、すぐまた考え直した。
 ――でも途中でいなくなってしまうより、最初からいないほうがいいか。
 オス猫が食べてしまった子猫の姿が浮かんだ。いったいあのメス猫はなんのために何度も子猫を産んだのだろう。そしてオス猫はどうして子猫を食べなければならなかったのだろうか。そのあと夫が四国へ連れて行ってしまった二人の子供のことに思いが及んだが、それは強引に押さえ込んだ。
 まだ濡れていたハナの体にドライヤーをあてると、とんでもなく暴れだした。それを押さえつけて熱風をあてるのはほとんど格闘だった。ついには手を咬まれ、ひるんだ隙にハナに逃げられてしまった。
 脱衣所から逃げだした濡れた足跡を廊下の先にたどっていくと、ハナは空き部屋になった息子の圭介の部屋でせわしなく体を舐めていた。窓からの陽がさんさんと降りそそぎ、その中で半乾きの白い綿毛が動きながら光っていた。
 ドアを向かい合わせにした反対側が娘の智香の部屋である。男の子を東側に、女の子を南側にと割り当てたのもわたしだ。ふたりとも不要なものを置いて出ていったから、圭介の部屋には読み終えた雑誌、ゲームソフトの空箱、電池のきれた電車と線路などが散乱している。智香の部屋にはゲームセンターで取った多数のぬいぐるみ、幼稚っぽい文房具、卒業作品のオルゴールなどがきちんとカラーボックスに並べられていて、クローゼットには着なくなった服がいくつもかけられていた。
 子供たちがまだ家にいたころ、わたしは月に一度か二度はこの部屋を片づけるよう言ったものだ。部屋を片づけなさい、と言うと決まって「台所に洗い物が山のようだったからわたしが洗っておいたよ」と、智香から切り替えされた。
 今の台所を思い浮かべた。今日も流しには食器が山積みのままである。ふと頭の中に、スーパーで山積みの買い物をしていたズボラな母親の姿がよぎった。
 まだ子供が小さかったころ、ああやって買い物に出かけたものだ。どこにいってしまうか分からない圭介をカートに乗せ、「ここから離れないようにね」と言えばどこにも行かない智香を横に歩かせて買い物をした。子供たちに気をとられているから、つい目についた商品を無造作にカゴに放り込むだけになる。家に帰って袋から出してみるとたいてい二つか三つ、ひどいときには半数も、なぜこれを買ったのか自分でも分からないものが入っていた。買い物を終えて帰っていったあの客の姿が、なんとなく自分と重なるような気がした。
 圭介はいつもテレビゲームに夢中で、何を言っても適当に流すだけだった。食事かトイレぐらいのときしかテレビの前を離れず、激しく瞬く画面をよくあれほど見続けていられるものだと呆れたものだった。今もテレビの下の棚には、お菓子の空き箱に流行遅れのゲームソフトが放り込まれたままである。
 智香はいつもゲームの音がするリビングのセンターテーブルで絵を描いていた。二四色入りの色鉛筆をふたに書かれた通りの色順にきっちりと並べ、丸くなった色鉛筆の先は鉛
筆削りでその都度削っていた。自分の性格が息子の圭介に、夫の性格が娘の智香に受け継がれたように思える。
 そんなことを考えているうち子供たちと話がしたくなり、つい受話器をとりプッシュボタンを押した。
 電話口に出たのは息子の圭介だった。
「元気?」
「あー、うん。元気」
 何かのゲームに興じているらしく後ろでにぎやかな音楽がしている。初めて聞くゲームのメロディだ。
「新しいソフト買ってもらったの?」
「うん」
「よかったじゃない。おもしろい?」
「うん」
 耳と肩で子機を挟んでゲームをしながら電話をしているのか、ときどき近くでカチカチとコントローラーを動かす音が聞こえている。きっと今もソフトで散らかり放題のテレビの前に座っているのだろう。ゲーム画面の赤や青や黄色の光が反射している圭介の顔が昨日のことのように目に浮かぶ。
「あのね、ママね……」
 と、切り出した。ハナがオムツをし始めたことやレシートとお釣りを別々に渡せと言った客のこと、それにシルバーデーの騒ぎや山積みの買い物をした母親のことなど、圭介が聞きたいことでもないのは分かっていたが、身の周りで起きた出来事をとにかく聞いて欲しかった。
 するといきなり受話器の向こうでバーンと何かの爆発音が聞こえ、同時に「あーっ!」と叫ぶ圭介の声が重なった。「しかたがないなあ。ママの話聞いてるの?」そう言おうとしたとき、
「ほらー、ちゃんと見てないからー。ゲームオーバーだよ」
 と、突然受話器の向こうで女の声がしたのだ。一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「だって電話がかかってきたんだもの。チェッ、せっかくここまで進めたのにー」
 女の声に合わせて受話器から顔を逸したらしい圭介の声が少し遠くに聞こえ、
