(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑥

呪われた娘と女王の紅涙

女王アイシスは、その美しい瞼から流れ落ちる滴(しずく)を拭うこともしなかった。頬を伝う涙は、砂漠を渡る風にやがて乾いて消える。だが、女王の心はもはや晴れることの無い霧雨に侵されていた。

たったいま、愛する弟がナイルの娘を連れ再び戻ったという報せを空虚な心で聴いた。侍従のアリが、アイシスさま、と沈痛に声をかける。しかし女王は軽く頭を振って、艶やかな烏羽色の髪を揺らせて立ち上がった。そして、供を拒んでひとり、自ら祭司を務める神殿へと向かう。

切り出した巨大な花岡岩と砂岩、それにナイルが運んだ泥で作った日干し煉瓦などを用いて作られた荘厳な大神殿は、古代エジプトの主神であるアメン神(太陽神)を祀ったもので、先々代の王が建てたものと言われている。
大門をくぐり、廊下を進み、立ち並ぶ巨大な柱の広間を過ぎた先の小さな空間。アイシスが普段、祈りを捧げている祭壇だ。
彼女が姿を現すと、神官達が灯明皿に火を入れて持ってきた。アイシスはその火を受け取り、乳香と呼ばれる儀式用の香木をくべて焚き、夕刻の祈りを捧げ始めた。

一日の役目を終えた太陽神が、燃え尽きるように地平線の向こうへ消えていく。薄闇に包まれる大神殿のなか、心を鎮めて国の安寧を祈る。女王の黒い影と灯火の火影が壁に重なって揺れた。
徐々に夜が迫り、清らかに保つべき巫女の心身は、しかし闇の底へと沈んでいった。

(おお…なぜ…どうしてこのようなことに?わたくしはただ、あなたを守りたかっただけなのに…)

神の御前と言えども、アイシスは我が身に降る苦難を嘆かずにはいられなかった。
父王が遺したこのエジプトを継ぎ、姉弟ふたりで互いに手を取り合い、助け合って、ずっと共に歩んでいく。ただそれをよすがに生きてきた。愛する弟のため、アイシスは自分の命さえも懸けてきたのだ。
それなのに、一人の少女にすべて奪われた。

アメン神の光はまだわずかに大地の稜線にとどまっていたが、祈りを中断し、床に伏したままの女王を、神官たちは離れたところから静かに見つめている。その視線を感じながらも、アイシスは顔を上げることもできず、ただ惨めに地面の砂つぶを握るばかりだった。

夫となるはずであった弟のメンフィスは、なんの因果か、呪い殺すため現代から連れてきた金の髪の娘、キャロルに心を奪われた。
メンフィスは嫌がる彼女を無理にも傍におくと、どんなに願っても姉には決して見せなかった顔をキャロルに見せるようになった。次第に深く愛するようになり、いまでは片時も離さず、どこぞへ連れ去られても必ず半狂乱になって探し、連れ戻してくる始末だった。
また、そればかりではない。国民達までもキャロルを慕い、崇め、王妃にしようとまで言いはじめたのだ。これまで国のため、民のためにと尽くしてきたこのわたくしを差し置いて、だ。これほどの屈辱があろうか。

下エジプト女王としての誇りを傷つけられたことも我慢ならぬが、それよりも、あれほど仲睦まじかった弟メンフィスが自分を遠ざけようとすることが、アイシスには一番辛く、悲しかった。
一国の女王としてよりも、ひとりの女として、愛する男を奪われることの方がより苦しかったのだ。それは、唯人の苦しみであり、神を祀る祭司である彼女にとっては負い目ともなったが、メンフィスを失えば、女王や祭司の身分さえも意味がなかった。世界が崩れるほどに、アイシスは弟を愛していた。

(このまま、メンフィスを奪われてなるものか)

邪魔者は、消す。
偉大なる太陽アメン神が地平の向こう側へ完全に姿を消し、夜の支配が始まると、アイシスの漆黒の瞳におぞましい光が宿る。
弟に言い寄る不届きな異国の王女を消したように、きっとキャロルもメンフィスから引き剥がし、冥府の神、アヌビスの元へ送ってやるのだ。どんな手段を使ってでも、必ず。

かつて、清らかで優しく強く、将来ファラオとなる弟を傍らで見守ってきた姉は、愛を奪われて復讐者となり、ことごとく変貌してしまったのだった。

アイシスは灰となった乳香がくすぶる祭壇を前に、鎌首をもたげる蛇のごとくするりと立ち上がった。その背には、訪れたときの虚無感はなく、愛と憎しみを燃え種に報復の炎がゆらめいていた。



