forbidden lover
『forbidden lover』
煌くガラス玉のような雨を、頬杖をついて眺める。瞳に映し出される風景は、無数の雫で滲んでいる。雨音が胸の奥で燻る記憶を、無理矢理抉じ開けようとする。こんな雨の日は、弱くて哀しい目をした貴女を思い出さずにはいられない。
嗚呼、貴女は足跡一つ残さず俺の前から消えるために、いつも雨を従えていたんだ。だから、俺達が会う日は、必ず季節外れの雨が降り注いでいた。何時だって俺は、幼稚な苛立ちと勘違いと傲慢な矜持で、貴女に無意味な八つ当たりをし、心を傷つけ、笑顔を曇らせてしまった。そんな自分勝手な愛情を振りかざすから、捨てられて当然だ。
でも、貴女が最後に残した言葉だけが、俺の心と同様に行き場を失くし、淋しげに鉛色の空を見上げながら、今も飛び立てずに空白の鳥籠の中にいる―。
彼女……。否、元彼女高宮ユウコと顔見知りから恋人に昇格した日も、雨音がやけに五月蝿い日だった。もう梅雨も明けた七月下旬だというのに、叩きつける雨が教室の窓を揺らし、窓際で後ろから二番目の席にいる俺には、先生の声が耳の奥で小さく反響していた。
頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺めながら授業を聞き流していた。―たしか、今と同じ化学の授業だったなあ……。だから、こんな雨の日の化学の授業は、嫌でも貴女との記憶が体中に絡みつくんだ。
「じゃあ、ここを……。大溝、やってみろ」
三潴先生の声で、強制的に現実へ引き戻された。俺は頬杖をついたまま目を丸くし、黒板と先生を交互に見つめた。数名のクラスメイトがわざわざ無駄なエネルギーを消費してまで後ろを振り返り、口を開こうとしない俺を探るように一瞥してきた。
「なんだ、その驚いた顔は? そんなに、自分の名前が珍しいのか。―さては、スケベな事でも考えていたのか?」
先生の下世話な予想に、クラスの空気が凍りつくのが痛い程伝わってきた。誰一人として彼の冗談に笑う者はおらず、心なしか雨音が強くなった。皆俯き、誰も俺に視線を向ける者はいない。
「じょ、冗談だよ! って言うか、お前ら一人ぐらい笑うか、突っ込むぐらいしろよな。ほら、大溝も早く答えろ!」
今度は先生が慌てふためき、語気を強めて俺の名前を呼んだ。自分で勝手に滑っただけなのに、なんだか理不尽な八つ当たりをされた気分だ。
「……すみません、聞いていませんでした」
「聞いていなかったのか? ここだよ、環状構造の有機化合物には非常に特殊な性質を示す二つのグループがある。何と何だ?」
「芳香族化合物と脂肪族化合物です」
「……正解だ。でも、ちゃんと授業に集中しろよ! お前のせいで、時間食っちまったじゃないか。じゃあ、芳香族化合物の特徴を……後ろの櫛原、端的に答えろ」
「はい。分子内にベンゼン環を含み、付加反応よりも置換反応の方が起こりやすいことです」
「正解だ。対称的で均等な正六角形の構造をしたベンゼンの環は、構造上非常に安定しており、地球上の物質で一番の理想形だと言われている。人や炭素結合にも相性があるんだな」
学年でトップクラスの成績を誇り、聡明な櫛原は澱みなく言葉を羅列していく。それを背中越しで聞きながら、彼女の無垢で澄んだ声が、どこか貴女に似ている気がした。櫛原と彼女の声がシンクロし、俺の濁った心に染み入り、突き刺すような不快感だけが体中に広がっていく。透明な針に侵食され心が壊されぬように、暗く陰気な空を見上げた。
空からも銀色に光る透明な針が、容赦なく降り注いでいた。嗚呼、今の俺には、どこにも逃げ場は無い。教室という狭い籠から抜け出しても、幼気な貴女との甘い記憶が無数に舞い降り、俺の青く光を失った世界を濡らしていくだけだ。
地球上で一番の理想形、か。じゃあ人も生きてさえすれば、不安定で歪な形をした心を誰かと結合することで、理想とする形になれるのかな? 貴女と俺は、体を重ねる事はできたが、魂の色は混ざり合えなかったんだね。
自分勝手な絶望に思考を委ねていると、背中に柔らかい針が刺さる感触がした。一瞬、妄想が具現化したかと思い、慌てて振り返った。
「どっ、どうしたの?」
俺の怯えた形相に櫛原が驚き、訝しげに訊いてきた。咄嗟に彼女の手を見ると、どうやら細く長い人差し指の針で、俺の背中を刺したようだ。柔らかく鈍い痛みを残留させたまま、背中に嫌な汗が噴出し、シャツに張り付く感覚が全身に反響していく。
「別に、なんでもねぇよ……」
櫛原から視線を逸らし、炭酸の抜けたサイダーのように力なく答える。体中に張り付いた不愉快な恐怖を打ち消す為、大きな溜め息をついた。
「ねえ、今日は職員会議だから部活ないんでしょう? 一緒に帰らない?」
彼女は俺の心情などお構いなしに、弾んだ声で誘ってきた。お前のせいで、思い出したくもない記憶に苛まれているというのに……。テストデータが弾き出し結果により、櫛原は頭が良いのは揺るぎない事実のようだが、物事を瞬時に判断し、他人への思いやりのある聡明な女性かどうかは、疑わしくなった。俺の予見を裏付けるように、櫛原の潤んだ瞳がキラキラと眩い光を発していた。二つの黒い宝石が放つ光に苛立ちを覚えながらも、誘いを断る理由が特段見つからなかったので、下唇を噛み、項垂れながら頷いた。
「じゃあ、アキの家の近くにあるコンビニの『ローセブン』に行こうよ! 今日から『兎さ丸ピン吉』フェアーが始まるんだって。頑張ってシール貯めて、ピン吉のマグカップを貰うんだ!」
ローセブン、ピン吉、かあ……。
「―分かった」
「約束ね!」
嬉しさと興奮を含んだ櫛原の瑞々しい声に三潴先生が気づき、
「コラ! 大溝と櫛原、お前ら私語を慎め。次に喋ったら、二人ともまた当てるぞ!」
ご丁寧に名指しで叱責された。俺は誰に言うわけでも、求められたわけでもないが「はい」と小さく返事をし、前を向いた。櫛原は何も言わず、呑気にシャープペンの芯を歌うように押し出していた。
―約束ね―
桃色の光を纏った貴女の唇から発せられた少し淋しげな声が、脳裏を鮮やかに駆け巡る。この時の俺は、その言葉の意味など深く考えず、彼女の艶のある唇ばかり見つめては、淫らな妄想に耽っていた。
でも、今ならはっきりと理解できる。俺達が初めて交わした約束は、二人を繋ぎ止めない為に用意された透明な鎖だったんだ。貴女はそれをいとも簡単に引き千切り、素足のままで振り返りもせずに目の前から消えていった。でも俺はここで鎖に繋がれたまま、貴女の帰りを当てもなく待ち続けている。
「一つだけ約束して欲しいの。私達が付き合っているのを、誰にも言わないでね。……理由は、分かるよね?」
ベッドの脇に座り、黒い下着姿の貴女が、いつものように不安げで臆病な目で振り返った。初めて会話を交わした時と、同じ目の色をしていた。彼女が世間に対していつも何かを憂慮している目が、俺は嫌いだった。そんなに後ろめたいなら、過去も未来もその小さな体に抱え込まずに、いっそうのこと、すべてを投げ出してしまえばいいのに―。貴女を何一つ捨てる事も、犠牲にする事もできない怯者だと思い込んでいたよ。
「……うん。分かりました」
まだセックスの余韻が残っている俺は枕に頭を預け寝転んだまま、貴女の白く滑らかな背中を指でなぞり、ひっそりと答えた。彼女の背中が少し汗ばんでいた。先ほどまでの快楽の痕跡が貴女にも刻まれたと思うと、青く成熟していない理性が、マグマのように噴出する欲望に侵食されていった。
俺の手を振り払うように貴女が立ち上がった刹那、彼女の腕を掴み、力一杯引っ張った。まるで地球上の全ての引力が、小さな町の陳腐で淫靡なホテルに置かれた湿り気を帯びた白濁するベッドに集約させたように、無理矢理二人を引き合わせた。
貴女は引き込まれるように体のバランスを崩し、小さな悲鳴を上げて、ベッドに倒れた。俺は彼女が体制を整える猶予さえ与えることなく、上から体を覆いかぶせた。貴女の細い首に口づけをしながら慣れない手つきでブラジャーのホックを外し、掌に収まる形の良い胸を下から鷲掴みした。
今考えてみても、最初の頃は酷い愛撫の仕方だったと思う。本やAVで仕入れた知識を総動員し、男として馬鹿にされないように、なんとか見よう見真似でセックスらしき行為を実践していただけだ。
相手を愛でる心なんて、この時は皆無だった。箍が外れたように出
しても出しても湧き上がる欲望は、若い自制心で抑制することは不可能に近かった。
あの淫らに湿ったベッドには、ロマンテックの欠片も、ましてや愛なんて存在しなかった。其処に在ったのは、色欲、肉情、快楽、本能、それだけだ。
顔を上げ、貴女に偽りの口づけをし、黒い上質な光沢を帯びたレースのショーツを一刻も早く剥ぎ取ろうと思案していた時、
「約束ね」
貴女はそう言うと、黒いマスカラの羽をゆっくりと瞬かせた。優しく微笑んでいるのに、目には涙を薄っすらと浮かべていた。
……なんで、泣いているんだ? 何が、そんなに哀しいんだ? 俺とこうして体を重ねる事を望んでいたから、俺に声を掛けてきたんじゃないのか?
