列車にて

頑張って書きます。意味が分からない話だと思うのですが、私にはこれしか書けません。もし感想などいただけるようでしたら、ツイッターをやってますのでそちらにでもお願いします。

夜半のことだった。私は死んだ。どう死んだかといえば、なんてことはない。流行りの病や戦地での名誉のためでもない。
それは翌朝の作業のために納屋の資材を整理していた時のことだった。
私は、さびれた山の集落のもっと上にある、霧がかった森の中で、回転寿司の『回転』を司る神様に庭で採れた特殊なネギを献上するという仕事を請け負っていた。そのネギが特殊なのは、それに耳を近づけると、知らない婦人の息子の自慢話が聞けるというところだった。
それらのネギを私は『資材』と呼んだ。そのことは特に意味を持たない。
私はそうした資材を壁に沿った棚に積み上げていたのだが、どこからともなくジーンズがいくつも私の体に集まってきた。ジーンズはまるで磁石のように体に張り付いて離れなかった。そして私は、ジーンズの青色が体に染み込みすぎたために死んでしまったのだ。
気が付くと私は、駅のホームにいた。目の前には田園風景が広がっている。小さな駅で二番線までしかない。その割には人の往来が多かった。
私はしばらくホームに立って、人の往来を見ていたが、なんだか落ち着かない気持ちがした。人々はみな同じような顔に見えたし、性別も年齢もはっきりとしなかったのだ。それと切符を手にしている。私は自分だけ切符を手にしていないことに気がついて、駅員を探してみたがどこにも見当たらない。それどころか改札口さえもない。
私は、意を決して往来する人々の中から一人を捕まえて尋ねた。
「どちらへ行かれるのですか?」
するとその者は、男とも女とも言えないようなな声で、早口に答えた。
「連帯責任が鮎の塩焼きより方眼紙三枚分毒物への耐性が強いなんて誰が信じていたでしょう。週刊誌を卒業証書の代わりに使えるのなら誰だって電子レンジは小学四年生から薄い目をして組み立てることでしょう」
私はこの者の言葉を聞いて、ここが死後の世界であると悟った。あるいは、生と死の間にある余白のような歪みの世界であるかもしれない。いずれにしても、私はこの瞬間において自らの死を理解した。
やがて列車がホームにゆっくりと滑り込んできた。行き先の表示を見ると『ヤニを吸え』と書いてある。
私が列車に乗り込もうとすると、周りの乗客たちは謎の長音を発し無気力な大合唱を始め、私の乗車を阻んだ。
私はたばこを吸わないが、できるだけ行き先表示の通りにしてみようと考え、さいころを四つほど振ってみた。するとそのうちの一つのさいころの、五の目から羽が生えて私を導くように羽ばたいた。それに続くと、今度は乗客たちからの阻止を受けず列車に乗り込むことができた。
列車内には、四人で向かい合う形の座席が一律に並んでいた。羽の生えたさいころが私をある席へと導いた。その座席の上でしばらく旋回した後、さいころは羽を失って、無機質に座面に落ちた。
私は着席して周りを眺めてみた。不思議なことに何者も座っていなかった。列車の外にはあれだけの数の人間たちが押し寄せていたというのに、私のいる車両には、人っ子ひとりいなかった。恐らく私のいる車両だけではない。この列車に乗っている客は私だけだ。この列車には人の息遣いというものが感じられない。完全に死んだ空間に私はいるのだ。
身体にジーンズの青色はもう染み込んではいない。たぶん私の肉体は今、全く別の空間、つまり私の家の納屋に置き去りにされ、魂の部分だけがこの死の空間に引き寄せられたのだ。
それでは私はこの後どこへ行くのか? それは分からない。私の個人的な予想では、清涼飲料水の商品ラベルの印刷工場か、不真面目な庭師の寝床あるいは税務署であろう。
列車は、死の沈黙を閉じ込めたまま静かに動き出した。そこには音もなく、やはり自然の息遣いのような動的なものが一切感じられなかった。ただ風景が後ろに流れて行くだけだ。私はしばらく遠くの山々を眺め、これまでの人生を振り返ってみた。しかし、特にこれといって感情を伴った経験がなかった。思い出せる出来事としてあるのは、せいぜい散髪をしたことくらいだ。それは死によるものではない。元々私にはそういった感情の動きがなかった。山奥に籠っていたこともあり、ほとんど人と口を利かなかった。
