二次創作集

魔法の図書館 -wlw-

こうやってエプロンドレスに身を包んでいると、あのころのことを思い出す。
別に掃除は嫌いではない。元から綺麗好きな性格だったのだろう、掃除自体は好きだった。
自分の手で綺麗になっていく床や机、それぞれの家具を見ることが楽しかった。
ただ姉さまたちの仕打ちが嫌だっただけで……いえ、もうそれは忘れようと決めたこと。
嫌な思い出は、この掃除のついでにゴミ箱に捨ててしまおう。
なんて考えながら、エプロンの白い紐を固く結ぶ。なにがともあれ、久しぶりの掃除だった。

箒を手に取り床を掃く。今日もこの図書館の人の声はしない。
たいしてゴミは落ちていない。掃除のしがいがない、ともいえるかもしれない。
でも、ゴミではない何かはよく落ちている。
ほらそこに、いつか落としたひとつのガラスの靴。拾い上げると、煙のように消えてしまう。
大きな黒木の扉が出迎えるエントランス。いつも開かれていて、誰でも入ることができる。
基本的に、私たちはこの図書館を拠点にしている。
本の中の住人には相応しい場所だと思っている。そして必要に応じて、外に出る。
だから今日も、人の声はしない。

カツン。

何かを蹴っ飛ばしてしまった。足元を見る。ああこれは、おもちゃの銃とナイフ。
またどうせあの悪童たちが遊んで、そして片づけをしなかったのだろう。
拾い上げる。いつものように煙の如く、その姿を消してしまう。
また叱らなければ、けれどもきっと無駄なことなのだろう。
そう思いながら、箒の動きは止まらない。

エントランスの正面には階段がある。上階と地下へと続く大きな階段であり、
壁にかけられた複数個の蝋燭により照らされている。
床には赤く固めのカーペットが敷かれていて、たとえ転んだとしても痛みはない。
打ち所によっては多少痛むかもしれないけれど……。
いくつかの閲覧用の机も用意されている。椅子には古ぼけた赤いクッション。
そして、そのうちの二つだけが乱れていた。
その正面の卓上に本はないが、その代わりに赤いメガネと白い眼帯。
落し物だろうか? ひとまずは預かっておこう。後でマメールさんに渡さなければ。
手を触れると、やはり煙のように消えてしまう。

階段は上に。下は書庫になっており、司書であるマメールさん以外は出入りができない。
禁書を多く保管しているらしい。詳しくは聞かされていない。
上の階はやはり多くの書架がある。
それは身長以上の高さで、背伸びをしても最上位段には手が届かない。
色とりどりの背表紙が整然と並び、その背には光る番号が浮かび上がる。
この番号を頼りに目当ての本を探すのだという。分類法は、マメールさんだけが知っている。
多くの本は整列しているが、ところどころは乱れている場所もある。
赤い本は斜めに、黒い本は少し奥にあり、緑の本はもう倒れそうなほど。
その付近の本が読まれたあとなのだろうか。それとも、誰かが逃げ出したのだろうか。
そこは直して良いことになっている。だから手に取ると、ひらり、と何かが落ちた。
見ると、二つの花びら。片方は紅く、片方は白い。
風に運ばれたのだろうか。それとも誰かのイタズラ? 拾うと煙のように消えてしまう。
その際に、眠ってしまいそうなほどの甘い匂いがした、気がした。

引き続き、書架の整理をする。人の気配はない、巨大な図書館。
赤いカーテンは締め切られ薄暗く、蝋燭の影がゆらりと揺れる。
私以外に、物音を出すことはない。
ただ本を直す音だけが、赤いカーペットに吸い込まれていく。
ああこれは。日ノ本の昔話を集めた本だ。見つけて手に取り、作業が止まる。
ページをめくる。侍と修羅。互いに睨みあう様子が、文字で表されている。
二人の背後で、鬼が笑っている。楽しそうに、もしくは嬉しそうに。
その次のページには、三人で酒盛りをしている様子が書かれていた。
次は金太郎と浦島太郎が鍛錬をしていて、そして雪女が今日も誰かを探している。
その後は……何も書かれていない白いページ。その次もやはりその次も、白紙が続く。
気がつけばその本から全ての色は消え、ただの白いだけの本になっていた。
背表紙の番号だけが残っている。少し経てば、戻ってくるだろう。
閉じて、元に戻す。掃除を続けなければ。箒を手に取り、立ち上がった。

もう書架整理は良いだろう。
巨大な書架は一人で掃除しきることはできず、そしてその必要もない。
ほら向こうから、二匹の妖精さんが飛んできた。いつもはあの子達が、書架を整理している。
会釈を交わし、私の役割を続ける。掃除は、まだ終わりそうにない。
書架と書架の間に、座ることのできる机と椅子が用意されている。
ここで本を読めるように、もしくはひと休憩できるように。
その上には、赤と金のリンゴが置かれていた。誰が置いたのだろうか。
きっと小人さんの仕業なのだろう。七人が赤のリンゴを、一人が金のリンゴを。
それらは手に触れることなく、煙のように消えてしまう。
少し後ろでは、カタン、カタン、と本を直しているのであろう、軽快な音が聞こえている。

