通り雨

『昨晩、○○県○○市○○町のこの場所で、通り魔事件が発生しました。二人の男性と三人の女性が刃物で刺され、二人が死亡。二人が重傷。一人が軽傷のこの事件、犯人と思われる男は、現在も逃亡中で、警察が行方を追っているもようです――』
 テレビの液晶画面の向こう側、その通り魔事件の現場で女のレポーターがマイクを持ち、カメラに向かって事件の概要を説明している。現場は住宅街。民家と民家の間に跨るそんなに広くもない道路を、黄色いテープが封鎖している。中には鑑識っぽい服装の男たち。
 俺はその映像を横目に、みそ味のカップラーメンをずずっと音を立てて啜る。
 あ、結構近いな、と思う。どうでもいいけど。
 映像は切り替わり、ニュース番組のスタジオへ。ニュースといっても昼のワイドショーだ。
『いやーまったく、また通り魔事件ですかー』
 仕草が鼻につく司会のニュースキャスターが、大袈裟に溜息をつく調子で言う。
『ここ最近多いですよねぇ、通り魔事件。二か月ほど前にも似たような事件起きたでしょ?』
 そのキャスターがちらりと目を向けた先では、大きな液晶画面の前に神妙な表情の女子アナウンサーが立っている。液晶画面には『多発する通り魔事件、現代の闇』という文字列。
『そうなんです。近年、通り魔事件の件数が急激に増えているんです』
 またニュース映像が流れ出す。先程のレポーターが生中継で解説していたものとは違い、以前からテレビ局のスタッフが撮影していたものを編集したものだ。その映像で、ここ数年で起きた有名な通り魔事件を一つ一つ紹介していっていた。
 ニュース映像が終わる。再びスタジオの風景。
『このように、近年の通り魔事件の多発は異常なものです。これには一体、どのような理由があるのでしょうか?元警察官で犯罪評論家の中森さん、ご解説をお願いします』
 カメラが変わってテレビ画面に映るのは女子アナウンサーから、その元警察官で犯罪評論家の中森というやつに。白い無精ひげを生やした、がたいのいい禿のおっさんだ。
『紹介に預かりました、中森です。あのね、ここ最近の通り魔事件の背景には現代の――』
 俺はリモコンを操作してテレビを消した。おっさんの顔がぷつんと消え、真っ黒になった画面には俺の荒んだ間抜け面が映り込んでいる。今にも死にそうな顔だと自分でも思う。
 スープの一滴まで飲み干した容器に割り箸を放り込み、俺は重たい腰を持ち上げる。
 ――さて、腹ごしらえも済んだし、そろそろ行くとするか。
 もう何日も洗濯していない薄汚れたジャージの上から、ボロボロのジャンパーを羽織り、財布は持たず、ただよれよれの腰バッグに出刃包丁を詰め込んで、俺は狭くて臭い自宅であるボロアパートの一室から外に出る。
 雨が降っていた。小雨だし、濡れたところでどうってことはなかったが、あそこに着くまでに、不審に思われたら元も子もないから、数日前にコンビニの傘立てからこっそり盗んできたビニール傘を差し、雨の中を歩き始める。
 目指す場所は一つのみ。傘を持つ手に自然と力が入った。
 そこへは自宅から徒歩で十分とかからない。見慣れた道を歩いているだけで到着する。
 それなりに広い駐車場の先に、五階建ての横長の建物。
 駐車場の出入り口には、『マルヤマ』という大きな看板が設けられている。
 ここは地元で唯一の大型複合商業施設だ。建物の中には、スーパーマーケットはもちろん、本屋、花屋、電気屋、服屋、レストラン、ゲームセンターなど、様々な店が入っている。
 ――ここで、俺はやるのだ。ついにやるのだ。
 俺はばくばくと速い鼓動を繰り返す胸を押さえ、一度大きく深呼吸をした。
 雨音がやけに煩い。どうやら雨脚が強くなってきているようだ。
 俺は再度、出刃包丁が腰バッグの中にあるのを確認し、また深呼吸。
 そして俯き気味の姿勢で、一歩、施設内に足を踏み入れた。


 初めて誰かを殺したいと思ったのは、いつのことだったろうか。
 まだ社会人として働いていたとき? 高校生のとき? 中学生のとき?
 あぁ、思い出した、そうだ、小学生のときだ、小学五年生の頃のあのときだ。
 あれはどういう経緯だっただろう? どういう経緯でああなったのだろう?
 きっかけは――きっかけはそう、俺の出来心のせいだっただろうか。
 小学生の頃の俺は、自分で言うのもなんだが、相当な優等生だった。
 俺が物心ついた頃から変な新興宗教を信仰していた両親から、「善行を積め。さすれば神からの御加護がある」と耳にタコができるほど説かれた。これが中学生のときにでも聞かされていれば鼻で笑って受け流すこともできたが、如何せんまだ自我があやふやなときに断るごとに聞かされた教えだ。俺はすっかりその教えに洗脳されていた。
 小学生になった俺は、両親に教えられた通り、善行を積むことに徹した。
 クラスのやつらが嫌がるような当番や係は積極的に引き受けたし、毎朝近隣住民や教師たちへの大きな声での挨拶も欠かさなかったし、バスや電車の中で老人や妊婦を見かけたらすぐに席を譲ったし、車椅子のやつが階段を上がるのを手伝ったし、道路に無造作に捨てられているチリ紙や空き缶などのゴミをちゃんとゴミ箱に捨てたし、一円でも小銭が落ちていたらパクらずに交番へと届けたし、学校のトイレや公衆トイレで トイレットペーパーが切れかけていたら、そっと新しいトイレットペーパーに交換したりなんかもした。
 善行を積めば積むほど、俺への神の加護は強くなる一方だと俺は信じていたし、実際に善行をすることは気持ちが良かった。事実、それは社会的にも精神的にも良好なことだった。
 当然、教師たちの評判も良かったし、クラスのやつらからもよく頼られた。
 ここまでは順風満帆といって差し支えなかった。あの出来事が起きるまでは――。
 あのときは確か放課後だった。窓が西に面した教室に、オレンジ色の夕日の光が流れ込んできていた覚えがあるから、きっとそうだ。
 教室の中には誰もいなかった。俺だけが放課後のその教室に一人、ぽつんといた。なぜ俺だけ居残っていたのかは憶えていない。大方、教師に何か用事を頼まれてそれを済ませているうちに、みんな帰ったというところだろう。
 俺も早く家に帰ろうと、ランドセルを背負ったとき、教室の窓の一つが少し開いているのに気付いた。閉め忘れだ。俺は小声で「閉めろよ」とぼやきつつも、その窓に手を伸ばした。
 その窓に手をかける手前で、俺はふと動きを止めた。隣の窓が目に入ったから。
 隣の窓は妙なことになっている。大きな厚紙がどんと窓の中心にガムテープで貼り付けられている。紙には文字が書かれていて、それは『この窓は危険、触るな!』。
 その日の朝のことを思い出した。
 朝、俺は誰よりも真っ先に学校に登校してくるのだが、その日の朝に教室に着いてみれば、一つの窓が割られていた。窓の真ん中に、大きな穴が開き、窓ガラスの破片が大量に床に散らばっていたのだ。
 俺が呆然としていると、後から続々と同級生たちが登校してきて、徐々に騒ぎになった。担任の山橋先生はただでさえ狐目の目をさらに尖らせて、「この窓を割ったのは誰ですか!」と大声を張り上げた。
 もしそこにいた同級生の中に、窓を割った犯人がいても、なかなか名乗り出ないだろうと思ったが、そいつはあっさり名乗り出てきた。
「はい、割ったのは僕です」
 そう言って手を上げたのは、俺の席の右前の席に座っていた佐伯という児童だった。
 佐伯は俺が思う限り、あのときのクラスで、誰よりも不真面目な人間だった。授業中は大人しく席に座っていなければならないのに、席を立って、みんなが勉強している間を駆け回って授業の邪魔をしたし、宿題をやってこないことなんかしょっちゅう、授業自体をサボることもしょっちゅうで、体育の授業のときなどは、まともに出ていた試しがなかった。
 だから佐伯が窓を割ったと知っても、そんなに驚くことではなかった。
「何で窓を割ったんです?」
 山橋先生が険しい声音で訊ねると、佐伯は俯いてしゅんとした様子で言い訳した。
「その――やってみたくなったから。あの――お母さんが聞いてるCDにね、オザキユタカって人の、なんとかの夜って曲があって、それに校舎の窓を割るみたいな歌詞があって――それで割ってみたくなって、割ったらどんな気持ちになるのかって――」
 要領を得なかった。稚拙だし、到底窓を割ったことを正当化できるものではなかった。
 現に同級生たちの間では、小声で「なんだこいつ」「キモい」と悪口が交わされていた。
 しかし、山橋先生は怒らなかった。むしろ哀れみのような表情を浮かべ、腰を屈めて佐伯と目線を合わせると、諭すような口調で佐伯に語り掛けた。
「あのね、佐伯くん、窓は割っちゃダメなんだよ。これはね、常識だから」
 佐伯はうんと頷き、「もうしません」とぺこっとお辞儀するように頭を下げた。
 周りでそれを見ていた同級生たちは「そんなものでいいのか」と驚いただろうし、また不満にも思っただろう。
 俺もそうだった。普段から悪行しているぶん、元からの印象が悪いからこのような悪事も珍しいことではないと思えるのかもしれないが、学校という公共の施設の窓を割るなんて行為は一時間の説教を受けても文句を言えないレベルのことではないか。そんな簡単に許してしまうのは、良いものなのだろうか?