それから私はさいころを手に取った。しかしそれは既に姿を変え、にぼしになっていた。
「すいませえん」とにぼしは言った。
私は突然睡魔に襲われ、目を閉じた。
目を覚ました時、まだ列車は無音の走行を続けていた。私は目をこすり、頭全体を二、三度掻きむしった。
意識がはっきりとすると、私の向かいに男が一人座っていることに気がついた。大きな黒い帽子を目深に被り、黒いコートに身を包んでいる。
「お目覚めですか?」
男はそう言った。正しくはそう言ったと感じた。男の話す言葉は、言葉として聞き取れるようなものではなかった。それは、恐らくこの世のものではない音声の連なりであった。しかし、私はその音声の連なりの意味を感覚として、捉えることができた。もちろん、そんな音声を耳にしたのはこれが初めてのことだ。にもかかわらず理解できたのは、私自身が既にこの世のものではなくなっていることの証なのかもしれない。
「ええ、あなたはどうしてこちらへ?」と私は言った。"こちら"とは、つまり死後の世界であることを意味している。
男は黙っていた。答えるつもりはないらしい。そして、懐から一冊のぶ厚い辞書のようなものを取り出すと、それをめくりながら彼は口を開いた。
「あなたは、非常に不本意な人生を送ったようですね。最後の瞬間もなんとあっけないことか」
「私のことを知っているのですね?」
「もちろん。ここに全て記録されておりますから」
たとえば、と言って男はページをめくった。
「あなたが生涯に剥いたレモンの皮の量だって分かります。ええと、九百グラムですか。なるほど。それと、ダチョウに英会話を教えてあげた時間は五百六十二時間と十六分三十八秒。女性と口論になった回数は0回。なかなか面白い」
「そうでしょうか? それと、私が英会話を教えていたのはダチョウだったのですね。ずっとウニだと思っていました」
「私はあなたにある提案をしに参りました」
男は書物を閉じるとそう言った。
「提案?」
「そうです。それは、あなたに永遠の命を授けようという提案です。申し遅れましたが、私は人生の仲買人をやっておりますヤマカミといいます。よろしく」
「人生の仲買人?」
「いかにも。終わった人生を買い取って、コレクターに売るという者です。あなたの人生はなかなかに面白い。どこがどう面白いかと言われれば判然とはしないが、こういう人生を彼らは非常に好む」
もう終わってしまった人生がどのように扱われようと私にはもはや関係のないことだ。好きにすればいい。コレクターというのも甚だうさんくさいが、私はもう死んだのだ。どうでも良いことだ。
「私の人生についてはどうでも良いことです。好きにしたらいい。問題はこれからのことだ。私はどうなるのです?」
しばらく沈黙があった。ヤマカミは静かに口を開いた。
「イトシラカワ」と言った。
「それがあなたの新しい名前です。そしてあなたは永遠の命を手に入れる。しかしそのためには、ある程度の試練が必要となる。この列車はあなたが試練を受ける場所へ向かっている」
「私はこの列車で試練のある場所へ行き。そこで、実際に試練を乗り越える。そしてその後、私はイトシラカワという人間として、永遠の命を手に入れる。そういうことですか?」
「その通り。それがこれから起こることの概略です。納得いただけますかな?」
「もちろん。先ほども言いましたが私の人生は既に私の手を離れている。どうなろうと知ったことではない。それから試練と永遠の命というものについても、特に必要とは感じないが、やってみてもいい」
「そうですか。それは良かった、ありがとうございます」
「いいえ、それでこの列車は具体的にどんな場所へ向かっているのですか? その試練のある場所ということですが」
「簡単に言えば、『壁』と呼ばれる塔がそこにはあります」
「壁とは、一体どんな塔なのですか?」と私は尋ねた。