巨大な書架を過ぎると、今度は大きな本が並べられている背の低い書架が見えてくる。
私の肩より下にあり、取り出しやすい。その中の一冊の画集が、目に留まった。
面出しにされているその画集の表紙で二人の男女が互いに弓を引き絞り、
互いに向き合っている。
森の中、ウサギが跳ねて、二人の少女が追いかける。片方は青く、片方は黒く。
手に触れず、膝を折ってよく見てみる。

背後でひときわ大きな本の倒れる音がして、少し驚きそちらを見る。

どうやらさっきの妖精さんが本を落としてしまったようだ。
少し首をかしげ、その画集を見直す。
二人の少女の姿はすでになく、二人の男女は私に背を向けて、手を繋ぐ。
立ち上がる。この先には赤いカーテンが揺れる扉があり、扉の先はテラスになっている。
カーテンから光が漏れる。天気は良さそうだった。

扉は開けると、それはまるで幻の如く、赤い少女が座っていた。
その少女は私に気づき、にこり、と微笑む。こちらも微笑み、扉をくぐる。
向こうで金の髪をした緑色の少女が手を振っていた。
何かを言っているようではあるが、その声は私に聞こえない。
赤い少女は立ち上がり、金の髪の少女を見る。
そして私のほうへと見返して、ぺこり、と頭を下げた。
ひらひらと右手を振ると、赤い少女は金の髪の少女のほうへと駆け出し、
それはまるでマッチの火が消えるかのように、かすかな燐の香りを残して消えていった。

テラスへの扉は開かない。さっきのものは、きっと幻なのだろう。
背を向け、箒の柄を握る。

音楽が聞こえる。笛の音か、それとも道化の踊りか。どこで誰が吹いているのだろうか。
館内は静寂を保たねばならないはず。左は小さな本が並べられた背の高い書架。
右は下に降りることができる、小さな階段。そうやら、この奥から聞こえてくるようだった。
赤いカーペットは、足音を消してくれる。
だからだろうか? 階段を降りきるぐらいで、その笛の音は聞こえなくなった。
その代わりに大勢の人の声。これは館内ではない。カーテンを少し開けて、窓の外を見る。
二隻の船が、片方は海賊で、その片方は幽霊船で、互いに争っている……大きな絵が見える。
窓の向こうは薄暗い廊下が続く。
途中に絵は色々と飾られてはいるが、その絵は特に巨大である。
それぞれの船の上に、月がある。互いに満月であり、そして互いにそれぞれの船を照らす。
海は荒れている。二人の人魚が、それぞれの船の上で歌っている。
カーテンを閉める。掃除の続きをしなければ。次は閲覧席を見て回ろう。

閲覧席。いくつもの机と椅子が並んでおり、しかしやはり人の姿を見ることはできない。
並んでいる机の下の床が、金の混じる砂で汚れている。これは箒で掃ききれるものではない。
さてどうしようか。悩んでいると、風が吹いた。
不思議とその風は吹き飛ばすものではなく、吸い込むかのようだった。
そちらには何もない。けれども砂はその風に吸い込まれ、気がつけば綺麗に消えていた。
風もやんだ。恐らく、砂の吸い込まれたほうを見る。糸の切れた人形が、横たわっていた。
両脇には二つの瓢箪。金まじりの砂は、これが吸い込んだのだろうか。
拾い上げようと膝を折ると、人形が顔を上げ、ガラス球で私を見る。
その状態でしばらく見つめ合っていると、人形は瓢箪もろとも、煙のように姿を消した。

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「お疲れさまです」

しゃがみこむ私の背で、マメールさんの声がした。振り返り、立ち上がる。
差し出している手は、またいつものように箒を手渡してくれということなのだろう。
いつものことだった。

「相変わらず、色々なことがありますね、この図書館は」

だから箒を手渡す。やはり煙のように、それも消えてしまった。

「ええ」

ただそれだけを言って微笑み、マメールさんは私に背を向けた。
時計の音が鳴る。魔法が解けて―――……。

捨てられた本 -wlw-

古びた本が落ちていた。
その本はなんとか本としての機能は失われていないが、しかしページははずれ、文字は掠れ、
表紙は色あせ、そしてそこに書かれた登場人物たちは、総じて何かを失っていた。

破れたページに書かれたことは、もしくは文字や絵が掠れてしまったならば、
そのページの登場人物が思い出すことはない。
失われた記憶の如く、もしくはその記憶はそもそも存在しないが如く、
登場人物たちは振る舞い、そして疑問に思う。
不自然に途切れる記憶と、思い出される途切れた風景は、
はたして思い出すべき大切なものだったのだろうか、と。

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その本のもともとの持ち主は、きっともう忘れてしまったのだろう。
路傍に放棄されたそれは風に吹かれ雨に打たれ、いくつものページの文字はかすれ、
何枚ものページが剥奪していた。拾い上げる人は誰もいないのだろう。
僕だって、一度はその本を見過ごした。
触れたくないと思えるぐらいには汚らしく、
ある程度の大きさがあるから邪魔になってしまうように思えて、
だからその時は気に留めるぐらいで見過ごした。
でも、なぜか気になった。本は好きだったし、特に神話や童話なんかは、好んで読んでいた。
さっきの本も、汚れた表紙にはそれらしいことが書かれていた、ように思える。
だから足を止め、振り返り、その本が落ちている場所まで戻ってみようと思った。

