浦島草の島

浦島草の島

浦島草幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。


 「なんだい、こりゃ」
火葬炉から荼毘にふした遺体をとり出した、係官の五郎じいさんが手を止めた。
東京のベッドタウンとして発展したある市の市営火葬場である。
 「骨が残っていない」
 ステンレス台の上には、灰の中に丸い大きなものがころんと残っているだけである。
 それは脳であった。
 津島水彦がやってきてのぞき込んだ。
 「五郎さん、いったいどうなっているのだろう」
 「わしゃあ、全くわからん、どうしたらいいのかね、水さん」
 津島水彦は三十半ばの市役所の職員である。なにがあったのか知らないが、その若さで、市営の火葬場の事務所にまわされてきた。しかし、何でもこなせるので、みなが頼りにして、水さんと親しく呼んでいる。
 「このご遺体は誰のかね」
 「警察から回ってきたんだね、引き取り手が見つからず、ずいぶん長い間、遺体安置場で冷凍にされていたようだ」
 「それちょっと見せて」
 五郎さんから警察からきた、遺体の情報のコピーを受け取った。
 「浦島白美、女性だ、どこかで聞いたことのある名前だな、年齢不詳か」
 「何でこんなになっちまったのかね」
 「五郎さん、触ってみたの」
 「いや、この骨挟む奴で突っついたけど硬いよ」
 「もう熱くないかい」
 「素手だとだめだね、もうちょっと冷まさないとな」
 「どうする」
 「これじゃ、骨壺に入らんよ」
 五郎さんは気味悪そうに、灰を骨壷に集め始めた。
 黒くなった脳を見ていた水彦は、これが天から水彦に与えられたものだと思った。
 人は人生の中で必ず一度は不可解な出来事に出くわし、それが人生の大きな転機となる。黒い石となった脳の謎がそれに違いない。火葬場担当になってよかった。それは彼の生きる目的にかかわることだったのである。
 水彦は手を黒っぽい石のような脳にかざした。ほんのりと熱かい。
 人差し指の先を脳の上にのせた。石になった脳は彼の指を跳ね返した。
 「本当に堅い」
 五郎さんが水彦を見た。
 「骨がみんな灰になっちまうなんて、かわいそうになあ」
 灰は骨壷の半分にも満たない。
 「死んだうちのばあさんは、焼いたあとも立派な骨が残っていたよ、俺がみんな骨壷に入れてやったんだ」
 「何時なくなったのです」
 「三年前」
 「そうでしたか、お墓はどこにあるのです」
 「そんなものありゃしねえ、子供もいねえしな。墓作ったって誰も見てくれやしねえ、俺が死んだら一緒に無縁仏として葬ってもらう算段なんだ」
 「そうですか」
 「家に帰ったって、酒飲んでテレビ見て寝るだけよ」
 「なんだか寂しいですね」
 「おおよ、いつも骨見ていると、なかなか死ねねえなあ」
 「どうしてです」
 「死体になれちまって、生きてるのと、死んでるのと、境目がわかんなくなっちまってな」五郎さんは笑った。
 「難しいこと考えるのですね」
 「いや、そんなこっちゃないよ、本当にどうでもよくなって、死がどっかにいっちまったんだ」
 五郎さんは灰を骨壷に蓋をすると、黒くなった硬い脳をどうしようかと、津島を見た。水彦は黒い石の脳を持ち上げた。本物の脳は見たことがないが、本では見たことがある。文学部在学中は死について考えていた。小説を書きたかったからである。市役所の戸籍係から秘書室に移動するよう要請された時、死と向き合える火葬場の係りに希望した理由でもある。だから、この脳を見たとき水彦は何かを感じたのである。
 「五郎さん、これ、俺にくれないか」
 「俺はいいよ、面倒じゃなくていいからね、余計なことに関わりたくないね」
 「それじゃ、もらうけど、誰にも言わないでよ」
 「そりゃそうだ、水さん、もの好きだね、もちろん誰にも言う分けねえさ」
 「ありがとう」
 水彦は脳をそばにあった袋にいれた。
 「あとで、こいつを警察が取りに来るっていってたよ」
 五郎さんが骨壺を津島に渡した。

 事務所で受付の女の子に骨壺を渡し、自分の机の前で一日の仕事を整理していると、紺の背広姿の男が入ってきた。受付に声をかけている。
 警察の人だなと思っていると、案の定、女の子が包んだ骨壺を渡している。
 男が津島の方を見た。見たような顔である。とその男が声をかけて近寄ってきた。
 「津島さんでしたな、こちらの担当になったのですね」
 とまどっていると、その男はなつっこい顔をして言った。
 「ほら、あの、死んだ尼さんのことで、お世話になった、荒尾です」
 そういえば、二年ほど前、市役所の住民課にいたときである。誰も訪れることのない古びた寺、八草寺(はっそうじ)の社の中で死体がみつかり、警察から頼まれて、死人の住所の確認やら、履歴やらを調べる手伝いをしたことがあった。死体は亡くなるほんの一月まえに八草寺に居ついた尼さんであった。死因は老衰死だったと思う。そのときの刑事さんである。荒尾寛といったと思う。なかなか気持ちのよい刑事さんだった。
 水彦も立ち上がって挨拶をした。
 「思い出しました、お久しぶりです」
 「この骨壺の中はあの尼さんですよ」
 それが浦島白美であった。戸籍の住所には一族が住んでいたことがわかったが、誰とも連絡がとれなかった。
 「結局、縁者は日本にいなかったのですね」
 「ええ、引き取り手は見つかりませんでしたね、だが不思議なことがありました」
 荒尾は骨壺を津島の机の上に置くと、勝手に隣の椅子を引き出して腰掛けた。
 「荒れ寺から冷たくなった尼さんのからだが、警察に検死のために運ばれて、検視官が調べている時でした。もう硬直が始まっていたので調べる必要もないと思っていたところ、まぶたがピクッと動いたのです。それですぐ市の病院の方に送ったのです。あり得ないことなのですが、一部の脳波が正常に現れていたのです。だけど体の細胞はすでに自己融解をはじめていまして、死臭がではじめていました。医者も首をかしげていましたね。それでMRIで調べたのですが、その結果は死んでいる判定でした。ところが、病院で一週間様子を見ましたが、脳波は生きている人と同じように出続けていたのですよ。病院から頭蓋骨を開きたいと警察に問い合わせがありましてね。さらに生体検査をして確認をしたいということでした。MRIでも死んでいると明らかになったということは、その時点で生体ではないだろうということで、開頭の同意書を警察署長の名前で書きましたよ。脳外科の先生が、前頭葉、脳の前の方ですが、電極を差し込んで、実際に神経細胞が働いているか調べたのです。その結果は否でした、細胞は死んでいるのに、脳波らしきものだけでていたのです。その時点で、その尼さんは確実に死んでいるものと判定され死体安置所に運ばれたのです」
 「もう二年も安置されていたのですか」
 「それで、安置所もいっぱいだし、時効でもあるので、こちらの火葬場にお願いしたわけです」
 「そうだったのですか、あのお寺はどうなってます」
 「誰もいないから、荒れ放題じゃないですか」
 「いい場所にあるのにもったいないですね」
 「そうですね、だけど、不便でしょう、住むには」
 確かにそうだが、ああいう所でゆっくりと文章書きをしてみたいと水彦は思った。
 「それでは、おじゃましました」
 荒尾は立ち上がると、お辞儀をしてでていった。
 「あ、骨壺を」
 水彦があわてて机の上の骨壺を持って、彼を追いかけた。
 気が付いた荒尾は頭を掻きながら、もどってきた。
 「すみません、何かの縁かと思って私が引き取りに来たのですが、なにせ慣れていませんで」
 と変な言い訳をした。確かに刑事さんが骨壷を取りに来るようなことはない。
 「お骨はどうなるのですか」
 「しばらく警察で保管しますが、いつか無縁仏として、どこかに葬ります」
 そう言って荒尾は出ていった。