「あっ、パパなら今いないから。じゃあ」
 と、思い出したように声が戻ってそれっきりになった。
「ケイスケ?」
 電話はツーツーという不通音に切り変わっていて返答はなかった。それでもわたしはしばらく受話器を耳にあて続けた。受話器から流れる不通音の中に、圭介の声とともにまたあの女の声が混じるような気がしたのだ。
 そうして不通音を聞き続けているうち体は受話器に吸い込まれていった。橙色から薄闇に次第に変わっていく周りの部屋に、ふわふわと浮いているような感じになっていた。
 ――あれは知らない女の声だった。
 女の声は、休みの日にベッドから見えるよく晴れた青空のように高く澄んでいた。
 ハナが足にすり寄ってきたので受話器を置いた。するとツーツーの音と入れ替わって、耳にウィーンとモーターのような音が響き渡った。長く受話器に耳をあてていたせいで耳鳴りがしているのかと思ったが、よく聞くとその音は冷蔵庫から出ている。近寄って行ってドアを開けると、まぶしい庫内にまとめ買いしたときの挽肉が入っていた。気がつくとハナも足下で冷蔵庫の中を物色していた。
 時計を見ると六時を回っていた。圭介が電話を切ってから、一時間近くも受話器を耳にあてていたことになる。挽肉がたくさんあるので夕飯にはハンバーグを作ることにしたが、爪と指の間に挽肉が入り込むのが憂鬱だった。手が汚れるのが好きではないので、農作業だけでなく料理も嫌いなのだ。なかでもハンバーグ作りは嫌いな料理の代表だった。それなのに夫はハンバーグや天ぷらなど、特に手を汚す料理ばかりを要求した。夫に似たのか子供たちもハンバーグが好きだった。
 ハンバーグのたねを練っているとき、ひとかけら床に落としてしまった。するとさっきから様子を伺っていたハナが急いでやって来て匂いをかいだ。食べる食べないにかかわらず、とにかくハナは匂いだけはかぐ。だが自分の好みと違ったのか食べずに、その場にうずくまってしまった。よりにもよってそこは一番邪魔なところで、皿をとるのに一歩踏み出したときしっぽを踏んでしまった。
「ギャ!」
 飛び上がったハナは一目散に逃げて行ったが、その鳴き声のすさまじさに心臓がばくばくと鳴った。
 しばらくして落ち着いてきてふと思った。
――あの電話の奥にいた女はハンバーグ作りが平気なのだろうか。

 それから何日か続けてハンバーグを作った。手は脂でギトギトになり、挽肉やあらびきコショーがいつも、泥を掻いたかのように爪の先に詰まっていた。それはまるでレンコンを洗ったときの、歯が浮きそうな感じとよく似ていた。途中どうしても我慢できなくなり爪の間を妻楊枝でほじったが、取れるのは爪の上のほうばかりで、逆に深く押し込んでしまったりした。
 耳の奥で受話器の向こうの女が何度も夫に声をかけている。女が夫の名前を呼ぶたびに、わたしは挽肉をこねて丸める。
 挽肉が底をつくと仕事の帰りに買った。その日並んだのは山畑さんのレジだった。彼女はあまりたくさんの挽肉を買う客に気が止まったのか少し顔を上げ声をかけてきた。
「ずいぶんたくさん挽肉を買うのね」
「うん、子供たちハンバーグ好きだから」
 ハンバーグを好きだった夫のことは口に出さなかった。
「あら、あっちへ送るの。いいママねー」
 そう言ったっきり山畑さんはこちらを見向きもしない。目の前の緑カゴの中を見下ろすと、挽肉のパックの上に牛乳がのせられている。忙しい時間帯の四時過ぎ、一心に客を流すチェッカーの気持ちは分かりすぎるほど分かるが、挽肉の上に牛乳パックをのせるのはやめてほしかった。こっそり牛乳を横にのけると、山畑さんは挽肉の上に食パンを置いた。挽肉のパックからは赤い液体が少し漏れていて、食パンの袋に付きはしないか気が気でない。
 レジで買い物を済ませてから、宅配の送り状をもらうのにサービスカウンターへ寄った。カウンターではチーフがタバコを補充していて、
「元払い、着払い、どちらにする?」
 と、いったん手を止めて聞いてきた。給料日前なので着払いとも考えたが、やはり元払いの送り状をもらった。
 結局わたしはハンバーグを一週間ほど作り続けた。その都度冷凍していったからあとで数えると六〇個もあった。ラップでくるんだハンバーグを発砲スチロールの箱に詰め、蓋をしたらクール便で送るつもりである。
 ○○県○○市○○町27―5―……。 
 もらってきた送り状にここまで書いて、番地の最後の数字を忘れてしまったことに気づいた。確か3か8のだったのだがどうしても思い出せない。住所録を開いてみたが番地の最後の数字どころか、番地自体を書いていなかった。
 突然送って驚かせてやろうと思ったが届かなくては意味がない。しかたがないのでまた電話をして聞くことにした。 
 電話がつながったとたん、
「そっちの番地の最後の数字って3だっけ8だっけ?」