彼女の涙の理由は分からなかったが、小さく静かな海から溢れ出そうとする雫の存在に俺は気づいていながら、それを拭うこともしなかった。それよりも、纏わりつく貴女の虚ろな視線を振り切りたくて、貪るように舌を絡めた。
硬く目を閉じ、下手糞な舌使いで貴女の口と煩わしい世界を塞いだ。生暖かい水滴の感触が頬に触れたが、目を開けることなく、今度は躊躇せずにショーツの下に隠れた肉の割れ目に手を伸ばす。彼女の秘部は、快楽の泉から愛の蜜がすでに湧き上がっていた。手探りで指を割れ目に突っ込み、無駄に卑猥な音を立てながら掻き混ぜる。聴覚と触覚の刺激に本能のリミッターが外れ、嫌がる彼女を無視して、強引に自らの性器を捻じ込んだ。
時折貴女は苦痛で歪んだ声を上げたが、初心者の俺には彼女を悦びに満ちた世界に導く手段を心得ておらず、自分だけの快楽の奥底に辿り着こうと無様に腰を振り続けた。
結局俺は、最後まで貴女を慈しみ、愛することができなかった。否、心から愛することはできた。あの時の淡く甘美な思いは嘘じゃない。ただ、この気持ちを伝える術を知らな過ぎただけだ。きっとそうだ。もう少し後に出会っていれば、運命は変えられたはずだ。
……今はそう思いたい。
貴女と出会ったのは、自宅から一番近いコンビニ『ローセブン』だった。家から徒歩五分程にあり、通学路沿いだったこともあり、最低週に一度は足を運んでいた。なぜ週一で行っていたかと言うと、ジャンプの発売日には、必ず学校帰りに立ち寄っていたからだ。
だから、オープン当時から何となく従業員の顔は把握していた。この店は従業員の居心地は良いのか、昼夜問わず人の入れ替わりが少なく、逆に新人が入ってくると注目の的になる。まるで、季節外れの転校生みたいだ。
彼女を初めて見かけた日も、春の匂いに包まれた雨が降る夕方だった。この日の午前中は、五月晴れの言葉がよく似合う空模様だったが、午後から雲行きが怪しくなり、下校する時には雨雲が空から剥がれ落ちたように激しい雨が地面を叩きつけた。
当然傘も持たずに学校に行ったので、ずぶ濡れになりながら自転車を漕ぎ、家路を急いだ。こんなに雨を浴びながら自転車を漕ぐのは、去年の夏の夕立以来だ。久方ぶりの天然のシャワーは少しだけ冷たく、張り付いたシャツが容赦なく体温を奪っていった。
体の芯まで春雷が染み入る寸前だったが、この日はジャンプの発売日だし、いちいち家に帰って着替えて、また豪雨の中を歩いてコンビニに出向くのが面倒だったので、濡れたまま買うことにした。
手早く買い物を済ませれば、問題無いはずだ。他人の目を気にしている方が、結果的に面倒な作業が増えるだけだ。
自転車を止め、濡れた体を引き連れて本棚に足を運び、ジャンプを手に取り、一目散にレジに向った。幸い、店内には俺以外の客は居らず、世界中の誰にも惨めな姿を目撃される事なく買うことができた。そう、ただ一人、貴女を除いては―。
「だっ、大丈夫ですか?」
表紙が若干湿ったジャンプをレジに置き、鞄の中から財布を取り出していると、店内に流れる安っぽい恋愛の歌に混ざり合わない程澄んだ声が、不意に耳を掠めた。顔を上げると、心配そうに俺を見つめる貴女と目が合った。
「えっ、あ、はい……」
不測の事態に、声が上手く喉を通ってくれない。見慣れない顔だ。新しく入ったバイトの人かな?
「―一点で、二百四十円です」
自分から声を掛けてきたのに、貴女はそれ以上何も訊かず、俯きながらテンプレート通りの言葉を発するだけだった。まあ、この時は俺も何かを期待している訳でもなかったし、早く会計を済ませて家に帰って、温かい風呂に入るのが先決すべき事柄だったので、特別気にも留めなかった。
彼女が慣れない手つきでレジ袋に濡れたジャンプを入れ、俺に差し出した。俺はちょうどの金額を支払い「レシートはいりません」と告げ、靴底から甲高いゴム音を鳴らしながら店を後にした。
外に出て、鞄に財布とジャンプを押し込み、自転車に跨った刹那、店内から浮かない顔で外を見つめていた貴女と視線が衝突した。俺は咄嗟に目を逸らす。
何だよ、そんなに可哀想に見えたのかよ! 俺は貴女に対して勝手な苛立ちを抱えたまま、雨の世界に飛び込んだ。
あの新人、苦手だな……。これが貴女に対する第一印象だった。そう言えば、貴女は俺と初めて会った時、どんな感情を抱いたのかな? やっぱり、ずぶ濡れのままジャンプを買いに来た可哀想な高校生だったのか? ……今更何を疑問に思おうと、貴女に確かめる手段はどこにもなく、答えの無い問いが虚しく空に消えていくだけだ。
それから、貴女は毎週月曜日の夕方には、勤務に入っていることが分かり、俺達は週一で顔を合わすようになった。顔を合わすようになったと言っても、会計をしている間の一分程度だけだが―。
何となく貴女の存在を認識し始めた頃、……そう、この日も雨が降っていた。この日も学校帰りにジャンプを買いにローセブンに行き、立ち読みしている客を掻き分けて本を取り、軽く店内を見回した後、特に購買意欲をそそられ品物が無かったので、誰も並んでいないレジに向った。
「いらっしゃいませ……」
貴女はどこか緊張しているか、小さくか細い声で言った。俺と目を合わすことなく、バーコードをスキャンし、
「一点で、二百四十円です」
いつもと同じセリフを言い、本をレジ袋に詰める。さすがに一ヶ月以上いると、素早く慣れた手つきで袋詰めを行っていた。
財布から三百円を取り出し、レシートとお釣りを受け取る時、二人の手が一瞬だけ触れ合ったのが、始まりの合図だった。儚い真実のようで、本当は嘘に塗れた二人の時間が動き出そうとしていた。
「あ、あの、えっと、その……。突然、こんな事を訊くのは失礼だと承知ですが、あの……、今、お付き合いされている人とか居ますか?」
貴女は顔を真っ赤にし、声を震わせながら俺に問いかけた。あまりにも意表を突いた質問の意図を理解するのに、数秒掛かったのは言うまでもない。
この人は、いきなり何を言っているんだ? 誰かと間違えているのか? ……それとも、俺をからかっているのか?
財布に釣銭を入れながら、疑心暗鬼の目で貴女を見つめる。この時の俺は、妙に冷静だった。きっと自身が置かれているシチュエーションが、漫画や映画のようにあまりにも非現実的過ぎて、興奮を覚える以上に、たちの悪い悪戯を仕掛けられたのではないかと思ってしまったからだ。
貴女はそれ以上何も言わず、頬を紅潮させ、下唇をいじらく噛み締めたまま、俺が言葉を紡ぎ出すのをじっと待っていた。彼女の顔つきから真摯さが痛いほど伝わり、俺もいつの間にか緊張の渦に飲み込まれていく。
「えっと、別に……居ないけど、なぜですか?」
「その、あの、ずっと貴方の事が気になっていたんです。だから、えっと、その、もし宜しければ、友達になりたいと、会う度に思っていたんです。だから、勇気を出して声を掛けてみた次第でござります。はい……」
「別に友達になるのは構いませんが、俺は貴女の事を何も知らないし―」
そう言うと、彼女はポケットから徐に紙切れを取り出し、俺に差し出した。
「これに、私の携帯番号とアドレスが書いてあるので、貴方が友達になってもいいと思えたら、連絡をください。……もし、その気が無いなら、気にせず容赦なく捨てて下さい」
緊張を胸の奥に押し込んで、若干日本語を間違えつつも一生懸命に答える彼女が、なんだか可愛く思えた。俺は心を取り巻く疑念を吐き出すように、大きく息をついた。
「分かりました」
それだけ言い、二つ折りにされた白い紙を貴女の手から受け取り、ゆっくりとポケットに忍ばせた。
これが俺と彼女がまともに交わした、初めての会話だった。まさかこの出会いが、俺の人生を劇的に変化させるものだなんて、夢にも思っていなかった。
なあ、俺を捨てた君。もし、一つだけ願いが叶うなら、君は何を願う? 俺は、この時に戻りたいよ。そして、今もポケットの中に未練垂らしくに仕舞い込んだ世界で一番大事で、宛先を無くした白い紙を躊躇なく捨て去るよ。今の君なら、きっと俺と同じ願いだろな―。
高鳴る鼓動を誰にも悟られまいと、付け焼刃の平常心で退店し、いつものようにジャンプと財布を鞄の中に入れ、ビニール傘を素早く広げた。八角形に切り取られた空は、どこまでも灰色で、他の色が混ざり合うことを禁じているように見えた。
雨音に支配された道を歩きながら、先ほど起こった事件を回想してみた。どうやら悪戯では無さそうだし、彼女の表情や声からして本気で俺と友達になりたいようだ。……友達? 否、違うな。少なくとも、彼女は俺に特別な好意を持っているから、こんな紙を渡して来たんだよな。つまり、俺が付き合ってもいいと思ったら、彼女と付き合うことになるの、か? でも雰囲気からして、相手はたぶん年上だよな。大学生くらいかな? まあ、背も小さくて、化粧もケバ過ぎないし、猫目で小動物っぽくて可愛いから、年上でも合格ラインだな。それに付き合えば、俺もとうとう童貞を卒業できるし、大人の女の方が手取り足取りレクチャーしてくれて、初心者には打ってつけの相手だ。そしていずれは、めくるめく倒錯した大人の世界に―。
「いいかもしれない!」
性にとり憑かれた妄想が、思わず声となって放たれた。とりあえず付き合ってから、徐々に彼女の事を好きになればいいんだ。そうだよ。そうすれば、いいんだ! ゴチャゴチャと深く考えるな。自分の雄としての本能に、従えばいいんだよ。でも、本当にそれでいいのか? 初めから愛の無いセックスをして、後悔しないか? だって、俺は―。
足を止め、貴女から渡された紙切れをポケットから取り出し、一瞥した後、雨に濡れないように再びポケットに押し込んだ。本能と理性が鬩ぎ合っている思考のまま、地面形成された水たまりに波紋が広がる光景を、ぼんやりと俯きながら見つめた。曖昧で儚い光と水の輪郭を、今でもくっきりと瞼の裏で想い描く事ができる。
どうして人は、こんなに透明で青い思い出すら忘れたいと願うのだろうか。十七のガキでしかない今の俺には、その理由は分からない。
「アキ! 何、ぼーっとしてるの? もう授業おわったよ」
櫛原の声で、ほろ苦い思い出から湿った現実に引き戻された。
「あっ、そうなの?」
「そうなの、じゃないよ。いつまで化学の教科書とノートを出してるつもりなの? もうホームルームも終わって、掃除の時間だよ。ほら、早く机を下げないと、前の席の人が迷惑してるよ!」