 俺は確かに不満だったが、山橋先生はその謝罪で佐伯を早々と許したようだった。
「はいはい、それじゃこの窓ガラス片づけてホームルームしよう!」
 同級生たちの微妙な空気を察したのか、山橋先生は大声を出して手を叩いた。
 窓ガラスは俺を含めた何人かで片づけた。残りは遠巻きに眺めているだけだった。
 穴の開いた窓はさすがにそのままにはしておけないから、応急処置としてガムテープで厚紙を貼り付けて塞いだ。『この窓は危険、触るな!』の文字は誰かが勝手に書いていた。
 山橋先生曰く、今週の土日中に業者に頼んで窓を交換してもらうとのことだった。
 その後、ホームルームが始まり、終わっても山橋先生はそれ以上佐伯の件について言及しなかった。
 同級生たちも佐伯に関して不満はあるような顔はしていたが、休み時間中も特に佐伯の話をしている様子はなかった。
 佐伯はその日一日中、青白い顔で俯き、トイレのとき以外は自分の席から一歩も動かなかった。俺はといえば、何も変わらずいつも通りだった。
 そんな日の放課後だった。俺はガムテープと厚紙で穴の塞がれた窓を見つめていた。
 ――俺も、窓を割ってみたい。
 その感情は、何と説明すればいいだろうか。心の奥底から湧き出す衝動というか、ただ単に淡く浮かび上がった願望というか、ともかく俺は唐突にそう思ったのだ。いや、唐突ではなかったかもしれない。本当は以前から窓を割りたいという願望があったのかもしれない。
 普段から善行ばかりを積み、悪行というものを一切せずに優等生を演じてきた俺は、密かに悪行をしたいという願望が頭か心のどこかに根付いていた可能性だって大いにあった。
 だがそのときの俺はただ、純粋に窓を割りたいと思った。
 俺は咄嗟に教室内を見回した。誰もいない。間違いなく誰もいない。ロッカーの中だとかに隠れている様子もない、廊下から誰かが来る気配もない。
 今さっと割って逃げれば、犯人が俺だとばれずに済むのではないか?
 邪な思考が頭をもたげた。それを、散々聞かされた両親の教えが抑え込もうとする。
『善行を積め。さすれば神のご加護がある』
 しかし、そこではたと気づいた。
 悪行をしたらどうなるかは、一言も教えられていないではないか。
 俺が教えられてきたのは善行を積むことだ。悪行をすることに関しては何の教えもない。つまり悪行を禁止されているわけではないのだ。それに、今までこれだけの善行を積んできたのだ。悪行の一つや二つぐらい、よっぽどケチ臭い神でもなければ許してくれるだろう。
 今から振り返れば屁理屈以外の何物でもなかったし、無理のある解釈だったが、そのときの俺に湧いたその欲望は、湧き上がった瞬間からみるみるうちに膨れ上がっていたのだ。
 一度だけ、一度だけ窓を割れば、窓を割れれば満足だから――。
 俺は興奮で震える手をどうにかコントロールし、近くにあった椅子を持ち上げた。
 この教室内で、窓を割るのに使えそうなものといえばそれくらいだった。
 両手でしっかり椅子を抱え、割れていない窓の前で立ち止まった。
 一度だけ、一度だけ窓を割る、窓を割ればきっと満足するはずだ――。
 自分の喉が唾を飲み込む音が耳に届いた。手の震えはいっそ激しくなっていた。
 目を瞑り、意を決して椅子を窓目がけて振り下ろそうとしたときだ。
「ちょっと!あなた、何やってるのっ!」
 怒号が耳元をかすめ、振り向くと、教室のドアの前に山橋先生が立っていた。
 廊下にも誰もいないと思っていたのに、緊張で感覚が鈍くなっていたようだった。
 俺は慌てて椅子を床に下ろした。山橋先生は般若のような顔で俺へと駆け寄ってきた。
「今、何をしようしていたんですか?」
 まだ穏やかながらも地の底から響いてくるような声に、俺はシドロモドロになった。
「え、あ、あの、その――別に何も、何も――」
「窓を割ろうとしていたんですか?」
「それは――その――」
「窓を割ろうとしていたんですね?」
 威圧するように睨み付けられ、委縮した俺は認めざるを得なかった。
「――はい、窓を割ろうとしていました」
「なぜですか?」
「えーっと、ま、魔が差して」
 俺は身を丸めつつ、恐る恐る山橋先生を見上げた。恐怖と後悔と興奮を綯い交ぜにした感情の中、どこか冷静な部分では山橋先生の次の台詞を予測していた。
 普段から悪行を散々行ってきた佐伯に対しての説教があんな諭すような感じだったのだ。今まで善行を積んで印象を良くしている俺には、なおさら佐伯と同じような反応をされるに違いない。ずばり次の山橋先生の台詞は、諭すような口調で忠告。それで終わりだ。
 そうたかをくくっていたのに、山橋先生の次の言葉は俺の予測とは大きく外れていた。
「あなたは自分が何をしようとしていたのかわかってるんですかっ!」
 怒鳴られた。思いっ切り怒鳴られた。初めに呼び止められたときと同じ調子で。
「ま、窓を割ろうと――」
「そういうことではなくてですっ!人の振り見て我が振り直せ!今朝の佐伯くんの件から何も学ばなかったのですか!一日も経たないうちに似たようなことを起こそうとして――」
 山橋先生の口はまるでマシンガンのように猛烈に動いた。脳を揺らすくらいの怒声。
 俺はもう山橋先生の顔も見られず、俯いて床を眺め、浴びせられる怒声に耐えていた。
 その佐伯の件で窓を割りたくなった、とは到底言えなかった。
 何でだ?色々綯い交ぜだった感情に、混乱と疑問と不満も加わった。
 何で俺が怒られている? いや怒られているのが当然といえば当然だ。自分が何をしでかそうとしていたのかはわかっている。ただ、なぜ佐伯以上に叱られなければならないのかは、まったく理解できなかった。俺は佐伯と違って、普段から善行を積んできたはずだ。それなら一度の悪行くらい、良いではないか。それがダメだというなら、なぜいつも悪行を繰り返している佐伯はあの程度の説教で済んだのだ?その上、俺は窓を割ろうとしただけで、窓を割ってはいない。それなのに、何で実際に窓を割った佐伯以上の怒りを受けるのか?
 可笑しいだろ? 普通は逆だろ? 理不尽だろ? これは理不尽だろ?
 頭の中がごちゃごちゃだった。思考は混濁を極め、ただ大人しく怒鳴られるばかりだった。
 そして山橋先生の説教の中に含まれているある台詞で、俺はあっさり理由を悟った。
「――あなたは優秀な児童だったのに――」
 あなたは優秀な児童だったのに、その山橋先生の声が、脳内にエコーがかって木霊した。
 優秀だったからか? 今まで善行を積み重ねてきたからこそか? 佐伯は元からそんなやつだったから?諦めていたからあの程度で済んだのか?
