実験的な生活

執筆年等不明ですが、2003年前後の、古い作品であると思われます。

僕にしては珍しく、実体験を元にした,リアリズム小説であると考えていますが、読者様が各々どのように感じられるかは、不明です。

 丁度まだ、携帯電話などというものは普及しておらず、従って、先頃一部で話題になっていた、骨伝導式スピーカー登載の携帯電話などというものも、存在すらしなかった時代の話である。私は当時高校生で、音楽に、それもどちらかと言えば実験的で、前衛的な音楽に深く傾倒しており、音響工学を取り扱った専門書を読み耽っていた折、『人間は、耳からだけでなく、骨の振動からも音を聴いている』という記述を発見し、これはもしや、とふと思い立った。

 先ず私が行ったことは、CDウォークマンに、ごく普段通りのやり方で、イヤーフォンを接続することであった。しかしその次に私がとった行動はというと、それを耳にではなく、両鼻の穴へとおもむろに捻じ込んだのである。そしてウォークマンの再生ボタンを押してみると確かに音楽は、遠く頭蓋骨の後ろのほう、これまで耳から聴いていたのとは全く異なった位置で小さく鳴り響き、それは音量的には全く不足であったものの、ある種の新鮮な聴覚体験を、私にもたらしたのであった。

 次に私が試した行動は、音楽を、耳と鼻の両方から聴くという行為であった。
 私はたまたま一通りの音楽機材を所有していたため、一枚のCDウォークマンから流れ出る音をまず四つのチャンネルに分け、それぞれに音量を調節しながら二対のイヤーフォンから出力することに、大した手間はかからなかった。音量と音像が明瞭な耳からの聴音を主とし、鼻からの聴音はあくまで福次的な効果音として、やや深めの残響音を加えて再生してみたところ、音楽は、生々しい臨場感というよりはむしろ、何やら浅い夢の中で響いているような不思議な感覚を醸しだし、私はある一時期、鼻腔の内側が炎症を起こして赤く腫れ上がるほどに、自ら発案したその新しい音楽鑑賞の方法に耽溺していたのであった。
 なにぶん両耳両鼻から大音量で聴いていたものだから、ある日、友人が部屋の扉をノックする音にすら私は気付かなかった(当時私は、寮生活をしていた)。プライバシーという概念に乏しい男子寮の生活である。返事がないのを確認した上でなお扉を開いた友人の視線と、両耳そして両鼻腔内へとイヤフォンを突っ込んだまま放心状態にあった私の虚ろな視線――その二対の眼が交錯した瞬間に凍てついた空気の気まずさは筆舌に尽くしがたいが、それはこれから私が語ろうとすることにとっては、むしろ余談に過ぎない。

 すなわち、このようなことはごく一例に過ぎないのだ。
 つまり私は、ひとたび何かを思いついてしまったら、例えそれが世間様から見て恰好の悪いことであったり、あるいは体裁の悪いことであったとしても、そこをあえて躊躇わず、とにかく行動に移してみないことには気が済まない性格なのである。そしてこの「鼻から音楽」の話などはその実例のひとつに過ぎず、私はただそれを、いわば今この文章を読まれている皆様方に対しての、軽い挨拶代わりのイントロダクションの心算で、語ってみたまでのことである。

 さて、本題。

 その後も私は駄齢を重ね、つい先頃齢三十三を数えたところであるが、いまだかつて、眠ることが嫌いだという人間に、一人として出会ったことがない。これまで出会った人々はみな一様に口を揃えて、眠ることは大好きだと言っていたし、実際に私自身もまた、眠ることは大好きである。ごく稀に「眠れない」と言う人間に出会うことはあったが、彼らはただ単に心身的ストレスに起因する不眠症に悩まされているだけのことであり、よくよく話に耳を傾けてみれば、やはり眠ることは大好きで、そして、できることなら深く深く眠りたいと、心の底から欲していたのである。