「キャロル…!キャロル!気づいたか?」

「え…?」

目を開けると、 一番上の兄のライアンが、怒ったような困ったような表情でキャロルの顔を覗き込んでいた。

「キャロル…いままでどこへ行っていたんだ。探したんだぞ。」

「兄さん…?ライアン兄さん!?」

キャロルは飛び起きて、兄の首に抱きついた。髪からふわりと煙草の匂いがする。普段は好きではなかったその香りが、いまは泣き出したいほど懐かしい。

「ああ…兄さん…わたし、戻ってきたのね。」

どうやらカイロにある自宅のベッドに横になっている。柔らかい綿のシーツクロスと、見慣れた部屋の景色が、喜びと安堵が沸き起こさせた。

「このおてんばめ。王家の谷の発掘場は広いんだ。ひとりでどこかへいなくなったら、何かあっても見つけてやれないぞ。」

「はあい、ごめんなさい。もうしないわ。」

「お前のもうしない、は信用できないからな。」

「もう兄さん、本当よ」

(二度と、あんな怖い思いは嫌だもの…)

「もういい、疲れたろう。しばらく寝るんだ。」

「ええ」

怒っていながらも、暖かな腕に安心してキャロルは再び眠りに落ちた。
ああ!戻ってきた、戻ってきたのね…!
独りになるのはもう嫌。ずっとずっと家族や学校のみんなのそばにいたい…。

しばらく眠り込んで、ふと目覚めてみると、今度は何もない黄昏の砂漠のようなところに、キャロルは立っていた。
ああこれは夢の中なのだ、と気づいて周りを見渡す。金の粒子がはらはら舞う不思議な空間。

「キャロル」

呼ばれて後ろを振り返ると、スーツ姿のライアンが立っていた。

「ライアン兄さん!」

「キャロル。お前をずっと見ていたいけど、僕はもう行かなきゃならない。」

「え?兄さんどこへ行くの?」

どこか悲しげな横顔を見せながら、兄はキャロルに背を向けて歩いて行く。

(待って兄さん!)

キャロルはその背中に手を伸ばし、必死で呼ぶが、やがて金色の砂が巻き上がり、ライアンの姿はかき消えた。


「ライアン兄さん‼」

叫んで、今度こそ飛び起きた。光の注ぐベッドの上、夢か現かもわからず呆然としていると、

「キャロル!」

すぐ側から大きく荒々しい声がした。びくりと肩を震わせて顔をあげてみれば、大きな縞頭巾を被った若き王が、吸い込まれそうなほど黒い瞳でじっと確かめるようにキャロルを見つめていた。
新王国時代のエジプトを統べる王、メンフィスだった。

「やっと目覚めたか…」

明朝の儀式のあとなのか、きらびやかな青と金のメネスを頭にかぶり、幾重もの黄金板に、色鮮やかな宝石や色ガラスを嵌め込んだ首飾りとロインクロス(腰布)を身に付けた、正装のままだ。

「め、メンフィス…」

(夢、だったの…?)

自宅に帰れたと思ったのは、ただの夢と気がつくと、早潮のごとく現実が押し寄せる。
テラコッタやアラバスター製の食器が置かれた机や、葦草で器用に編まれた調度品などが目に入った。まだ自分が、三千年前に引き留められたままであることを容赦なく知らされる。
そして気を失う前、なにがあったかを次々と思い出したのだった。

「メンフィ…」

「けがは無いな」

メンフィスは、いきなりベッドにどかりと腰を降ろすと、手を伸ばして娘の白い頬に触れようとした。だが少女は反射的にびくりと身を引いてしまう。その態度に、メンフィスは機嫌を損ねたようだった。

「…ライアンとは誰ぞ。」

「えっ」

「眠っているあいだ、何度も名を呼んでいた。」

早くも眉根を寄せて、いまにも怒り出しそうな古代王を前に、キャロルは怯えながらも声を絞った。

「…に、兄さんよ。そんなことよりメンフィス…」

「兄だと…?そなた、兄がいるのか!なぜ黙っていた!」

「なっ…急になにを怒るの?夢で兄さんに会ってただけよ。わたし、夢の中で兄さんを呼んで…」

「なに!」

「きゃ…」

「このわたしではなく、他の男の夢を見るなどと…!」

メンフィスがキャロルの両肩を掴んで、力のまま揺さぶった。キャロルの方も、それを振りほどこうと必死で抵抗する。

「乱暴はやめてメンフィス!どうしてそんなに怒るのよ!」

「そなたが兄の名など口にするからだ!」

「メンフィス様。」

凛とした、よく通る老齢な声が響いて、ふたりははっと振り返る。

「おお…キャロル様、ようやっと、お目覚めになられましたかな。」

「…イムホテップ。」

慇懃に会釈をする老宰相に、ふたりは言い争いを止め、互いにふて腐れたように別々の方を見る。
イムホテップは長い銀の髭の口許を緩めると、手にした杖をつかりつかりと鳴らして歩み寄った。

