花咲くころに

GM91

■1.
 改札の向こう、人ごみに消えていく結花里の背中を僕はただ黙って見送ることしかできなかった。
 結花里は一度、こちらを振り返り軽く手を振った。僕は上着のポケットの中につっこんだままの手を握り締めるのが精いっぱいで、そのまま結花里は僕の住む街を後にした。僕は人影がまばらになったことに気がつくまでの間、コンコースの真ん中で馬鹿みたいに立ち尽くしていた。

 僕が郷里の星ヶ瀬から遠く離れた西都の大学を選んだのは、郷里に何か不満があったからじゃない。星ヶ瀬は確かに日本の果てなのかも知れないけれど、年に数度の台風さえ凌げば住み心地のいい土地だと今でも思う。まだ若く世間知らずの僕は、とにかく別の世界を覗いてみたいという年相応の好奇心に支配されていた、それだけの話だった。友人たちは九州からわざわざ関西にまで出る必要はないだろうと僕を諭したが、西都へ行きたいという僕の気持ちに揺らぎはなかった。当時付き合っていた結花里が西都行きについて賛成してくれたのも大きかった。

 西都の片隅で始めた一人暮らしにも慣れてきた最初のゴールデンウイーク、帰省する金を惜しんだ僕は、結花里からの僕の所へ遊びに来たいという申し出をもちろん喜んで受け入れた。
 新西都駅まで迎えに出た僕は、張り切って調べ上げた定番のデートスポットをあれこれと並べたが、そんなところより慎也の住んでる街が見たいと結花里は言い、僕らは二人で近所を散策しながら近況という名の他愛もない話に花を咲かせたのだった。いや、まだひと月足らずというのに「久しぶり」に馴染みの人間と会った安心感から、僕が一方的に話していただけだったような気もするけれど。
 とにかく僕は、一人暮らしやこの街の素晴らしさについてまるで弁護人として雇われたかのような熱弁を奮い続け、部屋に戻ったのはもう日も暮れかけた頃だった。その大半を下心で構成された期待で胸がはちきれそうな僕は、結花里がいつまで滞在できるのかという確認をしたくて今日は泊まっていくんだろ、と問いかけたのだったが、彼女が僕に告げたのは、別れの言葉だった。
 突然の別れ話に、意味が分からないと結花里を問いただす僕。
 結花里の答えはまるで要領を得ず、全てを語ることはできない、もう決めたことだから、を繰り返すばかり。しびれを切らしてつい声を荒げた僕に、一瞬怯えたような眼をした結花里と、それに気が付いてどうしたらいいのかわからなくなった僕。
 しばらくの沈黙のあと、好きな人ができたから、と結花里が口にして、絶望の底に叩き落された僕は、わかった、駅まで送る、とだけ返した。頭のどこかが痺れてぼうっとした。その時僕は、それ以上何か口にして自分の声が震えることだけがなぜか無性に怖くなり、この話をとにかく早く終わらせてしまいたいという衝動に駆られた。なぜそう考えたのか自分でも未だによくわからないが、そう思ったことだけは今でもよく覚えている。

 結花里を失い、見知らぬ土地で独りぼっちになった僕(今にして思えばお子様にもほどがあるが)は、周囲に溶け込むことにひたすら務め、先輩から紹介されたとある技術系ベンチャーのバイトに入り浸り、そこで知り合った相手といつしか将来を誓う仲になり、就職早々に結婚し、娘を授かり、その娘が十二歳になった春の日、僕は伴侶の提案を受け入れ再び一人になった。
 元はといえば、結婚後の事を考えた上で馴染みのベンチャーではなく、大企業の系列会社――という名の下請け企業に就職した僕であったが、既に子供としての特権を発動できる年齢ではなくなっていた僕は(少なくとも表面上は)事実を受け入れ、甚だ不本意ながらも仕事に没頭する日々を過ごし、気が付けばもう不惑を迎えようとしていた。


■2.
 課長の三谷に、おーい世良(僕の事だ)ちょっと時間いいか、と呼ばれた会議室で僕が告げられたのは突然の異動だった。
「係長? 第二係の? 僕が、ですか」
 四月から朝倉の代わりにお前が第二係の係長だ。辞令は三月十五日に出る。色々大変だろうけどなんとかがんばってくれ。もう決定事項なんだ、で強引に話を終わらそうとした三谷の態度に、僕は大人げなく噛みついた。
「ちょっと待ってください、何故今僕が第二に異動で係長なんですか? しかも十五日って明日でしょう、何も聞いてませんが」
 問い質すと、話自体は年末から持ち上がっていたらしい。もちろん僕はどうして相談の一つもしてくれないのかと三谷を詰ったが、三谷はそれには直接答えなかった。答えたくない事情があるんだ察しろ、とでも言いたげな態度に腹が立ったが、どうせくだらない理由に違いない。僕は質問を変えた。許したわけではない、それで決定が覆るわけでもなく、ならば他に確かめておくことがあると判断したからだ。
「小池さんや渕上さんがいるじゃないですか」
「渕上は六月で早期退職の予定なんや、小池は、まあなんというかアレだ、難しいていうかホラ」
 小池は僕よりも五年先輩にあたる。役職は特にないものの実質上は係長たる朝倉の補佐役ポジションだ。ただ、三谷や第二係最年長の渕上とは反りが合わずよく衝突している。簡単に言えば、多少の理不尽はガタガタ言わずに受け入れた方が最終的に得なのだという主義の二人に、何事も生真面目に自他の責任範疇を決めたがる小池が事ある毎に反発する、という構図なのだった。
 平たく言えば、小池と課長の板挟みになる格好の朝倉がとうとう根を上げた、ということらしい。
 僕は、どちらかと言えば小池の言い分に同意したくなる事が多いのだが、他部署の諍いに一々口を挟むほど僕も暇ではない。三谷は小池よりも僕の方が与しやすいと考えているのかもしれないが、それは今僕にとって大事なことではなく、小池ではなく僕だという理由について僕は確認し、そして三谷はお茶を濁した。その事実だけで今はよしとしておく。

