挽歌
消灯
携帯電話のスピーカーの向こうで話している男は知らないやつだ。今夜限りの出会いに若輩の心は踊る。
しかし聴こえてくるのは、くだらない話とジッポライターの音。過去の栄光、大学生活、煙草の銘柄、女子高生のパンツ。
高校時代は青春だと抜かした男に「そうだね」と言って別れを告げた。電話の切り際「また逢えたらいいね」なんて言われたけど、たまったもんじゃない。カーテンの外は明るくなっている。午前四時半過ぎ。大学生は馬鹿だと思った。
真夜中
毎日寝不足にしてはよく学校にたどり着けているなと思う。晴れた暑い日も、雨の日も、雪がひどく積もった朝も。決まって同じメンバーで誰も一言も発することなく坦々と歩く。一方歩きながら寝ている僕自身は前を行く黒い制服についていくだけだった。
朝の登校の時間が一番眠くて頭は停止している。毎朝同じ道を歩くのだから、ぼーっとしていようが何も問題はないはずなのに、いつかの僕は水溜りをじゃぶじゃぶ歩いていた。
雨は嫌いじゃない。靴が濡れるのが嫌だった。完全に浸かってしまった靴はもう履いていたくはなかった。もう帰ろう。朝一の悲劇に覚めた頭で思う。
でも、コンクリートよりも堅い頭がレールを外すことはないのだ。僕は学校へ向かうことしかできない。
夢現つ
吐く息が白く見える季節が来た。ベランダで吸うたばこは美味しくなんかなくて、たばこの煙なのか息白しなのかわからない。それでも可視化された呼吸を見るのは心地よかった。しかし、僕は喫煙者ではないのでむせ返り、これ以上吸うことはできなかった。自分はまだ子供なのかと寂しい気持ちもあったが、部屋はどこか懐かしい匂いで満たされている。
悪い夢を見たとき、決まって逃げ切れることのできない僕はすべてを振り払うように体を起こす。それと比例するようにやらなければいけないことは日々増えて追いかけてくるばかりで、悪夢のように起きて振り払うことはできない。
はて、夢の続きはなんだっただろうか。僕には愛する人がいたかもしれない。かもしれないというのは、それが楽しい夢であったと思いたいから。記憶喪失でも病気でもないのに、昨日のことを思い出すのが難しい。昨日家を出る前言われた言葉はすごく現実じみていたけど、僕は独身なのだ。とても夢とは思えない景色で愛する人に言われた言葉は、もやがかかって思い出せない。
あの人は誰だったろうかとそのことばかりが気にかかる。初めて聞く曲の歌詞を口ずさみながら、朝の支度をする。顔を洗って、歯を磨いて、線香をあげる。昨日が思い出せなくても、ルーティーンというのは不思議なもので毎日同じことを繰り返す。それなのに、僕はお弁当を忘れた気がした。朝ごはんも食べない僕が弁当など作るだろうか?
玄関を出るとき「いってらっしゃい」と声をかけられた気がした。
レム
僕のとても大切な人。
出会いは何だったか、好きな食べ物はなんだったか。
過去の記憶にしまってあります。
昨日僕は日記をつけ忘れました。
明日の「やらなければならないことリスト」はこれ以上かけないぐらいたくさんあります。
でも今は夜中の3時なんです。
1人で住むには広い部屋にモノがたくさん。
真っ暗な部屋で独り、誰かを待つのです。
それは誰なのか、本当に来るのか、客なのか家族なのか。
何故か寂しいという気持ちだけがあります。
自分がひとり分いなくなったように。
夢はいつもいいところで覚めてしまうと思いませんか。
朝起きるとネコが僕の横で寝てるんです。
どこへ行っていたんだか。いつ帰って来たんだか。
「よお、おはようネコ。」
よる
たばこを吸って咽せた友達がいた。
初めて吸うくせに、馬鹿みたいに全力で吸って咳き込む姿がおかしくって4人で大笑いした。
もう一度同じことをやって「おれには向いてねえ」と涙目で火のついたたばこを僕にくれた。
僕はおっかなびっくりにたばこを咥え、そっと息を吸い込んだ。少量だというのに僕も派手に咽せ、またみんなで笑った。
紛れもなく思い出の一つだけど、深夜1人窓を開けてたばこを吸い始めるまで忘れていた。
今日までの経験は、思い出すことで美化され昔は楽しかったと言わしめた。文字に起こすと案外大したことのないものばかりで、小学校の国語の教科書に載っている文学作品よりも短く内容が薄く感じられた。
そんな平坦な10代を過ごした僕らは無価値なのだろうかと考える心はまだ子供のようだった。
自分の命は軽いものだと、20に満たない心は考え、不安定な青春を過ごした僕らは、みな一様に「20歳までに何も残せない人生ならば死のう」と考えた。
若い心はそれが粋で価値のあるもののように思っていた。
大人になってそれを子供だと言いくるめてしまうのは、ある種の諦めと何も残せなくても生きなければいけないことに絶望したのだった。
今の自分をつまらないというのは誰だろうか。10代の子供たちだろうか。
散々嫌いだった自分を今は好きになっている。
他人がしたことを感情的にならず受け入れられる。これは大人だからだろうか。
喧嘩もできない。怒りもしない。夢なんか持てない。
大人になった代償は現実をみてしまうことだと思う。
僕は今日も小説を書いている。
怖い夢を見た
自分の腕がなくなる夢を見た。そんなもの怖くなんてないんだけれど、夢特有の不気味さから汗びっしょりになって起きた。
