蛇草染

蛇草染

浦島草幻想小説です。PDF縦書きでお読みください。


 山形の実家から持ち帰った古文書の中に染色の本がいくつかあった。実家は両親が亡くなって、住む人がいなくなり、土地を含め不動産屋に売却の依頼をしているところである。四百年続く家で、建物は何回か修理が施されており、それでも最後の大修理から百五十年の年月は経た古いものである。
 祖先は染め物の職人で、この家を建てたのは何代目かで、沢山の職人を擁した貴族お抱えのような店だったようだ。半分自宅で半分作業場のような大きな建物である。
 父親の代から染色業をやめた。父親は県庁勤めをしており、彼の趣味のため作業場の部分をガレージのように改築していた。アンティーク車を数台保有していたためである。曾祖父が染めた着物がかなり残っていたが、父親が処分してしまった。かなりの金額になったのだろう。それで車を買ってしまったのである。曾祖父はそれなりに知られた染色家であったようで、染色に関わる道具や古文書がたくさんあったらしいが、それももうない。私が大学で色彩心理を研究する学徒となったのは祖父たちの色への興味が遺伝として染み込んでいたからかもしれない。
 実家は取り壊されるか、買い手が利用するかわからないが、そういったこともあり、家の中のものを処分してきたのである。天井裏に埃にまみれていた数冊の古い本は、ちらっとみた限りでは染色関係のもので、もって帰ってきた。
 和綴じの本である。かなり古いと思われるが、手書きで、色こそ薄れているが、染色について詳しく解説してある。使われている植物の絵や、抽出方法が細かく書かれており、その領域の者にはかなり貴重なものであろう。知人にも染色に関わる研究をしている者がいるので、みてもらうことになるだろう。
 ところが、八冊のうちの一冊はどうも趣が違う。なにやら物語のようなものが書いてある。
 その古文書の題名は「蛇草染外伝」とある。蛇草から染料をとる方法が書かれているのかと思ったが、それだけではなく、かなりの部分はその来歴か、出来事のようなもので占められている。紙の質などをみると、他の七冊とは異なり、ちょっと趣味的なもののようでもある。曾祖父あたりが書いたものなのだろう。分かりやすい筆跡で、私にも読める部分がかなりある。

「蛇草」
 蛇草は山の中、至るところにある。その根は毒をもち、花は奇妙にして、長い舌をたらし、新月になると、その舌を振り回して、寄ってくる虫どもを打ち潰すだけではなく、もし人が通れば、口の中に花の舌を突き刺し、人の舌に穴をあけ、その人間は話すことも食べることもままならなくなり、ひどき場合には死に至る。
 それにしても妙な説明書きである。その後に、紫色の蛇草の絵が描かれている。これは私も見たことがある。小学校の時、林の入り口付近に群生していて、先生に名前を聞いた。そのとき、浦島草という名前を教わった。先生は、ほら、浦島が傘を差して釣り糸を垂れているようだろう、ということを言った。今でもそのことはよく記憶している。昔は蛇草といったのだろうか。確かに花の柄のところがまだらで蛇に似ている。
 その項目の後は、蛇草の花による染色方法が書かれている。
 
[蛇草染]
 蛇草の花の部分をきりとり、舌をつけたまま、一晩冷水に浸し、次の日、花を浸したまま、水を火にかけ、弱火で沸騰の寸前まで煮る。決して煮立てないようにする、そのためには見張るべし。その後、綿の布をつかい漉す。その段階ではまだ、無色透明である。ここからが肝心である。色を出すために液を塩にしなければならず、塩のたぐいを入れる必要がある。塩はなにでもよいが、より赤紫の蛇草色にするには血をたらすのが効果的である。量により色付きが違うが、小指に針をさし、一滴、たらすとその働き大なり。染める布は絹がよろしかろう。薄い絹を一月ほど漬け、明礬にて発色するがよい、そのときはくすんだ青であるが、清き川の流れで三日ほど洗うことで、薄赤紫に染まる。その色、他のものにない美しきものである。その絹肌にまといしときは、暖かく、着衣した女子はほどなく妖艶な姿をみせるようになるであろう。