 ウチの課がシステム設計寄りの第一係と電子回路やPLDの設計担当の第二係に分かれたのは、十年前の事だ。元々各課員の職能としてはその守備範囲がほぼ分かれていたのだが、直接的な顧客たる親会社側の組織変更に合わせてウチも増員することになり、組織上も分けたという格好だ。ちなみに僕もその時に別の部署から第一係に引っこ抜かれた一人だ。

「しかし、今になってなぜ僕が第一から第二に異動なのでしょうか」
「お前たしか開発課のころ、回路設計とかやっとったろう」
「既成の回路を切り貼りしたりとか、VerilogでPLDの論理をちょろっと手直ししてただけですよ」
「実務は担当に任せてええ。お前は業務管理に集中せえ。技術的な話は朝倉にもサポートさせたる」
「今仕掛りの仕事はどうするんですか? 第一係も手一杯ですよ」
「案件、なにがあるんやっけ」
 僕はそんなことも把握せずに異動などと言ってのける三谷の無策ぶりに不安を覚えたが、悲しいかなそんなことを気にしている暇がない。
「プラハ地下鉄とSNCFの工事です。特にプラハ地下鉄はラインランドに渡す承認申請書類の期限が5月の連休明け早々です。今から誰かにやらせるにしても引き継ぎの時間がありません」
「SNCFの山場は秋頃やろ、夏までに誰かを充てよか」
「プラハは」
「……それはしゃあない、何とか凌いでくれ」
「しかしそれでは」
「それまでは朝倉に現業継続させる、それでどうや」
 名目だけの係長だとしても各案件のデザインレビューには出席せねばならず、それだけでも週の半分は潰れる計算になる。正直、取引としてかなり分が悪いというか、三谷の見積もりは甘いと言わざるを得ない。が、これ以上の交渉材料は望めそうもない。何より今僕は、明日、蘇芳で行われる客先立ち合い試験の出張準備で手一杯なのであり、こんな不毛な押し問答にかまけている余裕はないのだった。僕は朝倉にも話を聞きたいという口実を付け、明日の出張前に改めて相談するということで手を打った。もちろんそれは仕切り直しなどとは程遠く、二人に手渡した僕の工程表などろくに目を通されぬままなし崩しに打ち合わせは終わった。


■3.
 蘇芳市には、ウチと同様の系列会社である蘇芳製作所の工場がある。ウチで製作された通信制御ユニットという名の電気回路の塊はまず蘇芳の工場へ搬入され、蘇芳の製品と接続した状態でいわゆる組み合わせ試験を行ったのち、最終顧客へと出荷される。
 顧客にもよるが、この段階で立ち合いをしたいと申し入れされるのが一般的で、その場合は各社のエンジニアが蘇芳に集合し、時に気まぐれな顧客の質問攻めに対応することになる。

「今回は気持ち悪いくらいすんなり終わったよなあ」
 少々物足りない、という顔で山県がジョッキをあおる。山県は蘇芳のエンジニアだが何故か僕の案件はもれなく山県とのペアになるので、歳が近いこともあり今ではすっかり気安い仲だ。立ち合いを無事終えた金曜の夜、僕は課長へ手短に完了報告の電話を入れるや否や、蘇芳のメンバーと共に居酒屋へと繰り出したのだった。蘇芳は控えめに言っても「ど」がつく田舎で、千葉出身の山県も事ある毎になんでこんな何もないとこに来ちゃったのかとこぼしていたが、うまい酒と肴には事欠かない。ビール党の山県もそこは大いに認めるところだ。
「次回もよろしく頼んますよ世良さあ~ん」
 結構できあがった感じの山県の軽口に、いや実はさ、と異動の話を切り出す。辞令は既に出たので問題はない。はずだ。
「ええ? 連休明けに認証じゃん? どうすんの?」
「プラハはお前がそのままやれってさ」
「摂津工業(ウチの事だ)さんの係長ってそんな暇なの?」
「んなわけねーだろ」
「じゃどーすんの」
「シラネーヨ」
 同盟軍とは言え一応は他社の人間だ。ウチの内情を赤裸々にこぼすわけにはいかないが、山県も似たような経験は積んでいるらしく、急な異動で課長は言ってることが意味不明で泣きそう、くらいの話で大方の察しはついたようだった。頭の回転が速い奴との会話は楽でいい。
「じゃ、いっそウチ来ねえ?」
 冗談なのか冗談のフリなのか微妙な顔で山県がボソっと言った。
「ほら、佐久間さん。品管の班長の」
「鬼軍曹? そういえば今日居なかったけど」
「最近なんかキツめに体調悪いらしいんよね、実は結構いい歳だし早めに退職かもって話でさ、これまだ口外すんなよ」
「おう」
 まあそんな情報を流す相手もウチには居ないのだが。
「あの人さ、口はうるさいけど、仕事は人一倍できるからなあ、抜けられっと結構イタイのよね」
「で、後釜に入れってか? そりゃあさすがに無理だろ」
「いやいや、いきなりそれはないよ。でもまあこっちの事情とか知ってる人間ってのは使い勝手がいいじゃん、手が足りないのは事実だし」
 正直、これまで転職なんて考えたこともなかった。それは僕が実は恵まれた環境にいたということなのかもしれないが、三流は三流なりに自分の積み上げてきたものを投げ捨てて他所へ移るということに抵抗があったからだ。しかし、蘇芳ならその手の心配はせずに済む。少なくともこれから電子回路やPLDの勉強をし直すことに比べたら……。いやいや落ち着け自分。しかし冷静に考えてもそう悪い話ではないのでは……。
 いつの間にかカウンターに突っ伏して高いびきを始めていた山県の背中を揺すりながら、僕の頭の中は昨日まで存在しなかった議題について集中審議を始めつつあった。