「それは私には分かりません。私はあくまでも仲買人だ。試練にも行ったことはない。ただ他人の人生の取引で生計を立てているだけです。妻と二人の子供も養わなくてはならない。今のところ差し迫った経済状況にはありません。しかし、仕事柄多くの人生を見てきたから、いつまでも余裕のある状態が続かないということもしっかり分かっている」
ヤマカミはそう言った。それにしてもおかしな話だ。彼は私と人生の取引をするためにこの列車に乗り込んできた。しかし、この列車の行き先は取引の対価として私が得るという"永遠の命"を手にするための試練の地であった。仮に私がヤマカミとの取引に応じないと言ったら、どうなったのだろうか? 列車の行き先は変わるのか。あるいは私は列車からつまみ出されるのか。取引に応じないなら帰れと言って。
まあいい。そもそもが訳の分からない場所なのだ。どうとでもなるがいい。それにしてもなんだって死んだ後に取引だの試練だのと、頭を煩わせなければならないのだろうか。私のことは放っておいて、静かに眠らせてほしいものだ。
「それでは私はこの辺で」
ヤマカミはそう言って、席から立ち上がった。
「どこへ行くんです?」
「帰るんですよ。取引の約束は取り付けた。後はあなたが試練を乗り越えるのを待って、確かに永遠の命を手にしたのを確認して私はコレクターにあなたの人生を売りに行く。あなたがご自分の人生をどのようにお考えになっていたとしても、これは取引の公正さのために必要な手順なのです。私だけが利益を得るのでは公正さを欠いている。あなたがきちんと利益をを享受したのを確認してからでなくてはならない」
「分かりました。それでは」
「それでは。次にお目にかかるのはきっと、あなたが永遠の命を手にした後になるでしょう」
「それは、いつになるのですか?」
「それは分からない。永遠の後になるかも」
ヤマカミがそう告げると、私はまたもや睡魔に襲われた。

目を覚ますと、私の掌にはにぼしが握られていた。私はそれを口にした。特別腹が減っていたという訳ではなかったが、それを摂取しておくことが必要なことに思えたからだ。
列車は止まっていた。いつからなのだろう。それは分からない。
私は列車を降りた。振り向くと列車はもういなくなっていた。急に不安になってきた。そこには自由と孤独があった。慣れ親しんだ場所での自由と孤独は、心躍るものだが全くの未知の場所ではそれとは反対の感情が湧き起こる。
私は薄暗い砂の上に立っていた。そして見渡す限り砂は続いていた。
ヤマカミが『壁』と呼んでいた塔は、薄暗い世界の中で孤独に立っていた。
私は、『壁』に向かって歩み始めた。

『壁』の表面は触れるとひやりと冷たく、ほのかにコーヒーの香りがした。私はまず『壁』と呼ばれる塔の入り口を探した。周囲の砂に埋もれた穴がないか、取り外せそうな壁面はないか、切り忘れた爪はないかを丹念に確認していった。
しかし、入り口らしきものは見当たらなかった。そしてそのままそこで、二十三年と四ヶ月が経過した。腹は全く減らなかったし、一睡もしなくて平気だった。何より歳をとらなかった。鏡もないので自分がどんな顔をしているか確認のしようがないが、手の甲や足のふくらはぎの筋肉は衰えの様子を見せなかったし、何よりも感覚として自分が死んだ時の年齢のまま、一秒たりとも歳をとっていないことが分かっていた。
私はその期間のほとんどを頭の中でバスケットゴールの網を編む作業に従事することに費やした。なかなか骨の折れる作業ではあったが、なんとか六つのバスケットゴールを作成することが出来た。
そんな折、砂漠のずっと向こうから歩いてくる者がいた。それは女だった。歳は恐らく二十六、七といったところで、私より少し歳上に見えた。口を半開きにし、すっとぼけた顔をしているが、なかなかに美人顔だった。
「ヤマカミという仲買人が、あなたのことを嘘つきだと言っていたわ。債務不履行だって。早く試練とかいうのを終えた方が良いんじゃない?」
女はそう言った。ハイネックのノースリーブニットを着て、ヘビ柄のタイトなパンツを履いていた。職業軍人に見えなくもない。
「試練がなんなのか分からない」と私は言った。
そういえばこれが私が二十三年と四ヶ月ぶりに発した言葉であった。
「ふうん。あたしも、試練がなんなのかは知らされてない。あなたいつからそこにいるの?」
