喫茶店の不思議話

 耳に心地よく届く物静かな音楽と、自然さを重視した茶色を基調とした内装の喫茶店は、千春にとってはどこよりも落ち着くことのできる特別な空間であり、ここで食べるチーズケーキは他に追随を許さないほどの喜びであった。
しかし現在、千春は先ほどからフォークを持つ手が何度か止まることがあった。味が変わったというわけではなくいつものおいしいチーズケーキであり、千春自身に、食欲が失せるような悲しいことや腹立たしいことがあったわけでない。原因がよく分からず、胸の内にわだかまりが潜むのを感じていたが、なんとなしに視線を上げるとやがてそれは消えていった。小さな男の子と目が合った。
その男の子は「良いとこのお坊ちゃん」と呼ばれそうな身綺麗な外見で、サスペンダーの付いた子供用の白いワイシャツに黒いカシミアのズボンを穿き、まっすぐ切りそろえられたきのこカットの髪型と、物事をはっきりと言い切る意志の強い表情には、我の強さだけではない聡明な印象があった。千春と男の子にはテーブル席二つ分の距離があり、千春は声をかけずに男の子をじっと見つめていると、男の子は恥ずかしそうな表情を浮かべ慌てて視線をそらした。千春はそのまま男の子を見ていると、またしばらくして男の子は再び千春を見やり、目が合うとまた慌てて恥ずかしそうに目線をそらした。
男の子のそんな様子に千春は自然と口角が上がった。男の子には、聡明さの中にも年相応の愛嬌がにじみ出ており、しかも同じ年ごろの他の子供たちと比較するとおそらく群を抜いて美形であろう。そんな男の子の恥じらう仕草は千春の胸を射抜くものがあった。そして美形の男の子から注目されるということは、自分が魅力的な女に映っているのではないか、と千春は自尊心をくすぐられ、男の子から見つめられても不快ではなかった。
 男の子の隣には、おそらく彼の母親と思われる女性が座っており、向かいに座る同年代の女性とのおしゃべりに夢中であった。久しぶりに会った学生時代の友人なのか、普段から付き合いのあるママ友なのかは判断できないが、笑い声が絶えることなくずっと話し込んでいるようだ。母親は男の子を気にするそぶりもなく、男の子は母親に構ってもらえず退屈したのだろう。男の子の目の前に置かれている飲みかけのオレンジジュースが悲壮感を漂わせていた。
 千春は男の子を観察していると次第に、彼の視線が千春の顔とその下に交互に向けられていることに気が付いた。つられて手元に目をやるとそこには自分が注文したチーズケーキがある。再度千春は男の子を見やると、彼は千春を見ることはなく明らかにケーキを食い入るように見つめている。
 男の子の様子に千春に悪戯心が芽生え、男の子に見せつけるように、非常にゆっくりとした動作でケーキを一口食べた。千春は横目で男の子の様子を確認すると、彼は聡明さがなりを潜めたかのごとく、口が半開きになり物欲しそうに人差し指をあごにくっつけていた。もし近づいてみたらよだれが垂れているかもしれない、と千春は思った。
 これほど分かりやすい表情を見せられ、さすがにやりすぎたかもしれない、と千春は反省した。年端もない男の子では、わざわざ喫茶店やレストランに一人で足を運んでケーキを食べる、などという選択肢はないも同然であろう。食べたいなら親に頼る以外に方法はない。自分の取った行動が、大人と子供の力の差を誇示しているように思え、千春は先ほどに増してケーキが食べにくくなった。食べたいけれど食べられないというジレンマと、誰もが幸せになれる打開策を考えつけられない無力感にとらわれ、千春は次第に腹が立ち男の子の隣に座る母親に矛先が向いた。駄々をこねることもなく親の会話が終わるのをじっと待っているしつけの良い子供に、食べたがっているケーキの一つくらい与えてもいいんじゃないの、オレンジジュースだけで済まそうなんてせこい、などと千春は胸中で毒づき、男の子の母親をねめつけた。母親は神妙な面持ちで何度も頷きながら相手の話を聞いているが、子供をないがしろにする大人がそんな姿勢を見せても、親身になっているとは到底思えなかった。
 私がどうにかするしかない、と千春は自らを鼓舞したその時、打開策が一つ浮かび上がってきた。意を決して千春はバッグから財布を取り出し所持金を確認した。所持金にあまり余裕のある方ではないが、ケーキ一つ分ならどうにかなる。これから無駄遣いを減らし節約していけば十分に生活できるし、むしろ金銭感覚を養う良い機会なのかもしれない、と千春は自分に言い聞かせ、手を上げてウェイトレスを呼んだ。千春はチーズケーキを追加注文し財布をバッグの中にしまった。
 間もなくチーズケーキが運ばれ、ウェイトレスが去ったのと同時に、千春は小さく手招きして男の子を呼んだ。最初、男の子は戸惑って身を強張らせその場から動こうとしなかったが、千春が二度、三度と続けて手招きをすると、男の子はようやくおそるおそる近づいてきた。千春はできるだけ男の子をおびえさせないように、意識的に優しさを示すよう小さく微笑んだ。男の子が側までやって来ると、千春は「はい、どうぞ」と言ってチーズケーキを差し出した。男の子は千春とチーズケーキを交互に見るだけで何も言わなかった。
「これは君のぶん。静かにお母さん待ってて偉いね。ほら、お母さんにバレる前に食べちゃえ」
 笑顔がまぶしい、という表現が決して誇張ではないと思えるほど、男の子は満面の笑みで頷いた。そんな彼の表情を見るだけで、千春は充足感に満たされた。
 しかし次の瞬間には跡形もなくそれは消え去った。男の子は、顎が外れそうなほど大きく口を開き、そのままケーキにかぶりつき始めた。人間とは思えない奇怪な行動に度肝を抜かれ、千春は男の子がケーキを食べる様をただ驚き眼で見ているしかなかった。
 やがて男の子の外見に変化が出始めた。男の子の頭上に、植物の発芽を早送りで見るのと同じ速度で、段々と耳が生えてきた。その耳は、耳介が黄土色に染まりそこに白い体毛がびっしりと生え、耳の裏側はこげ茶色の毛で覆われた、鋭角を持った三角形を成していた。ちらと見えた顔も、人間の男の子の面影は全くなく、なでればきっと絨毯のような手触りであろう、動物の毛でいっぱいだった。鼻の頭から上は黄土色だが口元へかけて下は真っ白な毛であった。男の子はキツネに変身したのだ。キツネはケーキを器用に食べていた。皿は磁器でできておりフォークも乗っているのだが、ぶつかる音を立てずに口を皿に近づけてケーキをついばんでいた。
 やがてキツネはケーキを平らげると長い舌で口周りを何度も舐めまわし、大きなあくびを一つした。キツネがあくびをした時、千春の耳にどこからか声が届いてきた。誰かが千春に声をかけた訳ではなく、フィクションによくある天の声や神の声などの、ここにいない誰かから話しかけているようだった。衝撃的な状況に置かれている千春は、瞬きもできず視線をキツネからそらすこともできず、聞こえてきた声がキツネの言葉そのものに思えてならなかった。キツネはこう言った。
『お姉さん、ケーキありがとう』
 キツネは床に降り玄関へ一目散に駆けていった。キツネが玄関前に到着すると丁度外から扉が開かれ、キツネはその隙間から外へ出て行った。喫茶店の中に入ってきた、スーツを着たおじさんは「おっと」と片足を上げ、走り去るキツネの後ろ姿を目で追っていた。
 千春はまだ呆然とし、キツネが駆けていった床をただ眺めていた。無意識のうちに、先ほど起こった一つ一つのことが思い起こされるが、それが何を意味するのか今一つ理解できないでいた。かわいらしい男の子にケーキあげたら、その男の子がキツネになって、キツネがケーキを食べて、キツネがありがとうと言って、どこかへ去った。人間がキツネに変身するのも、キツネが器用にケーキを食べるのも、キツネが日本語を喋るのも、本来はとんでもない出来事なのだが、感覚が麻痺している今の千春にとっては、それが正常なのか異常なのか判断をすることができず、だからどうしたというの、という気持ちでいっぱいだった。
 千春はちらと、男の子の隣にいた、千春が母親と思っていた女性に目をやった。彼女は今も向かいに座る友人の話に相槌を打ちながら、オレンジジュースを飲んでいた。

喫茶店の不思議話

喫茶店の不思議話

お気に入りの喫茶店でケーキを食べる千春。近くの席に千春のケーキをうらやましそうに見つめる男の子がいた。千春はその子のためにケーキを注文するが……。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-10

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