前の席の新原君に「ごめん」と慌てて謝罪し、素早く立ち上がり、机を下げた瞬間、教科書が乾いた音を立てて床に落下した。
「アキったら、何やってるの?」
櫛原は小言を言いながら教科書を拾い、俺に手渡した。
「何でもねえよ!」
彼女から乱暴に教科書を奪い取り、机の中に投げるように放り込み、机を引きずりながら下げた。櫛原は俺の不可解な苛立ちに怯え、彼女の目の前を通り過ぎても、何も話し掛けてこなかった。
廊下掃除を片手間に済ませ、教室の掃除が終わるまで幼馴染の水城と廊下で取り留めもない話をしながら暇を潰すことにした。
「しっかし、よく降るよな、雨」
「そうだね」
水城は四角に切り取られた鉛色の空を見上げながら言った。俺は陰惨な空模様に気が滅入りそうだったので、華やかな教室を虚ろな瞳で見つめていた。
「来週も雨かな?」
「なんで、来週? 何かあんの?」
「お前、ぼんやりしてるな! だって来週は―」
水城はそう言いかけて、露骨に俺から視線を外した。俺は訝しげに眉を顰める。
「来週が何だよ? 幼馴染の俺に言えないような事でもするのか?」
「否、別になんでもねえよ……」
「そんな言い方されたら、余計気になるじゃん! 怒らないし秘密にするから、教えろよ」
水城の歯切れの悪い言葉が脳裏で膨れ上がり、よりいっそう気がかりになった。彼は唇を尖らせながら俺を一瞥し、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「ほら、その、なんだ。来週は、福筑川の花火大会があるんだよ。この前、お前に花火大会の話をしたら急に不機嫌になったから、地雷でも踏んだかと思ったんだ―」
嗚呼、そうだ。あの時は、一日中貴女の事でイラついていた。ちょうど別れる一週間くらい前だったかな。つまり、二人の時間が終わりに向って流れていた時期だ。
貴女から提示された約束を忠実に守り、誰にも二人の交際を報告せずにいた。罪に彩られた秘密の交際に、初めは優越感を抱いていた。周りの高校生同士のママゴトの延長上でしかないカップル達とは一味も二味も違うデートの内容や、相手が大人なので感情的、金銭的にも甘えられる状況を楽しんでいた。それを自慢する事自体、友人達に対して申し訳ないとすら考えていた。我ながら、傲慢で稚拙な思考回路だ。
街で溢れる同世代のカップルを砂の城から見下ろしていたが、所詮不遜の砂漠に出来た脆弱な砂上の城。俺のちっぽけで尊大な矜持と共に、次第に崩壊していくことになる。
貴女と付き合ってから三週間が過ぎた頃、世間の高校は悪魔の定期テストも終了し、夏休みに王手をかけていた。入道雲が悠然と空を泳ぎ、茹だる様な暑さに教室が支配されても、青春ど真ん中の諸君は浮き足だっていた。特に恋人持ちには、待ちに待った季節である。
俺の住む県には、福筑川と言う大きな川が流れている。九州四県に跨り、国内で三番目の流域面積を誇っている。豪雨などに起因する水害から人々を守り、各地に肥沃な土を運び、川は古くから経済及び文化の発展に欠かせない存在だ。また、河川敷は行政により整備されており、市民の憩いの場であり、地元のシンボルにもなっている。
福筑川花火大会は、県内で二番目に大きな花火大会で、他県からも見物客が来るほど盛大な祭り事だ。つまり、田舎に住む人間にとっては一大行事なのだ。
しかも、その花火大会には真しやかなジンクスが存在する。最後に打ち上げられる真っ赤な花火をカップルで手を繋いで見ると、花火の儚い命と引き換えに、その愛は永遠に継続していく―らしい。なんとも乙女チックで、どこかで聞いたことがあるような、捻りのない平凡な言い伝えだ。
昔はそのジンクスを信じていなかったし、そんな不確定で曖昧な現象を鼻で笑っていた。しかし、年月とは不思議なものだ。恋人が欲しい年齢に近付けば近付くほど、乙女なジンクスを信じるようになり、自分もそっち側の輪に入りたいと願うようになった。もちろん男友達と馬鹿騒ぎをしながら行くのも楽しかったが、やっぱり彼女と花火大会で浴衣デートは、男達の永遠の憧れだ。
憧れを実現させる為に、皆が作戦会議を重ねる中、俺は彼女が居ながら蚊帳の外だった。他の女を誘う気になれなかったし、この時は微かな予感が胸を掠めていただけだが、俺は本気で貴女に惹かれ始めていた。
俺だって友達に彼女の自慢話をしたいし、遊園地や買い物デートに行きたいし、ゆっくりと愛を育て、心から愛しいと思えた貴女と体を重ねたかった。誰にも交際を明かせず、いつも人目を忍んで逢うのにも嫌気がしていた。秘密の交際を都合良く利用しようとしたのに、それが次第に重荷に感じ、先に逃げ出したのは貴女ではなく、俺の方だ。
だから、花火大会や周りのカップルの浮ついた話に、必要以上に苛立ち、受け流す余裕がなくなっていた。あの時の水城には、申し訳なく思っている。ごめんな。
今年の夏も、俺はその夢を叶えられそうにないようだ。たとえ彼女が居ても、貴女じゃなきゃ意味がないんだ。貴女と手を繋いで花火を見たい。そんなシンプルで純粋な答えに、今更辿りついても聞いて欲しい人は、この手を風のように擦り抜け、離れていってしまったんだ。
「―キ、おい、アキ! 大丈夫か?」
断片的に耳の奥に反響する聞き慣れた声が、強制的に記憶の海から俺を引き上げる。
「あっ、ごめん。ぼーっとしてた。えっと、花火大会の話だっけ?」
「否、その話よりも、アキはmixiやってるよな?」
水城が努めて明るい声で訊いてきた。突然どうしたんだ?
「―嗚呼。それがどうした? って言うか、俺たちマイミク登録してるじゃん!」
「ごめん、そうだった! じゃあ、Facebookは?」
「やってるよ」
「マジで? 俺も昨日から始めたんだ。Facebookは本名公開制で安心だから、mixiより友達の輪が広がりそうだよな。それにどっかの国で、Facebookの呼びかけでデモとか革命が起こったんだよな。すごい時代だぜ。お互いの顔を知らなくても、同じ目的や志があれば友達になり、国を動かす事ができる。今や、探偵とか雇わなくても、顔と少しの個人情報を押さえ、パソコンとSNSを駆使すれば簡単に人探しができる。携帯電話が、相手のすべてじゃないんだよな。俺もFacebook使って、小学校の頃に好きだった女の子でも、捜してみようかな」
水城は淡い願い事を、遠くの雨空を見上げながら呟くように言った。やっぱり男は、同じ事を考えるんだな。それに気が付いた刹那、胸中で切ない笑みが零れた。
俺は貴女と別れた後、どうしても、もう一度だけ会いたくて、貴女に電話とメールを送ったが、すでに変更されていた。機会仕込みの音声ガイダンスが、俺の絶望をせせら笑うかのように繰り返された。
諦めの速さなら誰にも負ける気がしない俺でも、今回ばかりは諦められなかった。携帯電話がダメなら、mixiやFacebookなどのSNSで、彼女を探せばいい。今の時代、どっちらもやっていないはずがない。そんな勝手で希望的推論の基、まずはmixiで貴女に関連するキーワードを入力して探したが、見つからない。確かに、俺が彼女に対して知っている事といえば、名前と地元と年とバイト先くらいだ。この時、いかに彼女の事を知らずに付き合いっていたのかを、十分過ぎるくらい痛感した。
でも、ここでも諦めきれなかった。どうしても、あの言葉を伝えたい。その一心で、今度はFacebookに登録した。このサイトは、本名や個人情報の登録しなければならないSNSだ。きっと見つかるはずだ! 登録を済ませ、さっそく貴女の名前を打ち込んだ。
結果はノーヒット。掠りもしなかった。完全に希望が断たれたと思った。普段、携帯やパソコンで繋がりを求める薄っぺらい絆なんて、反吐が出るほど嫌いだった。そんなもんで一喜一憂している連中を、憐れで惨めとさえ思っていた。
それが、なんてザマだ。未練たらしく貴女を検索しまくり、何とかコンタクトを取ろうと、必死の形相でパソコンに向っている姿を、少し前までは想像すらできなかった。俺の価値観を変えるほど、貴女は影響力を持っていたことに、遅蒔きながら気付かされた。……貴女と別れて、俺は気付く事が多過ぎるな。愛しさの影を纏った過去は、暫くの間は緩やかに消えてくれそうにないらしい。
心の奥に沈めた青くデジタルな箱に残された最後の希望は、どうやら気まぐれな神の導きにより、貴女に引き合わせてもらうしか、願いは叶えられないようだ。人間とはこんな時に限って、普段信じてもいない神と言う曖昧な存在に、強固で確かな願いを届けようとする。
千切れた思いを光の糸で縫い合わせ、継ぎ接ぎだらけの愛を貴女に伝えたと願っても、俺の信仰する即席の神様は赦してくれそうにないようだ。
ねえ、貴女は今どこで何をして、誰と居るの? 俺は、誰とどこに居ても、貴女のことばかり考えている。夢の中でさえも、哀しい目をした貴女を探しているよ。たぶん、これからもずっと、ね―。
憂鬱を抱えて教室に戻ると、すでに掃除は終了していた。皆は談笑しながら帰る支度をしている。学校と言う名の監獄から解放された若者達は、鬱陶しい雨を吹き飛ばすほど晴れやかな表情で、虚ろな気分に浸っている俺の横を通り過ぎて行く。彼等の鮮やかで朗らかな装いが、余計に俺をうらぶれた思いにさせた。
溜め息を飲み込み、席に向うと、後ろの席で櫛原が頬杖をついて暗い空を見上げていた。彼女の視線を追うように外を見ると、答えのない雨は止んでいなかった。
そう言えば、櫛原と一緒に帰る約束をしていたなあ。その前に、一言謝っておかないと。こんな気分で一緒に帰っても、何一つ楽しくないしね。
俺は席に着き、後ろを振り返る。櫛原は空に目を奪われたままだ。
「なあ、櫛原。……さっきは、乱暴な言い方して悪かったよ。ごめんな」
櫛原の表情を探るように、優しく声を掛ける。彼女は頬杖をついたまま、視線だけ俺に向け、
「怒ってないよ」
そう柔らかな笑顔で言った。櫛原の言葉と表情に安堵し、俺も自然と笑みが零れた。今ならこんなに素直に、偽者の彼女に謝ることができるのに、どうして心から愛した貴女には、一度も謝ることができなかったのだろう。
「―ごめんなさい」
「だから、もう怒ってないよ。私も悪かったし、ね。それよりも、ローセブン行く前にMドナルド行かない? 今日から期間限定で、アボカドシェイクが発売されるんだって!」
櫛原は、大好きなお菓子を見つけた子供のように目を輝かせながら言った。でも、ちょっと待てよ。アボカドシェイクだと?