 期待感や信頼感があるから、裏切られたときのがっかり感が強いから、だからこんなに怒っているのか、この人は。
 でも、山橋先生は俺のこと、そんなに褒めたことはなかった。俺がどれだけ先生の仕事を手伝おうと、山橋先生はまるで当然という顔をして、「ありがとう」と短く礼を述べるだけだったではないか。その程度の賛辞なのに、一度も過ちを犯そうとすればこの過剰な憤怒だ。
 やっぱり理不尽だ。理不尽としか思えない。
 だが同時に思った。――あぁ、多分これは山橋先生だけではないのか。
 同級生たちだって、すぐに嫌われている係や当番を押し付けたり、頼りにしてくるくせに、俺に感謝している風ではなかった。
 みな口では感謝の言葉を述べていたが、それはどれも儀礼的で心がこもっておらず、軽くて白々しい響きを伴ったものだった。
 きっとあいつらも俺が佐伯と同じことをしようとしていたと知れば、佐伯以上に見下し、軽蔑し、バカにしていただろう。いじめられていたかもしれない。俺は正真正銘の善人だと思われているから。正真正銘の善人は、悪事を一つもやってはいけないから。
 何となく、何となくわかった、だが、わかることと理解することは違った。
 わかったけど、理解できなかった。俺は、結局理解できなかった。
 山橋先生に対して、胸の奥底でむわっと何かしらの感情が湧き上がった。怒りとも違う、悲しさとも違う、虚しさとも違う、でもとにかく暗い気分になる負の感情。その感情は後に殺意だと知るが、そのときは何なのかさっぱりわからなかった。この日から俺は何度も殺意という感情を抱くことになるが、恐らく最初はこの山橋先生だった。
 山橋先生とは小学生の間、よく顔を合わせることになったが、目は合わせなかった。
 両親や同級生たちにばらされなかったのが唯一の救いだった、と今は思う。
 俺はその日以来、積極的に善行をしなくなった。両親の教え通りに善人ぶるのをやめた。
 善人ぶっても何の得にもならないことに、あの一件で気づいてしまった。
 善行をすれば善行をするほど善意の価値は薄れ、感謝はなくなり当然のことになる。その上で行う無償の善行などに、一体どんな意味があるというのだろう? 両親は言った、「善行を積めば神のご加護がある」と。そんなものはなかった。
 そもそも神などいるわけではなかったし。俺はクリスマスにサンタクロースが実在しないことを悟ったように、そう強く思ったのだ。

 捻じくれた思想になったまま、中学生になった。
 俺の中学生時代は、小学生の頃と打って変わって静かで大人しいものだった。
 ほぼ一日中、教室の中で目立たないように過ごした。自分の席から滅多に動かなくなった。
 とても平穏なものだった。誰も俺を気にかけず、俺も誰も気にかけない生活は、この上なく気楽だった。なぜもっと昔からこんな風に暮らしていなかったのか、不思議に思うほどだった。このまま学生時代をやり過ごせればいい。そう思っていたが、そうもいかなかった。
 異変が起こったのは、中学二年生に上がった頃だ。
 俺は運悪く、中学一年生のときは別のクラスになれていた佐伯と同じクラスになってしまった。
 そこまでは、まぁまだ良かったのだ。佐伯と同じクラスなのは気まずかったが、俺が勝手に気まずく感じているだけだし、普段通り、大人しく生活すれば、何の問題もなく時が過ぎるはずだった。だが、真に問題である部分は、他にあった。
 昼休み、俺が机の影に隠れて細々と昼食の菓子パンを食べていたら、唐突に怒声が聞こえた。
 いきなりだったからよく聞き取れなかったが、「おぅ」だとか「おい」だとか言っていた。
 俺は驚いて菓子パンを床に落としそうになりながら、声のした方に振り向いた。
 俺と同じような反応をしたらしく、クラス中の視線がその一点に注がれていた。
 そこには佐伯の席があった。机の上には親の手作りなのか、プラスチック製の弁当箱に入れられた食べかけの弁当が置かれていた。
 佐伯はその席に座っていたが、なぜだか怯えて委縮しているように肩を窄めていた。それは佐伯の席を取り囲んでいる連中を見ればわかった。
 佐伯の席の周りには、不良っぽい男子生徒数名がにやにや顔で立っていた。一応このクラスの生徒だが、授業中は平気でサボったりバックレたりする人間だ。
 中学生になってから何に影響を受けたのか急に不良に被れた連中で、制服を不良っぽく着崩していること以外は髪の毛も染めておらず、一人一人を見ればひょろいやつばかりで不良と名乗られても失笑を禁じ得ないが、何人かが寄り集まるとそれなりに威圧感があった。
 そいつらが佐伯の席を取り囲み、佐伯に何か声をかけているのだ。結構大きい声で。
「おい佐伯、てめぇよく堂々と、教室で飯食えたもんだな」
「てめぇは便所飯がお似合いだろうよ」
「オザキユタカに被れて窓を割った異常者が。もう許されたとでも思ってんのか?」
「先公が許そうが、お天道様が許そうが、俺たちは許さないからな」
「まぁ何はともあれ、今年もよろしく頼むわ、佐伯くん」
 怒鳴ったり、急に馴れ馴れしくしてきたり、どう見ても異常な光景だった。
 佐伯は俯いて顔を上げようとせず、不良被れどもの罵声に黙って耐えているようだった。
「そうだ、ささやかな友好の証として、俺たちがお前にふりかけのプレゼントをしてやろう」
 不良被れの一人がにやにやを崩さずにそう言うと、ばっと後ろに回していた両手を前へと突き出した。その両手に握られていたのは二つの黒板消しだった。その時点で半ば予想できたが、その不良被れは黒板消しを力強く打ち付け合った。黒板消しに染み込んでいたチョークの粉が一気にぶわっと溢れ出し、弁当の上へと降り注いだ。弁当は真っ白になった。
 佐伯はそれでも黙って身を丸めていた。不良被れどもは腹を抱えて笑い転げていた。
 不良被れの一人と目が合ったような気がして、俺は慌てて逸らした。他のクラスメイトたちも早々と目を逸らし、まるで何事もないかのように食事や雑談に興じていた。
 佐伯はいじめられていた。誰もが見紛うことなく、佐伯はいじめられていた。
 だからってどうってことはなかった。まだ山橋先生にこっ酷く叱られる以前の俺なら、両親から植え付けられた自分の信念により、一言か二言くらいは不良被れどもに物申しただろうが、その信念も山橋先生によって取り上げられたため発動のしようがなかった。
 また佐伯と助けようとしたところで、俺には何一つメリットがなかった。佐伯と友人になれる?それの何がメリットなのだ。挙句には不良被れどもに今度は俺が目をつけられる結果になり、俺がいじめなどというものを被る破目になる可能性が大いにあったのだ。
 それを察していたのは俺だけではないらしく、誰も佐伯のいじめに口を出す生徒はいなかった。不良被れどもは休み時間中にしょっちゅう佐伯にちょっかいをかけ、困らせたが、俺を含めた生徒全員が素知らぬ顔をしてやり過ごしていた。教師にチクるやつもいなかった。
 それはそれで教室内の均衡は保たれていたし、至って平穏だと主張できた。
 俺はこのままで良かった。このまま佐伯だけが犠牲になっていれば――。
 それさえも崩れたのは、夏休み明けの二学期に新たに転校生が来たことだった。
 女子生徒だった。下の名前は思い出せないが、苗字は確か鈴井といった。
 鈴井は如何にも優等生然とした真面目なそうな生徒だった。きつい印象を与える狐目は、山橋先生を連想させて、俺はすぐに苦手なタイプの人種であることを悟った。
 それもまぁどうでも良かった。いつも通り過ごせばいいだけの話だった。
 しかし、あれのせいでそうもいかなくなってしまった。本当に、あのときは不運だったとしか言いようがない。
 当番だった。放課後のゴミ捨ての当番。小学生の頃のように他人の当番を引き受けたりすることはなかったが、如何せん日替わりの当番は突っ撥ねられない。
 渋々燃えないゴミと燃えるゴミ、二つのゴミ袋を持って教室を出た。その学校のゴミ捨て場は校舎裏にあった。そのため、俺は渡り廊下を通って校舎裏に向かわざるを得なかった。
 果たして、その校舎裏のゴミ捨て場のところに、佐伯と不良被れどもが屯していた。
 俺は動揺し、慌てて木の影か校舎の影に隠れて様子を窺った。
 どうやら佐伯は殴られているようだった。あまり会話は聞き取れなかったが、不良被れどもの笑い声と、佐伯の助けを求めるような弱々しい声が聞こえてきた。
 このまま踵を返したい気持ちでいっぱいだったが、ゴミを捨てなければならない。
 俺は意を決し、何食わぬ顔を意識してゴム捨て場の方へと近寄っていった。
「あぁ? 何だ、おまえ?」
 不良被れどもの一人が俺に気付いたらしく、俺を睨み付けてきた。
 一人が気づけば、他の不良被れどもも気づく。全員が俺を見てくる。
 佐伯も俺を見ていた。不良被れどもの足の間から、俺を見ている佐伯が見えた。
 佐伯の顔には青痣が出来ていたし、鼻の穴からは血が流れ出していた。期待している目を俺に向けていた。助けられることを、救われることを、善意を期待した目を――。
 俺は下手糞な愛想笑いを浮かべ、そいつらに向かって二つのゴミ袋を掲げた。
「ご、ゴミ捨てだよ、ただの。すぐに終わるから、と、通らせてくれない?」
 心の中で佐伯に、すまん、お前の期待には応えられない、と謝った。
 不良被れどもは一瞬目を合わせあうと、「いいぞ、さっさと済ませろ」とゴミ捨て場を顎で示した。俺は頭をへこへこさせながら、なおも睨み付けてくる不良被れどもと、失望しきったような暗い目を向けてくる佐伯を横目に、ゴミ捨て場にゴミを投げるように捨てた。
 ゴミを捨てたらここに用はない。「邪魔してすいません」と敬語で不良被れどもに謝りながら速足でゴミ捨て場から離れようとした。途中で立ち止まって振り返ると、不良被れどもは俺のことを忘れ、再び佐伯いじめに興じ始めたようだった。
 とりあえずはホッとし、前に向き直ったときだ。俺は「あ」と声が出そうになった。
「あんた、わざわざ声かけたのに、あのひと助けなかったね?」
 校舎の壁にもたれかかった鈴井が、冷めた目をして冷めた声音で言った。
 俺は返す言葉を思いつかず、押し黙った。鈴井は言葉を続けた。
「最低だとは思わないの? 助けられる状況で助けないってのは」
「た、助けられないって、俺なんかが注意したところで――」
 ようやく声が出た。あまりにも掠れたような小さな声だったが。
「情けない男だなぁ、逃げただけでしょ。自分が何かされるのが怖くて」
 呆れたような、軽蔑したような目だった。でも何より真っ直ぐした目で、俺は気圧された。
「だ、だって、みんな、みんなそうだし。みんな見て見ぬふりしてるし」
「みんなそうだから、自分もそうで良いっていうんだ?」
「う、煩い。助けたってろくなことにならないだろ。黙認するのが当然なんだよ」
 取り乱した口調になったが、声を荒げなかったのは、背後の不良被れどもを気にしてのことだった。
「ほんとしょうもない。あんたと話してても何にもならないわ。それじゃ」
 鈴井は見下したような目をしたまま、俺の横をすり抜けて通り過ぎていった。
 地面から生える雑草を、踏みしめていく足音が背後で遠ざかっていく。
 俺は動けなかった。その場で固まって、地面の上に落とされた自分の影を見下ろしていた。暑くもないのに額から汗がだらりと流れて、顎を伝ってその影の上にぽたりと落ちた。
 さっさとここを去ってしまいたかったのに、まるで足を地面に釘で固定されたように一歩も歩き出せなかった。かといって振り返る勇気もなかった。ただそこに突っ立っていた。
「何だとてめぇ!」と野太い怒声が聞こえたとき、それに背中を押され、俺は駆けだした。ちらりとも振り向かなかった。
 その足で教室に戻ると、机の上に放置していた荷物をまとめて背中に背負って教室を飛び出し、玄関で靴を履き、校庭を突っ切って校門も飛び出した。
 それでも走った。まだ走った。自宅に到着するまで、一歩も立ち止まらずに走り続けた。
 帰宅した直後は心臓が激しく脈打っていたし、頭痛も吐き気もあった。壁に手を当てて身体を支え、「ぜぇぜぇ」と肩で息をして自身を落ち着かせるのに精一杯だった。
 だが、そのうち心臓の脈打ちも頭痛も吐き気も治まってきて、何をこんなに焦っているのだろうという気持ちになってきた。浴室に入って頭から冷水をぶっかければ、さらに冷静になった。
 頭の中を整理してみる。なぜこんな風に焦って走り帰ってきたのか。
 自分は佐伯を助ける意思すらなかった、という罪悪感のためだろうか? 自分にはできないことをやりにいった、鈴井に対する劣等感のためだろうか? それとも単に鈴井と不良被れどもの小競り合いに巻き込まれたくなかっただけか?
