卒業旅行 前編

『卒業旅行』



耳が凍りつきそうな冷たい空気を纏った一月のある日、とある女子大学には必死な形相の学生たちで溢れかえっていた。学生たちはみんな書類を抱えており、この書類だけは失うわけにはいかないと大事そうに握りしめている。学生たちが死守するその書類には所属学科、名前、学籍番号そして『卒業論文』と記入されていた。そう、今日は大学四年生の運命の日……卒業論文及び卒業制作の提出締め切り日だ。この日を過ぎてしまえば一生懸命に取り組み、どんなに素晴らしい出来の卒業論文だったとしても受理されない。受理されなかった学生は言わずもがな、留年が確定する。そんな恐ろしい結果だけは回避したい学生たちが卒業論文(以下卒論)を提出するため、事務室に押し寄せているというわけだ。
 卒業と留年の瀬戸際に立たされている学生たちを横目に未来はひっそりとため息をつく。星野未来、ここの大学に通う四年生。未来は四年生に進級すると同時に卒業制作(以下卒制)に取り掛かり、十二月中には提出を終えていたので締め切り日に慌てて提出に来る彼女たちを不思議に思う。
(そういえば、私のゼミでも年が明けても全く進んでいない子がいたなぁ)
 未来は国文学科、文章表現コースに在籍している。文章表現コースとは小説やコラム、脚本などを通して自己の世界や考えを表現する技法を学ぶコースだ。一般的に思い浮かべる国文学のイメージとは少し違うかもしれないが、ちゃんと国文学領域も学んできたのでそこいらの学生よりは国語力に自信はある。
 学問よりも創作活動に重点をおく文章表現コースは卒論ではなく、卒制を提出する必要がある。形態、題材は自由。四年間の学生生活で鍛え上げた文章力を教授たちに披露する大事な課題だ。そして大学を卒業するために、命に代えてでも達成しなければならない課題なのである。他学科は卒論を書くにあたり資料、データ、調査や実験が必要なので文章表現コースの卒制は比較的簡単だと思われている。正直それは間違いではない。もちろん創作活動なのでアイデアが思い浮かばなかったり、調子が悪かったりすると作業は滞る。しかし日ごろから文章執筆に勤しむ、感性を刺激する物事に接してきた未来は挫折することもなく卒制を完成させた。当然行き詰まる時もあったがなんとか乗り越えた。スランプの乗り切り方はこの四年間で心得ているのだ。
 計画的に卒制を仕上げた未来にとって、提出日ギリギリに事務室に駆け込む彼女たちの姿はとにかく不思議で堪らない。
(まぁ人には得手不得手があるからね……)
 計画性のない哀れな学生たちを後目に未来は事務室を出る。
事務室を退出した未来は事務室からやや離れた場所に位置する食堂へと向かう。道中、卒論を提出に向かうと思われる学生とすれ違う。顔色が芳しくない学生たち数人とすれ違いながら無心で足を進めていると食堂に到着する。未来が通う大学には食堂が一つしかない。風の噂によると総合大学や共学だともっと広く、校内に数か所設置されているそうだ。しかし少人数制の女子大学であるこの大学には残念ながら食堂は一つしかない。しかも狭い。ちなみに学生からの評判は良くない。
学生から愛されていない我が大学の食堂は円形で、日当たりを考慮したのか大きな窓が取り付けてあり、そこから食堂にいる学生たちの姿が丸見えだ。その窓からは中に誰がいて、誰が何をしているかがハッキリと確認出来る。
(どこかな)
 食堂に入る前に、無駄に大きい窓からお目当ての人物を探す。食堂は思っていたよりも学生たちで賑わっており、なかなか探し人が見つからない。
(あ、いた)
 しばらく忙しなく目を動かしていると漸くある人を発見する。
 食堂に入り、立ち話をしている邪魔な学生、通路に大きい荷物を放置している無作法な学生、迷惑を顧みずに奇声を発する学生たちの間をすり抜けながら未来は探していた人物、桐谷環の元へ向かう。環の元へやっとの思いでたどり着くと環は苦笑いしながら未来を労う。
「お疲れさま」
「本当だよ……もうちょっと周りにも目を向けてほしいよ」
 悲しいことに未来が通う大学の学生たちは少々マナーがない行動が目につく。通路を横に広がって歩く、授業中に大声で雑談、校内の備品を手荒に扱うなどなど……。全ての学生が無礼だというわけではないが、礼儀がなっていない学生たちが多いことは事実だ。
 ため息をつきながら環の向かいに腰を下ろす。環は人混みが苦手な中、わざわざ食堂に来てくれた未来の心中を察して声をかける。
「ご足労おかけしました」
「いえいえ」
 未来の目の前に座っている彼女、桐谷環は未来の友人だ。未来と同じく国文学科に在籍しているが、環は国文学コースを専攻している。環が普段どのようなことを学んでいるかは詳しく知らないが、近代文学を主に研究しているらしい。
 未来は食堂を見渡す。
「今日は卒論の締切日だから人が多いね」
「そうか、今日が締め切り日だったのか。未来はもう卒論は提出した?」
「うん、冬休みに入る前に提出したよ。環もだよね?」
「早く提出しすぎたせいで本当に提出したかどうか不安になっちゃって、教授に確認電話しちゃったよ」
 鎖骨まで伸びた髪を掬い上げながら環は笑う。その仕草が女性の目からみても美しくて思わず未来は凝視してしまう。
 この友人はよく出来た人間だと未来は思う。まず外見が完璧だ。モデルのようにスラリとした手足、スリムだが女性らしい体型、真っすぐに伸びた美しい黒髪。薄化粧でもパッチリとした大きい瞳に、健康的な肌。未来は環の美貌を目の当たりにする度に思わず自分の身体と比べてしまう。環は並みの人間よりも遥かに綺麗なのだから、比べるだけ無駄だと分かってはいるのだけど……。ついつい比べてしまう。環よりも身長があり、手足は確かに長いが平均よりもやせ細り、女性らしさなど微塵も感じない貧相な身体に、化粧を施してもパッとしない薄い顔。環を見るたびに自分の醜さに気づかされる。
 また今日も自分と環の出来の違いに落ち込んでいると、環が優しく未来の頭を撫でる。顔をあげると穏やかな視線を未来に向ける環がいた。
「また自己嫌悪中?」
「……別に自己嫌悪なんてしてないよ。ただ、環はいつ見ても綺麗だなぁって思っていただけ」
 図星を指され動揺した気持ちを落ちつかせようと鼻を摩る。
「あ、鼻触った」
「アレルギー性の鼻炎持ちだからね。ちょっと痒くて……」
 アレルギー性鼻炎なのは本当、でも今は別に痒みなんてない。未来は落ち込んだときや、自信を失くしたときに鼻を摩る癖がある。その癖を大学入学時から仲の良い環はとっくに見抜いており、未来も環が自分の癖を見抜いていることに気づいている。
「擦ると赤くなるよ」
「うん……」
「本当に未来は自分に自信がなさすぎるよね」
 環に鼻を強く掴まれる。
「ちょっと、そんなに強く掴むと鼻がもっと低くなっちゃう!」
「ん?未来の鼻は低くないよ。標準、標準」
 美人な環に慰めなのかなんなのかよく分からないことを言われて思わずムキになる。
「環は美人だからだよ。私みたいな平均以下の醜い容姿を生まれ持った人間は卑屈になってしまうよ」
 鼻を摘まむ環の手を振りほどき、呟く。環は少し困ったような表情で未来を見つめる。
「未来は醜くないよ。そりゃあ絶世の美女だとか芸能人みたいに特別な存在ではないことは確かだけどね」
「ちょっと、慰めたいの?傷口に塩を塗りたいの?」
 コンプレックスである醜い顔を両手で覆いながら、手の隙間から環をジロリと睨む。別に本気で拗ねてはいない。でもこうやって拗ねれば環から優しい言葉をかけてもらえるのだ。未来はその言葉を待っている。
「違うよ。ただ私が思っていることを伝えているだけ。何度も言っているけれど私の目には未来が一番綺麗で、かわいいよ」
 環の決まり文句『私の目には未来が一番綺麗で、かわいい』。未来が外見のことで落ち込んだらいつもこの言葉を言ってくれる。未来は環のこの言葉を聞くのが大好きなのだ。環はいつも未来と真っすぐに向き合ってくれて、嘘はつかない。そんな環が未来を一番だと認めてくれている。そのことを実感出来るから、未来は今日も環のこの言葉を聞きたかった。この言葉を聞くために未来は癖を矯正せずに、わざと落ち込んでみたりするのだ。
「……環が好いてくれるならこの見た目でもいいのかな」
「私は好きだよ。スタイルもいいし、中性的な魅力があるからね」
 未来はどんなに女性らしく変わろうと努力してもどこか少年らしさが残ってしまう外見がコンプレックスだが、今日も環が未来の容姿を愛してくれていることに安堵する。コンプレックスを好きになることは出来ないが、目の前にいる環に醜いとは思われていないだけで未来は救われる。
 今日も環から望んでいた言葉を聞けてご機嫌な未来。環は未来がいつもの自己嫌悪から抜け出せたことを察すると声をかける。
「ところで未来はさ、髪の毛伸ばしてみたりスカートとかに挑戦してみたりはしないの?」
「え~……無理だよ。環だって知っているよね?私が髪の毛伸ばすとどうなるか……」
「あーそうか、癖毛だからまとまらないのか。でもそろそろ髪質も変わっているかもよ?」
「……髪質が変わっていたとしても、似合わないし手入れが面倒くさいから伸ばさない」
 自分の提案に未来が賛同しないことなど最初から分かりきっていた環は予想通りの返答に笑う。
「面倒くさいって……それを乗り越えないと~。まぁいいや、スカートはどう?」
「冬にスカート履くなんてどんな拷問……」
「拷問って……周りを見てごらんよ。みーんなスカートでしょう?せっかくスタイルいいんだから履いてみなよ」
 食堂で寛いでいる学生たちを見渡すと、環の言う通りほぼ全員がスカートを履いていた。足を丸出しにしたモデルのような学生、体形をカバーするためにふんわりとした丈の長いスカートを履いているグラマラスな学生……みんなスカートだ。中には最近流行っているのだろうか、丈も長く幅もあるきしめんのように太いパンツを履いている学生もチラホラ見られる。残念ながら未来はファッションに疎い。そのせいで同じ女性でありながら彼女たちの服装の魅力に気づくことはなかった。
 環に視線を戻すと不満げに口を開く。
「環の言う通りスカートが女性の標準装備なのは確かだよ。でもさ、人には得手不得手があってね……」
未来の言葉に大きくため息をつきながら頭を振る環。
「そうだね、未来の言う通りだ。まぁ私は未来の中性的な服装が好きだからいいけどね。本当に変わりたいならお手伝いするよ?」
 未来は自分の容姿、スタイルや服装にコンプレックスを抱きながらも本気で変わろうとしない。それはなぜか、未来自身もよくわかっていないが、きっと今の自分を、自然体の自分の姿を環が受け入れてくれていることを実感し続けたいからかもしれない。世間がいう「女性らしい」見た目で環に認めてもらっては駄目、世間と少し外れたところにいながらも環に認めてもらうことが大事なのだ。他人に説明することは難しいけれど、とにかく未来は今のスタイルを環が愛してくれているということが何よりも重要なのだ。
「万が一女性らしくなりたいと渇望する時が来たら、環に助けを求めるよ」
「任せてよ」
 環はニッコリと微笑み、未来の前髪に付着していた埃を払う。
「でも私は今の未来が好きだからね……少年みたいなショートヘアも、中性的な服装も全部が……私の好みだよ。だから出来ればそのままでいてほしいな」
 未来の瞳を真っすぐに見つめながら、耳元で環は囁く。未来は思わず環の手を振り払い、椅子から立ち上がる。
「本当に未来は分かりやすいね~。いいよその反応、可愛げがあって」
 いつまでたっても初々しい反応を見せてくれる未来に気をよくした環は、肩を震わせながら笑う。
未来が動揺することを分かりきった上でこんなことをする環はちょっぴり意地悪だ。未来は前髪を手櫛で整えながら環を睨む。環は誰にでも優しくて嫌味のない人物だが、時々未来をからかうことがある。気心が知れた仲だからこそのじゃれ合いだと分かってはいるが、環の戯れは心臓に悪い。未来が恥ずかしがるに違いないと確信しながら、まるで恋人のように甘い言葉を囁くなんて……恋愛はもちろん、友人関係が希薄な未来にとって刺激が強すぎる。
「ごめんごめん、もう意地悪しないから座りなよ」
 恋愛経験もあって、友人も多い環に敵うはずもない未来は渋々腰を落とす。未来は環に優しくされたり褒められたりするだけで一喜一憂しているというのに、環はいつだって余裕だ。
(私には環しかいないけれど、環は普段からこんな風にみんなとふざけ合っているってことだよね。……なんか妬けるなぁ)
 いつも環の周りにいる学科の学生や、環の話に度々登場する顔も見たことのない人たちに嫉妬してしまう。きっと彼女らも日ごろから環に優しい言葉をかけられて、笑い合っているのだろう。当たり前のことなのになんだろう、楽しくない。未来にとって環は唯一無二の存在なのに、環には未来以外にも大事な人がいることが、とても悔しくて……寂しい。
 一人で勝手に落ち込んでいると環のスマホから間抜けな通知音が鳴る。環はスマホを手に取りなにかを確認するとスマホを机の上に戻す。
「みんなもそろそろこっち来るって」
「もう用事終わったのかな」
 「みんな」とは、同じ国文学科に在籍する比較的よく遊んだりする人たちのこと。所謂「グループ」ってやつだ。未来と環が食堂に集まった理由は、グループメンバーである彼女たちと会う約束をしているからなのだ。
ところでグループメンバー……即ち学友である彼女たちと未来は正直なところ特別親しい仲ではない。休日に遊びに出かけたり、休み時間に雑談したりはするがそれ以下でもそれ以上でもない関係だ。入学して間もないころに出会い、生理的嫌悪を抱くことも争うこともなく、今日までなんとなく一緒に過ごしている学生の間だけの友人たち。大学を卒業すればあっという間に他人に戻ることが確定されている、薄い縁で繋がっているだけの関係だ。別にそのことを悲しいと思うことはないが、煩わしいと思ったり言いようのない虚無感に襲われたりすることはある。しかも最近は学友である彼女たちに負の感情をよく抱くようになってきたのであまり顔は合わせたくないのが本音だ。
(嫌だな、会いたくないなぁ)
 もうすぐこちらに彼女たちが到着するということは、環と二人きりの心地よい時間も終わりということ。みんなが食堂に来たら一気に人口密度が増し、環と話をする機会は失われることは確実だ。未来は親密な相手と二人きりなら饒舌だが周りに人が多いと緊張してしまい、いつ発言すれば、何を話せばよいのか分からなくなってしまう厄介な性格だ。そんな性格のせいで今日も彼女たちが食堂に集まったら一言も発せなくなって、大好きな環が誰かと親しく話している姿を見ることしか出来ないだろう。そんな弱虫な自分が嫌で唇を噛みしめる。
「どうしたの?」
 突然黙った未来を心配そうに見遣る環。
「いや、別になにもないよ……」
 しかし四年間の付き合いで未来の性格を把握している環には誤魔化しは通用しない。
「みんなと何かあったの?」
「何もないよ?そもそもみんなは関係ないよ。ぼんやりしていただけだから」
 環からの追及を逃れるように視線を逸らす。けれども環は無理矢理、未来の視界に入り込む
「……未来はさ、なにかを我慢している時とか悩みがある時は唇を噛む癖があるよね」
 環の指摘でまさに今、唇を噛みしめていることに気づいた。
「いや、それは勘違いだよ。確かに唇を噛んだりする癖はあるけれど……特定の条件下で発動する癖ではないよ」
 猫背になっていた背筋を伸ばし、環を真っすぐ見つめる。環の言う通り、未来はなにかを我慢している時や悩みがある時に唇を噛みしめる癖がある。物心ついたときからの癖で、親にも何度か指摘されたことがある。唇を噛みしめている未来の姿を見た母に「エイの裏側みたいな顔しているよ」って笑われたこともあった。未来自身は真剣に悩んでいるのに他人から見た姿がエイの裏側というのは……、自分はつくづく恰好がつかない人間なんだなぁと落ち込んだものだ。
 母に笑われた懐かしい過去に想いを馳せていると、環が未来を気遣うように優しい声で尋ねる。
「……私は今まで未来が落ち込んでいたり、何か悩みを抱えていたりしている時にその癖をよく見かけたからさ……。ちょっと心配しちゃったよ」
「心配する必要はないよ。考えすぎだって」
 環は鋭い、将来は探偵を目指しているのかと思ってしまうほどに鋭い。その鋭い観察眼で未来が隠しておきたいと思っていることさえも知られてしまいそうで恐ろしく感じることがある。環の前ではどんな重装備でもあっという間に丸裸にされ、真実をつかみ取られてしまう。
「未来がそう言うなら自分の考えすぎだったということにしておくよ」
「うん」
 なんとか環の追及から逃れることが出来て一息つく。環が自分の僅かな変化にも気づいて心配してくれるのは嬉しいが、隠したいことだってある。学友である彼女たちを疎ましいと思っているなんて知られてしまったら……環に嫌われてしまうかもしれない。
自分の汚い心をひとまずは隠せたことに安堵した未来は喉の渇きを潤すためにリュックからペットボトルを取り出し、残り少ない水を一気に飲み干す。
「そうだ未来、もう一回さっきのやってよ」
「さっきのって?」
「唇を噛むやつ。もう一回見せて」
「なんで?」
 環の突然の要求に戸惑う未来。なぜ環は母曰く「エイの裏側」にそっくりな顔をもう一度見せろと要求してくるのか、意味が分からない。
「なんで見たいの?」
「ただ見たくなったの。やってよ。やってくれたら帰りに何か飲み物奢るからさ」
 環の言葉に机の上で力なく横たわる空っぽのペットボトルに視線を向ける。
(……ちょうど飲むものもなくなったし、奢ってくれるって言うなら……)
「本当に奢ってくれるの?」
「もちろん、私が未来を騙したことなんてないでしょ?」
「……分かった、後でジュース奢ってね」
「OK」
 帰りにジュースを奢ることを約束させ、未来は唇を噛みしめ環がお望みの表情をつくる。一方リクエストした環は未来を見つめながらなにやら深刻そうな表情をする。
(え、なに。環の顔、なんか怖い)
 さっきまでのふざけた態度から一変して、まるで謎解きをする探偵のように真剣だ。どうしてそんなに真剣なのか、未来は困惑する。
 しばらく母の言う「エイの裏側」のような顔をしていた未来だったが、いい加減疲れてきたので力を抜く。
「あ、戻った」
「環……一体なにがしたかったの?ずっと顔怖かったんだけど」
 環の顔の恐ろしさを指摘すると、環は自分の頬をグリグリと触りながら首をかしげる。
「そんなに怖かった?ちょっと考えことしていたからかなぁ」
「考えことって……私の顔見ながら何を考えていたの?」
 噛みしめすぎてヒリヒリしてきた唇を指で撫でながら尋ねる。
環は未来の質問に答える。
「いや、さっきの未来の顔ってなんか……エイの裏側に似ているなって思って」
「エイの……裏側……」
 未来の時間が一瞬とまる。
「そう、エイの裏側。見たことある?個体差はあるけれどみんな口が真一文字なんだよね。さっきの未来みたいに」
「……」
 未来はショックだった。だってそうだろう。どこの世界に「エイの裏側」に似ているって言われて喜ぶ奴がいるだろうか。いないに決まっている。
未来の心中は穏やかではなかった。情けない、みっともない、恥ずかしい……自己嫌悪の嵐が吹き荒れていた。母に言われたときはまだ笑ってやり過ごせたが、環にまで「エイの裏側」だと思われていたなんて……。ガラス瓶よりも脆い未来のメンタルは崩壊寸前だ。
(エイの裏側って……全然可愛くないし、むしろ気味が悪い)
 未来は顔を両手で覆い隠し肩を落とす。今度は環の気を惹くためではなく、本当に落ち込んでいる。
誰の目から見ても落ち込んでいることが分かる未来の姿に環は思わず笑ってしまう。
「落ち込む必要はないでしょ。エイの裏側ってかわいいじゃん」
 あやすように未来の頭を優しく撫でる。しかし未来の気分は晴れない。だって、エイの裏側だ。あれを可愛い存在だと未来は思えない、だが環はエイの裏側をかわいいと言う。いよいよ環の審美眼が心配になってきた。
「未来は嫌だった?それなら謝るよ、ごめんね」
 未来は顔を隠しながら頷く。
「エイの裏側に似ているって言われて喜ぶ奴がどこにいるんだよぉ……」
「うーん、私は本当に可愛いと思っただけなんだけどねぇ」
「……」
「ほら思い出してみてよ。エイの裏側は真っ白で綺麗だし、愛嬌のある顔をしていない?」
「……あれは表情じゃなくて模様に近いんモノじゃないの……?」
「そうかもね、まぁエイの生態には興味ないからどうでもいいけどさ。とにかくエイの裏側を見るたびに未来を思い出してかわいいなぁって思っているってことを伝えたかったんだよ」
 なんだか丸め込まれた気がするが、なんだかんだ言って環に甘い未来。エイの裏側でも立派な称号だと思えてくるから不思議なモノだ。もはや洗脳に近い。
 なにかを思い出したように環は手を叩く。
「そうだ知ってる?エイって毒があるんだよ」
「……へぇ?」
 環が言わんとすることがよく分からなくて間抜けな声が出てしまった。環は瞳を三日月形に歪めながら続ける。
「未来とエイには二つ共通点があるよね。そう、毒を持っているってこと」
「……共通点が……毒」
 瞬時に環の言葉の意味を理解した未来は思わず大声をあげそうになるが、なんとか耐える。
(毒?エイの裏側に似ていることを否定はしないけれど、毒は酷いじゃないか。それじゃあ私が毒で他者を無差別に傷つける人間みたいだ)
 聞捨てならない環の言葉に反論する。
「そりゃ人間は誰しも毒を持っているかもしれないけれど、私はそこまで毒に満ち溢れた人間ではない……と思うよ」
「あ、私が言っている毒はそういう毒じゃないの。なんて言えばいいのかな……麻薬みたいなモノかな?」
 環は本当に優しくて、誰にでも平等だ。しかし稀に未来を弄ぶのが玉に瑕だ。その他大勢には見せない一面を見せてくれるほどに信頼されていると思えば気分は良いが、他人の顔色を窺いながら生きてきた未来にとって環の冗談はたまに怖い。
「んーなんて言ったら良いのかな……未来の毒は癖になる。一度未来の毒を知ってしまったら、もう一度欲しくなっちゃうのよ」
「……はぁ?意味が分からないよ」
 環の言葉遊びというのか、本題を誤魔化すような口振りに思わず口調が刺々しくなってしまう。しかし環は意に介さない。未来とエイに共通している「毒」とは一体どういったモノなのか、未来に分かってもらうつもりは初めからなかったのだろう。環はさきほどの意地の悪い笑みとは違い穏やかな表情に戻り、皺が深く刻み込まれた未来の眉間を指でグリグリとほぐす。
「そんな顔しないでよ、ちょっとからかいすぎたかな。ごめんね?」
 環のマッサージを受けながら身体から力を抜く。
「……別にいいけど……本当に環って時々意地悪だよね」
 拗ねたように唇を尖らす。その姿を見た環はひっそりと「ペンギンに似ている」と思ったがその言葉は胸にしまうことにした。