 その日、黒光りする脳をもって水彦は自分のアパートにもどった。途中のコンビニで買った弁当をレンジに放り込むと、冷蔵庫からビールを取り出した。
 どうして高温で燃された死体が脳だけ残すのだ。五郎さんのいたずらか。だが、脳そっくりの石の脳を作るのは大変だ。彼がそんなことする意味がない。刑事の話だと神経細胞が死んでいたのに脳波があったという。おかしな脳だったのだ。
 テーブルに置いた袋の中から脳を取り出した。そばにあった布巾で脳をぬぐってみた。元々よく光っており、代わり映えしない。
 ビールを一口飲むと、脳を手に取って、いろいろな角度から眺めてみた。脳の皺が明瞭で、人間の脳はこのようなものかと、改めて思う。
 水彦が、あれ、と思ったのは、濡れた手で触れても、水がすぐに消えてしまう。蒸発するには早すぎる。わざとビールを指につけて触ってみた。何事もなかったように脳の表面は黒光りしている。
 油性のサインペンをもってきて、脳に丸を書いてみた。赤い丸が脳の上に描かれた。その時、レンジがチンと鳴り、水彦は弁当を取り出すため立ち上がった。ついでに冷蔵庫からビールをもう一缶取り出し、テーブルにもどった。
 おかしい。脳に描いた赤い丸が消えている。弁当をつつきながら、また赤い丸を描いた。唐揚げを箸でつまみ出して脳を見ると、もう消えている。この石は何でも吸い込む性質があるのだろうか。
 詮索をやめて、食事を終わらせると、居間兼書斎の椅子に腰掛けた。ありきたりの家具しかない彼の部屋にはそぐわない、どっしりとした無垢の木でできた机の上に脳をおいた。
 彼は小説を書いている。車ももたず、ゴルフをするわけでもないが、趣味の小説を書くための机だけはこだわった。下手な車よりも高いものである。
 PCのスイッチを入れ、書きかけの小説を開いた。大学時代から死に関わる小説を書き続けている。できあがったものを雑誌に投稿しても今まで何も反応がなかった。彼の書くものはかなり理屈っぽく堅苦しい。読み手が楽しくなるようなものではない。
 彼は机の上の脳を見た。立派な一枚板の机によく似合う。死して真っ黒な脳を残したあの女性はいったい何者だったのだろう。
 最近、脳の死が人の死と認識する人が増えてきた。臓器移植の問題を契機に、脳死が認められてきたからである。しかし、まだ心臓の停止が死であると思う人も少なくない。あの尼さんの生い立ちをおいかけると、一つの死が見えてくるに違いない。
 彼は古いファイルを探した。二年前、あの刑事にたのまれて調べたものが残っているはずである。バックアップ用のハードデスを机の引き出しから取り出した。どのようなことでも小説の材料になると思い、書き留めておいたものを一年ごとのファイルにしまってある。たくさんあるファイルの名前を見ていくと、「尼さんなくなる」と書いたものがあった。ワードファイルを開くと、2014年9月10日、中央署から荒尾寛刑事がくる、という出だしでまとめてあった。 
 浦島白美が死んだ八草寺が建てられたのは戦後すぐで、建てたのは土建屋であった。寺の形をしているが、本当の寺としての登録はなされていないようだ。個人の宗教のために、私財をなげうって自分の土地の中に建てたのだろう。戦後のどさくさで儲けた土建屋のようだ。草児宗(そうにしゅう)の寺ということになっているが、草児宗とは聞いたことのないもので、かなり限られた人たちが信じていた宗教ではないだろうか。
 建てた人の子供たちは日本からでてしまい。本人が亡くなったあと、彼らが所有していた土地は売却され、転売もくり返され、今では全く関係のない会社のものである。管理は東京の土地会社がおこなっていた。持ち主は投機の目的で買ったもので、これまた外国人であった。八草寺のある土地は寺が建っているとは知らないで買われたものであろう。
 関係者たちが日本から出てしまった理由は全くわからない。相当の資産があったので、ハワイにでも住んでいるのかもしれない。詳しく調べれば居所はわかるであろう。しかし、もとの所有者に連絡が付いても、居ついた尼さんの事は何も知らないに違いない。というのも、そこで亡くなった尼さんは、無断でその寺に住んでいたようだ。東京の管理会社の担当者ももちろん知らなかった。そのあたりは、私鉄の駅からバスでかなり行かなければならないところであり、将来も住宅地として開発されるかどうか分からないような場所である。
 記録を読んでいて、荒尾との会話を思いだしていた。
 「どうして、あの尼さんはあそこを見つけたのでしょう」
 「それは本人しかわかりませんね、ただ草児宗と何か関係あるかもしれませんね」
 「尼さんの本籍はどうして分かったのです」
 「寺の彼女の部屋から、九州の島に住んでいた頃の戸籍謄本がでてきました。それで津島さんにその島を調べていただきましたが、無人島だということでしたね」
 「そうです、もしかすると、浦島白美一族の土地だったのではないでしょうか、それで本籍をそこにしておいたのかもしれませんね」
 「本籍はそんなことができるのですか」
 「自分の本籍に皇居の番地を登録している人もいますよ」
 「そうなんですね」
 「その島をそれ以上調べませんでしたから、島が現在どのような状態なのか全くわかりません、先方の市に問い合わせすればわかると思いますよ」
 そんな会話だった。
 「脳のことを知るには、八草寺をまず調べなければならないかもしれない」
 水彦は独り言をいった。
 まず休みの日に八草寺に行ってみることにした。話が小説として書けそうなら、九州にも行ってみよう。
 机の上の脳をなぜてみた。今日は吸い込まれそうに冷たい。

