本当の涙が流れる時

虹が大空に浮かんでいた。久しぶりに見る虹は無機質な何の害も無いかに見えたけど、それはわたしに恋人が死んだ日を思い浮かべさせた。そうだ、その恋人が死んだ日も、このように虹が浮かんでいたのだ。微かな悲しみに似た、脳みそをじんわりと包み込むかのような痛みがわたしを襲った。でも、その痛みはわたしに喜びのような切なさを与え、今日も一日の仕事を終えて家路につく、心地よく電車に揺られて、混雑した車内の人たちの表情を読み取ろうとして、まぶしいような沢山の、色々な機知に富む、純粋さを匂わせた顔色を見つめ続けるのだった。たまに見受ける人の顔もあった。疲れていることを顔に出さないように努力していても、それは、わたしは疲れを顔に出さないようにしていますという表情を浮かべているのだった。わたしはなんだか嬉しくなってしまった。わたしだけではないのだ。一日の仕事を終えて、家路に着こうとしている人たちは、家族が待っていることに、若干の期待と、また、夕日が沈む前の赤く焼けた雲と、不思議な虹を考え深く眺めながら、明日の日の、また、同じような一日を暮らすことに思いをはせているのだった。
わたしは鞄(かばん)から、水筒をだして、中に入っているコーヒーを飲み干した。なんの味も感じなかったが、気休めの安心感を与えたのだった。女子高生たちが賑やかにドアの前で話し込んでいた。さっきまで、全く気づかなかったけど、彼女たちは明日という日のことを、また数百年先の未来に自分が何処にいるのかを気にすることもなく、今この瞬間を楽しんでいるようだった。それはわたしになんとも言えぬ悲しみを胸に抱くには十分のものだった。わたしは高校生の時の自分を思い浮かべようとした。しかし、微かな残像にも似た一瞬の閃きにも似た、手に届かないほどの離れた記念物のように、遠くに逃げ去ってしまった。わたしはアナウンスで次の停車駅が手稲であることを知って、ドアの前に寄った。
電車が駅に停まってドアが開くと、わたしは構内に出て、階段を上った。改札を出て、ミスタードーナツの店舗に入ると、ドーナツを二個とホットコーヒーを注文して、店員ににっこりと笑顔を返された。仕事帰りのサラリーマンが背広をお着たままドーナツを食べる様子は面白おかしかろうと思った。椅子に座り、まだ店員の若い女性がわたしの顔を見て、にっこりとまだわたしの顔を見つめているのに気づいて、近所の人であることを悟った。
「こんばんわ、お仕事お疲れさまです」彼女は爽やか、凛とした、まるでシャワーを浴びたばかりというほどの軽快さで言った。
「やあ、どうも、ここで働いていたんですか」
「ええ、そうなんです。八時まで働いているんですよ。どうぞ、ゆっくりしていってください」
「ありがとう、なんだか無性にドーナツが食べたくなってね。そうだ、わたしの会社で作っているキーホルダーがあるんだ。よくお得意先に配っているものなんだけど、よかったら差し上げます」わたしは鞄から会社のキーホルダーを一つ取り出して、彼女に差し出した。彼女は両手でそのキーホルダーを受け取った。
「ありがとうございます。これは会社のイメージキャラクターなんですか。可愛いですね」
「それはわたしがデザインしたんだ。自分で言うのもなんだけでけっこう好評でね、新千歳空港の売店にも売っているんだ。こんどこのキャラクターでコマーシャルをやらないか、っていうこともあがっている」
実はこのキャラクターは娘が幼い時に画用紙に描いていた絵から発想を得ている。娘は絵心があって、様々な、大人では思い描けないような、奇想天外ともいえる着想を表すのだった。
「とっても綺麗ですね、それに純粋な感じがします」
「そうなんだ、純粋なのには訳がある。実は幼少期の娘のアイディアから始まっているんだよ」
「なるほど、とっても、なにかこのキーホルダーには温かな熱が発散されているような気がします。これ自体が生き物のようなものであるかのように」そう言って彼女はそのキーホルダーを握った。
「わかりますか?そうあることじゃない、ほんとにこのキャラクター生きているんです」
「素敵ですね、ほんとにありがとうございます。わたし、お仕事に戻らなくてはなりません。どうぞ、ゆっくりしてください。では」彼女はそう言うと、わたしの座っている席から離れていった。わたしはドーナツを頬張って、娘は今、何をしているんだろうかと思い、きっとベッドに横になりながら、小説でも読んでいるんだろうなと、娘の表情を思い浮かべねがら、コーヒーを啜った。それとともに、自分が娘と同じ、中学生だった頃のことが、脳裏に現れて、その当時は好きでもなかった女の子が、数年経ってから、突然、その子のことが好きになってしまったことが思いだされた。彼女は今、いったいどうしているのだろう。きっと結婚して子供が二人いて、幸せに暮らしていることだろう。それは憧憬にも似た感情だった。世界ではきっとこんな、感情がいっぱいあって、色々な純粋だったことの交差が行われていて、みんな、過去の記憶を引き出しては、そこになにか自分が存在していたこととか、その当時、大切な何かを置き忘れたような気がして、その記憶を強く呼び覚まそうとするのだ。
わたしは脳のある部分がじんわりと熱をもつのを感じた。それは微かなものであったが、それを数百倍、数千倍にすれば、きっと、わたしは今ここで、涙を流していただろう。きっと、誰かに肩を優しく手で触れられたら、ここで、わたしは人前でも、泣いてしまうことだろう。その勇気があれば、わたしは自分以上のものに変化するのかもしれない。
わたしは鞄から、キーホルダーを取りだして、強く握った。そうすると、そのキーホルダーはわたしの手にあって輝きだした。そして振動し始めて冷たさと温かさが交互に手のひらに感じ始めた。それは不思議な感覚だった。それから、そのキーホルダーはわたしの手の内にあって、大きくなって、手からこぼれ落ちて、テーブルの上にコトンという金属のような音をたてて、止まった。わたしはコーヒーを一口飲んでから、その大きくなったキーホルダーを手に持つと、店を出て、涼し気な風がそよぐアスファルトの歩道を家路に向けて歩いた。
きっとこれからなにか新たなことが始まるのだろう。それが何であるかは今のところわからない。でも、もう少しだ。これからわたしはいっぱい、泣くことだろう。たぶん、それとともに、いっぱい笑いもするだろう。そうでなくてはいけない。自信をもって、笑いながら泣こう。家路に着き、きっと、娘に、自分がお前の絵から、力をもらったことを告げるだろう。世界中の人々に誇れる娘の絵は、今は額縁の中に飾って居間にある。これが、わたしの宝物だ。きっと、家の中にあるもので一番高価なものだろう。
虹よ、また機会があれば、わたしのもとに現れてほしい。きっとわたしはお前に向かって、きっと、笑顔を見せるだろう。

本当の涙が流れる時

本当の涙が流れる時

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-24

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