片道二時間

微睡は海に帰るのだと、寝坊助は言う

 このぼろアパートに住んでもう何年だ、4年か、なんだあんまり住んでもいなかった。まともな一軒家の風呂場ほどの広さに、トイレも台所もなにもかも詰め込んだようなこの窮屈な部屋は、大部分を布団が占領していて、ちゃぶ台を置くこともできない。布団をたためばいいじゃないか?そう思うよね。だけど、この部屋に住んでいるもう一人の住人は、昼間に眠る。生活のサイクルが一般とは真逆なのだ。だから布団は大体の時間、使用中ということで畳まれることはほとんどない。掃除はしないのかって?たまにはするけど埃を掃き出す程度だ。私も、もう一人の住人もあまり物を持っていないから、狭い部屋の割には片付いているとは思う。古い部屋だから綺麗とは言い難いけれどね。
 私はもう一人の住人を寝坊助と呼んでいる。理由はいつも眠たそうな表情で、間延びした話し方をするからだ。本当に眠いのかはわからない。そんな寝坊助は夕方に起きる。だいたい16時くらいに。で、21時くらいに仕事へ行く。私は23時くらいには寝て、7時に起きて8時に仕事へ行く。帰ってくるのはだいたい22時過ぎで、その時にはもう寝坊助の姿はない。いつ帰ってきているのかはわからない。前に聞いた時は、だいたい9時くらい、でも日によってまちまちだよ、と言っていた。休みは二人とも土日で固定されているから私は寝坊助がこの部屋に帰ってくるのを見たことはない。寝坊助は土日のほかに平日、急に休みが入るから、その時はゆるい声で送り出し、ゆるい声で迎えてくれる。私はそれがなんだか好きで、寝坊助が平日の休みをもらうと嬉しかった。

 寝坊助は海が好きだ。寒い季節が過ぎると土曜日は必ず海に行く。平日に休みをもらっても海にはいかない。海に行くのは土曜日だけなのだ。このアパートから海までは電車で2時間。当然車なんて持っていない寝坊助は始発の電車に乗って海に行く。毎週必ずなんて、なんかすごいよね。執念というかなんというか、普通海が好きでもそんなことはしないでしょ。サーフィンしたり泳いだり、写真を撮ったりしているのならわかるけど、寝坊助はそうじゃない。ただただ砂浜を、海を見ながら歩くのだ。それも一日中、日が沈んで海が見えなくなるまで。海から帰ってきた寝坊助はあたりまえだけど海のにおいがする。でもなんだろう、それは海風とか磯の香とかじゃなくて、もっと深い、深い海の中の匂いみたいな。そんな匂いだと思う。深海に匂いなんてないだろうけれど。

 前に一度だけ、寝坊助になんの仕事をしているか聞いたことがある。夜勤なのは知っていたけれど、ここまで夜勤が続く仕事も少ないだろう。どんな仕事なの、夜勤の交代はないの、そう聞いた私に寝坊助は何もつけていないバターロールをかじりながら、面倒くさそうに言った。
「工場だよ、交代はない」
 なんだかブラックな職場なのだろうか、職場の人とうまくいっていないのだろうか、仕事のことはあまり話したがらないから、これっきり寝坊助に仕事の話を振ったことはなかった。対して私はよく寝坊助に愚痴をこぼす。仕事のことや、これまでの人生のこと、毎回同じような内容の、発展性なんて微塵もない愚痴。それでも寝坊助は眠たそうな目でうっすらしかない意識を耳に集めて聞いてくれる。相槌はほぼ無いけれど。
 やはり夜勤だからだろうか、寝坊助は結構いい給料を貰っていて、薄給の私が折半しているこの部屋の家賃すら払えない月は、立て替えてくれている。それだけもらっているのに、なんでこんなぼろアパートに住んでいるのかはわからない。だけど、出ていかれたら困るのは半額の家賃でも息絶え絶えで払っている私なのだから、寝坊助がいくら部屋を占領して寝ていようが文句はない。願わくばこのままずっと居てほしい。そして家賃を折半してほしい。あと、寝坊助が平日に休みをもらった時の「おかえり」と「いってらっしゃい」がなくなるのは、なんだかつらいというか、惜しいというか。よくわからないけど。