 彼の休みの日は土曜日と水曜日である。日曜日は休みではない。次の土曜日、八草寺にでかけた。美山(みやま)にある丘陵公園行きのバスにのり、途中の林道中央で降りると八草寺がある。美山は町の人たちの憩いの山で、頂上付近が丘陵公園になっている。
 バスから降り、わき道にはいり、ちょっといくと、八草寺が林の中にひっそりとたたずんでいる。案内は全く無い。境内はあまり広くなく、紫色の糸を垂らした奇妙な花がたくさん咲いていた。
 「俺はこの花が気持ち悪くてね」
 前に荒尾刑事と一緒にきたとき、この花を見て彼がそう言ったことを思い出した。津島はその花が浦島草であることを知っていた。浦島が釣りをしている姿に似ているところから、その名前があるが、たしかに動物的な植物である。
 寺はだいぶ朽ちてきている。それでもその社の後ろの住居はまだ使えそうな感じである。尼さんはそこに住んでいた。住居の玄関の戸を引いてみると、鍵がかかっておらず、簡単に開いた。靴を脱いで上に上がった。部屋がいくつかあったが、物は全くなく、畳は半分茶色く湿っており、腐りかかけている。
 寝室らしき部屋には崩れそうな茶箪笥があった。引き出してみたが何も入っていなかった。ゴキブリすらいない。
 住居を出て、本堂に行った。本堂といっても、本尊があるわけではなく、少し大きめの鏡のようなものと、一体の壊れかけた菩薩があるだけである。前にきたときには本堂はさっとのぞいただけであった。屋根の一部が潰れているためもあり、本堂の内部は雨風に晒されて、見るも無惨な様相を呈している。
 水彦は靴のまま本堂に入ると、真っ先に、緑青のわいた鏡を調べた。時代を推し測るような数字や文字は書かれていない。木彫りの菩薩も鼻が欠けていたり、手の指が三本しかなくなっていたり、痛々しい。
 彼が菩薩の頭に触れると、ぐらっと揺れ、菩薩は乗っていた床板ごと前に倒れてしまった。床に菩薩がはめ込まれていたようである。
 いけないことをしたと、水彦は菩薩を起こそうとしたところ、めくれた床の中が物入れになっているのに気がついた。そこには数冊の和綴じの本と、小石が一つあった。
 彼は本を外に出した。それに、おかしな形をした小石を取り出した。本はあまり汚れていない。ということは浦島白美が隠したのだろうか。こんなところに隠すということは、長く残しておきたいと思ったのだろうか。
 石は黒っぽいもので、皺があり、脳のような形をしている。
 水彦は菩薩を元に戻すと、和綴じの本と小石を持って本堂を出た。和綴じの本には何が書かれているのだろう。
 本堂を出て石畳を歩いていると、ふと誰かに見られているような気がして振り向いた。しかし、石畳の脇に一本すっと伸びている浦島草の花が、彼のほうを向いてふらふらと揺れているだけであった。
 
 家にもどり、本を机の上に載せると、小石をポケットから取り出した。手の平に乗せて見ると、皺があまりないが、脳のような形をしている。少なくとも人間の脳の形とは違う。水道の水で洗ったところ、尼さんの脳と同じように表面の水があっという間に乾いてしまった。やはり同じ材質のようである。埃が落ちると、蛍光灯の光が反射し、眩しいほどに黒光りした。本と石は浦島白美のものに間違いない。
 和綴じの本は二冊あった。一冊を開くと、書かれていた文字は、大学で習った古語とはだいぶ違い、全く理解できない。お手上げである。文学部の同級生で大学に残っている友人に助けてもらう他はないだろう。彼は友人に電話をかけ、水曜日に会う約束をとりつけた。

 「こりゃあ、昔の文字じゃないよ、暗号のようなものか、全く異なった言語体系だね、ただ、毛筆で書かれているし、明らかにかなりの昔に、日本で書かれたことは確かだろうね、面白いのはこの紙なんだが、和紙のようだが、楮などの一般的なものではないよ、特殊なものだね」
 友人の文学者である渋井竜太郎は、その本を手に取ってそう言った。
 「解読できるだろうか」
 「うん、面白そうだ、やってみるが、時間がかかるよ」
 「急がないから頼むよ、どんなことが書かれているかだけでもいい」
 「わかった、とりあえず預かっておくよ」
 その日、家に帰ると、尼さんの脳と、動物の脳が何となく赤っぽくなっている。触ってみると少し暖かい。水彦は脳の写真を撮った。脳の本を買ってこよう、何の脳か分かるだろう。
 一週間後、竜太郎から電話があった。ずい分早い。水彦は大学に行った。
 「面白いね、この本はおそらく、二百から三百年以上前のものだね、暗号というより、どこかの国の言葉で書かれている。書いているのは日本人には違いないが、違う言葉を知っている者だったのだろう。この言葉の語順と思われるのが英語系とも、日本語系とも違う。動詞が最初にきて、目的語があって、最後に誰がという文になる」
 「それは、誰がということをあまり気にしない集団というわけだな」
 「そうだろうね、水彦、本当にすごいね、学生の頃から、推察力はかなわないと思っていたんだ、なぜ研究の方に進まなかったんだ」
 「いや、そんなことはいいんだ、それで、内容はどうなの」
 「いや、いくら何でも、そこまでいってないよ、やっと、言葉のルールがわかってきたところだよ、これでも早かったと思ってんだ」
 「そうだね、まだ一週間だものね、いやすまん、せっかちになっている」
 「この、ミミズがのたくったような文字は、アラビヤ文字に似ていなくもないが、全く違う、太くなったりくびれたり、それに意味があるようだ」 
 「モールス信号か」
 「また、水彦はすごいね、そう、二次元の文字に、さらに、つーとん、つーとんが中に組み込まれている」
 「すごい表現ができるのじゃないかな」
 「そうなんだ、表形文字、要するに漢字のような字があり、その中に、さらに信号がある、これだと、たとえば、女という字はひざまずいている人間のかたちだが、その線の中にツートンで、どのような種類の女か、もしかすると、名前まで隠されているかもしれない」
 「それを毛筆で書いてあるのかい」
 「うん、そのように見えるが、ただ、ふつうの筆ではないかもしれない」
 「そんな昔に、そんなことが出来た日本人がいたのだろうか」
 「内容がわかれば書いた者もわかるよ、ただ時間がかかる。半月、いやもっとかかるかもしれない、大学は本当に雑用が多くて、研究どころじゃないよ」
 「悪いね、それじゃお願いする」