「メンフィス様。此度のヒッタイトとの戦、小競り合い程度で済んでなによりでございました。大国同士、あまり事を構えすぎては、近隣諸国の思うつぼですからな。」

イムホテップの言葉に、メンフィスの不機嫌がさらに増す。眉間にこれでもかというほど陰影を刻むと、イライラと腕を組んだ。

「なによりなものか。それもこれも、そなたが仕組んだことであろう。」

「はて、なんのことにございましょう」

「イズミル王子の策にまんまと乗せられ、キャロルを奪われるばかりか、船を焼かれ退路まで絶たれるとは。わが軍の恥を晒しただけではないか。」

(イズミル王子…)

キャロルは思わずその名に胸をざわつかせた。イムホテップとメンフィスはなおも話を続けている。

「そうお腹立ち召されるなメンフィス王。もはやあなた様は一国のファラオ、左様なことは小事ですぞ。もっと大きく構えなされ。」

「……」

「恐れ多くもわたくしは、お父上のネフェルマアト王の代から、この上下エジプトを影ながらお護りする役目を仰せつかっております。我が国繁栄のためならば、この老イムホテップ、いくらでも知恵を絞りますぞ。」

「言うな、わかっている。」

メンフィスは煙たげに片手を振り、またそっぽを向いてしまった。その荒々しい気性のために、臣下の諫言に耳を傾けることの少ないメンフィス王であったが、さすがに先代王から仕える宰相の言葉を捨て置くことはできないようだった。

「あ、あの…」

キャロルは二人の会話が途切れたところでようやく口を挟んだ。

「ルカは…?」

いつも側に控える従者が、いまは気配もない。ましてや先の戦で、キャロルをさらった嫌疑をかけられ、メンフィスによって縛り上げられていたのだ。気にならないわけがなかった。
しかし彼の名を口にした途端、その場の空気が急に緊迫する。メンフィスは益々苦虫を噛み潰した顔になり、先程まで穏やかに話していたイムホテップでさえも、口閉ざし、難しい顔で髭を撫でている。

「メンフィス!ルカはどうしたの…?ま、まさか…」

嫌な予感にいてもたってもいられず、キャロルはベッドから滑り降りた。そして、メンフィスに詰め寄ろうとしたが、先にイムホテップが口を開いた。

「詮議しております。」

「詮議…?」

「ルカは、あなた様を宮殿から連れ出し、砂漠でヒッタイトのイズミル王子に捕まった。
しかし見方をたがえれば、ルカがあなた様をそそのかし、イズミル王子に引き渡したということにもなりえます。」

「な…」

「ですから、本当にルカがヒッタイトの手の者かどうか、それを確かめるために身柄を詮議させているのです。まだ生きておりますゆえ、ご安心なされ。」

イムホテップはごく淡々とそれを語った。メンフィスと彼女の間にはいり、言い争いになるのを避けるのための配慮であったが、キャロルにはかえって嘘のように聞こえた。

「…メンフィス、ルカはいまどこにいるの?」

思わず声が震えた。碧い瞳で真っ直ぐメンフィスを見つめる。青年王は両腕を組んで、鋭くこちらを睨んでいたが、やがてばつが悪くなったか、視線を外すと無造作に言った。

「地下牢に繋いで3日目だ。水も食事も与えず、ムチをさんざんくれてやったが、さっぱりなにも吐かぬ。」

それを聞くや否や、キャロルはメンフィスの脇をすり抜けた。呼び止める隙もなく部屋から廊下へと走り出る。

「ルカ!」

さすがに3日も気を失っていたので、足元がふらついたが、構わず素足のまま牢のある場所を目指す。
ここに来たばかりの頃、メンフィスの怒りを買って地下牢に放り込まれたことがあった。そのときの記憶を頼りに、暗い口を開ける地下道を探しだすと、躊躇わずに身を滑り込ませ、奥の牢部屋へと急いだ。