 あっという間に四月となり、ありがたく拝命した係長とやらの仕事は、予想通り、いやそれ以上にキツかった。週の半分? 冗談じゃない、平日自分の作業に使えるのは半日からせいぜい一日半が限界だ。このままではまずいと踏んだ僕は、お人よしの朝倉に可能な限りの管理業務を押し付け、それでも毎日残業パトロールが来る22時ギリギリまで居残り、ゴールデンウィークもほぼ全日出勤することでなんとか承認資料を出し終えたのだった。
 もちろん、課長の三谷からはあれこれ苦情を言われた。極めつけは連休も出勤しますと僕が申請したことに、いったい何がそんなに忙しいんだ、と言い放ったことだ。
「先日ご報告した通り、プラハの認証の締め切りがありますので」
「なんぼ忙しいったって時間外作業多すぎやろ、俺が部長にシバかれんねん、せめて作業の内訳出せえや。工程表とかないんけ」
 おいふざけんな、と言いかけて僕は背筋を張る。ここでキレたら負けだ。僕はわかりましたとだけ言い、先日手渡したはずの工程表を自分の控えからコピーして差し出す。それを見た三谷は無言で申請書にサインをしたのだった。


■4.
 連休明け早々、久々に一山超えた解放感に包まれた僕は、押し付けられた仕事をなんとか回収させようとソワソワしている朝倉を力の限り視界に入れないように努め、手早く休日出勤分の代休取得申請書をしたためた。流石に一週間分の代休を連続取得するのは心情的にも給与明細的にも躊躇するが、後回しにしても良いことは何もない。朝倉には悪いが恨みたければ課長を恨むがよいと心の中で三回ほど念じ、つまらない面倒ごとへ巻き込まれる前に、その日は午後から半休にした。
 まだ日が高い中帰宅した僕は、まっしぐらに車のキーを手に取り、そのままあてもなく車を走らせた。
 ガラ空きの幹線道路を流す。全開にした窓から拭きぬける風は涼しくゴキゲンの僕はカーラジオに手を伸ばす。普段こんな時間にラジオを聴くことなんかない。知らない声のDJは、控えめなトークで渋めの曲を流すという趣向であるらしかった。洋楽の結構古めの曲だと思うがわからない。高めの男性ボーカルが物悲し気に響き、流れる風景とシンクロする。曲の終わりにDJが曲名を告げたのを聞き逃してしまったのは残念だったが、次の曲が始まりすぐにそんなことはどうでもよくなった。
 一週間という時間は何かを為すには短いが、何か考え事をするには無限にも等しいと思える長さだ(実際にはそんなこともないのだが、僕はこのときそれくらいには上機嫌だったのだ)
 日はまだ高いが、日差しの陰りをふと感じ、ああ夕方のラッシュ前には帰らないとな、と思った刹那、また別の思念が頭をよぎる。
 このままどっか遠くへ走っていくか……蘇芳の連中を冷やかしに行くのも面白いな……いや、もしこれから厄介になるとしたら変な印象を持たせるのはよくないな……いっそ帰省してしまうか……いやそれは流石に……まあいいや、とりあえず西に向かって、もし途中でしんどくなったら引き返せばいい。よし淡路で生サワラ丼でも食って四国に抜けよう。決まり。思い立ったが吉日、僕は急いで自宅へと引き返し、身支度――とは言っても数日分の着替えをボストンバッグに詰めただけだが――を済ませ、渋滞が始まる前には淡路島へと抜けていた。