 未来と環がエイについて盛り上がっていると、後ろから誰かに声をかけられる。馴染みのある声に振り返るとそこには学友二人が立っていた。
「やっと来た、何かトラブルでもあったの?」
 環は手を振りながら彼女たちに笑いかける。一方で未来はぎこちない笑みを浮かべながら、みんなが席に座れるように椅子を整理しだす。
「遅れてごめん!卒論提出しに行ったら人が結構多くてさ、時間かかっちゃった」
「ほんまに焦った!提出出来ないかと思ったもん!でもギリギリ間に合って良かった~」
 声が大きくてよく喋るこの二人は、グループの中心人物である由利と栞。由利は芸能人顔負けの美人で、栞は平均身長よりも遥かに背が小さくい可愛らしい雰囲気の女の子だ。この二人は積極的な性格なので、みんなのリーダー的存在として信頼を置かれているが由利と栞の押しの強さというか……自己主張の激しさに未来は苦手意識を持っている。ほら、今だって環の向かいに座っている未来をまるで見えていないかのように押しのけてくる。そのせいで未来は席替えを余儀なくされた。
(きっと環の傍にいたいんだろうなぁ)
環は美人で勉強も出来て、一緒にいて楽しいからたくさんの人から好かれている。だからみんな少しでも環の近くにいようと必死だ。未来だって環のことが大好きだからもっと傍にいたいし、あわよくば特別な存在……親友になりたいと思っている。しかし環の隣を勝ち取るにはライバルが多すぎる。最初から私に勝ち目なんてないに等しいのだ。
 由利と栞に席を奪われた未来は渋々端っこの席に移動する。
(環と離れちゃったけれど仕方ないか)
 少しだけでも環と二人きりの時間を楽しめた未来は大人しく環を巡る戦いから退場することに決めた。争って勝てる相手ではないし、醜い争いを環には見せたくない。だから今日は諦めよう。あ、でもジュース奢ってくれるってさっき言っていたから、もう一回環と話せるかもしれない。
 僅かな希望に胸を弾ませていると未来の隣に誰かが腰を下ろす。
「未来ちゃんおはよう~」
「さやかちゃんか、おはよう」
 未来の隣に座った女の子、さやかは普段からのんびりとした女の子だ。あまり二人きりで会話をしたことはないが、特別苦手意識もない。
挨拶を交わすと、さやかは人懐っこい笑顔で話しかけてくる。
「未来ちゃんは卒論提出終わったの?」
「うん、十二月に提出したよ。さやかちゃんは今日提出したの?」
「先週提出したよ~」
 しばらくさやかと雑談を交わしていると、いきなり背中を強くたたかれる。お世辞にも健康体とはいえない未来は突然の衝撃にせき込む。
「……な、なに……?」
「あ~桐子ちゃんだ~」
 桐子……あの子か……。
 痛む背中を庇いながら恐る恐る振り返るとピンクを基調とした少女趣味なワンピースを纏った桐子がいた。
(……この子は本当に……)
 小さくため息をつき、桐子に声をかける。
「……おはよう桐子ちゃん……」
「おはよう!強く叩きすぎた?ごめんね~」
 満面の笑みで謝罪の言葉を口にする桐子だが確実に反省などしていない。
「……桐子ちゃん、何度も言っているけれどあんまり叩いたりしないでよ」
「ごめーん、なんか未来を見ているとつい……ね!」
「……」
 本当に腹が立つ人だ。どうして私は大して親しくもない桐子に叩かれなければいけないのか。さしずめ桐子の中で未来は少しくらい虐めても大丈夫な所謂「弄られキャラ」として認識されているのだろう。もちろん未来だって多少の弄りは許容範囲内だが、桐子は限りなく暴力に近い弄りをしてくることもあるから厄介だ。本気で怒れば改善されるのかもしれないが、そんなことで場の空気を悪くしたくない。未来が譲歩するしかないのだ。
 未来がひっそりと桐子に対して怒りの炎を燃やしているとさやかがのんびりとした声をあげる。
「桐子ちゃん、ここ座りなよ~」
「ありがと、さやちゃん」
さやかが向かいの席を指さすと、桐子はご機嫌な表情でその椅子に座る。きっと未来を弄り、期待していた反応が返ってきたので気分が良いのだろう。未来の気分は最悪だったが。


環と引き離され、桐子に背中を思いっきり叩かれた未来の機嫌は急降下していた。
(背中はまだ痛いし、なんか息苦しい……)
 一気に増した人口密度と、苦手な人たちに囲まれて息が詰まりそうだ。
(環……)
 助けを求めるように環を見つめるが、環は由利たちと楽しそうに笑い合っている。
(私は由利さんも栞ちゃんのことも好きではないけれど、環は違うんだよね……)
 自分が好きではない人たちと、大好きな人が楽しそうにしている光景を見るのはなんだか面白くないけれど私は環を見つめることをやめなかった。

 しばらく見つめていると視線に気づいたのか、ようやく環と目が合う。気づいてほしいと思ってはいたが、いざ目が合うと妙に緊張してしまい挙動不審になってしまう。
「未来?」
 環が心配そうな声色で名前を呼んだと同時に、環ではない誰かが未来を呼んだ。
「未来!」
 驚いて後ろを振り向くと……。
「茉莉奈!」
 彼女は鵜飼 茉莉奈、環と同じゼミに所属しており未来が信頼している友人の一人だ。
 未来は茉莉奈の登場に顔を綻ばせる。
「遅かったね」
「ごめんね、卒論は先週に出したから問題はなかったけれどゼミ室に寄ったら教授の雑談に付き合わされて……」
「あ~茉莉奈のとこの教授って話し出すと長いもんね」
 さっきまでの欝々とした雰囲気から一変し、笑顔で茉莉奈と話す未来。我ながら現金な奴だと自覚してはいるが、やっぱり好きな人が傍にいてくれたらそれだけで嬉しくなってしまう。
「お、茉莉奈か、おはよ!」
「茉莉奈~遅いよ~」
「遅かったやん!待ちくたびれたわ~」
「茉莉奈の席ある?あ、未来の向かいの席が空いているね、そこに座りなよ!」
 茉莉奈に気づいたみんなは次々に声をかける。返事をする間もなく投げかけられる言葉に苦笑いしながらも、茉莉奈は由利の指示通りに未来の目の前の椅子に着席する。
 茉莉奈……彼女は環とはまたタイプの違った人気者である。環は基本的になんでも卒なくこなし、隙を見せないので手の届かない存在として人気を集めている。しかし茉莉奈は人間味に溢れていて身近な存在として愛されている。ほどよく整った嫌味のない容貌を持ち、他人の気持ちに寄り添うことの出来る優しい茉莉奈に心惹かれる人は数多い。未来もみんなと同じように茉莉奈の優しさに惹かれた一人だ。
(茉莉奈が来てくれたから少しだけマシになった……かも)
 環に次いで未来が信頼を寄せている茉莉奈が現れたことにより、息苦しさが幾分か緩和されたみたいだ。
 引っかかっていたモノが取り除かれた気がして胸元を擦っていると、茉莉奈が耳打ちをしてくる。
「ねぇついさっきまで顔色が悪かったよね。体調悪い?」
「え、いやそんなことは……」
 やはり環と肩を並べるほどに未来が絶大な信頼を置いているだけある。環も茉莉奈も、未来のことなどお見通しというわけだ。
 未来と茉莉奈以外の学友たちは、環を中心にしてはしゃいでいるので聞こえる心配はなかったが念のため声を潜め返事をする。
「体調は悪くないよ。ちょっと……ね?茉莉奈なら分かるよね」
 周囲に聞こえないようにボソボソと話しながら、桐子と由利たちを憎らしく見つめる未来に茉莉奈は合点がいく。
「なるほどね、大体は把握したよ。未来さえ良かったら愚痴でもなんでも聞くからね」
 未来が環と茉莉奈以外の友人たちに苦手意識を抱いていることを知っている茉莉奈は、未来の手を握りながら優しい言葉をかける。未来は茉莉奈の気遣いと暖かい掌に肩の力が抜けていく。
「……ありがとう」
 環を他の友人たちに取られて不貞腐れていた未来だったが、すっかり元通りだ。もちろん今この瞬間も環のすぐ隣にいたい気持ちはあるが、今は茉莉奈がいてくれるから大丈夫。決して環の代わりというわけではないが、未来は環か茉莉奈のどちらかが傍にいてくれたら息苦しさで死ぬことはない。
(相変わらず自分は人に依存しているなぁ)
 環と茉莉奈の存在に依存しきっている自分にため息をつきながらも、目の前にいる茉莉奈に甘える未来。甘える未来を受け入れ微笑む茉莉奈。そんな二人を鋭い目つきで睨む環がいたことに未来は気づかなかった。




 全員揃ったところで由利が大きい声を出す。
「はい、注目!今日集まってもらったのには理由があります!」
 突然の大声にハッとする。そういえば今日は何のために集まるのか、理由を聞いていなかったことに未来は今更気づいた。前に座る茉莉奈に目をやると、茉莉奈もよく分からないと言いたげな表情で由利に注目していた。
(よかった、私だけ知らされていなかったわけではないんだね……)
 実は今までミスなのか、故意的なのかは不明だがみんなが集まる日に未来にだけ連絡が来ていなかったことが何度かあった。その度に傷つき、学友たちへの不信感を抱いたものだ。しかし今日は未来だけではなく茉莉奈も環も、残りのメンバーであるさやかと桐子も知らされていないようだ。
(……ということは由利さんと栞ちゃんが発案者なのかな)
 みんなが二人に注目するとせーの、とタイミングを合わせて声を張り上げる。
「卒業旅行だよ、卒業旅行!みんなで卒業旅行行こうよ!」
「卒業旅行?」
 卒業旅行……。あぁ学生最後の思い出として仲の良い友人同士で旅行をするイベントのことか。
「卒業旅行か、いいね」
「やろ?せっかく時間に余裕もあるんやから卒業前にみんなで思い出作りしようや!」
 茉莉奈が好意的な反応を示すと栞は興奮気味に語りだす。由利も栞に続いて熱心に語る。
「誰かの家でお泊り会したことはあったけれど、旅行は今までなかったでしょ。卒業したらなかなか会えなくなるだろうから最後のチャンスだよ!みんなでどこか行こうよ」
 由利の言葉に未来は納得する。確かに大学を卒業し社会人生活が始まってしまったら今までのように遊んだり、ましてや旅行に行ったりなんてことはほぼ不可能だろう。それならば金銭的に余裕はなくとも、時間は腐るほどある学生のうちに旅行に行くほうが良いに決まっている。
「いいね~、さやかも行きたい~」
「私も!行きたい、行きたい!」
 さやかと桐子もはしゃぎだす。さやかの反応は可愛らしいが、桐子の甲高い声が不快で思わず顔を顰める。
騒音に耐えながら卒業旅行について盛り上がっている光景を眺めていると、さきほどから環がずっと黙っていることに未来は気づく。
(おかしいな……いつもの環なら取りあえずは会話に参加するのに)
 普段とは違う環に僅かに違和感を抱く。しかもよく見ると環の表情は心なしか険しい。眉間に薄らと皺が刻み込まれ鋭い目つきで机を凝視している。未来は思わず環の名を呼ぶ。
「環?」
「すごい楽しみ!いつ行く?」
「出来れば交通費は抑えたいよねー」
 だが学友たちの声によって未来のか細い声はかき消されてしまい、環には届かなかった。
(環……そういえば茉莉奈が来たあたりからずっとあんな調子だ)
 一体どうしたのだろうか。未来が卒業旅行よりも環に意識を奪われていると、茉莉奈が口を開く。
「まずはいつ行くか決めよう?そうしないと卒業旅行に行けるか、行けないかの予定も立てられないしね」
 まるで動物のように大声で騒ぐ彼女たちを柔らかな声色で諭す。するとさっきまで人目を気にせずにはしゃいでいた彼女たちもピタリと静かになる。まさに鶴の一声だ。茉莉奈はどちらかというとたたぬき顔だけどね。
「そっか、そうだね!私は二月下旬がいいかな~って考えているんだけど……みんなはバイトとか、予定ある?」
 由利が場を取り仕切り始めても、環は相変わらず難しい表情のままだ。一方残りのみんなはスマホと手帳を引っ張り出して予定を確認する。
「うちは単発のバイトしかやってへんから大丈夫やで!」
「さやかも大丈夫だよ~。シフト提出するときに二月後半は開けとくね~」
「私も大丈夫!」
 奇跡的に由利も栞もさやかも、桐子も二月後半はまだ予定が入っていないそうだ。これなら計画通りに卒業旅行は実行出来そうだなと、スマホも手帳も確認せずに未来は他人事のように思う。
(私も二月は予定ないけれど……行かないし)
 そう、卒業旅行には行かない。ついさっき由利と栞が卒業旅行について話題を出した瞬間に未来は行かないと心に決めたのだ。元々一緒に旅行をするほど信頼関係を築いているわけでもないし、由利たちも未来を求めてはいないので行く必要はないのだ。現に二月の予定の有無を聞いてこないことが未来への無関心を表している。
(別にいいけど)
 でもそれならば最初から私まで呼び出す必要はなかったのに……。由利の謎の気遣いに呆れる。
 未来が一人ため息をついていると、茉莉奈が手帳を見ながら声をかけてくる。
「未来はどうなの?」
「……私?」
「うん、未来も行く……よね?」
「あー私は……」
 行かないと言おうとしたちょうどその瞬間、栞が割り込んでくる。
「ねー!茉莉奈はどうなん、大丈夫そう?」
 近くにいるのだからそんなに大声を出さなくてもいいのに。未来は我慢出来ずに耳を押さえる。
 栞は耳を押さえる未来を見て笑いながら謝罪の言葉を口にする。
「あ、ごめんごめん~。私って声大きいやろ?うるさくてごめんな~」
(本当だよ……)
 すまない、と未来に謝った栞は茉莉奈にもう一度問う。
「で、どうなん?茉莉奈も行けるやんな?」
「あ……私は」
 茉莉奈は瞳を左右に忙しなく動かしながら口籠ってしまう。茉莉奈は何をそんなに焦っているのだろうか。環と同様に茉莉奈の反応にも違和感を覚えた未来は問いかける。
「どうしたの?なんかとても動揺しているように見えるけれど……」
「あ……えと、それはね……」
 茉莉奈は口をもごもごとさせ俯いてしまう。肩を丸めて俯いてしまった茉莉奈のつむじが目に入る。
(いきなりどうしたんだろう?茉莉奈らしくないな……)
 茉莉奈はいつも周りの空気をよくする潤滑油のような役割を果たしてきた。だから物事を白黒ハッキリする性格ではないことは知っていたが、誰かからの質問をはぐらかしたりうやみやにしたりする人ではなかったはずだけど……。無防備につむじを曝け出す茉莉奈を見つめながら未来は首を捻る。
「茉莉奈~?どないしたん」
 栞も茉莉奈の様子に戸惑いを見せる。未来もいきなり黙ってしまった茉莉奈が気がかりだ。何か私は茉莉奈の気分を害するようなことでも言ってしまったのかと不安になり、栞が割り込んでくる前までの茉莉奈との会話を思い出した。
(私も旅行に行くのかどうか聞かれて……栞ちゃんが割り込んできたから私は行かないってまだ茉莉奈に言ってないっけ)
 変なことを言った記憶はない。じゃあ茉莉奈は一体どうしたというのか?なんとかしたくて茉莉奈に声をかける。
「茉莉奈?どうしたの、お腹でも痛くなったの?」
 茉莉奈はようやく顔を上げ、未来にだけ辛うじて聞き取れる声量で未来に尋ねる。
「……未来は卒業旅行に行く?」
「……えーと、私は行かない……つもりだよ」
 しばしの沈黙。
「え……未来は行かないの!?」
「ちょ、声が大きいよ……!」
 茉莉奈はよっぽど驚いたのか、さっきのか細い声を出した同一人物とは思えないほどの大声で未来が卒業旅行に参加しない事実を周囲に知らせた。
 自分でも声が大きすぎたと思ったのだろう、茉莉奈は口を押え謝る。
「あ、大きい声だしてごめんね……」
「いいけど……」
いいけれど、「未来が卒業旅行に行かない」という話題にグループの注目が一気に集まってしまった。
「あ、未来は行かへんの?」
「用事でもあるの?」
由利と栞が心なしか冷たい口調で質問をしてくる。
(なんだよ……別に私なんていてもいなくても一緒なくせに)
未来がいなくても卒業旅行を楽しめるはずなのに、由利たちがなぜか責めるような口調なのはきっと場を乱してやがってとか、旅行中の面倒事は誰に押し付ければいいんだよとかいう不満があるからだろう。
(でも絶対に行かないし)
 環と茉莉奈は別としても由利たちとは信頼関係を築けていないし、向こうだって未来に信頼を寄せていない。もし未来が卒業旅行に行ったとしてもどこかぎこちない空気が流れて、お互いに不満が募るだけだ。
(あ、でも私がいれば荷物持ちとか地図係とか面倒くさいことを押し付けられるから由利さんたちにはメリットはあるのかな……)