 わたしは前置きなしで聞いていた。
「あ、ママー、久しぶり。元気?」
 電話に出た娘から元気かと聞かれ、考えると智香と話すのはひと月ぶりだったのに気づいた。夫や子供達はもうここからずいぶん離れた四国に住んでいるのだ。
「あ、うん元気よ。トモちゃんは?」
「元気よ。ケイスケも、パパも」
「そうよかった。ところでね……」
「あ、番地でしょ。何か送ってくれるの?」
 智香の機転は相変わらず冴えている。
「うん、挽肉が安かったからハンバーグをたくさん作ったの。そしたら番地の最後の数字をド忘れしていてね」
「う~ん、でもこっちの住所変わってるよ」
 智香がちょっと決まり悪そうに言ったあと、どういうわけか電話にガサゴソと雑音が混じりだして聞き取りにくくなった。
「……ちょっと雑音が混じるわね……なんでかな……。でも電話は通じてるわね」
「――パパ、再婚したの」
「え?」
「だから母屋は手狭になって、お祖母ちゃんだけを残して私たちはマンションを借りてるの。電話番号は同じ町内だからそのままよ」
「いつ?」
「先週の土曜日」
 先週の土曜日といえばハンバーグを作り始めたころだ。
 口を手で覆っていた。その手からかすかに挽肉の匂いがしている。今までカサついていた手が挽肉の脂で少し湿っている。
「そう、じゃあこのハンバーグどうしようか……」
 思わせぶりに訊ねた。――あ、送って送って。あの女の作ったハンバーグよりママの作ったほうのがいいから。と、次に智香の口から出るはずである。
 だが智香はなにも答えない。電話からは、ガサゴソ…ガサゴソ…と何かがこすれるような音だけが続いている。それが次第に智香がしゃべっている声のように感じ始め、黙って電話を切った。
 横には蓋を開けたままの発砲スチロールの箱があった。のぞくとラップしたハンバーグの表面が結露で覆われ、下に敷いた新聞紙がベッタリと濡れていた。いくつもの水滴の粒のひとつに、小さな自分の顔が映し出されている。さらに見つめ続けていると横の粒に夫と、息子と、娘の顔が映し出された。そしてその隣には初めて見る女の顔の粒があった。これがきっとあの電話口に聞こえた声の女に違いない。
 栗色の長い髪を後ろで束ねた女。身長はややわたしより低めで肉付きがよく、色白のこぶりの顔の中に、さっぱりとした二重の目と整った形のちいさな唇がある。やんわりとした外見のわりには気の強いしっかり者のようで、人をもてなすのが好きな朗らかな人だろう。お酒を飲んで、もしかしたらたばこも吸うかも知れない。年齢は――三十五歳ぐらいだろうか。その女ならハンバーグ作りだけでなく、天ぷら作りも、泥の中でレンコンを洗うのも平気なのかも知れない。

 生理が狂っていた。少々短めの周期ながら規則正しくやってきて、五日めにはすっきり終わっていたものが、ごく微量の出血が四日間、そのあと普通の出血が三日。今日でもう八日めになるのにまだ続いていた。
 休憩なしで五時間立ちっぱなしのレジ打ちがいけないのか、ズシッと感じる体の重さに思わずため息が出る。ため息を吐き終わったと同時に、客がまたわたしの前の台にカゴを置いた。
「いらっしゃいませ」
 そう言ってカゴを引き寄せたとき、股間にぼわっと血が降りた感じがした。どうやら生理はまだ終わりそうにない。さっきトイレに行ってナプキンを替えたとき、血が爪の間に入ってしまった。ブラシまで使ってあれほどしつこく洗ったのに、まだ赤く筋のような血がわずかに残っているのが気になってしかたがない。
 気になることは他にもあった。先日このスーパーにミステリーショッパーが入ったことである。いわゆる従業員や店内運営への抜き打ち調査だ。実際ミステリーショッパーがどのレジへ並んだかどうかまでは分からないが、チェック項目の3,4,5,6番には心当たりがあった。
 調査内容のうち店内の清掃状況や、商品の陳列、品質などはチェッカーに関係ないからいいが、問題はレジの接客の項目だ。
 1、チェッカーの身だしなみ、頭髪は整えられていて化粧は濃くないか。○
 2、ネームは左胸に付けられているか。○
 3、客を迎え入れる挨拶、見送る挨拶は客の目を見てされているか。×
 4、商品のスキャンはスムーズにされているか。×
 5、金銭の授受はスムーズか。×
 6,客には笑顔で対応されているか。×
 連絡ノート二ページを使って記載された調査内容は多岐にわたっていて、最後に一言コメントが付け加えられていた。
 ――淡々としすぎ。無愛想。迎えられるお客様の身になって。 
 3は日常茶飯事の出来事なので今更どうこう思わないが、4の項目では、あの山積みのカゴの母親のスキャンにずいぶん時間をかけたのを思い出した。5の項目は、レシート男とお釣りとレシートを渡すときにもめたことかも知れない。そして6の項目は、卵を落とした客に対してついたため息かも知れない。