 丸亀の安ビジホで一泊し、伊予灘沿いのうどん屋に飛び込み朝食を済ませたあと、三崎からフェリーで九州に渡り、大分道へ乗る。季節は新緑、快晴の空の下に広がる九重の山並み、雄大な景色が心を弾ませるものの、気分良く流すとあっという間に鳥栖JCTに着いてしまう。クローバー使ってそのまま折り返してやろうかと邪な企みが頭をよぎるが、昔大回りに失敗して料金所で揉めたことを思い出し、そのまま長崎方面へ進む。武雄で高速を降り、ガラ空きの真昼の温泉につかりながら、これからどうするか思案に耽る。ああなんて贅沢な時間。朝倉さんゴメンよ。今僕はこの上なく寛いでいるのにも関わらず、せっせか仕事に追われているであろうあなたの事を心のどこかに留め置いているのです。ああなんたる偽善者か世良慎也、あなた地獄に落ちるわよ。いやまあ雲仙地獄くらいにしてもらえるとありがたいな。などとくだらないことを考えつつ、要するに僕の結論は、もうここまで来ちゃったし帰省しとくか、というところに落ち着いた。
 実家の両親に電話を入れ、実は今、武雄まで来てると告げたが、ああそうと軽く流されいささか拍子抜け。とりあえず車を置いとく場所はあるのを確認し実家へと向かう。親父の晩酌に付き合い最近仕事はどうかと聞かれたが、昇進して仕事が忙しかったから休みをずらしたのだという話に留めた。
 翌日、小鳥のさえずりで目を覚ますというかつては当たり前だった贅沢に改めて感謝し、街に繰り出すことにした。
 実家のある、市街地を見下ろす高台から車で5分ほどもすれば、星ヶ瀬のメインストリート(地元の人間はアーケード、と呼ぶ)に着く。僕はアーケードの端にある閑散とした駐車場に車を入れ、手ぶらで街へと繰り出す。日差しはもう初夏を感じさせる強さだが、アーケードの屋根の下に入れば冷たさの残る風が吹き抜けていく。
 とはいえ、何かあてがあるわけでもない。大体いつも帰省と言えばトンボ帰りで、街へは職場への土産菓子を買いに寄る程度のこと。こんな風に街をぶらつくのはずいぶん久しぶりのような気がする。気が付けば昔通った馴染みの店は消え、西都にもわんさかあるいつものコンビニだったり、ドラッグストアだったりするのは少々味気ない。中には一体何の店だったかすら思い出せない場所すらあり、時間の流れを感じさせる。前略、母上様、僕も立派にくたびれたオジサンになりましたよ。 随分変わってしまった郷里の街並み、確かに小奇麗にスッキリと美しくはなったのだが、どこか味気ない風景に、心のどこかで勝手に期待していた何かを裏切られ、居心地の悪さが居場所の無さに転化するまでにはさほど時間もかからなかった。十五分も歩けばアーケードの果て、ボロかった駅前の地下街は既に埋められ、小ぎれいに再開発された嘘くさい街並みに僕は今何も感じるものがない。失意のままアーケードを折り返し、車まで戻って来たとき、僕の心は、ほぼ迷いもなくここを早々に立ち去ることに固まっていた。
 少々大げさに言えばまるで捨てられた猫みたいな気持ちで、春の日差しの中あてもなく車を走らせる。無心に走るうち、いつの間にか港を見下ろす幹線道路へ入っていた。高校の頃、原付免許取れたのが嬉しくて、用事もないのに叔母のスクーターを借りてよく走った道だ。この道の心地よさは昔と変わらない。僕の心は捨て猫から拾われ猫に変わり、車をどんどん走らせる。信号待ち、青に切り替わる寸前僕はほとんど無意識にウィンカーを左に入れた。この先にある場所も、もちろんよく知った場所だ。


■5.
 幹線から逸れ、10分ほど車を走らせた先にある、ちょっとした展望公園の駐車場に車を止める。ツツジの名所でピークにはそれなりに賑わう場所ではあるが、既にシーズンは去り、駐車場は閑散としていた。昼寝らしき営業車の邪魔をしないように少し離れて車を止め、展望台へと上がる。
 星ヶ瀬の港は、太古、星が落ちたという伝承がもっともらしく聞こえるほど不自然に真円を描く湾に囲まれており、今は人気のない公園の、そのまた端にある展望台は、湾の先端に位置しているから湾の内外を見渡すことができる。ちょっとした絶景というやつだ。
 海から吹く風も心地よく、ああ弁当とか買ってくりゃよかったなと後悔するも見渡す限り売店や露店の類はなく、まあ一人思索に耽るには十分な場所には違いない、と僕は展望台の柵に寄りかかって頬杖をついた。
 正直言って、僕の中で、蘇芳に移りたいという欲求と対立するのは、摂津の同僚たちに対してなんだか後ろめたいという程度の個人的な感情の問題に過ぎなくなっていた。その手のことをいくら気にしたところで、他人がどう思うかを律することはできないし、僕もそんなことを期待するほど幼くはない。僕の人生、誰かが代わりに責任取ってくれるわけでもないのだから……。
 吹きさらしの展望台を、強めの冷たい風がごうごうと襲う。少し肌寒さを覚えた僕は、展望台を降りて車に戻るとシートを少し傾ける。全開にした窓を吹き抜ける風と春の日差しがバランスし、僕はまどろみながら、どちらにするか、というよりもいかに周囲と自分を納得させればいいか、そんなことを考え始めていた。