 ところで。
 ある日私は歩きながら、あるいは電車の吊革にぼんやりとぶら下がりながら、あるいは仕事の合間に喫茶店で軽い放心状態に陥りながら、遠い幼少の日々のことを、何について深く考えるでもなく、ただぼんやりと思い起こしていたのだった。私には三つ歳の離れた姉がおり、小学校に上がるまでは二人揃って子供部屋で、布団をふたつ並べて寝ていた。そして両親の起床が遅い週末の朝、私たちはよく、その並べられた布団、子供の小さな身体にはまるで広大な草原のようにすら感じられたその平面上で、ぴょんぴょんと跳ね回っては、『兎ごっこ』あるいは『蛙ごっこ』などの遊戯をし、そしてひとしきりそれらの遊びに体力を使い果たしきる少し前になると私たちは、どちらからともなく、まるで申し合わせたように、想像上の季節を勝手に夏から秋へと一変させ、忍び足で軋む木製の階段を降りて台所へと向かい、煎餅やら花林糖やらのお菓子の包みを仕入れて、再び布団の上に戻ったのであった。それは言うまでもない、冬眠に向けた準備にほかならなかった。

 実際、『兎ごっこ』や『蛙ごっこ』は、この来るべき『冬眠ごっこ』に向かうためのいわば前戯のようなものに過ぎなかった。私たちは菓子包みを抱えて掛け布団の中へ再び潜り込むと、暗闇の中でひそひそと、いかにもに演出的な小声で、「冬が来たね」、「うん、上には雪が積もってるね」、「春はまだ先だね」などと語り合いながら、ポリポリと、花林糖やら煎餅やらを、布団の中が菓子屑で汚れるのも気にせずに、分かち合って食ったのであった。いかにも可愛らしい児戯ではなかろうか。そんな旧き良きうつくしき思い出を、私はうつらうつらと心裡に再描することに遊んでいた。

 そして、不意に、私はこの『冬眠ごっこ』というやつを、いまいちど、無性にやってみたくなったのである。かつては洟垂れの餓鬼に過ぎなかった私だが、今はなんと言ってももう齢三十三。つまり大人である。今の私であれば、両親の目を盗んで台所から菓子などをくすねずとも、堂々と正面切って私財を投じ、思う存分に、しかも、三十路なりの知恵を加えたより高度なやり方で、この『冬眠ごっこ』に明け暮れることができるというわけだ。嗚呼、素晴らしき哉、人生。何を投げ打ってでも、これをやらずに済ます手はない。
 
 冬眠というからにはまず一定期間眠り続けなければならないわけで、まず私が最初に行ったことは、不眠症を装って今流行の心療内科クリニックという場所を尋ね、睡眠薬を何錠か処方して貰うことであった。あまり効き目が強すぎても問題だが、弱すぎても面白くない。一旦飲んだら、確実に数時間は眠ることができ、そして(当たり前のことだが)間違いなくきちんと目覚めることができるという点が重要である。私はインターネットを通じて、効き目としてはやや不満と想像される軽い睡眠導入剤の名前をあらかじめ幾つかリストアップし、「それらは他院でかつて処方を受けたが効果はなかった」と医師に伝える注意を怠らなかった。また(これはいささか杞憂に過ぎたかもしれないが)、万が一にでも自殺志願と疑われてはやっかいなので、処方量はあくまで頓服的に、少量で充分である旨を伝えることも忘れなかった。私が考える限り、クリニックにおける私の振る舞いは、必要充分に自然であった。兎に角、医師に余計な勘繰りをされることもなく、このようにして私は首尾良く処方を誘導し、今回の計画に最適と思われる、目当ての薬品を数錠、いささかの難もなく手に入れることに、目論見通り成功したのであった。

 次に私が行ったことは、職場へ休暇を申請することであった。
 とは言え、今回の冬眠は、あくまで『ごっこ』である。さすがに私も社会人、まさかひと冬まるまるを、寝て過ごすわけにはいかない。そこでとりあえず今回は試験的に、冬眠そのものに丸二日、覚醒後のリハビリに丸一日を計上し、合計三日間を仮想上の冬と見立てることに決め、土日のあとの月曜日に一日、有給休暇を申請した。休暇の申請に理由が必要なほど野暮な会社ではなかったが、おそらくは周囲の誰もが、私がどこか短いバカンスにでも行くものだろうと解釈していたに違いない。そしてその解釈は、ある意味では非常に正しくもあった。そう――これはバカンスなのだ。ただちょっとだけ、世間の人々とは行く先が異なるというだけのことなのだ。