「な、ナイルの娘?!」

牢番が、寝巻きと裸足のままかけこんできた娘を見て驚き、制止も忘れて振り返った。

「ルカ!!」

地下の岩石をくりぬいて作られた牢部屋の前に出ると、わずかな灯火に照らされて、小さな人影が地面に伏しているのが見えた。

「……キャ…ロル…様?」

泥と、そしておそらく自身の血液にべっとりと濡れたその顔は、紛れもなくルカだった。

「ああ…ルカ…ゆるして」

キャロルはひざまずいて閉ざされた格子の隙間からルカに手を伸ばした。
ルカの小さな身体はムチによる裂傷で腫れ上がり、ずたずただった。食事もろくに与えられず、多量に血を流したせいで体力は消耗し、もはや瀕死といってよかった。手足は痺れ、起き上がることもできず、こちらを見る目は虚ろになっている。

「どう…して、こ…」

「ルカ、しゃべらないでいいの。すぐにここから出すようにメンフィスに言うわ」

王にとって、なにものにも代えがたく大事にしている娘を勝手に連れ出し、さらには敵国に捕らえられるなど、あってはならないことだった。メンフィスの怒りは半端ではなかった。

「まだ生きていたか。しぶといやつよ。」

横柄な声を背後にぶつけられて振り返ると、メンフィス王が部屋の入り口に立って二人を見ていた。

「メンフィス。」

冷酷な瞳がこちらを見据えていた。闇に浮かぶのは、逆らえばこうだ、と脅すような視線だ。常人ならば怯んでものも言えない威圧感だったが、キャロルは屈しない。

「メンフィス、お願いだからルカをここから出して。このままでは死んでしまうわ。」

「そなたを連れ出した罪だ。死ぬるならばそれがこの者の運命(さだめ)だ。」

メンフィスの答えに、キャロルはきっと唇を引き結び、それからひと息に言葉を吐き出した。

「では、わたしも同罪だわ。」

「なに?」

「ルカに宮殿から連れ出してほしいと頼んだのはわたしよ。それが罪だというなら、わたしも一緒に牢に入れて!」

「ならぬ!」

「なぜ?ルカに罪はないわ!こんな惨たらしいことはもうやめて…!」

「うるさい!そなたがなにを言おうが、こやつが真実を吐くまで続ける!それが掟だ!」

「掟だ…ってそんな。どうして?どうして、わかってくれないのメンフィス…!前に言ったはずだわ!人の命は尊いって。例え罪人であっても、一方的に命を奪っていいものではないのよ!」

はらはらと涙を流して訴えかけるキャロルだったが、メンフィスは戸惑いと怒りを彼女にぶつけるしかなかった。

「ええい、わからぬのはそなただ!!」

メンフィスは地べたに座るキャロルの腕をひっつかんで立たせると、壁際に追いやった。

「いやっ…!」

「この男は、そなたをヒッタイトに引き渡したのかもしれぬのだぞ!それが証拠に、まるで示しあわせたように、その先にイズミルがいた!」

感情と共に乱れる黒髪が、頬に当たるほどに近づいて吼えるメンフィスに、キャロルは震えながらも目を逸らさない。

「こやつは、ヒッタイトの間者やもしれぬ!そなたを連れ去り、瀕死の目に遭わせたヒッタイトだ!我が国の敵ぞ!それでも庇いだてするのか!」

「…国など関係ないわ。」

「…!」

「人の命は平等よ!どこの国の人だって、命の重さは同じ…!エジプト人でもヒッタイト人でも、目の前で不条理に殺されそうな人がいたら放ってはおけない!」

「おのれ…キャロル…!」

とうとうメンフィスの手がキャロルの首に伸びた。すこしでも力を込めれば、骨が砕けそうな細い首に、メンフィスの長い指が食い込む。

「…っ、わたしを…ころすの…?」

「わたしはお前を愛している!」

エジプトの若き王は、この国で唯一、思い通りにならぬ娘を前に苦しげに叫んだ。

「だがお前は…!お前は…、このわたしよりもそのような男を庇い死ぬという!ならば、いまここで終わらせてやる!」

キャロルの涙が、静かに白い頬をなぞり、伝い落ちて、メンフィスの手を濡らした。

「わた…しは、考古学で習う…古代エジプトの世界が…大好きだったわ…」

「……」

「でも…こんな、こんな人の命を物のように扱う世界は、嫌い…!そんな世界にしている…メンフィスも…嫌いよ!」

「……!」

力の緩んだ隙に、キャロルは力の限りもがいてメンフィスの腕を振りほどいた。

「げほっ…げほごほっ」

(キャロル様…!)

