お茶は淹れている時が一番楽しい
久しぶりにゆっくりとお茶を淹れながら書きました。
大学に進むと、大部分の高校の友達とは連絡は取らなくなっていた。環境が変わったこともあったし、僕と仲のよかった人たちは浪人してしまっていたので、なんだか気まずくて連絡を取ることを憚ってしまった。だが、そんな中でも何人かはその後も連絡を取り合った。本当に表面上のものもあったし、惰性というか腐れ縁というかなんだか続いたものが多かった。そして、現在でも連絡を取っている人というのは本当に数えるほどである。その中で今日は一人の友人との話をしたいと思う。
彼女はサエという。緑川サエ。高校時代から大人になっても連絡を取っている稀有な友人だ。とはいっても、最近は年に何度か思い出したように連絡を取るというだけでそれほど密な関係という訳ではない。彼女と最後に会ったのがいつだったか思い出せないくらいだ。
僕とサエは恋愛関係になることはなかった。だが、お互いに自分の心の暗い所を見せられる間柄で、唯一無二の友人である。
僕が地元の大学に入学したのに対して、サエは都会の大学に入った。そのため僕たちが会うためには電車に一時間ほど揺られて街に出る必要があった。なので、大学時代の僕らのやり取りはほとんどがメール、そして電話、ごくたまに手紙であった。とは言っても勉強くらいしかやることのなかった僕らは休日を持て余していたので、季節に一回くらいは会って話をしていた。
大学に入ったばかりの頃の僕たちは、お互いの大学生活のことやこれからの人生の希望についてよく話していたが、半年も経てば人間関係のもつれや大学生活の閉塞感について話すようになっていた。特にサエは腹の中は黒めなのに、表面上は八方美人的なので、色々な人に巻き込まれてよく苦労していた。
またこれは今になっても悩みのタネなのだが、僕らは家族との仲がうまく行っていない。そのため、家族に対する愚痴もよく聞いていた。大学生にもなると多くの人間は家庭から離れて自分の人生を模索しはじめるのに、僕たちは昔の価値観に縛られたままだった。そんな孤独感を埋めるためだったのか、僕はサエとよく連絡を取っていたのだ。
高校時代から僕はたまに絵を描いたり、詩を作ったりしていたが、恥ずかしい気持ちを抱かずにそれらの創作物を見せられるのもサエだけだった。そしてそれはサエも同じだったようで、誰にも見せられないようなイラストや詩をよく僕に送ってくれた。
僕たちはお互いに良い意味で部外者だった。毎日の生活には直接関わりなく、恋愛感情もない。そしてお互いの都合の良いように日頃の生活で溜まった気持ちを放る。互恵的というか打算的というか、浅いのか深いのかよくわからない種類の友人関係だった。
ある時、サエから家に来て話をしないかと誘われることがあった。
恋愛感情がないと言っておきながらも、平均的大学生であった僕は少し期待を持った。だが冷静に考えると、サエが住んでいるのは大学の寮で、しかも大学の先輩とルームシェアしている部屋だった。そんなところで男女的営みが簡単に行われるはずがない。やはり、互恵的友人として誘われていたのだ。僕は気を取り直して、すぐさま「お邪魔する」との連絡をした。
話を受けた後の週末、僕は朝から準備してサエの住む街に向かった。サエに会うときは変に取り繕う必要もないので、いつも通りの適当な格好をして、朝ごはんも食べずにだらっとした顔をして家を出た。
彼女に会ってからは軽く大学構内を案内してもらい、その後で寮に行った。
サエの住む寮は、僕が通っていた大学の寮と比べてだいぶ洗練されており、小綺麗なアパルトというか、おしゃれな歯医者というか、とにかく現代的で居住性も高そうだった。そして実際に中もきれいで、よく手入れがされ、イギリスの高級ホステルのようだった。
寮に入ると、休日だからか人も多く、サエの友達にも会った。僕の話を友達にしたことがあるのか、「例の友達だよ」とサエが言うとみんな得心したような顔になって「どうも」と挨拶してくれた。
サエの部屋は三階立ての寮の二階で一番奥にあった。日当たりの良い部屋だが、林が近いので虫がよく飛んで来て困ると前に話していたのを思い出す。とはいえ、窓を開ければ風が気持ち良さそうだ。
さて、部屋の中に入ると、思っていたよりもシンプルですっきりとしていた。同居人も気を使ったのか、今日は不在のようでゆっくりと二人の時間に集中できそうだった。
