同人作家は鶴のような
歯医者に行って親知らずを抜いてもらった。スタッフの女性はマスク越しで眼鏡をかけていたけど、それで十分美しいということがわかった。名札に高井という名前がついていた。彼女と親しくなる方法はないだろうか。わたしは財布から名刺を取り出して、彼女に渡した。
「作家の竹中実さんですね。芥川賞おめでとうございます。本読みました。とっても楽しくて引き込まれました」
「僕のこと知っているんですか?」
「ええ、テレビでも拝見しました。とても面白いこと言っていました。こないだNHKに出ていましたよね」
「いやー、恥ずかしいです。失態をお見せして、そうだ、今度お食事でもしませんか。美味しいお店があるんです」
「是非とも、お願いします。楽しみにしています」
わたしは歯科医院を出ると、マツダロードスターに乗り込んで札幌駅に向かった。とても温かな日で風が気持ちよかった。すすきのの立体駐車場に車を預けて、徒歩でアニメショップに行った。沢山の同人作家の本が並んでいて、とても心が躍った。彼ら、彼女は才能に恵まれていて、素晴らしい素質があって、気に入った本があれば、籠の中に入れて、もう十冊ほど溜まってしまった。わたしには望んでいることがあった。自分の小説を題材として、コミカライズしようと目論んでいるのだった。その仕事は是非とも同人作家に頼みたかった。才能あふれる自分が見つけた作家に書いて欲しかった。自分が気に入った作画を片っ端から籠に放り込んで、会計を済ませた。駐車場に行き、車に乗り込んで、大通り公園までロードスターを走らせて路上駐車して、エンジンを切り、助手席に乗せた同人誌を慎重に読み込み始める。
二時間は経っただろうか。物語に没入していた。なんて素敵なんだろう。同人作家のそのプロフェッショナルな姿勢に感動した。わたしも頑張らなくては。毎日を小説の題材として、自分の心の中に落とし込むつもりでいなければならない。
沢山気に入った画があったが、特にこれだというものを見つけた。鉛筆で書かれた描画で、ナルシスト恵、という作家だった。とても繊細な筆使いで、画がとても締まっていた。この人に書いてもらおう。そう決めた。早速、スマートフォンを取り出して、出版社に連絡をいれる。ナルシスト恵氏にアポイントを取ってもらうようにする。
「頼んだよ。この作家以外には考えられないから」
わたしは携帯をジーンズにしまい、成し遂げたことに満足感をおぼえた。連絡が来るのが待ち遠しい。いったいどんな人なのだろうか。ナルシストというペンネームから、きっと、ナルシストではないということは多分確実だろう。とても愛嬌のある名前だ。
わたしは豊平区のマンションまで車を走らせて、途中でブックオフに立ち寄って、珍しい小説がないかを探してから自宅に戻った。
早速、パソコンを起動させて、椅子に座り、神経を集中させる。ナルシスト恵の画が脳裏に浮かぶ。幸先いいぞ。物語が立ち上がってきて、キーボードを打つ指が滑らかに進んでいく。この調子だ。途中、ブックオフで買ってきた、フィリップ・K・ディックの小説を箸休めにしながら、三時間ほど書き進めた。窓からは温かな太陽が輝いていた。地球との距離はほど良くて、365日で太陽を一周する。それが何億年、何十億年続いているんだろうか。とても不思議なことだ。地球は毎回、24時間で自転している。ほんと奇跡だよな。わたしがこうして生きているというのも一種の奇跡なのかもしれないな。こうして他の人との出会い、いったい何を求めているのだろう?楽しみを分かち合いたいだけなのか、それだけではあるまい。お互いの念じている波動のようなものを人の心の中に埋め込みたいのだ。自分の命を血肉を他者の内部に注ぎこみたいのだ。人との共感を陳腐な表現かもしれないけど感動を。人はジグソーパズルみたいもので、誰かがそのピースをはめ込む努力をしているのかもしれない。きっと、その数十億のピースがきちんと並び替えられた時、世界は本当の意味で平和と調和がもたらされるのではないのか。
携帯が着信を伝えた。わたしはスマートフォンを手に取った。
「もしもし、竹中実ですけど」
「竹中さん、編集部の神崎です。今、大丈夫ですか」
「ええ、今、自宅です」
「ナルシスト恵さんのことなんですけど。恵さんも竹中さんに会いたいということです。恵さん、竹中さんの小説読んでとても大ファンだって言ってました」
「そうなんですか。ではいつ会うことが出来ますか?」わたしはスマートフォンを左の耳から右の耳に移した。
「突然ですけど明日の15時にうちの出版社で会うことはできますか?」
「明日の15時ですね。わかりました」
「では、また明日」
なんだか突然だな。ナルシスト恵さんも忙しいんだろう。一冊の本を描くのに、いったいどれくらいの時間がかかるんだろう。たぶん、小説家とは違った脳の部分を使っているのだろう。とにかく明日だ。なんかドキドキするな。初めて告白をした頃を思い出すじゃないか。今日は早めに寝よう。コンビニで総菜と弁当を買って食事をして、熱いシャワーでも浴びて布団に入ろう。いよいよ明日だ。
