Just Drive【1話】

Just Drive【1話】

「どこでもいい、どこか遠くへ行ってくれ・・・」

 車窓のガラスに映る僕は泣いていた。
何故泣いていたのか、それはまだ僕自身でもうまく説明ができない。
ただ一つ言えるのは、とにかく最悪の気分だったということだ。

 乗り込んだタクシーの運転手は厳格そうな濃ゆい顔立ちの男で、例えるならば歴史の教科書に載っている西郷隆盛を更に厳つくしたような印象だった。

「かしこまりました」

運転手は一言、その見た目に相応しい野太く低い声色でバックミラー越しの僕へ言葉を返した。
詳細な行き先を聞くでもなく、僕の涙の理由も聞かず、だからといってその言葉に憐憫の情なども感じなかった。
よくよく考えてみれば、僕の言動やこの運転手の対応も含めておかしなものであったが、この時の僕は微塵もそのおかしさに気づけなかった。
それくらい、僕は放心状態でいた。
間も無くして、運転手はゆっくりとタクシーを発進させた。


 今日、僕はとある小規模な楽団が主催するコンサートに参加し、そこでピアノを演奏していた。
コンサートは珍しく最初から席が埋まっている状態で開演を迎え、そんな盛況ぶりだった事からか僕はいつも以上に意気込んで自分の出番を待っていた。そして来てくれた人たちの心に止まるような、そんな演奏ができたらと思いを巡らせていたことを覚えている。
けれど・・・、僕の出番が回って来た時、客席にはほとんど人がいなかった。
僕が一曲目を演奏し終わる頃には、更にもう半分が離席して、残っている人達も寝ていたりスマートフォンを弄りはじめたりと、誰一人として僕の演奏を聴いてくれてはいなかった。
その状況を前にして、僕はどうしようもない焦燥感と聴衆に対しての諦めというか絶望感に駆られた。
僕はピアノの鍵盤の蓋をそっと閉めると、二曲目の演奏を勝手に切り上げて早々に退場した。
そしてすぐに帰り支度をすると、コンサート会場前の交差点に止まっていたこのタクシーに何も考えずに乗り込んだのだ。
そのままいつものように家に帰ってしまったら、もう二度とピアノを弾けなくなってしまいそうな、そんな気持ちだった。

 僕は小さい頃からピア二ストを目指してきた。
ピアノだけで生きていける、そんなプロのピアニストになれるようこれまで努力してきたつもりだ。
けれど現実を省みれば、バイトをかけもち、その合い間で今日のように小さなコンサートへ参加させてもらって、その僅かな報酬を糧に食いつないでいる毎日。
しかもはっきり言って演奏する時間なんかより、演奏を聴きに来てもらう為の営業活動の時間の方が遥かに多いし、営業といってもただ少ない知人に媚びへつらってチケットを何とか買ってもらえるようお願いする事ぐらいだ。
それでも結果は今日の通りで、僕の演奏を期待して来てくれる人どころか、演奏さえまともに聴いてくれる人だっていない。
普通に就職していれば楽な人生だって歩めたかもしれない、なんて事はこれまで何度も思った。

再び涙が溢れ出しそうになった。
僕は涙を拭いながら、そっとバックミラーに映る運転手の顔を見た。
バックミラーに映るタクシーの運転手は顔色ひとつ変えずに薄ら笑みを浮かべて運転していた。
ついさっき、僕が乗る前の乗客カップルがこの運転手に対して”バカ”だの”頭がおかしい”だのと罵声を飛ばして車を降りて行ったことを思い出した。
あれほど罵声を飛ばされたというのに、運転手の顔には苛立ちひとつ見られない。
職業柄慣れているのか、単に鈍感なのか・・・まぁ、それ以上の事は特に思いつかなかった。
思いつかなかったというより、それ以上の運転手の気持ちまで考えるほどの精神的余裕は今の僕にはなかった。

対向車が横切る度に車のヘッドライトが僕の顔を照らして、その反射で僕の顔が車窓に映っては消え、映ってはまた消えてを繰り返す。
例え今の僕が消えてしまっても誰一人困りはしないだろう。
そんな事を突きつけられている様な気がしてか、僕は持ち歩いていた練習用の電子ピアノをギュッと抱え込むと、逃避するようにその窓から視線を背け項垂れた。

運転手は迷いなくタクシーを軽快に飛ばし、どこ知れぬどこかへと僕を運んでいく。
発車してからずっと沈黙を貫く運転手は、今どんなことを考えているのか・・・。
涙をこぼし、終いにはこうして俯いている僕をどんな風に思っているのか・・・。

そんな事を考えていた時だった。


「お客さん・・・」

再び運転手の渋く重厚な声が車内へと響いた。
その声に、僕は重たい顔をゆっくりと上げた。


つづく

Just Drive【1話】

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Just Drive【1話】

「どこでもいい、どこか遠くへ行ってくれ」 一人の男が、勢いで乗り込んだタクシーの運転手にそう告げた。 その男は、ピアノのコンクールで聴衆の態度に苛立ち、途中で演奏を放棄したピアニストの卵だった。 男の無茶な要求に対し、運転手は「かしこまりました。」とだけ答える。 人生の行き場を無くした男を乗せて、タクシーは行き先不明の目的地へと走り出す。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-04

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