「未来?」
 名前を呼ばれてはたと意識が現実に戻る。目の前にいる茉莉奈を見るとなぜか悲しそうな表情だった。
「未来はどうして行かないの?」
「それは……」
 正直なところグループメンバーへの不信感とストレス以外にも行かない……行けない理由がある。それは金欠なのだ。みんながどこへ行くかは知らないが今の未来の懐事情では近畿圏から出ることすら厳しい。
(嫌味として環と茉莉奈以外の人が嫌いだからって答えたいところだけど、それはあまりにも幼稚すぎるしね)
 嫌味を零しそうなところをグッと堪えて未来は理由を説明する。
「実はね、金欠なんだよね……。もう笑えないぐらいにお金がなくてさ。だから行かないっていうか行けないんだよね。残念だよ」
 金欠は誰の責任でもない。いや、未来自身の責任なのだが金欠が理由ならば誰も不快な思いをすることはない。
「そっか、お金がないなら仕方ないか」
「未来ちゃん行かないの~。どうせならみんなで行きたかったよ~」
「未来ってば金欠とか、笑える!」
 なんとか険悪な空気を避けることには成功した。
(金欠なのは全く笑えないけれどね)
 ほっと胸をなでおろし、茉莉奈に目を向けると相変わらず捨てられた犬みたいに悲しい表情をしていた。そんな茉莉奈が気がかりでじっと見つめていると茉莉奈は声を震わしながら口を動かした。
「そっか……未来は行かないのか……それなら私も」
(私も?)
 静かに茉莉奈の言葉を待っていると今度は由利が話の腰を折りにきた。
「茉莉奈は……行くよね。まさか未来が行かないからって自分も行かないとかない……よね?」
 茉莉奈を見つめながら首を傾げる由利に真冬だというのに背筋に冷たい汗が流れる。
(由利さん……目が笑っていないし圧力がすごい)
 茉莉奈も未来と同じく由利に圧倒されたのかごくりと、唾を呑む音が聞こえた。
 みんなが由利の気迫に圧倒されていると、ずっと黙っていた環が突然口を開いた。
「ごめん、私も行けない」
「え!?嘘でしょ!?」
「なんで?環がいないと楽しくないよ!」
「環まで!?なんでなん!?」
環のまさかの発言に場は騒然とする。未来も驚き、環を凝視する。
(なんで?環はみんなと仲が良いし、前に少しは蓄えもあるって……)
 由利や栞、桐子からの問い詰めに環は苦笑しながら答える。
「実はね、研修っていうのかな?それが二月後半にあるんだ。卒業旅行も大事だけど研修は絶対に休めないでしょう、だから行けないの」
 最後にごめんねと謝罪を付け足す環に由利や栞たちは押し黙ってしまった。そりゃそうだ、会社の研修は欠席出来るはずがない。ここで自分たちの我儘を押し通せば環の進路は絶たれ、環から嫌われることは必須。それだけは回避したい彼女たちは大人しく引き下がるしか道はない。

 しばらく全員が環の卒業旅行不参加という決定に暗い顔をしていたが、場の空気を変えるために……それとも話題の中心から逃げ出すためか環が話題を変える。
「そういえば茉莉奈はどうなったの?行くの、行かないの?」
「あ、私は……」
 またしてもみんなの注目を浴びる茉莉奈は視線を忙しなく動かす。
 茉莉奈は決して無口ではないが自分から進んで発言をするよりも人の話を聞く方が得意な人だ。環や由利のように前線で活躍してみんなの注目を集めるのではなく、一歩下がったところからみんなを支える性格なのだ。そんな性格の茉莉奈は注目されるのが苦手だということを未来は知っていたし、環も知っていると思っていた。それなのにわざわざみんなの視線を茉莉奈に導くなんて……。
(なんだか今日の環は意地悪だなぁ)
 特に茉莉奈への当たりが強いような……そういえば環はいつから口を閉ざしていたっけ?茉莉奈が来てからじゃなかったかな?ということは環のいつもとは違う態度に茉莉奈が関わっているのかもしれない。二人は喧嘩でもしているのか……?
 未来がお節介にも環と茉莉奈の関係を心配していると、茉莉奈が未来に話しかける。
「未来は行かないんだよね?」
「ん?うん、お金の問題で行けないね」
 なぜそんなことを聞くのだろうか。茉莉奈だって環と同じで卒業旅行に参加するメンバーたち……由利、栞、さやか、桐子と仲が良いじゃないか。未来と違って必要とされている。何をそんなに悩んでいるのだろう。

 未来が不思議そうにしていると環がややイラついた口調で茉莉奈に声をかける。
「ねぇ茉莉奈、もしかして未来が行かないから自分も行かないつもり?」
「まさか!」
 思わず茉莉奈ではなく未来が驚きの声をあげてしまった。未来の声に驚いた由利たちがこちらに視線を向ける。いきなりたくさんの瞳に凝視され未来は恐る恐る口を開く。
「あ、突然大きな声出してごめん。いや、でも本当にまさか!だよ。なんで私が行かないからって茉莉奈も行かないって言うと思うの?」
「言われてみればせやな」
「だ、だよね?」
 そう、どうして環は未来が行かないから茉莉奈も行かないと答えると思ったのか。確かに未来と茉莉奈は仲が良いが二人揃って同じ選択肢を示し合わせるほどの仲ではない。それに茉莉奈と仲が良いというなら環とだって未来は仲が良いはずだ。環の中で未来と茉莉奈はセット扱いなのだろうか?
 環は未来の疑問に腕を組み厳しい面持ちで答える。
「茉莉奈は……自分じゃなくて誰かの意見に流されるところがあるから、今回は未来の選択に流されるつもりかと思っただけだよ」
「そ……そんなこと」
 環の声色と言葉が思いのほか辛辣でみんなの顔が強張る。
未来は人知れず焦っていた。こんな空気になるなんて予想外すぎた。おかしい、卒業旅行について話していただけなのに。そもそもなんでこうなった?由利が卒業旅行を提案して未来と環、茉莉奈以外のメンバーがすぐに賛同して……栞が茉莉奈に予定を聞きに来て、なぜか茉莉奈が未来はどうするか聞いてきて……。
(それで私が行かないって答えたら茉莉奈が黙っちゃって、その間に環も卒業旅行に行かないってことをみんなに伝えたんだよね)
 何度状況整理をしても環が苛立ち、茉莉奈が挙動不審になる理由が分からない。やはり環と茉莉奈は未来たちが知らないところで喧嘩でもしているのかもしれない。だから環はいつもより意地悪で茉莉奈は落ち着きがないのだ。
(でもあの環が場の空気をわざわざ悪くさせるとは思えないし……駄目だ、分からない)
 それほどまでに環は怒っているのか?一体なにがあったのだろうか。未来は大好きな友人である環と茉莉奈の関係が悪化しているかもしれないことがただ心配だった。

 しばらく緊迫した空気の中、沈黙に耐えていると茉莉奈がやっと決心したように重い口を開いた。
「私は行くよ、行ける。何も予定は入ってないし……うん、私は卒業旅行に行くよ!やっぱり出来るだけ大勢で行ったほうが楽しいもんね」
「本当!?」
「よかったわ~。茉莉奈まで行かないって言ったらどないしようかと……」
 安心したのか由利と栞が大きく息を吐く。
「みんなで行けないのは残念だけど嬉しい~」
「茉莉奈は行けるんだね、良かった!本当は環も一緒が良かったけれど研修なら仕方ないよね!」
 さやかも桐子も茉莉奈の卒業旅行参加が確定して安心したようだ。ちょっと前のピリピリしたムードが嘘のようにみんながはしゃぎだす。
(おぉなんとか丸く収まって……はいないか)
 みんなが安堵の表情を浮かべ楽しそうに卒業旅行について雑談を再び始める姿を見ていると、全ての問題……というほどの問題ではないかもしれないけれど厄介な出来事はなんとかやり過ごせた気になるが、一つだけしこりが残っている。
(環と茉莉奈は大丈夫だろうか)
 そう、環と茉莉奈のことだ。由利たちは二人の変化に気づいていないのかもしれないが二人をずっと見てきた未来には分かった。今日の二人はどこかおかしい。環と茉莉奈は特別親しいっていう印象はないが仲が悪いわけでもないはずだ。二人で会話をしている姿も肩を並べて歩いている姿だって何度も見かけた。それなのに今日の環は茉莉奈が来ても声をかけないし、茉莉奈を非難するような発言までした。茉莉奈も環に挨拶をしなかったし、卒業旅行に行くか行かないかというそんなに重要ではない話題にとても悩んでいた。
(もし何かがあったとしても、当人同士の問題だから首を突っ込むのは止めた方がよさそうだけれど……)
 チラリと環に視線を向けるとさきほどよりも厳しい表情で茉莉奈を見ていた。一方環からの鋭利な視線を受けている茉莉奈は苦笑しながらも由利たちと卒業旅行について盛り上がっている。だが内心は環からの視線に怯えきっていることだろう。
(環の方が色々と好戦的っていうか……強いからなぁ。茉莉奈は争い事が好きじゃないからストレスになったりしないかなぁ)
 これからの二人が心配で堪らない未来はどうしたものかと頭を抱える。




 どれぐらい経っただろうか、未来が辺りを見渡すとあれほどいたはずの学生たちがほとんどいなくなっていた。
(もうそんな時間?)
 食堂の壁に掛けてある時計に目をやると、時刻は午後四時半を少し回ったところだった。食堂に来たのは二時半でみんなが集まるころには三時を回っていたかな?かれこれ二時間ほどここにいるわけか。
(私がここにいる必要はもうないから帰ろうかな)
 チラリと横を見ると旅行会社のパンフレットを机に広げながらみんなが盛り上がっていた。恐らく由利が行きたい、興味がある観光地のパンフレットを予め用意しておいて、そのパンフレットを見比べながらどこに行くか会議中なのだろう。
(というか行かないのになんで環まで会議に参加しているんだろう)
 会社の研修の都合で卒業旅行には行かないはずの環がみんなと一緒になってパンフレットを眺めている光景に未来は首をひねる。
(環もよく分からない行動するときあるよねぇ)
 みんなが会議を始めてからずっとスマホを弄っていた未来は環の行動に疑問を抱きながらも帰宅の用意を始めることにした。
 暇つぶしに使用していたせいですっかり充電が足りなくなったスマホをモバイルバッテリーに繋ぎ、忘れ物はないかリュックの中身を確認する。忘れ物がないことを確認すると椅子にかけておいた灰色のモッズコート手にとり立ち上がる。
(さて、帰ろうかな)
 椅子から立ち上がると、環と茉莉奈が同時に未来を見る。物音もさせず、静かに行動していたつもりだったので反応が早い二人に少しだけ吃驚する。
 リュックを背負いコートを片手に携えている未来を見た環は慌てて制止する。
「未来、帰るの?待ってね、私もすぐに用意するから。一緒に帰ろう」
「え、環帰っちゃうの?」
 素早く荷物を纏め始めた環に由利が不満げな声を漏らす。
「うん帰るよ。みんなはゆっくり話し合いを続けたらいいよ」
「でも……環が帰ったら寂しい」
 甘えた声で環に縋り付く由利。未来はその声にブルリと身体を震わす。
(なにその声……そういうのは友達じゃなくて男にすればいいのにってそうか……そうまでして環の気を引きたいのか……)
 由利が媚びた声を出して環の気を引こうとしているのは環に執着している証だろう。その執着というモノは同性愛などではなく年頃の女性ならば一度は経験するモノだ。友人へ必要以上に執着し、その友人が誰かと仲良くしている姿なんて見てしまった日には友人を奪われたという嫉妬と奪った相手への怒りが感情を支配する。
(由利さんは限りなく恋愛に近い執着心を環に対して抱いているんだろうなぁ)
 由利が環に執着してしまうのは仕方がない。環は美人でなんでも出来るし、姉御肌で頼りになる。こんなに魅力的な環に執着するなっていう方が無理な話だ。
 由利の心情を冷静に分析しているといつの間にか環が未来のすぐ隣に立っていた。
「うわ」
「なにビックリしているのよ。ほら帰ろう?」
「え、でも……」
 由利は放置でいいのだろうか。由利の反応が気になってそちらに目をやると鬼女のような表情で未来を睨んでいた。
(……こわ)
 大方環を未来に奪われたと思っているのだろう。なんて醜くて親近感を抱かせる姿だろうか。
「じゃあ、私と未来は帰るね。みんなはどこに行くか焦らずに話し合いなよ」
 グイっと未来の細い腕を強く引き寄せ環が歩き出そうとした瞬間、由利が切羽詰まった声で環を呼び止める。
「環!ちょっと待って!」
 必死な想いが声色から伝わったのか環は足を止め由利を見る。未来の腕は掴んだままで。
「あのね……二月後半は研修だから卒業旅行に行けないんだよね?」
「そうだよ、残念だけどね」
「じゃ、じゃあさ三月なら大丈夫?そのころなら研修はもう終わっているよね?」
「……由利」
 環は吐息まじりに由利の名を呼ぶ。
「私はね環と最後の思い出をつくりたいの!だからね?お願い!環のためなら予定を調整するし、もしみんなが駄目なら二人で行くのも悪くないよね?」
 由利の必死さにみんなは黙ってしまう。由利の金魚のフンである栞でさえも黙りこくり、環を熱心に口説く由利の姿を驚いた表情で見ている。さやか、桐子も栞と同じような反応だ。由利が環にお熱なことは周知の事実だったがまさかこれほどまでだったとは知らなかったのだろう。未来も知らなかった。由利が未来と同じように環の隣を勝ち取ろうと躍起になっていたことは勘付いていたが、まさか……これほど熱い想いを抱いていたとは……。
 環はしばらく顎に手をやり、なにやら考えこんでいる。
(環だって由利と仲が良いしここまでお願いされたら折れるかもなぁ)
 みんなと一緒は無理でも由利と二人で行くかもしれない。もし本当にそうなったら……?環と由利が二人きりで楽しそうにしている場面を想像してしまい、胸の奥がざわついた。
 胸のざわつきを抑えようと、環に掴まれていない方の腕を胸に置く。
(環はなんて答えるのかな……)
 ギュッと胸に置いた掌を強く握りしめる。本音を言えば断ってほしかった。これ以上環が未来以外の人と親密になっていく様子なんか見たくない。
(私って意外と嫉妬深いなぁ)
 湧き上がる嫉妬を抑えこんでいると環が口を開いた。
「由利、気持ちは嬉しいけれどごめん。三月だとみんなの予定が合わないだろうし」
「……私と環と二人で行けばいいじゃん!」
「……由利、ごめんね……」
 環と由利以外は目配せをしながらこれからどうするか思案する。環に提案を断られた由利が平常心でいられるはずがない。このままだと栞、さやかと桐子、茉莉奈にまで八つ当たりをする可能性がある。それだけはみんなが回避したいと願っている。拗ねた由利はとても面倒くさい。出来るだけ早めに由利と離さすことが得策だ。

 環に断られた由利は意気消沈といった様子で下を見つめている。そんな落ち込んだ由利を目の前にしても環は慰めない。環は茉莉奈と違い優しさを与える人を選別する。残念ながら今日の由利は環に見捨てられてしまったようだ。
(環って怖いところもあるよね……)
 もし自分が環にとって優しさを、愛を与えなくてもよい存在だと認識される日が来てしまったら……想像するだけで恐ろしい。

 みんなが由利をどう扱えばよいのかハラハラとしていると茉莉奈が席を立ち、由利の肩を優しく包み込む。
「由利ちゃん、私たちがいるでしょう?みんな由利ちゃんと旅行に行くのが楽しみだからそんなに落ち込まないで」
「茉莉奈……」
 未来は感心する。
(さすが茉莉奈、あの猛獣を手なずけるとは……)
 感情の起伏が激しく自己中心的な言動が目立つ由利を手なずけるのは骨が折れる作業だ。由利が望む言葉をかけてあげないといけないし少しでも由利の意向とそぐわないことをしてしまえば機嫌を損ねてしまい、どんな反撃に遭ってしまうかわからない……。だからいつも由利の隣にいる栞や仲の良いさやかと桐子もいまだに由利をコントロール出来ない。もちろん未来も由利を手なずけやしない。そもそも未来はどうやら由利に嫌われているらしいので由利に慰めの言葉をかけたところで火に油を注ぐことになる。そんなことくらい聡い未来は理解しているので決して由利には必要以上に近づこうとはしない。
(近づいて傷つくのは私だしね)