見ていたルカは息を飲む。不自由な手足を引きずり牢格子に身体を張り付けて、倒れたキャロルの姿を見ようとする。

「…では好きにしろ。」

メンフィスは肩で息をしながらも、激情は引いたようだった。足元で激しく咳き込むキャロルを見て、自分の方が苦しいように顔を歪める。何か言おうとしたが、やがて諦めたように彼女から目を逸らした。
衣を翻し、大股で出ていきかけて、横顔だけこちらへ向けると、地に伏す囚人へ宣告した。

「だがルカよ、貴様は本当のことを言うまでここからは出さぬ。キャロルを救いたくば、さっさと洗いざらい吐くのだ!よいな!」


その日から、メンフィスとキャロルの根比べが始まった。キャロルはルカが食事を口にするまで、自身は水も飲まぬと決め込んだ。
季節は夏であり、水を飲まなければすぐに干上がってしまう。幸いにも、気温の低い日が続いたが空気は乾燥しており、倒れるのは時間の問題であった。

「キャロル様…どうか、どうか水だけでもお飲みください…!」

「嫌よ…。ルカが許されるまで…わたしは…」

侍女が涙目で懇願するも、キャロルは頑なだった。すでに脱水の気があり、ベッドから起き上がることができなかった。このままでは、ルカも自分も死んでしまうかもしれない。

(でも…ここで諦めてルカをセチのように死なせるわけにはいかない…それに、)

キャロルにはある思いがあった。
現代で発見されたメンフィスのミイラを間近で見たとき、彼の人生について考えた。この若くして死んだエジプト王は、まばゆい黄金と共に葬られたこの王は、どんな時代に、なにを思い、どのように生きていたのか。あくまで歴史の傍観者のひとりとして、棺に眠る彼を眺めていた。
しかしいまは、自分もメンフィスも、生きて、ここにいる。

(わたしの存在は、きっとすでにメンフィスの運命を変えてしまっている。)

ならば、古代のルールに従って生きるのではなく、自分の考えも話して、それをわかちあいたい。古代の人々に…メンフィスに。もしも、いままでを忘れてこの世界に身を委ねてしまったら、きっと私は私ではなくなってしまう!

ふいにまた、家に帰れない悲しみが込み上げる。
ここで抵抗を止めてしまったら、本当に帰れなくなってしまうかもしれない。それは、この世界に埋もれないための証でもあった。居場所を見つけられずに彷徨うキャロルにとって、現代に帰ることは唯一の希望であり、いくらメンフィスが望んでも、キャロル自身の帰る場所を、家を、棄てることはできなかった。


ファラオがいらだっているのは、誰の目からも明らかだった。キャロルがまた彼にさからっているせいだと、みなわかってはいたが、聖なる娘のなすことには誰も口出しができず、手をこまねくばかりである。…ただひとりを除いては。

「メンフィス」

音もなく現れた姉アイシスは、黒く染めたエジプトの薄衣ーカラシリスーをなびかせ、黄金の鷲が翼を広げた冠を被り、いつもながらにあでやかであったが、真昼でも宵を引き連れているかのような重い静寂をまとう。

「なんの用ですか、姉上」

他人行儀な口調で返すのは、自分に対する厭わしさゆえにではなく、苛立っているときのメンフィスの癖だ。少なくともいまは、そう思いたかった。
こちらに背を向けたまま、パピルスの書類に目を通すことを止めない弟に、かつての優しき姉は抑揚のない声で言った。

「また、キャロルはあなたに逆らっているようですね」

メンフィスは深く息をつくと、書類を手離した。

「なぜそこまでキャロルに拘るのです。あの娘は…」

「姉上、いまは説教など…」

「説教ではありません。わたくしはあなたの心配をしているのです。」

姉は床を滑るように歩み寄ると、弟の背にそっと頬を寄せた。メンフィスが悲しいとき寂しいとき、苛立って癇癪を起してしまう彼を、なだめるのはいつでもアイシスの役目だった。
しかしいまは、なにを言っても聞く耳を持たないだろう。アイシスはあえて、真実のひとつを告げることにした。

