ラブ&ヘイト 見習い天使と見習い堕天使の物語(10)
第十章 堕天使へのファイナルステージ
「おっ、ちょうどいい」
そのペットボトルを拾ったのは、東屋のホームレス。いや、正確には、壁はなくても、天井と屋根がある東屋に住んでいる(もちろん、施設管理者(いやに固い表現だ)の許可は得ていない)から、壁レスの男、なのだ)
「さっき、弁当を食べてばかりだから、ちょうどお茶が飲みたかったんだ。さっきの仮装行列の男は、弁当を差し入れしてくれたのはありがたいんだけど、お茶まで準備してくれていなかったからなあ。そのあたり、盲腸じゃなく、もうちょっと、気がきけばいいんだけど。あれじゃあ、いつまでたっても、芸能界どころか、下町のスターにもなれやしない。せいぜい頑張っても、ホームレス相手に弁当配って、芸を見てもらうのが関の山だろう。なあ、相棒」
男は蓋を開けると、ぐび、ぐびと二口、お茶を喉に流し込んだ。
「あっ、私のお茶が」
見習い堕天使は、倒れたまま手を伸ばすが、空を掴むのみ。ただ、黙って、男、それも、ホームレスの男が、自分のお茶を飲むのを見守るだけ。今さら、お茶を返してもらったとしても、あんな男と間接キッスになるのは避けたい。飲むなら、全部飲んでしまえ、と心の中で捨て台詞を吐こうと思う間もなく、男はペットボトル半分程度飲み干すと、隣に座っているもう一人の男に手渡した。
「あっ、まさか」
先ほどは、あんなお茶なんかくれてやると思いながらも、返してもらえるんじゃないかと、かすかな、淡い期待を胸に抱いていたが、その気持ちも泡が割れて消えてしまった。まさか、二人に全部飲まれるなんて。見習いの口の中は、転んだとき入り込んだ土の味がする。その味覚を消し去るため、あのお茶が必要だったのに。もう一度、今度は、左手を伸ばす見習い。やはり、空しく、虚脱感を掴むのみであった。悲劇のヒーローのように、地面に倒れ込む見習い。その先には、東屋のベンチで、昼食後のお茶を楽しむホームレス(壁レス)の二人。
「あーあ、美味しかった」
雲がゆっくりと流れる。
「安ちゃんよ、ほら、見ろ。俺たちの気持ちを映してか、空に「HAT」と浮かんでいるよ。本当に、ほっとするな」
「ああ、玉ちゃん、確かに、食後の一杯は、気持ちを和やかにさせる。生きていて良かったなあと思わせるよ。ただ、玉ちゃんよ。空に浮かんでいる字は「はっと」で、「ほっと」じゃなか?満ち足りた時に、自然の美を感じる、「はっと」した瞬間があるということを教えてくれているんだ。ほら、あのバラ園。普段は気がつかないけれど、ちゃんと蕾がある。五月になれば、花が一杯咲き誇るだろう」
「確かにな、安ちゃん。「はっと」した瞬間に、新たなことに気がつくことはある。けど、あの空の「HAT」は、そうじゃない。誰か知らないけれど、親切な奴が俺たちに弁当やお茶を買ってくれるという、「ほっと」、つまり、温かい気持ちが誰にでもあるんだということを示しているんだ」
「そりゃ違うな、玉ちゃん。「HAT」では、「ほっと」と呼ばない。やっぱり、「はっと」だ。だが、玉ちゃんの言うように、優しい気持ちが込められていることは事実だ。昔、俺が小さい頃、シャンプーが苦手で、何日も髪を洗わない日があった。シャンプーをして髪を洗い流す時、お湯が目に沁み込むのがいやだったんだ。目をつぶっていればいいんだって?その時、目だけでなく、耳は両手で塞ぐし、口は閉ざし、鼻は呼吸を止めてしまう。まだ、ガキの俺にとって、わずか数秒でも、息を止めることができなかったんだ。「はい、流しますよ」と言う、ママ、そう恥ずかしい話だが、坊っちゃんの俺は母親のことをママと呼んでいた。今じゃ、ママはクソババアで、坊っちゃんは犬のクソの横で寝るホームレスだ。小さい頃に髪を洗われるとともに、栄えある未来も一緒に流れてしまったみたいだ。そんなことはどうでもいい。シャンプーの話だ。つまり、数秒でも息を止められない話だ。俺はつい息をしてしまう。すると、鼻や口から、俺の髪を洗った水が洪水のように流れてきて、俺の口の中だけじゃなく、肺までもが溺れてしまい、俺はそのまま気を失うわけだ。そんな様子を見ていた、俺の親父は、その頃は、パパだ。今は、クソジジイだ。そして、俺は、何度も自分の人生を恨み、クソッと捨て台詞を吐くホームレスだ。そのクソジジイのパパが、普段は何も言わないけれど、ある日、突然、玄関先で、「たけしくん」と呼ぶ声がする。俺は、「はーい」と声を出し、仕事から帰って来たパパを迎える。「はーい、たけしくん」になった俺は、玄関の扉の鍵を開ける。ドアが開く。眼の前に突き出されたスーパーの袋。俺の視線は、袋を掴んだ手から、一の腕、二の腕、三の肩、四の首、そして、最後には、五の顔のパパを見る。笑っている。何だろう?お菓子かな?「ほら、シャンプーハットだ。これで、シャンプーが大好きになるぞ」俺は、気恥ずかしいような、嬉しいような複雑な気持ちだった。普段、あまり会話のなかったパパだけど、俺のことを気にかけていてくれたんだ。