 かなり奇妙な染色液の作り方で、また、効果も本道のものとは思えない神秘性があり、一方で、ちょっといかがわしさを感じさせるものである。
 さらに、蛇草が染めに使われるようになった謂れ話が添えられていた。

[蛇草染秘話」
 夢狂(むきょう)と呼ばれる男があった。その男は妻が織る布を草木で色を付け、絵柄を描きこみ、それはきれいな衣を作っていた。ただ美しいというだけではなく、その衣をつけた男も女も、衣のもつ魔力にからめとられ、それは不思議な様相を呈すことになるという。夢狂が作った衣を病弱な娘が着たとたん、青白い肌が桃の色に染まり、薄い胸がふくよかな膨らみをもつようになったという。その衣には桃の花と実の見事な絵が描かれていた。ある大店の若旦那がどうしても女子(おなご)と交わることができず、嫁に子供を産ますことができなかったところ、夢狂のこしらえた絹の肌着を着けたところ、めきめきと精がつき、子供を授かったということである。その肌着には蛇が描かれていたという。何の蛇かは記載がない。
 夢狂は衣を一つ仕上げれば、それこそ半年は寝て暮らせるほどであったが、仕事を始めるのに時間がかかった、二年も三年も布を染めもせず、絵も描かずということもあった。そのようなときは妻が自分で織った布を売り歩き、何とか生活をなりたたせていたということである。
 ただ、衣を作っていないときには、染める材料を探して山に入っていたり、見つけた草を染料に仕立てる工夫をしていたりで、決して遊んでいたわけではない。妻は夢狂のそうした職人肌を一緒になる前から知っており、そこに惚れたこともあって、夢狂のやっていることには協力こそするが、あれこれとは口出しをせず、生活を支えていたのである。
 そんなある時、夢狂の家に立派な武士が訪ねてきた。そのとき、夢狂は山にはいり、染めるための草を探していた。夢狂の妻はいつ帰るかわからないと言ったのだが、その侍は次の日も、次の日も訪ねてきた。十日も経ったころだろうか、朝早くやっと夢狂が籠をしょって山から下りてきた。妻はその武士のことを話した。
 その日も武士はやってきた。武士はやっと夢狂に会えたことを喜び、その役目を話した。そのとき、このような話がかわされたのである。
 「夢狂どの、夢狂どのが染める布で作った着衣は着る者の病を直すということで評判でござる。それでご相談があり、日参いたした次第でござる」
 夢狂はちらっと武士を見た。端正な顔をした、どちらかというと色白で剣豪というより、書を好むような武士である。
 「私が乾(いぬい)家の家老職にある向(む)回(かい)偉観(いかん)と申すもので、代々乾家に奉公をしております。つい昨年のこと、父の宇(う)観(かん)が病死した後、私が家老職を継ぐことになりましてございます」
 ずいぶん若い家老である。しかし言葉の端々に知識人であることがしみ出ている。
 「恥を忍んで申し上げますが、乾の奥方様が病になられまして、殿がそれはご苦労されております、奥方様はおつむの病とのこと、夜中に知らぬ男が入ってくるとか、天井から手が伸びてくるとか、毎夜おかしなことをおっしゃって、屋敷の中をかけずり回るありさま、お付きの者が毎晩代わる代わる奥方様をみておりますが、皆疲れてきております。殿もご自分から奥方様を看病なさったりしておりますが、殿自身もご心労であらぬ方向にいきかねない状況、我々家臣の者は四方八方、よい方策がないか思案していたところ、夢狂殿のご偉業を聞き及んだということでござる」
 「それで、あっしになにを作れとおっしゃるんで」
 「気の病を治める布を作ってはくださらぬか」
 夢狂はとってきたばかりの草を土間の机の上に並べながら、その中から一つの草をつまみ上げると偉観に見せた。
 「これは蛇草というが、これから色をとってみようと考えている、もしやもすると、効くかもしれねえが、だめかもしれねえ」
 「いや、今は藁にもすがりたい気持ち、どのようなものでもかまわぬのでたのみます」
 「気の病は気の病で直すこともできるかもしれん」
 「それはどういうことでござるか」
 「狂気は気がばらばらに散ってしまったことから起こること、それを一つにまとめることができれば元に戻ることもある」
 「といいますと」
 「一つにまとめるのに、狂気より軽い気の病を患わせ、狂気によるからだへの禍をなくすのだ」
 「その禍というのは、奥方様の自害のことを申しておられるのか」
 「やはり、あぶないようだな」
 「お察しの通り、奥方様はご自分でお命をとろうとなさる、それで我々途方にくれておるところでござる」
 「さっきも言ったが、蛇草からどのようなものがとれるかまだわからん、ただわしの勘では、この草は何かをもっている」
 「どうぞよろしくお願い申す、それにかかるもの、夢狂殿の暮向きのものは十分にご用意いたす、よいものをお作りいただきたく、お願い申しあげる」
 「それじゃあ、手助けを一人都合つけてほしいが、できるかね」
