短編小説 『隙間人情シリーズ』一人十色
寝る前に、たった5分の人情話はいかがでしょうか。
「君は本当に器用な人間だなぁ」
同僚の川田はそう言って私を羨む。
「どうしてそんなに人の気持ちがわからないの?」
つい先日までの恋人、恵美はそんなことを言って私の元から去っていった。
社会に出て数年、私が得たものはなんだろう。
器用な人間だと褒められるようになったのは、社会に出てからのことだ。同時に思うのは、女性から人の気持ちがわからないことで怒られるようになったのも、25を過ぎたあたりだった気がする。
人の気持ちとは、なんだろうか。
最近は自分でも自分の気持ちがわからないことが多いのに、人の気持ちを理解するなんて、今の私にはとても難問であり、理解できたとしてもそれは一種の憶測ではないだろうか、とも思ってしまう。
これ以上考えると心が荒みそうだったので、
私は広くなってしまった家で、缶ビールの蓋を開け、室内でそのまま煙草に火をつけた。
生活臭と煙草臭が混じったものを嗅ぐのは久しぶりで、野球部時代によく監督室に行った時の臭いを思い出した。
少なくとも、野球部の主将をしていたあの頃の私は、人の気持ちのわからない人間ではなかったと私は思う。それに、器用でもなかった。今考えると絶対に不可能な甲子園に、このメンバーなら出場できると本気で信じていたし、アドレナリンで痛みすら感じず毎日練習に打ち込んでいた私の身体が傷だらけだったことに気づいたのは、なんなら引退した後だった。
あれだけ熱中していたあの時から今になり、私は何を失い、何を得たのか。言葉にしようとしてみたが、言葉にしたとしても綺麗な言葉で片付けてしまいそうな私がいて、押しのけることで精一杯だった。
こんな時、犬でもいれば癒してくれるのだろうか。
ワンとかクンをこちらで解釈し、程よく自己肯定感をあげる言葉に翻訳できれば、気持ちは楽になるだろうか。いや、おそらくこんなことを考えてしまっている時点で、もはや犬に失礼なのだろう。ハナから相手の気持ちを理解する気がない。
不意に着信音が鳴り響き、長岡という名前が表示された。長岡は野球部時代、私より野球の上手い副主将で、今はお父さんの建設業を継いでいる。
「もっちゃん、元気か!久しぶり!」
一瞬戸惑った。そういえば私は野球部時代もっちゃんと呼ばれていた。高校生ながらヒゲが濃く、剃り跡の目立っていた私の名字の頭文字と、ヒゲ=おっちゃんという言葉を掛け合わせてできたアダ名だ。私がもし会社で後輩にこのあだ名をつけると、パワハラになるのかもしれない。
「もっちゃん、俺明後日、急遽東京に出張で行くことになってさ、急なんだけど、明後日泊めてくれない?頼るとしたら、まずもっちゃんかな!と思って」
私は明後日むしろ自分が出張で地方に行くため、断らざるを得なかった。途中、もっちゃんがいないなら鍵を玄関に置いておいてくれ。と謎の要望をしてきたので、強めに断ると長岡は
「冗談だって。変わらないなぁ、そういうとこ」
と笑っていたが、後ろから怒鳴り声が聞こえたかと思うと、長岡は裏返った声で向こうに謝り、次はよろしくと電話を切ってしまった。
変わらない、という言葉が非常に違和感だった。これだけ自分自身どこが変わってしまったのか悩んでいたから、余計だろう。
思えば、長岡とはよく部室を開ける当番の際どこに鍵を隠して置いたとか教えあっていた。職員室とグラウンドに距離があったため、怠慢をしてグラウンドの近くに隠して帰ろうとする長岡を、私はよく叱った。結局は私が長岡に流されたわけだが、心のどこかで主将として一回は注意はしたしいいだろう、とか考えていた気がする。
そう考えると、別に私は何も変わっていないのかもしれない。少なくとも長岡は、変わっていないと私を判断してくれた。逆に私は、長岡が人にあんな謝り方をすることを知り、少し変わったのではないかと感じた。
ただ、あの頃の長岡は私に対してはあの頃のままで、私も長岡にはあの頃のままの私だったようだ。
明日もきっと、会社では何も変わらない私なのだろうが、それもそれで私なのだろう。しまっていくぞ!と久しぶりに大きな声を出す。
広くなった家にはぴったりの音量が、部屋に響き渡った
短編小説 『隙間人情シリーズ』一人十色