 津島は脳の本を買った。小石の脳がどんな動物の脳だか知りたかったからだ。もしそれがわかれば、浦島白美が大事にしていた動物だった可能性がある。
 本にはいろいろな動物の脳の写真が載っていた。人の脳は千三百グラム、個人差が大きいとある。なんと、ネズミの脳はたったの一グラム半、一円玉二つにも満たない。猫の脳もたったの二十三グラム、五百円玉三つより少し重い程度である。写真を見ると、この小石は猫の脳に似ている。
 白美が大事に飼っていた猫なのだろう。寺に一緒につれてきて、彼女より先に死んだのだ。猫も死ぬと脳が石になる病気だったのか。脳が石になる病気などあるはずはない。しかし、実際に人と猫の脳が石として目の前にある。水彦には理解できない世界だった。本当にこの脳は死んでいるのだろうか。
 脳は何となく色が変化しているように感じられた。水彦は毎日写真を撮り、変化を書き留めた。途中からその日の気温も書いておいた。
 今日の二つの脳は赤くきれいに光っている。仕事から帰った水彦は今まで書いてきた長編小説の終盤を書いていた。死が死について述べるところである。なかなかいい考えが浮かばない。知らず知らずのうちに、尼さんの脳と猫の脳に手が伸びている。気がつくと、指が吸いついて離れない。あわてて力を入れ、指を離した。何が起きたのかわからないが、そのままだったらどうなっていたのであろう。石になっても二つの脳は中で何かが起きている。水彦はちょっとぞくっとした。
 それから一月しか経たないのに、もう竜太郎から解読できたと連絡があった。
 大学を訪ねると、竜太郎は一人の女子学生とともに水彦を待っていた。
 「博士課程の井口紀子だ、古代の字を絵から解析している、手助けをしてもらった、というより彼女の力がなかったら、とうてい無理だったろう」
 髪を一つにまとめた丸顔の彼女は深々とお辞儀をした。彼も礼を言った。
 「津島です、ありがとうございました」
 「実はね、字を拡大してみると、字の濃淡が規則正しいんだよ、それを発見したのが彼女なんだ、モールス信号よりもっと複雑なものだよ、字の線の幅も規則性をもって変化している。一つの字にたくさんの情報が盛り込める、君も言っていたように、字の中にさらに言葉が隠されているんだ」
 「まるで、コンピューターで書いたようだな」
 「そうなんだよ、毛筆じゃないね、だけど三百年前にそんなことができるはずはない、ともかく本の全文を、コンピューターに取り込んだ、それを井口君が作った解読ソフトにかけたんだよ」
 「それはすごい、それでどのようなお話が書かれているのだ」
 「日記のようでもあるし、創作のようでもある」
 「誰が書いたんだろう」
 「浦島という島に幽閉された女性が書いた」
 それを聞いた水彦は浦島白美の本籍の島を思い出した。やはりこの本は白美が寺の仏像の下にいれたのだ。書かれていることは事実だと思う。
 「この字を書いたのは『日本の国ではないところからきた人』とある。中国大陸か、地球の外か、わからないが、日本人じゃないな、文を考えたのは女性のようで、自分のことを『日(ひ)』と呼び、字を書いた相手を『星』と呼んでいる、それにね、最後の方は普通の日本の文字に変わっているよ、書いた人の本当の字なのだろう、それから、この紙が何で出来ているかわからないんだよ、自然のものじゃなさそうなんだ」
 「とすると、今のものなのか」
 「本の様子からすると、今のものではない、インクも不思議なものだ」
 「私は星という人は宇宙から来た人だと思いました」
 と井口紀子が口をはさんだ。
 「それじゃ、宇宙人がコンピュータで書いた」
 「そうですね、字を書いた星という人はいつもこの字を使っていたという可能性があります。日記の中に、『星があっというまにこの文を書いてきた』、という記述があります、とするとコンピューターしかありません」
 「コンピュータがその頃の日本にあるわけがないけど、宇宙人ならね」
 竜太郎が首をひねった。信じたくないようだ。
 「ともかく、訳したものを打ち出しておいた、持って帰ってゆっくり読んでみてくれよ、そのうち、感想を聞かせてくれ」
 「どうもありがとう、そのとき、何か美味しいものでもご馳走します、井口さんもどうぞ」
 井口女史は恥ずかしそうに頷いた。
 水彦は袋に入った原稿を抱えて家に戻った。早く読みたい。
 