「キャロルは神の娘ではありません。あの娘は呪われている。妃になど迎えれば、このエジプトに…あなた自身にも禍(わざわい)が…」

「…!」

案の定、メンフィスは振り返ってアイシスの腕をつかんだ。

「メンフィス…お願いだからキャロルを妃にするなど、馬鹿なことはお止しなさい。神殿の祭司であるわたくしの言うとおりにしなければ、本当に悪いことが起こりますよ。」

「姉上… !姉上は、このわたしになにか隠し事をしている!どうしてキャロルが呪われていると分かるのです!」

それは自分がその呪いをかけた張本人だからだ、ともし告げたなら、メンフィスは自分を殺すだろうか。
アイシスはメンフィスからすっと身を離す。

「…わたくしは、あなたを想って…あなたに立派なファラオとなって欲しいから言うのですよ。」

「わたしはもう、姉上の言うような子供ではありません。自分の妃は自分で決めます。」

自身と同じ色の姉の瞳を射抜くように見つめて言うと、メンフィスはアイシスを残して部屋を出ていってしまう。

(…あなたがなんと言おうと、わたくしは誰にもあなたを渡さないわ)


姉の執着の眼差しを振り切るように、メンフィス王は足早に中庭に面した回廊を突き進んだ。
技巧を凝らした透かし彫りの窓からは風が流れ、花ばなや動物が賑やかに描かれた壁が光庭をとり囲む。優雅に立ち並ぶ円形の石柱には、ファラオとアメン神を称えるヒエログリフがぐるりと刻まれている。神々の楽園を模したこの宮殿の主にふさわしく、身を飾ったメンフィス王もまた美しい。王が歩けば、かしずく宮廷人たちはその姿を目で追った。

だがいま、彼の心のうちは荒れた海のように穏やかではなかった。
ナイルに落ちたキャロルを追っていったとき、河の底で神の声を聞いた。

ーあの娘は呪われているー

母なるナイルのほとりから現れ、死の毒蛇に噛まれたメンフィスの命を救ってみせたキャロル。誰からともなく「ナイルの神の娘」と謳われ、それはさざ波のように民の間に広がった。
メンフィス自身もそれを信じて疑いはしなかった。
キャロルはほかの誰とも違う奇跡の娘だ、それは間違いない。だが、姉のアイシスは断固としてそれを否定し続ける。キャロルを妃にさせぬための詭弁と思い無視していたが、もし、あの河のなかの声と姉の言うことが正しかったとしたらー…

王は、娘の部屋の前で足を止めた。
午後の日差しが容赦なく周囲から水気を奪って、熱く乾ききった風が足元の埃と砂を巻き上げた。
扉の向こう、自身を盾に従者を護ろうと、ひとしずくの水も口にしない娘は、この暑さと乾きに耐えきれず、やがて一日花のように散ってしまうだろう。

メンフィスは己に問いただした。
キャロルが神の娘でなかったとして、この愛が変わるだろうか。神の娘でないなら、このまま見殺しにしても後悔はしないだろうか。神の娘ではないなら…傍に置くことも、触れることも、妃にすることもできないのだろうか。もしも、神の娘でないなら…!

(ーそれがどうした。)

メンフィスの象嵌のごとき黒檀色の瞳が熱を帯びる。あの娘を…キャロルを心から愛してしまった。花のような笑顔を自分だけのものにしたい。自分だけのために微笑ませ、この腕のなかで眠らせたい。
神の娘と言われるほどの不思議な力や未来を知る力も確かに欲しいが、何より彼女自身を手に入れたい。そのためならば、民や臣下を欺くことも厭わぬ。
およそ恐ろしい考えに及んでいることに気づいてはいるが、止めることはできない。

わたしは誇り高きエジプトのファラオだ。例え神の娘でなくても、誰に反対されようとも、キャロルを妃にしてみせる。

(呪いなど…!)

このわたしが祓い退け、取り去ってやる、そう心に決めて部屋の扉を勢いよく開いた。

「キャロル!」

「…!メンフィス様…!?」

「どけ!」

キャロルの周りを取り囲んでいた侍女を散らせて、寝台の脇に置かれた水の杯をつかんだ。

「メン…フィス?」

脱水状態のキャロルはぐったりとして、虚ろな目でメンフィスを見上げる。

「さあ飲め!」

「…うっ…!」

「め、メンフィス様…!手荒になさるのは…!キャロル様は衰弱なさっておいでです!」

「うるさい!
水を飲めキャロル!死にたいのか!」

年かさの侍女長が止めようとするも、メンフィスはキャロルの口に、無理矢理水の杯をあてがった。それでもキャロルは弱々しい抵抗をやめない。

「うっ、げほっ…げほっ。い、いやっ…!」

「いい加減、観念せよ!強情なっ…この…!」

ごとりと音をたてて杯が床に落下した。

「…あ……」

揉み合ううちに脳に血が昇ってしまったのか、キャロルはふいに気を失って、首を反らせて寝台に落ち込んだ。

「キャロル様!」

悲鳴を上げる侍女に、メンフィスは鋭く命じた。

「すぐ代わりの水を持ってまいれ!」

(なんとしても…従わせるぞ)