体調は最悪に悪く、熱を測ると40度と出ている。サウナのような体で何とか解熱剤を飲んで、熱が下がるのを待つ。
よく考えたら、腕がなくなるとできないことが多いなあなんて考えた。料理を上手に食べれないし、本も読めないし、パソコンやゲームすることだってできなくなる。何より、いつか来る大切な人を抱きしめる瞬間を感じることができないのはとてもつらいことのように思えた。
この時はまだ知らないが、明日僕は目を片方失うのだ。失うといっても視力だけなのだけれど、腕がなくなるよりもよっぽど怖かった。
今まで見えていた景色が見えなくなって、まるでもう一人の自分が死んだみたいだった。
僕が見逃したものをとらえるのはいつも君で、僕が見ていない景色を見せてくれたのも君だった。
明日起こることなのに、こんなにも想いが出てくるのは不思議だけれど、この気持ちは間違っていないように思える。僕は気づかないが、事実彼は明日死んでいるのだ。
来年も同じように過ごせると思っている僕をどうか叱ってくれ。誰が悪いわけではないが、運命と言いたくなるような出来事も起こる。
熱が下がってきた僕は寝ることにした。目が覚めたら風邪が治っているといい。
翌朝、僕の風邪は治らなかった。そして案の定、僕の目は何ともなかった。
アサガオの咲く時間
土の匂いで思い出すのはなんだろう。
おじいちゃんの畑はどこまでも広くて、野菜作りは難しいように思えた。
ちょっとした茂みが近くにあるだけなのだけれど、僕には山があるように思えて恐ろしくて近づけなかった。
夏になるとたくさんの野菜やトウモロコシを食べさせてくれて、それに好きも嫌いもなかったようにいつまでも食べられると思っていた。おじいちゃんの作る野菜が好きだと気付くのに、ずいぶんと時間がかかってしまった気がする。
今でも思い出すハウスの温室の匂いは、もう感じることはないのだろうと思うと寂しい。
土の匂いといえば、もう一つは野球だろう。
体力がなくてどこまでもついていくのが大変だった。それでも友達はたくさんできたし、みんなと運動できるのは楽しかったように思う。自分は下手だったから、常に球拾いや外野をやらされて、退屈で地面ばかり見て土いじりしていたっけ。
今となっては懐かしい思い出だけど、小学生の自分はとにかくミスをするのが恐くて、ボールが来なければいいと思っていた。
そういえば、僕はアサガオを育てたことが無い。小学校でアサガオキットが配られたときに、タイミング悪く風邪で学校を休んだのだ。先生が言うには、代わりに誰かがアサガオを植えてくれていたらしいけど、その鉢がどれかわからないからお世話することができなかった。
僕のアサガオ観察記録はプランターを書いて終わっている。
これもまた、いい思い出。
モーニングコール
劣等感というものは表に出してはいけない気がする。
子どもの頃や学生時代の劣等感はいつまでも引きづるもので、大人になっても何かの言い訳に「そう言えばあんなことがあったなあ」と思い出されるのだ。
僕は逃げている。何からと聞かれると言葉に出せないほど全てのものから逃げてしまっている。そんな自分を恥じてはいるけど、今日も言い訳が思いついてしまうのだ。
一日何もせずにご飯を食べて眠る毎日を繰り返している。そんな悪夢のような現実を受け止められずに深い眠りを求める。
僕が眠れなくなったのは、この生活を始めてからだ。少しも運動しない体は筋肉が衰え体力が落ちた。少し出かけるだけで疲れてしまい、家の掃除だけでそのあとは充電が切れたように眠くなってしまう。精神だけがすり減り、カレンダーを見るともう逃げられないところまで来ていた。
過去が変えられたらと願って何度も人生をやり直した。
君ならどうしたと問いかけて返信の来ないメッセージを何度も確認した。
僕の名前を呼ぶ声が聞こえた頃には全部忘れていた。
目を開けると、何度も繰り返した15歳の朝だった。
何度も見た夕焼け
喘息のように冷えた肺と口に広がるチョコレート。コーヒーの香りと冷たい手足。野球少年。パン屋さんのソフトクリーム。雨。扇風機。半袖。小説。洗濯物。夕焼け。inst曲。やかましいトラック。アサガオ。不自由な生活。海。スイカ。病院。トウモロコシ。パソコン。不思議な掲示板。廃墟。無人駅。ワンマン電車。片想い。親友。
夏が終わる。
拝啓、以下略。
夢ばかり見て将来が楽しみだった高校生はとうに過ぎ去り、夏が終わるように大人になった。
残したい物語は思いつかなくて言葉は頭から離れていた。
常識に逆らいたかった僕は満足のいく結果を得られず、憧れた人は随分と離れた。
こんな話を書きたかったのかわからない。
思い描いた未来にすることはできなかったけど大人も案外悪くはないものだった。
何度も死んだ僕は同じ日を繰り返す。
その度少しずつ大人になって、結局全部受け入れる。
自分を嫌いだった僕を幼かったと思うようになった。
自分を好きな自分を馬鹿だと思うようになった。
希望が消えて僕1人になって。
愛という言葉はあまりに臭くて恥ずかしいものだけど、君が生きた世界を愛している。
何度も同じ時間を繰り返して僕は自分が好きなのだと気付けた。
ルールを破って悪いことをした日も友達とはしゃいだ夜も人に見せられるような思い出ではないけれど、僕にとっては大切な時間だった。
今は、あなたへありがとうとさようならを。
僕は元気にしています。
挽歌