「二十三年と四ヶ月前。君はいつ死んだんだい?」
「ついさっきだと思う。何度か眠りがあったから正確には分からないけれど。ということは、あなたは私の二十歳くらい歳上ってことね」
「なんだかややこしいな」と私は言った。
「それで、どうするの? まだまだここにいる?」
「いいや、試練というものに挑戦することにしたよ。嘘つき呼ばわりは御免だ」
「それなら私も」
女の名前はアンナと言った。一日中椅子に座って、指人形と雲が流れていく様子を見比べるという仕事をしていた。その仕事は煎餅の持ち込みが可能であり、給与は外国銭で支払われたという。いわゆるエリートの部類である。
アンナがある日、友人の自転車の前にしゃがんで後輪を手でゆっくりと回していたところ、『会議室』と書かれたマジックテープがどこからか大量に降り注いできて、気がつくと例の駅のホームに立っていたらしい。アンナはその出来事を特に悲しむ様子もなく淡々と語った。
私たちはまず試練がなんなのかを考えた。そこでは、様々な候補が提案された。おでんを眺めること。数字の概念を捨てること。上半期と下半期をそっくり入れ替えてしまうこと。紳士服売り場に発情期の塩ラーメンを設置すること。
しかし、結局のところこれだという結論には至らなかった。
「やっぱりこの塔が関係しているのよ」
アンナは言った。
「そうかもしれない。だけど、どこにも入り口なんかなかったんだ」
「もしかすると入り口という考えが間違いなのかも」
「つまり、最初から入り口なんてものはこの塔にはないということ?」
「そういうこと」
そう言うとアンナは塔の壁面に右足の裏をぴったりと着けると、そのまま階段を登る要領で左足を踏み出した。本来そんなことをすれば、尻餅をつくのが関の山だが、そうはならなかった。両足はしっかりと壁面を捉え、人が真横に立っていた。まるでそこだけ重力の方向が変わってしまったようだった。
アンナはどんどんと塔を登っていった。私も慌てて壁面に足を掛け、支えになっている反対の足を踏み出したが、たちまち尻餅をついてしまった。それは、何度やっても同じだった。
「重力を信じてはダメ。そんなものはこの世に存在しないと思い込むこと」
「重力不信ということか」
私はアンナが言った通りこの世に重力がないと自分に言い聞かせながら足を踏み出した。
すると今度はすんなりと壁面に立つことができた。私は歩を進め始めた。
重力に逆らいながら、塔の壁面を歩くことは全く難しいものではなかった。頭に血が昇る感覚もなければ、はまぐりを挟んだサンドウィッチを足で掴む感覚さえなかった。それはほとんど、巨大な鹿の、背中から首にかけて踏みならされて出来た、平らな道を歩く感覚に近かった。
アンナは走りさえしたし、時々花見の場所取りの予行練習もした。彼女はとても無邪気だった。そしてこれは、互いに共通するところではあったが、自分が死んだことに対して嘆いたりする気持ちが微塵もなかった。少なくとも私にはそのように見えた。
しばらくすると空から電池が降ってきた。単四形や単三形、単二形と様々なサイズの電池が降った。それらは私たちの身体に執拗に叩きつけられた。
「痛い! このままでは前に進めない!」
アンナはそう言うと、左腕で顔面を隠しながら私に向かってどうしたらいいかを尋ねた。
私は周囲を見渡した。そして少し離れたところに二人が身を寄せられそうな岩場を見つけた。
「いつ降り止むかわからない。あそこで雨宿りをしよう」
岩場の影にいると、電池の雨は全て硬い岩に弾かれ、私たちの身体は守られた。
「ひどいありさま」とアンナは言った。
「まったくだ。まるで正面から弾丸を受けながら進んでいる気分だよ」
「確かに。このまま降り止まないかも」
「いいや、そのうち止むさ。それまで何年でもここで待てばいい。どうせ腹は減らないんだし、眠らなくたって平気なんだ」
「でも、ヤマカミさんが怒るよ」
「それも構わない。あの人とはいつまでに試練を終えますなんて約束はしてないんだ。君もそうだろ?」
「ええ、確かにいつまでにという約束はしていない。でも、もしも永遠の命が手に入らなかったらと思うと……」