「お父さん!」
 わっ、と一瞬驚いて起き上がるが、この世に僕を父と呼ぶ存在は一人しかいない。娘の美希だ。今年の春から西都近郊の大学に通っている……はずだ。
「なんで、お前こんなところに」
「せっかく遊びにいったのに、留守っぽいし電話も出ないし、もしかして、と思ってじーちゃんに電話したらこっち来てるっていうからさ」
 親父め、そんな電話の話なんか聞いてないぞ。
「て、お前、学校は?」
「サボり」
 悪びれもせず言い放つ我が娘に、むしろ頼もしさすら感じる僕は親としてどうなのだろうか。いやいや、僕も人並みに父親としての諫め言葉の一つくらいは必要だろう。
「お前なあ、学校だってタダじゃないんだからさ」
「それ、お父さんが言う?」
 そうなのだ、僕は娘の養育費をビタ一文払っていないのである。正確に言えば「払わせてもらえない」のであった。妻、いや元妻の紘子と離婚する時、僕は美希への養育費だけは出すと主張したのだが、紘子ときたら、そんなはした金もらっても何の足しにもならない、私の稼ぎで十分だと突っぱねられたのである。地銀勤めの紘子は、当時既に若くして課長に抜擢されており、その収入は僕の倍を軽く超えていたのは事実だから、そう言われてしまうと立つ瀬がない。結局僕は面会の自由と引き換えに金銭の収受一切をしないということで妥結したのだった。
「ねえ、それよりか展望台行ってみようよ」
 さっき行ったとこなんだけど、と言いかけて僕は黙って車を降り、美希の後を追う。言い出したら聞かないのは紘子の遺伝に違いない。リードを外された散歩犬のように勝手に駆け出した美希は先に一人で展望台へ上がって行く。僕も調子に乗って階段を駆け上がった……はいいが、左の足首を捻ってしまった。少しズキズキと痛むが、絶景にはしゃいでいる美希には気取られないように素知らぬフリをする。
「なあ、学校、どうかしたのか」
「別になんかあるわけじゃないよ。でも、なんかダルいっていうか、思ってたのと違うっていうかさ」
「そりゃおめえ五月病ってやつだろ」
「そうなんかな」
「じゃねえの」
 まあ、心配しなくても帰ったらちゃんと行くから、と言う美希の表情には翳りはなく、僕の、もし何か深刻な話があれば父さんにもなるだけ相談してくれな、という情けないフォローにも、わかった、ありがとうと笑う美希へそれ以上の詮索はしないことにした。
 展望台を降りる時、傍らに止めてあるバイクに気が付いた。
「お、GSX-R」
「どうしたの?」
「いや、懐かしいバイクだなーっと思ってさ、これ20年以上前のモデルだぞ、まだ現役なんだな」
 へえ、と生返事する美希を尻目に、しげしげと見入ってしまう。見覚えのある赤基調のカラーリングは限定車の特殊塗装。結花里が乗っていたのと同じ……いやまさか。
「あのー、どうかしましたか? あれ?」
 持ち主らしき背後からの声に振り向くと――結花里だった。

「結花里?」
 もちろん相応に歳は取ってはいるが、ジーンズに薄手のジャケットを羽織った姿は別れた頃の印象そのままで、僕は結花里本人かどうかよりも偶然というものがこうも突然巡り来る事についてその可能性を――いやそんなことはどうでもいい。
「え、慎也? マジで?」
 いかにも、と複雑な表情(をしていたはず)の僕に、結花里は屈託のない笑顔を爆発させた。まるであの時のことはなかったかのような、そんな顔だった。誰? と美希が僕を肘で小突く。あ、えっとと詰まる僕を見かねてか、結花里が美希に応えた。
「中川結花里です。世良くんの同級生。もしかして、娘さん?」
「鈴木美希です。世良の娘です。初めまして」
「あ、いや、離婚した……んです」
 一瞬あれっ、という顔をした結花里にフォローを入れたつもりが腰砕けになってしまう僕。ああなるほどという顔で軽く会釈する結花里。結花里をじっと観察している美希。
「もしかして……お父さんの元カノとか、だったりします?」
 わっ何言うねんお前、と僕が振り向くよりも一瞬早く、結花里が、ぶはははと吹き出す。
「まあ、そう、かな」
 やっぱりなあ、へえ~、と僕に向かってニヤつく美希。
 別にやましいことは何もないはずだが、突然の出来事に処理能力が飽和しつつある僕は自分を落ち着かせようと必死だった。一方の結花里はケロっとした顔のまま。
「帰省? 連休明けちゃったけど、大丈夫なの?」
「ああ、仕事忙しくて、代休消化」
「ああなるほどね、大変だね」
 僕の日本語はおかしいが、文脈は通じたのでよしとする。ちくしょう、左足首がズキズキと痛い。
 不意に、結花里の携帯が鳴った。あ、ごめんと電話に出た結花里の眉間にたちまち皺が寄る。
「うん、それで、課長は? はいはい、ああそうか、うんうん、あーいま出先でさ、あ、いや今からそっち行くから、一時間くらいかな、それまでに資料まとめておいて、頼める? うん、いや、いーよ、気にすんな、うん、じゃ、またあとで」
「どうかした?」
 手早く電話を切った結花里は、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん、急用で戻らないといけなくて」
 言いながら、結花里はもう手袋を嵌め、ヘルメットをホルダから外しにかかっている。
「いーよ、気にすんなよ」
 内心ほっとしたのを見透かされたか、結花里が振り向き、笑う。
「ね、今晩時間ある? 7時には上がれると思うから、晩御飯でも一緒にどう? もちろん美希ちゃんも一緒に」
「え、でも」
「いーじゃん。行こーよ、行きたーい、レモンステーキ、トルコライス、太麺皿うどん、あごだしラーメン、うわー全部食いてー」
 あはは、決まり。じゃ、7時半に神楽町の公園集合で。と言うや否や結花里はGSX-Rに跨り、ぶっ飛んで行った。


