童謡と追憶

 私は訪問入浴介護を受け始めてから、これまでのように家の風呂に入りながら孫と童謡を歌うことは無くなった。でも一人でいる時に声無しで歌うことがある。すると、メロディーによって様々な場面が再現され、昔の事がまるで昨日の事のように頭に浮かんでくるのだ。
 列車到着の汽笛が聞こえると私は家の前を行ったり来たりして、伯母の姿を捉えようとしていた。何日も前から楽しみに待っていたから遠くに姿が見えると、手を振りながら一目散に駆け寄る。
伯母はある町の山の分校で小学校の先生をしていた。そして毎年夏休みになると私の家に遊びに来た。伯母夫妻は私の両親ときょうだい同士で、伯母と父は姉と弟、伯父と母は兄と妹。仲が良くて、満州では近所に住み、敗戦後に引き揚げてきた。どちらの家族も日本に帰って来てからの暮らしは良くなかった。でも、伯父、伯母は心豊かな人達だった。既に二人の息子を病気で亡くしたこともあってか、我々兄弟をとても可愛がった。
母が夕飯の準備をしている間に私と弟は伯母と手を繋いでよく散歩に出た。それが私の楽しみでもあった。村のでこぼこ道は緩やかな下り坂になっていて、平行して流れる小川と一緒に田んぼに抜けていた。私は弟と得意になってトンボやドジョウやホタルの話を伯母に聞かせ、伯母もそれに合わせていろいろな事を質問してくれた。私はいつもニコニコしていた伯母の笑顔が忘れられない。
ひとしきり話が弾んで、田んぼの空が赤く染まってくると伯母は「夕やけ小やけ」を歌った。私と弟も繋いでいる腕を元気よく振り上げながら合唱した。帰り道で陽が落ちて来ると、村はずれの林は木々が茂っていて薄暗く、ヒグラシの声が響く。心細くなった三人は今度は「とおりゃんせ、とおりゃんせ」を歌った。歌いながら私は伯母の手をしっかり握っていた。
 父が亡くなって二、三年後に、私の家族は伯母のいる所に近い町に引っ越した。今度は土曜日の学校が終わると、六年生になっていた私は弟と伯母の家に泊まりに行くようになった。街を通り、峠の山道を越え、二時間ほどで山の分校に着く。早く着きたい一心で二人は駆け足競争しながら歩いた。
公舎は学校のそばにあり、辺り一帯は菜畑が散在する高台になっていて民家はない。
息を切らして近づくと、まず伯父の姿が目に入る。気持ちよく開け広げた畳の部屋で伯父は体の不自由ないつもの客と碁を打っていた。温厚な伯父は言葉数が少なく、もの静かな人で、碁を打たない時は常に読書をしていた。時々タバコを吸いながら窓の外に優しい目をやる。校舎を見ているのだろうか、裏山を見ているのだろうか、何を考えているのだろうか、声をかけたかったが、伯父には私にそうさせない威厳があった。しかし私にも時にほんの短い言葉をかけてくれた。私は伯母同様に伯父も大好きだったので、軽い脳梗塞になっていた伯父の言葉は聞き取れなくても嬉しかった。
ある日のこと、昼ご飯時に伯母が台所でほうきを逆さに立てたのを見て、私はその訳を聞いた。すると伯母は私の耳元で、碁のお客様が早く帰る様にヨ、と小声で言ってククッと笑った。私もククッと笑った。まもなく松葉杖の客は伯父に午後の約束をして帰って行った。私は伯母の不思議なおまじないに驚き、あとで母に教えたが母もそれを知っていた。
私は休日のガランとした教室で伯母の手伝いをしたり、裏山で植物採集をしたりして、この上ない楽しい時を過ごした。その反動は次の日に出て、「さようなら」と言って帰る頃には寂しくて、寂しくて、仕方がなかった。人けの無い帰りの峠を弟と歩いていると夕焼けが空に広がってきて涙が浮かんだ。
 その伯父、伯母はどちらも私が大学を卒業した頃に逝ってしまった。やがて二人の事を知る人はいなくなり、誰からも忘れ去られるだろう。しかし、私にはまだ「夕やけ小やけ」や「とおりゃんせ」の童謡の中に忘れ難い、懐かしい人の記憶が残っている。 2018/4/20

童謡と追憶