「……何、それ? 美味しいの?」
「分かんない! でも、せっかくなら飲んでみたくない? 未知なる物への飽くなき探究心は、人間だけが授けられた特権だしね」
「その特権とやらの使い道が、アボカドシェイクなの?」
櫛原は無邪気に満面の笑顔で頷いた。彼女の探究心と行動力に驚き感心しつつも、好きなものを躊躇いなく好きと言える自分にはない真っ直ぐな心が羨ましかった。それが、彼女に惹かれた一番の理由なのかな……。
二人で下駄箱に行き、靴を履き替えていると、
「もう、やだー!」
櫛原の溜め息交じりの声が耳に飛び込んできた。傘立ての前に佇む彼女に、俺は慌てて駆け寄る。
「どっ、どうしたの?」
「傘が見当たらないの! きっと誰かが、間違えて持って返ったんだ。お気に入りの傘なのに、最悪……」
傘立てを呆然と眺め、肩を落とす櫛原。ここで応急処置的な慰めの言葉でも掛けようと思ったが、それでは彼女の気分が晴れるはずはない。
俺はローセブンのテープが付いたままのビニール傘を取り、
「じゃあ、二人で一つの傘に入って帰ろうよ。今度、どこか遊びに行った時に傘を買ってあげるから、今日は俺のビニール傘で我慢してくれ。だから、そんなに落ち込むなよ」
落ち込む櫛原を慰めるように提案した。俺の言葉が彼女の傷を多少なりとも癒したのか「ありがとう」と、弾んだ声が返ってきた。
一つの傘に肩を寄せ合い、俺達は学校を後にした。相も変わらず雨は降り続き、傘の中では乾いた雨音が二人を包み込んだ。
彼女と二人で一つの傘を差してデートをするのは男のロマンだが、現実はそう甘くはない。彼女が雨に濡れていないか常に気を使い、通行人とすれ違う度に衝突しないように、こちらが一度立ち止まるべきか選択を迫られる。それ故、男は体の半分も傘の中に入れず、片方の肩だけが以上に濡れてしまう。
せめて、もっと彼女と体を近づけることができればなあ……。雨音を聞きながら、そんな事を考えていると、いきなり櫛原が俺の手を握り、体を密着させてきた。あまりのタイミングの良さに頭の中を覗かれたかと思った。
「えへへ。これで、二人とも濡れないね」
櫛原は目を細め、チャームポイントの八重歯を無防備に覗かせた。
俺はちくりと胸が痛み、彼女の笑顔から逃げ出したい気持ちを押し
殺して、よくできた作り笑いを浮かべた。嗚呼、抑圧してきた惨め
な気持ちが、たちの悪い風邪のようにぶり返してくる。
「どうしたの?」
俺の異変に櫛原が気付き、心配そうに見上げてきた。俺は彼女の
不安を拭うように、強く手を握り返した。彼女の手は柔らかく、少
し湿っていた。
「何でもないよ。それよりも、Mドナルドが混むんでないといいな」
「この雨だし、もしかしたら混んでるかもね。打開策は、その時に考えよう。さっきから気になっていたんだけど、この傘の手元に貼られたローセブンのシール剥がさないの?」
「―これは、いいんだ。このままで」
櫛原は不思議そうな顔で俺の目を凝視してきたが、俺の心中を察したのかどうかは分からないが、それ以上何も聞いてこなかった。
この傘は、唯一貴女がプレゼントしてくれた物だ。初めてのデートでハリウッド仕込みのCGを駆使したつまらないSF映画を鑑賞し、チープで淫靡なホテルから出ると雨が降っていた。
貴女は俺を残して、近くのローセブンに駆け込んだ。大人に一歩近付いたと勘違いして見上げた空は、俺の晴れやかの気分とは対照的に静かに壊れていくように泣いていた。もしかして、これはあの時の貴女の心模様だったのかな?
光の届かない空を見上げていると、小さな引力に袖を引き寄せられた。
「あの、これ……。その、風邪をひいたらいけないから……」
か細い声で俯きながら彼女が言い、買ったばかりの透明な傘を差し出してきた。俺はそれを受け取り、ぶっきら棒に「ありがと」としか言えなかったが、本当は貴女の気遣いが嬉しくて仕方がなかった。しかし湧き上がる真綿のような感情を、どんな顔と声で表現していいのか分からず、つい冷たく言い放ってしまった。彼女は何も言わずに、俯いたままだった。でも、俺は気付いていたよ。貴女の頬が、ほんのり赤く染まっていたことを―。
それからデートの日はいつも雨だったから、俺はわざとテープを付けたままの傘を持って、二人だけの秘密の場所で貴女を待ち侘びた。彼女が一目見て、プレゼントした傘だと分かるように。
一度だけ、二人でこの傘に肩を寄せ合って歩いたね。あれは二回目のデートで、彼女の運転で雨の降る海を見に行った時だ。前日の天気予報では快晴だったのに、呪いをかけられたように、朝から大雨だった。
それでも俺は、どうしても当初の計画通りに、海に行きたかった。彼女と海岸デートをするのが、昔からの夢だったからだ。おまけに今回は、都合のいい足まである。これは、何が何でも行くしかないと、所在不明な使命感に駆られて、貴女に無理矢理車を出させた。車の中で会話はほとんど無く、俺の知らない彼女の好きな歌が沈黙を埋めていた。
海岸に到着し、車を停めて砂浜に下りる。案の定、モノクロの海が待ち受けていると思いきや、雨は上がり、灰色の世界を横断するように真っ赤な夕日が水平線上に尾を引いていた。空を見上げると、雲の隙間から濃紺のカーテンが広がり、白い月が浮かび始めていた。
「綺麗……」
貴女は煌く水面のように目を潤ませて、言葉をそっと風に乗せた。夕日に照らされた彼女の横顔。潮風に揺れる長く茶色い髪。波のように穏やかな微笑み。貴女に心を奪われた瞬間だった。こんなに美しく愛らしい女性に、一度も出会ったことはない。本気でそう思った。そして、これからも出会うことはないだろう。
「あの―」
この時、俺は猛烈に貴女を抱きしめたかった。強く強く抱きしめ、優しくキスがしたかった。欲望が支配した乱暴で、下手糞な抱擁と口づけではなく、愛しさが絡みついた鼓動を伝えるように唇を重ねたかった。
「ん?」
貴女は上目使いで微笑みながら、俺の顔を無邪気に覗き込む。俺の胸を過ぎった願望が欲望塗れの穢れた性欲だと、彼女の真っ直ぐで素直な視線に軽蔑されそうで、何も言えずに目を逸らした。
「何でもない……」
俺は波音にかき消されるように、力なく呟いた。邪な思いから交際を始めた事に、後悔した。何を言っても、嘘で塗り固められた愛の言葉だと思われるんだろうな―。
俺の素っ気ない言葉と態度に、貴女の笑顔も目の輝きも消え失せ、
「……そう」
彼女の沈んだ声は、押し寄せる波に砂と共に浚われた。
二人は行き場のない心を夕日に委ねて、当てもなく砂浜を歩き出した。誰も居ない砂浜に、一定の距離を保ちながら大きさの違う足跡を描いていく。寄せては返す波音が、心地良く耳の奥に残響していった。
突然貴女は波打ち際に走り出し、綺麗なラインストーンが散りばめられたサンダルを脱ぎ捨てた。彼女はロングワンピースのスカートの裾を持ち、ぱちゃぱちゃと音を立て、海と戯れ始めた。俺は駆け寄ることをせず、赤色が増した夕日と彼女の華奢な背中を見つめていた。
貴女は黄金色に染まった海を見つめながら、背中越しに言葉を溢し始めた。
「私ね、海が嫌いなんだ。海を見ると、楽しかった思い出が勝手に押し寄せてくるの。小さい頃に家族で海水浴に行ったことや、高校生の時に初めてできた彼氏と浜辺を手を繋いで歩いたことや、大学のサークル合宿で先輩に夜の海で告白されたこと―。楽しかった時間しか思い出せない。この海みたいに綺麗だけど、今の私にとっては苦しくて汚したい思い出なの」
俺は湿った風に揺れる貴女の長い髪を、ただ見つめることしかできなかった。
「私、就職活動に失敗したの。何十社受けても、全然ダメだった。私ね、研究者になりたかったんだ。八歳の時、お兄ちゃんが白血病で死んだの。まだ十五歳だった。勉強もスポーツも万能で、こんなデキソコナイの妹にも優しくて、自慢の兄だった。病気が発覚して、彼の辛い入院生活が始まった。治療で髪は抜けるし、肌はボロボロになり、口中に口内炎ができて痛みのせいで食べ物を何一つ摂取することができなくなった。元気一杯に外を駆け回っていた兄の姿は、影も形もなくなった。それでも病気が治ると信じて、辛く苦しい治療を、涙一つ見せずに頑張っていた。そして、運良く待ちに待ったドナーが見つかったのに、土壇場で拒否されたわ。詳しい事情は両親から聞いていないから分からないけど、子供だった私は相手を酷く憎んだわ。命を救いたいからドナーに登録したはずなのに、それを拒否するなんて信じられなかった。彼には一筋の希望もなくなった。でもね、お兄ちゃんはその話を聞いた時も、泣かずに力なく笑っていた。きっと、すべてに対して諦念していたんだと思う。それから程なくして、彼は静かに息を引き取った。死ぬ時も、頬を引き攣らせながら笑っていたわ。馬鹿よね。最後まで優等生ぶらなくていいのに……」
貴女の記憶の断片が、煌く海に剥がれ落ちる。それを海は、一つ残らず拾い集めていく。
「お兄ちゃんが死んだ数年後に、祖父も胃癌で亡くなったわ。その時父親から知らされたんだけど、自分は癌家系なんだって。だから、私も癌で死ぬ確率は極めて高いし、自分の子供に影響してもおかしくないんだ。何となく予感はしていたけど、いざ現実を突きつけられると怖くなった。私はお兄ちゃんのように、我慢強くないし、きっと狂ったように叫びまくるわ。