 ――総合順位二四店舗中二一位。
 もちろん対象になったレジ番号も個人名も記載されていない。ただこんな結果になってしまったことに怒った店長が、カウンターの出口でチーフに説教をしていた。いったいミステリーショッパーは誰のレジに並んだんだと、まるで犯人を捜しかねない勢いだ。そんなふたりの隙間をすり抜け、小さく「ごめんなさい」と声をかけ、今日の担当レジに向かった。
 顔がむずがゆかった。スキャナーの奥にある小さな鏡に、客の合い間を見て自分の顔を映した。目尻の小じわに加え頬のたるみが増している。ところが今日はそれだけでなく口の周りに少しかぶれができ、頬がカサついて粉をふいていた。季節の変わり目などに少々肌の状態が不安定になることはあったが、いまだかつて荒れたことはなかったのだ。この肌をいったいどう扱えばいいものか見当がつかず、さらに憂鬱になった。
 そのとき山積みのカゴ二つをカートに乗せて近づいてくる客が、目の端のほうに入った。だがその客は体をかがませているのを見て、なにか作業をしているのと勘違いしたのだろう。いったんはこちらのレジに入る素振りを見せたが、結局隣のレジに入った。体勢を変えずにいたことにほっとした。あんなにたくさんの商品を処理するのは疲れてしまうのだ。
 そう思ったのもつかの間、同じようにカートに山積みのカゴを二つ乗せた別の年配女性客がレジに入ってきた。
「こちらおふたつですか?」と尋ねると客は「はい、それとこれとこれも」と後ろを振り向いた。後ろから付き添ってきた孫らしき子供の押すカートにあとふたつ、こちらも山積みになったカゴが乗せられていたのだ。今まで通したカゴの最高は三カゴだったからこれが最高記録になる。しかしこんな最高記録などは、生理が止まらず肌荒れし、ミステリーショッパーに×をいくつもつけられていた今日に出なくていいのだ。心の中で「どうしてこんなに買っていくの!」と叫ばずにはいられなかった。
 目の前のカゴの商品をスキャンしながらわたしの奥歯がキリキリと鳴った。客の買った卵を床にたたきつけ、豆腐を踏みつぶし、ほうれん草の葉をちぎってやったりしたらさぞ気持ちいいだろうと思った。自分でも押さえきれないものが頭の先に向かって、くしゃくしゃーと走っていくのが分かった。客も、自分の体も、なにもかもが、思惑とは違う方向に進んでいく。
 その日の帰り道、医者に寄った。
 待合い室は思いのほか混んでいた。大きな柱時計のすぐ横の席が空いていて、そこに腰を下ろした。下の子を産んだ後の一ヶ月検診に来たきりなので、十三年ぶりの産婦人科である。少し懐かしいような気がした。
 一時間ほど待たされてやっと番がまわってきた。
「どうされました?」
「はあ、あの、生理が止まらないんです」
「そうですか、ではちょっと隣で見せて下さい」
 隣、とは内診室のことである。産婦人科にくるとどうしてもこれが避けられない。しかたなく隣の部屋に入り、下着を脱いで診察台にのぼった。
「量はちょっと減ってきてるみたいですね」
 そのあと医師はつるっとした器具を入れた。息をのんだ。そしてなにを観察しているのか右や左に器具をぐにゅぐにゅ動かせる。その感覚は少しだけ、赤ちゃんが動く感じに似ている。
「卵巣が少し腫れてますね」
 医師が言って器具を抜いた。
 診察室に戻ると説明があった。
「ホルモンのバランスが狂って出血が長引いているんでしょう。なにかストレスとか心配事などありませんか。家庭や仕事場で」
「あ、先生聞いて下さい。夫が再婚するんです。それもよりによって爪の間にハンバーグのたねやレンコンの泥が詰まっても平気な女とです」
 思わずしゃべってしまったところで、はっと我に返った。
「体は疲れていませんか」
「疲れてるんです。一週間もぶっ通しでハンバーグを作ったものですから。それで……」
 またしてもしゃべりだし、途中で止めた。
「ストレスを溜めず、疲れないように休養をとってください。このくらいの年齢にはよくあることです。たとえば、閉経が近づいてくるとこうなったりもします。四五歳でしたね」
「四四歳です」
 ちょっと低めて言った声を聞き、医師はちらっとカルテの生年月日に目をやった。
「まあたいしたことはないと思いますのでしばらく様子を見て下さい。三~四日してまだ止まらなかったら来て下さい。止血剤をあげます」
 始終医師の顔を見て話したが、医師の視線はいつも斜め下の、カルテに向けられている。そのあと少しだけこちらを見て尋ねた。
「何かご質問は?」
 ――先生、本当にわたし、四五歳に見えてるんですか? あの女は三五歳なのに。
 喉もとまで出かかったが、今度は言葉を飲んだ。そんなことを聞いたところでどうなるわけでもないのだ。
「いえ……」
「ではお大事に」