 「それはもう、屋敷の者を一人通わせ申す」
 「いや、住み込んでもらわねばならない」
 「わかりもうした、して、力のある者がよいのであろうか」
 「いや、女だ、男に興味をいだかぬ、女がいい」
 「難しい注文でござるが、屋敷の者に相談し、探してまいる」
 ということで、夢狂は蛇草から染める液をとり出すことにとりかかったわけである。蛇草ならばちょっと行けばいくらでもある。とり出しかたは先に述べし方法であるが、それに至るのに半年かかった。幸いにも、乾家の奥方の病はひどくはならず、小康を保っていた。夢狂にはその病が急に悪くはならないとわかっていたようである。
 さて、染料ができたのはよいが、それをどのような布に染めたものがよいのか、また、着物にどのような柄がよいのか試してみなければならない。
 絹、木綿、麻で女房が布を織り、夢狂が蛇草の染料で染め、女房が着衣に仕立てた。薄紫色のそれ自体はとてもきれいな布になった。それだけでも価値があっただろう。
 それを、住み込みで手助けにきていた女に直接肌につけさせたのである。
 その女について書いておかねばならない。
 手助けの女は偉観が乾家の家来たちに相談したが、なかなか適した女子はおらず、馬の面倒をみている中間に町の世事に詳しいものがいるということで、その者に農民でも商人でもよいから、男に興味をもたぬ年頃の女子を探すように言った。
 中間は「興味をもたぬとおっしゃいますと、まっとうな女であるが、男になびかぬ、冷えた女という意味でございましょうや」と偉観に尋ねたが、偉観自身も夢狂の言葉をきちんと理解していたわけではなかった。
 「そうであろうと思う」
 「探してみますが、そのような女、往々にしてつっけんどん、気むずかしいお方の手助けなどできませぬが」
 「それは困る、気が利いて、何でもいうことを聞く女子でなくては、勤まるまい」
 「とすると、気だてがよく、頭が働き、だけれども、男には興味がなく、よい男がいても、全くその気にならない、たとえ、無理矢理その気にさせようとしても、からだが受け付けない、というものでございましょうな」
 「おそらくそのような女子であろう、年も若くなければならぬな」
 「それで、女子が見つかりましたら、奉公の手間賃はいかほどで」
 「うむ、わしにはわからぬが、商家での奉公の倍以上は出そうと思う、いや、場合によっては、もっと出してもよい、それはその女子による、会ってから決めようぞ、それに、探す費用は前金で渡しておく、旨く見つかれば、お前の給金も上げてつかわす」
 「わかりましたでございます」
 平左と呼ばれている馬引きは、町中に生まれた家があり、実家は織物の問屋を営んでいた。その家の末っ子で、親の力で中間に取り立ててもらったのである。賢い男でもあり、中間の中のまとめ役であった。
 平左は夕方になると町にでて、女を捜して歩いた。もちろん実家の両親、兄弟にも自分の役目を教え、助力を頼んだのである。
 八人の兄弟のうち五人が男で、二人はほかの町で同じ業を営んでいたが、長男と四男は実家を手伝っていた。いずれは長男が後を継ぎ、四男は暖簾分けをしてもらうのであろう。
 「兄さん方、そういった女を知らんかね」
 長男は生真面目で、嫁さんをもらっており、遊びを知らないが、独り身の四男は遊郭にもよく出入りをしているようである。
 長男は知らんなあという顔をしていたが、四男が遊郭であげた女から、自分の妹が、全く男に興味がなく、その世界に入れないどころか、嫁にもいけないという話を聞いたことがあった。
 「それはどんな女郎だい、兄さん」
 「顔はまあまあだが、とても気だてがよいのだよ、妹というのは会ったことがないがな」
 「会ってみたいな」
 「いいぜ、つれていってやる、おまえも少し遊ぶか」
 「いや、これは殿様からいいつかったことだから、遊ぶのはまたにしよう、兄さん手はずを整えてくれ、きっと、遊ぶ金をだしてもらえるかもしれねえ」
 「そりゃ、いい、会う日取りを連絡する」
 ということで、平左は屋敷に戻った。
 後日、兄から平左に連絡がきた。女郎の妹はその女郎屋の下働きをしていて、ほかの仕事を探しているところで、もし働き口を紹介してもらえるなら、とても嬉しいということであった。
 平左はそのことを、偉観に伝えると、早速会うということで、その女子を屋敷に呼び寄せた。
 紺の地味な着物を着た娘は、偉観を感嘆させた。話をする前から、適した人材だということがわかった。化粧っけのないその娘は、俯いたまま顔を上げようとしない。
 「わざわざ出向いてもらい、難儀をかけた、顔を上げてくだされ、名はなんというのか」
 女子は顔を上げた。
 「しず乃と申します」
 顔を上げたしず乃をみた偉観はその端正な顔に心打たれた。
 「染め物師の手伝いじゃが、大変気むずかしい男である、給金はよいが、手伝うことはできるか、」
 「染め物はしたことがございません」
 「なに、染め物そのものは手伝わしてもらえんだろう、下働きじゃ、言うことをきちんときくことができれば大丈夫じゃ」
 「今までも、姉のいる女郎屋の下働きをしておりました。粗相をしたことはございません、しかし、全く違う世界、務まるかどうか、すぐにお答えできません」
 偉観はその返答に痛く感心した。
 「大丈夫じゃ、もし、途中でだめなようであれば考えるからどうじゃ」
 「はい、ありがとうございます、できることであれば、精一杯お手伝いさせていただきます」
 「よし、明後日、夢狂のところに案内する」
 そのようなことで、偉観はしず乃を伴って、夢狂の家にいった。
 夢狂はしず乃をちらっと見た。しず乃は鷹の目に射られた子兎のように縮こまった。
 「年はいくつか」
 「十八にございます」
 偉観が本人に代わって身の上を話した。
 「しず乃は、いくつかの大店の若旦那に目染められたが、すべて断っておる、そうであろうな」
 「はい」
 「なぜ、そのようないい話を断ったのだ」
 夢狂はしず乃のからだをなめるように見る。
 「男の人の隣にまいりますと、寒気がいたします」
 夢狂はしず乃の前にいきなり進みでると髪に触った。しず乃は険しい目をして後ずさりした。
 「この女に決めた」
 夢狂は独り言のように言った。
 「それはよかった、では今日からでも、ここで手伝いをさせるが、よろしいでしょうか」
 「いや、明日までに、部屋を用意させるので、それより後だ」
 「わかり申した、明日お連れいたす、よろしくお願いいたします」
 こうして、しず乃が手伝い女として選ばれたのである。
 次の日から、男を怖がる女は夢狂のもとでよく働いた。しばらくすると、夢狂は自分の仕事もしず乃に手伝わせるようになった。しず乃は蝮草の染色の際には夢狂の指図通りに、間違えることなく事を運び、夢狂の仕事をはかどらせた。
 ところが、しず乃の本来の役割は他にあった。それは夢狂にとって、最も大事ものだったのである。
 蝮草で染めた薄紫色の薄絹が出来上がったときである。
 しず乃が夢狂の部屋に呼ばれた。妻さえもなかなか中に入れてもらえず、夢狂が自分でその部屋の手入れをしていた。
 しず乃が部屋にはいると、部屋は小さなもので、ほとんど茶室のような造りであった。ただ、かがんで入る潜り戸はない。床の間があり、蛇草が活けてあった。簡素ながらきれいに整えられている。
 夢狂は出来た着物のかかった衣桁(いこう)の前であぐらをかいていた。
 「しず乃、もっと近くに寄れ」
夢狂は立ち上がると、衣桁にかかる薄絹に手を当て振り向いた。
 「しず乃、帯を解け」
 しず乃は夢狂の言うことが、自分のもっとも嫌うことを要求されたのかと思い、涙を浮かべた。
 「勘違いするな、この布を身につけてみよ」
 しず乃はそれを聞いて安堵の表情を浮かべた。するすると着ていたものをはずしていく。白い肌、きれいに盛り上がった乳房、しっとりとした股間の茂み、それなのに、この女は男をきらっている。姉妹であっても姉とは全く違う、これはもって生れたものなのだろう。
 夢狂は蝮草で染めた衣をしず乃にわたした。しず乃は薄絹を身に纏った。薄紫色の絹の布から透かして見えるしず乃の姿は、なんとも美しく、この上もなく熟した女のものに見える。
 「しず乃、湯浴みをするとき以外は必ずその衣を肌につけておれ」
 「この上に私の着物を着てよろしいのでしょうか」
 「ああ、そうしてくれ」
 しず乃はその時から、蛇草の衣をいつも身に纏うことになった。
 夢狂はそれから染め物をせず、毎日酒を飲んで横になっていた。そして一月が過ぎたころ、しず乃の様子がかわってきた。頬を上気させ、黒目がちに夢狂をちらっとみた。腕や足先は青白いほどだったものが、赤く染まり、女の柔らかさが見えるようになった。 
 夢狂の連れが、買い物にでた時である。酒を飲んでいた夢狂の前にしず乃がたち、消え入るような声で「夢狂様、苦しゅうございます、私を女にしてくださいませ」と慣れない手つきで自分の胸をさすった。
 それを見た夢狂は「しあがったか」と一言、すぐさま、しず乃の着ているものをはぎ取り、蝮草の衣を脱がせ、自分の部屋にもって行ってしまった。一人残されたしず乃は初めて自分の指で自分の股間に触れた。
 その衣は乾家の家老、偉観にとどけられた。偉観はそれを殿に報告し、奥方様に着せたのである。そして一月、奥方様は偉観に懸想をしてしまった。それに伴い、気の病は出なくなった。
 偉観は奥方様からよびつけられ、夜毎夜伽をさせられた。殿には実に忠実な妻を演じ、そのことは殿には伝わらなかった。
 「狂ったものには狂った草じゃ、狂った気には狂った気をぶつけるのだ」
 夢狂のいうように、恋狂いは奥方から狂った気を押し出したのである。
 やがて、夢狂の指示で、蛇草で染めた衣を脱ぐと、奥方の恋狂いも収まっていき、万事うまくいったということである。

 このような古文書がある、と私は知り合いの染色研究家に見せた。古屋(ふるや)浅春(せんしゅん)という、やはり先祖は染め物をやっていたという男である。彼は化学が専門で、大学院をでてそのまま残り、准教授になっている。
 「面白い言い伝えだねえ、染色の方法に関しては今の科学の知識からも正しいところはあるよ、血を入れるというのは塩基性にするということだけではなく、秘儀になるからね、雰囲気作りさ」
 「それでは、浦島草で染色はできるのだね」
 「浦島草はちょっと山に行けばいくらでもあるよ、千葉の道路沿いの雑木林の中にいやというほどあったよ」
 「浦島草があれば、染色してくれるかい」
 「衣を染めて誰に着させようっていうんだい」
 「いや、そんなつもりはないのだが、どのようなものが出来上がるのか見てみたいと思ってね」
 「面白そうだからやってみるか、学生に頼んで、浦島草を集めてもらうよ、うちの学生で植物の成分を研究しているのがいるから」
 「楽しみにしているよ」
 こうして、一月がたち、染色ができたという連絡がきた。
 彼の研究室にいってみると、机の脇の本棚に、薄紫色の絹の衣がハンガーにかけて吊るしてあった。
 「これかい、きれいな色だなあ」
 「見事に染まったよ」
 彼が衣をハンガーからはずし、私に手渡してくれた。手の感触はなめらかで、見た目には冷たい感じを受けていたのだが、触った指先は暖かく、女性が脱いだばかりのような人肌の温度を感じた。
 「誰かに着てもらったのかい」
 彼は首を横に振った。
 「なぜ」
 「うーん、これができたとき、学生の誰かに着てもらおうかとも考えたのだけど、あの古文書が気になって、書かれているようなことが起きると面倒だからな」
 そこへ女子学生が入ってきた。
 「ああ、この子が浦島草染色を手伝いというより、ほとんどやってくれたた浜田君だ、こちらは早稲田大学の三品先生だ、色彩心理の教授」
 「はじめまして」
 彼女はかわいらしい口元をほころばせて、私に向かって軽くお辞儀をした。
 「お世話になりました」
 私もお辞儀を返したのだが、彼女が見ていたのは古屋だった。
 「何か用なのかい」
 「成分の分析ができました」
 「ほお、色の成分はなんだった」
 「わかりません、アントシアンに似ていますが、違うものです」
 「それは面白いね、君の修士の課題にしてもいいよ」
 「ありがとうございます、そうします」
 彼女はお辞儀をするとでていった。全く僕と目をあわすことはなかった。
 「熱心な学生でね、染色ばかりじゃなく、化学分析もしっかりやる子だよ」
 「君に気があるね」
 「心理学者はすぐそういう風にみる、あの子はそういう子じゃないよ、ボーイフレンドもいないみたいだしね」
 「まあいいや、いや、見せてもらってありがとう」
 「いや、こちらこそ、面白い経験だった。今の子が言ったように、新たな発見にも結びつきそうだ」
 「それじゃ、これで帰る、そのうち呑もうか」
 「この衣もっていっていいよ」
 「いや、ここで役に立ててよ、僕には用がなさそうだ」
 「着せる子もいないのか」
 「よせやい、もうこりごりだ」
 私はいうなればバツイチである。それも、逃げられてしまったという惨めな状態で別れた。結婚した相手は見た目とは全く違う性格だった。奔放であった。好きな相手ができて離れていってしまった。「慰謝料を払うから別れて」といわれたときは、惨めもいいところだ。心理学者は人の心が読めないと誰かに言われたが、本当かもしれない。
 「それじゃ、衣はこの研究室に飾っとくよ、これを持ってってよ」
 彼が出してきたのは浦島草で染めた絹のハンカチだった。
 「布が余ったので、いくつか作ったのだよ、さっきの彼女のアイデアでもある。あの子も一枚もっているよ」
 「きれいだね、もらっとく、記念に」

 自分の大学の研究室に戻り、あらためて蛇草、すなわち浦島草で染めた絹のハンカチを机の上に広げてみた。
 半透明の薄紫色のハンカチは見た目にもきれいだ。
 私は、ふっと、ハンカチの右下に、ほんの一ミリにも満たない赤黒っぽい染みを認めた。
 染色の際にできたものか、ハンカチに仕立てた後についたものか判別できないが、血が固まると、このような赤黒いものに変わることを思い出した。といって、血液の跡ではないだろう。そのような連想から、古屋に染色の際に血を入れたのかどうか聞くのを忘れたことを思い出した。
 彼に電話を入れた。
 「あの本が勧める通りにやったよ、血も入れた」
 「誰の血なんだ」
 「僕は、塩化ナトリウム、食塩だよな、それを使うつもりだったのだが、あの浜田っていう子が、先生、書いてある通りにしましょうよといって、自分の小指にピンを刺して、絞り出していたよ」
 「それじゃ血が入っているんだ」
 「だけど、あれだけの大きさのものを染めるのだから、血の効果はないだろう、塩も入れたよ」
 「いや、ハンカチの隅に小さいのだけど血の跡のようなものがあったから、ちょっと電話した」
 「そりゃすまん、きっと後でついたのだろう、引き出しに入れておいたから」
 「いや、ありがとう」
 ということで、ハンカチの隅の染みはそのままになった。

 それから、幾日かたったゼミの日に、研究室に集まった三年生五人に、そのハンカチをみせ、手で触れてもらって、その色に対して、どのようなことを連想するか聞いてみた。
 二人の男子学生は奈良時代を連想すると言い、一人の男子学生はサフランの花と答えた。もう一人の男子学生はカクテルを連想した。最後にハンカチを渡された紅一点の女子学生は蛇と答えた。
 その理由を聞くと、奈良時代と答えた二人は、色から貴族の女性の着物の感じがするからということで、サフランの花は色そのものである。カクテルと答えた男子学生も同様の発想。男たちはみな色からのかなり単純な連想である。一方、女の子の言った蛇というのはかなり変わっている。その理由を聞くと、蛇の舌の色はよく知らないが、チロチロ動く様がこのハンカチから感じられたというものであった。
 そして、彼らは一様に、そのハンカチを持ったら暖かくなったと言った。
 その後、色と気持ちの問題などを議論し、ゼミを終にした。
 間宮という女子学生は、蛇草で染めたハンカチを手の間に挟んで、なかなか椅子から立ち上がろうとしない。みんな外にでても座ったままだった。
 「どうしたんだい」
 私が聞くと、間宮光子は私を見て、「先生、指がハンカチからはなれない」とハンカチから、手をはなそうとしなかった。
 「欲しければあげるよ」
 特にその布に気持ちがあるわけではないので、そう言ったのであるが、彼女は首を横に振った。
 「欲しいわけではないのだけど、指が熱くなってきて、布から離すことができないのです」
 私は彼女の脇にたって、ハンカチをつまみ上げた。そのとたん、彼女は「あっ」といって立ち上がると、彼女の細く白い指を私の頬に当てた。
 「熱いね、どうしたの」
 彼女の手は燃えるように熱かった。
 「わかりません」
 そういいながら彼女の指は私の唇に触れた。
 私がはっと気がつくと、彼女の顔が私の目の前にあった。
 彼女は指を私の首に回し抱きついてきた。燃える布が当てられたように首筋が熱くなった。私が身をちょっと離すと、彼女があわてて指を私から離した。
 「あ、先生、わたし、どうしたんですか、すみません」
 あわてて鞄をとると、逃げるように研究室から出ていった。
 私の手には浦島草で染めた布が残されていた。
 あの学生にはきちんと説明してやらなければならない。
 指でつまんでいた布はしっとりとして、冷たかった。しかし、それをもっている指そのものが熱くなっている。体の奥の方も燃えるように熱さを感じてくる。
 もしやと思って、私は布を机の上においた。すーっと体の中に冷たい風が通っていった。
 古屋に電話を入れた。
 「何か変わりがないか」
 「いや、ある、結婚することにした」
 「急だな、この間は全くそのようなそぶりがなかったが、それでお相手は、誰だい」
 「学生」
 「あの学生か、浦島草の染色をしてくれた」
 「そうだよ」
 「もしかしたら、あの衣を着せたのではないだろうね」
 「本当のところをいうと、着てみたいと言うから貸した」
 「そうか、それで、今も着てるのか」
 「たまに着ている」
 「浦島草の染色はいつでもできるのかな」
 「うん、彼女ならいつでもできると思うよ、欲しいのかい」
 「いや、いらない、最初のものは大事にしておきなよ、ともかくおめでとう」
 私は浦島草で染めたハンカチをビニール袋にいれると、引き出しにしまった。

「お化け草」所収、自費出版33部 2018年 一粒社

蛇草染

蛇草染

裏島草を染料として染めた着物は、着ると妖艶になる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-04-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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