翌朝、6時半に起きて、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、そのまま飲み下す。コーンフレークに牛乳を入れて食べた。インスタントコーヒーを飲んでから、歯を磨いた。新千歳空港まで車を走らせて空港に到着して、東京羽田空港行きの便が出るのを待ちわびる。空港は旅行客で混雑していた。みんな、楽しそうにお土産を選んでいたり、楽しそうに雑談している。わたしはソファーに座って、スマートフォンで小説の構想を練っている。
羽田行きの飛行機が到着した。これから乗客が乗り込む。わたしも列に並んだ。飛行機の中に入ると、微かに乾燥している機内は鯨のような雰囲気を醸し出していた。
座席に座ると窓際ということもあって、外を眺めていながら、これから会うナルシスト恵のことを思う。そう言えば、男性として考えていたけど、ひょっとしたら女性なんじゃないのか。そうとも思った。まあ、そんなことはどうでもいいや。とにかくわたしは恵さんの才能に惚れ込んだのだ。
飛行機は新千歳空港を離陸して羽田に向かった。
飛行機が羽田空港に着陸すると、思わずほっと、息をはいた。タクシーで出版社まで行くと、編集部に入った。
「こんにちわ、竹中です」
「やあ、どうも、お久しぶり。小説のほうははかどっているかい?」
「まあまあですよ。それより恵さんは?」
「そうだ、ナルシストさん、接待室で待ちわびているよ」
「そうですか、すいません」
接待室のドアを開けると、そこに窓を背に座っている人がいた。女性だった。ピンクのワンピースを着ていた。鶴のような長くて白い首筋が特徴的だった。透き通るような肌で、こんなこと言うのは不謹慎かもしれないけど、美味しそうだった。それが小説家としての表現だった。
「こんにちわ」わたしは言った。
彼女は立って、「どうもはじめまして、ナルシスト恵と言います」と言った。
「恵さん、初めまして。あなたの同人誌見ました。とても才能が溢れています。ぜひともわたしの小説を原作として書いてもらえないでしょうか?」
「ええ、喜んで。まさか竹中実さんに注目されるなんて思ってもみなかったです」彼女は右手を差し出した。わたしも右手を挙げて彼女の手を握った。とても冷たい手だった。
「お住まいは何処ですか?」
「東京都内です。実家で暮らしています」
「そうなんですか。後ほど、もし、よろしければ仕事現場を見せてもらえないでしょうか?」
「ええ、喜んで。でも雑誌や本だらけの汚い部屋ですけど」
わたしは慎重な性格だと自分では思っていたけど、彼女の自然な美しさに惹かれていた。なんて、けなげなんだろう。一輪の花を思い浮かべることができた。
会社のハイエースでナルシスト恵さんとわたしと編集部の二人が乗り込んで、恵さんの自宅を目指す。彼女が二十二歳であること、一人っ子で、小学生の頃から絵を描くのが好きだったこと、彼女の両親も、漫画家として彼女が成功をおさめていることに喜び抱いていること、などまださまざまな話を聞くことができた。
彼女の自宅に着くと、そこは閑静な住宅地で小奇麗な住宅が沢山並んでいた。庭にはチューリップが咲いていて、バラが色気を出している。
「どうぞ、お入りください」
「お邪魔します」靴を脱いで、スリッパをだされて、それを履き、リビングのソファーに座るように言われた。恵さんの母親が姿を現して、テーブルにホットコーヒーを置いた。
「どうぞ、ゆっくりしていってください」
ナルシスト恵さんの母はまるで、恵さんの姉でもあるかのような容姿で、バイオリニストのような身のこなしだった。彼女も美味しそうだった。
みんなでナルシスト恵さんのことを褒めたり、母親から、恵さんの幼少期や、その当時から画才があったことなどにふれて、関心したりして、時間は過ぎていった。それから、二階にある恵さんの仕事部屋に移って、彼女の仕事風景を見ることにした。彼女は鉛筆で下絵を描いて、まるで職人がなにか、繊細なものを打ち込むかのように線を入れていき、その集中は半端なかった。わたしは彼女の手先よりも、折り曲がった、美しい首筋に視線があって、ほんと、なんて美しい首なんだろうと思い、それはわたしだけの感想ではなくて、他の編集部の人も、彼女の首筋を見つめているのであった。
わたしは大体のあらすじを自分の脳の中に記憶させると、鶴のような彼女の美しい身体をスマートフォンのカメラで写すと、なにか満足して、これからとてつもないことが起こるのではないかと自信を湧きあがらせて、彼女の成功を願っていた。なぜ、ナルシストなんていうペンネームにしたの?なんていう、陳腐な質問はしないことに決めた。それは、たぶん、きっと‥‥‥。
同人作家は鶴のような