私は驚いた。アンナが不安そうなところを見せたからだ。アンナに出会ってまだ数時間といったところだが、靴べらの天敵がパイプオルガンであるのを誰もが疑わないのと同種の、何事にも簡単にはたじろがない度胸があるという確定的な印象が彼女に対してあったからだ。
「そんなに永遠の命が欲しい?」
「どうしてももう一度やりたいことがあるの釣りって知ってる? 二人が向かい合わせになって、マス目状の盤の上で、自分の側に並んだ兵隊に見立てた小さな五角形の駒を動かして、相手の側の兵隊に守られた王様を討ち取るっていう遊びなんだけど」
「それをもう一度やりたいのかい?」と私は尋ねた。
「ええ、もう一度と言わず何度でも」
アンナは答えた。
「でも、多分それは釣りではなくて、足し算というものじゃないかな」
「うそ? そうなの? 大変、間違ってた」
「そうみたいだけど、そんなに大きな問題じゃないよ」
私がそう言うと、乾電池の雨はいくらか小降りになっていた。
「それよりも、君がそう言うなら先を急ごう。こちらは何年でも待ってられるが、あちら、つまりは足し算の方が待ちきれないかもしれない」
そう言って、私たちは岩場から抜け出した。
岩場を後にして二十七年間、私たちは一度も休むことなく歩き続けた。二十七年間というのはあくまでも私の体験的な時間であって、実際には二時間ほどかもしれない。死後のこの世界では陽が昇ったり沈んだりすることはないし、老いることも疲れることもない。あらゆる物理法則は変化を拒否し、生成も崩壊もしない。誰かがそこで、と決めた時間が永遠に渦巻いているのだ。
やがてアンナが前方に何かを見つけた。
「あれは森かしら?」
アンナが指す方向には、確かに細長い何かが、群生しているようだ。しかし、それらは木々ではない。よく近づいてみると、それは人面頸椎の連なりであった。私とアンナは顔を見合わせて、しかめ面をした。人面頸椎の森は長く続いていた。あるところから始まって、永遠に続いているように感じる。乾電池の雨と同じだ。この世界の得体の知れなさは、そういうところから来ているのだと私は思う。
「何かぶつぶつ言っているみたい」
アンナが言った。確かにそれらの口は小さく動いている。木々のざわめきのような、静かで低い共鳴が辺りを包んでいる。
「何と言っているんだろう」
「分からない。もう少し近づいてみよう」
アンナはそう言うと、人面頸椎の口元に耳を向けながら近づいた。
「あまり近くにいくのはよしたほうがいいと思う」
「大丈夫。だって私、普通自動車の免許持ってるのよ」
アンナのその言葉を聞いた時、その表情を含め私はなぜだかアンナが愛しく思えてならなくなった。どうしようもなく、愛しくて泣き出しそうになった。
アンナはそんな気も知らずに、熱心に耳をそばだてている。
「『キリンの上皮細胞』って言ってる」

私はアンナへの言い知れぬ想いを抱えたまま、人面頸椎の森を抜けた。
そこは塔、ヤマカミに言わせるなら『壁』の頂上であった。二十メートルほどの開けた平らな空間だ。
「ここが試練の最終地点なの?」アンナが私に尋ねた。
「分からない。だけどここを目指してやって来たことは確かだ」
どうすればいいのか迷っていると、私はその空間の隅に腰の高さほどのテーブルが置かれているのを発見した。
見るとそこには手回し式の鉛筆削り機が置いてある。アンナは全く気づかずに別の方向を見ている。私はその鉛筆削り機を回してみる。すると鉛筆の差込口から、平仮名が五十音順に出てきた。そしてだんだんと日差しが強くなって、辺りが強い光に包まれ、目が眩んだ。
アンナの姿を懸命に探したが、その姿はどこにもなかった。
どこか遠くで鐘の音が鳴っているような気がして、私は目を覚ました。私は白い大きな部屋にいた。ベッドと書き物机、扉の他には何もない。窓さえないから、部屋の大きさを推し量ることもできなかった。程なくして、若い男が扉を開けて入ってきた。身なりがとても良く、作りたてのような革靴を鳴らしながらこちらへ歩いてくる。彼は何も言わずに笑顔を見せ、私に小綺麗な分厚い冊子を渡した。それをめくってみたが、何も書かれていなかった。どのようにすれば良いか分からなかったので、彼に尋ねようとしたが、身なりの良い若い男はいつのまにか、グランドピアノを部屋に運び入れていた。どこからそんなに大きいものを通したのかは分からないが、とにかく彼は決められた手順を追うように、何年もの間、その作業を欠かさず行ってきたと言わんばかりに手際よく働いていた。