■6.
 日も暮れかけた頃、助手席でまどろむ美希の携帯が鳴った。
「え、アキちゃん? ひさしぶりー! えー、すごくない? いま星ヶ瀬に居るんだよ私。そう、うん、じゃあどっかで合流しようよ。駅? わかった。ついたらまた連絡するね、じゃ」
 え、何、と訝しがる僕に、思いがけず旧友との再会と相成った故、拙者これにて失礼すると口上を述べた美希は先ほどの話はまるでなかったかのような顔をして、先に駅で降ろせと求めた。
 なんだあいつ自分で言っといて、と毒づくも美希の前で結花里と昔の話をすることにも抵抗があったから、内心ほっとしたのも事実だ。
 僕は美希を駅で降ろした後、そのまま適当に市内を流して時間を潰したあと一度実家に戻り車を置き、結花里との待ち合わせ場所へと向かった。
 実家からは高台を駆け降りるだけなので普段なら15分くらい……のはずだったのだが、いつも使っていた近道が錆びたフェンスで塞がれていたせいで少々遅くなってしまった。
 結花里は、僕の遅刻を詰りつつも美希のドタキャンについては特に気にした様子もなく、美希ちゃんいないんだったら別の店にしようかと提案してきた。
「覚えてる? ハルスケ」
「え、潰れたんじゃないの?」
「あ、何年か前に移転したんよ、この近所だよ」
「まじか、そうしよ」
 ハルスケはまあその俗にいう居酒屋なのであるが、小料理屋と呼ぶべき品格を持ち、酒は呑まねど肴は好きだという極めて健全な高校生だった僕と結花里にとって足繁く通った店の一つだった。
 メインストリートから一本裏路地に入った雑居ビルの二階、確かに階段の手前には見覚えのある立て看板があった。薄暗い階段を上り、ドアを開けた僕を待っていたのは、あの懐かしい空間だった。
「これ、すごくね? 昔と同じだろこれ」
「そうそう、引っ越しするときに内装もそっくり移したんだって」
 へえ、と僕はすっかり感心してしまった。間取りこそ違えど、小気味いいくらいにピカピカに磨きこまれたカウンターとテーブルに囲まれただけで僕はもう充分だった。捨て猫にも帰る家があったのだった。
「ここさ、入り口わかりにくいけど、学生ノリの騒がしい客がいないのがいいよね。禁煙だし」
 確かに、煙草は旨い飯と酒の邪魔でしかないな、と僕は大きく相槌を打つ。
「すみませーん、伊佐美、ロックで。慎也は?」
 じゃ、俺もと返事をしながらお品書きを高速スキャンする僕。
「すいません、キビナゴの刺身ください」
「そんな好きだったっけ?」
「あっちではなかなか食えなくてさあ」
 へえ、と言いながら目線はお品書きの海を漂っている結花里に、僕は社交辞令のつもりで声をかけた。それがいけなかった。
「仕事、たいへんだな」 
 徐に振り返った結花里は、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの顔で僕を見つめる。
「ちょっと聞いておくれよ兄さん」
 いかん、なんかスイッチ入った。がもう遅かった。

「んでさぁ~、一発ビシッと言ってやったわけー、それはあんたの仕事なんだろーって。議上で自分がそう大見得切ったんだろ、議事録に書いてあるだろ、しかも承認印押したの自分だろ~、なんで今頃私に進捗フォローとかしてくんの? わけがわからん」
 すっかり出来上がった結花里に相槌を打ちながらも、訴えの中身は他人事じゃねえなと身につまされる。
「ちょっとー、聞いてる?」
「聞いてるって。要はアホなんだろ」
「そうそう、アホ上司」
「時々いるじゃん、反対するなら代案出せよ! みたいな」
「あ、それそれ! 言う言う!」
 お代わりを頼んで向き直る結花里。五杯目だ。ちょっとペースが早い、気がする。
「売り言葉に買い言葉ってんならまだしも、なんか本気でそう信じてるから手に負えないんだよね、何べん言ってもダメなもんはダメってだけでしょ」
「たまらんな」
「そう、たまらん、ったく、今度という今度は許さん、意地でもあのヤローに始末させたらあ」
 苦労はどこも同じというわけか……いや違う。逃げ出す算段で頭いっぱいの自分と、戦ってるこいつ。
 僕は後ろめたさを悟られたくなくて、結花里を外に誘った。


■7.
 店を出て、駅まで歩く。駅裏も開発が進んだらしく僕の知るうらぶれた風景は、小ざっぱりとした臨海公園に変わっていた。僕は足取りの覚束ない結花里を適当なベンチに座らせ、自販機で水を買い、手渡す。海際の温い風の中、冷たい水が喉に心地よかった。ずいぶん早咲きの夾竹桃の白い花が潮風に揺れる。
 向かいの岸壁には米軍だか自衛隊だかのフネが何隻か泊っているが、僕には見分けはつかない。軍艦の間をかき分けるように港に入って来た白い船からボーと汽笛が響く。五島向けのフェリーだと思う。ゆっくりと桟橋に接岸しつつある白い船を眺めながら、僕と結花里はしばらく無言でいたが、徐に沈黙を破ったのは結花里だった。