 うーん、うーんとしばらく自室の端に敷かれた万年床の上で呻きながら考えた。その末、考えても仕方ないという結論に達した。
 いくら考えたところで、俺の心は精神の自己防衛のために懸命に真相を隠すだろう。それをわざわざ暴いてみたところで、俺には何の得もない。もしやいらぬ傷を増やしてしまうことにもなりかねない。それならばきっぱり考えることを諦める他なかった。
 なに、そんなに大したことにはなっていないだろう。精々酷いことになっていたとしても、鈴井がぶん殴られてちょっとした騒動になるくらいだろう。
 そうなればいい加減に傍観していた教師どもも重たい腰を上げて、佐伯のいじめに対処するかもしれない。万事解決さえすれば、俺のことなんか有耶無耶になるのだ。俺が佐伯のいじめを見過ごそうとしたことも、鈴井が俺に放った軽蔑の言葉と視線も、すべては有耶無耶になって終わるのだ。
 そう希望的な観測というやつを無理やりこじらせてみれば、心はいつものような平静を取り戻した。
 あとは特筆することもない。夕飯を食い、再び風呂に入り、テレビを観て、ネットを覗き、歯を磨き、トイレで糞を出し、埃臭い布団に包まって眠った。
 希望的観測が事実、希望的観測であったことは、翌日に登校してみればわかった。
 まず教室に入ろうとドアを開けたときから、教室の中の様子が可笑しいことに気付いた。
 なんかざわついているのだ。すでに登校している同級生たちは、こそこそと何か耳打ちし合い、教室のある一点に目を向けていた。その視線の先を追って、俺は言葉が出なくなった。
 そこには鈴井の席があった。その鈴井の席を、あの不良被れどもが取り囲んでいた。
 ちょうど、以前佐伯の席が取り囲まれていたような感じで。もちろん席には鈴井が座っていて、にやけ面の不良被れどもの輪の中心で凛と背筋を伸ばして座っていた。
 俺は咄嗟に佐伯の姿を探した。佐伯は自分の席で鈴井の席を見ないようにするかのように俯き、一人肩をぶるぶると震わせていた。恐る恐る遠目から顔を覗き込んでみると、右頬の辺りに大きな白いガーゼが貼られていた。他にも顔の数か所に絆創膏が貼られている。
 声をかけたりはできなかった。佐伯も俺とは目を逸らすばかりだった。
 鈴井を取り囲む不良被れどもは、何も言わずにただそうしているのが嫌がらせのように鈴井をにやけた気味の悪い表情で見下ろしているだけだった。
 一応不良被れどもの身体の合間から鈴井の顔を見た。鈴井は背筋の真っ直ぐな感じと違わない、前を向く凛とした表情で不良被れどもには見向きもしていないようだった。
 目立った外傷は見当たらなかったが、額の辺りに絆創膏が一枚貼られているのが見て取れた。
 そんな風にじろじろ視線を向けているうちに、鈴井と目が合った。昨日と同じく、あの真っ直ぐした目で、あの責めてくるような真っ直ぐした目で、俺を真っ直ぐに睨み付けてきた。 
 俺は目を背けざるを得なかった。
 心臓がぎゅっと締め付けられる苦しさを感じ、足が竦んだ。
 鈴井の真っ直ぐな目は、あの目が合った一瞬で、猛烈に俺を責め立ててきた。
 一気に自分を愚図で矮小で卑怯者でゲスでろくでなしの存在だと自覚させるような――。
 朝のホームルームのチャイムが鳴った。担任の教師が教室に入ってくると同時に、不良被れどもは鈴井の席から散り散りになって逃げるように教室を出ていった。
 昼休み、不良被れどもは再び教室にやって来て、鈴井の席の周りを取り囲んだ。
 ちょうど鈴井が机の上に弁当を広げたときに現れたから、機会を見計らっていたのだろう。
「よぉ、鈴井、元気にやってるか?」
 不良被れどもの一人が乱暴な手つきで鈴井の肩を叩いた。鈴井は何の反応も示さない。
「前は佐伯に昼食のプレゼントをしてやってたからな。お前にもプレゼントだ」
 不良被れの一人はポケットからおもむろにそれを取り出し、鈴井の弁当の上に乗っけた。
 ミミズだった。うねうね蠢く数匹のミミズが、鈴井の弁当の上で踊っていた。
 悲鳴はなかったが、誰かが「ひえっ」と怖がる声を出したのが聞こえた。
 鈴井は無言だった。無言で前を向いていた。弁当の方も不良被れの方も見ず、ただ前を向いていた。
 俺は何もせずに昼食のパンをもそもそ齧っていた。
 佐伯も何もせずに弁当を細々と食べていた。
 他の同級生たちも佐伯と同様に、何もせずにひそひそ話をするきりだった。
 不良被れどものいじめのターゲットは、完全に佐伯から鈴井に移行していた。
 佐伯はいじめられなくなった。佐伯は別段嬉しそうでもなく浮かない顔をしていたが、いじめられる鈴井を助けようとするどころか、目を背けて黙認しようとする辺り、内心はいじめられなくなってホッとしているのだろうと思った。それどころか、鈴井が身代わりになってくれて有り難いとすら思っているだろう。弁当を黙々と突く佐伯を見て、そんな風に感じた。
 その日からだ。俺が他人の目が、視線が、この上なく恐ろしくなったのは、この日からだ。
 初めは誰の目よりも鈴井の目が恐ろしかった。
 なるべく鈴井の席の方を見ないように心がけるのだが、どうしても気になって視線が勝手に動いてしまう。それでときたま振り向いた鈴井と目が合えば、俺の心臓は飛び上がるように鼓動を速めた。鈴井の目は何度見ても一点の曇りがないほど真っ直ぐで、また俺の中の罪悪感と劣等感を揺さぶるには十分だった。
 そのうち、自分が恐ろしがっているのが鈴井の目だけではないことに気付いた。不良被れどもの目もだ。
 あいつらが俺にちらりと向ける視線には、明らかに馬鹿にするような、嘲笑するようなものが含まれていた。あのとき腰を抜かした間抜けな意気地なしと。
 不良被れとも目だけではない、佐伯の目だってそうだ。
 佐伯の目は俺に対して、どう考えても軽蔑の光が含まられていた。あのとき自分を助けようともしなかったクズ野郎を、心底から軽蔑している、そういう目だとしか思えなかった。
 終いにはクラスメイト中の視線が恐ろしくて仕方なくなった。
 クラスメイトたちはあの日の俺の格好悪い姿も、不良被れどもや鈴井とのやり取りも知らないはずだったが、なぜだか全員があの日のことを知っているような気がする。知っていて、俺には何も言わず、ただ視線を向けてくる。馬鹿にし、軽蔑し、侮蔑し、責めるような視線を向けてくるのだ。
 そんなわけはない、そんなわけはないと思う。
 誰も俺に悪意のこもった視線なんか送っていない、送っていないと思うのに、そんな他愛のない妄想が四六時中、寝ても覚めても頭から離れない。頭から離れないどころか、どんどん脳の内側にびっしりとこびり付いていく。
 結果、俺は自室引きこもりがちになり、学校へも不登校気味になった。
 俺は後悔した。あのときに一言でもあの不良被れどもに文句を言って、一瞬でも佐伯を助けようとするアクションを起こせば、こんな目には遭わなかったのではないかと、後悔した。
 しかし、そうしたとしても、鈴井の代わりに俺がいじめの標的になるだけで、きっとそれはそれで無視してやり過ごせば良かったと後悔するのだろうと思うと、何もかもが放り出してしまいたくなるほど嫌なものに思えてきて、酷く惨めな感覚にさせられた。
 その後の中学生活は、特に何もなかった。俺は不登校と登校を繰り返しながらも、なんだかんだで卒業式まで通ったし、佐伯なんか皆勤賞だった。
 不良被れどもは卒業式の日まで必要な鈴井いじめに興じていたようだったが、鈴井は卒業式の日まできっちり登校してきた。
 制服は以前に不良被れどもに泥で汚されて、まだクリーニングから返ってきていないのか、卒業生として卒業証書を受け取った鈴井は体操着姿だった。
 それでもその凛とした佇まいは、あの日から何も変わっていなかった。もちろん、あの俺を軽蔑したような目も。

 劣等感と羞恥心に苛まれながらも、だがしかし、俺は卒業して心底から安堵した。なぜならもう鈴井や佐伯に会うこともなかったからだ。
 鈴井と佐伯は勉強が良くできたため、地元の進学校へと進んだ。
 俺はといえば、不登校でろくに授業も受けず、また自宅でぼんやりと引きこもっているときも勉強なんかしていなかったもので、卒業時の成績は下から数えた方が早いほどのものだった。
 そのため、俺に残されていた選択は、試験の答案用紙に自分の名前さえ正しく書けていれば入学できると噂の底辺高校しかなかった。