 しばらく茉莉奈に慰められていた由利はようやく落ち着いたようで明るい声で環に話しかける。
「……なんか我儘言っちゃってごめんね!今回は残念だけど次は一緒に行こうね?」
「……うん今度は一緒に行くよ。次があれば、ね」
 薄く微笑み返す環を見て未来は「ん?」と首を捻る。
(なんか……さっきの環の言葉……)
 環の言葉に違和感を覚える。
 一体どこに違和感があったのだろうと環の言葉を反芻していると腕をグイと引っ張られる。
「ちょっ……」
 バランスを保てずによろけてしまう。
「じゃあ私たちは帰るね。……由利もバイバイ、またね」
「あ、うん……。またメッセージ送るね!」
 由利の言葉に背を向けたままヒラヒラと手を振り食堂を出ようとする環と腕を掴まれたままの未来。
(痛いよ!環ってこんなに力強かったかなぁ)
 しなやかな女性らしい環の手に隠された筋力に驚嘆しつつも腕の解放を求めて腕を捻る。
「何暴れているの、未来?」
「どうしたのって……そろそろ腕を離してくれないかな?ちょっと痛くなってきたよ」
「駄目」
 未来の願いは却下され環は腕を掴んだまま食堂を出て、校門を目指して足を進める。環の意図は読めないがもう好きにさせるかと腕の力を抜いたその時、未来はある感覚に襲われ足を止める。
 足を止めると環が不審な様子で未来を振り返る。
「どうしたの?」
「あ……えっと、ト……トイレに行きたくなっちゃった」
 ついさきほどまでは大丈夫だったというのに……。我慢強い未来でも突然襲い来る生理現象には耐えられない。環も生理現象なら仕方ないとタイミングよく目の前にあった建物に入る。

環と未来がトイレを求めて入った建物はスクエア館といってイングリッシュサロンやリフレッシュルームという名の休憩室、カフェテリアなどが備えられている校舎だ。スクエア館にはゼミ室や教室がないので普段から人気のない建物として有名だ。そのため人混みが苦手な未来はスクエア館のトイレにはよくお世話になっている。
「相変わらずスクエア館は人が少ないねぇ」
 トイレに向かって歩きながら建物内を見渡すが人影が全く見当たらない。時期的に学校に来ているのは四年生ぐらいだからスクエア館はいつもよりひっそりとしていた。
「そうだね、イングリッシュサロンも今日はやっていないし、カフェも休業日だから誰もここに来る予定なんかないんだろうね」
「そうかぁ、じゃあ人目を気にせずにトイレを使えてラッキーだね」
「トイレなんていつでも人目を気にする必要ないでしょう。着いたよ」
 スクエア館一階の奥に配置されたトイレの前で未来と環は立ち止まる。
「うーん、そうかなぁ?私たちの大学ってトイレだけは綺麗じゃない?だからなのか長時間トイレを占拠する人たちが結構いるし……」
 二人が通う大学はなぜかトイレに力を入れている。有名キャラクターとコラボしたり、ソファを設置して自室のように寛げる空間を演出したり、女子受けのする小物を設置したりと気合が入っている。確かに汚いトイレよりは綺麗な方が嬉しいのだがトイレばかり美しくなっていき、ゼミ室やその他の教室は相も変わらず古臭いままなのが気に入らない。
「ま、今日はトイレを我が城とする騒がしい集団もいないから安心してトイレに行っておいで」
 そう言うと環は未来をトイレに押し込む。
「おっと……」
 悲しいことに足腰が弱い未来は押された衝撃によろけながらトイレに入る。
「さっさと済ませよう……」
 数年前に改装されて綺麗に生まれ変わったトイレの壁紙を眺めながら個室のドアを開く。

 数分後、用を済ませトイレから出てきた未来は環がどこに行ったかと辺りを見渡す。キョロキョロしているとトイレから少し離れた場所にあるベンチに座りぼんやりとしている環を見つけた。ぼんやりとした表情に未来はそういえばと今日の環の違和感について思いだす。
(今日は環も茉莉奈も様子が変だったなぁ。質問してもいいかな?鬱陶しがられないかな……)
 未来はずっと気になっていた。環と茉莉奈の普段と違う態度、二人の距離感……。本当なら敢えて触れずに成り行きに任せたほうがいいと分かってはいたが気になって仕方がない。だって環と茉莉奈は未来にとって大切な人たちだから、自分にとって大切な人たちに何があったのか気になり心配してしまうのは人情というモノだろう。まぁ例えばこれが由利や桐子などのどうでもいい人たちなら触らぬ神に祟りなしと話題にすることを避けただろうが。
 未来はゆっくり環に近寄る。環は未来がトイレをとっくに済ませて自分のすぐ傍まで近付いていることに気づいているはずだが、何も言わずに前を見据えている。
 真っすぐに前を見つめる環を横から見つめる。傍から見たら異様な光景だが幸いスクエア館には未来と環しかいない。
(……今この瞬間の環もおかしい気がする……)
 沈黙が流れる。未来はなにか話しかけようと口を開いては閉じる動作をさっきから繰り返している。上手い切り出し方が見つからない。
 しばらくそうしていると環がおもむろに立ち上がり未来の腕を掴む。
「うわっ」
 強く未来の腕を掴んでくる環に驚き、変な声が出た。
「帰ろうか」
 しかし環は気にすることなく歩き出す。
(なんだろう……違和感?言いようのない不安?なんて言えばいいのか分からないけれど何かがひっかかるなぁ)
 環の意味深なような、特に意味なんてないようなよく分からない行動にモヤモヤとする。一体どうしたというのだろうか。気になる、気になるがどうやって切り出したらよいのか不器用な未来には全く分からないし環が何を考えているのかこれっぽっちも想像できなくて悲しい。
(私は環に何があったのか、悩みがあるのかどうかも見抜けない奴なのか……)
 自分の頼りがいのなさにがっくりと肩を落とし、環に手を引かれたままスクエア館を出る。

 スクエア館を出るとついさっきまで一緒にいた学友たちがいた。
「あれ、二人とも帰っていなかったの?」
 茉莉奈がいち早く未来と環に気づいて声をかけてくる。
「あぁちょっと寄り道してて……茉莉奈たちも帰るの?行き先は決まった?」
「まだ決まってないけれどね、一度家に帰って各自どこに行きたいか考えてみることにしたの。それで会議はメッセンジャーで続行予定だよ」
 人数分用意されていたらしいパンフレットを鞄から少しだけ覗かせる茉莉奈。
「そうなんだ、早く行き先決まるといいね」
「あ、環!まだ学校にいたんだ」
 未来と茉莉奈がお喋りをしていると由利たちもこちらに気づいて駆け寄ってくる。
「一緒に帰ろう!」
 由利が嬉しそうに環の腕に手を回し一緒に帰ろうと誘う。由利が環に接近することで、まだ腕を掴まれたままの未来も必然的に由利との距離が近くなってしまう。苦手な由利が近くにいるという現実に思わず身体が強張ってしまう。
「……そうだね、一緒に帰ろうか」
 環は緊張と嫌悪により不自然に身を硬くする未来をチラリと横目で見ると、未来の腕を解放した。そして由利に腕を組まれたまま校門へ向かって歩き出す。未来を残して。
 未来は突然腕の拘束を解かれ、環が由利と仲睦まじく腕を組みながら歩く姿を茫然と目で追う。
(……?やっぱりおかしい……)
 環の行動が不思議で堪らない。数十分前は茉莉奈や由利がいる前でも未来の腕を掴み半ば無理矢理帰路につこうとしていたのに、離してほしいと頼んでも強く掴み続けていたのに。由利が環に近づいて来た途端に未来を放置して由利と歩き出す。わからない、環の考えていることがわからない。
(今日の環はいつもに増してわけが分からないよ)
 腕を組み考える。しかしいくら考えても結局は他人である未来には環の真意なんて分かるはずもないし、元来ネガティブな未来は考えすぎた結果良くない思考に陥っていく。
(茉莉奈と何かあったと思っていたけれどまさか……原因は私?)
 そうだ、その可能性は十分にある。茉莉奈が食堂に来る前で未来と環は二人きりで他愛もない会話をしていた。その時に未来は無意識のうちに環を傷つける発言をしてしまったのかもしれない。だから環は茉莉奈が来ても無反応だった?いや、でも由利や栞には普通の態度だった。もし未来が原因なら茉莉奈だけではなく全員にあんな態度をとるはずだ。それに環は未来が帰ろうとしたときに一緒に帰ろうと言ってくれた。もしも私に対して怒っているならそんなことしないだろう。
(トイレもついてきてくれたし……あぁでもトイレから出てきたときの環の様子はちょっと変だったかぁ)
 まさか未来になにか言いたいことがあって一緒に帰ろうと誘ったものの、メンタルが脆い未来を気遣って言い出せなかった?それでどうしようかと悩んでいたら茉莉奈たちと遭遇して、いつまで経っても環の気持ちをくみ取れない未来を見限って由利を選んだ……?
(駄目だ、これは被害妄想だ。環はそう簡単に私を見捨てない……)
 でも果たして本当に被害妄想だと言えるか?四年間の鬱憤がたまたま今日爆発したこともあり得る。どうしよう、私はどうしたらいい?不安で、恐ろしくて堪らない未来は震える手を環の背中へと伸ばす。
(環……置いていかないでよ、環は由利さんの方が好きなの?)
 必死に伸ばされた未来の手を誰かが握る。
「!……茉莉奈」
「未来が今何を考えていたか当ててみようか?」
 恐怖に震える未来の手を包み込んだ茉莉奈が優しく呟く。
「未来は意外と感情が顔に出やすいからすぐに分かるよ」
「……そうかな、よく何を考えているのか分からないとは言われるけれど」
「分かるよ、未来をよく見ていたら分かるよ。未来が何に怯えて、何を一番好きかってことくらいね……」
 茉莉奈は未来の手を握ったまま歩き出す。前にはまるでカップルみたいに腕を組んだ環と由利がいる。未来は密着している二人を見て心の軋む音が聞こえた気がした。
(見たくないなぁ)
 つい視線を地面に落とすと未来の横を歩く茉莉奈が小さな声で話しかけてくる。
「ねぇ、環が未来じゃなくて由利ちゃんを選んだから落ち込んでいるんでしょ」
 図星を突かれてドキリと心臓が跳ね、茉莉奈に握られた手に力が入る。
 未来の反応に茉莉奈は苦笑する。
「分かるよ。未来は環の一挙一動にとても影響を受ける子だからね」
「……どうして分かったの」
 自分の心を見透かされていたことがなんだか恥ずかしい。
「そんなの簡単だよ。環が未来の手を離して由利ちゃんと歩き出した瞬間に未来の表情が変わったからね」
「表情?」
 未来は茉莉奈に握られていない左手で自分の頬を摘まむ。自分はそんなに分かりやすい顔をしていたのか。
「うん、環に縋るような視線を送って口元は何か言いたげに震えていたよ」
「そうかぁ、今度からは隠し通せるように頑張るよ……」
「隠さなくてもいいよ。多分未来の変化に気づいたのは私だけだしね。それより、未来は落ちこむ必要は全くないよ」
 茉莉奈がいやに自信たっぷりに断言する。なぜ?
「どうして、そう言い切れるの」
「うーん、それはね……環が未来を嫌うなんてありえないからだよ」
「……本当?」
 茉莉奈はまるで環の気持ちなんて最初から分かりきっているみたいに言い切る。どうして茉莉奈はそこまで環の気持ちを理解しているのか。もしかしたら二人は未来の知らないところで親密な関係になっていたのだろうか。
「本当だよ。環が未来を嫌って置いていくなんて絶対にありえない。だからね、被害妄想は今日のところはやめにしよう」
「分かった……」
「良かった。あ、一応誤解も解いておこうかな」
「誤解?」
「うん。未来は環が由利ちゃんを選んだと勘違いしているようだけど……」
「そうじゃないの?」
 茉莉奈は首を振る。
「違うよ。未来と由利ちゃんって仲良くはないでしょう?そのことに環も気づいているから未来を由利ちゃんから遠ざけたんだと思うよ」
「まさかぁ……」
「絶対にそうだよ、環は由利ちゃんより未来の方が好きだしね」
 その言葉に未来は驚き足を止める。
「それ、本当?」
 頭一つ分下にある茉莉奈に問う。
「本当だよ。あ、これは内緒にしていてね?知られると面倒だからね……」
 茉莉奈は人差し指を未来の唇にあてて微笑む。もしこのことが由利たちにばれたら、面倒なことになるのは分かりきっているので素直に頷く。
(そうかぁ、やっぱり私の被害妄想だったんだね。しかも環は由利さんより私を好き……もしかしたら茉莉奈が私を慰めるための嘘かもしれないけれど……それでも嬉しい)
 未来と茉莉奈の前を歩く背筋がピンと伸びた美しい背中を見て、思わずニヤける。すっかり元気になった未来の様子に茉莉奈は安堵したのか未来の手を離す。
「本当に未来は環のことが好きだね」
「そりゃあもちろん」
「そう……少し妬けちゃうね」
 そう笑う茉莉奈はどこか悲しそうな、でも何かを非難するような瞳をしていた。その瞳に未来はなんとなく不安な気持ちになる。どうして茉莉奈は急にそんな瞳を私に向けるのか……変だ。
(そうだ、聞いてみようかな)
 今日の茉莉奈と環は色々と変だった。環にも聞きたかったがタイミングが合わずまだ聞けていない。茉莉奈ならすぐ傍にいるし環と違って回りくどい言い方をせずに素直に答えてくれるはずだ。
 さっそく茉莉奈に疑問を投げかける。
「ねぇ、茉莉奈って環と……」
 言いかけて口を噤む。
(待てよ、私は二人が喧嘩でもしたと思い込んでいたけれど違う気がしてきた。だってさっき茉莉奈は私を慰めるためとはいえ自分から環を話題に出してきたし、なにやら環と深い話を共有しているみたいだった)
そんな二人が喧嘩中とは思えない。もし喧嘩をしていたなら相手の名前を出さないだろう。つまり環と茉莉奈の間には何もない?未来の考えすぎだった?
(そうなのかもしれない)
 未来が一人で納得していると茉莉奈が続きを促してくる。
「環と私が……何?」
「あ、いやなんでもないよ。自己解決した!」
 なんでもないと顔の前で手を振るが茉莉奈は納得がいっていないようだ。
「気になるよ。何を聞きたかったの?また環が関係していることなの?」
 気のせいか口調が強い。
「そんなに必死にならなくても……本当に仕様もないことだから」
「環と私に関係することなら教えてほしいな」
 いつになくしつこい。未来が知っている茉莉奈はこんなに食い下がらない。しかし今日の茉莉奈は粘る。しかもどうやら「環」というワードに食って掛かっている気がする。こんなにも「環」に反応するなんて……変だ。やっぱり今日の茉莉奈も……前方で由利と談笑している環も変だ!
(一度は自分の思い過ごしかと思ったけれど違うのかなぁ)
 横にいる未来よりも頭一つ分背が低いボブヘアの茉莉奈を見る。身長差のせいで茉莉奈は上目遣いで未来を見てくる。いつもなら愛らしいと感じる場面だが、今日の茉莉奈の瞳には強い炎が灯されていた。その炎が一体何を表しているのか未来には分からず怖気づいてしまう。

 じっと下から注がれる熱視線に負けた未来はしぶしぶ口を開く。
「実はね……」
 今日気になったことを茉莉奈に伝える。環が茉莉奈にだけ態度が冷たかったこと、茉莉奈の普段と違う煮え切らない態度、環の言動……今日一日で違和感を覚えた事柄全てを話した。
「……というわけなんですよ、茉莉奈さん」
「そう……」
 未来の話を聞き終えた茉莉奈はなにやら深刻そうに顎に手をやり、唸る。
「二人の態度に違和感があったからずっと気になっていたんだ。もしかして喧嘩でもしたのかなぁ?って」
「喧嘩……か」
「もし環となにかあったなら話ぐらいなら聞けるよ?口出しはしないから!」
 なるべく元気な声を出して茉莉奈を励ます。
「……ありがとう。でも喧嘩とはまた違うかな」
 茉莉奈の視線は地面に注がれる。
「喧嘩じゃないのかぁ」
「うん、喧嘩というよりも言い合い?意見が対立したって言えばいいのかな」
 それはつまり喧嘩ではないのか?と未来は思ったが口には出さない。わざわざ未来の言葉で二人が喧嘩をしているという事実をつくりだす必要はなかったからだ。
「意見の対立?もしかして卒論の研究内容とかで衝突したとか?」
「確かに何度か研究内容について口論はしたけれど、それが原因ではないよ。でも私たちがこんな状態になったのはある言い合いがきっかけになったのは確かかな」
 結局二人が仲違いしているのは本当みたいだ。
「……詳しく聞いてもいいかな?」
「いいよ、むしろ未来には知っていてほしいかも……」
(私には知っていてほしいって……もしかして少しは頼りにされているのかな?)
 普段は他人の悩みを聞き、助言をする立場である茉莉奈が自分を頼ってくれているかもしれない。未来はそれだけで俄然やる気が出てきた。いつも茉莉奈に甘えてばかりだから今日はしっかりと話を聞いて、茉莉奈の力になりたい。グッと掌を握って茉莉奈と向き合う。
「私なんかじゃ頼りにはならないだろうけど、なんでも言って!私は茉莉奈の力になりたいんだ」
 茉莉奈の助けになりたいとやる気満々の未来を見て茉莉奈はクスリと笑みを零す。そして申し訳なさそうな口調で言う。
「ありがとう、未来の気持ちはとても嬉しいよ。でもね……未来が思っているのとはちょっと違うの」
 はて、思っているのとはちょっと違うとは?茉莉奈の言葉の意味がよく分からず考えてみる。
 茉莉奈は環との言い合いによって生じた何らかの問題を未来には打ち明けてもよいと思い、私にだけ相談または愚痴を零してくれるモノだと思っていたが違うのか。
「……私が思っているのとは違うってどういうことなの?」
 出来の悪い頭の私は茉莉奈の言わんとする意味が分からなかった。また茉莉奈が環のように含みのある話し方をすることに幾らか違和感を覚えた。また、違和感。今日はやっぱり何かがおかしい。
 未来の問いに茉莉奈は一度目を閉じ深呼吸をする。真っ白な息を吐く様子に未来は無意識のうちに背筋を伸ばし、茉莉奈が口を開く瞬間を今か今かと待つ。気分はまるで判決を待つ被告人のようだ。未来は何も悪いことをしていないのに、なぜか……茉莉奈を見ているとなにやら未来にとって都合の悪い真実を知ることになりそうで恐ろしい気持ちになってきた。
 落ち着いたらしい茉莉奈が大きな瞳を未来に向け、口を開く。
「……未来こそが私と環の仲を拗らせた原因だから、だからこそ未来には知っていてほしいの」
「……私が……原因?」
 予想していなかった言葉に固まってしまう。なんだって?茉莉奈は今、なんと言った。未来が……私が……原因だって?この言葉の意味を理解した瞬間、未来は頭が真っ白になる。どうしよう、茉莉奈を直視出来ない。息も上手く出来ない、身体も地面に縫い付けられたように動かない、言葉も出ない。
(どうしよう、どうしよう。私……二人に嫌われてしまった。私は、環と茉莉奈に見限られた)
 未来は返す言葉もなくただ、ただ瞳を恐怖に揺らしながら地面を見つめるしか出来なかった。
「未来、最後まで落ち着いて聞いてくれるかな。決して未来を責めているわけじゃないし、私たちが未来を嫌いになったという話でもないの」
 思っていたよりも未来が動揺していたのか、茉莉奈は慌てて未来の肩を撫でながら言葉を続ける。しかし未来の心は茉莉奈の話を聞く余裕などなかった。
「……ごめん、正直私が何をしでかしたのか覚えていない……けれど私が環と茉莉奈を傷つけていたんだよね?そうなんだよね。ごめん、本当にごめん」
「未来……あぁ私が悪かったね。少し気が立っていたみたい。未来は何も悪くはないのに……。ごめんね、八つ当たりなんかして。でも最後まで私の話を聞いてくれるかな……お願い」
 茉莉奈に気を遣わせてしまっている。これじゃあもっと嫌われてしまう。これ以上茉莉奈に愛想をつかされないために未来は茉莉奈の言葉に集中する。
(聞きたくないよ。だって私が環と茉莉奈の不和の原因なんだろう?本当に二人の仲を拗らせるようなことをした覚えはないけれどそれはきっと、私が二人のように気遣いが足りていないせいで自覚していないだけなんだ……)
 多少は落ち着きを取りもどし始めた未来を見て茉莉奈は本題に入ってもよいと判断し、話を続ける。
「あのね、未来が私と環の言い合いの原因っていうのはね……」
「うん」
「……どちらが、私と環のどちらが未来の親友として隣に立つ人間に相応しいかという話なの」
「……え?」
 またもや未来の脳内では処理しきれない言葉が聞こえてきて返事に困る。
(環と茉莉奈のどちらが未来の、私の親友として相応しいか?)
 それってつまり……?
 未来は答えを求めるように茉莉奈の瞳をじっと見つめる。茉莉奈は未来がすぐに理解するとは思っていなかったようでいつもと変わらない口調で続ける。
「だからね、私と環……どちらが未来の親友になるべきか、どちらが未来に求められているか、どちらが未来を本当に大事に思っているか……そのことで私と環はちょっと口論になったの」
「……うん」
 どうしよう、分かったけれど分からない。なぜ環と茉莉奈がそんなことで言い合いになってしまったのかも、どうしていきなりそんな話題を私に伝えるのかも何もかも意味が分からない。
 未来は困惑しながらも必死で状況を把握しようと努める。
「どうしてそんな話になったの?」
「それはねあの人……環からふっかけてきたのよ。私の方が未来を理解しているって。だから私、なんだか頭にきちゃって」
 前を歩く環の頭を見つめながら呆れた口調で茉莉奈は話す。
 どうやら口火を切ったのは環らしい。それにしてもなぜ環はわざわざ茉莉奈に喧嘩を売ったのか、そしてなぜ茉莉奈もそれに応戦したのか。意外と売られた喧嘩は買っていくスタイルだったりするのか。
「私もムキになっていたのは認めるよ。けれどね、私も我慢の限界だったの。ね、未来……分かってくれるかな」
「ご……ごめん、よく分からない……」
 どうやら私は環と茉莉奈に嫌われたわけではないようだが、未来の存在が二人のわだかまりになっていることは事実らしい。未来は自分の知らないところで面倒なことに巻き込まれてしまったことに今更気づいた。
「そう、分からないのか……。未来、私たちはもう四年生で三月には卒業式を迎えるよね」
「そうだね……」
「卒業すると今までの日常とお別れしなきゃいけない。それは人間関係にも言えることだよね」
「うん」
 まだ茉莉奈が何を伝えたいのかはまだ不明だが「今までの日常とお別れ」という言葉の意味はよく理解出来た。今までの日常、未来のような至って平凡な大学生の日常は非常に面白みも刺激もないモノだが、大事な日常。友人は環と茉莉奈ぐらいしかいないし、他の学友とはソリが合わずに孤独を感じるときもあったけれど勉学に励み、アルバイトで僅かながらも金銭を得て趣味に没頭するという日常は未来にとって宝であり、平和の象徴だった。しかしこれはあくまでも今の日常だ。四年間という期限付きの日常。未来は四年生になり三月には卒業式を迎え学生ではなくなる。つまり未来はこの平穏な日常との別れが必然的に訪れることになる。そして次にやってくる新しい日常に順応していかなければならない。これは未来だけではなくみんなが経験することだから決して怖がる必要はないのが、未来にとっては恐怖でしかない。二十数年間生きてきてようやく心から信頼できる友人に出会うことが出来たのに、やっと日々を楽しく過ごせる余裕が出来てきたというのに、また一から始めなければならない。それはどんな怪談よりも恐ろしい話ではないか。
 未来が今の日常との別れに恐怖していることなど露とも思わずに茉莉奈は話しを続ける。
「いつかは終わるこの日常と人間関係に終止符を打つべきだと思ったの」
「終止符?」
 不穏な言葉に未来は怪訝そうに眉を顰める。
(終止符……茉莉奈はこの日常に不満を抱いていたの?)
「そう終止符、私だっていつまでもこの日常が続くとは思っていないよ。でもわざわざ日常を壊してしまうかもしれないことをする必要もないとも考えていたの」
「……まぁ故意に気に入っている生活を壊すことはないもんね」
 未来もそれには同意見だ。なにかしら不満があっても多少の我慢で大抵のことは乗り越えられるのだから、不満よりも幸福の方が多い日常を破壊しようだなんて思うわけがない。でも茉莉奈はあえてこの平穏な日常を壊すことを決意したのだ。
「ずっと平和に過ごしたいと思っていたけれどね、終止符を打たない限りはいつまで経っても私は環に敵わないと分かったの。きっと環もそれを分かっていたからわざと私に喧嘩を売りに来たんだわ」
(やっぱり売られた喧嘩は買うタイプだったか)
 茉莉奈は続ける。
「私はずっと目を逸らしてきたの。自分の卑しい感情にも未来の心が誰に向かっているのかも……ずっと見えないふりをして都合よく解釈していたわ」
 未来は黙って茉莉奈の話に耳を傾ける。
「二人は仲が良いから未来が環を優先するのは当たり前、未来の一番ではなくとも私も未来に想われている。だから環に嫉妬する必要はない、ましてや未来の親友という特別な存在になりたいだなんて望んではいないと……。自分に言い聞かせていたのよ」
 未来はだんだん茉莉奈の言わんとすることが分かってきた。これは、もしかしたら……いや、もしかしなくとも……。
「でも環は私の下心と嫉妬に勘付いたのよ。そこで私は見事に環のペースに巻き込まれてしまったの」
未来はふいに喉の渇きを感じ、唇を舐める。生憎家から持参してきた飲料水は数時間前に飲み干してしまっていた。
「環に焚きつけられなかったら私はこのまま卒業を迎えるつもりだった。一歩引いたところから未来を見つめて、理解者ぶった自分……未来を独占したいという卑しい望みも環への嫉妬もないモノとしていこうと決めていたの」
 ふいに茉莉奈はグッと眉間に皺を寄せ、苦悩の表情を浮かべる。
「私の汚い感情が未来に知られなければ、卒業後もずっと友人として一緒にいられると……だから今まで蓋をしていたのに……」
 今まで見たことのない茉莉奈の表情に未来も釣られて眉間に力が入る。
「でも環は清廉潔白な人間を演じる私を赦さなかったの。そんなに未来に恋い焦がれているのなら戦ってみろ、素直になれって……」
 さっきよりも喉の渇きが酷くなっている。もう唾液すら出ない。
「だから私は自分の感情に素直になってみることにしたの。だって卒業したら未来とは頻繁に会えなくなるでしょう?それなら今、終止符を打つことにしたの……未来と私と環の関係にね」
 茉莉奈の言葉が途切れると同時に冷たい風が吹き荒れる。茉莉奈の髪が揺れる。しかし茉莉奈の瞳には揺るぐことのない決意の色が灯っていた。




 茉莉奈の強い視線に未来は圧倒されてしまう。いつでも笑みを絶やさずに争いを好まない温厚な性格の茉莉奈。そんな彼女から笑みが消え、何かを勝ち取るために誰かと戦うことを決意する姿を見ることなんてついぞなかった。しかし今、未来の目の前にいる茉莉奈の顔からは柔らかい笑みは消え失せ、強い決意の炎が瞳を焦がしている。その燃え滾るほどに熱い想いが未来に向けられているというのだから戸惑ってしまうのも無理はない。
(こんな茉莉奈知らなかった……)
 茉莉奈の決意を聞いた未来はどう返事をしたものかと頭を抱える。そもそもあっさりとこの決意を受け入れてよいモノか。受け入れてしまったなら未来は環と茉莉奈の争いとやらに我関せずという態度は貫けない。いや、もう茉莉奈の話を聞いてしまったからには無関係ではないのかもしれないが。
(私はなんてことを聞いてしまったんだろう)
 やはり首を突っ込まない方が良かった。環と茉莉奈のイザコザに未来が関わっていたとしても未来さえその事実を知らなければ卒業まで気楽に過ごせただろうに。どうして私は選択を誤ってしまったのか……。後悔先に立たずとはまさにこのことだ。

 一人悶々としていると茉莉奈が口を開く。
「そこまで気に病む必要はないよ。あくまでも私と環の問題だからね」
「……じゃあなんで私に言ったのさ……」
 未来の言葉に茉莉奈は目を丸くする。
「未来が聞いてきたでしょう。環と何かあったのかって、私はそれに答えただけだよ」
 そうだった。環と茉莉奈の間に問題でも生じているのならば何か力になれないかと、お節介と野次馬根性を出した未来が茉莉奈に問いただしたのだった。これがいけなかった。
(でもこんな内容だとは思わなかったし……それに)
「なんで今、話したの?……責めるわけじゃないけれど私にその話をして茉莉奈が得をするとは思えない」
「まぁ確かにそうだよね。私も最初は誤魔化そうとしたけれどね……やっぱりあれかな、嫉妬かな」
「嫉妬?」
「うん、嫉妬。未来ってばいつも環のことばっかり話すんだもん」
 思わず言葉に詰まってしまう。確かに未来は普段から環のことばかり話していたかもしれない。だがそれは決して茉莉奈を軽視していたわけではない。でもそのことで茉莉奈に不快な思いをさせていたのだとしたら申し訳ないことをしていた。
「えと……別に環だけが好きで茉莉奈を除け者にしていたとかじゃないんだよ……でも嫌な思いをさせていたなら謝るよ……ごめんね」
 多少は自身の態度にも問題があったという認識はあったので、少しだけ真面目に謝罪の気持ちを述べる。しかし茉莉奈は笑いだす。
「嫌だ、そんな真剣に謝らないでよ。怒っているわけじゃないから……ただの嫉妬だってば、嫉妬」
「でもなぁ……」
「ごめんね、未来を責める気持ちは本当にないの。でも環以外にも未来を想っている人がいるっていうことを自覚してほしくてね……。あ、その未来を想っている人は私のことだからね?」
「うん……」
 なんだか上手い返しが出来ない。いつもならもっと口がまわるのに……。なんだろう、動揺しているのか?まぁ、動揺しても仕方がない話だ。環と茉莉奈の喧嘩の原因が未来、つまり私自身でどうやら二人は私のことを普通の友人以上に大事に想ってくれていて、こんなどうしようもない人間である私の特別な存在になることを願っているらしい。……環も茉莉奈も未来以外にもっと親しくて、仲の良い友人がいると考えていた自分にとっては嬉しい真実のはずなのだが……如何せん環と茉莉奈が不穏な争いを始めていることが気がかりだ。さきほど茉莉奈がいった「終止符を打つ」という言葉。きっと環と茉莉奈のどちらかが近い将来未来の元から離れてしまうという意味だろう。我儘かもしれないが未来は終止符を打とうだなんて考えたことはない。数少ない信頼出来る友人である環、茉莉奈と末永く縁を繋いでいきたいと密かに願っていたが、どうやらそんな都合の良い選択肢は最初から用意してくれてはいないようだ。
(あぁ全力で挑んだ卒制よりも頭を悩ましてくれるよ……)

 こめかみを抑え、改めて問う。
「時間は巻き戻せないから何度も聞くのは無意味だって分かっているけどね……やっぱりこの話は私に言わない方が良かったよ……ね」
「うーん、そうだね。きっと未来は困惑するだろうなって予想はついていたしね……」
「うぅ……本当に困惑しているよ……容量オーバーで頭が痛くなってきたよ」
 ごめんねと言いながら茉莉奈はこめかみを抑える未来を宥めるために精一杯腕を伸ばし、頭を撫でる。身長差のせいで茉莉奈の腕はプルプルと震えているがそれを悟られないように踏ん張っている姿は健気に見える。
「それにしてもさ……どうして今日なの?いや、私が茉莉奈と環の問題に首を突っ込んだっていうのもあるけどさ……あの、その…どうして今日の茉莉奈は嘘をつけなかったの?」
 普段の茉莉奈は相手を気遣った嘘を最後まで突き通す人間なのだ。その嘘により茉莉奈の感情が抑圧されたとしても相手を困らせたり、悲しませたりする真実しか存在しないのならばそれを隠すために優しい嘘をつく。
(嘘をついてほしかったわけじゃないけれど……もうなりふり構っていられないほどに茉莉奈は人知れず追い詰められていたのかな)
 茉莉奈はしばらく考えたのちに口を開く。
「環と言い合いになったときは未来の負担になるだろうから、未来にばれない様に水面下で環とやり合っていくつもりだったの」
「うん」
「今日も言うつもりはなかったのよ、未来が私と環との間になにかあったのか聞いてこない限りはね?」
 意味ありげに微笑む茉莉奈を見て、知らず知らずのうちに頬が引き攣ってしまう。
「う……やっぱりそういうことなの?私が余計なことを聞いてしまったのかぁ」
「それもあるけどね、今日はタイミングが悪かったね」
「タイミング?」
 聞き返すと茉莉奈はうんと頷き話を続ける。
「そう、タイミング。今日は何があったか覚えているよね」
 今日……今日は卒論提出締め切り日だった。でも茉莉奈も未来も早めに提出していたので卒論の話題は大して出ていない。それならば他のことか。
「卒業旅行のことだよ」
「あぁ卒業旅行……」
 そうだ、そうだった卒業旅行だ!卒業旅行の話題が出てから茉莉奈の態度が変だった。もしかしてそれが茉莉奈の言う悪いタイミングだったのか。
「その……卒業旅行の話をしているときに私が何かしたのかな?」
「何かしたってわけでもないし、未来に非は全くなかったの。やっぱり私の嫉妬だよ」
(嫉妬ねぇ)
 果たして卒業旅行について話しているときに茉莉奈が嫉妬する要素があっただろうか。あのときは環とは離れていて一言も会話をしていなかったはずだし……寧ろ茉莉奈のすぐ傍にいたし。
(分からん)
 察しが悪い未来に茉莉奈は真実を伝える。
「私はね、未来と一緒に卒業旅行に行きたかったの。というよりも未来と一緒じゃなきゃ行く意味なんてなかったの」
「……うん」
(ちょっぴり背中がこそばゆい)
 未来が不参加でも誰も気にしやしないと思っていたが、茉莉奈は未来と一緒に卒業旅行に行きたいと思ってくれていた。そのことに妙な気恥ずかしさを感じる。
「未来も卒業旅行に行くものだと思っていたけれど、そういえば前に金欠だって嘆いていたなって思い出してね」
「……だから私が卒業旅行に行くかどうか質問したの?」
 茉莉奈は力なく頷く。その姿はちょっぴり拗ねた子供みたいで未来の心がチクリと痛んだ。
(いや、実際落ち込んでいるんだよね……だって茉莉奈は有り難いことに私なんかと卒業旅行に行きたいと思ってくれていた訳だし)
 意外と落ち込んでいるらしい茉莉奈に申し訳ないと思いながらも金欠はどうしようも出来ない。
「……もしお金に余裕があれば卒業旅行には行きたかったよ」
 茉莉奈を慰めるために決して卒業旅行に行くことが嫌だったわけではないと説明してみるが、茉莉奈以外のメンバーがいる限り卒業旅行に行きたいわけがなかったのでなんとも説得力のない慰めになってしまう。もちろん茉莉奈にはすぐに見破られた。
「嘘だよね、未来はお金があってもあのメンバーだったら結局行かなかったでしょう」
「……うぅ」
 図星を突かれ二の句が出ない。
「未来は私と環以外の子たちとはソリが合わないようだったからね……それに金欠は事実みたいだからそのことに対しては仕方がなかったと思っているよ。でも未来が一緒なら良かったのになって思ったのは本当だよ」
「なんかごめん……」
 未来が発した謝罪の言葉を茉莉奈は右手を上げて制する。
「未来の謝罪はいらないよ。私は環にだけ少し苛立っているし嫉妬もしているの」
「環に?」
 卒業旅行に関連した話題で茉莉奈が環に嫉妬することがあっただろうか。なさそうだが……。
 未来がなぜなのか分かっていない顔をしていると茉莉奈は吐き捨てるように話し出す。
「環は私に言ったよね、茉莉奈はいつも誰かの意見に流される人間だから未来が卒業旅行に行かないって言ったら自分も行かないつもりかって」
「あぁ……そうだったね」
 そういえばそんなことを環は言っていたな。あまりにも冷たく意地悪な発言だったので心底驚いたモノだ。
(そうか茉莉奈はあんなことを言ってきた環に苛立っているんだね。それは当然だよね、私だってさすがにあれは酷いと思ったよ)
 茉莉奈がなぜ環に苛立っているのか理解した未来は、同意を示すために大げさに頷いてみせる。
「まぁ実際に私は環の言う通り人の意見に流されてしまうところがあるよ。けれどね、今回は違うと思うの……」
「違うって?」
 茉莉奈は答える。
「環が未来に合わせたの。未来が卒業旅行に行かないって言ったから環も行かないことにしたのよ」
「え?でも環は会社の研修があるって……」
 茉莉奈のいくらか被害妄想が入っていると思われる見解に異を唱える。しかし茉莉奈は未来の言葉に肩を落とすと言い聞かせるように話し出す。
「未来もずっと環と一緒にいたのならいい加減気づいた方がいいよ。環がどれだけ演技上手かってね」
「演技って……」
 どうやら茉莉奈は本気で環が未来と同じ行動をするために嘘をついていると思っているようだ。正直環がそんな嘘をつく必要が見当たらないので茉莉奈の考えすぎだと思うが、どうにも何かが引っかかる。
(後で環に聞いてみようかな)
 念のため環に真相を確かめてみよう。
(ところで……)
「茉莉奈は環が嘘……をついたかどうかは私では判断出来ないけれど、環がみんなを騙してまで卒業旅行に不参加なのが腹立たしい……のかな」
「そうだね。普段は誰かを傷つけるかもしれない真実を臆面もなく言うのに、自分は未来の言葉に流される……矛盾しているし魂胆がバレバレだから本当に苛立つよ……」
「そう……なんだ」
 駄目だ、気の利いた言葉をかけて茉莉奈の苛立ちを少しでも緩和させてあげたいのに何も思いつかない。ただ忙しなく瞳を彷徨わせるだけ。
 未来がどう反応したらよいのか困っていることに気づいた茉莉奈は眉間を抑えながら謝る。
「あぁごめんね、未来に愚痴を言ったところで解決はしないし醜い姿を見せてしまうだけだね。困らせちゃったよね」
「いや、大丈夫……うん、大丈夫だよ」
 実のところ大丈夫ではないが、素直に大丈夫ではないと伝えてしまったら心優しい茉莉奈はもっと心労が溜まってしまうだろう。たまにはこうやって愚痴を言う必要もあるのだ。
「本当にさっきからごめんね。自分の勝手な想いで未来を困らせているよね」
 はぁと深くため息をつく。
「未来の言う通りこの話を未来にするべきではなかったね」
「う……まぁそうだね、でも私に話してしまうほどに茉莉奈も疲れていたんだよ。なら仕方がないよ……私こそ茉莉奈の気持ちに気づかないで今まで甘えてごめんね」
 心の底から茉莉奈が未来にこの話をしたことはミスだと思う。茉莉奈の話が正しいなら環と茉莉奈はまるで青春漫画みたいに未来を巡った三角関係を展開していることになる。そのことをある意味諸悪の根源でもある未来に話してしまったことは完全に失敗だろう。もしこの事実を知らなければ未来は平穏に卒業を迎えられたし、茉莉奈たちも同じだっただろう。
(でも……これは良い機会なのかもしれないな)
 未来が心から信頼を寄せる環と茉莉奈、この二人の優しさにずっと甘えてきた未来。人間不信のくせに寂しがりで、不器用な未来をずっと支えてくれた二人に依存していたことは間違いないし、未来の過剰な信頼と依存に環と茉莉奈が振り回された結果がこれなのかもしれない。それなら自分にも多少の責任はある。
(自分にも責任がある可能性も否定出来ないし……なにより依存体質から卒業するチャンスがやって来たのかもしれないな)
 そうだ、確実に茉莉奈は選択を誤ってしまったが、もう引き戻せないならせめてポジティブにいこう。
「ねぇ茉莉奈」
「ん、どうしたの?」
 茉莉奈の肩に手を置く。
「茉莉奈の気持ちはよく分かったよ。だからね……私も覚悟するよ」
「いきなりなに?」
 ついさきほどまで縮こまっていた未来が突然覚悟すると言い出したので茉莉奈は面食らってしまう。
「覚悟ってなにを?」
「だから、茉莉奈が話してくれたことを忘れるなんて器用な真似は出来ないから、私も真剣に二人と向き合うよってこと」
 いつもなら不平不満など零さずに他人のために献身的に尽くす茉莉奈がここまで曝け出してくれたんだ。人には見せたくないはずの嫉妬という醜い感情までも未来に包み隠さずに話してくれた。ここまで素直な気持ちを見せた茉莉奈のためにも、未来自身がもっとたくましくなるためにも今回のことは無視出来ない。
 茉莉奈に二人の争いに目を背けずに、未来も二人と真剣に向き合うことを伝える。
「……そう……ちょっと意外だったかな」
 未来の勢いに押された茉莉奈は惚けた表情で話す。
「私の予想ではこの事実を知った未来は私から離れていくと思っていたから……」
「まぁ驚いたよ……まさか聖人君子みたいな茉莉奈があんなにも人間らしい感情をもっていたとはね」
「私は聖人君子でもない普通の人間だからね。それよりも未来が私を神聖視していたことに驚いたよ」
 茉莉奈が聖人君子ではなく人間だということぐらい当たり前に理解しているが、どうにも日ごろから笑みを絶やさずに人の悪口なども言わず、誰かのために行動する茉莉奈を見ていたら嫉妬という俗な感情を持ち合わせているようにはどうしても見えなかった。
(でも違ったね)
 茉莉奈はどうしてなのか理由は分からないが未来……私を他の友人よりも特別な存在として認識しており、女の友情によく見られる執着心も抱いている。常日頃から環に嫉妬心を抱きながらも、その気持ちを押し殺し未来と一緒に笑い合っていてくれただなんて……なんて人間的で不格好なのだろう。ずっと自分とは比べ物にならないと茉莉奈に畏怖に近い尊敬の念を抱いていたが、茉莉奈は未来が想像していたよりも遥かに人間的で汚い感情も持っていた。
(茉莉奈も私と一緒だね)
 未来がしみじみしていると茉莉奈が口を開く。
「未来が覚悟してくれるなら私も覚悟しないといけないね」
 そういうと深く息を吐く。
「実のところ後悔していたの」
「後悔かぁ。この話を知ったら私が茉莉奈のことを嫌うと思っていたから?」
「うん、でも良かった……。気持ち悪がられなくて」
「気持ち悪いなんて思わないよ。私だって二人に執着しているしね」
「そっか……じゃあ卒業までもうそんなに時間もないけれど、頑張ってみるね。未来……逃げないで最後まで付き合ってね」
 意味深に微笑み、未来に一瞥を投げる茉莉奈。
「もちろん、私にとっても良い機会だから」
(二人と本当の友情を築けるのか、それともこのだらしない依存癖から卒業できるのか、はたまた環と茉莉奈のうちどちらかに依存しきってしまうのか)
「……公平に審判をよろしくお願いね?」
「分かったよ」
 茉莉奈とクスクス笑っているとふいに視線を感じ、前を見ると由利に腕を組まれたままの環が冷たい瞳で未来を見ていた。その瞳があまりにも冷ややかだったので心臓がざわめく。
(あぁ、覚悟……覚悟をしないといけないね)
 氷のように冷たい視線を浴びながらも、未来はその視線に気づいていない体を装い、駅までの道のりを急ぐ。




 大学からの最寄り駅に着くと改札前で環と由利が足を止め、全員が集まるのは待っていた。
「……遅かったね、ダラダラしていると帰宅ラッシュに巻き込まれるよ」
「あ~ごめんごめん」
 心なしか口調がキツイ環に取りあえず詫びる。
(茉莉奈から話を聞いちゃったからなぁ、この環のイラつきも嫉妬から来るモノなのかもしれないと思うと……)
 茉莉奈の話通りだとすると環は未来を誰よりも好いてくれていて、茉莉奈と喧嘩をしてしまうほどに熱を上げているらしい。
(私って自分に自信がないくせに、誰かが好意を寄せてくれていると分かった途端に優越感を感じてしまうのは悪い癖だよねぇ)
 きっと茉莉奈の話を聞く前の未来なら環のイラついた口調に無意味に怯え、嫌われたかもしれないと不安に苛まれたことだろう。でも真実を知っている今は不必要に怯えることもなく、ひっそりと心の中で笑みを浮かべるだけだ。
(こういうところだよね……こういうところが人を不快にさせしまう)
 優越感と罪悪感を同時に抱いていると茉莉奈が未来を庇うように前に出る。
「そんなにイライラしないでよ。急いでいるなら環だけでも先に帰ったらどうかな。ほら、そろそろ難波行きの電車が来るよ」
 電子掲示板を指さし告げる。
「……別に急いではないよ、ただ帰宅ラッシュに巻き込まれたら面倒だなって思っただけ」
(……なるほど……環と茉莉奈の戦いはもう始まっているのか)
 茉莉奈の親切心を装った牽制と、環の苛立ちが見え隠れする口振りに内心ヒヤリとする。
(……もしかして私は厄介な人たちに信頼を寄せて、その厄介な人たちに好かれてしまった……?)
 想像していたよりも、環と茉莉奈のお互いへの敵対心が強くて少し吃驚する。目には見えないが二人を取り囲む空気が茨の棘のように鋭い。
(うっかり怪我をしないように気を付けないと)

 しばらく刺々しい雰囲気の中、他の学友たちが到着するのを待っているとようやく栞、さやか、桐子がやって来た。
「もーみんな遅い!二本も電車見逃しちゃったじゃん!」
 コアラよろしく環の腕に抱き着いたままの由利が不満げに頬を膨らます。
(……不愉快な顔だなぁ……)
 由利のふざけた顔にモヤモヤしつつ、みんな揃って改札を通る。
 改札を抜けると難波方面、奈良方面とホームが分かれているので未来と環は難波方面の一番ホームへと足を進める。
「未来」
 ホームへと続く階段を登ろうとした瞬間、茉莉奈が声をかけてくる。
「あ、そっか、茉莉奈は奈良方面だったね」
「うん、大阪に住んでいたら私も未来と同じ電車に乗って帰られたのにね……いつも残念に思うよ」
 心底残念そうにため息をつく。
「そこまで一緒にいる必要はないでしょ」
「そうかな、私はもっと一緒にいたいけれどね」
 茉莉奈は真っすぐ未来を見つめながら、くさい台詞を臆面もなく言ってくる。
「茉莉奈ってば……急になんかすごいね、今の台詞なんてまるでホストだよ」
 普段の茉莉奈なら絶対に言わないであろう台詞をこうも簡単に口にするとは……。
「そりゃあ覚悟を決めたわけだからね。覚悟を決めたからには未来の知らない私も曝け出していかないといけないからね」
「そういうものなのかね」
 別れを惜しむように立ち話をしていると、奈良方面行きの電車が到着する旨を伝えるアナウンスが流れる。
「電車来るみたいだよ」
「そうみたいだね、じゃあそろそろ行くね」
「うん、またね」
 未来に背を向けると小走りで階段を上っていく。立ち話をしすぎたのか、電車に間に合うか不安そうな茉莉奈の背中がなんだかおかしくて未来は人知れず微笑む。
(なんかかわいいなぁ)
 茉莉奈の背中を見送っていると、後を追うように階段を駆け上っていく由利と桐子の姿がふいに視界に入ってくる。
(そういえば、由利さんも桐子ちゃんも奈良方面だったか)
 ぼんやりと階段を上る学友たちの背中を眺めていると肩を叩かれる。
「うわっ!」
 驚き、素早く振り返ると未来と同じく驚いた様子の環が突っ立っていた。
「あぁ、環か~。吃驚したよ」
「ごめんごめん、それよりも私たちも急がないと」
「もう電車来る?」
 環に急ぐように促され電光掲示板に視線をやると、もう難波行きの電車が到着していた。
「あ、もう来てる!走らないと!」
「さっきから言っているじゃない」
「なんで余裕そうなの?あ、栞ちゃんとさやかちゃんは?」
 電車がもう到着しているというのになぜか余裕な環に栞とさやかがどこに行ったか問いながら、階段を駆け上がる。
「二人ならもう電車だよ」
 階段を上り、だんだん姿を見せる電車を指さす環。その指先を辿り二人を探す。すると栞とさやかはすでに車内にいて、こちらを見ながら笑っている。
(あいつら……電車に間に合いそうにない私たちを見て面白がっているな!)
 必死に階段を駆け上るが、世界は無情だ。未来と環がホームに辿り着いた瞬間、扉は閉まり電車は動き出す。
「あ~間に合わなかった~」
「あらま」
 憎々し気に電車を見ると、車内にいたさやかがホームに置き去りにされた未来たちに笑顔で手を振っていた。元々ない体力を振り絞り必死で走ったのに、電車に乗り遅れてしまった未来は多少のイラつきを抱きながらも無邪気に手を振って来るさやかに手を振り返す。
(さやちゃんは天然だからまだ許せる)
 もし電車に置いていかれた未来の姿を見て、笑いながら手を振る人が由利だったらきっと無視を決め込んだことだろう。
 徐々に電車は速度を上げていき、次第に栞とさやかの姿が見えなくなる。
「あ~せっかく走ったのに。走り損だよ~」
 人がいなくなったホームに蹲る。本当に体力がない未来は立っていられなかった。肩を上下に揺らしながら空気を貪る。
「こっちおいで」
 必死で酸素を吸う未来の腕を環が引っ張り、ベンチまで移動させる。
「ほら、ここに座っときなよ」
「う~ん……ありがとう」
 ベンチの背もたれに全体重をかけて大きく深呼吸をする。たった数秒間階段を駆け上っただけでこの樣だ。健康な女子大生とは思えない。次の電車が来るまではここで一休みしよう。

 一体いつ清掃をしているのか不明なホームの屋根を見上げながら息を整えていると、いきなり腹部に衝撃が走る。
「うっ!」
 油断しきっていた未来は突然の衝撃に間抜けな声をあげる。
「な…なに?」
 恐る恐る衝撃が走った腹に手を伸ばすと、ひんやりとした物体に触れる。
「約束のジュースだよ」
「ジュース」
 未来の顔を覗き込む環の言葉にそういえばと思い出す。
(ジュースを買ってもらう約束をしていたなぁ)
 冷気を放つソレを手に持ち、顔の前まで持ってくる。視界に映るソレは未来が大好きなマンゴー味の炭酸飲料だ。さすが環、何も言わなくても私の好みをちゃんと把握している。
 溶けたアイスクリームのようにだらけていた姿勢を正し、キャップを開ける。
「このジュース、私が好きなやつだよね。ありがとうー!」
「よくそれを飲んでいる未来を見たからね」
 環に感謝を述べ、喉を逸らして炭酸が効いたマンゴーを身体に流し込む。すがすがしい。さっきまでの息切れ、動機も治まってきた。
 一気に半分まで飲むと口を離し、濡れた唇を拭う。
「あ~美味しい!」
「そりゃ良かったよ」
「いきなりお腹に投げてくるから吃驚はしたけどね」
「重たかったからね……ごめん」
「別に本気で怒ってないからいいよ」
「だよね」
 悪戯っ子のようにニヤリと微笑んだ環と目が合い、しばらく無言で見つめ合う。すると……。
「ふふ」
「あ~もう変な顔でこっちを見ないでよー」
 奇妙な間がツボに入ったのか環が笑いだす。その笑い声につられて、未来も笑ってしまう。
 ひとしきり笑い合うと、ふとホームにつり下げられた電光掲示板に目がいく。そこには次に電車が何時に到着するか記載されているはずなのだが、おかしなことに何も載っていなかった。
「あれ、次の電車いつ来るのかな」
「あぁ、二十分は来ないよ」
「嘘だぁ」
 いつもなら五、六分間隔で電車が来るのに……二十分も来ないのは異常事態だろう。もしや自分が気づいていないだけで人身事故のアナウンスでも流れたのか。不安であたりを見回すが、不思議なことにホームには未来と環しかいなかった。
「あれ知らない?いつもこの時間帯になると一度だけ、二十分近く空白の時間があるんだよ」
「そうなの?」
 にわかに信じられずにいると、環がホームの端に設置されてある時刻表を指す。
「見ておいでよ」
「……ちょっと見てくる」
 ベンチから立ち上がり時刻表の前まで駆けていく。
「えーと……」
 スマホで今の時刻を確認し、十七時台の時刻表を確認する。
「本当だ……」
 環の言う通り十七時台になると、二十分ほどこの駅には電車が止まらないそうだ。時間帯的にもそろそろ帰宅ラッシュだし、近くに大学もあるというのになんてやる気のない運行計画だ。
 トボトボと環の元へ戻り、またベンチに腰掛ける。
「環の言う通りだったよ」
「でしょう?未来はこの時間に乗ったことないから知らなかったみたいだけど」
「知らなかった……数か月後に卒業を控えた今頃になって知ることになるとは」
 四年間もこの駅を使っていたのに、こんなことも知らなかった自分に些か失望した。
「まぁ、今知れて良かったね。誰だって長く親しんでいるからって全てを知っているわけじゃないから」
「うーん……」
(少し大げさな言い方な気がするけれど、環の言う通りだなぁ)
 ぼんやりと前を見据える。次の電車が来るまで二十分。さて、暇だな。
 手持ち無沙汰で隣に座る環に体を向ける。環は両手を行儀よく膝の上に置いた状態で目を瞑っていた。暇だったので環を観察することにした。
 環が居眠りしているのか知らないが、こちらに意識を向けていないことをいいことに不躾にジロジロと観察する。キリンのように長く伸びたまつ毛、日本人離れした高い鼻に、握りつぶせそうなほどに小さい顔。
(綺麗だなぁ)
 環とは大学の入学式に出会った。あの日から四年が経過した。この四年間で環と過ごした時間は長いモノで、今更環の美貌に見惚れることなんてないはずなのだが、やっぱり美人は何度見ても飽きないモノだ。
(茉莉奈だってそうだよね)
 茉莉奈とは入学式の次の日だったか数日後だったか、ハッキリとは覚えていないがオリエンテーションとかいうよく分からない行事のときに出会った。茉莉奈は環とタイプの違う美人……というよりも人形のように可愛らしい見た目の持ち主だ。その愛くるしい容姿に同じ女である未来でさえも虜になったほどだ。もちろん茉莉奈の外見に飽きたこともない。環と同じく何度見ても飽きないのだ。だって美しいモノはいつ見ても眼福だろう。
(それにしても二人とも一般人とは思えないほどに整った容姿を持っているのに、どうして私みたいな人を友達にしてくれるのかなぁ)
 環の長く伸びた髪の毛を指先で弄りながら考える。環と茉莉奈は恵まれた外見をしている。そのため男性から何度も求愛されており、同性にだって憧れの視線を向けられている。
(これで性悪だったらやっかみもあるだろうけど)
 環は手放しで善人です!とはちょっと言えない性格をしているが、なんでも卒なくこなす完璧な人間である。一方茉莉奈はやや器用貧乏な面も見られるが、いつだって笑顔を絶やさず人の気持ちに寄り添う善良な人だ。欠点を探すことのほうが難しい二人がよりによって私を好いてくれているなんて……世も末だ。

 環と茉莉奈の愚かさに嘆きつつ環の髪の毛を指に絡めたり、引っ張ったり遊んでいると突如腕を掴まれる。
「うえ!」
「ちょっと、人の髪で遊ばないで」
 腕を掴んだまま未来の行動を咎める。
「ごめん、暇だったし、環もうたた寝していたみたいだからいいかなーって」
「……電車が来るまで後十五分くらいね」
 未来の言葉を無視し、空いている手でスマホを操作し時間を確認する環。
「あ、まだそんなにかかるの?結構人が増えてきたけどね、電車はまだ来ないのか」
 力強く掴まれた腕をそのままにホームを見渡す。数分前までは誰もいなかったホームにチラホラと人がいた。スマホに熱中している若い女性、くたびれたスーツを着たサラリーマン、靴擦れにでもなったのか辛そうに足を摩る女性。もうすっかり帰宅ラッシュのお時間だ。
「結局帰宅ラッシュに巻き込まれたね」
「未来たちがモタモタ歩いていたからだよ」
「え、まだ根に持っていたの?あれは仕方ないよ……茉莉奈と大事な話をしていたからね」
 茉莉奈と話をしながらのんびりと歩いていたことを未だに根に持っていたことに驚いた。
「でもさっきの電車に乗り遅れさえしなかったらなぁ~」
 残念だなとぶつくさぼやいていると、腕を掴む環の手にいきなり力が加えられた。痛くて思わず声をあげてしまう。
「ちょっと!突然なに?痛いよ、離すか力弱めてよ」
 しかし環はギリギリと未来の腕を強く掴んだまま離さない。
「ねぇどうしたの、もしかして怒ってるの?何かしたなら謝るから離してよ……」
 悲痛な叫びをあげる未来。近くに立っていた営業マンらしき男性が未来と環のただならない雰囲気に圧倒されたのか、その場から離れていく。
(これじゃあ二人揃って変質者扱いだよ!)
 大学の最寄り駅で変質者だと思われてしまっては堪らない。このご時世だ、誰がどこで撮影しているかも分からない。あの営業マンがもしかしたらネットに私たちの喧嘩を流出させる可能性もある……!
「環ってば……なにかあったの?いい加減離して……変な目で見られるよ」
 環の耳元で囁く。すると人形のように動かなかった環の瞳が僅かに揺れる。
「あ……ごめん……!」
 慌てて未来の腕を離す環。
「いてて……」
 赤く跡が残った腕を撫でる。真っ白な未来の腕に浮かぶ環の手形。その手形を見て、広島名物もみじ饅頭を思い出す。
「未来、ごめんね……。少し、我を見失っていた」
「いや、大丈夫だけど……出来れば私といるときは我を見失わないでほしいかな」
 環を取りあえずは許す。まぁ未来が環を許さないわけがないのだが。基本的には。
 赤くなってしまった腕にふーふーと息を吹きかける。ただの気休めだ。こんなことですぐに赤みがひくわけがないことは百も承知である。
「ねぇやっぱり今日の環ちょっと変だよね、何かあった……よね?」
 茉莉奈の話を聞いた後だったので、環に何があったのか分かった上で尋ねる。しかし環は身体を強張らせたまま何も言わない。環は素直になんでも話すタイプではないので、茉莉奈のように正直に話してくれそうにはない。どうしたものかと未来は悩む。
(別にここで環を問い詰める必要はないのかもしれないけれど……環は茉莉奈が私にあの話をしたことを知らないからなぁ。それに環の口からも事実を確かめといた方がいい気がする)
 茉莉奈があのことを未来に話したことを環はまだ知らない。もしかしたら茉莉奈が後で伝えるかのかもしれないが、伝えない可能性だってある。もしそうなってしまったら環がちょっぴり可哀想な気がしなくもない。環と茉莉奈だけの秘密で、私には知られていないと思ったまま、私と過ごす環を想像すると胸がほんの少し痛んだ。
(私にばれない様に気遣う環の姿は見たくないし、茉莉奈が私にあのことを話したと後から知ったら恥をかかされたと思って、環と茉莉奈の仲はもっと悪くなるかもしれないよね)
 よし、決めた。私が知らない振りを続ければ環は今日みたいに挙動不審な言動を繰り返しかねない。そんな余裕のない環を見過ごせるほど未来は演技力に自信がないし、環が戸惑い妙な振る舞いをするときは、未来も巻き込まれると今日の出来事で十分に学習したので早く事実を伝えて、環の口からも事実を確認したほうが良さそうだ。