「まだ、怒ってる、よね?」
 何がさ、と言いかけて、それも少々意地が悪いと思い直し、いや、と応える。
「本当に?」
 ああ、と応えた声色に少々不機嫌さが混じってしまったかもしれない。結花里は、またしばらく黙り込んでしまった。僕もどうフォローしていいかわからない。でも誤解されたままでいるのは居心地が悪い。僕は要点を頭の中で三回ほどまとめて、ようやく口を開いた。
「今だから言うけど」
「うん」
「あの直後は確かに辛かった、それは認める」
「ごめん」
「なんちゅうか、人間不信みたいな、しばらくそんな感じだったかも」
「ごめん」
「でもなあ、辛かったって事はよく覚えてるけど、その時の気分はもう思い出せない」
 結花里は、猫背になって目を伏せ黙っている。
「月並みだけどさ、時間が解決するってやつ、いやほんとに」
 結花里はなお、納得してなさそうな顔をしていたが、今の僕にはそれ以上の説明はできない。
 かつての僕は、ここから出て行きたい、遠くしか見てない、そういう自覚はあった。そのことについての後悔はない。
 僕が見誤ったのは、結花里もそこに当然付いて来るものだと思っていたことだ。突然のサヨナラに僕は、結花里に裏切られた、という思いだけが募り、結局は時間が大抵のことを解決した。その隙間を埋めるように他人との接点を求める中で紘子と出会い、結婚して離婚した。僕自身に昔の恨み言をぶつける意図がない以上、適当にそのままお茶を濁してしまうのが最善手だろうとは思ったが、黙りこくったままの結花里に気まずくなった僕は、開き直ってみることにした。
「なあ、もう一度聞いてもいいか? フラれた理由」
 それは、と言いかけて口をつぐんだ結花里は、突然膝をパンと叩いて顔を上げた。
「実は、ウソついてた、ごめん」
 やっぱそうか、と僕は笑い飛ばした。
「何ていうか、新しい街で新しいことやるんだ、って意気込んでる慎也見てるとさ、応援したいなって思った、それは本当。信じてくれないかもしれないけど」
 そんなことないよ、と応えた。嘘ではない。
「私はここから出ていく必要なんかない、て思ってけど、慎也にとってそれはとても大事なことなんだろうな、と思った」
 それで、と促す僕。
「なんか半端な気持ちで邪魔をしたくなかった、てのはカッコつけすぎ、だよね」
 僕はそれには答えなかった。それは少々虫が良すぎる話なのではと思わなくもない、いや、自分だったらどうだろう。俄かに答えが出ない。
「自分の気持ちを抑えて慎也に付いて行くのも良いと思った。でも、やっぱどこかでそれが暴発する時が来ちゃうのかも知れない、その時、私はきっと慎也のせいにしちゃうだろう、それが怖くなった。いや、それも言い訳だよね、ごめん、なんかわけわかんなくなってきた、ごめん」
 僕は結花里に、ありがとう、もう大丈夫だから気にするな、とだけ応えた。俯いた結花里は泣いてるようだったが僕はしばらく気が付かないフリをした。
 五島向けのフェリーらしき白い船が、ボーと汽笛を鳴らして桟橋を離れていく。僕は去り行く船をぼんやりと眺めながら、こういう時に何て言葉をかけたらいいのだろう、と考え込んでいたが、結局答えが見つかることはなかった。船が沖合に去った頃、漸く落ち着いた結花里は立ち上がり、そろそろ帰ろうかと切り出した。僕は、家まで送るよと言い張り、結花里は遠回りになるから別にいいよと断ったものの、最後には折れた。

「美希ちゃん、いい子だよね」
「そうか?」
 道すがら、突然美希の話を始めた結花里に僕はちょっとだけ訝しく思った。
「あーいう物怖じしない子、好きだなあ」
「そうか?」
「なんで離婚しちゃったの?」
 まあいろいろ、と言いかけて、この際だからまあいいか、という気分になった。
 離婚した、と言っても関係は悪くない(と思っているのはこちらだけかも知れないが)、ただ、養育費の負担は一切お断り、私が自分で育てるの一点張り。
「そうじゃなくて、離婚した理由だって」
「このままではあなたはダメになる」
「は?」
「いや、言われたそのまま」
「なにそれ」
 困った。正直言って僕にも未だに謎なのだった。思いつくのは当時の僕は自分の仕事に手いっぱいで家事については全く紘子に頼り切りだったことだ。しかし、当の紘子に言われたことは今でも脳裏に焼き付いている。

――世間並みに『私はあなたの家政婦じゃない』とか言いたいところだけれど、あいにく私そういうの苦痛じゃないの。だらしない男の面倒見るのって楽しくて堪らないのよね。でもね、それじゃ貴方はダメになる。それは嫌なの。だから離婚してくれる? しばらく一人で男を磨きなさい。美希は私が責任を持って育てます。美希が大人になるまでにあなたがいい男に育っていたらまた一緒になってあげてもいいわ――

 ここまで話したところで、結花里は腹を抱えて爆笑し、人目も憚らずひとしきり笑い転げたあとで漸く僕への質問を再開した。
「で、それで納得しちゃったわけ」
「納得なんてしてない」
 してない、が、他にどうしようもなかったのだ。少なくとも僕の考えつく限りでは。
「やり直したいわけ?」
「そういう選択肢を持てる様にはなりたい」
 おお、立派立派、と茶化す結花里に僕は押し黙るほかなかった。
 強がったものの、紘子とはやり直したいと思っている。ただ紘子を迎えに行くだけの男になれたという自信がまた持てないのだ。全く情けない話ではあるが、事実だ。蘇芳に移るとして、それでいいのかと紘子に叱られるのではないか、心のどこかにそういう思いがある。
「あ、ちょっとゴメン」結花里の携帯が鳴った。
「はいはい、わかりました、いま帰るとこ、うっさいなー、もう切るよ、じゃあね」
「仕事?」
「いや、息子から」
 結花里の、息子って発音がなんだかものすごく板に付いていて何か茶化したくなったが結花里に遮られた。
「父親に似ずしっかりしてるわ、どっちが母親かわかんないくらい。ああ、私もねバツイチ。悪い人じゃなかったんだけどさ、私の観る目が無かったっていうかなんつーか甲斐性なしってやつ? 慰謝料どころか養育費すら払えないし、まああてになんかしてないけどさあ」
 なんだか耳が痛いです、と萎えた僕に気が付いてか結花里は話題を変えた。
「星ヶ瀬に、戻ってくるつもりはないの?」
「結花里は、なんでここに残るって決めたの?」
「質問に質問で返すなって」
「あ、いやごめん」
「故郷は捨てた、とかそういうやつ?」
 ――不思議なことに、今までそんなことを考えた事がなかった。
「捨てた、なんていうつもりもないし、とにかく自分の居場所を守るのに頭がいっぱいで、なんていうか」
 ふうん、とあいまいに返す結花里。
 もしかして、あの時「一緒に行こう」と言えたならば、もしかして違う未来があったのかも知れない。
 いや、そうじゃない。僕は結花里に「ここで待ってる」と言われるのが怖くて口にできなかったのだ。結花里を自分の足枷にしてしまうことを怖れた。そういうことなのではないだろうか。