十五分と経たずに何らかの準備が整ったようで、若い男は部屋から出て行った。グランドピアノの横に書き物机がぴたりと寄せられ、万年筆が置かれた。小振りなランプが逆さまに二つ床に置かれ、知らない人の肖像画が飾られ、「分別をわきまえない人間だけが集まる鍾乳洞へ行ってみたいとは思いませんか」と書かれた教会の模型と紅茶、エプロンで作ったアーチ、畳んだ哺乳瓶、様々なものが雑多なままで置かれた。
書き物机に備えられた椅子に座って、手渡された白紙の冊子を膝の上に乗せそれらをぼんやり眺めていると、突然何かに突き動かされるような心地がしてきた。私は書き物机に冊子を広げ、万年筆でひたすら何かを書きなぐった。何を書いたかは書いたそばから頭の中から吐き出されてしまい覚えられない。書いた文字を見る前に次の文字を書かなければならなかった。そのうち若い男がまた扉から入ってきた。彼はやや誇らしげな顔つきで、手にはやかんを握っていた。彼は分厚い冊子に文字を書きなぐる私の隣に立って、時々前を見据えたまま、やはり誇らしげに「私は世界で三番目の人間に選ばれた人間です」と言った。
それは私の気をひどく散らした。私はそこでようやくこの状況の異常性に気がつき始めた。そして同時にアンナの顔を思い出し、やや恋しく思った。今頃彼女はどこで何をしているのだろうか。まだ「壁」の頂上にいるのだろうか。
私は若い男にここを出て行かなくてはならないと伝えた。会いたい人がいる。それに果たしていない約束もある。私は死んでこそいるが、あらゆる関係や責任から解放されたわけではなかったようだ。
若い男は「ここにいれば全ての煩わしさから離れていられるのですよ。この部屋で自分の想像力に任せて日夜筆を取る。これほど贅沢なことがあるでしょうか? あなたは死後の世界がどういうものかきちんとまだ把握できないでいるのです。現世と同じように生きることはできません。世界を動かす根本的な概念が全く異なっているのですから」と言った。私には言っていることの意味がほとんど分からなかった。
「今はそういう辞典的なことを議論しているんじゃない。私が言いたいのはつまり、コウテイペンギンが、数ある雑草の中でそれなりには見るに耐える種類である、ということなんだ。だから私は今すぐにこの部屋を出て行く必要がある」
私はそう言って、紅茶を一口飲んで急いで部屋を出た。
扉の先は松の木が永遠と生い茂る一本道になっていた。松の木から落とされた影からはクリームメロンソーダが染み出て夕陽を幻想的に反射させている。私はしばらく歩き進み、適当な場所で腰を下ろした。さて、これからどうしたものか。アンナはどこにいる? 辺りを見回しても、人の気配もない。
私は落胆して近くの松の木を眺めた。すると、どこからかまた、鐘の音が鳴っているのが聞こえた。そしてそれがだんだんと小さくなると、今度は甲高い、何かが地面を弾んで進んでくる音がした。
それは二枚の瓦に挟まれた、ボーリングの球だった。
私はボーリングの球が弾むのを初めて見た。それは深い藍色をしていて、均一的な緑色を纏った松の木に上手く溶け込み、不思議な風情を感じさせた。ボーリングの球は弾みながらゆっくりと私の方へと近づいてきて、やがて私の足元で動きを止めた。途端に両側の瓦がボーリングの球から外れ、地面に倒れた。
私はしばらくボーリングの球を見ていた。その間、私は何もボーリングの球のことを考えていたわけではない。生前私は犬を飼っていたが、今になってその犬を置いてこちら側へ来てしまったことを思い出し、玄関に「落ちた唐揚げは食うな」と書いた張り紙をしてくるのを忘れたのを悔やんだ。いつも私が犬を置いて出かける時には必ずその張り紙をするのだ。そうでないと犬は夜警国家の恐ろしさについて極めて長い論文を私のお気に入りの長机で書き始めるからだ。