 金曜に定時で会社をあがると、そそくさと私はスーパーマーケットに出かけ、冬眠の準備を開始した。とりあえず必要なのは食料である。幼少時代の児戯であればお菓子程度で済んだかもしれぬが、今回の冬眠はそうではない。三十三歳流に、すなわちそれ相応に本格的に冬眠ごっこに耽溺することこそがいわばテーマであり、コンセプトである。従って、けして食事内容をおろそかにはできない。差し当たって、腐るもの、加熱が必要なもの、常温保存が不可能であるものは候補から除外し、加えて、万が一暗がりの中の食事で不始末を起こして布団を汚し、せっかくの冬眠ライフを中断せざるを得ないような状況が発生することを未然に防ぐため、汁気のある食物(例えば缶詰類)もまた、候補より外すことを私は決めた。私が購入したのは、主食としてバケットを数本(ビニール袋の口をしっかりと閉めさえすれば、二日三日ならそうひどくは乾燥しない)、常温保存可能な真空包みの太いサラミとソーセージを二十四本ほど、ビスケット等菓子類適量、ペットボトルの飲料水1ダース、以上である。できる限り何でもひと揃い布団の中にあったほうが良いに越したことはないが、かといって、別に全てを布団の中に持ち込む必要はない。要は、布団から極力顔を出さずに手を伸ばして届く範囲のところに、全てのものが整っており、必要に応じて補充ができれば良いだけのことなのだ。それよりも憂慮すべきは、物資の欠乏によって冬眠ごっこを中断せざるを得ないような状況を回避することだろう。その点、必要な分だけ身銭を切れるという意味で、今の私はもう幼少時代の私ではなかった。

 用便については、一瞬老人用紙おむつの使用も考慮したが、結局のところ、それを可及的速やかに処分せずには生活環境の汚染は免れ得ないという結論に達し、それについては快適性を重視するため、通常通り便所に立つということで妥協をせざるを得なかった。しかし文献によれば、冬眠といっても、動物たちもずっと昏々と眠り続けるわけではないようである。熊などはねぐらで用便は済ますものの、それでもときおり目覚めては、水や食料を求めて冬山を徘徊したり、沢へ降りたりすることがあるという。それにくらべればなに、用便くらい、普段通りに便所を使ったところで構うものか。

 これにて、食欲及び排泄欲の面での準備は整った。
 次に考慮すべきは環境面の整備である。私は、常日頃布団の中で眠っている際に感じていた不満を解消するための道具を、この際きちんと用意しておこうとあらかじめ決心しており、その解消方法も既に熟考済みであった。私が感じていた不満――それは、布団にくるまった際の通気の問題である。おそらくは諸兄諸姉も一度ならず感じたことがあるだろうが、頭から布団をかぶり、その胎内回帰的とも言える全能感に身を浸そうと試みるとき、最も障害となるのがこの吸排気だ。布団の端に小さな窓を作りそこから口だけを出して呼吸すれば良いのであるが、これだとどうしても若干の口のまわりの肌が外気に触れて大きく興を削がれるし、何より姿勢にも大幅な制限が生じる。最初私はシュノーケルの使用を検討したが、その固定的な形状から自由度が低いと判断して却下し、結局は、近隣のホームセンターで売っていた青い護謨ホースを長めに切って、洗浄して利用することにした。いささか護謨臭が混じって空気の新鮮さが失われるのは残念だったが、その不満を解消するために、私は追加で、よくスポーツ選手などが使うヘアスプレーほどの大きさの酸素缶さえも数本購入した。新鮮な空気がどうしても吸いたいというときだけは、こちらをひと息ふた息使えば、それで暫くは持つだろう。何せ、実際の冬眠期間はたった二日間しかないのだから。
 また私は、予め採寸してあったカーテンのサイズに合わせて、より遮光性の高いカーテンを一対購入することも怠らなかった。そしてさらに、そのカーテンを厚手の布製のガムテープによって目張りし、極力日光が部屋に差し込まぬよう工夫する知恵も、齢三十三を数えた私は備えていた。なにぶん、雨戸などといった気の利いたものはない、手狭なマンション住まいの寝室である。完全な暗室と化すことは無理にせよ、強く差し込む光によって私の冬眠が阻害されることだけは是が非でも避けなければならない課題であったが、これらの周到な準備を経て、その懸念は大半払拭される算段だった。