 最後に医師は軽く笑顔を添えて会釈した。
 そのあと待合いで名前を呼ばれるのを待った。
 隣に三〇歳前後の女性が大きなお腹をかかえ、嬉しがるのでもなく不安がっているでもない、無表情な顔で座っていた。その向かいにはふっくらとした妊婦が座っていて、銀色の細いかぎ針を操りクリーム色の小さな靴下を編んでいる。柔らかそうな毛糸が指の動きに合わせくるくると膝の上で揺れている。彼女はときどき編みかけの靴下を持ち上げて、そのできばえに満足するような表情を見せた。
 診察室のドアに一番近いイスに、五十五歳ぐらいの女性が座って週刊誌を読んでいた。身動きひとつせず熱心に読んでいるが、いつになってもページをめくる気配がない。そのうちその女性は集中しているのではなく、その本が目に入っていないのではないかと思えてきた。もしかすると彼女の身に何か良からぬことが起こっているのかも知れない。
 良いことが起こっている人や良からぬことが起こっている人が、ごちゃごちゃになって混み合っている。病院とは不思議で残酷なところである。
 料金を払うとき、受付の女性が窓口のカウンターの上にお釣りと領収証を差し出してきた。領収証の上にお釣りが置かれている。カウンターの上の領収証が、スーパーのレシートに見えた。
「お大事に」
 窓口を去るとき受付の女性が軽い笑顔で言った。傾き一五度のお辞儀は無かったが、それはスーパーでの「ありがとうございました」と同じだった。同じマニュアル通りの口調でも、診察を終えた患者たちは何も文句言わずに静かに帰って行く。そればかりか反対に「ありがとうございました」とさえ言う者もいる。
 わたしは何が違うのかと考えた。そしてそれが強者と弱者との関係なのだという結論にいたった。
 わたしはいつのときも図にのってしまい、上下関係や強者、弱者の関係をはき違えてしまうのだ。実際にはこちらが弱者で、主従関係でいうなら従の立場なのに、なんでもこちら側から見てしまって、よほどの影響力をもっているかのように勝手に自分自身を過大評価してしまう。客から見るとわたしなど、レジが終われば忘れてしまう単なるチェッカーでしかなく、夫や子供たちにしてみても、誰かと入れ替わってもなんら支障のない小さな存在だったのだ。
 世の中は個人の思惑を無視して淡々と流れていく。わたしから見た今日は、「わたし」がいないと成り立たないが、夫と子供たちから見たら、すでに「わたし」がいるほうがおかしくなっているのである。この前見た、溶けかけのハンバーグにひっついていた家族の水滴のうち、「わたし」の水滴だけが表面のラップをつたって、あとかたもなく流れ落ちていく気がした。
 「離婚」という根比べのゲームをしているつもりでいたのは、わたしだけだったのである。今はこちらが負けていてもそのうち形勢がひるがえし、お手上げだ、と根負けして戻ってくるのは夫たちだと思っていた。しかし本当はそのゲームの中に、わたしはたったひとり取り残されていたのである。夫と子供たちは早々とゲームを切り上げ、現実という道を歩き始めていた。そんなことに気づくのに、ずいぶん時間をかけてしまった。

 今週の日曜日は祭日で月曜日が振り替え休日になり、土、日、月と三連休になる。いつもなら昼前に家を出るが今日は八時半の出勤だ。こんなに朝早くから仕事に出るのは久しぶりだった。
 玄関の鍵をかけて庭に出ると、色づき始めた木の葉の匂いのする風が髪をさあっと撫でた。空に綿をちぎったような薄い雲が浮いている。車の脇の金柑の木に、初めて見るような鳥がとまっていた。あれ以来、生理の出血はほとんど止まりかけている。
 連休初日の土曜日は絶好の行楽日和となった。店内にはリュックを背負い帽子を被った子供を連れた家族や、こざっぱりとした中高年婦人の仲良しグループなどが目立ち、いつもと違う休日の客層に別世界に紛れ込んだ気がした。
十時を過ぎたころから店内はさらに混雑し始めた。一時として客が途切れる気配はなく、特に弁当がよく売れる。
「お箸は何膳ご入り用ですか?」
「え?何ですか?」
 今日入った六番レジの真上には店内放送用のスピーカーがあって、この店のテーマ曲が降り注いでいる。そのせいで客はこちらの声が聞き取りにくいのだ。
「お箸は何膳ご要り用ですか?」
「あ、四膳お願いします」
 弁当が売れるたび必ず二回聞き直さねばならず、すでに朝から何度繰り返したか分からない。そして白い台の上に押し出されてくるカゴへも、スピーカーからのテーマ曲が降り注いでいた。
 子供がはしゃいでいるところへ、それをしかる声と、年配女性特有の甲高い笑い声が入り交じる。さらにスキャンするときの「ピッ」の音と、マニュアル通りのチェッカーたちの応答が重なっていた。いろんなものがスーパーマーケットの中でこねくり回されているのである。
