ポスト人間椅子

野崎くるす

 うだるような暑さだった。激しい陽射しがアスファルトをてろてろと焼き、景色がゆがんで見える。
 そのなかを歩くサラリーマンとおぼしき男(K)が一人。首元のネクタイは緩められ、ワイシャツの袖はまくられている。
 Kは足をとめ、額の汗を腕で拭った。その脇には、汗を吸い込んで湿った茶封筒が抱えられている。
 Kは熱い息を吐きながら、目の前にあるポストを見つめた。ポストの赤が、じんわりとKの視界を染めてゆく。Kはそれを振り払うかのように首を振り、腕を伸ばした。
 細い長方形の蓋がぱかんと開く。宇宙のような冷たい暗闇が口を開ける。
 Kの意識は、この暑さにばかり向かっており、その暗闇は視界の端で、空虚に佇んでいるだけだった。
 Kの指先から離れた茶封筒が、すっと暗闇に喰われる刹那、Kの意識が研ぎ澄まされる。
 カチャンと蓋が閉じられて、暗闇は消えた。けれどKはその蓋から視線を逸らせない。
 んな、まさか。
 Kはふっと鼻で笑う。きっとなにかの見間違いだ。そう自分にいい聞かせるが、あの暗闇が、そこで蠢いていたものが、いまだ脳裏に焼き付いていた。
 ポストにしては大きなサイズだ。大人でも、身を屈めれば、このなかに入ることもできるだろう。あの暗闇のなかで蠢いていたものは、輝いていた二つの点は……。
 そんなことはあるはずがない。きっとこの暑さのせいだ。
 Kは自分を納得させるため、馬鹿らしいと自嘲しながら、震える指先で蓋を押した。ゆっくりゆっくりと暗闇が拡がってゆく。Kは粘つく唾を呑み込んだ。
「ひっ」
 Kは情けない声を漏らし、後ずさる。通行人にぶつかり、険しい視線を送られるが、それすらも気がつかない。Kの全身から汗が引き、肌が粟立つ。
 Kは気を紛らわすかのように、首元のネクタイの結び目をいじくりだした。けれどいっこうにあの光景が、妄想が消えてくれることはない。
 確かに、そこには二つの点があった。あれは目だ。硝子細工のような、ただ事実を眺めているだけのようでいて、いやらしい欲望を隠しもしない双眸だ。
 このポストのなかに、誰かいる。
 Kはそう確信した。確信はしたが、それでどうするということもない。警察を呼べばいいのか。けれどあのなかにいる奴は、自分の顔を確かに見ていた。
 常識は壊れ、通用しない。あるのは恐怖だけだ。そんな奴に話が通じるわけがない。目をつけられたら、自分の生活も壊されてしまうのに違いない。
 けれど、Kはその場を離れることができなかった。通行人の蔑むような視線にも気がついたが、瑣末なことだ。もはやKの日常は非日常に呑まれていた。
「あっ」
 ゆっくりと蓋が開いてゆく。あの暗闇だ。それを創り出しているのは、なかにいる奴に違いない。
 Kの身体が、じりじりとポストへ近づいてゆく。それはまるで誘蛾灯に吸い寄せられているかのように。
「あのー、ちょっといいですか?」
 その声に、Kの意識は、再び日常へと引き寄せられる。
 Kが振り返ると、そこには一人の郵便局員が立っていた。郵便物の回収にきたのだろう、黒い鞄を手にしていた。
「ちょっと開けますよ」
 郵便局員はKの脇を通り過ぎ、鍵を使い、ポストを開けた。
 Kは息を殺しながら、そっとなかを覗き込み、その光景に息を呑んだ。
 Kの様子を訝しんだ郵便局員が、「あの、どうしました?」とKに尋ねた。
 どうしました?
 その言葉が、Kには理解できなかった。その無頓着さに、腹立たしさすら覚えていた。
「あなたには、あの人が見えないのですか?」
 Kはポストのなかを指さしながら、怒ったように、早口でまくし立てた。
 けれど湯便局員はポカンを口を開けたまま、「なにがです?」と尋ね返す。
 なにが? お前にはポストのなかにいる奴が見えないのか。その事態に、Kは言葉を失った。
 白日に晒された薄暗がりには、窮屈そうに体育座りをする男の姿が。この暑さにも関わらずかっちりとスーツを着、髪は七三にわけられて、銀縁の眼鏡をかけていた。
 Kを見つめる郵便局員の背後で、男は手にした封筒たちを、丁寧に足元へと積んでゆく。そこに男の几帳面さと、神経質さとが表れていた。
「すいませんね」
 郵便局員は笑みを浮かべ、なぜか謝ると、Kなどは眼中にないといった感じで、積まれた封筒やら葉書やらを鞄のなかへとしまいこんだ。
 そしてゆっくりとポストをしめる。その刹那、Kは男のまとわりつくような視線を感じた。見ればしまりゆくポストのなかで、男はじっとKを見つめ、口元だけで微笑んだ。