 あらかたのものを買いそろえた私は、荷物の重みもものともせず、浮き足だって帰路についた。いよいよ、幼い日からの憧れであったあの冬眠生活が、晴れて現実のものとなるのである。うきうきしていたのであろう。そしてきっとひどくにやついていたのだろう。帰りがけにすれ違った子連れの主婦にあからさまに胡散臭げな視線を投げつけられたが、そんなことは私にとって、どうでも良いことであった。

 こうして準備万端。いよいよ冬眠ごっこの実践と相成ったのであった。

 折しも季節は秋であったが、私はあえて空調機の温度を一八度に設定した。冬眠の最中、本当に熟睡している際に、暑さで布団を剥いでしまうようなことがあっては全てが台無しだと感じたからである。そして予定通りにカーテンを設置し、その端々を丹念にガムテープで二重に目張りし、物資を全て布団の中に持ち込むと、私はペットボトルの封を切って睡眠薬をまず一錠飲み下し、足先から頭のてっぺんまでをすっぽりと羽毛布団で覆い、その端からだらりと床へ垂らした護謨ホースの一端を咥えて、冬眠生活を開始したのであった。

 結論から言うと、この実験は、これまで私自身が味わったことのなかった奇妙な身体感覚をもたらしたという意味において大成功であった。睡眠薬の効果はそう強いものではなかったので、およそ平均すると四時間に一度くらいのペースで私は、排泄欲か、あるいは食欲に促されて目を醒ました。そしてそれらを適切に処理すると、私は再び睡眠薬を飲み、護謨ホースを咥え、緩やかな眠りの波が押し寄せるのを、静かに待った。

 例えば風邪をこじらせ、長時間眠った後に不意に暗がりの中で目醒めたとき、思いがけず方向感覚を失った経験は、諸兄諸姉にはないだろうか? 私には、よくある。闇の中、水差しか体温計か知らぬがとにかくそれがあると信じる方向に向かって手を伸ばすと、本来そこにあるべきでない何か(例えば電気スタンドとか、ひんやりと冷えた窓硝子とか)に指先が思いがけず触れ、ふと、自分が一体どちらの方向を向いて眠っているのかわからなくなるという――そういう体験だ。私はこういった経験はときおり誰もが経験しているものなのではないかと勝手に想像してものを語っているが、もしそういった経験をされたことのない方がこの文章を読まれているということであれば、とにかく、そういう状態に私は陥ったのだということだけを御理解いただければここでは充分である。私は、次第に自分が正しい方向感覚を失っていくことを感じた。自分の足が果たしてテレビの方を向いているのか、それともその反対側の壁のほうを向いているのか、目が醒めてしばらくのあいだ、ふと、わからなくなってくるのだ。

 これはけして、不安感を伴う体験ではなかった。むしろ私は、その状態をできるだけ長く愉しむべく、目が醒めてしばらくは無理に身体を動かしたり、手元の品々をまさぐったりして方向を確認したりはせず、ただただその、自らの身体がどの方向を向いているのかわからないという奇妙な感覚を、覚醒の直接的な要因であった食欲あるいは排泄欲の限界に達するか、あるいは私自身の知覚が十全に真実を悟ってしまうまでのあいだ、存分に味わったのであった。この体験は、奇妙な浮遊感に似た感覚を私の意識下にもたらした。それはまるで広大な深海の中にぽんと身を投げ出されたような、上下も左右も判らぬ、実に奇妙な感覚であった。