 この前の産婦人科の待合い室も、このスーパーマーケットの中に似ていた。ハンバーグ作りで挽肉と玉ネギとパン粉と卵と、塩、コショーとをボウルの中で混ぜるのもこれと同じだった。手を広げると今でもギトギトした脂の感触がよみがえってくる。ふと、どうしてあんなことに一所懸命になったのかとバカらしくなった。
 この客は弁当の他に一,五リットル入りペットボトルのお茶六本とビール一ケース、直径四十センチぐらいのトレーに入ったオードブル三つと、焼き肉用の牛肉三キロを買っていた。客が途切れないなかで、これほどの買い物の量を掃かす作業に集中すると、全部通し終わっても体と頭はしばらく熱かった。そのあと三個入り大福一袋だけの客が来てやっと、熱くなっていた状態から一息つくことができた。
 ところがである。その客は以前レシートと小銭を別々に渡せといったレシート男だったのだ。男の眉間のしわを見たとたん額が汗ばんできた。大福一袋のスキャンなどすぐ終わってしまう。
「いらっしゃいませ」
 言いながら顔色を伺うと、男はわたしを覚えているのか覚えていないのか無言で、すでにトレーの上に代金を置いていた。
「一九八円ちょうだい致します。五〇〇円お預かりします」
 お金をつかんだ手は少し震えていた。
 次はお釣りとレシートを渡さなければならない。キャッシャーからお釣りが出るまでの短い時間の中で、手が振り払われたときのことがよみがえり、指先にパチッと静電気に弾かれたときのような感覚が走った。今また目の前には、口を開けたまま突き出された手提げ袋と、深い眉間のしわをより深めてにらみつけている男の目がある。おつりの排出口の前で手が固まった。
「あ、おじさんこんにちは。レジはもう済ませた?」
 そのとき、ちょうど出勤してきた石橋さんが通りがかって、レシート男に話しかけたのだ。
「おお、今こっちでやってもらってるよ。今日は混んでるねえ」
 ふたりのやりとりから、この男が常連客であるのを初めて知った。意外にもレシート男はにこにこしながら機嫌良く答えている。ほころんだ顔は、わたしの手を振り払ったときとは別人のようだ。
 固まっていた手がゆっくり動きだした。
「ありがとうございます、三〇二円のお返しです。それとこれはレシートです」
 わたしはまず小銭を手渡し、続いてレシートを男の手提げ袋に入れた。男は「うん」とうなずきほんの少し微笑み、袋の底へ大福をすべり込ませた。
 そのあと男はこの前買った中国産のウナギのことに言い及び、やっぱりウナギは国産がいいと思うがアンタはどう思うか、と意見を求めてきた。そしてわたしの答えを今か今かと心待ちにしながら自分の口をパクパクさせたのだ。男がわたしから視線を離さずにいるのは分かったが、並んでいるレジの列も気になった。ほんの一瞬客の列を見た。
 男はその仕草を見逃さなかった。同じように列に目をやるとパクパクさせていた口をきゅっと結び、小さく礼を言って背中を見せたのだ。
 そんなつもりで列を見たのではなかったが、それを見逃さなかったレシート男の繊細さに舌を巻いた。もしかすると男はわたしの手を振り払ったことを気にしていて、今日の「ウナギ」の話は、レシート男の精一杯の謝罪だったのかも知れない。話をしたいために手提げ袋にレシートを入れさせ、自分に手間暇をかけて欲しいために小銭とレシートを別々に渡させたのかも知れない。今度このレシート男が来るときはもう少しヒマなときで、話す時間が持てればいいのにと思った。
 次の客は行楽へでも向かうのだろうか。三十歳そこそこの夫婦が子供を連れ、手作り弁当入れたようなバスケットを持っていた。スキャンの途中で母親が、精算済みのカゴの中のガムとジュースに買い物済みの目印テープを貼ってくれと言った。テープを貼って差し出すと、子供が手をいっぱいに広げて受け取った。
「ほら、ありがとうは?」
 母親が子供に言うと、子供が顔を上げて「ありがとう」と言った。
 こうやってお礼を言わす親は意外と多い。きちんとお礼を言えた子供に両親は満足げである。わたしは心のなかでその家族に、「結婚生活は幸せですか」と問いかけた。
「ありがとうございます。どうぞまたお越しくださいませ」
 一五度のお辞儀のあと顔を上げると、子供連れは八番レジ側の出入り口に向かっていった。
 出入り口の脇の休憩用のイスにレシート男が座っていた。さっきの大福とレシートの入った手提げ袋を膝の上でぎゅっと握っている。彼は子供連れが自分の前を通り過ぎるのをじっと眺め、その家族を見送ると今度は向こうからやってくるカップルに目を移した。少し前ここでレシート男が小銭を受け取り、手提げ袋を開けて口をパクパクしていたのをのを思い出す。
「すみません、早くしてください」
 ふいに次の客に声をかけられた。振り向くと、不機嫌そうに口を歪ませた客がわたしを見ていた。