 それから一週間が経った。相変わらずの真夏日が続き、夜も眠れぬ日々が続いた。
 そう、あれは暑さがみせた白昼夢だったのだ。Kはそう自分を納得させた。
 けれどあのポストの前を通り過ぎるたび、Kはそちらを見ずにはいられなかった。
 まだ、あのなかに男はいるのだろうか。
 Kはその考えやら妄想を消すことができずにいた。けれどそれを確かめることもできずにいた。
 そんなある日。
 Kは風呂上り、濡れた髪をタオルで拭いながら、机の上に放っておいた郵便物を整理していると、そのなかに、妙に引っかかるものを見つけ、手にとった。
 一見すると、なんの変哲のない封筒だ。けれどKの住所だけが流麗な文字で書き込まれているだけで、その差出人の名前や住所の類は一切なかった。
 Kはいいようのない不安に襲われながら封を切り、慎重に中身を取り出した。
 開け放たれた窓から、夏の空気を吸った生ぬるい風が入り込んできて、Kの手にした便箋が、乾いた音を立てた。
 Kは椅子に深く腰掛け、麦茶の入ったグラスにそっと口をつけながら、手にした便箋に目を落とした。

 このようなどこの誰ともわからぬ者からの手紙に、K様もさぞお困りのことでしょう。

 その文章は、こう始まった。Kはグラスを静かに置き、小さくぎっちりと並べられた文字を目で追ってゆく。

 私が、なぜこのような手紙を出すことを決心したか、出さぬという選択に耐えられなかったのかといえば、それは、K様に私の姿が見えているという確信があったからなのです。

 あの男だ。あのポストのなかにいた男に違いない。Kは風呂上りにも関わらず、身体を小刻みに震えさせながら、あの男の聞いたことのない、抑揚のない声に侵されてゆく。

 なぜ私があのようなことができるのかは、当の私にも皆目見当がつきません。ですが、なぜこのような行為に及んでいるのかといえば、それは明確、単に私の欲望のためなのです。
 厳格な男の書く淡い文に、すまし顔の理知的な女の書く柔らかな文。若者が故郷の両親にあてた自身を誇張した文。淫らな言葉に卑しい言葉、言葉、言葉。
 それらを投函する際の、あの瞬間の無防備な、無垢な子供のような顔を、家の布団のなかで思い出しながら、持ち帰った手紙を読むことにより、私の膨れ上がった欲望は解消されるのです。

 狂っている。壊れている。けれどそれが普通ならば、日常ならば意味をなさない。

 K様はよそ見をしながら、あの茶封筒を投函なさいました。あなたにとってのその行為はいたって健全、ありふれたことなのでございましょう。
 悪いことだとは思いながらも、私の性でしょう、K様の手紙を持ち帰らざるおえませんでした。丁重に封を切り中身を取り出し、味わいながら、何度も何度も読み返させていただきました。
 そして瞬間ですが、私の欲望は雲散霧消し、自身の目に狂いはなかったと、K様も私と同じ類の人間なのだと理解し、この上もない喜びに包まれながら、眠りへと落ちました。

 Kの口のなかはからからに乾き、舌が引きつったように口蓋に触れては離れてを繰り返す。

 K様は、江戸川乱歩の『人間椅子』という作品をご存知でしょうか? 
 私はいわば『人間ポスト』、いえ、これではどうもしっくりこないので、『ポスト人間椅子』といたしましょう、それなのでございますよ。
 まあ、彼のような、奥様、で始まる名文や癖とは程遠く、どちらかといえば、K様のような傍観者を気取っているのです。

 Kは「傍観者」と呟き、クツクツと歪な笑みを浮かべた。それはKが誰にも見せたことのない痛快な笑いだった。
 乱歩でいえば、自身は殺人に興味のない『屋根裏の散歩者』を気取っていたので、それもまたKの腹をくすぐった。
 まさか、この僕が傍観者と呼ばれる日がくるなんて。実に愉快な話じゃないか。
 Kの身体からは震えが消え、今は堂々と脚を組み、頬杖なんてついている。

 封筒のなかに、あのポストの鍵を入れておきます。もしよろしければ、受け取ってください。私はもう見慣れた顔ばかりになりましたので、別の場所へと移ります。

 Kが封筒を逆さにすると、なかから小さな鍵がころんと机の上に転がり落ちた。
 と同時に、数枚の写真も舞い落ちた。そこに写るのは、映画のワンシーンを切り取ったかのような光景だった。

 K様の手紙は、失礼ですが、私の大切なコレクションの一つとさせていただきます。
 そしてK様が同好の士に送られた写真に関しましては、私は平時の姿を知らぬ者には食指が伸びぬものでして、そのままお返し致します。

 Kは一枚の写真を手に取り、表と裏を交互に見た。これといって特に変わったことはない。
 Kは手紙を一読し、丁寧に便箋と写真、鍵を封筒へと戻し、机の抽斗の奥へとしまった。
「さて……」
 Kは再び、クツクツクツと笑いだし、自己に陶酔でもしたかのように、乱暴に髪をかきむしった。
「鍵を貰ったところで、あの男のように、自身の姿も他者には見えなくなるのかしら?」
 Kは問う。そんなKを囲む部屋の壁一面には、裸の女、盗みを働く男、路地裏で性行為に耽る若者などをおさめた写真が、ぎっしりとピンで留められていた。
 そのどれもがカメラの方を向いていない。まさか自身が被写体になっているとは露にも思わぬ油断した、間の抜けた顔をしたものばかりだった。

ポスト人間椅子

ポスト人間椅子

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-28

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