二人用テーブルの前に座ると、サエは今朝作ったという蒸しパンを出してくれた。蒸しパンはしっとりとした質感で、さつまいもと小豆が入っていてとても美味しそうだった。サエは蒸しパンに合うお茶を淹れようと言い出して、お湯を沸かし始めた。
待っている間、サエは最近お茶が好きだという話をしてくれた。さらに、一日何杯も飲んでしまうこと、淹れている瞬間が好きなこと、お茶を淹れている時間を一緒に楽しみたくて今日誘ったことなども。とても楽しそうだった。
そしてサエが彼女お気に入りのガラスポットにお湯を注いだ瞬間、ふわっと朗らかな香りが部屋に広がった。淹れられているのは緑茶のようだが、香りは非常にフルーティーだ。きっとフレーバーティーなのだろう。緑色の茶葉と赤いベリーの果実がポットの中で踊っている。透明だったお湯に次第に色がついてゆく。ただのお湯が段々と美味しいお茶になってゆくのが分かる。胸の辺りがほんのり熱く、湧き立っているように感じる。横にはサエがいて一緒にポットを見つめている。味わったことのない感情だ。もしかしたら何かに恋をしているのかもしれないと思った。お茶の成分が水中に放出されるとともに、空気中に僕と彼女の大事な部分が滲み出て来ているような気がした。
気がついたらサエが僕の方を見ている。僕の手の上に彼女の手がある。彼女と触れ合ったのはこの時が初めてだった。驚いたが、嫌な気はしない。僕もサエの方を見つめる。サエがゆっくりと僕の方に近づいてくる。目をつぶって口を差し出す。そして、僕たちは口づけをした。
数十秒とも数分とも思われる時間が過ぎた後、僕たちは口を離した。そしてその瞬間、二人ともお互いの行いを自覚し、驚きに目を見開いた。数分前まで、二人ともそんなことをするつもりなどなかったのだ。
サエはあわあわと言い始め、少し出てくると言ったまま、僕を部屋に置いて二十分ほど帰ってこなかった。その間、僕はやることもなかったので、お湯を入れられたまま放置されたお茶を飲んでみた。味が出すぎて渋くなってしまい、とても飲めたものではなくなっていた。
帰って来たサエはいつもの通りに戻っており、そつのない動きでお茶を淹れ直し、何事もなかったかのように話を始めた。僕の方も落ち着きを取り戻し、平時の振る舞いでいつものように話を聞くのだった。
その後、僕たちは変わらずに話を続け、時間が過ぎていった。帰るために最寄りの駅へと二人で歩いている時も何一つおかしいところなどなかった。だが、駅に着いて僕が電車の時間を調べている時に、サエが見たことのない表情をしながらゆっくりと呟いていた。
「一体何があんなことを……」
あの時以来、僕がサエに触れたことはない。二人の関係もそれまでと変わることはなかったし、今でも良い距離感の関係を築けていると思う。あの時のことについて話をすることはなかったので、何が起きたのかは全くわからない。夢だったのかもしれないと思うこともある。だが、夢が現実に降りて来たかのような奇妙さとサエの唇の生々しさが僕の心に残っている。一体僕たち二人はどうしてしまっていたのだろうか。
このことがあってから僕はお茶には魔力があるのかもしれないと考えるようになった。もちろん半分冗談なのだが、あの時の自分は、魔法にでもかかっていたように自動的に彼女に引き寄せられていき、口づけしていた。そして、自分がとんでもないことをしていることに口を離すまで気がつかなかった。もしかしたら、そんなお茶の魅力を上手く制御して楽しむために茶道というものが発達していったのかもしれない。
世迷い言はともかく、こんなお茶の事件があってからも僕と緑川サエの関係は変わらなかった。しかし、僕の方はしっかりとお茶の魅力を学び、変わってしまっていた。
今では僕はよくお茶を飲む。当然のことながら味も好きなのだが、淹れている瞬間がとても楽しいのだ。
お茶の種類は何でもいいので、茶葉を用意し、お湯を沸かす。お湯が適温になったらポットに注ぐ。僕の好みは中が良く見えるガラスのポットだ。
ポットにお湯を注いだ瞬間、お茶の香りが部屋に広がり、茶葉が踊り出す。茶葉が開き、水がゆっくりと色づき出す。ただの湯が美味い茶に変わってゆく。至福の時間だ。
そう。お茶は淹れている時が一番楽しいのだ。
お茶は淹れている時が一番楽しい