 それでもまぁ、鈴井と佐伯から離れられることは嬉しかった。
 あの軽蔑した視線を向けられることがないのだと、そう思うと未来がようやく明るく開けたような気さえした。
 如何せん不良の溜まり場と評判の高校でもあるものだから、あの不良被れどもとは同じ高校に通うことになってしまったわけだが、鈴井と佐伯がいない上に、他のクラスメイトたちも俺や不良被れどもよりは成績が良くて他の高校へと進学していったぶん、新しい学生生活は以前よりは幾分か気楽なものだった。
 今度こそ静かに平穏に暮らそう、そう決心した。そう決心した矢先に、出鼻を挫かれた。
 きっかけは不良被れの集団が何やら話しながらよそ見して歩いているところに、その中の一人に肩をぶつけてしまったことだった。
 もっとも、不良被れどもは高校生になって髪を各々奇抜な色に染め、未成年にも関わらず煙草を吸ったり酒を飲んだりするいっぱしの不良集団になっていたが、それはともかく。
 肩をぶつけたことで、俺はそいつらに目をつけられる破目になった。元々同じ中学校だったから、そのせいかもしれない。
 不良どもは肩をぶつけただけなのにビビッて地面に土下座する俺の頭を踏みつけ、「ここ一週間、俺たちのパシリをやるなら許してやってもいい。もちろん代金はお前が支払え」と偉そうに言った。
 すっかり暴力に委縮していた俺に反論なんかできる余裕はなかったから、二つ返事でその命令に従うことを誓った。今から思えばかなり軽率だった。
 俺は一週間、そいつらのパシリをした。
 教科書を忘れたと言われれば貸したし、宿題を写させろと言われたら抵抗することなく自分の宿題を見せ、昼休みにジュースやパンを買ってこいと言われれば急いで買いに行った。少しでも遅くなると容赦なく殴られた。
 一週間で終わると思っていた。そもそも、その考えが間違いだった。
 一週間が経つと、不良どもは俺にこんな風に抜かしてきた。
「ダメだ、まだ許せない、あともう一週間だ。あともう一週間、パシリをしろ」
 逆らえなかった。俺はもう一週間、パシリをした。しかし一週間経てば、また同じようにもう一週間と言われパシリをし、また一週間経てば同じように――。
 あとは特筆すべきことではない。いつの間にか不良どものパシリは俺の日常になっていた。
 悔しいという感情はあった。忌々しいという感情はあった。それでも毎日パシリをした。
 不良どもの昼食代をほぼほぼ俺が出すことになってしまっていたため、俺はバイトを始めた。
 俺は元来鈍臭い人間だから、ちょこちょこ小さなミスを繰り返し、そのバイト先の店の店長にしょっちゅうこっ酷く叱られた。
 学校では不良どものパシリで、少しでも意に添わなければ痛めつけられるし、俺の高校生活は中学生のときよりも明らかに散々なものだった。
 散々でも我慢していた。我慢して耐えていた。
 だが、その我慢の糸がぷつんと途切れたのは、一体何が原因だっただろう?漫画か小説の影響だった気がする。現実の辛さから逃れるためにフィクションの世界にのめり込もうと本を読む機会が増えていたから。
 その読んだ本の中に、いじめてきた相手に復讐する話だとか、そういうのがあったのだと思う。いや、そんなのはこじつけで、単純に俺の我慢が限界に達していたせいだろう。
 ある日、俺はパシリの帰り、こっそりポケットにカッターナイフを忍ばせた。
 買ってきたパンとジュースを渡すと、一番大柄な不良が言った。
「おい、これ俺が頼んでいたものと違うだろうが」
 そして俺にそのペットボトルのジュースを突きつけてくる。
「俺が頼んでいたのはコーラで、ウーロン茶じゃねーよ」
 俺は黙っていた。黙って睨み付けてくる大柄の顔を睨み返していた。
「あぁ? 何だ? そのいつにも増して反抗的な目は?」
 大柄は俺を殴った、一発、どんと俺の右頬を思いっ切り殴った。
 そのときだ。俺の我慢の糸は完全に途切れた。
 衝動的だった。自然に手が出ていたとしか言えなかった。
 俺は殴っていた。目の前の大柄の左頬に、拳を叩き込んでいた。
 といっても、ひょろひょろの弱々しいパンチだったが。
「この野郎、何すんだ――」
 眉間に皺を寄せた大柄が、再び大きく腕を振り被って俺をぶん殴ろうとした。
 俺は咄嗟にポケットに忍ばせていたカッターナイフを出し、無我夢中で振り回した。
「いてぇっ」大柄が悲鳴に近い声を上げた。
 見ると大柄は拳を握った片手の甲を押さえて呻いていた。
 指の合間から血が滴り落ちていた。殴ろうとしてきた大柄の拳を、このカッターナイフで切り付けたようだった。カッターナイフの先端にも、少量の血が付着していた。
 もうここからはやけくそだった。記憶も曖昧だ。
 気づけば、俺は大柄の上に馬乗りになって、大柄をとにかく両手を駆使して引っ切り無しに殴りつけていた。
 周りには不良どもは呆気に取られていたのか、俺の暴走を止めようとしなかった。
 が、さすがにずっとそうさせているわけにもいかなく、複数人に羽交い絞めにされて俺は大柄から引き離された。
 そこで気づいたのだが、大柄の肩には俺の持っていたカッターナイフが深々と突き刺さっていた。大柄は何よりもその怪我を痛がって呻いているようだった。
 これが、俺が初めて人を殴った経験であり、初めて人を刺した経験だった。
 大柄は病院へと搬送された。刺したのは肩だったから命に別状はなかった。
 俺は停学処分になった。退学になっても可笑しくないし、下手をすれば少年院送りだったが、不良どもにパシリとして扱き使われて鬱憤が溜まっていたのを考慮され、その程度の処罰で済んだ。
 俺は停学中、外には出ず、一日中自室に閉じこもってぼんやりし、自分の手を執拗に眺めていた。人を殴った手を、人を刺した手を、ただ嘗め回すように眺めていた。
 初めて人を殴ったときの感触、初めて人を刺したときの感触、あのときの感覚を、思い返して反芻していた。
 不思議だった。気持ちが良かったとか不快だったとかではなくて、不思議だった。
 初めて人を殴ったという事実も、初めて人を刺したという事実も、夢の中の出来事のようにふわふわしていた。誰かに危害を加えたという実感が、まるで乏しかった。
 停学の期間が終了し、高校へとまた登校するようになったが、不良どもは二度と俺に近寄ってこなかった。
 俺が殴って刺した大柄なんか、殺される前の羊のように怯えた目で俺の方を見遣り、すぐさま目を逸らした。
 さらには俺が人を刺したことは校内中に広まっていて、俺は密かに学校内の有名人になってしまっていた。
 不良の溜まり場と有名な底辺高校だったが、どいつもこいつも見た目は立派でも中身はこじらせた中学生に毛の生えたようなやつばかりで、人を殴ったことは幾度となくあっても、人を刺したことのあるやつは少なかった。
 俺は自然と同級生から避けられるようになったし、教師からは執拗に睨まれた。
 同級生や教師たちが俺に向けてくる、恐怖と警戒が綯い交ぜになった視線は、しばらくの間は慣れなかったが、そのうち感覚が麻痺した。
 少なくとも、中学生のときの、あの軽蔑の視線を向けられているような、妄想に囚われていた環境よりは、遥かにマシだったのだ。
 俺は改めて悟った。善行なんかいくらしたって意味はない。なぜなら善意になぞ誰も見向きもしないからだ。善意は世間の連中にとって当然のことであり、わざわざ褒めることではないからだ。
 しかも、善行をできるタイミングで善行をしなければ、周囲からは責められる破目になる。善行をすることは人間として当然の行為であり、できるときにしないやつは非人間も同然に扱われる、俺はそれを小学生から中学生の時を経て学んだ。そして新たに確信した。
 善行と違って、悪行は目立つ。善行には見向きもしない連中も、悪行には敏感に反応し、忌み、嫌い、恐れ、気を遣う。そうやって向けられる視線は、善行をしなかったときに向けられる視線と似たものではあったが、善行をしなかったときに向けられる視線はあからさまに侮辱するようなものがあり、悪行に対して向けられる視線は侮辱というよりも畏怖の意味合いが強いぶん、俺には悪行の対しての視線の方がとても居心地よかったのだ。
 だからそれからの高校生活は比較的に充実して過ごせたと思う。