その本はまだそこにあった。
風にまかれて開かれているページは、きっと絵が描かれていたのだろうけれど、
残念ながら泥にまみれ雨で滲み、もうまともに見ることはできなくなっていた。
拾い上げると、その拍子にいくつかのページが落ちてしまった。
そのページも拾い上げようとして……やめた。
もう文字が見えないぐらい、それらは汚れきってしまっていたから。
本を閉じる。
ハードカバーのように丈夫に作られていたであろうそれは、
しかし時間の流れには逆らうことができず、見るも無残な状態だった。

中を見る。
いくつかのページは、いくつもの文字は滲んではいるが読むことはできる状態で、
だからなんとなく、その文字列を目で追ってみた。

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最後のマッチの火が消えてしまった。
手元に残っているマッチは、もう湿ってしまって使い物になりはしないだろう。
膝を立てて座り込み、顔を埋める。
小さな火ではあるが確かに暖かだったあの感触さえ、遠すぎる過去となってしまった。

どうしようか。なんて思ってももはやどうしようもない。
ならばさっさとこのページも、文字も、全て消え去って欲しい。涙さえも流れない。
動く気力さえもない。顔を上げたくもない。覚えていることは、もうほとんどない。
ただ、あの緑色のあの子は……緑色? 緑、とは何を意味するのだろう。
思い出そうとしても……ああ、あの笑顔だ。あの笑顔にどれぐらい励まされただろうか。
でもその声は思い出すことはできない。名前は……私の、名前は?
ほんの少しだけ顔を上げて、右手を見る。三本だけになった手のひら。
人差し指と親指と、半分だけの薬指。ああ、また何かを忘れた気がする。
私の名前はなんていうのだろう?
あの緑色の……あの笑顔の子の名前は、なんて言っただろう? 思い出すことができない。
また立てた膝に顔を埋める。もう、どうにでもなれ。
そうは思っていても、やはりあの楽しかった思い出だけは、忘れたくなくて……。

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ページをめくる。

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気がつけば森の中を走っていた。何のために? そんなことは、もう重要なことじゃない。
走っていれば、きっと■■■■■■に追いつくことができるはず。
■■■■■■はもうずっと遠くにいる。遠くにいるから、走らなければ追いつけない。
追いつきたいから走る。■■■■■■はあたしを待ってくれているはず。

待っている?

ああ、待っている。待ってくれているはず。あたしはそのために走っているのだから。
走らなくては追いつけない。追いつけないから走っている。
白い頭巾はいつの間にか、■■■■■■と同じように赤くなってしまった。
でもその赤さは■■■■■■と比べて……。比べる意味なんかあるのだろうか?
そもそもこんなにも一生懸命、森の中を走っても、
■■■■■■はもうあたしのことなんか忘れてしまっているんじゃないのだろうか?

……■■■■■■とは誰だ?

でも足は止まらない。
森の中の小道は、もう誰も通っていないから草で覆いつくされ、
だから迫り出した木の根に気づくことができず、足をとられ、盛大に転んでしまう。
木の葉と名も知らぬ雑草と、これは……もはや名さえ忘れてしまった花と、
全てを巻き込んで巻き込んで、ようやく止まった先はただ真っ黒いだけの空間だった。
そこに地面があるはずではあるが、感触はない。
でも確かに、その場にあたしは転がっている。
経験したことのないような不思議な感触だけれど、
今は■■■■■■に追いつかなければ……だから、跳ねるように起き上がり……、
目の前に広がる、ただ黒いだけの空間に少しだけ恐怖した。
この先に、■■■■■■はいるのだろうか? 本当にいるのだろうか?

「ちくしょう……」

黒いだけの空間に、声は一人分。ゆるさねぇ。アイツだけは。

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ページをめくる。

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「リンゴは、いる?」

もう動けなくなって、揺れる椅子に座っているその子に尋ねる。
半分だけ見開かれた、金色に光る瞳が私を見て、しかしそれ以上は何も言わず、
何も動かない。生きているのだろうか?
でも、確かにその金の瞳は動いて、私を見ている。だから生きているはず。死ぬはずがない。
死んでほしくなんかない。死なないでほしい。

「そう」

それはもはや、独り言のようなものだった。
きっと私は、他の子に比べるととても幸運なのだろう。
なぜならば、少なくとも、私の目の前でただ私をじっと見据えているこの子を覚えている。
覚えているだけで、きっと、これ以上はなく幸運なのだろう。
この子は私のことを覚えているのだろうか? そうであることを願う。
ただ動けなくなっているだけなのだと、自分に言い聞かせる。
でもそうじゃなかったら?
ただその瞳は私を見るだけで、見るだけで、本当に、見るだけだったとするならば?
左右に頭を振る。そんなことは考えなくて良い。
今になってこの子は私の名前を口にしてくれる。私もこの子のことは、全て覚えている。
ええ、全て覚えている。

「……水を、汲んでくるね」

水は大事だから、いつも確保している。

「……どこにも、いかないでね……」

不安で、そう口に出してしまう。
金の瞳は、やはり私をただ見ているだけで、その首はわずかさえも動くことはない。
しっかりしなければ。私は大丈夫なのだから。そう自分に言い聞かせて……。

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もうページはめくらない。
いくつもの文字がかけたその本は、やはりまともに内容を読むことはできなくなっていた。
だから……その場に捨ててしまうことにした。やがて、誰かが拾うだろうか?
それともこのまま朽ちてしまうのだろうか。

