とりあえず、嫌い
十年以上前になるが、今の職場で働く前、何社かに書類を送り、その何社かで面接を受けた。
中途採用なので「何でもやります」的な新卒とは異なり、職務経歴書を提出して「このような仕事の経験がありますが、如何でしょう」という話になる。書類だけでは判らないので、実際どんなもんだろうと、試される場合もある。
その日訪れた会社は機械関係の商社だった。一通りの話が終わった後で、では少し英語のレベルを確認させていただいてよろしいですか?という事になり、人事担当者が三十前後の女子社員を連れて来た。
「では、彼女の質問に英語で答えて下さい」
質問の内容は簡単なもので、そう緊張する事はなかったが、驚いたのはその女子社員の態度だった。
相手が誰であろうと、来意が何であろうと、来客に会うときは「初めまして」だとか「よろしくお願いします」だとかの言葉を口にして、会釈の一つもするのが社会人としてのマナーである。
無言。
そして目も合わせない。
こわばった表情のまま、「あなたの家族についてお話して下さい」だとか、「趣味は?」などと質問を繰り出す。とりあえずは笑顔のようなものを顔に浮かべ、彼女の質問に答えながら、私はこの会社で求人が出た理由について想像を巡らせていた。
すっきりしない気持ちで帰宅したその日のうちに、採用の連絡があった。しかし私は即座に辞退する旨を告げた。人事担当者は残念がってくれたが、こちらにも多少の危機意識というものがある。
ここで入社などしてしまったら、先輩として仕事を教わるのは、あの女子社員である。彼女は「新入り」が来るのをあからさまに拒んでいた。そんな相手と一日中顔を突き合わせて過ごしたら、どういう目に遭わされるか判ったものではない。
もしかすると、彼女とのトラブルが原因で誰かが退職し、その穴埋めの求人かもしれない。あるいは、彼女が抜けた後に配属されるのかもしれないが、そうだという保証はどこにもない。いずれにせよ、彼女とは二度とお目にかかりたくないので、この話は見送ることにした。
いったい、今まで会ったこともない相手に、あらかじめ敵意だとか嫌悪感を抱くというのはどういう心理なのか。不思議といえば不思議だが、実はけっこうある話だと思う。
会ったことがない、というのは事実だが、相手の属性について何らかの情報が先に与えられていると、会う前から「どうせこんな奴に違いない」的な妄想を膨らませる人がいる。
今の職場に来てからだが、中途採用でほぼ新卒の女性が採用された事がある。全く褒められた話ではないが、当時の人事担当者は彼女の履歴書を他の社員にも見せていて、そこに書かれていた自己PRが中堅社員、花子さんの気に障った。
「忍耐強さには自信があります」
まあいいじゃないか、と思う。ほぼ新卒イコール職務経歴がない。こういう業務ができます、という具体的な売りが書けないのだから、自分の長所と思う点をアピールしているのだ。
しかし花子さんから見ると、この一文は鼻持ちならないものだったらしい。
「何よこれ!忍耐強さに自信?はあ?ほとんど働いたことがなくて、よくこんな事が書けるよね!」
今思うと、もうこの時に新人女性の運命は決まっていたようなものだ。
彼女が入社したその日から、花子さんは徹底的に彼女を攻撃した。
「そこに物を置きっぱなしにしないで」
「人の通り道、塞がないで」
「誰の許しでその場所使ってるの?」
新人女性は花子さんと違う部署に配属された。にもかかわらず、そばで仕事をしているというだけで、一挙一動が気に障るという具合だったが、勝手を知らない職場で初めて働いて、無難に動くこと自体無理である。
文句があるなら新人女性ではなく、彼女に仕事を教えている人間に「ここを注意しろ」と言うべきだ。花子さんにそうお願いしても、彼女は攻撃を緩めず、新人女性は入社して三日で辞めてしまった。
その日の帰り際、もう事務所を出ようというその時に、追い打ちをかけられたらしくて、翌朝早くに出社して辞意を伝えていったという。もちろん花子さんの事も話には出たらしいが、当の花子さんはむしろ自分は被害者だと感じたらしかった。
「どうして?私は何も悪いことしてないわよ。なんで私のせいで辞める、みたいに言われなきゃいけないの?」
自分はただ、働くことの厳しさを判っていない若者の根性を叩き直そうとしてあげただけなのに。彼女はそう主張したいらしくて、自分が正しいことを繰り返していたし、実際そう信じているようではあった。でもまあ本当のところ、自分でも心の奥底でははっきりと気づいていたのだとは思う。
とりあえず、嫌い。
まずはこの感情があって、全てはその後だ。
こんな生意気なこと書いてくる新人、どうやって鼻っ柱へし折ってやろうか。花子さんの中にはそれしかなかったのだと思う。そして、同じ場所にいて彼女の暴走を止められなかったのは私の罪でもある。
忍耐力なんてものは、理不尽な物事や人を相手に発揮する必要などない。そういう意味では辞めた彼女の判断は正しかったし、逃げずにきちんと出社して話をするだけの根性もあったのだ。どうか彼女がいま、自分に合った職場に恵まれているようにと願っている。
とりあえず、嫌い