 小一時間ほど歩き、結花里の実家に着いた。出迎えたのは息子だろうか、中学生くらいに見える、キリッとした眉毛が結花里そっくりだ。
「ただいまあ」
「ただいま、じゃねえよ、いま何時だと思ってんだよ、あ、いつも母がお世話になってます、息子の直人です。すみません本当」
 直人と名乗った少年は僕に向かってペコリと頭を下げ、酒臭い(であろう)母親をしかめ面で玄関へ引きずり込む。
 息子に引きずられながら、じゃあまたなー、と手を振る結花里を見送り、結花里の実家を後にした。しばらくして名乗るのを忘れたのに気が付いたが、もう遅い。


■8.
 実家に戻ると、母と美希は既に床についており、父だけが起きていたが、おう帰ったか風呂は最後に湯抜いとけよとだけ言って寝室に戻った。僕は追い焚き中の湯船に浸かりながら、これからのことについて思案したが、結局何もまとまらなかった。

 翌朝、僕を叩き起こした美希は僕を街へと誘った。昨日の結花里とのことについて根掘り葉掘り聞かれたが、特にやましいことはないので極力丁寧に答えてやった。昼時になり、美希はハルスケに連れていけとねだった。
「また同じ店に行くのかよ」
「私は行ってないし、口止め料ってことで」
「別れた妻に義理はないぞ」
 へえ~、言うねえ~、と含み笑いの美希に僕は慌てて前言を撤回した。

「で、どうすんの、転職しちゃうわけ?」
 アラカブの味噌汁を啜り、美希はなにこれ美味すぎ! と目を白黒させた。
 ガシラなんか関西でも売ってるだろ、大げさだなと思いつつ、まあ確かに気軽に味噌汁の具にする値段じゃない。
「迷ってる。てか正直、逃げることばっか考えてた気がする」
 うーんと考えこんで、味噌汁のお代わりを頼む美希。
「どちらを選べば正解、ってわけじゃないよね。どっちにしたって逃げることはできないんだから、いっそ根性を悪くして戦うしかないよね」
 我が娘ながら、わかったような、わからんようなことを言う。
「まあ、確かに一歩を踏み出す勇気ってか、逃げていては何も解決しないってのは同意だけどな」
「流れが変わるのを待つのではなく、先回りして引きずり倒せ! ってお母さんいつも言ってるよ」
 紘子の言いそうなことだ……。
「しっかし、お前、紘子に似てきたな」
「え、本当? だよね?」
 ぱあっと笑顔満面の美希。
「そういうの否定するもんじゃないの? フツー」
「我が母親ながら、私、尊敬してんだ。美人で頭よくて根性あるし最高じゃん」
「否定はしないが」
「なに気取ってんのさ、さっさと迎えに行かないと売り切れちゃうよ」
 なんかそんな話あるのか、と僕は慌てたが、それはない、と美希はきっぱり否定した。
 狼狽した僕を目敏く値踏みするような目で睨んだ美希は、ふん、と紘子そっくりの仕草で鼻息を鳴らすと、ごちそうさま、とよく響く声でマスターを呼んだ。

 最終日、帰りのヒコーキ代の節約だ、と半ば強引に僕の車に乗り込んだ美希は高速に乗るや否や寝息を立て始めた。関西までのほぼ全行程を寝て過ごすという贅沢ぶりには僕もあやかりたいが、美希の運転に身を委ねるほどの度胸はまだない。
 早朝から高速を走り倒し、西都に着くころにはとっぷりと日は暮れ、出口手前のいつものポイントはお約束通りに10kmの渋滞を発生させた。車列はノロノロと進んだが、出口の直前に来て動きが止まる。ああ、あと10m、いや5mあれば左に抜けられるというのに。僕はあくびを噛み殺しつつオレンジ色の光が照らす美希の寝顔を見つめる。
 離婚した時、美希はまだ小学生だったが、離婚については一切何も泣き言を言わなかった。自由に会えるとはいえ、別居についてあっさりと受け入れられたことに父親としてはショックを受けたのだが、紘子と紘子の実家で過ごすことについては何の心配もないことはわかりきっていたから、僕もついそんなものかと無責任な思いで過ごしてきた。でも、美希が何にも感じてなかったわけがない。僕はいい子を演じる美希に甘えていただけなのだ。今更後悔したって遅いけど。
 今わかっているのは、自分にできることをやらないと、永遠に紘子を迎えには行けないってこと。そして今の僕にまだやれることがあるのなら、やれるだけやってみるか、逃げ出す算段はそれからだって構わない。美希の寝顔を眺めながら、そんなことを考えた。

 不意に後ろからクラクションが短く鳴った。いつしか前が空いている。僕はちょっと焦りつつも、美希を起こさないように左の中指の先でウィンカーレバーを細心の注意でそーっと押し下げ、アクセルを静かに踏み込んだ。

(了)

花咲くころに

花咲くころに

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted