胞子を舐める女

胞子を舐める女

茸短編小説です。PDF縦書きでお読みください。


 老人はまた語りだした。
 「茸の胞子を舐める女がおってな」
 大島に向かう船の甲板で、カップ酒をしながらあぐらをかいた老人は、誰に言うでもなく繰り返し、繰り返しこの話をしていた。八十はだいぶ越しているだろうか、深い皺が顔一面に走り、焼けた顔は猟師としての年輪を感じさせる。
 老人の回りには海や夜空を眺めるために出てきた若者が、思い思いの格好で集まっている。大島にはまだまだ時間がかかる。
 私もその中に加わって、老人の話に耳を傾けていた。私は地味なものであるが幻想的な小説を書いて暮らしている独り者である。暮らしていけるということはそれなりの注文があり、読者もいるということである。今回の船旅は思いついた話の中に伊豆七島が出てくるため、取材と遊びをかねた旅行である。
 老人は古びた布張りのトランクを引き寄せてもう一本カップ酒を取り出した。
 一口飲むと脇に置いた。
 「洞窟に住む女がいてな、その時、わしは三十一、最も仕事がのっている時じゃった。
 一人で舟を操って、それは見事な海老や鮑、平目などの底を這う魚たちを山のように捕まえて売りさばいていたもんよ。
 あんときも、いつものように小さな島に漁に行ったんだ。その島はのう、わしらの小舟でも行くことができたんじゃ。おれたちゃあ、その島が日の出のほうにあったで、日子(ひこ)島(じま)って呼んで、子どものころから眺めておった。本当の名前があるだろうが、わしゃ知らん。神さんがいる島だで、わしらは近づいてはいかんといわれていたもんよ、小さいといってものう、今、わしの住んでいる高尾山ほどの山があった。しかし、だあれもすんでおらなんじゃった。いるのはふえちまった野良猫と海鳥たちぐらいのものだな。山には木が生えておったし、その麓で畑でもやれば暮らせないこともないが、井戸を掘っても塩気の多い水しか出ない。
 もっといかんことにゃのう、島の周りを岩礁が囲っていて、船着場に適したところがほとんどないんじゃ。海がしければ、舟をつけるところはない。そんなときに無理に近づけると、海面に顔を出していない岩礁にぶつかって船ごとひっくり返されるのがおちじゃて。たくさんの小さな漁の舟があの島の周りでだめにされちまったもんだよ。じゃがな幸い、死んだものはおらん。神の島じゃからな。
 海はとても綺麗じゃった、海老たちのいそうな場所は島の近くに沢山あったな、わしはそこへよく通ったもんじゃ、大きな海老がちょっと潜るだけで仰山獲れたものよ。
 そんなある日じゃ、島の東側の岩礁場で潜っていると、島には洞窟が沢山あるが、その一つから女が出てきた。女は洞窟から岩場を降りてくると、からだをかがませ、なにやらした後、またこちらを向いた。わしは少し離れた海の中から手を振って声を上げた。わしに気が付いたその女は、あわてて洞窟に入っていってしまった。ぼろをまとったような格好をしていたんで、てっきり遭難者かと思ったんじゃ。
 わしは若かった、舟をなんとか島に近づけ、綱を海から飛び出ていた岩にくくると、泳いで岸に上がった。岩場を登って、女が出てきた洞窟に向かったんだ。
 わしは無謀にもその洞窟に入っていった。何も道具を持たずにだ。
 洞窟の中はぼんやりと光が差していた。外の光が洞窟の中の鍾乳石に跳ね返り、奥のほうまで光が入る仕組みがあるようだ。後で分かったのじゃが、鍾乳石の一部を磨いて外の光を反射させ奥へと導いていたのじゃ。いろいろな角度の反射板が貼り付けられているのと同じじゃ。お日さんが差し込むとそれはのう、洞窟は奥のほうまで明るく綺麗に輝いたものじゃったよ。
 その時、わしは奥へ奥へと何かに導かれるように入っていった。洞窟は人が一人立って歩ける程度の広さがあり、何処まで行ってもそれは変わらなかった。かなり歩いたのう、だがあの女子(おなご)を見つける事はできなかった。
 途中で引き返すと、なんと舟が見えなくなっていた。波は大して高くはなかったが、何らかの原因で潮の流にとられてしまったのかも知れん、今でもどうしてそうなったか分らん。
 そのうち気が付いた両親が舟をしたててきてくれるだろうし、仲間もそこに良く来るので、あまり心配してはいなかった。ただ、裸同然のかっこうで食うもんも水も持たず、島に取り残されてしまったのには困った。あの女が生きているわけだから、どこかに水はあるだろう、そう思い岸の岩場を歩いてみた。
 先ほど女がかがんでいた岩場の一角に来ると、海とは切り離されたところに水がたまっている場所があった。指を入れて舐めてみた。塩からくなかった。真水のようだった、手にすくって飲んでみると、まさしく水であった。女は水を汲みに来たときに俺に見つかったのだ。水底を見ると水が湧き出していた。これで大分ほっとしたのう。
 真っ暗になる前に、今日の寝床を探しておかなければならない、そう思って、もう一度洞窟に入ったんじゃ。
 あのときには驚いたなあ、女が俺を見ているじゃないか。
 日に焼けた顔を俺に向けて、少し疑っている様相はあったが、「舟をどうしました」
 と、丁寧に聞くじゃないか、
 「流れちまって」と、俺は少し恥ずかしかったが答えた。すると、
 「迎えの舟はくるのでしょうね」と女が聞いた。
 「連絡はできないが、必ず来るだろう、いつも漁をしているところだから」
 そう言うと女は、
 「それでは、それまで、私の家でお過ごしください」
 と言ってくれたんだ。嬉しかったね。
 「ありがたい」と言うと、
 「ただ、お帰りになるときに、私の事は一切、誰にも言わないと約束していただけますか」
 女は真剣な目つきでそう言ってわしを見た。細い目をしたいい女だった。髪は伸び、着ているのも薄汚れて破れてはいるが、都会の上流の人達が着るようなものであった。
 「わかった、約束する」
 俺は思わぬ展開に、奇妙な興奮を覚えていたよ。
 女は俺を導いて、洞窟の奥に進んでいった。
 「ここまで、あなたは来ましたね」
 「見てたのかね」
 「ええ、私は入口近くで外を見ていたのですよ」
 わしは女に気が付かずに洞窟の奥に入っていったようだ。
 女はさらに奥に入っていった。引き返したところから、少しいったところにわき道があった。女はそこに入った。光の入り方が少なく、薄ぐらいが、女は慣れた足取りで前に進んでいく。やがて空気の流れが感じられた。出口が近いということだろう。
 行き止まりになると頭上に外の光が差してきた。朽ちた木で階段のような足がかりができていた。それを利用して這い登るようにして外に出た。そこは、山の斜面の林の中であった。午後の日差しが熱いくらいに注いでいた。
 女は下草の生い茂った林の中を上に登っていった。後を付いていくと、少し広くなった場所にでた。
 そこに竈のようなものが石で組まれいてな、この暑いのに火が焚かれていたな。
 「火を新たに起すのは大変なので、こうやって夏でも火を絶やさないようにしているの」と女は言った。
 女は斜面の大きな岩影にある穴を指で示した。
 「あそこが住処よ」
 女について入ると、中には光がほとんどなかった。入ってすぐのところにいくつか岩屋があり、その一つが彼女の寝床であった。海の洞窟とは違って、爽やかさがあった。
 「木の脂を使って明かりをつけることもできるけど、沢山採れないから、普段は外にいるの」と彼女は入ってきた入り口を示した。
 「どうしてここに」とわしは聞いたな。
 「おそらく、もう生きていることにはなっていないでしょうね、五年ほど前にわたし船から落ちたの、そしてこの島に流れ着いたの」
 大島行きの船の甲板から落ちてそのままこの島に居ついた女であった。
 「おらもそう思って、声かけたのだが、どうして、逃げたんか」
 「もう、東京に戻る気がないの」
 「親が悲しがってるだろうに」
 「どうでしょうね」
 「喰いもんはどうやってるんで」
 「釣りの道具を作ったの、あの海岸でよく釣れるのよ、お芋のようなものができる草があって、その芋が主食よ、果物もなるわ、山柿や山葡萄もあるの」
 「さみしかないですか」
 女はそれには答えないで、「外に出ましょう」と岩屋から出た。
 穴の前に出ると、女が「みーちゃん」と声をかけた。その声に反応して、数匹の野良猫が現れ、女の足元にまとわり着いた。
 「ほらさみしくないの」
 おらの周りにも何匹か猫が寄ってきよったな。よく馴れていた。
 その日は夕方近くまで話したな。
 「今日は何を喰うんだい」
 「特に決めてないわ、これから魚を釣ろうかしら」
 「それなら、今日の夕食はごちそうにするべ」
 わしは「海に行って、海老やあわび、魚も捕まえてくる」と言うと、そのまま、また洞窟を通って海に入った。そんなもん獲るのはお手の物、岸に打ち上げられていた壊れたプラスチックの箱に沢山獲物をいれてもどったんだ。
 女は芋をふかして待っていた。
 「すごいごちそう、東京でもこんな新鮮なもの食べたことはないわ」
 海老やあわびは焼いて食べた。醤油が欲しいと思わないでもなかったが、塩味もいいもんだ。こんな美味いもんはないね。酒がなかったのが少し寂しいが、舟がなくなっちまったときの絶望感からこんなに楽しい夕飯は想像できなかったな。女も旨そうによく食った。
 食べ終わると、女が、「ちょっと、来て」と、立ち上がって住居の穴に向かったので、わしも付いていったんだ。女は細長い石の先に脂をつけて、それに火をつけると、住居の穴に入った。寝室を過ぎて、奥の奥のほうに進んだ。岩のない土だけの洞窟になり、やがて行き止まりの広い部屋になった。その部屋にはなんと、沢山の真っ白な茸が床や壁から生えていた。そう、大きいものは二十センチほどもあったろうな。
 女はぽきっと音を立てて一本折った。
 「あなたも一本とってくださいな、そしてこうやって、茸を持ってください」
 女は傘が逆さになるように茸の柄をもってぶら下げた。
 わしも一本折って、そのようにしてぶらさげたね。
 穴から出ると、てっきり竈で焼くか何かして食べるのかと思ったら、ぜんぜん違った。
 穴の前で、女は石の上に腰掛けると、茸の柄の部分を取り去って、傘のひだの中に舌を伸ばして差し入れた。わしはドキッとしたね、女がわしを見る目つきが変わったんだ。女の赤い舌の先は茶色の胞子でまぶされていて、舌をひっこめると、口の中で動かした。
 「あなたも、こうやって」
 女が言った
 わしも同じように、舌を出して茸の傘の中にいれてみた、ちょっとピリッとしたような感じはあったがどうということもない。それを口にいれて、女がやっていたように、舌を口の中で大きく動かした。
 女を見ると、何度も舌を茸の傘に差し入れて胞子を舐めていた。わしもやった。しばらくすると、体が温かくなり、ふわふわと宙に浮いているような感じになってきた。女の目は赤くなり、着ているものをすべて取り去っていた。顔や手足は日に焼けていたが、色の白い胸がわしにはまぶしかった。わしは気持が良くなって、ふらふらと女のそばにいった。女も宙を見るような眼差してわしを見た。もう何もしなくても気持がよくなっていた。わしは女と絡まった。ふわふわと宙に浮いたまま女と交わった、空を飛びながら精を放った。
 「マッシュルームよ、それは、いいなー」
 いきなり老人の話を聞いていた若いグループの女の子が叫んだ。
 老人はちょっと驚いたようにその子を見た。
 「そりゃあ、なんのこった」
 若い女の子は、
 「幻覚剤よ、でもオランダでは合法よ、日本じゃつかまるけど」と言った。
 グループの若い男が言った。
 「おまえやったことあるんか」
 「うん、一度」
 「やべえよ、もうやるなよ」
 「うん」
 若い子達の会話が途絶えると、老人はまた話し始めた。
 「わしゃ、そのまま死んじまってもいいと思ったね、女はその白い茸を大事に育てていたんだ。
 次の朝、目を覚ますとわしは穴の外の草むらで寝ていた。女はもう起きて竈に芋を入れて焼いていた。
 「目が覚めたのね、さっき海にいってみたら、近くに舟が来ていたわ、きっとあなたを探しにきたのよ」
 「あ、どうも」
 礼を言って飛び起きた。本当を言うと、その時、帰りたくない気持ちであった。
 「早く海に行ったほうがいいわ、戻っても、私の事は言わないで頂戴」
 わしはうなずいた。
 「また、来ていいか」
 「いいわよ」
 女の返事を聞いて、わしはあわてて洞窟に戻った。その時知ったんだ、鍾乳石が磨かれて海のほうからの光が反射して中まで入ってくる仕組みを。あの女がそうしたんだろう。
 海辺に出た。近くに漁の舟が来ていた。わしは手を振った。すぐ気がついてくれて、わしは泳いで、舟にたどりついた。
 舟の男は幼馴染だった。
 「どうしたん、お前さんの舟が誰も乗らんで海の上を漂っていたんだぜ、お前の親父にたのまれて、探してたんだ、お前さんの良く来るこの島の周りを回っていたんだ」
 「すまん、潜っているうちに何の拍子かわからんが舟が流されちまった」
 「あの島にいたんか」
 「ああ」
 「なんか怖いこと起こらんかったか」
 「怖い事はなかったが、近づかんほうがいいかもしれん」
 「そうだ、あの島は、神の住む島だ、汚すと罰が当たる」
 「だが、おらは助けてもらった」
 「そうだなあ、神主さんにお払いしてもらわにゃ」
 わしは、島の茸の胞子を舐める女の事は言わなかった。
 一週間ほどしてからだった、わしは、あの女に会いとうなって、また島の東側に漁に行き、海老やあわびを持って洞窟に入り、女のいる穴を訪ねた。竈に火はなく、女の姿もなかった。もって行ったライターをつけて穴に入った、そこには何もなく、奥の部屋に行ったが、茸も生えていなかったんじゃ。
 わしゃ、持ってきたものを、穴の前に供えてもどったんじゃ。今でもあの女には会いたいと思っているんじゃ、命の恩人だけじゃないんじゃ、わしのはじめての女だったから」
 私は老人に声をかけた。
 「大島に着いたら、その島にいかれるのですか」
 老人はうなずいた。
 「ああ、わしは、その後、東京に出て、行方不明になった女のことを調べたんだ、確かにそういう女がいた。わしらとは縁のない世界に住んでいる女だった。ある大きな財閥の令嬢で、作家の卵だったそうじゃ、数冊の本を出して、大島に取材旅行に行く途中で起きた事故ということだった。
 わしはそれから東京の海で漁をすることにしたんじゃ。時間はかかったが、どうやら軌道に乗って、しかも家庭も持つことができた。子どもたちもとっくに独り立ちしているし、この年になったら無性にあの島が恋しゅうなってなあ、あの島に行って、神社をたてようと思っとる」
 「東京では何を獲っておられたのです」
 「わしは猟師しかできん、東京近海の魚を獲っておった、よく獲れて、大きな船も買い、船頭も雇った、東京湾はアナゴが名物じゃが、わしのところの天然アナゴほど美味いものはなかった。小さいが会社を興し、3艘の船を持つこともできた。
 私はそこで、作家であることを名乗り、老人にお供していいか聞いた。老人はうなずいて、
 「神の島のことじゃ、あんたさんがどうなるか知らんが、それでよければついてきなされ」
 と言った。
 しかし、それ以来、老人とは会うことがなかった。
 老人がうなずいたとたんであった。いきなり船が傾いて、私は船から海へ放り出された。船は夜の黒い海の中に沈んでいった。
 