だから薬学部に入って、癌治療に有効な薬を開発したいと思った。本当は医学部に進むべきなんだけど、残念ながら頭が足りなかったの。でも、大学時代は一生懸命勉強したわ。研究室でチームを組んで、学会の発表の為に何日も泊り込んで作業もした。あんなに努力したのに、学会でボロ糞に言われて悔しい思いもした。教授に、研究結果を酷評されて泣いたこともあった。実験は根気がいるし、同時に薬剤師免許の勉強もあったから辛かった事の方が多くても、夢があったから楽しかった。
そして無事に免許も取って、いざ社会に出る為に就活を始めたわ。正直に言って、自分が培ってきた知識と研究には自信があった。志望動機も明確だったし、私だけが経験した辛いバックボーンもあったから、面接で話すネタには事欠かなかった。でも、現実は容赦なかった。私なんかより優秀で知識の高い人間は、この世界にはたくさん居たわ。それでも始めのうちは上手くいかなくても、どうにかなるだろうて、楽観視していた。否、私の才能が見抜けない会社なんて、こっちからお断りよ、て傲慢な考え方をしていたわ。でもね、あまりにも不採用の通知が続き、研究を面接で厳しく評価されるうちに、自分はこっちの世界に必要とされていないんじゃないのか、て思い始めたの。悪い考えは凄まじい速度で膨れ上がり、私から自信も夢も希望も奪い取り、最後は人格まで否定してきた。受ける会社がなくなってもプライドが邪魔をして、就職に妥協できなかった。だって、研究者になりたくて今まで頑張ってきたのに、他の職業なんて考えられない。製薬業界が不況だって知っているから、周りは堅実的な道を歩み、卒業していった。研究室で就職が決まらなかったのは、私だけ……。
だから、逃げるように実家に帰って来たの。夢と自分の弱い心からね。薬剤師の免許を持っていたけど、薬に関わる仕事はしたくなかった。惨めな自分を思い出したくなかった。だから薬とまったく関係ないローセブンでバイトしていたら、君を見つけたんだ」
そう言うと、貴女は長い髪を靡かせながら振り返った。逆光が彼女の笑顔に、ひっそりと影を落とす。
「アキ君を初めて見た時、びっくりしたわ。高校生の時に初めて付き合った彼に体躯も声もそっくりで、ドッペルゲンガーが現れたかと思ったくらいよ! それから毎週月曜日にジャンプを買いに来る君が気になり、どうしても声をかけたくなった。……アキ君が、私のことを好きで付き合っていないのは知っているわ。何が目的なのかも。でもね、それでもいいの。私もアキ君を本当に好きかどうか、正直分からない。……君と付き合えば、何の不安もなく、恋と目標に夢中でいられた高校生に戻れるんじゃないかって、思ったの。アキ君はアキ君の時間が流れているのに、私の過去に引きずり込むなんて、最低だよね」
貴女は声高に泣くことも、取り乱すことも、逃げ出すこともせず、静かな海の中で影を纏いながら哀しげに笑っていた。きっと彼女のお兄さんも、こんな哀しい笑顔をしていたんだね。俺はまたしても何も言葉が浮かんでこず、厚い雲に覆われた空を見上げた。白い月は、跡形も無く消えていた。
突然、空から透明な雫が舞い降り、頬を撫でるように濡らした。
「……雨が降ってきたね。車に戻ろうか?」
傷心しきっている貴女に、優しく語り掛けた。太陽から放たれる最後の光を宿し、仄かに煌く水面を彼女は見つめていた。
「もう少しだけ、ここに居たい―」
暗く大きな海に、ささやかな願いを託すように囁いた。俺が貴女の為に唯一できることは、この千切れそうな願いを海に沈めず、空に浮かび上がらせることだ。
そう思った瞬間、スニーカーのまま海に入り、彼女に歩み寄る。さっきまで、一歩も動けなかったのが嘘のようだ。もう梅雨も明けたというのに、思ったよりも海は冷たかった。
貴女から車の鍵を受け取り、濡れたスニーカーに砂を従えながら積んでおいた傘を取りに行く。そう、貴女が授けてくれた傘だ。
急いで海の中で待つ彼女に駆け寄り、空色の傘を差した。雨が遮断された二人だけの世界。貴女は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめる。打ち寄せる波が、優しく足を愛撫する。
「……海は冷たいから、砂浜を散歩しよう。貴女の気が済むまで、ここに居ていいから……」
貴女は小さい子供のように頷き、海に美しい透明な真珠を一粒だけ落とした。意気地の無い俺は、彼女の頬を拭うことができなかった。せめて冷たい雨がかからないように、貴女に傘を傾けることしかできなかった。
俺達は海から上がり、濡れた足のまま海岸を散歩した。俺は貴女が濡れないように傘を傾けるが、微妙な距離を埋められなくて、二人の肩は濡れていた。
二人の間には乾いた雨音が降り積もる沈黙を埋めるだけで、一言も会話はなかった。それでも、よかった。迷子のように哀しい目をした貴女だけが、灰色の世界で唯一リアルだった。
「―え、ねえ、アキ! 聞いてるの?」
俺の名前を大きな声で呼びながら、誰かが肩を叩いてきた。もしかして、ユウ……。声のする方へ振り向くと、頬を膨らませた櫛原と視線が衝突した。どうやら、切ない幻聴だった。
「あっ、ごめん。……何だっけ?」
「もう、ちゃんと話聞いてよね! 福筑川花火大会の話だよ。私、浴衣新調したんだ」
「へえ、そうなんだ……」
煌く未来に心躍らせる彼女とは正反対のトーンで答えた。それが櫛原にとっては不愉快だったらしく、怒りを孕んだ目で俺を睨みつける。
「アキは、花火大会楽しみじゃないの?」
背中に嫌な汗が噴出す。俺は彼女の怒りを沈静しようと、強く手を握った。
「そんなことないよ! 櫛原の浴衣姿、すっげー見たいもん! ほら、お待ちかねのMドナルドに着いたよ。アボカドシェイクを飲みに来たんだろう?」
間に合わせで取り繕った慰めの言葉を並べながら櫛原の手を引き、Mドナルドの扉を開けた。
「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりでしょうか?」
「はい!」
櫛原が元気良く答える。どうやら彼女の機嫌は直ったようだ。
店内を見渡すと、俺達の予想に反して、店は空いていた。まばらに人が座っているだけで、緩やかに時が流れていた。
「では、ご注文をどうぞ」
「えっと、アボカドシェイクのSを一つとポテトのSが一つと……、アキはどうするの?」
「あっ、えっとですね、俺もポテトのSとアイスコーヒーのSを一つお願いします」
「はい、かしこまりました。それではご注文は、アボカドシェイクとアイスコーヒー、それぞれSサイズが一つと、ポテトのSがお二つでよろしいでしょうか? それではお会計が―」
「櫛原、先に席を確保しておいてくれ。俺が払っておくから」
財布を出そうとする櫛原を制止し、俺は男として見栄を張った。
「えっ? いいよ。自分の分は、自分で払うから」
「いいから、いいから。ほら、早く行って、席で待ってな」
申し訳なさそうだが、どこか嬉しそうな顔をした彼女をテーブル席に向わせ、レジで会計を済まし、商品が乗せられたトレーを受け取る。ポテトから脂ぎった美味そうな匂いが鼻を擽る。
櫛原の姿を探して店内を見回すと、
「アキ!」
窓際の席に腰を降ろし、満面の笑顔で彼女が大きく手を振る。櫛原の笑顔に吸い寄せられるように、彼女の元に向う。
「はい、お待ちかねのアボカドシェイクだよ」
鮮やかな緑色で冷えたシェイクを取り、櫛原に手渡す。
「ありがとう。でも、今度は私に奢らせてね」
そう言うと、櫛原はシェイクにストローを刺し、未知の飲み物を口に含んだ。そんなに気にしなくてもいいのに……。でも、彼女の気遣いは嬉しかった。世の中には奢ってもらって当たり前な女が溢れかえっているのに、櫛原は気の利くいい女だよ。
「嗚呼、分かった。じゃあ、その時は頼むよ。それよりも、シェイク美味しい?」
「うん、以外にイケるよ。そんなにアボカドの味はしないし、バニラの割合の方が多いんじゃないかな。アキも飲む?」
「大丈夫だよ。俺にはアイスコーヒーがあるし……」
すでに汗をかいているアイスコーヒーにコーヒーフレッシュを入れながら、櫛原の申し出を丁重にお断りした。俺の発言に彼女は頬を膨らませて「おいしいのに、もったいない!」と口を尖らせて言い、再びシェイクに口をつけた。学年でもトップ5に入るくらい美人で大人びた櫛原が、時々覗かせる子供っぽさが好きだ。否、好きだったと言った方が、今は正確な感情かもしれないな。
「そうだ! せっかくだから、写メ撮ってもいい? Mドナルドデートの記念に、ね」
ストローを刺し、アイスコーヒーを飲もうとしたが、手を止め、カップをトレーに置いた。
「気にしないで、飲んでていいよ。勝手に写メ撮るだけだから」
「俺のアイスコーヒーちゃんも仲間外れにしないで、一緒に撮ってあげてよ」
櫛原は笑いながら「了解!」と言い、ショッキングピンクの携帯電話のカメラでピントを合わし、トレーを撮影した。
「バッチリ撮れた! 保存しなきゃ」
写真の出来に満足したのか、櫛原は携帯の画面を見ながらにっこり微笑んだ。
「―なあ、櫛原は撮った写メを見返したりするの?」
俺は素朴な疑問を投げかけてみた。櫛原は手を止め、眉を顰めて天井を見上げる。
「……言われてみれば、何かしらきっかけがないと見返さないかも。お手軽に写真が撮れる分、携帯電話を紛失しない限り半永久的にデータが残るから、それに甘んじて放置してしまうね。でも、アキとの写真はにやにや笑いながら、しょっちゅう見返すよ。だって、大好きな人との大切な思い出だもん! 写真って、不思議だよね。だって、その瞬間を切り取った紙や静止画を見るだけで、その時にタイムスリップできるんだもの」
確かに、櫛原の言うとおりだ。写真と音楽は現代のタイムマシーンだ。それらが視覚や聴覚が脳髄に流れ込むだけで、思考は時間軸を縦横無尽に飛び交い、過去を追体験することができる。さらに写真は、その時の撮影者の心情も映し出しているのかもしれないな。
俺には、どうしても見ることも消すこともできない写メが、世界に一枚だけ存在する。実は、貴女に内緒で寝顔を一枚だけ撮影していた。乱れたベッドの上で、貴女を苦しめるものが何一つない夢の世界へ誘われた彼女の寝顔をこっそり撮影していた。汗と涙で落ちかけたマスカラでさえも、綺麗だった。
今日こそは、貴女を悦ばせようと思っていたのに、結局この夜も自分の性欲を優先してしまった。揺らめく罪悪感と共に雨が降り注いでいた。
「そういうアキはどうなの?」
「―俺は、どうだろう? でも、これから櫛原と撮る写メは見返すと思うよ」
櫛原は俺の言葉がよっぽど嬉しかったのか、俺の知らない鼻歌を奏でながら、ポテトを食べていた。細く伸びたポテトを摘み、口に運ぶ。彼女は人差し指と親指についた塩を粘膜で潤んだ舌に乗せ、
指を味わうように舌を絡ませる。俺は櫛原の口元を、邪心を孕みながら凝視した。
「どうしたの? ……あっ! もしかして、いやらしい事を考えてたでしょう?」
俺の必要以上の熱視線の意図は、櫛原に簡単に見破られてしまった。
「ちっ、違うよ!」
彼女の疑いの目から逃げるように、外に視線を逃がした。相変わらず外の世界は、雨が支配していた。
恥ずかしさで頬を赤く染める俺とは対照的に、余裕でクスクスと意地悪な笑顔を浮かべる櫛原。彼女には敵わないなあ。
「ねえ、今度のデートは映画を見に行こうよ! 最近上映しているので、アキが見たい映画って、何?」
羞恥心に打ちひしがれる俺に、櫛原が助け舟を出してくれた。このチャンスを逃すまいと、脳みそをフル回転させて上映中の映画を思い出そうとするが、まったく思い出せない。
「……今やっている映画を、何一つ思い出せない。ごめん、役立たずで……。でも、ゴリゴリのCGが駆使された派手な映画や血生臭い映画よりも、落ち着いた気持ちで見る映画がいいな。ジャンルで言えば、感動系や恋愛系が見たいかな」
「私も同じで、SFやグロい映画は苦手なんだ。なんか、感情移入出来ないせいか、鑑賞し終わった後に、どっと疲れるんだよね。やっぱりアキとは趣味が合うよね。これって、男女が付き合う上で大切だと思わない?」
「そうだね。―櫛原って、『セブン』てタイトルの映画を知ってる?」
櫛原は数回瞬きをし、眉を八の字にしながら首を横に振った。
「ごめん、知らないや。その映画って面白いの?」
「残念ながら、俺も見たことないんだ。ただ、面白いって聞いたから、櫛原は見たことあるのかな? って、思っただけだから、気にしなくていいよ」
「そう、なの?」
訝しげに見つめる彼女に、それ以上は何も言葉を発さずに、曖昧な微笑みで応戦した。乾いた喉を潤す為にアイスコーヒーを飲むと、すでに氷で薄まっていた。紙コップに付着していた水滴が、掌に纏わりついてきた。
俺は水滴をズボンの裾で拭き、またも外に視線を奪われた。窓に映る俺は、死んだ魚のように虚ろな目をしている。
いつから、こんな滲んだ色をした目になったのだろうか? きっと、貴女と絶対に埋められない距離が存在するのを意識した時からだ―。
「なんか、俺たちが会う日って、雨ばっかりだよな」
いつもと同じ安ホテルで汚らしく交わった後、俺はパンツ一枚で窓辺に立ち、苛立った声で言った。静かな雨音が、部屋中に広がっていく。
「そうだね……。また映画でも、見に行く? 雨も凌げるし、人目も気にならないし―」
貴女はベッドから犯された体を起こし、俺のような年下男の機嫌を探るように弱々しい声で言った。
俺は何も答えなかった。すでに貴女と隠れて逢引するのが、どうしようもなく嫌になっていた。街中に溢れるごく普通のカップルと同じように、人目を気にせず堂々とデートがしたかった。秘密の交際には、うんざりしていた。
しかし子供だった俺は、何に対して怒りを覚えているのか、把握できずにいた。得体の知れないフラストレーションを上手く処理できず、常に苛立ち、誰に対しても卑屈になっていた。
だから、デートの度に雨が降るのは、秘密を守りたい貴女のせいだと勝手に思い込み、棘のある言葉と性交で八つ当たりしていた。
「ねえ、アキ君。映画の『セブン』て見たことある? ブラッド・ピットが主演の映画なんだけど、知ってるかな?」
「知らない」
窓の外を眺めながら吐き捨てるように、冷たく端的に言い放った。無情な雨は、まだ止んでくれない。
「その映画ってね、外はいつも雨が降っているの。なぜだと思う?」
「知らないし、どうでもいいよ。第一、見てもない映画について語れと言う方がどうかしてるよ。そんなこと、見ている側の人間に訊けばいいじゃないか!」
苛立ちを隠せぬまま振り返ると、ベッドの上で哀しそうに俯く貴女の姿があった。それが俺の神経を、いっそう逆撫でした。
その映画と俺達が何の関係があるんだよ! 人種も言語も宗教も違う国の造り話が、どうして純日本人で、季節外れの湿った雨で足止めを食らっているだけの二人に、関連性なんて一ミリもあるはずないじゃないか。俺は会話の真意が掴めず、怒りを抑制できない視線で彼女を見下ろした。
「……そうよね。君の言うとおりだわ。ごめんなさい」
貴女は俺の稚拙な言い分を飲み込み、乱れたベッドから犯された体を起こした。そして、床に散らばった淡い水色の下着と洋服を拾い上げ、シャワールームに消えて行った。
俺は色褪せた窓辺から、貴女の温もりが残留するベッドに腰を降ろした。無残に乱れたベッドが、惨めで独りよがりなセックスを彷彿とさせて吐き気がした。どうして、いつも同じ失敗ばかりするんだろう。本当は、貴女と体を重ねたいんじゃなくて、心を重ねたいのにだけなのに……。
自分の幼稚さに打ちひしがれ、膝を抱えて蹲っていると、弾むようなシャワーの音が部屋に転がってきた。俺は貴女に気付かれぬように、雨とシャワーの音に涙の落ちる音をそっと重ねた。
今、Mドナルドで誰もが羨む才色兼備な彼女とデートしている俺は、ホテルの窓辺で会った時と同じ顔をしていた。
櫛原は俺の視線を追うように、窓の外を眺めた。
「しっかし、よく降るよね。アキと下校したりデートする時って、雨ばかり降るよね」
「えっ?」
予想外の櫛原の言葉に驚き、彼女の顔を凝視した。今、何て言ったんだ……?
「だから、アキとデートする時は、一度も晴れた事ないよね。もしかして、雨男とか?」
櫛原が無邪気に悪戯っぽく笑い、ポテトを口に放り込む。
俺は間違っていた。貴女と逢う時に、毎度雨が降るのを貴女のせいにして、幼稚な怒りをぶつけていたが、本当は俺のせいだったんだ。ヤリたいだけの青臭い願望が、二人を肉欲で穢れたホテルに閉じ込めたんだ。でも、それでもよかった。俺が貴女を精一杯愛でることができたら、彼女は刹那な間だけでも、辛い現実から逃避行することができたのに―。
しかし、俺は貴女を狭い箱に閉じ込め、追い詰めていったんだ。そして、あの日、貴女を壊してしまった。
突然、テーブルの上に置かれたピンクの携帯が震えだし、甲高い電子音が耳を貫く。
「あっ、お母さんから電話だ。ちょっと、ごめんね」
櫛原は携帯を握り締め、慌てて席を立ち、店の外に出て行った。ぼんやりと彼女の様子を眺めていると、背中に鈍い衝撃が襲ってきた。
「あっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
顔を上げると、見知らぬ女子高生が謝罪してきた。どうやら、俺の横を通過する時に持っていたトレーが、俺の背中に当たったようだ。
「大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
作り笑いを浮かべて、ちぐはぐな日本語で返す。女の子は申し訳なさそうに一礼し、友達の待つテーブルに歩いていった。
彼女達の明るく楽しげな会話が、こちらまで聞こえてきて、俺は窓の外に目を逸らした。以前にも、こんな事があったな。
頬杖をつき、窓にかかった雨のカーテンに、あの日を映し出す。貴女を壊してしまったあの日を―。
この日のデートも、世界は雨で泣いていた。俺の希望で、満天の星空が見える地元で有名な山へドライブする予定だった。しかし、この曇天では、星は一つも見ることはできない。
また雨かよ。いいかげんにしてくれよな! 憎き空を見上げ、胸中で舌打ちをした。
苛立ちを抱えたまま、とりあえず今後の予定を立てる為に、俺達はMドナルドに立ち寄った。
車を降り、雨を避けながら店に入ると、店の中は混雑していた。せっかく濡れてまで店に入ったのに、席に座れないなんてごめんだ。
レジで並びながら、他の人間に聞こえないように貴女に耳打ちをする。
「何にする? ここは俺が奢るよ。だから、席を確保しておいてよ」
「いいの?」
「うん。まあ、いつも奢ってもらってばかりだし、これぐらいは払えるよ。それよりも、席を頼む」
俺は席が心配で、店内を見渡しながら言った。
「じゃあ、バニラシェイクのSをお願いします。急いで、席を取ってくるね!」
貴女はメニュー表を見ずに嬉しそうな声で言い、早足でテーブル席に向って行った。彼女は無事に席を見つけ、にこやかな笑顔で俺に合図を送る。嗚呼、ちょうど違う女とデートする為に座っている席と同じだ。これは、何かの因果なのか……?