……忘れることにしよう。今日の夕飯のことも考えなければならないのだから。

嗅ぎ慣れぬ青い香り -戦艦少女R-

良い匂いが鼻腔をくすぐった。足を止めて、その匂いの元を探るように空気を吸い込む。
詳しい場所はわからない。この近くになにかあったっけ? 顔を上げる。
この辺りは日本国籍の艦船が多く居住しているフロアであり、
恐らくはその艦船の誰かがこの匂いを作り出しているのだろう。
青臭く、しかしそれは雨の降った後で草刈をしているときのような嫌な匂いではなく、
なんとなく安心できるような、瑞々しくもどこか甘く、香ばしささえも含まれる複雑な……。

「酒が欲しくなるのぉ……」

……酒? この声は、知っている。日本艦船空母の加賀さんの声だ。
私が今の姿に改造されて、色々とあって中国国籍になり、
東洋の文化に慣れようとしていたときに話しかけられたことがある。
私はまだその環境に慣れていなかったことや、
逸仙と一緒にいたこともあって私はろくに話すことができず、
かわりに逸仙が間を取り持ってくれた。
加賀さんの隣にいた赤城さんは、しどろもどろな私を見て微笑んでいたっけ。
「また今度、お茶でもご馳走しますね」なんて言われて数日が経った。
そろそろ勇気を出して、二人に話しかけてもいい頃合だとは思っているが……。

「加賀さん……今は休憩中とは言え、もうしばらくすると演習が始まるのですよ?
我慢して下さい」

その赤城さんの声も聞こえた。場所は、すぐ近くらしい。
左手側に、私の国ではあまり見られない横滑りの戸があり、
しかしその中は曇り窓でよく見ることはできないようになっている。
和室、というものらしい。私はまだ入ったことはない。
その場所から、この青く香ばしい匂いが流れてきている気がする。

「赤城は相変わらずお堅いのぉ」

演習まではあと一時間ほど。
航空戦があると聞かされているが、まさかあの二人と一緒になるのだろうか?
まだ不安はある。特に加賀さんの攻撃は非常に苛烈だと聞かされている。
赤城さんのサポートが組み合わさると手がつけられない、とも。
だからその時はそのまま通り過ぎようとした。
どうせ、後でまた顔を合わせることになるのだから今は別に……。

「重慶?」

聞き慣れている声に振り返る。
水衣のような薄く青い衣装に黒い髪が良く映える、
私の先輩である逸仙が私のすぐ後ろに立っていた。

「逸仙! ……ビックリしました」

自分でも思った以上に大きな声を出してしまった、と思っている。

「……重慶さん?」

部屋の中からの、赤城さんの声。

「なんじゃ? 近くにおわしたのか?」

次いで、加賀さんの声も聞こえた。

「おわす、はこの場面だと少し畏まりすぎているかもしれませんね。それはそうと……」

いくつかの物音。どちらかが立ち上がったのだろう、足音も聞こえる。
内心は、見つかってしまった、と少ししり込みしてしまった。
助けを求めるように逸仙を見る。いつものように微笑み、私を見返していた。
扉が横滑りに開かれる。着物、というのだという。
黒を貴重にところどころの赤色のラインがその美しさを際ただすかのような、
絢爛な衣装に身を包んだ赤城さんがその開いた扉の向こうにいた。
奥では青い袴に白い花が浮かび上がり、紺色の衣を羽織っている加賀さんが座ったまま、
私のほうを見ている。

「いらっしゃい! 重慶さん!」

その笑みは、困惑して表情を硬くしてしまった私の気持ちを溶かすには十分なぐらい、
感じの良いものだった。

「よくきたのぉ! いれいれ! ちょうどお茶を淹れたのじゃ!」

私を誘うように、手のひらで招いている。
もういちど、逸仙のほうを見る。やはり微笑んだまま、私を見ているだけだった。

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ちょうど良かった。
重慶さんはごく最近になって近代化改修を終えたばかりであり、
なんやかんやあって国籍も変わり、名前もオーロラから重慶へと変化し、
そして東洋の文化を勉強中だという。
いつか私たち、日本の文化も紹介したいなと思っていた。今日は側に加賀さんもいる。
お茶も淹れたばかり。そして重慶さんと仲の良い逸仙さんもそこにいる。
なにもかもがちょうど良かった。

重慶さんは、やはり畳の部屋に慣れていないのか膝を横に折り、ぺたんと座っている。
逸仙さんは、日本文化の教養もあるからきちっと正座をして、
重慶さんはそれを見てあわてて姿勢を正し始めた。

「大事ないぞ、重慶」

……これは、伝わるだろうか?
しばらく様子を見ていると、やはり伝わってはいないらしく重慶さんは首をかしげ、
逸仙さんのほうを見ていた。逸仙は……口に手を添えて笑っている。青い衣装が、眩しい。

「大丈夫、って意味ですよ。楽にしてください」

そう重慶さんに伝える。お茶も良い塩梅だろうか。
結局、重慶さんは正座をしている逸仙さんを見習い、膝を折って座るようだった。
後で立てなくならなければ良いが。そう思いながら、急須を見る。そろそろだろうか。