抱き起こし、乾いた唇を水で濡らしてやると、目をうっすらと開けた。

「……う」

「水を飲めキャロル。」

「ルカを…わたしよりもルカを助けて。」

「…なぜあの男にそこまでする。わたしが憎いからか。これは、わたしへの当て付けか!」

「ちが…」

「ではなぜだ。」

「あなたに…わかって…ほしいから。」

「なにをだ。」

乾いてひりつく喉を絞って、キャロルは訴えた。

「人の命の重さを。あなたに…正しく良き王になってほしい…から。」

「……!」

(わたしのためか。)

キャロルは再び気を失った。がくりと頭が落ちそうになるのを、メンフィスの腕が支える。

「メンフィス様…キャロル様が…!」

侍女達は狼狽えるが、メンフィスは一瞬、雷に打たれたかのように棒立ちになった。

(わたしのためにか…!おおキャロル…!)

つい先刻、姉から同じことを言われても、ただ頭の表面をすべっていくだけだった。それなのに、いまはどうしてか胸が熱い。その花弁のような唇から紡がれる言葉は、若き王を苛立たせるが、ときに心身を深く打ち震わせる。

(やはりそなただ。わたしには、そなたしかおらぬ。)

「死ぬことなど許さぬ…!」

白いアラバスターの杯を掴んで、中の水を一息にあおると、そのままキャロルの口へ運んだ。

「うっ…!」

キャロルはかすかに抵抗しかけたが、無意識に水分を求めて喉が上下した。

(飲んだ…!)

ようやく周りの侍女たちも胸を撫で下ろす。

「キャロル…」

そっと細い柔らかな髪を撫でた。乱れ張りついた額の前髪をそっと掻き分けてやる。起きているときは歯向かって暴れる憎らしい娘だが、眠る姿は幼子のように愛らしい。あれほど頑なに抵抗するのは、自分を想ってのことだと知れば、ますますいとおしくてならない。

キャロルにそのつもりがなくとも、自然とファラオの心は離れがたいものとなっていった。そして同時に、姉アイシスのキャロルへの憎悪は増す。永遠に噛み合わぬ愛憎の輪転こそが呪いと云えるかもしれない。ここにいる限り抜けられぬ因果と運命のなかで、少女は翻弄されるしかない。


どれほど眠っただろうか。頭痛と喉の乾きを覚えてキャロルは目を覚ました。

「…キャロル様。」

すぐそばで小さな声がした。

「ルカ…!」

牢に縛られていたはずのルカがそこに立っていた。やせ細って傷だらけではあったが、泥と血にまみれていた身を清め、真新しい衣を与えられていた。

「ああルカ…許されたのね!よかった…」

「キャロル様…」

ルカは、キャロルの横たわる寝台に近づき静かにひざまづいた。差し伸ばされた少女の手指をそっと握り返す。
しかし、苦痛から解放されたというのに、彼の表情は硬い。起き上がろうとする娘をいたわって、

「さあ早く水をお飲みください。涙を流されてはなりません、これ以上水分を失ってはお命に関わります。」

「ええ…ありがとうルカ。」

「…」

「…ルカ?」

「お礼を申し上げるのはわたくしの方です。」

なぜか苦しげに顔を伏せる従者にキャロルは不思議そうに小首を傾げた。

「なぜ…わたくしにそこまでなさるのですか…?
わたくしは……わたしはっ…!」

ただ、疑いのない無垢な瞳が隠密の少年を見つめた。湧水を思わせる蒼く透き通る両目が恐ろしいほど綺麗で、ルカはその先の言葉を飲み込んだ。

「いえ…なんでもありません。」

「…ルカ?」

「お命を懸けて救っていただいたこの身、これまで以上にあなた様に捧げます。」

「ルカ…。わたしはそんな…ただ、」

「いいのです。わたしはあなたの召し使いですから、これまで通りなんでもお申し付けください。」

「え…ええ。」

「さあ、もっと水を飲んでください。食事も採らなければ。食べられるものはありますか?」

何事もなかったかのように、従者の仕事に戻るルカに、キャロルは嬉しさを覚える一方で、不思議にも思った。

(ルカ、あなたこそ…どうしてわたしにそこまでしてくれるの?)