 もう人を殴る気も、人を刺す気もなかったが、ポケットにはいつもカッターナイフを持ち歩いているようにしていた。

 俺は高校を卒業後、進学はせずに就職することに決めた。
 単純に俺の貧相な学力では、試験に受かる大学も専門学校もなかったのだ。
 就職するといっても、俺の最終学歴はろくでなしの集まりと悪名名高い底辺高校だ。
 別段他人に誇れるような資格は取得しておらず、これといった特技もない。強いてアピールポイントを上げるなら人を刺した経験があることぐらいだが、それはマイナスにしかならない。
 しかもテレビでは連日連夜『就職難!就職難!』と連呼されているではないか。
 俺なんかにすぐに仕事が決まるわけがない。ハローワークに通いつめ、四苦八苦しながらもどうにか就職したが、そこは給料が途轍もなく安い三流の中小企業だった。
 まぁ仕方なかったが。それよりも問題だったのは、よりにもよって、俺がその企業の営業部に配属されたことだ。
 暑い日も、寒い日も関係なく、毎日外回りに行かされ、出来もしない営業トークと営業スマイルを強いられた。
 俺は自分で言うのもなんだが、生憎舌が上手くなかった。要領も物覚えも悪く、先輩社員に事あるごとに怒鳴られた。
 しかしまぁ、その先輩社員も、その他の同僚たちも俺と大してスペックは変わらなかった。
 よく考えてみれば当たり前の話だ。だって優秀な社員や要領の良い社員はもっと大手の企業がかっさらっていくのだから、そりゃこんな風が吹けば吹き飛びそうな会社に就職する社員など余りもの以外の何物でもなかった。
 そのためか、基本的に同僚にも先輩社員にもろくなやつがいなかった気がする。
 まぁあいつらだって、俺のことをろくでもないやつだと思っていたのだろうが。
 しかし俺が最もろくでもないと思い嫌っていたのは、他でもなく営業部の部長だった。
 こいつは似合いもしない上にばればれのカツラを頭に乗っけって自分の不毛な頭皮を隠そうとしているような見栄っ張りなやつで、部下たちには無理やり飲みの席に付き合わせ、酒の飲めない下戸の社員にも酒を飲ませていたし、残業の代わりに家でも仕事をすることを強要した。何よりもあのねっちこくて歯の間にガムが挟まっているような声が気に入らなかった。生理的に受け付けないとは正しくこういうことを言うのだと知った。
 こいつにも何度も叱られた。こいつの叱り方が俺は一番嫌いだった。先輩社員なんかは怒鳴るだけだが、こいつは怒鳴らない。怒鳴るのではなくて、まるで居酒屋で愚痴っているようにねちねちねちねち何十分もかけて説教してくるのだ。声自体が不快なのに、そんな長時間その不快な声を延々と聞かされるなど堪ったものではない。
 こんなクソ会社やめてやる、と何度も思った。
 何度も思って、やめるほどではないかと自分が落ち着かせたりしていたが、ある日、先輩社員の一人が部長に辞表を出して会社をやめていったのを見て、あの人はやめたのに自分がこの会社にしがみついているのが馬鹿らしくなり、辞表を書いて翌日に部長に提出した。
 部長は「お前もか」と言いたげな濁った目で俺を見てきた。
 その目にすごく腹が立ったので、俺は部長を殴った。ごく自然に殴っていた。
 自分でも驚いた。たぶん高校のときに一度人を殴っていたから、人を殴るハードルが元々下がっていたせいだと思う。いや、元からそういう素質もあったのだろうか。
 とにかく俺は部長をぶん殴って会社をやめた。警察を呼ばれたが、部長も大事にしたくなかったのか、謝罪することで被害届は出されずに済んだ。

 会社を退職後、俺は何もせずにだらだら日々を消費した。
 基本的に家の中に引きこもって、外にはあまり出なかった。
 外に出ると真っ先に他人の視線が気になった。
 例えばバスに乗っていたとき、目の前に腰の曲がった老婆が立っていたときなんかは良い例だ。
 俺は初めのうちは満員のバスの中で確保できた席を譲るのが癪で何食わぬ顔で座り続けていたが、そのバスの中にいた乗客全員が、俺に視線を寄越している気がするのである。責めてくるような視線だ。席を譲らない俺を、非人間のように思っている視線だ。半ば妄想なのはわかっている。わかっているが、汗が全身からだらだら流れ出てきて、結局その老婆に席を譲った。そうしたら視線を向けられている感覚は消えたが、代わりに誰も自分を見ていないような気がした。せっかく席を譲ったのに、善行をしたというのに、誰も俺のことなんかちっとも気にかけないのだ。だって席を譲るなんてのは常識レベルの当たり前のことだから。老婆だって席を譲られたとき、感謝の言葉の一つもなかった。自分は老人だから席を譲られるのは当然という顔をして、席について一息つくだけだった。
 外に出るたびにそういうことを感じた。
 この世では善行をできるタイミングが溢れていて、それは唐突に目の前に現れる。無視して通り過ぎようとすれば、周りからは非難の目で見つめられ、手を出したところで誰も気にすら止めてくれない。いっそのことマザーテレサのように、世界規模の大きな善行をすれば、周囲だって俺を褒め称えるのだろうが、生憎そんなことをする金もやる気もない。街頭やコンビニの店先の募金箱に小銭をいくらか落としたところで、小さな自尊心すら満足に養えやしない。ひたすら虚しくなるだけだ。
 俺が家に閉じこもって、ほとんど外出しなくなるのも、頷ける話ではないだろうか。
 家に閉じこもっていると、飯を食うことと寝ること以外にやることがない。精々テレビを観たりネットを覗いたりして暇を潰すようになった。
 テレビは適当にチャンネルを操って、大抵はくだらないバラエティかワイドショーのようなニュース番組を観ていた。
 ネットの方は動画サイトにアクセスするときもあったが、SNSにアクセスしていることが多かった。
 別に誰とも繋がってはいなかったが、SNS上にたまに話題になる炎上事案を見つけ、そこに並ぶ攻撃的な文字の羅列を見つめて鼻をかむのが日々の日課の一つになっていた。
 誰かが何かしらの失言をしたり失敗したりして炎上したときの、ネット上でのネットユーザーの盛り上がり方は異常なものがあった。
 喜々として揚げ足を取りたがる輩が湧きに湧き、その当事者をどれだけ苛烈な言葉で責め立てられるかと、躍起になっているのだ。
 テレビもそれと大差なかった。
 芸能人が不倫騒動やら薬物騒動やら起こそうものなら、まるで獲物を狙う猛獣の如く食いついて言葉尻を曲解し、勝手な推測や憶測を垂れ流し、人権を無視しているのでは疑うほど叩く。政治家の汚職事件などさらにこれの比ではない。このまま叩き殺さんばかりの勢いで、冷静に眺めてみれば狂気としか言い表しようがない。
 善行のニュースは報道されたって一瞬だ。
 ネットでだって話題になったとしても、すぐに炎上のニュースが覆い被さり、その中に埋もれるだけ。誰もが他人の善行よりも悪行に注目していた。
 善行をした人間はすぐさま横目で見送るくせに、悪行をした人間に対しては一度獲物に食らいついたワニのようにきつく噛み付いて離さないのである。
 俺はそれを、下には下がいるという卑下た安心感と、優越感を確保するために漠然と眺めていたわけだが、とある通り魔犯が逮捕されたときの炎上に、俺は目を奪われた。
 その通り魔犯は夜の路上で二人の男女を殺害し、一人の男を重体にした犯罪者だった。
 いや、炎上自体は普段と大して違うものではなかったのだ。
 よくある批判、よくある注意喚起、よくある中傷、よくある罵詈雑言のオンパレード。
 しかし普段の炎上には感じない、何というか違和感のようなものがある。
 何だろうか、この胸を締め付けるような感情は。少なくとも安心感や優越感ではない。もっとこう――憎しみに近しいような――。
 あぁ、わかった。俺は気付いた。この感情は――嫉妬だ。
 俺は羨ましく感じていたのだ。その通り魔犯のことが、羨ましかったのだ。
 炎上で叩かれる芸能人や政治家の多くは、普段は善人ぶった言動や行動をしていた輩が大半だった。
 世間にはそういう顔を見せていたぶん、裏の顔が暴かれた途端に世間から反発が起こり、叩き行為が加速し、炎上に発展する。どれだけ善行を積んでいても、いやむしろ善行を積めば積みほど、一度の悪行で一気に積み上げてきたものは瓦解し、完膚なきまでに叩かれ、燃やされ、軽蔑される。そういうのが俺のよく目にする炎上というやつだった。