 電光掲示板の隣でぶら下がっている時計に目をやる。
(電車が来るまで後、七、八分か)
 また電車に乗るタイミングを失いそうだなと苦笑しながら、環にもう一度声をかける。
「ねぇ環……なにかあったんだよね?良かったら……いや、なにがあったか私に話してくれない?」
「……別になにもないよ」
「いや、そんなはずないよ」
「だから何もないってば」
 膠着状態。このままでは環の機嫌が悪くなって、ちゃんと話せないまま解散となるパターンだ。どうする、どうすればいい。……そうだ、茉莉奈の名前を出そう。過敏な今の環なら茉莉奈の名前に反応するはずだ。
 未来のしつこい追及に若干機嫌が悪くなりだした環に、まだ導火線に火を点けていない爆弾を投げる。
「さっきね、茉莉奈と大事な話をしたんだけど」
「……茉莉奈と?茉莉奈の話なんて聞かされても私には関係ないのだけれど……」
 苛立ちを隠せない口調で答える。
「まぁ聞いてよ」
 やはり茉莉奈の名前に過剰反応した。
(よし、この調子で点火していこう)
「その大事な話っていうのが、環と茉莉奈の喧嘩についてなんだよ」
「……なにそれ、私と茉莉奈が喧嘩しているって言いたいの?」
「そうだよ、茉莉奈から話しは全部聞いたよ」
 一体二人の喧嘩の原因が何か、これから何をしていくつもりなのかもとうに知っているが、まだ言わない。
 未来が「茉莉奈から話を聞いた」と言うと環のこめかみがひくりと痙攣する。どうやら上手く導火線に火を点けることに成功したようだ。
「……茉莉奈からどんな話を聞いたわけ?」
 目つきは鋭く、どこか刺々しい口調で未来を問い詰める。あまり環と親しくない人が見れば、怯えるかもしれないほどに切羽詰まった表情をしている。しかし未来は環の行動パターンをある程度予測出来ていたし、寂しがりの構ってほしがりのくせに人の感情の機微に疎い未来は環の怒気を含んだ声ぐらいでは怯まない。
 未来は淡々と茉莉奈から聞いた話をそのまま話す。環と茉莉奈の喧嘩の原因が未来だということ、二人がこっそりと未来の親友の座を手に入れようと争っていること、環が茉莉奈を焚き付けたこと、なにやら考えがあるのか卒業旅行は不参加にしたらしいこと。未来の主観を混ぜずにただ、聞いた話だけを環に伝える。未来が話している間、環は眉間に皺を寄せ、ここにはいない茉莉奈の姿を睨みつけていた。

「と……いうわけです」
「……そう」
 全て話し終え、ふうと一息つくとホームに人が大分増えたことに気づく。後一、二分で電車がやってくる。
「あ、そろそろ電車来るよ。今度こそ乗ろうね」
 ベンチから腰をあげ、電車を待つ列に並ぼうとするが環によって阻まれる。
「……どうしたの?」
「……私の話もちょっとは聞いてくれない?」
 じっと未来を見つめる環の瞳に既視感を覚える。
(あぁあれだ……茉莉奈の瞳と一緒なんだ)
 茉莉奈が未来に見せた覚悟の瞳。あの瞳を目の前にいる環もしている。
(……なるほどね)
「未来、聞こえてる?」
「あ、うん、聞こえているよ。ちょっとボーっとしてた」
「……まぁいいや、座ってくれる?」
「ええ?」
 環がベンチを指さすとほぼ同時に電車の到着を告げるアナウンスが流れる。そのアナウンスを合図にホームにいた人々が誰よりも早く車内に乗り込もうと白線元へ集いだす。一方で未来と環だけが動かずにその場に留まっていた。
「え、でも……もう電車来るよ」
「それが?もう次からは数分おきに電車は来るから気にしないで大丈夫だよ」
「……電車の中でも話は出来るよね、ひとまずは電車に乗らない?」
 そうこうしているうちに難波行きの電車がホームに到着する。待ち構えていた人々が一斉に電車に乗り込み、ホームに残っている人は未来と環だけになってしまった。
「……電車の中だと他人の目が気になって話せない。それに未来だって嫌でしょ。どこの馬の骨とも知らない奴に話を聞かれて酒のつまみにでもされたら」
「……それは嫌だなぁ」
 赤の他人が未来と環の会話にそこまで関心を向けるとは思えないが、ありえなくはない。それなら電車を見送ってベンチで話をした方がまだ安心な気がする。
「分かったよ」
 環の言う通りベンチに戻る。自分の言葉に従ってくれたのが嬉しいのか、環は口元をニンマリと歪めた。
「さて、環の話を聞きましょうかね。どうぞ」
「うん、ありがとう。……まずはそうだね、どうしてそんな話を茉莉奈とすることになったの?」
「あぁそれはね、私が聞いたの」
 環と茉莉奈の様子がおかしいことに気づいていたが、環にはタイミングが合わなくて聞けずじまいだった。そこへ茉莉奈がちょうどよく合流したので聞いてみることにしたのだ。
「そしたら茉莉奈の奴はいきなりこの話をしたわけ?」
「うーんどうだったかな。最初は茉莉奈もハッキリと言うつもりはなかったみたいで誤魔化されたよ」
 そう最初ははぐらかされていた。でも未来が中途半端な正義感と野次馬根性を見せたことで、環と異常に環に懐いている未来への鬱憤が溜まっていた茉莉奈は全てを吐き出してしまった。
「私が二人の間に何か問題があるなら力になりたい!とか言って何度も食い下がったら全部話してくれたの」
「……なるほどね」
 環は勝手に全てを未来に話した茉莉奈への苛立ちを隠せない様子だった。証拠に未来に聞こえるか聞こえないかの微妙な声量で、何事かブツブツ呟いている。恐らくは茉莉奈への恨み言だろう。
「ここまで話しといてなんだけど茉莉奈を責めないでね」
 その言葉に環の動きと恨み言が止まる。
(あ、火に油だったか)
 燻っていた導火線に点けられた火がまた燃えていくのを感じる。
 恐らく未来が茉莉奈を庇うような発言をしたことが、環は気に食わなかったのだろう。思っていたよりも茉莉奈を敵視しているようだ。
「責めないでって……実際未来は困ったでしょう。茉莉奈からそんな話を聞かされて」
「まあね、でも嫌な気持ちにはならなかったし、もうすぐ卒業しちゃうから隠され続けるのよりはいいかなぁって」
「……そう、じゃあ未来は私たちの想いに答えてくれるってわけ?」
「……それはまだちょっと……」
 思わず黙ってしまう。
 環と茉莉奈が私を求めてくれていることは本当に嬉しい。大切な人たちに強く求められていると知って不快な気持ちになるわけがない。だから茉莉奈の話を聞いて驚きこそすれ、嫌悪感など抱くわけがなかった。しかし一つだけ未来が解決出来そうにない問題がある。それは二人が望む答えを出せそうにないことだ。
(三人で仲良くっていうのが理想だけれど……)
 元々疑り深い性格が災いして友人が少ない……いや、いないと言っても過言ではないほどに人との付き合いが希薄な未来。そんな寂しい未来にとって環と茉莉奈は数少ない、かけがえのない友人なのだ。どちらの方が好きとかそんな感情もない、二人とも同じくらい愛しているので本心ではずっと三人で仲良く過ごしていきたいと願っている。
(でも環と茉莉奈の仲が微妙な感じだし、見たところ二人とも独占欲が強いみたいだしねぇ)
 片方どちらかを選べば未来は独りぼっちに近づくことになる。もちろん片方は未来の傍にいてくれるわけだが、それでも大切な人が自分の元から去ってしまうのは耐えがたい。そもそも環と茉莉奈は未来が出した答えに納得し、未来の前から消え去ることが出来るのか。もしどちらかに別れの道を歩ませることになったときに、あっさりとその道を進みだそうものなら私への想いはそんなモノだったのかと失望させられることになりそうだ。
(なんだか考えれば考えるほど、結局は自分が悲しい想いをするだけな気がしてきたぞ)
 環と茉莉奈は未来を欲してはいるが、二人の周りには未来以外の友人たちも大勢いる。その中には二人のことを心から好いてくれている人もいることだろう。つまり環と茉莉奈は未来と別れても安全パイがあるのだ。未来と別離の時を迎えても二人には受け入れてくれる人がいるが、未来には環と茉莉奈しかいない。しかもどちらかを選ばないといけないときた。なんだろう、私は果たして選ぶ立場なのかそれとも、選ばれる立場なのか。分からなくなってきた。

 押し黙る未来を不審に思った環は肩を揺らしてくる。
「未来?突然黙ってどうしたの」
「あ、いや、ちょっと……気になることが見つかってね」
「気になること?」
「うん……茉莉奈から話を聞いたときはそこまで深刻に考えていなかったけれど、よく考えてみると……」
 言葉を中途半端に区切った未来に焦れた様子の環が続きを促す。
「なにが気になるの?」
「……じゃあ聞くけれどどうして環と茉莉奈は一緒じゃ駄目なの?」
「一緒って?」
「私と環と茉莉奈、三人がこのまま友人として過ごす選択肢はないの」
 そう問うとまたしても環の動きが止まり、驚いたような表情で未来を見つめる。相変わらず環に投げた爆弾の導火線がチリチリと燃え続ける気配がする。
「だってさ、環か茉莉奈のどちらかを選んでしまったら、選ばれなかったどちらかは私の知らない誰かのところへ行っちゃうんでしょ。それって酷くないかな」
 私には環と茉莉奈しかいないのに……と呟くと環はバツが悪そうに顔を歪める。
「ねぇ、どうして選ばないといけないの」
 友達なんて今まで生きてきて数えるほどしかいなかったが、普通の友達以上のことを未来は求められていることに薄々気づき始めた。一般的な友達なら環か茉莉奈を選べ、なんて問題を突きつけられることなんてなかったはずだ。私は一体二人に何を求められているのか。何をしたら正解なのか。
つい数十分前、茉莉奈に未来自身も覚悟を固めたと決意表明をしたが、よくよく考えるとなぜ私は環か茉莉奈か……誰を自分の傍におくか選ばないといけないのだろう。確か茉莉奈の言い分だと我慢の限界だって言っていたが……どうして私は誰かに独占される必要があるのだ。分からなくなってきたぞ。
(おかしいよねぇ。それともあれか……もういっそのこと二人との縁を切れっていうことなのか)
 こんなにも複雑な感情が入り混じった友人関係なんて普通ではない。そんな普通ではない事態が起きるということは即ち、もう未来と環たちの間には正しい縁が繋がっていない証なのではないか。
(そうだ、そうなのかもしれない。確か前もこんなことがあった……私の過剰な信頼と依存のせいであの子たちは……)
 ネガティブな考えに陥ったそのとき、過去の忌々しい出来事が急に脳裏を過る。
(そうだ、前回も今回も私が原因だった。このままじゃあ誰も笑顔になれない……私は、私は環も茉莉奈も選んではいけないのかもしれない)
 脳裏に過ったあの出来事。ずっと蓋をしてきた忌々しくも辛い思い出。この四年間でついぞ思い出すことなんてなかったのに、まさか今更思い出すなんて。
(きっと今の状況とあの時の状況が酷似しているからだ)
 すぐ隣に環がいることすら忘れて自分の精神ルームに閉じこもりかけていると、またしても環が未来の肩を揺り動かす。
「さっきからどうしたの。未来こそなんだか様子が変よ……」
「あ……」
 ハッとして未来は顔を上げる。
「ごめんごめん……」
「……ねぇ未来、未来はこのまま三人で仲良くやっていけると思うの?」
「……私はやっていけると思っているよ、だって私たち友達……でしょ」
 友達、その言葉を強調してみる。またも導火線が燃えていくのを感じ取る。
(あれ、友達が地雷ワードだったか……?それならますます……)
 チラリと環を見ると、唇を噛みしめて何かを耐えているような苦しい表情をしている。その姿が「エイの裏側」にそっくりで指摘する。
「環ってば私みたいにエイの裏側にそっくりな顔になっているよ」
 指摘されても環は顔の筋肉を緩めずにしかめっ面のままだ。
「……未来、私たちは友達だよ。だけどね、その……普通の友達ではないってことぐらい賢い未来なら分かっているでしょう」
 ジリジリと煙が立ち込める。後少しで爆発しそうだ。
「……そんなこと茉莉奈も言っていたなぁ。それでも友達には変わりないよね。それならわざわざ二人が喧嘩する理由なんてないんじゃないのかな。女の子は限りなく恋愛感情に近い執着を友人に抱いたりするしね」
 あえて環の神経を逆なでするように話す。そうすればすぐに爆発するから。未来は爆弾が爆発するのを待っている。環は茉莉奈と違ってなんでも話さないから、なんだか面倒くさい言い回しばかりだから。
「環も茉莉奈も仲直りしようよ。そうしたら私たちは今まで通りに過ごしていけるよ。それとも……今までの関係を壊すほどの覚悟が環にはあるの?」
 環の瞳を覗き込む。そこには茉莉奈と同じ強い覚悟はもちろんだが僅かな戸惑いも見て取れた。
「環……」
 静かに環の名を呼ぶ。きっと今頃環の胸の中は荒れ模様だろう。勝手に全てを話した茉莉奈への怒り、未来に知られたことへの動揺……。今にも爆発寸前だ。
「ねぇ環、私は環も茉莉奈も同じくらい好きなんだよ。だからずっと一緒にいたいの。それじゃあ駄目なの?そもそもなんで環は茉莉奈にあんなこと言ったの」
 そう、茉莉奈も環と同様に未来へ並々ならぬ執着心を抱いていたが、茉莉奈は自分の気持ちを欺くことで堪えていた。しかし環が茉莉奈を唆すから……茉莉奈は抑え込んでいた自分の気持ちに気づき、二人の争いが始まってしまった。どうして環はわざわざ茉莉奈を戦いのリングに上がらせたのだろうか。茉莉奈が環と同じ想いを未来に抱きながらも、その想いに見て見ぬふりを貫いていたのは環にとって好都合だったはず。自分の気持ちと向き合わずにいた茉莉奈を放っておけば、環はあっさりと未来の特別な存在になれたはずだ。それなのになぜ?なぜ、自分にとっても茉莉奈にとっても……未来にとっても辛い選択を迫るような真似をしたのだろうか。
「……私ね、もし茉莉奈からあんなに真っすぐに想いを伝えて貰わなかったらきっと、茉莉奈よりも環の方がもっと特別な存在になっていたよ」
 少し意地悪だとは思うが頭がよく回り、一枚上手の環にはこれくらいしなきゃ効果がない。
(そろそろ……かな)
 未来の言葉に多少なりとも追い詰められた様子の環の瞳が大きく見開く。
(あ、爆発する)
 いつだって堂々としていて、余裕がある環が未来の言葉には必要以上に動揺すると知っていた。こんな風に自分の存在が環にとってどれだけの影響力があるのか自覚しながらも、心のどこかでは自分は誰にも必要とされていない孤独な人間だと叫ぶ未来。我ながら身勝手な人間だと自分の底意地の悪さに冷笑する。