「さあ、早速、使ってみるか」そう言うと、パパは浴室に向かった。俺は、すでにパジャマ姿。お風呂には入っている。だけど、パパの誘いだ。断るわけにはいかない。「わかった」と言うなり、後に続く。体を流し、湯船に入る。パパと一緒だと、湯船からお湯が溢れる。「ほう、お前も大きくなったなあ。赤ちゃんの頃、お前をお風呂に入れていたけど、お湯が溢れることはなかったのになあ。と、感慨深そうなパパ。そんな小さな時のことなんか、覚えていない俺。二度目の入浴なので、さっと上がり、シャンプーの準備。スーパーの袋から商品を取り出し、そのまま頭に被る。「おお、なかなか似会っているぞ」パパの絶賛の声。今から思えば、シャンプーハットが似会う人なんて、別に、かっこいいわけじゃない。でも、パパからの一言が、俺の目じゃなくて、俺の心に染みた。俺の存在が認められたんだ。そう言えば、心に染みたことなんて、あのシャンプーハット事件以来、俺の人生の中でなかったように思う。そのハットが、今、俺の真上の空に浮かんでいるわけだ。こんな偶然な出来事はない。その思い出深い、俺の人生にとって、もっとも大切なハットをホットと呼ぶなんて、いくら親友の安ちゃんでも許せない」
「話が長すぎるんだよ、玉ちゃん。あんたの長台詞で、折角のホットした食事の後の一服が、ハット壊れちまうじゃないか。つまり、ハットということだ」
「ちょっと待て、安藤。いくら親友でも、それは言いすぎじゃないか」
「誰が親友だ、玉岡。今さっき、名前を覚えたぐらいで、親友面するな」
「ああ、俺も、だれがお前のことなんか親友とは思っていないよ。さっさと、この東屋から出ていけ。安藤」
「それは、こっちのセリフだ。ここは、みんなの公園だ。出て行きたければ、自分で出ていけ。玉岡」
「ふん」「ふん」
先程まで、仲良くお弁当を食べ、転がって来たお茶のペットボトルを回し飲みした安藤と玉岡だが、今では、お互いが顔を見合さないように別々の場所に移動した。安藤は、公園が見え、そのずっと先に、島と島をつなぐ橋が見え、その橋の袂に夕日が沈む西側に、玉岡はフェリーなどが出入りする港が見え、赤い太陽が昇る東側のベンチに座った。この様子を芝生に寝っ転がったまま見ていた見習いは、今だと思い、そのままの姿勢で、ポケットから手帳を取り出すと、二人が共に呼んでいた名前を記した。
「安藤と玉岡か。私は何もしていないけれど、俺の転がって行ったペットボトルの効果で喧嘩になったのだから、私が仲違いさせたのと同じことだ」
そう、勝手に解釈した。
「これで、任務完了かな」
見習いは、ようやく芝生から立ち上がると、膝や肘、胸に付いた草を払い除け、広げた手帳を持ったまま、空を見上げる。西空には、あの「HAT」。まだかまだかと、その横の空を見つめる見習い。やがて、一機のセスナが飛んできて、横に「E」という文字を描いた。「やった、これで、俺も見習を卒業だ。あんまり気は進まなかったけれど、何事も達成すれば、それなりに嬉しいもんだ」
と喜びながらも、何でセスナ機が飛んでいるんだ。あの文字は、セスナ機が書いた文字か。この手帳の力じゃないのか。じっと手帳を見る見習い。 突然、耳に堕天使の声が聞こえた。
「何をびっくりしているんだ」
「あっ、堕天使様。どちらに」
空を見上げる見習い。
「空なんて見上げても、わしの姿なんぞは、見えやせんぞ」
「じゃあ、どこに」
「お前の心の中に」
思わず胸を抑える見習い。
「ははははははは。相変わらず、素直さが抜けんようじゃなあ。そんなことでは、いつまでたっても見習いのままじゃぞ」
「はい、すいません。でも、このたびの試験なのですが、この手帳に名前を書いたら、仲のよい二人の仲を裂くことができる力があるなんて、本当ですか?」
「ははははははは。まだわからんのか、見習い。手帳にそんな力があるわけないだろう。それは、部屋の隅に落ちていた手帳だ」
その頃、街では、人類が生まれて以来の、繁栄や戦争など、愛と憎しみを描いたポリウッドの大作「LOVE&HATE」の映画試写会の宣伝カーが街中を駆け巡っていた。
「本日、午後七時から、サンポート大ホールにて、世紀の名作「LOVE&HATE」の試写会が開催されます、先着二千名様限定です。皆様、是非、お越しください」
それに合わせて、セスナ機が「LOVE&HATE」の煙の文字を空に描くPR。会場時間まで、三時間前の午後四時にも関わらず、ホリウッドの大作であること、無料であること、暇を持て余していること、映画の内容が明らかにされていないこと、その他、エトセトラ、などなど、で、ホール前から三階までのエスカレーターには、一里の長城ほど続く行列ができていた。そこには、あの駅前のフリーペーパー配っていた女性二人、玉藻公園で公園のボランティアガイドの二人、勤務を変わってもらったのか、勤務が終了したのか、コンビニの従業員の二人、そして、東屋の壁レスの二人の姿も見られた。
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