「日」の日記から抜粋。
 豪族である村上一族の娘が誘拐された。娘の年は一六、次の年に大きな町の豪農に嫁ぐことが決まっていた。
 それは秋祭りの終わりの日の夜であった。家の者が祭りの後片付けに出払っているところに賊が入った。倉に押し入り、めぼしいものをかっさらうと、気配を感じて納戸の中に隠れていた娘を見つけさらった。海岸を根城にしていた賊たちは、娘を島に幽閉した。その島は賊の支配下にあるもので、誰も近寄る者はいなかった。
 その賊の頭領はその島を浦島と呼んでいた。さらってきた女たちはそこに集められ、賊たちのいたぶりものとなり、できた子供を賊の役に立つ年頃までそこで育てていた。
 ある日、長い大きな尾を引いた火の玉が浦島に落ちた。その島の大半は赤く燃え上がり、島にいた賊と、さらってきた女や女が産んだ子供たちはことごとく死んでしまった。そんな中で、ただ一人、この日記を書いた日だけが、海岸におりて夜空を見ていたことから、助かったのである。
 陸にいた賊たちは火の玉の落ちた島には近づこうとしなかった。一人残された日は島の中腹にある洞窟を住まいとした。洞窟から浸み出す真水は日の命を維持した。しかし、孤独は日のからだをむしばんでいた。
 火の玉が落ちてから半年もしたときであった、真夜中に洞窟に入ってきた男がいた。ここから、日が記した通りに訳していこう。
 洞窟の中で私が魚を煮ているときでした。あの男は音もなく入ってきました。男と思ったのは大きかったからです。普通の男より頭一つ背が高く、肩幅も広い人でした。しかし歩き方はぎごちなく、ふらつくように前に進んできました。私は火を消しました。真っ暗闇になり、これで私はみつかるわけはない、と思ったのは間違えでした。はっと思ったときには男が目の前に立っていたのです。どのような衣服を着ていたのかそのときは全くわかりませんでした。男はいきなり長い腕を伸ばすと、私を抱えあげました。私はきゃーっと大きな声を上げたと思います。だけど、十六のときにあの賊たちにさらわれたときほど大きな声ではなかったと思います。あれから十年近く、賊の言いなりになり、三人の子どもを育てていたからです。その子供たちも焼け死んでしまい、誰もいません、私一人なのです。久しぶりに人に触れてもらった安堵のほうが強かったのかもしれませんでした。
 私は抱えられるようにして、洞窟から連れ出されました。月明りがありましたので、男が灰色っぽい体にぴったりつく、へんてこりんな着物を着ていることがわかりました。
 男の歩き方は洞窟に入ってきたときのように、ゆったゆったと、木が燃えてなくなった禿山をあがっていきました。一番上にくると、男は丸い蓋を開けて、私を抱えて中に入っていきました。
 そこはとても広い部屋でした。石でできているようで、冷たかったことを覚えています。天井の上からぼーっと光が射しており、部屋の中を見ることができました。いくつかの部屋があるようで、私が連れてこられたのは、その真中の部屋のようです。半年前にはこのような場所が山の上にあったとは知りませんでした。あの火の玉と関係あるのでしょうか。
 男は私を石の上に腰掛けさせました。
 私は男を見ました。目が大きく、睫毛がありません。そう言えば髪の毛もないのです。ですからお坊さんのようにも見えました。
 私は挨拶をしました。気持ちは落ち着いていました。
 「どなたさまでしょう」
 男はのどを鳴らすようにうめいただけでした。そして搾り出すように言いました。
 「ほ、ほし」
 私には「星」と聞こえました。彼のことを「星」と呼ぶことにしました。
 私は名乗りました。ところが、男は「ひ」としか言いませんでした。
 星様は私をただ見つめて、石の上に、お日様らしきものを描いて、その周りに玉をいくつか描きました。私はそれで自分のことを「日」と呼ぶことにしたのです。
 私は喉が渇いてきました。
 「水がほしい」と言うと、星様は器に水を満たしてもってきました。
 「ありがとう」と私は飲みました。とてもおいしい水でした。
 「お腹も空きました」といったところ、外に出ていくと、しばらくして芋のようなものをもってきました。星様はそれをかじり、嬉しそうに笑いました。私もちょっとかじってみました。苦くてとても食べられたものではありません。
 私は首を横に振りました。すると、星様は炭火を入れた器を持ってきました。その上にその芋をのせ焼きました。熱くなった芋を私の前の皿にのせてくださいました。私はおそるおそる手にとって食べてみたのです。それは甘く、おいしいものに変わっていました。
 星様は別の部屋に私の寝床を作ってくださいました。石でできた棺桶のような形をしていましたので、気味が悪かったのですが、星様は私を抱き入れてくださいました。さぞ石の上は冷たいだろうなと思っていると、それはふわっとして、今まで経験したことのない柔らかく暖かなものでした。疲れていた私はすぐに眠りに落ちました。
 私は部屋の明るさで目が覚めました。天井から明りが入っていました。部屋を見回すと、いろいろな宝石がちりばめられている壁がきれいに輝いていました。
 星様が一つの部屋から私の部屋に入っていらっしゃいました。
 お水の入った瓶が、寝床の近くに置かれてあって、いつでも飲めるようになっていました。星様はまたあのお芋を焼いてくださいました。
 星様を明るいところで見ると、顔は白く髪の毛はなく、背が高く手と足がとても長い人でした。手の長さは私の倍もあるかもしれません。
 星様は床に何かを書きました。しかし、私には全くわかりませんでした。
 私は火が付いていない炭を取り出して、床に自分の絵を描きました。そして、日と書きました。星様の絵を描いて、星と書きました。
 星様はうなずきました。少し分かり合えたのです。
 星様は私が炭で床に絵と字を書いたのを見て、一つの部屋からきれいな紙を持ってきました。真っ白で、何で漉いたのかわかりません。こんなにきれいな紙を今まで見たことはありませんでした。
 星様に器がほしいことを床に絵を描いて示しました。お茶碗のようなものを持ってきてくださいましたので、私は水を少し入れ、炭をその中で崩しました。炭の水を手につけると、「わたしは日と申します」と書きました。私はさらわれる前に、読み書きを教わっていました。
 星様は書いた紙をもって、一つの部屋に入ると、すぐ、何枚かの紙を持って出てきました。一つの紙には、誰かの字で、わたしは星と申しますと書いてありました。
 私は驚いて、うなずいて星様を見ました。星様はもう一つの紙を見せてくださいました。「日」の一字が書かれています。透明な石をその字の上に載せ、見るように私を引き寄せました。日の字が大きく見え、字の中に細かい白い筋が入っていました。さらにもう一枚の紙には「これで、私は日と申します、と書いてあるのだよ」と書かれていました。星様の国の字だそうです。
 何度か墨で書いて星様に渡しているうちに、星様の言いたいことを私の言葉で白い紙に書いて私に見せてくれるようになりました。どのような仕組みかわかりませんが、隣の部屋で、あっと言う間に紙にさらさらと、字を書いてくださるのです。
 星様は異国の方でした。習慣も何もかも違うここに着いてしまって、とまどっていたが、日がいてくれたお陰で、心細くもなく、嬉しいとありました。
 私はそれから、日記を書くことにいたしました。それを星様に見せると、星様はご自分の言葉に置き換えた字に直しました。
 そのうち、寝ているときに星様が隣にいらっしゃっていることが多くなりました。細長い指で私の顔をまさぐるのです。それはもう気持ちのよいことでした。
 ある時、星様は「日、これからはおまえを母にする」と書きました。そして、指を私のおでこに当てました。 
 それは暖かな気持ちのよい手でした。頭の中に楽しかった子供の頃の思い出が広がりました。新しい赤いおべべをお母様が着せてくださっていました。私は嬉しくて飛び跳ねそうでした。そうこうしているうちに星様の手は私の体すべてをなでさすりました。それは私に狂気に似た快楽をもたらしました。それがどのくらい続いたのかわかりません。天井の光が何度も暗くなり、また明るくなりました。日が昇り、月の光になり、の繰り返しなのでした。おそらく、一月もそのようなままだったような気がします。
 星様の手が私から離れました。
 私の頭はすぐには元に戻りませんでした。石の寝床からやっとのことで半身をもちあげると、星様が優しい目で私を見て、焼いた芋を渡してくださいました。
 私はそれを食べると、やっと落ち着きました。それから、月のものがなくなり、おなかがせり出してきたのです。
 そうなったとき、星様が、外にでようと紙に書いてきました。今までは、外を見てみたいと書いても、まだ、早いとおっしゃり、連れていってくださいませんでした。
 私は星様に抱えられるように、外にでました。
 私はあまりの驚きで声もでませんでした。なんと、また、周りが林になっていたのです。林の中から遠く海が見渡せます。反対側は見慣れた陸でした。昔、そこに賊がいたのですが、その様子がうかがえません。
 星様が指さしました。林の中は蛇草でいっぱいでした。長い糸を垂らしたような紫色の花は気味が悪いものです。しかもその茎は蛇のようにまだらでした。
 星様が蛇草をぐいと、引き抜きました。すると、根の下にあのお芋がついていたのです。私は蛇草の根の固まりを長い間食べていたのです。星様はそれ以外のものは口にされないようでした。
 木がこんなに大きくなっているということは、火の玉が落ちて何十年も経っていることになります。まだ、せいぜい一月の出来事かと思っていたのです。
 星様は楽しそうに、蛇草を抜いて、芋をとると、また土にさしました。私も手伝いました。こうして、星様は袋いっぱいの蛇草の根をとると、私を抱えて、石の部屋にもどりました。
 それから自由に私は外にでて、星様には食べることができないけれどアケビやキノコを採ってきて食べました。だけど、蛇草の根が一番おいしく感じるようになっていたのです。
 そして、赤ちゃんを産みました。色の白い男の子でした。星様は蛇草の根を擂(す)って、赤ちゃんに飲ませました。名前は星様が「水」とつけました。水はすくすくと育ち、私と話すときには私の国の言葉を、星様と話すときは星様の言葉でした。水はあっと言う間に私と同じほどの背の高さになりました。すると、星様はここから出ていくようにいいました。
 私はまた星様の手で顔やからだに触れられ、気が遠くなるほどの気持ちのいい日が続き、それが終わると孕みました。
 今度の子供も男の子でした。やはり子供が大きくなると、星様は子供を外に追いやり、また子供を作りました。
 その間に、星様と私の意志の疎通は大変うまくいくようになりました。星様はあいかわらずお話をなさいません。しかし、星様は手の指を私のおでこにあてて、しばらくそうしていらっしゃいます。すると、私の頭の中に星様の声が聞こえるのです。私にはその仕組みは全くわかりませんでしたが、生活がとても楽しくなりました。
 子供たちは大きくなるとすぐに、私と話ができるようになりました。それに、星様はしゃべらなくても、子供たちはわかるようでした。そして、大きくなると、子供たちを外にお出しになるのです。
 私は子供を八人生みました。女性は最後に生まれた一人で、後はすべて男性でした。星様は大きくなると外に出してしまわれたので、その子たちがどうなったかわかりませんでした。
 八人目の女の子がここから出ていった後は、星様はもう子供を作ろうとはなさいませんでした。
 そして、大変なことをお話しくださいました。星様はもうすぐ死ぬとおっしゃるのです。星様は石の箱をもう一つ別の部屋から私の部屋にもってくると、私の石の寝床の隣におきました。
 星様は私に紙をみせました。それにはこう書いてありました。
 「ここの国の三百才になると、我々の体は死ぬ、死ぬ時はそっとしておいてほしい」
 そして、私の額に指を当てました。そうしたら、星様のお考えが伝わってきました。私も三百才で死ぬのです。
 「私は今何歳なのでしょう」心の中で考えました。
 星様の手から「今百五十歳だ」と答えが返ってきました。
 「星様がお亡くなりになったら、私はひとりぼっち、どうしたらいいのでしょう」
 本当に寂しくなります。すると、星様が答えてくださいました。
 「子供たちが迎えにくる」
 「星様、死なないでください」
 「そうしたくてもできないのだよ」
 初めて、星様の悲しそうなお姿を見ました。
「今まで書いた日記を残したい」
 私は言いました。すると、星様は一つの部屋に入り、ちょっと時間がかかりましたが、一つの本を持ってきました。それは私が今まで書いた日記を星様の言葉にしたものです。
 星様は私にそれを手渡すと、にこにこして、「とても楽しかった」とおっしゃいました。たどたどしいものでしたが、とても優しい声をおだしになったのです。でも、それでお疲れになったのかわかりませんが、石の箱の中にはいるとぐったりとお休みになりました。目を閉じて何かを考えているようでした。
 「星様」と声をかけると、また手を伸ばして指を私の額に当てました。暖かい心の中がよく伝わってきました。しばらくそうしていましたが、手を自分の胸の上において、目を瞑りました。
 私も、自分の寝床で横になり、やがて眠りに落ちました。
 天井が明るくなって、目を開けると、星様は息をしておりませんでした。
 私はなぜか涙がでませんでした。三百年という寿命がはっきりしているのはいいことだと思いもしました。私はあと百五十年ほど生きます。私の子供たちは三百年生きることができます。だから、最後に産んだ娘は三百年近く生きることになります。
 星様が死ぬと、子供たちがすぐに、迎えにきました。八人そろって、皆立派な成りをしています。
 星様の遺体の石の箱の上に、子供たちが石の蓋を持ってきて乗せました。こうして、寝床が棺になりました。
 そうです、星様がご本をくださった後のことは、私の言葉で、その本に書き加えています。