 しかし、その通り魔犯の炎上は違った。というか、犯罪者の炎上自体がそれらとは違った。
 なぜならその通り魔犯を含め、犯罪者というのは悪行から人目に触れるからだ。
 善行なんかしたことがないような連中だし、していたとしても誰の目にも入ってきていない。そんなやつが急に誰かを殺したり、問題を起こしたりして、世間で有名になる。人々はそいつらの善人の顔を知らない。いや、そもそも善人の顔なんてあったかどうかも怪しいが、あったとしても誰も知りもしなくて、純然たる悪人としてそいつらは叩かれる。
 そうなってくると、人々の中傷と憎悪を込めた文章や単語にも、他の炎上とは違う意味合いが含まれているような気がするのだ。芸能人や政治家なんかの炎上と違い、そう、畏怖だ。
 自分には理解できない異分子を差別し、排除しようとする畏怖の念だ。芸能人や政治家への叩き行為が嘲笑や軽蔑なのに対し、犯罪者の叩き行為には、人々の畏怖の念が見え隠れてしていたのだ。
 俺はそれが羨ましかった。そういう目で見られている連中に、嫉妬するほど。
 それは高校生のときに俺が周囲から向けられていた視線と、同一のものだったから。
 今から振り返っても、俺の人生で最も安息だったのはあの高校時代だったと思う。
 善行をしても誰にも見向きもされなくて虚しくなる。善行を何一つせずにただ呑気に生きても周りから非難と嘲笑の目で見られている気がして憂鬱になる。そんな複雑な俺の心境を救ってくれたのが、あの視線だった。あの警戒と畏怖と、異分子に対する排除への意識の目が、間違いなく俺の精神に一時の安息を与えたのだ。
 自分がかつて向けられていたものを、今どこかの留置所に収容されているやつが独占している。それが酷く羨ましくて、妬ましくてどうしようもなかった。
 俺ももう一度そっち側へ行こう。そう決心するには、半日とかからなかった。
 通り魔をしよう。何人かをぶっ刺そう。一人くらい死ぬだろう。
 思い立ったが吉日。俺は興奮冷めやらないうちに、近所の百円ショップで出刃包丁を購入した。
 出刃包丁を選択したのに理由はない。殺傷能力が高そうだと思っただけだ。
 購入した出刃包丁を砥石で研ぎながら、次に襲撃場所を考えた。
 スタンダートは商店街とか人通りが多いところで、包丁を振るうのがベターだろう。しかし生憎、この近所に商店街はない。いや、商店街の残骸ならあるが、シャッターの降りた店しかなく、開いているといえば床屋くらいで人通りなんかめっきりない。
 この近所で人通りが多い場所――それを考えると、襲撃場所はおのずと一つに絞られた。
 『マルヤマ』という名前の大型商業施設。あそこならこの近所で最も人が集まる。
 なるべく多くの人間に俺の姿を見せるのだ。突如降って湧いた、純粋な悪人として。
 善は急げならぬ悪は急げと、俺は通り魔の計画をさっそく翌日に決行することにした。
 翌日、昼過ぎに起こると、俺は娑婆での最後の食事としてカップ麺を食べた。
 粉スープを入れた容器に湯を注ぎながらテレビを点けたときには、興味もないスポーツ選手のインタビューが流れていた。スポーツ自体に興味がなかったから流し見した。
 湯を注ぎ終えたら蓋をして、三分待てば完成。蓋を開けると、湯気がもわっと噴き上がる。
 テレビからは先程の明るい調子とは打って変わって、深刻そうなレポーターの声。
『昨晩、○○県○○市○○町のこの場所で、通り魔事件が発生しました。二人の男性と三人の女性が刃物で刺され、二人が死亡。二人が重傷。一人が軽傷のこの事件、犯人と思われる男は、現在も逃亡中で、警察が行方を追っているもようです――』


 案の定『マルヤマ』の中は大勢の人で賑わっていた。
 仕事をやめて久しく、カレンダーもまともに覗いていなかったから知らなかったが、今日は運よく休日だったようで、子供連れの大人も多い。中には子供だけで出歩いているのもいる。
 これは好都合だ。女や子供なんかの力の弱いやつは刺しやすくて良い。
 俺は自然な足取りで店内をうろつきながら、絶好の通り魔ポイントを探した。
 その結果、スーパーマーケットと本屋の間にある通路が最も人通りが多く、また見晴らしがよくて人を襲いやすく、周りも通り魔の現場を目撃しやすいだろうという判断に至った。
 腰バッグのチャックを開け、そこに恐る恐る手を突っ込む。出刃包丁の柄が手の平に触れる。そっと握る。
 この腰バッグから出刃包丁を取り出して、近くにいる人から片っ端に襲えば良い。
 大丈夫だ、人を刺すなんて簡単なことだ。人を殴るくらい簡単なことだ。
 殴ったことは二度、刺したことはすでに一度ある。
 あのときの感覚を思い出す。大柄な不良の肩に切れ味の悪いカッターナイフをぶっ刺したときの感覚。あれをここで実行すれば良い。何の恨みもない、見ず知らずの人々に対して実行すれば良い。そうすれば俺は満たされる、はずだ。
 俺はゆっくり、腰バッグから出刃包丁を取り出そうとした。
 だが途中で、その手は止まった。邪魔が入ったわけではない。急に身体が固まったのだ。
 腕から手の平にかけてが石になったように、出刃包丁の柄を握る手がまるで動かない。
 動け、動け、と念じてみても、そのカチコチに凍った手が氷解する様子はない。
 ここまで来て尻込みか。どうせこのまま生きていたってろくなこともないのに。
 俺は柄を握る右手首を左手で掴み、無理やりにでも出刃包丁を引っ張りだそうとする。
 ダメだ、動かない。自分が最後にこんなに踏ん切りがつかない人間だったのか。
 あの不良を刺したときも、部長をぶん殴ったときも、躊躇なんかしなかったのに。
 なんか段々とやる気が失せてきて、今日はもう帰ろうかと思い始めた、その矢先だった。
「きゃああああああっ」
 背後で女性の悲鳴が響いてきて、鼓膜を鋭く射抜いた。
 驚いて振り返ると、人々が狼狽えた表情を浮かべて逃げ惑っている。
 通路の中心に、一人の若い女性が倒れている。腹部から床に赤黒い液体を垂れ流して。
 その女性の前に、一人の男がぼんやりと立っている。頭が薄く、中肉中背の、中年くらいの男だ。白いシャツとジャージのズボンという簡素な格好の男。白いシャツには、床に倒れる女性の返り血なのか一部がペンキを塗ったようにべっとりと赤く汚れている。片手には    
 ――あれは、そう、あれはナイフだ。サバイバルナイフくらいの、太いやつ――。
 ふと虚ろに宙を見上げていた男が目線を動かした。俺と目が合った――気がした。
 いや、恐らく目は合っていた。だって男はその後、呆然と立ち尽くしていたのが嘘のような速さで俺の方へと駆けてきたからだ。
 俺は狼狽して動けなかった。普通なら逃げるべきなのだろうが、その逃げるという単純な選択肢がぱっと頭に浮かんでこなかったのだ。
 迫ってくる男の姿がスローモーションに見えた。大きなナイフを振り翳し、猛犬のような形相で駆けてくる男の姿が、ゆっくりとした動作で眼前へと近づいてくる。
 そのナイフを振り上げている腕は拳を振り上げているようにも見えて、その顔はどことなく高校生のときに殴って刺したあの大柄の不良を連想した。いや、連想しただけではない。
 重なった。あの大柄の不良の姿と、その男の姿は、一瞬ではあるが確かに重なった。
 そのとき手は勝手に動いていた。その男に向かって、無謀にも拳を突き出していた。
 どんと鈍い衝撃が手の甲に伝わった。咄嗟に目を瞑った。音が何も聞こえなくなった。
 その間は、数十分は時間が経過した気もしたけど、きっと実際は数秒ほどだっただろう。
 周囲の音が戻ってきた。喧騒と息を飲む音と、歓声にも似た声。
 恐る恐る目を開けた。俺の目の前に、あの中年の男が床に手足を大の字にして伸びていた。
 視線を見下ろす。俺の腹に大きな穴が開いていることも、ナイフが突き刺さっていることもない。血も流れていないし、至って平常なだらしない腹のままだった。
 もう一度、床に仰向けで倒れ込んでいる中年の男の方に視線を戻す。
 男は半開きの口からくすんだ舌を覗かせ、白目を剥いた間抜けな顔で気絶していた。
 ナイフは男の隣に無造作に放り出されていた。
 もしかして――これは俺がやったのだろうか?