 冬眠に入り丸一日ほどが経過した頃であろうか(私は、冬眠期間中、部屋中の時計という時計を全て隠していたから、昼夜の別は、用便に立つとき以外知りようがなかった)。私は、さらに奇妙な感覚を体験した。目が醒めるごとに睡眠薬をまた一錠飲み、護謨ホースを咥え頭ごと布団に覆われ続けていると、先述の上下左右どころか、まるで、私自身の身体そのものが、あるかなきかのごとくの不安定なものに感じられてきたのである。
 
 おそらくは、睡眠薬で酩酊し鈍化した脳の働きの所為もあったのだろうが、とにかく、自分の身体が徐々に失われ、布団や、布団と私との間にできた温かな空気を含む僅かな空隙や敷布などと渾然一体化し、いったいどこまでが私の身体で、どこから先が布団の中の空間であるかの区別が、ひどく曖昧になってきたのである。まるで、布団の下の暗闇に、私自身の身体がすっかり溶解してしまったかのようであった。睡眠薬で茫漠とした頭で、私はふと、昆虫の蛹のことを思った。
 諸兄諸姉は御存知だろうか? 
 昆虫というものは、幼虫から蛹の過程を経て、成虫へと成長を遂げる途中、あの蛹の薄皮の中で、一旦幼虫時代の身体は溶けてどろどろの液体と化し、そこから再度組織細胞の組み立てが行われ、成虫の身体がいわばゼロから作り上げられていくということを――。私が冬眠の狭間に経験したのはまさにその液化の状態、我が身が粘性のどろどろと化して布団の下の空間を満たしているような、そんな奇妙な感覚であった。

 むろんそれはひとときの錯覚に過ぎず、次の睡眠薬が効いてくるまでの間に、私は充分私自身の身体を十全に知覚しなおすこともできた。だが私は、無理に我が身体を意識下へと取り戻そうとはせず、むしろその液化の感覚がやってきたときには、その感覚を歓迎し、先刻の方向感覚の欠如のときと同様に、極力身体を動かさないことによって、できるだけ長い間その状態を維持するよう尽力した。そして私は蛹、あるいは繭の中で、すっかりと液化した自分を思い浮かべ、その次に、まるでいかなるかたちにでも成長し得るかのうような想像に溺れ、牛、馬、鳥、蝶、甲虫、鼠、そしてカンガルーから果てはシロナガス鯨の類に至るまで、さまざまなかたちになっていく己の姿をイメージしながら、ただひたすらに、やがて訪れる次の眠りを待ったのであった。

 こうして丸二日が過ぎ、私の実験的な冬眠生活は、上記の奇妙な感覚体験を私の意識に刻んだ他には何事もなく、無事に終わりを告げた。なぜ時計のない部屋で、しかも昼夜もろくに判らず頭は睡眠薬によって常に酩酊状態という環境下で、きっちり二日間を測ることができたのかというと、その答えは単純で、私は事前に携帯電話のアラームを四八時間後に設定し、そしてその発光する部分をカーテンの目張り同様ガムテープで塞いだ後に、布団の中に持ち込んでいたからであった。さすがは私。さすが三十三歳。さすが三度目のゾロ目歳。こういったことに対して、私は万事、手抜かりはない。

 三日目を冬眠あがりの覚醒期としてあらかじめ休暇申請しておいたことは、大いに正解であった。睡眠薬の連続的投与によって、また多分に偏った食生活によって(身体を動かさぬせいか私は思ったほど食べず、実際、用意した食料の半分以上が手つかずのまま残った)、私の身体は半日ほどふらつき、意識もどことなくぼんやりしたままで、ようやく肉体的にも精神的にももとどおりのきちんとしたいち都市生活者としての自分を完全に取り戻せたと感じたのは、夕暮れをだいぶ過ぎたあたりのことだった。