 男の子の名前は水、金、火、木、土、天、海、女の子は冥といいます。みな立派な仕事をしていて、村の人たちに慕われています。名字を島の名前から取ったのでしょう、浦島といっておりました。男の子はそれぞれとても優しい、いいお嫁さんをもらい、子供のいるものもおりました。
 「母様、母様は私と暮らしましょう」
 長女で末っ子の冥は、そう言ってくれました。冥は兄たちの手伝いをしながら、兄弟の子供たちにいろいろ教えておりました。この七人の男兄弟はとても利発で、海のものを扱う者、山のものを扱う者、遠く異国の言葉を覚えて、村の民を治める者、いろいろおりました。娘の冥は賢いだけではなく、優しく、動物が大好きでした。
 ただ、この八人は父親である星様の血を継いでいるのでしょう、あの蛇草の根っこ、芋しか食べませんでした。
 冥も男兄弟もみな仲がよくお互いに手をつないで生きていました。その子供たちも活発にお互いに行き来をしていました。子供たちは普通の物を食べました。私にとっては孫になります。やがて孫も利発でそれぞれに活躍するようになりました。
 一人の孫が、「お父様はいつまでも若いわ」と申します。私の息子は三百まで生きるのです。しかし、その子供たちは五十年ほどでしょう。孫の多くは、この地を離れ、自分の生活を営むようになっていました。
 時がたち、私の子供たちの奥さんはとっくに亡くなりました。ある時、水、金、火、木、土、天、海、それに娘の冥が私を呼んで、大事な話しました。彼らは土地を売って外の国に行くということでした。私も、そのとき、あと数十年の命でした。私も連れていってもらうことにして、浦島草の仲間が沢山さんある亜熱帯の国に行こうということになりました。
 幸い、広い土地を持っていましたので、それを売ったお金で十分暮らせました。
 男の子供たちが外国にいく支度をしているときに、冥が相談にきました。
 「お母様、私は、この国に残ろうと思うのです。兄さんたちの子供、その子供をそうっと見守ってやろうと思います。兄さんたちには言いました。好きにしてよいと言われました」
 こうして、冥は髪をおろし、尼になり、修行の道にはいることになりました。
 私は私の日記を冥に渡しました。
 ここで日記は終わっていた。浦島白美は冥だったのである。三百年の寿命がつきたのだろう。日記と一緒の猫の脳は謎であるが、冥がかわいがっていた猫が、その性質を受け継いだのではないだろうか。
 