 俺は戸惑ってきょろきょろと周囲を見渡す。人々は皆一様に驚いた表情、安堵した表情を浮かべて床に伸びる男を見遣り、俺に対しては尊敬にも似た視線を向けてきていた。
 普段の小さな善行をした程度では、決して向けられない類の視線だった。
 いや、それだけではない。視線だけではないことに、俺は気付いた。
 カメラだ。正確にはほとんどが携帯電話のカメラを、俺と床に伸びる男に向けていた。パシャパシャ、カシャカシャ、あからさまに撮影する音があちらこちらで響いた。まるで動物園の動物を撮るように、無遠慮にパシャパシャ、カシャカシャ。
 今まで感じたことのない、得体の知れない不快感が込み上げてきた。
 一瞬「撮るな!」と怒鳴りたくなった感情は、四人の警備員が現れたことで途絶えた。
 俺は咄嗟に腰バッグのチャックを締めた。中には出刃包丁が入っていたから。
 その四人の警備員のうち一人は先程、男に刺されたであろう女性の元へ駆け寄り、もう二人は気絶している男に組み付いて男が気を失っているうちに男の動きを封じ、もう一人は未だに白昼夢の中のように呆然と立ち呆けている俺に声をかけてきた。
「あなたですか? この男の犯行を殴って止めたのは」
「――は、はぁ」
 俺は何と答えていいかわらかず、遅れた上にシドロモドロの要領を得ない返事になった。
「すごい勇気と技術ですね。何か格闘技でもなされていたんですか?」
 俺は首を横に振った。格闘技どころか、ろくにスポーツに打ち込んだこともなかった。
 しかし、その警備員は俺が格闘技をしているかどうかは、心底どうでもいい様子だった。
「今警察を呼んでいますので、こちらで待っていていただけますか?」
 マニュアルなのか、警備員は俺を警備員室に案内し、そこで待機するように命じた。
 警察が到着するまでは、警備員室の時計を見ていた限り、十分とかからなかった。
 厳めしい顔の警官に声をかけられ、事情聴取っぽいものを受けた。
 黒皮の手帳を開き、一々メモを取りながら、俺に質問を投げかけてきた。
「あの通り魔犯を殴って倒したというのは、あなたで間違いないでしょうか?」
「はい」
「お名前は?」
「――――です」
「年齢は?」
「――――です」
「住所は?」
「――――です」
「電話番号は? できるなら携帯電話の番号が望ましいです」
「――――で――――です」
「ここにいらした目的は?」
「その――か、買い物です」
 まさか自分も通り魔をしに来たとは言えず、嘘をついた。
「あの通り魔犯の男と面識はありますか?」
「ありません」
「あんな男を殴り倒せるとは相当な勇気と技術ですが、何か格闘技の経験を?」
 これは警備員にされた質問と同じだった。
「いえ、そのような経験はないんですが――」
 変に思われるかとも思ったが、正直に申し訳なさそうな調子で答えた。
 警官は別段、何か可笑しいとも思っている風ではなかった。
「そうですか、まぁそういうこともありますよね。少なくともあなたの勇気は称賛に値する」
 警官はメモを取るのを止め、ぱたんと手帳を閉じた。
「ありがとうございました。もう帰ってよろしいですよ」
「え? もういいんですか?」
「はい、いいですよ。このままあなたを拘束していても、何にもならないじゃないですか」
 俺は案外呆気なく解放された。いや、犯罪の当事者以外はわりとこんなものかもしれない。
 警官は何やら無線で誰かと話すと、帰り際ににっこりと笑ってこう言った。
「――さん、もしやすごいお手柄かもしれませんよ。何せ、あなたが殴り倒し、警備員が取り押さえ、私どもが逮捕した犯人は、つい昨晩にこの近くで通り魔事件を起こしたばかりの男だったんですから。後日、こちらから感謝状を授与させていただくかもしれません」
俺は警官の言葉に「はぁ」と相変わらずの生返事をし、そそくさと警備員室から逃げるように飛び出した。
 『マルヤマ』店内から駐車場に出ると、赤いランプの光を遠慮なしに撒き散らすパトカーが目に入った。
 もう一台、救急車も停まっていた。救急隊員が担架の上に誰かを乗せて、救急車に乗り込んでいる。恐らくあの刺されていた若い女性だろう。救急車は担架を積み込むと、ピーポーピーポーと、喧しいサイレン音を轟かせながら駐車場を出ていった。
 頻りに携帯電話のカメラ機能で撮影しまくっていた野次馬も、徐々に散り始める。
 今から腰バッグから出刃包丁を取り出して、そこらにいるやつを刺して回っても良かったのだが、やる気は疾うに失せていた。それに、馬鹿らしくもなっていた。
 雨はまだ降っている。俺は傘を差して歩き出し、『マルヤマ』の駐車場から出る。
 家のある方角へと、漠然ととぼとぼ力のない足取りで歩いた。
 段々と落ち着いてきて、白い靄に覆われていた思考もはっきりしてくる。
 なにがなんだか、今にもなってもまるでわけがわからなかった。
 通り魔をしようと出かけたら、逆に通り魔を捕まえてしまった。そんな落語の小話みたいな話がそう簡単に現実に転がっているだろうか?でも現に、俺はそうなった。
 あの通り魔犯を殴った、自分の手の甲をぼんやりと眺める。何も変わらない手の甲だ。
 あのときの感覚は本当に、自然と手が出たとしか言いようがなかったし、自分でも信じられないが無意識下であの通り魔の男を殴ったというのは間違いがないようだった。
 ただ、一瞬不良の姿と重なったにも関わらず、殴っただけで腰バッグに入っていた出刃包丁を使用しなかったのは、意外とまだ残っていた俺の理性的な部分が働いたせいかもしれない。
 それはともかくとして、格闘技も何もしていない俺があの通り魔犯の男を殴ったのは事実だった。俺の記憶が証明できなくとも、周囲の傍観していたやつらが証明するだろう。
 そうか、写真を撮っていたやつか。写真を撮っていたやつもいたのか。
 あのパシャパシャ、カシャカシャと当然とばかりに鳴らされるシャッター音を思い出す。
 通り魔をすることが今更馬鹿らしくなったのは、あれのせいだった。
 きっとあいつらは、ああやって携帯電話のカメラ機能で撮影した画像を、SNSにアップするのだろう。編集して動画にするかもしれない。とにかく、一度撮ったからには黙って取っておくとか、黙って削除するとか、そんな真似はしないだろう。ネットで投稿して、「こんな大変な現場に居合わせちゃったよ」と野次馬自慢をするのは目に見えるようだった。
 そこで俺は改めて気づいた。気づいてしまった。
 連中にとっては、通り魔犯もしょせんは失言や失態で炎上した芸能人や政治家と同じ、炎上の種であり、暇潰しの玩具でしかないのだと。そこには畏怖なんてものはない。動物園の動物に、畏怖の感情なんか抱かない。刺された当事者でもない限り、近くで通り魔犯が暴れようが、遠くで暴れようが大した違いではない。だって自分とは関係ないのだ。自分とは関係のない悪行に、恐怖などしない。「怖いなー」と表面的に呟いてみるくらいだ。
 俺が通り魔をしたところで、きっとそうなのだろう。
 刺した張本人たちに恐怖を植え付けられたとしても、その他の連中には何のダメージも負わすことはできない。連中は俺が起こした事件を玩具にして遊びに励むだけだ。
 善行をしても見向きもしなかった連中に、善行しなければ見下した目でこちらを見てきたような連中に、遊ばれてお終いだ。
 進んで悪行をすれば救われるのではないか、という俺の考えは、浅はかだった。
 悪行をしたって結局のところ、善行をしなかったのと同じだ。
 何をしてもしなくても、誰かに馬鹿にされ、嘲笑されていることには変わりない。
 そんな風に思うと、何もかもが放り出してしまいたくなるほどしょうもなく感じた。
 あんなやつらに笑われるくらいなら、俺の方が笑う立場になってやる。
 やつらのことを見下して、善行も悪行もできないやつと貶せる場所に行ってやる。
 俺は遅いながらも湧いてきた怒りと一緒に、そんな妄言を頭の中に吐いた。
 明日には忘れているかもしれない。でも少なくとも、もう通り魔は懲り懲りだった。
 ふと雨粒が傘を揺らしていないことに気付く。傘を下ろしてみると、雨はもう止んでいた。
 その代わり、空は変わらず曇り空。まだいつ雨が再開しても可笑しくなかった。
 しかし俺はビニール傘を閉じ、道中にあったコンビニの傘立てに差し込んで置いていった。以前に、そのビニール傘を盗んだコンビニの傘立て。いずれ元の持ち主が、戻っていることに気づいて持って帰るだろう。
 それから途中で狭い橋の上に差し掛かった。ぼんやり見下ろすと下には濁った川が流れていた。
 俺は腰バッグから出刃包丁を取り出すと、その濁った川にそれを投げ込んだ。出刃包丁は何度か茶色い水の上にぷかぷか浮いたかと思うと、沈んで見えたくなった。
 俺は再び歩き出した。曇り空に晴れ間はまだ拝めそうにない。
 とりあえず、明日にでもハローワークに行って仕事を探そう。

通り雨

通り雨

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-28

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