 こうして私のバカンスは終わった。

 翌朝、何食わぬ顔をして私は仕事へ出掛けた。この三日間、私が何をやっていたのか想像だにできないであろう若い部下のひとりが、半分ご機嫌取りのような様子で私のデスクにやってきて、「どちらかにお出掛けになっていらっしゃったのですか?」と、まだ幾分板についてない過分な敬語で問いかけてくる。土日にくっつけただけの三日間とはいえ、私が三日連続で休暇を取ることは、盆と正月を除けば、本当に稀なことなのだ。「まあね」と私は応じる。「で、今回はどちらまで?」と部下が問う。「そんなに遠くないところだよ」と私は答える(これは嘘ではない)。何かを察したのか、あるいは通り一遍の上司との朝のコミュニケーションという名の厄介事は片付いたと考えたのか、部下はそれ以上具体的な場所の詮索はせず、そのかわりに、「どこか良いところがあったら私にも教えて下さいよ、是非」と言う。「ああ、今度教えるよ」と、私は言いながら、内心、どこか適当な旅館でも見繕って彼に教えてやらなくてはと思う――ほんとうのことをけして悟られてはならぬと思う。

 丁度彼と入れ替わりに、別の部下の女性が、有給休暇の申請用紙を持って私のところへやってくる。木金の二日間を有休に充て、土日含めて四日間の休みを計画しているらしい。誰にでもバカンスは必要だ。私はその書類をろくに確認もせずシャチハタ印を捺印し、「良い休暇を」と言い添えるのを忘れずに、できるだけ気持ちよく、かつ素っ気なく、相手に余計な気を遣わせないよう自然な仕草を考慮しながら、彼女に手渡す。彼女は一瞬だけ、仕事中は滅多に見せない晴れやかな笑顔を浮かべ、そして一礼すると、踵を返して自分のデスクへと戻ってゆく――その足取りがなぜだかやけに軽快で、私はふと、あるいは彼女も……? と考える。

 結局のところ、ひとたび群れを離れれば、誰が何をやっているかなどということは、誰にも確証のできないことなのだ。あるいは会社を出た途端、物陰でさっと蛹になり、ものの五分と経たないうちに蝶になって、高層ビルのひしめく夜空をひらひらと舞い飛んでいく者がいないなどということを、いったい誰が証明できるだろう? あるいは別の者は、職場から五分ほど歩いた場所にある公衆トイレの個室でうなり声を上げるとまたたくまに狼に変身し、颯爽と夜の森を目指して街道を走り抜けることが絶対にないなどと、いったい誰が証明できるだろう?

 短いバカンスの冬眠期間で、私は、私が私でなくなっていく感覚を、確かに経験した。それは非常に希有な体験であった。私という存在が一旦すっかり溶けてただのどろどろの液体になり(それはおそらく、黄色か緑色の、膿、もしくは洟水のような色だろう)、そこから先、ひょっとしたら人間以外の、かつては人間であった自分以外の、何ものにでもなれるのではないかという自由を錯覚するような、奇妙な経験、奇妙な知覚であった。

 ところで私は今、おろし立てのワイシャツを身につけ、ダークスーツを着込み、きっちりとネクタイを締め、よく磨いた靴を履いて、このオフィスフロアのデスクにいる。私は既にもうすっかり私自身を取り戻しており、(少なくとも私の認識する限りにおいては)どこにも、昨朝までのどろどろとした粘液質な部分は私の身には残されていない。きっとこの姿は、あのどろどろの粘液の状態から、私が意識的に再選択し、その意志に基づいて組成した身体なのだ。そうだ、きっとそうに違いない、いや――

 ――そう信じたい、と私が願ったまさにそのとき、机上の電話が鳴り、それはなしくずし的に一日の始業の合図となった。私は多種多様な人々に囲まれ、多種多様な人々の起こした不手際やミスを埋め合わせるべく差配し、会議の予定を立て、課内の運営方針について幾つか考え、経営陣に上申すべき事柄を纏め上げ、電話を受け、電話をかけ、とりわけて重要な商談のアポイントメントを取る。そしてそこから一日の終わり、「おつかれさん」と言ってオフィスをあとにする退社時刻が訪れるまで私は、つい昨日の朝まではどろどろの、粘液質の液体に過ぎなかった私自身のすがたかたちを、思い起こすことは一度としてなかった。

実験的な生活

実験的な生活

睡眠薬を用いて眠り、布団の中で冬眠状態になる男の話です。

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-16

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