 水彦は浦島に行ってみることにした。一週間ほど休暇をとった。前もって向こうの市役所に電話を入れ、浦島の情報をみせてもらうことにしていた。
 彼は現地のホテルに荷物をおくと、まず市役所に行き、浦島一族の土地の確認をした。造船所の持ち物になっているが、今は全く手を着けておらず、雑木林になっている。その広い雑木林と海岸のあいだには岸沿いの道があり、車は入れないようになっていることから、市民の散歩道としてとても親しまれているということである。そういうこで、誰でもその場所にいけることがわかった。
 浦島白美の本籍である島は、海岸から舟で少しのところにある周囲三キロほどの島で、今の持ち主はやはり、造船所である。全く利用されておらず、危ないこともあり、島に上陸するのは禁止されているとのことである。だが物好きが結構島に行って遊んでいるようでもある。市の人が造船所に電話をかけ、水彦が明朝、島を見に行きたいことを伝えてくれ、許可を取ってくれた。
 このあたりの土地の持ち主だった男は、浦島作之助といい、古くからの住人らしい。海岸付近には兄弟の家が十数軒ほどあったが、七人いる兄弟の家で、それ以上親戚関係の家はなかったということである。兄弟の子供は全国に散っていったようである。兄弟は突然この土地を売りはらって、ブラジルに移民として行ってしまったようだ。
 市役所の人の話だと、釣り船の店に頼めば船を島につけてくれるということだった。釣り人は浦島に入ることは許されていない。許可が出ても、その周りでは魚がとれないそうだ。理由はわからないと言っていた。
 その日は海岸線を歩いてみた。雑木林を背にして海を眺めると、海岸から一キロほど沖に島が見えた。こちらから見ると崖が見えるが周りは緑に覆われている。結構レジャーなどに利用できそうだが、そうしないのはなにかあるに違いない。 
 朝早く起きて釣り船の桟橋に行くと、数人が乗った小型の船が待っていた。
 釣り船の親方は「津島さんかね」と声をかけてきた。
 「ええ、浦島によってください」
 「市から連絡受けたが、なんぞ用があるのかね、わしらは、あまり行きたかない島だね、理由なんぞねえが、なにかわからんものがある。あそこにゃあ、海鳥がよりつかん、昔、あの島が燃えちまってから、そうなったということだがね」
 もう七十を越している親方は元漁師だったと言った。
 「市役所の調査で」
 「ああ、そうだとは思ったよ、造船所は、あの島を利用しようともせんが、なぜだろうかね」
 そう言いながら船を出した。
 浦島にはあっというまに着いた。
 島の裏の方には小さな桟橋が造られている。造船所が造ったのだという。
 「何時頃に迎えにこようかね」
 「釣りが終わるのは何時頃ですか」
 「この人たちは、もう少し先の、箱島においてくるんだ、あそこはよく釣れる、昼前には迎えに行くが、調査に時間がかかるなら、別に来てやってもいいよ」
 「ありがとうございます、それならば、三時頃お願いできますか」
 「いいよ、この島には水もなければトイレもないよ」
 「はい、水は持っています」
 「気をつけてな」
 親方は船を遠くの沖に小さく見える島に向けた。
 浦島は小さな山といっていい、木がかなり茂っている。砂浜に続く道を歩いていくと、道は雑木林の中にはいっていった。少し急な上り坂になる。林の中には浦島草がたくさん咲いている。
 道なりに歩いていくと、ところどころに、林の中に入る小道があった。山の上にいけば、冥がいた地下の部屋というのが見つかるかも知れない。
 ずいぶん静かな島である。風のそよぎは感じられるが、鳥の鳴き声が聞こえない。このような島には必ず海鳥がいてぎゃあぎゃあ鳴いているものである。二十分も歩くと山の上にでた。そのあたりは木がまばらで海が三百六十度見渡せる。陸のほうを見ると、かなり遠くにきたと感じる。
  周りを見渡しても特に気がつくようなものはない。植物も九州本土のものと変わりがないが、頂上付近でも浦島草が所狭しと茂っている。違うのはそれくらいのものである。
 登ってきたところと逆の方向に下る道がある。陸の見える方角である。きっと、冥が隠れた洞窟があるに違いがない。津島は降りてみた。波の音が聞こえる。ここは陸の方から見える断崖だろう。陸を見ると、意外と近くに昨日歩いた海岸沿いの道が見える。行き交う小さな船がゆったりと動いている。
 水彦は岩肌の一角に、人が一人やっと入れそうな穴があるのに気がついた。中を覗いてみると、奥は深そうである。これが日と星の出会った穴ではないだろうか。
 彼はもっていたペンライトをつけた。入り口は小さいが中は広い洞窟になっていた。中を下っていくと広い場所にでた。広場の壁から水が浸みだし、水たまりを作っている。飲み水として重宝したことだろう。たき火をした跡が見られ、日がいた洞窟であることは間違いない。島に入ったときから奇妙だと思ったことだが、この洞窟にも生き物の気配がない。よくいるカマドウマや蜘蛛なども全くいない。
 水彦は引き返すと、今きた道を戻った。もうすぐ頂上というところに、林の中に入る脇道があった。降りるときには前方ばかり気に取られていて気がつかなかった。
 脇道を歩いていくと、浦島草の群落の中に石碑がある。いくつかの石に囲まれた石碑であった。大きいものではなく、高さは津島の腰にのあたりである。石碑には浦島島と書かれている。島の前の持ち主の浦島さんが建てたものだろう。
 石碑の回りの浦島草をかき分けてみると、丸いマンホールのようなものがあった。これが日と星がいた石室の入口ではないだろうか。
 丸い蓋の周りには一円玉より小さな茶色の丸い石が点々と落ちている。
 津島はいくつか拾い上げた。堅くてつるんとしているが、みな同じ形をしている。
 「あの脳と同じだ」と水彦はつぶやいた。
 焦げ茶色の石は本に載っていた鳥の脳のようにみえる。この島に鳥の姿がないことと関係があるかもしれない。
 水彦はマンホールの蓋を開けようとした。全く動かない。一人では無理だ。タオルをバッグから取り出し汗を拭いうと、石碑の上に手をおいて寄りかかった。
 その表紙に石碑がぐらっと揺れ、倒れてしまった。
 困ったことをしてしまったと、石碑を持ち上げようとしたが、小さいとはいえ、一人の力で元に戻すのは無理であった。
 石碑の乗っていた石の台の表面が四角く光っている。調度、手の平ほどの大きさで硝子のようにみえる。水彦はタオルで拭いた。すると、その表面から薄い光が漏れてきた。
 水彦はその四角い硝子をのぞいてみた。何も見えない。今度は手の指で硝子に触れた。そのとたん、その部分がぴかっと光り、ずずずず、ずずずず、と得体の知れない音がした。脇を見ると、マンホールが上にせり上がり、二メートルほどの筒状のものが現れた。片側が開いており、覗くと中に階段がある。降りていくことができそうだ。日が暮らしていた石室の入口だろう。
 彼は中をペンライトで照らした。深くはない。中に入って蓋が閉まってしまうと出られなくなる。ちょっと怖い。しかし、日の生活していた部屋を見たいという誘惑はそれより大きかった。
 水彦はバッグを入口のところに置くと、後ろ向きで階段を降りた。乾燥した空気が彼を包んだ。
 降り立ったところに入口があり、そこには戸がなかった。中を覗くと広い部屋になっている。ところが、彼が見たのは絡み合う植物の根であった。太い根が絡み合い、部屋の中に垂れ下がっている。根は壁を這い、すべてを覆いつくしていた。
 天井から明かりが洩れている、部屋の中がかすかに明るい。光は石碑の下の水彦が手をかざした四角い硝子から出ているようである。
 真四角な部屋の真中に大きな石棺が置かれている。根はその周りも覆っている。石棺には蓋がしてある。中はきっと星様と呼ばれる日に子どもを生ませた異国人、いや異星人の遺体があるのだろう。
 大きな蓋を動かすのは無理だろうと思いながら、水彦は蓋を押した。しかし、意外にも、蓋はあっけなく動いた。なんと軽く持ち上げることができた。材質は石ではない。プラスチックのような材質である。
 水彦は蓋をはずして、中を見た。
 日の日記にあったとおり、星様の遺体があった。干からびることもなく、今死んだばかりのような姿をして、静に横たわっていた。水彦はあまり驚きはしなかった。むしろ、想像していた通りである。やはり人間ではない。遺体はねずみ色のぴったりした服を着ていた。背がずい分高く、二メートルは越しているだろう。手足も長い。服からはあまり大きくない頭、手首と、足首がでている。
 頭に毛が無く、顔の二つの閉じられた大きな目の脇に小さな目のようなものがついている。さらに、同じようなものが、もっと脇、耳の上あたりにもある。水彦は足を見てまた驚いた。五本指に見えていたものは、分かれていなかった。指の間には水掻きのような膜がある。手も同じような状態だった。
 そのとき、開いたマンホールの入口から風が吹き込んできた。風は石棺の中で渦巻いた。顔や手足が粉になって舞っていく。着ている服も粉になって舞い上がると、部屋の中に散った。そこには黒っぽい脳だけがころんと残されていた。
 水彦はその脳を拾った。
 日の日記は正しかった。星様が誰だか、どこからきたか、いつかこの場所がみつかり、誰かが調べるだろう。水彦にはどうでもよいことであった。
 外に出ると、土台の硝子に触れた。入口は元に戻り、石碑も起き上がった。何ごともなかったようにである。回りの浦島草だけがわさわさと騒いでいた。
 水彦は予定通り釣り船に拾ってもらい、ホテルにもどった。
 ホテルの部屋の机の上に脳をのせ、じっくりと眺めた。星様の脳はしわがなく丸い。
 浦島は日の産んだ子供たちの食べものである浦島草の畑だったのだろう。草児宗は浦島一族の絆を保つためのものだったのだろう。冥、浦島白美は草児宗の寺を渡り歩いていたに違いない。そこには必ず食物である浦島草が生えているからだ。
 水彦はポケットに入れていた鳥の脳を取り出した。きっと、冥は浦島で小鳥を可愛がっていたに違いない。可愛がった鳥が死んで脳を残したのだ。猫と同じように。