「あの……加賀、さん? ひとつ、聞きたいことがありまして……」

重慶さんが恐る恐る声をかけていた。

「おお、なんじゃ重慶。わしでよければ何でも答えるぞ?」

加賀さんも、結局一人だけ姿勢を崩して足を放り投げながら、重慶さんへと身体を近づける。
重慶はまっすぐ加賀さんを見て、私は四人分のお茶を淹れ始める。
話し終わるぐらいに、ちょうど飲み頃となるように。逸仙さんは、二人を見守っている。

「あの……」

話しにくそうにうつむき、少しだけ口ごもり、けれどもやはり勇気を出して加賀さんを見た。
いつも自信満々の加賀さんもそれに応えるように、まっすぐ重慶さんを見据えている。

「……今度の演習で私の新しい偽装が披露されると思うのです。
だから、演習が終わったぐらいにその感想を頂きたくて……」

真面目な子なんだな、なんて思いながら緑色の茶の入った陶器を逸仙の目の前に置く。
後は加賀さんだけか。
加賀さんはお茶よりもお酒のほうが欲しいだろうが、それは演習が終わってからにしよう。
さすがに酔っ払ったまま演習に出ることは、良いことではない。

「なんじゃ、そんなことか」

加賀さんは、どこか嬉しそうだった。

「ああ、かしこまったぞ重慶。その新しい偽装とやらも楽しみにするからの」

胸を張り応えている。
今回の演習での攻撃は加賀さんに任せるつもりだから、
なるほど偽装の効果を知るためには加賀さんのほうが適任だろう。私はその補助役だ。
加賀さんの攻撃機を通すために、制空に力を注ぐ予定である。
逸仙さんは落ち着いた動きで、目の前に置かれた茶器へと手を伸ばしていた。

「……緑色……なんですね」

重慶さんも手を伸ばしかけたが、その色を見て手を止めたようだった。

「緑茶、ですよ。紅茶とまた違う味で、美味しいですよ?」

そうですか、と逸仙さんの言葉に返したが……どこか様子がおかしい。
伸ばした手も引っ込めてしまって、身体を少し折り曲げた。苦しそうに唸ってさえもいる。

「どうかしましたか? 重慶」

逸仙さんが尋ねる。私と加賀さんは、なんとなく察してしまって顔を背ける。
なるべく顔には出さないつもりではあったが少しだけ口元を歪ませてしまった。

「……足……が……」

痺れてしまったのだろう。

「最初は誰でもそうなります。良い経験ですね、重慶」

逸仙さんは慣れた様子でお茶を嗜み、しかしついに重慶さんは助けを求めるように、
涙まじりの眼で私を見ていた。

目が覚める白い花 -wlw-

 物心がついたときには、もう一人ぼっちだった。
 広いはずの城内。灯りはない。真っ暗闇で、何も見えない。
 何も見えない。右手を伸ばす。右に振ると虚空が通り過ぎる。
 左に振ると……なにかに触れた。

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“朝だぞ。起きなさい”

 ああ、朝なのね。おはよう、兄さん。
 
 実際にその声が聞こえたわけではない。でもなんとなく、そう言われたような気がした。暗い朝。何も視えない。私を私と認識してから、一度も光を見たことがない。盲目なのだからしょうがないとは思いつつ、大きくあくびをする。ふぁ、と暖かくなり始めた空気を思いっきり吸い込む。名も色さえも知らぬ花の香がした、気がした。

「……兄さん。どこにいるの?」

 そういえば珍しく、兄さんが近くにいない。兄さんとは誰か。兄さんは兄さん。どのような姿なのか見ることはできないけれど、素敵な兄さん。骸骨を人に見立て、私を闇の霧から守ってくれる大好きな兄さん。それが、どこにもいない。柔らかな白い寝台の上に私一人。朝、なのだから明るいはずだけれど、盲目だから暗闇の中、一人きり。さっき語りかけてくれたのに。

“心配しなくて良い。一人で支度はできるね?”

 優しげな兄さんの言葉。私にとって、私以外の唯一の存在。

「ええ、できるわ、兄さん」

 恐る恐る立ち上がる。暗闇の中、もぞもぞと布をかき分け、端まで這い寄り、ゆっくりと足を伸ばす。もしこの先に床がなければ私はどこまで落ちていくのだろうか。この暗闇の底にはなにがあるのだろうか。兄さんと落ちることができるのならば、なにも怖くはない。
 その願いは虚しく伸ばした足の先には冷たく硬い床があり、確かな感触を感じさせてくれる。右頬に触れる暖かな、なにか。もう春なのだと、寝ぼけた頭で考えていた。

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 柔らかな白い寝間着からいつもの服へ。この服は兄さんが持っていた。不思議と成長した私にぴったりで、けれども着心地は決して良くはない。何かに縛られている感触。私は何も縛られるものはないというのに。

“準備はできたかい?”

 兄さんの言葉。

「ええ、できたわ。それで今日は何をするの? 兄さん」

 返事をして、立ちぼうけ。窓が開いているのだろうか、暖かくなり始めたばかりの、でもまだまだ冷たい風が頬を撫でる。なんの音もない。誰の声もしない。私は一人ぼっちなのだから。

「……兄さん?」

 声が聞こえない。何も聞こえない。兄さん、どこで何をしているの?