メンフィスはルカをヒッタイトの間者だと疑っていた。でも彼はメンフィスに傷つけられたわたしを慰めてくれた。いつでも側にいて、心を寄り添わせてくれた。

(そんなルカが、わたしを裏切っているなんて考えられない…)

キャロルにとって、彼がこの宮殿のなかで唯一の理解者だった。ここから逃げ出したいと思う心をわかってくれたのはルカだけだった。
さすがに今度の一件で、彼を巻き込んではいけないと自覚はしたが、信頼をやめる気はなかった。すがるのは危険だが、それでも協力者の一人として考えたかった。

なんとしても、家に帰る方法を見つけ出したい。そのためには、ひとりでは到底無理だとキャロルは悟っていた。ヒッタイトと戦争になって、自分の存在は外国にまで広く知れ渡ってしまった。もはや身を隠すのも難しい。

ルカが下がると、ベッドから床に降りて部屋の窓辺に立った。そこから外を覗けば、ナイルが夕陽に焼け染まり、金色(こんじき)の波頭を立てている。キャロルは西に傾く太陽を目に映しながら、ふいに想像した。

(もしも、メンフィスの妃となってここに留まったとしたら…。)

キャロルは自分の知る限りのエジプト王家の知識を、頭のなかでひとつひとつ改めてみた。
古代エジプトでは、王は神にも等しい存在だ。その妃もまた然り。王子を産むことのできる王妃は、次の王位継承権を持っており、王の死後はその妃と婚姻した男子が次の王となる決まりだった。
さらに、次の王となれる適当な男子がおらぬ場合、王妃が王そのものとなる可能性もあった。たしか、ハトシェプストというファラオは、先代王の妃で夫の死後、女性でありながら王位についていた…。

そこまで考えたところで、キャロルは自分の身体が震えだすのを感じた。

(わたしは、古代の生まれじゃない。王族でもない。神の娘でも…ない。未来からきたというだけで、本当にただの女子学生なのに、そんな身分になるなんて。国を背負うことになるかもしれないなんて。そんな、そんな恐ろしいこと…!)

気が動転しそうになるのをなんとか堪える。身体に水分はほとんど残っていないはずだが、背中に冷たい汗が伝いそうだった。
窓下の腰壁にずるずると寄りかかってうずくまり、息を吸って心を落ち着かせる。

(ーアイシスに。)

わたしをここに連れてきたアイシスになんとか協力してもらえないだろうか。アイシスはわたしを憎んでいて、ここから消えてほしいはず…。ただ、前に現代への戻りかたを聞いたときは、なぜか知らぬの一点張りで取り合ってもくれなかった。

キャロルは唇を噛んだ。
でも、呪いをかけた本人がその解き方を知らないなんて、そんなことがありえるだろうか。必ずなにか方法を知っているはずだ。
陽が落ちて、辺りが薄暗くなってきてもキャロルはじっと考え続けた。
そもそも、なぜアイシスは現代へとやってきたのだろう。メンフィスの墓を暴いた者を殺すのが目的なら、パパを殺したときにその目的は果たされているはず。どうしてアイシスはわざわざわたしを呪い、ここに連れてきたのだろう。

自分を殺したがっている相手と、まともな対話ができるとも思えないが、それでももう一度、彼女に掛け合ってみるしかないのかもしれない…。

一刻も早く身にかけられた呪いを解き、この世界を脱出しなければ。これ以上、わたしのせいで誰かが犠牲になるのは耐えられない。

「キャロル様、食事をお持ちしましたよ…あ!」

冷たい川風のあたる窓辺にうずくまる少女を、少年が見咎めた。

「なにをなさっているのです…!まだ起き上がってはいけません!」

厳しい口調で言い、差し出す手のひらや腕は生傷だらけだ。キャロルは両腕を伸ばした。そして、以前にも増して細く薄くなった彼の身体を包んだ。
少年は驚いて、その拍子に軽く地面に尻餅をついた。鼻先を少女の柔らかな髪が優しく撫でる。

「…キャロル様?」

「あなたもよルカ。傷だらけなのに、そんなに働いてはだめよ。」

涙声で言って、キャロルは自分と同じくらい小さな背中を抱き締めた。

(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑥

(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑥

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更新日
登録日
2018-05-05

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