「仕事、終わったよ。今日が最後だった」
 なんともない顔でいつもよりうんと早い朝の6時に帰宅した寝坊助が、布団の中でまどろんでいた私に向けて、そう言い放った。反応できない私に背を向けた寝坊助は緩慢な動きで風呂場へと向かう。たしかに仕事でかいた汗を流したいだろう。今日はなかなかに気温が高い。だけど、今はちがう、そうじゃない。飛び起きた私は寝坊助のやたら白くてなんだか平べったい腕を掴んだ。
「え、終わったってなに辞めたの?契約切れた?」
 寝起きでがさがさの私の声を寝坊助の優秀な耳はなんとか聞き取ったようで、寝坊助の鼻から、ふ、と笑っているのか笑っていないのかわからない息がもれた。
「そんな感じ。もとから期間決まってたから」
「そういうのはもっと早く、あ、なら、ここ、出てくの?」
 元からこの部屋に住んでいたのは私で、寝坊助は後から転がり込んできた。その理由が職場に近くて家賃が安いだったから、仕事を辞めたなら出ていくのが当たり前だろう。寝坊助の給料なら貯金もあるだろうし、もっといい部屋で暮らせる。
「うん、明日出てくよ」
 そう答えて寝坊助は再び風呂場へと歩き出した、といっても4歩もいらないその距離を見送って、私は頭が回らないまま出勤の用意を終わらせ、いつもより早く家を出た。寝坊助は私が部屋を出るまでに風呂場から出てこなかった。私はいつも通り、会社へ向かった。あ、今日は金曜日だ。

「ただいま」
「おかえり~」
 いつも通りの仕事を終えて家に着いたのは22時、インスタントのラーメンを作っていた寝坊助に間延びした声で迎えられた。鍋にもうひと袋麺を追加してくれた寝坊助にお礼を言って部屋着に着替える。なんだかいつもと違う部屋の中を見回せば、寝坊助の荷物が片付けられていた。部屋の隅には大きめの手提げかばんと寝坊助がいつも使っていた小さめのリュックが置かれていた。
「荷物あれしかなかったっけ」
「ほかにもあったけど、いらないのはもう捨ててきたよ」
 差し出されたプラスチック製のどんぶりを受け取ると、ラーメンに一枚のハムが乗せられていた。それを箸でつまんで寝坊助のどんぶりに入れる。
「はい、餞別」
「いや自分で作ったやつじゃん」
 台所に二人並んでラーメンをすする。ちゃぶ台もないこの部屋で、食事は基本立ち食いだった。半分くらい食べたところで胡椒をふり入れた寝坊助に私のどんぶりを寄せれば少しだけふり入れてくれた。寝坊助は私が辛い物をあまり得意としないことを覚えていてくれたらしい。よく混ぜて、ラーメンをすする。少しだけ辛くなったラーメンに喉の奥がじんとして、途端、涙が出た。なんで、と思えば思うほど涙がたくさん出てきて、止まれと思えば思うほど鼻水が出た。慌ててティッシュペーパーを取りに行けば、寝坊助が胡椒入れすぎた?なんて困ったような顔で見当違いなことを言うものだから、思いっきり鼻をかんで、丸めたティッシュペーパーをゴミ箱に投げて言った。
「明日見送り行くから」
 目も鼻も赤くなっているだろう私に寝坊助は目を丸くした後、嬉しげに笑って頷いた。そして、ゴミ箱の横に落ちている私のティッシュペーパーを指さして、はずれ、とまた笑った。

 始発の電車に乗ったのは人生で何度目だろう。たぶん3度目くらいじゃないだろうか。隣では寝坊助がいつもなら考えられないくらい、いきいきとした表情で電車に揺られている。私を朝の4時にたたき起こした寝坊助は、朝ごはんも食べないまま私を連れて始発の電車に乗り込んだ。寝坊助の膝の上には昨日まとめられた荷物が入ったかばんがのせられているから、このまま新居に行くということなのだろう。確かに昨日私は見送ると言ったのだから、こうして寝坊助と一緒に電車に乗っていることは間違ってはいない。だけれど、なぜこんな早朝に出発するのだろうか、この電車はどこへ向かっているのだろうか。
 もう一時間以上揺られていたから、私立の学校の通学の時間や土曜日に働いている人の通勤時間に差し掛かるのだろう。だんだんと乗客も増えてきていた。今の職場へは徒歩で通っているから、電車通勤をしている人を見るのはなんだか新鮮だ。
「次の駅で乗り換えるよ」
「わかった。あのさ、新居ってどこなの?もしかして実家に帰るの?」
「うん、まあ、実家みたいなものかな。あ、ほら降りるよ」
 ちゃきちゃきと動く寝坊助に促されるままに乗り換える。西海線、乗ったことのない線だ。ホームの自動販売機でお茶を買おうと小銭を探していたら、乗り遅れるぞと寝坊助がICカードで払ってくれた。急いで乗り込んだ列車はガラガラで、シートはこれまで私がこれまでの人生で乗ってきたどの列車よりも柔らかい。
 列車は走り始めてすぐにトンネルに入ってしまったから、いよいよどこに向かっているのかわからなくなった。
「あと30分もすれば着くよ」
 私たちのほかに誰も乗っていない車両は静かで、いつもより明るい寝坊助の声がよく耳に響いた。あと30分なら家を出てから寝坊助の新居に着くまで2時間といったところだ。会えない距離ではないな、なんて考えてから、そもそも寝坊助は休みの日に誰かに会うようなやつではないことを思い出す。これまで寝坊助が休みの日に出かけるとしたら、それは土曜日に海に行くときだけだった。私も休みの日は家でだらだらするばかりだから、寝坊助のことは言えないが、寝坊助が誰かと遊びに行くなんて聞いたことがないし、想像もできない。そもそも寝坊助に友達はいるのだろうか。私みたいに叶わない夢に溺れて生まれ育った町を捨て、あの部屋に流れ着いて、家族や友人から忘れられてしまったのだろうか。今向かっているのは実家のようなところと言っていたから、もしかしたら寝坊助の友達も近くに住んでいるかもしれない。
 寝坊助に友達がいるか聞いてみようと顔を上げた時、耳が変になった。詰まったような塞がれたような感覚。
 不快感とキンとした痛みがつらくて、耳抜きをしようとしたけれど上手くいかない。4回トライした後に、乗り換えの時に買ったお茶を一口飲んでなんとか耳をなおすことに成功した。
「耳なおった?さっき潜ったからね」
「潜るって、この電車が?青函トンネルみたいなこと?」
「まあ、そんな感じ」
 知らなかった。結構日本には海を潜るトンネルがあるのね、なんてそこまで私も馬鹿じゃない。
 さっきからいくらスマホで検索しても「西海線」なんて線はヒットしないし、さっき乗り換えた駅名も初めて見た名前だった。この車両の中吊り広告だって、よく見ればひとつとして読める文字は書かれていない。
「ねぇ、あの広告なんて書いてあるの?」
「あれは湿布だよ。激務に負けないあなたに、だって」
「うわーきついね」