「あ、申し訳ございません」
 慌てて商品ををスキャンし始めると、客は今度は歪ませた口の脇をしきりにこすり始めた。どうやらこれがこの客の癖のようで、この癖がどうしてもやめられないのか、口の脇はすでに色素沈着していた。一瞬手をそらしたとき垣間見えたそのシミは思いのほか醜く、何か見てはいけないこの客の裏側を見てしまったような気がした。
 店にはいろいろな客が来る。その客のそれぞれに個々の世界があるのだろう。この列に並んでいる人はいったい幸せなのか不幸せなのか。そんなことを考えながらレジに目を戻し、キーを打つ自分の手を見た。
 またあの意味のない楽しさがやってきた。
 ――ああ、やはりわたしは幸せなのだ。
 胸がどきどきして笑みがこぼれるのを止められず、この世の中でこのレジを使いこなせるのはわたしだけなのだとの思いがこみ上げてきた。レシート男は微笑んでくれたし、生理の血が流れ出る感触もなくなってきている。このまま止まるかどうかは微妙だが、きっと止まっていくだろうという不思議な確信がある。行く先の世界は明るく開けているはずだ。
 客がどんどん流れ、使用済みの赤いカゴは見る見るうちに目の高さまでになり、反対に精算済み商品を入れる緑カゴは数えるほどに減っていた。早く補充しなければならなかったがわたしは今このレジを離れることはできない。
 そんなときお尻に何かがあたった。振り向かなくてもそれがカゴを片づけるオジさんであるのが分かった。このもぞもぞした感触は彼しかあり得ない。そしてそれはしばらく続くはずである。ところが今日はその感触がすぐに離れてしまったのだ。こんなに早くオジさんが行ってしまうはずがないと、再びお尻に気持ちを集中させた。
 いつものオジさんに対する嫌悪感はなぜか今日は沸いてこなかった。どうしてこんな気持ちになるのはよく分からなかったが、今確かにわたしはオジさんの手を待っていた。しかしオジさんはそれっきりいつまでも姿を現さなかったのである。
 ふと見るとひとりの年老いた男性客が台の上に商品を置いていた。「野菜カステラ」という、野菜の形をしているのに「カステラ」という矛盾したシロモノだ。
「一九八円です。お買い上げの目印のテープを貼らさせていただきます」
 テープを貼りながら言うと、老人はズボンの右の後ろポケットから財布を取り出した。
 この老人は不思議な左手を持っていた。右手は普通の大きさなのに、左手はその半分ほどの大きさで、しかも指が三本しかなかったのだ。
 金額を告げると老人は財布を小さな左手で支え、さっと右手で千円札を取り出した。そしてスキャンし終わった菓子を右手で持ち、素早く左脇にはさませた。
「八〇二円と、レシートのお返しです」
 わたしは小銭とレシートを別々に渡した。
 彼はそれを右手で受け取って、左手で支えた財布に入れる。常に右手が主役であるが、このときその頼りなさそうな左手は菓子も財布も支えるという、絶妙の脇役なのだ。その男が今までどれほどこの動作を鍛錬してきたかが分かった。彼が織りなす右手と左手の技は実に巧妙で見惚れるほどであったからだ。
 次に台に乗っていたのは、かりんとうとカマンベールチーズとペットボトルのレモンティだった。
「いらっしゃいませ」と言ったがなぜかいつもの目線の高さに客の顔はなかった。もっと下のスキャナーの鏡の高さまで目線を下げたとき、やっと相手の姿が飛び込んできた。
 あっ――。車イスに乗った白髪の老婦人だった。
 彼女は口元をきっと結んでおり、その唇には真っ赤な口紅が塗られていた。口紅と同じ真っ赤な、シフォンかオーガンジーの柔らかなワンピースを着ていて、それが真っ白でうねりの入った髪と美しく対比している。さながらレジの前に咲いた一輪の椿の花とでも言おうか。
 車イスを押しているのは、薄い水色の介護服に身を包んだ二五歳ぐらいの若者である。老女の買い物商品三点をスキャンして金額を告げると、若者は車イスを押してキャッシャーの前まで進んできた。
「五七一円だって。――お金出すよ。いいかい?」
 若者の問いかけに老女は、よく見ないと気づかないぐらいの小さい頷きをした。自分が買った商品に興味を示さず、何か別のものを見ているような目からは、彼女がいくらか呆けているのが分かる。少しだけ彼女が手を動かしたとき、若者がそっとかりんとうの袋を握らせた。
 若者が取り出したビニール袋は口のところがファスナーになっていて、「すぎもと りか」と、年齢のわりにハイカラな彼女の名前のシールが貼ってあった。若者はそこから千円札を出して手渡してきた。
「千円お預かりします」
 老女に向かって言ったが「はい」と答えたのは若者である。預けたお金をキャッシャーへ入れてお釣りが出てくるまでの間に、若者はまた老女に「袋は持ってきてる?」「レシートはもらう?」と二言ばかり話しかけた。