ふと気がつくと、ボーリングの球が割れている。中から黒いさらさらとした液体が流れ出ていて、よく見ると割れた破片の奥に、背中に「奥日光」と書かれた小さな山羊が六匹、互いの角をぶつけ合いながら、意味もなく行ったり来たりと歩き回っている。私はそれを、素直に微笑ましく思った。
「まるでお前たちは、将棋のルールもろくに知らないくせに“待った’”ばかりかける、お茶屋のどら息子みたいだな」
六匹の山羊は私に語りかけてきた。
「お前を知っているぞ。『イトシラカワ』だな?」
「よく分からない。多分そうだと思う」
「なぜここにいる?」
「アンナを探している。どこに行ったら会える?」
山羊は相変わらず角をぶつけ合いながら行ったり来たりしている。どうして私はこんなものに話しかけているのだろうか。しかし仕方がない。今、話ができるのはこの山羊くらいのものなのだから。
「アンナ? 『ユミツルナラ』のことか? あの娘なら三十六年前にここへ来たぞ。長い髪の美しい女だったな。なぜか餃子の皮を何枚も持っていた」
ユミツルナラ? そんな名前は初めて聞いたし、私の知っているアンナは髪が短かった。しかし、私の名前が『イトシラカワ』に変わったことを考えれば『ユミツルナラ』がアンナであるという可能性もないことはないだろう。
「その娘かもしれない。どこへ行った?」
「西の果てに、湖がある。その湖底にロープウェイ乗り場へつながるドアがあるから、そこへ行くと良い」
「ロープウェイ?」
「そうとも、焼き芋で作った山の山頂に繋がっている」
「アンナ、もといユミツルナラはそこへ行ったのか?」
「知らない。だけどここから外へ出るにはそこしかない」
「なるほど、ではそこへ行くとしよう」
私は、焼き芋山を目指して、松の木の森を西に進むことにした。
松の森の西の果てに着いた時には、日が暮れる頃だった。道中、カタツムリの殻で作られた小屋で一休みをした。蹄鉄で作られた人形が麦茶を出してもてなしてくれた。喋る恐竜が似合わない和服を着て、寝床をこしらえてくれた。特に眠気はなかったし疲れてもいなかったが、単なる嗜みとして煙草を吸うような心持ちで、私はそれらのサービスを受け取った。
目の前にあるのは想像していたよりも小さな湖だった。容易に対岸まで泳いで渡れそうだ。このおかしな松の森の世界から抜け出すには、小さな湖の底にある、ドアを開けて出て行かなくてはならない。そこで私は考える。果たしてそのドアには鍵がかかっていまいか。はたまたそのドアはどれほど深い場所にあるのか。事と次第によっては、私の息がもたない可能性がある。
考えても仕方がないので、私は湖に足を踏み入れることにした。水面に顔をつけてみると、呼吸が全く苦ではないことを知った。いくら時間が経っても、腹が減らず、眠くもならないのと同様に、酸素がなくても呼吸に支障はないようだ。
安心した私はそこで二年半、泳ぎ続けた。
飽きて来たので、私は湖底を目指して潜るが、全く体が沈まないことを思い知った。どうやら私の体には無限の酸素が溜め込まれているようで、物理的にどうやっても沈まないようなのだ。
私は落胆して、湖から出て近くの松の木の下で、落ちていた囲碁の解説本(全編カタカナ表記)を眺めた。そのまま十六年が経過した頃、私はアンナが『壁』を登る時に私に言った言葉を思い出した。そうだ、「重力を信じないこと」だ。
私は意気揚々と湖に入り、今度は浮力を信じないことにした。すると体は自然に下降を始め、ゆっくりと全身が水中に収まり、無音の世界に突入した。
呼吸のリズムにも乱れはない。冷たさもない。淡々と下降を続けた。途中で水中ギターショップで来年のおせち料理の予約を済ませた。そこでも人間ではなく、電気毛布が対応してくれた。非常に愛想が良く好感の持てる若者だった。やがて私の尻が湖底に当たった。水中下降が始まって、六十八年が経過していた。

列車にて

列車にて

不思議な死を遂げた男が、不思議な世界を巡るお話です。続きも書いていきます。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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