「……兄、さ……」

 その声をかき消すように、ガラスの割れる音がした。どうやら、下の階のようだった。

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「………か……、えの…………に、ちが………」

 男の声。粗雑で、兄さんとは全く違う、現実の声。また、誰かがこの城に侵入したのだろう。私と兄さんだけの、この茨のお城に。足音は複数人分。詳しく何人かなのか、遠すぎてまだわからない。兄さんはどこにいるのだろう。この部屋までやってくるのだろうか。

「……闇の気配……」

 夢の闇は霧となり人に取り付き、人は闇に堕ちる。闇に堕ちた人は凶暴になり、人を襲い、闇へと連れ込む。茨の国はその闇といつも戦ってきた、と聞いている。そして私も、もう何回か闇と戦ったことがある。でもそれは夢でのお話。こうやって霧にとりつかれた人と戦うことはできない。兄さんが守ってくれるはず、だった。

「兄さん、どこにいるの?」

 虚空に語りかける。返事はない。どうやら近くにはいないようだった。だとするならば隠れなければ。いくら夢の中で闇と戦うことができても、それは夢ならばのお話。こうやって実際に襲われたならば、きっとひとたまりもない。

「……兄さん……信じているわ」

 なぜ兄さんは私の近くにいないのか。兄さんはいつも私を守ってくれる。闇の霧や人は兄さんがいつも打ち払ってくれる。だから今回も、きっと。隠れる場所はいくらでもある。例えば寝台の下。もしくは洋服入れの中。カーテンの裏でも良い。でもそのどれも見つかる気がした。きっと闇は、今でさえも私を見ているのだろうから。
 足音が二人分。扉の前で立ち止まる。けっきょく隠れることはやめて、寝台の上に座り込み、兄さんを待つことにした。きっと来てくれる。そう信じている。足音は大きくなる。この階まで上がってきたようだった。何かを話している。会話をしている? 私を、探して?

「……兄さん……」

 鼓動が早くなる。もしもこのまま兄さんが来てくれなければ、私はどうなってしまうだろうか。闇の霧に侵された人と真っ向から立ち向かうだけのチカラは、私にはない。せめて夢の中ならば。闇に負けはしないのに。

「…………もう、そばまで……」

 足音がやってくる。他の部屋の扉が開かれた音はしない。まっすぐ、きっと三人分の足音が、迷いさえもなく。やはり闇はいつもどこからか私を見ているのだろう。逃げ切れるものではないのだ。ああ、兄さん。早く。

 扉が音を立てて、勢いよく開かれた。

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 白い波が押し寄せる。幾重にも複雑に絡み合い、陽光さえも通さぬように、棘だらけの巨体が、化け物の如く暴れ蠢く。石壁を削り、扉を傷つけ、轟音を立てて、二人の男を軽く押し流す。

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「兄さん!」

 その声に返事はない。けれども確かに、これは兄さんの匂いに違いない。キラキラしていて、とても素敵な匂い。轟音はすぐ目の前を通り過ぎていった。これで安心できる。ひとまずこの場は兄さんに任せても大丈夫だろう。ならば私は私でしなければならないことがある。闇の霧は、夢の中でも退治できるのだから。

「兄さん! そのまま! 花を咲かせるわ!」

 そのためにはまず眠らさなければ。場所は兄さんが教えてくれる。私はその場所に意識を集中させるだけだった。

「そのまま暗闇で、落ち着いているといい!」

 兄さんは三人の男を、この先にある行き止まりの壁に押し付けているようだった。ならばその場に大きな花を咲かせる。これは百年の眠り。夢に誘う大輪。兄さんは確かに役割を果たしてくれた。次は私の番だ。夢の中ならば、もう負けることはない。

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 廊下に咲いた白い花。花弁の一枚だけで男よりも大きく、“おしべ”の一本だけで男の腕ほどはある。その巨体ですっぽりと廊下を包み込んでいた。薄汚れた赤絨毯に、雪のような花粉が舞い散る。
茨により石壁に押し込まれ、拘束されている男たちは暴れ、それぞれ手に持っている剣や斧で茨を叩き切る。人の胴体ほどはある白い茨ではあるが、闇の霧に意識を支配された尋常ならぬ男の膂力は、軽く切り裂いた。

 しかし、拘束を外したとしても逃げるには間に合わない。行き止まりであること。逃げ道を封じるように花が咲いたこと。そして何より、その花が思った以上に早く弾けたこと。そしてその花粉から漏れる眠りは、何者でさえも抗うことはできない。
 かくして二人の男は瓦礫の上に突っ伏し、眠ってしまう。白い茨は動きを緩め、眠った男たちの手から離れた剣や斧を取り上げ、使い物にならないように柄をへし折ってしまった。

白と黒の名 -wlw-


 狭く小さな七つのベッド。低く近しい木の天井。パチと燃える暖炉には火が灯り、また一度、パチ、と弾けた。
 
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 ここがどこなのか、わからなかった。目が覚めて最初に飛び込んできたのは白い少女、シュネーヴィッツェンの、どこか心配そうに私を見つめる傷だらけの顔。左頬につけたはずの真一文字の傷は、もう治りかけていて……。慌てて飛び起きる。そうだ、私は負けたのだ。この、ただの人間であるはずの者に。これが精霊の力か。これが黄金の林檎か。