「お次のお客様、ご注文をお伺いします!」
威勢のよい店員の声に呼ばれ、慌ててカウンターに歩み寄る。
「えっと、バニラシェイクとアイスコーヒーのSサイズを一つずつと、ポテトのMを一つと……、以上でお願いします」
「はい、かしこまりました! すぐにご用意致しますので、少々お待ち下さい」
商品がトレーに並ぶ僅かな時間に会計を済ませ、ものの一分程度で、全ての商品が出来上がった。こんなに混んでいるのに、ファストフードの本領を見た気がした。
トレーを持ち、人を掻き分けながら貴女の待つ席に向う。彼女は頬杖をつき、暗い外の世界を眺めていた。
「お待たせ」
トレーを置き、椅子に腰を降ろす。貴女は外に視線を奪われたまま、呟くように口を開いた。
「―残念だったね。私も君と一緒に、あの星空を見たかったんだ。涙が溢れるくらい、星が綺麗なの。私が今まで見てきた世界で、一番美しい光景だったなあ」
「……もしかして、行った事あるの?」
俺の鋭い質問に、貴女ははっとしていたが、視線は窓の外に置いたままだった。
「うっ、うん……。前の彼氏と、ね」
歯切れの悪い言葉を浮かべると、彼女はストローをバニラシェイクに突き刺した。
何だよ、俺以外の男と行った場所なんて、行きたくねぇよ! どうせ俺が隣に居ても、元彼の事を思い出すんだろう? そして、あの頃はよかった、なんてセンチメンタルな気分に浸りたいだけなんだ。さっきまで、どうしようもなく雨にムカついてたけど、今じゃあ恵の雨だぜ。
彼女の頭の中に居座る元彼を消し去るように、怒りに駆られたままストローをアイスコーヒーに刺した。俺から発せられる険悪な空気を察したのか、貴女は無言でバニラシェイクを飲んでいた。
「うっ!」
「あっ、すみません!」
大学生風の若い男が彼女の後ろを通る際、トレーを持っていた肘が、彼女の背中に運悪くぶつかってしまった。その衝撃で口に含んでいたバニラシェイクが、ピンクの唇から零れ落ちた。男は一言謝るだけで、連れの友達と談笑しながら立ち去っていった。
貴女は眉を顰め、苦しそう咳き込み、甘さでコーティングされた唇を指で拭う。まだ白い液体が残る甘ったるい唇を、彼女が柔らかな舌で舐めた瞬間、俺は熱い誘惑に駆られた。
「―行きたい場所、見つかったよ」
Mドナルドを出て、すぐにホテルまで車を走らせた。この乱暴な支配欲が冷めない内に、貴女を犯したかった。
ホテルに着き、部屋に入った瞬間、無言で貴女の手を引き、ベッドに体を沈めた。窒息するほど長いキスをした。溶け合うように舌を絡ませ、二人は切ない吐息を重ねた。貴女の首筋にわざと吸い付き、手探りで洋服と下着を剥ぎ取る。
二人で生まれたままの姿になり、貴女の口元にそそり立つ棘を差し出し、拒む彼女の髪を掴み、無理矢理咥えさせた。涙を流しながら必死で奉仕する貴女の姿に、背徳の色を見た。それは男としての本能、征服欲をかき立てるには十分だった。
貴女の頭を左手で掴み、彼女の本能の核心に右手を伸ばす。すでに愛液で濡れており、すんなりと指を滑り込ませることができた。
頬を紅潮させた貴女は苦痛に顔を歪め、汚らしい粘膜が溢れる音を奏で合いながら、二人は狂ったように快楽を貪る。
突然、体の奥から突き上げるような快楽の波が押し寄せてきたので、貴女の口から熱くなった棘を離し、彼女をベッドに突き飛ばした。
意識が朦朧としている貴女に覆いかぶさり、彼女の秘部の位置を確認すると、一気に挿入した。抵抗する貴女を力ずくで押さえつける。最初は抵抗してきた彼女も、猥褻な遊戯に没頭する内に肉欲の海に身を委ね始めた。二人は張り付いた快楽に手を引かれ、禁断の実を授けた蛇のように、欲望のままに絡み合う。貴女は艶のある息を漏らし、自らも腰を絡めてきた。潤んだ瞳。薔薇色に染まった頬。淫らに開いた唇。さっき言っていた元彼が、彼女のこの姿を見たと思うと、堪らなく悔しかった。
俺だけのモノになればいいのに! 貴女を他の誰の目にも犯されたくない。俺だけを見ていればいいんだ!
貴女から元彼の幻影を消去したくて、俺はありったけの力で腰を
突き上げた。彼女は苦しげに鳴いた。
二人は接合したまま、俺は貴女の白く滑らかな胸に汗をかいた顔を預けた。彼女の鼓動も同じように加速していた。貴女が甘美な呼吸をする度に、温かい子宮が心地良い力で性器を締め付ける。
またも欲望に塗れた血が沸き上がる。白く柔らかな丘の向こうに、イイモノを見つけた。ベッドの脇に落ちていた薄紫色の貴女のハンケチを拾い、彼女の視界を塞いだ。これで、何も見えない。俺さえも見えないね―。
視覚を失った貴女の口に粘ついた右手の指を突っ込み、一気に腰を加速させた。彼女は自分の蜜で濡れた指を咥え、狭くて酸素の無い深海の中をもがくように、俺の背中に爪を食い込ませた。
二人の魂が共鳴した刹那、彼女の体内に俺の生温いバニラセヰキの夢を一滴残らず流し込む。そう、一滴も残さず全てだ。
この先、貴女が他の誰と交わろうと、俺を忘れないようにしてやる。そんな惨めで安っぽい、子供じみた束縛しかできなかった。
薄紫色の壁の向こうで、貴女は涙を流していた―。
「遅くなってごめんね。なんか、お母さんが仕事で遅くなるみたいだから、妹の迎えに行って欲しいんだって」
櫛原が息を切らして、テーブルに駆け寄ってきた。俺は窓に映し出されたビターな思い出を彼女に悟られないように、笑顔を向けた。
「どうしたの? 何か嬉しいことでもあったの?」
「別に何もないよ。櫛原の妹って、保育園生だっけ?」
「そうなの! だから、先に帰るね。さっき来たばかりだし、アキはゆっくり帰りなよ」
早口でそう言うと、櫛原は椅子に座ることなく携帯電話を鞄に放り投げた。
「いいよ。櫛原は傘持ってないし、送っていくよ」
櫛原が鞄を肩に掛けるのと同時に俺も立ち上がり、トレーを持ち上げた。彼女は俺の動きを制するように、顔の前に手を広げた。
「大丈夫! 向かいのコンビニで買って帰るから、心配しないで。そのかわりに、明日の帰りにローセブンに行ってもいい?」
櫛原は口角を上げて、いつものように澄んだ声で言った。どこまでも責任感が強くて、気の効く女だ。
俺は椅子に腰を下ろし、彼女にさよならの代わりに満面の笑みを授けた。
「分かった、約束するよ」
「ありがとう! アキも気をつけて帰ってね」
いつまでも女々しい俺を残して、櫛原は元気一杯に手を振りながら雨の世界に旅立った。そんな彼女の後ろ姿を、濡れない雨の世界に囚われた俺は見送ることしかできなかった。
ふと視線を落とすと、楽しい時間の残骸たちが転がっていた。温くなったアイスコーヒーと、液状化したアボカドシェイク。時間が経過し、だらしのない姿を晒しているポテトを一つ摘み、口の中に運ぶ。しつこく脂ぎったジャガイモの味がいつまでも舌に居座り、粘着質の高い唾液が止め処なく溢れてきた。
Mドナルドを一人で出ると、通りは行き交う人々の傘の花が咲いていた。雨の降りしきる道に、俺もそっと透明な花を添えた。
さっきから、何を見ても、食べても、聞いても、貴女の事ばかり思い出している。最初で最後の朝を二人で迎え、夏の匂いがする朝日が降り注ぐ中で微笑む貴女にさよならを告げた日に、二度と彼女を思い出さないと、固く心に誓った筈なのに……。
どうしても貴女に逢いたくて、面影だけでも感じたくて、ローセブンに立ち寄った。二人が始まり、貴女が俺を見つけた場所だ。
傘をたたみ、扉を開けると、いつもと同じように店員が「いらっしゃいませ!」と元気な声で挨拶してきた。店内はピン吉フェアー一色で、至る所にピン吉グッツが陳列されていたが、商品の配置や忙しそうにレジを打つ店員の姿など、何も変わっていなかった。ただ、貴女の色だけが空白だった。
当たり前だよな。彼女は大学に戻る準備の為、すでに大阪に旅立ってしまったんだから居るはずはない。頭では十分理解していたはずなのに、現実は容赦なく心を抉ってきた。
軋む胸を抱えたまま闊歩していると、店内放送から貴女が好きだと言った歌が流れてきた。足を止め、歌に耳をすますと、初めて二人の歪な心が重なった時が色褪せずに蘇ってきた。嗚呼、もう一度だけあの日に戻れたら、今度こそ大切な言葉を伝えられるのに―。
乱暴で淫らなセックスをした後、俺は貴女を痛めつけた罪悪感から、連絡を取るのを控えていた。たぶん心のどこかで、彼女との別れを予感していたんだと思う。
そんな鬱屈とした日々が続いたある日の放課後、道端で花柄の傘を差した貴女と偶然にも出くわした。俺は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。だって、あんな酷い仕打ちをしたのに、どんな顔をして貴女の目を見ればいいのか、まったく分からなかった。そんな憐れな俺の心情を汲み取るように、彼女は穏やかな笑顔で話しかけてきた。
「久しぶりだね」
「……そう、だね」
俺は貴女と目を合わせることができず、ぎこちない言葉を発するのが精一杯だった。
「話してくれて、良かった。メールも電話も無視されていたから、嫌われたかと思ったよ」
大人な貴女は不義理な俺を責める事なく、彼女は安心したのか胸を撫で下ろしていた。
「ねえ、今日は何か用事とかある?」
「特にないけど……」
「じゃあ、ホテルに行かない? 今夜は朝まで一緒に居て欲しいの。―ダメ、かな?」
貴女は俺の手を握り、艶のある声で言った。彼女の濡れた瞳は、世界で一番美しい宝石のようだ。そんな貴女の申し出を断る理由は、どこにもなかった。
この夜は、いつものように安っぽいラブホテルではなく、ビジネスホテルに泊まった。
「朝まで一緒に過ごすなら、こっちの方がいいと思って。それに、ビジネスホテルだけど、なんだか旅行者な気分にならない?」
無邪気に笑いながら、貴女は言った。旅行者、ねえ―。じゃあ、俺達の旅はどこに向って行くのかな?