 しかしやはり彼女は気づかないぐらい小さく体を動かしたり、口の端をほんのわずかに引きつらせるだけだ。それを見た若者は「分かった。袋は持ってるんだね」「レシートももらうんだね」と繰り返した。この若者に彼女の意思表示がよく分かるものだと感心した。目も、口も何不自由なく使って関わったわたしと夫とは、果たしてこれほど通じ合うものあっただろうか。
「四〇九円お返しします、お確かめ下さい」と言うと「ありがとう」とまた若者が答えた。老女は若者にもわたしにも、何も言わず目も合わさない。
 呆けてしまったからそんな風に人に接するのか。それとも今まで苦労しすぎて、人の優しさが判別できなくなってしまっているのか。苦労をしすぎでそうなったとしても、原因になるのはその相手や周りばかりではない。どうしても自分を曲げられない頑固さゆえに、彼女自ら幸せを手放したということもあり得るのだ。
 老女がどういう経緯で施設に入り、こうして若者の押す車イスに乗っているかは分からない。しかし毅然と車イスに座る彼女からは、生き抜いてきたという自信のようなものが伝わってきた。今も彼女は自分の中で自分を大事にして生きているに違いない。後悔もきっと満足なものに変わっているはずなのだ。
 彼女にはきっともう生理はない。ハンバーグを作ることも、レンコンを洗うこともなく、たねも、泥も、血も爪の間に入ることはない。わたしもいつか生理があがってしまって、ハナと同じ九二歳ぐらいになったときには、ああいう風に呆けたい。あんな化粧をして、赤いシフォンかオーガンジーのワンピースを着こなせたら素敵である。さっきの老人の右手と左手の見事な技といい、この老女の化粧やワンピース姿といい、今日はすばらしいものに巡り会えた日だと思った。
 老女が少し顔を上げ進行方向を見た。釣られてわたしも老女の進もうとする方向を見ると、レシート男はまだあのイスに座り自分の前を横切る客を眺めていた。
 そのときである。レシート男の視線の先に、楽しそうに通りすぎる夫と子供たちをみつけたのだ。
 夫たちはここで買い物をしていたのか、たくさんの食材が入った袋を両手に下げていた。娘の智香は幾分女らしくなり、息子の圭介はまた背が伸びついに夫を追い越していた。夫の横ではあの女が産まれたばかりの赤ちゃんを抱いている。女が夫に何か言うと、夫は持っていた荷物を圭介に手渡し、赤ちゃんを受けとって抱いた。夫が女とまるで昔からの夫婦のように腕を組み、顔を見合わせて笑っている。
 五つの人影が、出入り口からの陽の中でチカチカと動いていた。わたしは少しだけレジの手を止め、目を閉じた。
 それから一呼吸して目を開け、もう一度眺め直した。するとそこにいたのは夫たちではなく、どこにでもいる全く見知らぬ家族連れだった。そしてその家族連れは振り向くこともなく、店から去って行ったのである。
 かさっと服がこすれる音がしたのでこちらに目を戻すと、若者がかがんで老女に何か耳打ちしているところだった。赤いワンピースがふわっと揺れ、老女が何か言葉を返したようだがよく聞こえなかった。
 ――ここに来ていっぱい色んな人が見られたね。
 と、若者の柔らかい低めの声が、かすかに届いただけだ。老女の目は人の群れを追っていた。

 またレジの行列の最後尾に客が並んだのが見えた。ひとり見送ると次の瞬間にはまたひとり並び、ひとり流したあとのいっときの安堵のあとにはすぐ次の客がいた。この有様はわたしがこの店を去った後も、ずっと繰り返されていくのだろう。
 ふと、大岩を押し上げているときのゆがんだシーシュポスの顔がよぎった。
 この週末は今日のように忙しい日があと二日続くのは間違いない。わたしは明日はハナとの時間を持ちたいと思った。それからベッドに横たわってもう一度「シーシュポスの神話」を読みたいと思った。レジを打ち、客を流しながら明日のことについて少し迷ったが、すぐに考えはまとまった。明日の朝「体調が悪い」と店に電話をしよう、と。
 レジには客がまだ十数人並んでいる。
 連休の初日の列はだいたいこんなものだ。

レジの列は途切れない

レジの列は途切れない

レジを打つってどんなこと? 40歳半ばで離婚した「わたし」。子供は主人が引き取った。今までのほほんと過ごしてきたのでこれと言った特技もなければキャリアもない。 いつまでも若くはないということ徐々に感じ始め、今更ながら自分のおかれた状況に不安が募り始める。「これからどうやって生きていこうか・・・」 中年女性を取り巻く現実を書いてみました。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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