 私は今、日子島で、女と一緒に茸の胞子を舐めている。我々の乗った船は外国で起きた大地震による大きなうねりにより転覆した。おそらく何人もの人が亡くなったのだろう。東京や神奈川ではかなりの被害をこうむったに違いない。私は偶然にも浮き輪を捕まえ、それにつかまってこの島に流れ着いた。老人の言うように、洞窟を探し、女の祠を探し出した。女は入り口で待っていた。
 あの老人のように、捜索船はすぐには出ないであろう、出たにしても、この島の調査をするのは先になるだろう。私はそれまで、この島で、女と一緒に茸の胞子を舐め続けることになるに違いない。もう、ふわふわとした気分になってきている。
 老人は助かったのだろうか。この懸念を女に話すと、
 「あの方は助かりました。この島に来ようとした罰があたったと、高尾山の麓の一角に小さな社を作くろうとなさっています、私のために、ありがたいことです。迎えの舟が来なければ、いつまでもご一緒できましたのに」
 と女は舌を伸ばして白い茸の傘から茶色の胞子を舐め取り、赤い目で私を見た。だが、それも長くは続かないだろう。きっと、老人がこの島のことを誰かに話し、捜索の船が来ることになるに違いない。
 日子島の守り神と何時までもいたいと思っているのだが。
 
「茸人形」所収 2018年発行予定 33部限定 一粒社

胞子を舐める女

胞子を舐める女

その小さな無人島には、洞窟の中に、胞子を舐める女が住んでいた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-04-13

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