貴女がフロントで受付をしている間、母さんにメールで「友達の家に泊まるので、明日はそのまま学校に行く」と連絡しておいた。うちは放任主義だけど、心配して探し周られるのはごめんだから、虚偽の連絡だけでもしておかないと、ね。
「お待たせしました」
貴女は得意げに部屋の鍵を回していた。
「大丈夫だった?」
「なんとか上手くいったよ。君が高校生らしくなくて、よかったよ」
「それって、俺が老け顔ってこと?」
「違うよ。大人の男性の顔付きをしているってことだよ」
にこりと笑う貴女に手を引かれ、部屋に向った。この日の彼女は、よく笑っていたなあ。
この夜、俺達は初めて一緒に風呂に入った。改めて明るい場所で貴女の裸を見たが、いつも以上に肌の色が白く、体は細い線を描き、このまま人魚姫のように泡の中に消えてしまいそうだった。お互いの体を泡で愛撫しながら丁寧に洗い合い、視線が交錯するたびに舌を絡める。
二人の儚くも甘い吐息が重なったのを合図に、湯船の中で騎乗位で交わった。俺の腕の中で恍惚な顔で踊る貴女は、誰よりも綺麗だった。
風呂から上がると、貴女は俺に縋りつき、ベッドへと誘った。俺は彼女の要望に応えるように、首筋に唇を這わせる。貴女が快楽に埋没すればするほど、滑らかな白い花から甘い蜜が零れてきた。
この夜はいつもと違って、自分の衝動を抑制し、貴女を悦ばせることだけを考えた。独りよがりで、彼女を痛めつけるだけのセックスなんて、虚しさに蝕まれるだけだ。再び二人で快楽の底に辿り着くと、俺は泳ぎ疲れた彼女の体を癒すように、キスの雨を体中に降らせた。
さすがに少し疲れたので、ベッドに横たわっていると、貴女はバスタオルを体に巻きつけ、徐に立ち上がった。
何をするんだろう? 彼女は冷蔵庫から備え付けのビールを取り出し、俺に手渡した。貴女はビールを空けると一気に喉に流し込み、至福の溜め息をついた。俺は、本当は烏龍茶が飲みたかったが、貴女に子供だと思われたくなくて、思い切って一口だけ飲んでみた。……やっぱり、烏龍茶にしておけばよかった。ベッド脇のテーブルに、ビールをそっと置いた。
「美味しくなかった?」
「そうじゃないけど、俺はまだ未成年だし……」
情けない言い訳をしていると、貴女はビールを口移しで飲ませてきた。味は苦かったが、心地良い炭酸が柔らかい舌に絡まり、何とも言えない気持ち良さだった。
「大人のキスよ。君は、もう大人だよ」
アルコールで滲んだ貴女が優しく囁き、二人の唇が軽く触れ合った。貴女はビールを片手に、体をベッドに潜らせた。
「―私ね、大学院に戻る事にしたの。この間、教授から電話が掛かってきて、定職に就かずにフラフラしているのを報告したら『ドクターコースで、もう一度研究室に戻ってこないか?』て言われたの。だから後期入学だけど、大学に戻れることになったんだ。やっぱり、どうしても研究者の道が諦め切れなくて、少しでも可能性があるなら、そちらの道に飛び込もうと思って。ありがたいことに、両親も賛成してくれた。きっと、お兄ちゃんとお祖父ちゃんが最後のチャンスを恵んでくれたんだと思う。二人が授けてくれたチャンスを有効利用しないとね」
そう言うと、貴方は残りのビールを飲み干した。
突然、何を言っているんだ? 大学院に戻る? それって、もしかして……。
「だから、君とは今日でお別れです。明日から大阪に戻ることにしたんだ。幸いにも、友達が家をすぐに見つけてくれたんだ。それに、早いうちに教授にも会わなきゃいけないんだ。ありがとう。絶望の雨に濡れていた私に、優しく傘を差し出してくれたアキ君のお陰で、戦う決心がついたわ」
俺を置いて、新しい道に歩み出しそうとしている貴女は、穏やかに微笑んでいた。
勝手に別れるとか抜かしてんじゃあねぇよ! 今の世の中、携帯電話もスカイプもあるから、どんな距離でも埋められるよ。それに一年半待てば、俺が貴女の大学に入学すれば、遠距離恋愛じゃなくなるんだぜ? だから、だから、だから―。
貴女を傷つけ過ぎた俺に、その言葉を言う資格なんて、どこにもなかった。
俺は突きつけられた現実から逃げたくて、貴女から背を向けるために寝返りをうつと、手がベッドに備え付けられたラジオに当たり、思いがけずスイッチが入った。
不意に流れてきた歌は、俺の心情を無視するように明るい曲調で、音も歌声も煌いていた。
「私、この歌が大好きなんだ。アップテンポの歌なんだけど、切ない恋愛の歌詞で胸が締め付けられるの。この歌を聴くと、夕立の後のオレンジと青が混在した空が心に浮かぶんだ。―ねえ、アキ君。最初で最後の我侭を聞いて欲しいの」
恐るおそる寝返りをうち、貴女の居る世界へ振り返った。俺は涙が溢れないように、思いっきり舌を噛む。
「……何?」
喉の奥から搾り出すように言うと、貴女は俺の胸に顔を埋め、何かを決意したような強く澄んだ瞳で俺の顔を覗き込んだ。俺は音を立てて唾を飲み込む。
「―他の女の人を、私のように愛さないでね」
貴女はそう言い残し、俺の腕の中で夢の世界に堕ちていった。俺は涙を飲み込み、ごく普通の愛し合う男女のように、愛しい貴女の体を包み込んだ。最初で最後の優しい抱擁。やっと、人を愛することができたのに、時計の針は戻ってくれそうにないようだ。
未完成な二人の愛は、貴女の好きな歌と共に終わりを告げた。雨音と彼女の匂いだけが、俺の臆病な世界に降り注いでいった。
ローセブンを後にし、青色が剥がれ落ちた空を見上げた。こんな静かな雨の日は、どんなに記憶を閉じようとしても貴女を思い出してしまう。
止まない雨はないと、よく人は言うけれど、僕の胸に降る雨は、いつになったら止んでくれるのだろうか?
―他の女の人を、私のように愛さないでね―
貴女が最後に残した言葉は、どういう意味なんだ? 他の女性を貴女のように乱暴に扱うな、という警告なのだろうか? それとも、最後に貴女に抱いた愛おしい気持ちを、誰にも渡して欲しくないという願望なのか?
……残念ながら、どれも憶測の域を脱することはできない。今の俺には、それを確かめる術は何一つ残されていないからだ。
俺は一つだけ、どうしても後悔していることがある。それは、一度も貴女を名前で呼ばなかったことだ。クラスメイトを呼び捨てするように軽々しく貴女の名前を口にできなかった。
年齢なんて関係ないと言いながら、本当は一番固執していたのは俺自身だ。貴女が不意に見せる大人の仕草が大好きだったけど、同時に圧倒的な壁に阻まれ、手の届かない存在だと思い知らされた。その度に、臆病で劣等感の鉄で囲まれた檻に逃げ込んでいたんだ。どうして最後まで、卑屈な自尊心を捨て去ることができなかったのだろう。知らない映画も歌の話も、きちんと訊いてあげればよかったんだ。そうやって少しずつ、距離も時間も埋めていけば、お互いをもっと深く理解できたのに。
嗚呼、こんなに後悔をするぐらいなら、勇気を出して、貴女の名前を呼び、「誰よりも愛している」と言えばよかったんだ。
心に何時までも降り注ぐ雨が止み、灰色の雲にサヨナラを告げ、蒼穹の空に虹が架かる日は果たして訪れるのだろうか? 俺はその日を待ち望みながら、貴女のように冷たい雨を従え、傘も差さずにガラス玉の夢の中を彷徨い歩くのだろう。
あの日に戻りたい。貴女の居た時間を引き寄せたくて、外の世界に手を伸ばした。白くて柔らかな手の代わりに、透明な雫が掌にすり寄ってきた。彼女の温度も色も、二度と手に入れることはできないのか―。
儚いガラス玉の夢を握り潰すように、温もりの消えた掌を閉じた。
forbidden lover