 自宅に戻った水彦は、星様の脳を浦島白美、すなわち冥の脳の隣に置いた。人の脳の形をしていないが、白美の父のものである。浦島で拾った小さな脳は、脳の本をひらくと、まさに鳥の脳であった。机の上に、星様。冥、猫、鳥の脳をならべた。すべての脳は黒く輝いている。ここに生と死のドラマがあるに違いがなかった。
  星様の脳にコップの水を一滴たらした。玉になった水は流れることなく、脳の中に吸い込まれていった。水彦は脳たちを流しに持っていった。栓をして水を流すと、脳たちは水をどんどん吸い込んでいった。一晩水を出したままにしていたにもかかわらず、流しに水が溜まることは無かった。石の脳の中に限りなく吸収されていった。
 水彦はこの脳たちは死んでいない、脳の中で何かが生まれていると確信した。
 三日目、やっと流しに水が溜まり始めた。水彦は水道を止めた。
 水彦は脳をタオルできれいに拭いて机の上に戻した。
 水彦がPCにむかうと、並んだ脳たちがカタッと動いた。
 水彦は、新たな物語の序章を書こうと思った。彼は肉体の意味、地球の意味、宇宙の意味、すべてを理解しなければ死などわかるはずがないと思った。いきなりそのようなことができるわけはない。地球という小さな星の上の狭い地域で見られる、一つの現象として、死をまずとらえ直し、人間の存在の意味を考え、宇宙での死との違いを知る。それをこの脳たちは教えてくれるのではないだろうか。
 目の前にあるこれらの脳と自分の脳の違いはどこにあるのであろう。
 人の脳は柔らかい、ここにある脳は硬い、しかし、ここにある硬い脳は人の感じることのできる表面だけだ。中で何が生じているのか。
 自分のもつ時間だけでできる仕事なのだろうか。今まで学んだことは役に立たないとはいわないが、現実に硬い脳を目の前にしていると、地球上で教えられていることだけでは理解できるはずがなく、違う論理が必要なことが想像できる。
 遅くまでPCに向かい、頭を絞って書いた文章は、全く意味のないことになることのほうが多い。水彦は星様に会いたかった。
 その日、水彦はいつのまにか、机の上にうつ伏して寝てしまっていた。
 夢の中で、日が星様に字を教わっている。もし、星様の寿命がつきていなければ、地球にはない考え方を日は教わっただろう。もしそれが人間に伝えられていると、今の世は違ったものになっていたかもしれない。いや、もしかすると、水、金、火、木、土、天、海、冥の日の子どもたちはすでに何かを学んでいたのかもしれない。水彦は白美、すなわち冥と共有することができる時間がちょっとはあったことを考えていた。もし白美に話を聞く機会があったなら、死ということのヒントがもらえたのではないかと、夢の中で残念な思いにかられていた。地球の生きものの脳は柔らかい。ちょっと難しいことにぶつかると疲れ、寝てしまう。しかし、机の上の硬い脳は、熱にも耐え、疲れることなく思考を続けることができるのではないだろうか。
 ふっと、夜中に水彦は目を覚ました。
 机の上の黒く光る硬い脳たちが眼にはいった。
 水をたっぷり吸った硬い脳から濃緑色の芽が出ると、するすると伸びてきた。星様の脳、冥の脳、猫の脳、鳥の脳から生えた草は、大きさこそ違え、大きな破れた葉を繁らせ、紫色の花を咲かせた。長い長い舌をだらんとたらした。ゆらゆらと揺れながら、水彦に舌を延ばし始めた。
 水彦は理解した。これから、この浦島草たちが、地球ではなく、宇宙の死について多くを語ってくれるということを。硬い脳の中はこことは異なった宇宙なのだ。星様の脳から出た浦島草が、長い舌を水彦の頭に巻きつけてきて、ささやき始めた。冥や動物達の脳からも舌が伸びからだに巻きついた。水彦はキーボードに指を乗せた。見知らぬ文が画面に現れてきた。夜になると脳から咲いた浦島草の舌が頭に絡みつき、水彦は眠ることなく、宇宙の死の物語を書き続ける。いつか壮大な物語が語られることになるのだろう。

「お化け草」所収、自費出版33部 2018年 一粒社

浦島草の島

浦島草の島

寺の尼さんが死んだ。その脳は火葬にしても石として燃えずに残った。はたして、その尼さんの正体は。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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