車窓の外でこぽぽ、という水の音がした。

「寝坊助、私もあの部屋出ていくよ。実家に帰ろうと思う。ちゃんと話すよ、今までのこともこれからのことも。」
 そう言った私に寝坊助は大変満足しました、という顔で笑った。私が初めて見た幸福に満ち足りたような顔だった。
「それならこのままこの電車に乗っててね、この電車は山手線と同じでぐるぐる一周するから元の駅に戻れるよ」
「あ、そうなんだ。私たちが乗り換えた駅ってどこだっけ」
「乗り換えは   駅だよ、また30分、いや50分は乗ってないとね」
「わかった。ありがとう。寝坊助はなんて言う駅で降りるの?」
「   駅だよ。そこに工場で作ってた舟があるから、そこからは舟で行く」
「舟!?海の向こうで暮らすの?会えなくなるじゃん!」
 寝坊助は一瞬、顔を固めて、それからすぐいつものまた眠そうな瞳を細めた。
「すぐには無理だけど、いつか絶対会えるよ。その時は舟に乗せてあげる」
 舟、舟か。寝坊助が務めていたのは造船所だったのか。
 その時、ぐっとまた電車が一段と深い海へ潜ったような感覚がした。なにか重たい毛布が一枚体を覆うようなこの感じは、なんだか強い眠気と似ている気がした。隣で寝坊助が大きな欠伸をした。それにつられて私も欠伸をして、寝坊助がつくった舟ってどんな舟なの、と聞こうと口を開こうとしたところで完全に睡魔にまかれてしまった。


 目を覚ましたら、実家の最寄り駅だった。
 私は何も考えずに、実家へ続く道を歩き、懐かしいような感じのする外門を開いたところで、庭に出ていた祖母にまるで捕まえられるように抱きしめられた。
 私も抱きしめ返した。最初はちょっと他人行儀に弱く、それからどんどん重く強く、最後には泣いて、安心しきって、しゃくり上げて、それで、寝坊助を思い出した。
 私は家族に忘れられてなどいなかった。この町から忘れ去られてなどいなかったのだ。忘れていたのは私の方だったのね、ごめんね、寝坊助。私が忘れていた家への帰り道を寝坊助は案内してくれたのだ。
 面倒見のよい、本当によく眠る、うちの可愛い猫、寝坊助。
 そうだった、私は眠たそうな寝坊助の隣にいるといつも一緒に寝てしまうのだ。自分のことで精いっぱいだった私はそんな幸福な思い出も忘れてしまっていた。

 寝坊助は私が家を出て二週間後くらいに亡くなったのだと、祖母が教えてくれた。居間には寝坊助の写真とお花と、ぼろぼろの舟のワッペンが飾られていた。このワッペンは私が中学校で使っていた巾着袋に母が縫い付けてくれたものだけれど、いつの日か寝坊助ががじがじと齧り取ってしまったのだ。それからワッペンは寝坊助のお気に入りで、暇さえあれば齧ってみたり匂いを嗅いでみたり、手でちょいちょいといじったりしていた。ワッペンを手に取って眺める。白と青と赤の可愛い舟、この可愛い舟に寝坊助は乗っていったのだろう。荒れることのない、美しい海を越えて、近いけれど遠いどこかへ。

 片道二時間、会えない距離ではないけれど、今はまだ会えません。いつかきみがつくった舟に乗せてもらえる、そんな日がくるまで、どうか海の向こうの幸せの地で楽しく過ごしていてください。

片道二時間

片道二時間

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-06

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