「確かに……存在してはならぬ運命です」

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 私を殺しに来たという黒色の少女、シグルドリーヴァと名乗っていた。負けることはできなかった。勝てるとは思わなかった。ただ運が良かっただけなのかもしれない。精霊たちが力を貸してくれた。林檎が勇気を与えてくれた。生きるチカラが、私には備わっていた。
 
 シグルドリーヴァが飛び起きて最初の言葉は、それは辛辣なものだった。戦っているときにも、何度も聞かされた言葉。存在してはならない、それはどのような意味なのだろうか。少し考えて、けれども答えは出せそうにもなく、じゃあどのように言い返そうかと考えて。

「でも私は勝ったよ」

 返した言葉は、そんな自分でも勝ち気すぎると感じるものだった。

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 それもそうだ、と何故か納得してしまう。それはあまりにも自信に溢れた顔をしていたからか。それともその言葉が、あまりにも当たり前過ぎたからか。そう、私は負けたのだ。貴方に。

「そうですね。私は、負けた」

 神々からの命さえ果たすことができないまま。決して、人間風情と侮っていたわけではない。林檎の魔力は知らされていた。シュネーヴィッツェンの実力もわかっていた。だから私も全力で挑んだ。負けるつもりはなかった。負けることは許されなかった。
けれどもそれは、相手も同じことだった。

「……どうすれば良いのでしょう」

 考えてもわからない。このままおめおめと天界へと逃げ帰り、神々に報告でもするのだろうか。それともこのままシュネーヴィッツェンの隙を伺い続け、殺すことのできる刹那を待ち続けるべきなのだろうか。わからない。だから、決してそれを尋ねる事のできる間柄ではないと理解はしているが、尋ねることしかできなかった。

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「そんなこと聞かれても、わからないよ」

 それが間違いなく本音だった。けれどもシグルも困っているのだろう。噂には聞いていた神々の戦士。子供の頃によく読んでいたあの冒険譚にも出ていたっけ。戦乙女の話は。まさか本当に存在するとは思わなかった。よもや、私を殺しに来るとは思わなかった。あの魔女は何も言っていない。知っていたのだろうか。そんな者が私の殺しにきて、けれども殺すことができなくて……だから、困っているはず。

「でも、シグルも困っているのでしょ?」

 困っている人は助けなければならない。そうだよね。

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 まさかの言葉に耳を疑い、けれども相変わらずのその自信に溢れ、けれども優しげな表情にその言葉の真意を朧気に理解し、けれども混乱してしまう。そもそもシグルとは……私のことなのだろうか。私の名前はシグルドリーヴァ。神々から与えられた、勝利をもたらす者という意味がある、ほまれ高い名前。もちろん、シグル、なんて呼ばれたことは初めてでどのように反応すれば良いかわからず、呆気にとられてシュネーヴィッツェンの顔を見つめ続ける。

「シグル、とは」

 自分でも何を尋ねているのかわかりやしない。私のことを読んだのだ、名前を。

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「もちろん、貴女の名前だよ。シグルドリーヴァ。長いから、シグル」

 意味は知らない。戦乙女は神々から名前を賜るらしい。だからきっとその名前にも崇高な意味が備わっているのだろう。でも、ほら、長いんだもの。シグル、とよんだほうが呼びやすい。

「良いでしょう? シグル」

 少なくとも、私は気に入ってしまった。シグル。

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 シグル。そう、シュネーヴィッツェンは口にする。短縮された私の名前。意味するものは勝利。今の私の状況と正反対の言葉ではないか。

「……ふっ……ふふ……」

 笑っている場合ではないのかもしれない。

「あっ、ははっ!」

 そもそも、こうして笑ったことはない。でも何故かおかしくて、不思議と安心できて……。これもシュネーヴィッツェンの、人としてのチカラなのだろうか。生まれてはじめて、笑った。

「良いですね、シグル。シグル。意味は勝利、なんですよ。シュネー」

 私の今の状況とは真逆ですね。なんて冗談を言ったのも、これが初めてだった。

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また来る夏 -BLUE REFLECTION TIE-

 何かを忘れている気がする。いつもそんな想いを抱きながら、いつものように学校へと歩く。家に何か忘れ物でもあるのだろうか? そんなはずはない。いつも何かを忘れている気がしているから、いつも忘れ物がないように十分に注意しているし、そのおかげで何か持っていくのを忘れたことはない。でも、確かに何かを忘れている気がする。何か……とても大事で、忘れたくないことだったような気がするけれど……思い出すことはできない。思い出せない。
 空を見上げる。あの時から季節は巡り、少し長めの休日が続いた。その初日の登校日。少しだけ憂鬱で、でも少しだけ楽しみな、そんな少し複雑な気分。学校の勉強は……うん、嫌いじゃない。好きかもしれない。いつも伶那が丁寧に優しく教えてくれるし、何よりこうして普通に学校に通うことができるのが、なぜか少しだけ嬉しい。去年もいつものように通ってたじゃんか。そう思いながら、空を見上げたまま足を進める。薄い雲が空を覆い、昼は暑くなりそうな気配がした。

