海の見える駅で、渚は電車を降りた。
 無人の改札を出ると、右側にバスの車庫があり、左側にはタクシーが二台、並んで止まっていた。ボンネットに寄りかかって話をしていた運転手たちは、渚が駅舎から出てくると、視線を彼女の方に向けた。海水浴にはまだ早いのに、若い女が一人で降りてくるのは珍しいのだろう。渚は彼らに向かって、微笑みながら手を振った。男たちは手を振り返して、ようこそ、いらっしゃいと声をあげた。

 渚は土産物店を兼ねた食堂の脇の道を、海に向かって歩いた。店の裏手はすぐに林になっていて、すでに潮の匂いが満ちていた。
 林道は切り立った岩壁の下に続いていた。そこには狭くて薄暗いトンネルが掘られていた。渚は躊躇せずに、入って行った。トンネルの中ほどには、壁にくぼみが掘られ、観音像が安置されていた。海で命を落とした者を供養するためのものらしい。渚は立ち止まって、手を合わせた。

 トンネルを出ると、すぐに砂浜だった。近くには誰もいない。ずっと離れた所に駐車場と監視塔がある。夏になれば、そこも海水浴の客でそれなりに賑わう。今も車が数台止まっていて、海の中にサーフィンをしている人の姿が見えた。
 渚は左手に向かって歩いて行った。すぐ先で、さきほどの岩壁が海に向かって突き出していて、砂浜はそこで尽きていた。岩壁には段が掘られ、上っていけるようになっていた。

 渚は岩壁の上に出た。海にせり出した岩が天然の展望台のようになっていた。渚は岩の縁まで歩いて行った。下は、岩にぶつかる波が渦を巻いていて、転落した者がいたら一瞬で飲み込んでしまうだろう。海に向かって風が強く吹いてるのに、渚は恐れる素振りも見せず、縁に腰かけた。そして懐から笛を取り出し、吹き始めた。

 引いて寄せる波のように、抑制された単調な繰り返し。
 時折、荒れる風のような、調べの乱れ。
 そして、海に生きる鳥や魚たちの、命の歓び。

 曲が終わると、渚の隣に男が座った。日焼けしたような褐色の肌に、暗い淀みの色の髪。陸の方から誰かが上ってきた気配は、まったくなかった。
「変わりはないか」
 男は、海の色の目を細めた。
「私は元気です。変わっていないかといえば、ものすごく変わったけど」
 渚は答えた。彼女がサングラスを外すと、その瞳も男と同じ色をしているのが見てとれた。
「そんなせわしない暮らしのどこがよいのやら」
 男はため息をついて、傍らに置いていた袋を渚に差し出した。中には真珠が溢れそうなほど詰まっていた。
「これはいただけません」
 渚は首を振った。
「なぜだ。お前に渡すよう、長から預かってきたのだぞ」
 男が握った拳に、渚は手を重ねた。
「多すぎる富はこちらでは災いを招くのです。長なら分かってくれるはず」
「人間の強欲さなら、俺にだって分かる」
 渚は袋の口を締めようとして、それを見つけた。白や黒の真珠の中にただ一粒、蒼い真珠があった。渚はそれを摘まんで胸に当てた。その真珠は海に住まう者の想いが込められているかのように、内側に深い蒼が重なっていた。
「帰ってくる気はないのか」
 残りの真珠を受け取って、男は聞いた。
「長が私に聞くようおっしゃったのですか、兄さま」
 渚の問いに、男は黙っていた。
「ならばそれに答えることは、掟に反しましょう」
 ひときわ強い風が吹き、男の姿はもうなかった。
 渚はもう一度、蒼真珠を自分の肌に当てた。
 そして立ち上がり、駅に向かって歩き出した。

列車は街を離れ、彼女は海に向かった。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-08

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