 伶那とは同棲している。いつからだっただろうか。大学に入らずAASAの研究者となり、もう二年目。まだまだ見習いだって言ってたけれど、あたしなんかと違って伶那が優秀なのは、誰よりもあたしがよく知っているから、いつかはリーダーになるのだろう。でも、伶那とはいつから同棲しているのだろう。思い出せない。でもいつからだなんてどうでも良いぐらい幸せだから、きっと時期や時間だなんて些細な問題なのだろう。あたしもAASAに入るのかな。それとも伶那とは別の道に行くんだろうか。そろそろ進路のことを気にし始める頃合いで、伶那からもたまに言われる。「そろそろ自分が何をしたいか決めたら?」って。そのたびに「うん、わかってる」だなんて誤魔化してしまう。たぶん先送りにしたいんだと思う。考えたくないわけじゃない。でも、この何かを忘れている感覚がとても気持ち悪いから、ついつい後回しにしちゃっているのだと思う。

「おっはろー!」

 元気の良い友達の声が、後ろから聞こえた。

「おー! っはよ! 久しぶりだね!」

 振り返る。あたしより少し背が高く、あたしより少しお馬鹿な、学校の友達。軽い足取りであたしの足先の前まで躍り出る。身軽な人で、話していて楽しい、大事な友だち。

「ゆーきってさ、休みの日はなにしてた?」

 予想通りの質問。聞かれるだろうなって思ってた。

「なーんも。ずーっと家の中にいたよ」

 嘘は言ってない。家の中にいたのは事実なのだから。

「何もしてなかったの? ゆーきが?」

 言えないの。伶那といろんなことをしてたんだから。勉強とか、遊びとか、その他もいろいろ。

「そ! なーんにも“できなかった”んだ」

 伶那の趣味である同人誌の制作を手伝ったり、その邪魔をして怒られたり、逆にからかわれて怒ったり、その後で笑い合って……たまに二人だけで外にでかけて、伶那の少し伸びた栗色の髪を指で弄り、頬に触れて……そんなの言えるわけがないっしょ。

「ゆーきがねぇ……もっといろんなことをしてるかと思った」

 したよ。色んなこと。言えないことも。口には出さず、たぶん表情にも出さず。

「そっちは? なにかした?」

 そんな他愛もない会話が続く。普通の学生として。灰もない。病気もない。ただの学生としての日々が流れる。

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 鐘がなる。学校が終わる。友達は部活に通っている。あたしは訳あって、帰宅部。伶那は……今日は少し遅くなるってメッセージが残っていた。勇希の夕食、楽しみにしているよ、とも。しょうがない、伶那はいつも頑張っているから、今日も何かを作ってあげよう。食事当番は決まってあたし。でも嫌じゃない。伶那はいつも綺麗に部屋を掃除してくれている。勉強も教えてくれる。もちろん、とても大事な人。友達というか、恋人というか。恋人なんて言葉で片付けることができるのかな、あの関係は。ともかく、伶那はそんな人。

 やっぱり、誰かを忘れている気がする。

 伶那とも話したことがある。「誰か忘れてない?」って。そのたびに伶那は「そんな気はするんだけどね」と言葉を濁した。思い出せないらしい。思い出したい記憶なのは間違いないとも言っていた。思い出さなければならない人とも言ってた。でも思い出せない。思い出すことができない。

 帰り道、西日が眩しい。

 学校に通うことは夢だった気がする。そんな訳はない。こうして病気もなく元気なのだから、学生は学校に通ってなんぼなのだから。でもなぜだろう、学生の本分であるはずの通学が、まるで奇跡のように思えてしまう。

 これから暑くなるのだろう。

 また夏が来る。大事な記憶はいつも夏だ。楽しくも、忙しくも、大変だった日々は、いつも夏の記憶な気がする。きっとあたしたちにとって夏という季節は、特別なのだろう。ウルサイだけの蝉の鳴き声も、照りつける太陽の光も、そして叩きつけるような強い雨も、白い雲、青い空、たまに花火と、かき氷も。

 これは、知らない思い出だ。

 思い出せそうで、思い出せない。誰かの顔、声。最初はかき氷。改造しようって、提案した。最後、あたしは伶那と一緒であることを願った。だからこうして、伶那と一緒に過ごしている。

 そう、願った。

 学校を改造した。色んな人に会った。色んな話をした。逃げたこともあったっけ。迷惑をかけてしまったって、思ったこともあったっけ。あたしはみんなから、伶那の前から消えなければならないのに、でも勇気が出なくって……でもみんなは、そんなあたしを迎い入れてくれて。

 学校を改造した思い出。

 また、夏が来る。たぶん、次は平穏な夏休みになるのだろう。あの時と違って。普通の学生のように、普通に過ごすのだろう。灰は降っていないのだから。あたしは病気を患ってはいないのだから。

 でも会いたい。

 強く願った。また会えますようにって。伶那とはもちろん。そして顔も声も忘れてしまった、大事な人とも。もう少しで思い出せそうなのに。目の前には信号。足を止める。少し傾いた日は、僅かな朱色が混じっている。

会いたい。

「あお……」

 信号の色。じゃない。

「愛央!」

 振り返る。

二次創作集

二次創作集

こちらでは主に二次創作作品を置いています。また、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-20

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 魔法の図書館 -wlw-
  2. 捨てられた本 -wlw-
  3. 嗅ぎ慣れぬ青い香り -戦艦少女R-
  4. 目が覚める白い花 -wlw-
  5. 白と黒の名 -wlw-
  6. また来る夏 -BLUE REFLECTION TIE-