 ところで、ついに爆発した環からはいつもの余裕溢れる態度は見当たらない。
「未来、そんな言い方しなくてもいいでしょう。私も未来の言う通り茉莉奈のことは放っておくつもりだったの」
 縋るように未来の肩を掴む。未来と環が座るベンチの周りには既に次の電車を待つ人々が大勢いたが今の環には目に入らないらしい。その中の数人は私たちのただならぬ雰囲気に気づき、チラチラと視線を向けている。
「うん、ちょっと嫌な言い方したよね。ごめんね」
 爆発して感情を抑えきれない環を宥めるように、未来の肩を掴む環の手を優しく撫でる。そのとき、そっと環の瞳を観察してみると焦った態度とは裏腹に強い決意の色があった。
(そう、爆発したらいつもよりも切羽詰まった態度になるけれど、むしろ心は強くなるんだよね)
 さきほどまでは覚悟の色とは別に怯えや、焦りなどの戸惑いの色もあったが今の環にはもう迷いがない。
 未来が冷静に環の変化を見ていると、環は話を続ける。
「でも、茉莉奈の煮え切れない態度を見ていると腹が立って仕方がなかったの。私と同じように未来を大切に思っているくせに、未来以外の人間に媚を売る態度が、自分の意見を言わずに誰かに流される生き方が、見ていられなかったの」
「うん」
「……だから茉莉奈を試したの、あの子にとって未来がどれだけ大切な存在なのか」
「そっか」
「そうしたら私の予想とは少し違ってはいたけれど、茉莉奈も私と同じ想いを未来に向けていたのよ」
「……環は茉莉奈がまさか自分の喧嘩を買うとは思わなかった?」
「喧嘩を売ったつもりはないけれど、どうやらあの子は私が思っている以上に未来に執着していたのね。まぁ時期的な問題もあったと思う。もし未来と気まずい関係になっても卒業さえ迎えれば未来の前から立ち去れば良いわけだし」
「なるほどね」
 最初のうちは動揺と焦りで普段の冷静沈着な態度とは違い、余裕がなかったが話していくうちに次第に落ち着きを取り戻し始めたのか、いつの間にか平常時の環に戻っていた。
(取りあえず環と茉莉奈と二人から話を聞いて、話の全貌をちゃんと把握出来たぞ)
 これで環と茉莉奈は同じスタートラインに立った。環も茉莉奈も未来に全てを伝えた。後は……。
「未来、私も茉莉奈も未来に想いを伝えたよ。後は未来が……」
「……何度も言っているけれど私は二人と一緒にいたいんだよ」
 意外と強情だなと思う。それほどまでに二人は私を自分だけのモノにしたいのか。正直人に積極的に愛されない人生を送ってきたから、環と茉莉奈のいっそ異常ともいえる友愛を自分に抱いてくれるのは嬉しい。けれど。
(どちらかを選んだら誰も幸せにならない。あの時だってそうだった)
 また過去の忌まわしき思い出が蘇る。あの時、あの日、あの瞬間、未来が間違った選択をしてしまったせいで……あの子たちは……私は……。無意識に記憶の片隅に追いやっていた辛い、悲しい出来事が瞬時に未来の脳内を駆け巡る。
 忘れていたはずのあの日の光景、匂い、あの子たちの姿、声、触れた手から伝わる温度……。この瞬間、あの日の全てをリアルに思い出す。駄目だ、落ち着け、過去の幻影に惑わされるな。
 冷静になろうと胸を押さえ、深呼吸をする。幸い未来が一瞬でもパニック状態に陥ったことに目の前の環は気づいていない。
(この状態で環に追及されたら逃れられない。……これだけは誰にも知られてはいけないのだから)
 ふうと息を吐き、ひとまずは波を乗り切った未来はもう一度環と向かい合う。どうか環と茉莉奈に未来の願いが通じれば良いのだが。
「あのさ、私が環を選べば環は幸せかもしれない。けれどね、選ばれなかった茉莉奈は辛い想いをすることになるよね。そして私も辛いの、だって私の選択で人を傷つけたんだ。気分は良くないよ」
「そんなの私も茉莉奈も了承済みだよ、未来が気に病む必要はない」
「そういうことじゃなくて、いくら気にするなって言われても気にするよ。それに環たちは白黒つけてスッキリするかもしれないけれど、私は大切な友人を一人失うことになるんだよ」
 ただでさえ友人がいないのに、二人のうちどちらかが未来の傍からいなくなってしまったら未来はきっと唯一残った人に今まで以上に依存してしまう。今でも環と茉莉奈に依存している面があるというのに、その残った一人だけが未来の支えとなってしまったら、恐ろしい結末しか見えない。未来は身をもって体験しているから分かる、人間関係は白黒つけたからといって、幸せになるとは限らないことを。心の支えになる人がその人しかいないことの危険を。
(まず私が環と茉莉奈の二人の優しさに甘えて、二人さえいればそれでいいと依存して頼りきっていたことが事の発端だとしても……)
 茉莉奈と話をしていたときは気楽に、これがきっかけで自分の依存癖を矯正し、二人と適切な距離をとる良い機会だと思っていたが、無理かもしれない。茉莉奈に覚悟すると言ったのはいいものの、冷静になって考えれば考えるほど厳しい。
(二人が覚悟を決めても、結局私は心から幸せにはなれないんだ。私がどちらかを選べば依存癖は加速するだろうし、二人を否定したところで孤独になるだけ)
 環が思い直してくれることを期待してみるが、やはり駄目だった。
「ごめんね、未来。未来を傷つけたいわけじゃないの。でも私も茉莉奈も三人で仲良くだなんて出来ないほどに……友情以上の想いを抱えているのよ」
「そっか……」
 いつも未来の手を引いてくれる環、人知れず未来を支えてくれる茉莉奈。四年間も未来に己が抱くどす黒い独占欲を知られないように隠してきた二人だ。もう我慢は出来ないのかもしれないね。じゃあやっぱり私も覚悟を決めるしかないというわけか。悲しいけれど、またあんな思いをするかもしれないけれど。
 チラリと環の瞳を窺う。そこにはやはり強い決意を秘めた炎が宿っている。
(……ここで私が二人のことを拒めば終わるんだろうけど、そんなことは出来ないから受け入れるしか道はない……か)
 環と茉莉奈があの子たちとは全くの別の人間だから、もしかするとあんな悲劇的な結末を回避出来る僅かな希望もなくはない。それならその希望にかけるか、まぁ九割方同じような終わりを迎えることになりそうだけど。
 ふと周囲に注意を向けるとホームにいる人が大分減っていた。未来と環が話し込んでいる間に電車は何度もこのホームを通過したようだ。そろそろ帰路につかねば。そのためにまず、環にも茉莉奈と同様に未来の覚悟を伝えなければいけない。
 揺るがない環の瞳を見つめ未来は口を開く。
「環の気持ちもよく分かったよ。確かにタイミングもいいかもね、卒業前にしか出来ない喧嘩だね。うん、それに私にも少なからず原因があると思うし……私も覚悟を決めるよ。二人が満足する答えを出せるかは分からないけれど逃げずに向き合うよ」
「……ありがとう」
 未来と環の覚悟の言葉を取り交わす。するとちょうどよく電車がホームに到着した。
「じゃあ帰ろっか」
「そうね」
 昨日まで抱くとは微塵も思ってもいなかった、重たくて些か厄介な問題を抱えることになった未来と環は会社帰りの社会人で溢れた電車に乗り込む。




 無事に電車に乗り込んだ未来と環はつり革を握りしめ心地よいとはいえない電車の揺れに身を任せていた。
(今日の運転士は新人か、それとも技量がないだけか)
 踏ん張っていてもブレーキをかけられる度に吹き飛びそうになる。他の乗客も同じようで、表面上は「何もないです、大丈夫です」と素知らぬ表情を貫いているが、つり革を握る手には力がこめられている。お蔭で未来の右隣にいるお姉さんの掌はすっかり赤くなってしまっている。
(私も痛くなってきたなぁ)
 信号待ちとやらで電車が停止している間に不自然に力をいれていた掌をつり革から離し、丸めたり開いたりしてみる。
 そんな風に掌の体操のようなマッサージのようなことをしていると、隣で同じくつり革を握っていた環が手を握りしめてくる。
 驚いて身を竦めると、環はなんでもないような顔で未来の手を自分の鞄に持っていく。まるでここを掴めばよいという風に。
 環は未来と違いリュックやショルダーバッグなどは決して使用しない。服装に似合わないというのもあるが、いつぞや環にどうしてか尋ねたときに「女性らしくないから」という理由で使わないということを聞いたことがある。未来としては遠まわしに「未来が使っている鞄類は女性らしくない、つまり未来も女性らしくない」と言われたと思い、数時間は被害妄想に囚われたものだ。
 まるでオフィスレディが休日に着ていそうな少しだけ大人っぽい服装を好む環は、もっぱらグラニーバッグやアコーディオンバッグ、ケリーバッグを愛用している。正直なところ未来の目にはどれもちょっぴり大きさと柄が違うだけの肩掛け鞄にしか見えない。しかし一度茉莉奈に「肩掛け鞄」と言ったところ訂正され、さきほどのグラタンだがアコーディオンだかの違いを徹底的に叩き込まれた。そのお蔭で未来の脳内ハードディスクに新しい知識が加わったが、如何せん見分けがついていないので環の必死な教育はあまり意味がなかった。
 さて、そんなオシャレな「肩掛け鞄」のどこかから垂れ流されている、タコさんウィンナーにそっくりなよく分からない飾りを環は未来に掴ませた。もちろんこれはタコさんウィンナーではないので、食べられない。そのことがなんだか残念で無意味にその飾りを弄りまわす。
「ずっとつり革握っていて疲れたでしょう。手がそんなに真っ赤になって……。だからこれを握ればいいよ」
「……これを?」
 じっとタコさんウィンナーを見つめる。
(こいつで電車の揺れに耐えろって?何の冗談だ)
 チラリと自分の頭より数センチばかり下にある環のつむじを凝視する。はて、環はあまり冗談なんていうキャラではなかったはず。いきなりどうしたのかと眉間を寄せる。すると頭上からの視線に気づいたのか環が顔をあげる。
「……環ってば~面白……くはない冗談を言うなんて、やるねぇ」
「冗談?私がそんなこと言うわけないでしょう。まぁ確かに未来の方が私より背が高いから少しだけ不便かもしれないけれど、きっとつり革を握るよりは楽よ」
 なんてこった、環は大まじめだった。本気でこの鞄にくっついている使用用途がわからないタコさんウィンナーを、握ることを強要している。
(んー、ずっと手を上にあげるのも疲れるけれど、こっちを掴んだら周囲の視線が痛い)
 おずおずと車内を見渡すと何人かが未来と環のやり取りを見ていた。ある人は訝し気に、ある人は未来を男だと勘違いしているのか公共の場でいちゃついている様に見える私たちへの非難の目を向けて、ある人はなぜか嬉しそうに未来と環を交互に見ている。
(うわー見られてる。やだなぁ)
 なかなか図太い神経を持ち合わせていると思ってはいるが、好奇の視線に晒されるのは出来るだけ勘弁したい。早く彼らの視線から逃れるためにタコさんウィンナーから手を離す。
「どうしたの?」
「どうしたのも何も……あれだ、このタコさんウィンナーは貧弱な奴だからね、こいつでは電車の揺れに耐えられないと思うんだよ」
 おどけて言って見せたら環の表情が瞬時に曇る。
(ん?自分の親切を受け取ってもらえなかったからってへそを曲げる人間ではないぞ、環は)
 不審げに環を見つめていると、未来の肩に手を置き脳内に染みこませるようにゆっくりと話し出す。
「未来、よく聞いてね。未来がタコさんウィンナーといったこれはそんな名称じゃないの」
「そんなことぐらい知っているよ。ただなんて言うのか知らなかったし、色も赤っぽくてタコさんウィンナーみたいだなーって思っただけだよ」
 ケラケラと笑う未来の肩に、爪が食い込むほどの力をこめられる。
「痛いってば、ねぇ、なんか今日の環、ちょっと暴力的じゃない?」
「……これはね、タッセルキーホルダーっていうの」
「ラッセル?それって画家の名前じゃないの、まぁあんまりラッセルの絵は好みじゃないけど。……うーん、なんかよく分かんないけど最近環が使っている肩掛け鞄によくそのラッセルついてるよね」
「タッセル!後、肩掛け鞄って言わないで!」
 小声で怒鳴る環。きっとここが公共交通機関でなければ大声を出して未来を怒鳴っただろう。
「う……うん」
 本当のところはタッセルもラッセルも、タコさんウィンナーも同じにしか見えなかったが、環の鬼気迫った表情に圧倒され頷くしかなかった。
「もう、未来って本当にこういう分野に関しては無知だよね。そこが可愛いんだけれど、私の持ち物に関しては出来るだけ正式名称で言ってほしいものね」
「ごめんよ……」
 環が怒るポイントが分かったようなまだ分からないような、複雑な気持ちで一応は謝罪をする。
「いやこっちこそ悪かったわ。未来がファッションに疎いことぐらい一目見たら分かることだしね。そんな未来に過剰な期待をする私が悪かったよ」
(これは……馬鹿にされているのか?)
 果たして無意識なのか、意図的に吐かれた罵倒なのか。しかし未来が一般的な女子大生の感覚からいくと、ファッションに関連した知識が浅いのは事実だからしょうがない。
 そんなタコさん……タッセルについて白熱している間に電車はまた動き出す。相変わらず荒い運転なので支えなしでは立っていられない。
「わわっ」
 ラッセル?タッセル?に気をとられていた未来は電車の激しい揺れに合わせて左右にふらつく。さっさとつり革に手を伸ばせばよいのだがそんなことを思いつく暇のないくらいに、電車は強く揺れる。どうもこの運転士は乗客を安全に目的地へ届けることよりも、目的地に到着するまでに出来るだけ多くの乗客を打ち倒すことに熱心なようだ。
(うわ、飛ぶ!)
 カーブを曲がった瞬間に身体が浮く感覚に襲われ、とっさに環の肩掛け鞄からぶら下がっているタッセルを力強く掴む。
「……吃驚した」
 未来が思い切り握りしめたせいでタッセルをぶら下げている肩掛け鞄の持ち主である環も危うくバランスを崩しかけた。幸い運動能力の良さと外見からは想像もつかない筋力を持っている環は踏ん張り、なんとか持ちこたえる。
「うわぁごめん。反射的に掴んじゃった」
「別にいいよ。未来も知っての通り私は力が思いの外あるからね」
「そうだったね、この前計測した握力ヤバかったもんね」
 数カ月前に興味本位で握力を計ったときのことを思い出す。ハッキリとした数値はもう覚えていないが、成人女性にしては強すぎる力を環が持っていたことだけは頭に強く残っている。
 精神も肉体もたくましい環に感心し、まだ未来の手の中に納まっているタッセルに目をやると強く掴みすぎたせいか形が崩れていた。
「あっ!環のタコ……違う、タッセルが」
「どうしたの?」
「あ、ごめん、タッセルの命を奪ってしまったかもしれない」
「無機物を生き物みたいに言わないで……」
 未来によって握りつぶされ、タコさんウィンナーでいうところの足がめちゃくちゃな方向に折れ曲がっていた。針金ではなく合皮?で出来ているらしいので時間が経てば元通りになるのかもしれないが、無残な姿になってしまった。
「あー気にしないで。家に帰ったら形が戻るようになんとかするから」
「申し訳ない……この子は身を挺して私を守ってくれたのに……」
「未来、日常生活で擬人法を使わないで。混乱する」
「ごめん、でもやめるつもりはないよ」
 未来の弱弱しい手に掴まれただけで潰れてしまったタッセルを撫で、感傷に浸っていると鞄の中から光が漏れていることに気づく。
「なんか鞄の中光ってるよ。この鞄そういう機能もあるの?さすがブランドモノは違うなぁ」
「なにを言っているの?鞄が光るわけがないし、もし光る鞄があってもそんな無意味な機能が搭載されているモノにお金は出さないよ」
「そう?どこかで鞄を失くしてもすぐに見つかるから便利だと思うけど……。あ、それよりどうして光って……あれ?消えた」
 僅かに開いていたファスナーの隙間から漏れていた光が消える。
「……スマホじゃない?」
 そう言うと環は面倒くさそうに鞄の中に手を突っ込み、スマホを取り出す。ちなみにこの一連のやり取りの間も電車は激しく揺れ続けている。タッセルが潰えてしまった今、未来はまた掌が熱をもつほどにつり革を強く握りしめることしか出来なかった。
 つい先月に発売されたばかりのある果物がシンボルマークとなっているスマホを取り出した環は、片手で器用に操作する。
「あ、通知来てる」
「じゃあ、あの光は通知が来たから液晶が光っていただけか」
 つまらないと呟いた未来は車窓に顔を向ける。いつの間にか地下に突入していたのか、車窓を眺めたところで外の景色は見えない。その代りに未来の幽霊のように白い顔と、隣でスマホを凝視する環の綺麗な顔が見える。
(なんか環の顔が険しいな)
 窓に映る環の顔が険しいことが気になり、本物の環の方に視線をやる。
「怖い顔してどうしたの」
「……いや……茉莉奈が」
「茉莉奈?茉莉奈がどうかしたの」
「未来も一度スマホを確認してみて」
 環の指示に従い、未来もスマホをポケットから取り出す。一年ほど前に購入したアダムとイヴが食した果物が目印のスマホの電源を入れると、茉莉奈からメッセージが来ていた。
(どれどれ?)
 通知欄には「茉莉奈さんがグループに招待しました」と記されている。
「茉莉奈からグループの招待が来てるよ」
「じゃあそのグループに参加してちょうだい」
 スマホから目を離さずに環は未来に指示を飛ばす。こちらを見てくれないのがちょっと寂しかったが、指示通りにグループに参加するためメッセージアプリを開き、グループに参加する。
(グループメンバーは私と茉莉奈と……環の三人?)
 なんだかあまり雲行きが良くなさそうなメンバーではないか。茉莉奈はどういうつもりで私たちを招待したのだろうか。
「ねぇ環」
「言いたいことは分かるよ、なんでこのメンバーで茉莉奈がグループを作成したかでしょ」
「うん」
「……私は大体目星がついているわ。そろそろ茉莉奈が説明してくれるだろうから少し待ってみよう」
「うん」
 環の言う通りグループトークが更新されるのを無言で待つ。その後一分ほど経っただろうか、茉莉奈からメッセージが届く。未来も環もそのメッセージを読むために自分のスマホに噛り付く。
『突然グループに誘ってごめんね。ついさっきあんな話を未来にした後だし、きっと環も未来にあのコトを全て話したと思うから気まずいとは思ったけれど、今回はもう少し自分から行動しようと決意したから堂々と未来も環も巻き込んでいくことに決めたよ』
 すぐに茉莉奈から続きのメッセージが届く。
『環は私が何を言いたいのかもう見当がついていると思うけれど、未来のために改めて言うね』
(気になる)
 じっとスマホを見つめる。隣の環はボソリと「やっぱり」と呟いていたが一体何が「やっぱり」なのだろう。
『私たちだけで卒業旅行に行かない?』
「……」
「だと思った。先を越されたね」
「……?」
 茉莉奈が言っていることと環の反応が不思議でスマホと環を交互に見遣る。
(環は見当がついているって言っていたし、先を越されたとも……。もしかして秘密裏に進められていた計画なのか?)
 脳内がクエスチョンマークで埋め尽くされている最中にもトークは進んでいく。
『今、横に未来がいるんだけど困惑しているみたいよ』
『困惑?どうして?』
 未来が困惑している間にもトークは進む。
『いきなり三人で卒業旅行に行こうと誘ったからでしょ。脈絡もなく誘われたら戸惑うでしょう、普通は』
『そっか、少し気持ちばかりが急いでいたみたいだね。ごめんね』
 じっと環と茉莉奈の画面上のやり取りを見つめる。ちょっと整理してみよう。
(私たちで……私と環と茉莉奈で?それってとても気まずい空気が流れる組み合わせじゃないか。あれ、そもそも茉莉奈は由利さんたちと卒業旅行に行くって……あぁそうか、二回行くのかな。いやぁ金銭的に余裕があるんだなぁ。あ、でも、環は研修があるから行けないよね?それともその研修が終わってから?それよりも私は金欠だから行けないんだった!)
 頭の中でごちゃごちゃ考えていたら環に脇腹を突かれ、空気が口から漏れでる。
「うっ」
「ちょっと大げさね、そんなに力は入れてないし。それより未来、また痩せた?あんなによく食べるのに」
「痛い痛い、掴まないで!もう……今日は環に痛い思いをさせられてばかりなんだけど……」
 脇腹と肋骨周辺に伸ばされる環の手を振り払い、スマホに意識を向ける。
「ごめんってば、あ、そろそろ返信したらどう?既読無視されたら辛いでしょうから」
「分かってるってば」
 電車の揺れのせいで何度か文字を打ち間違える。それを訂正し……普段より時間をかけて返信の文章を打つ終え、送信する。
『私と環と茉莉奈で卒業旅行に行くってことだよね?それはすごい魅力的な提案だけど私……お金に余裕がないから行けないや』
 未来のメッセージがトーク画面に表示される。すぐさま既読がついたのでこの場にはいない茉莉奈も、すぐ隣にいる環も未来のメッセージを受け取ったことが分かる。
「金欠……ねぇ」
 環がこちらを見ながら呟く。なんだか誘いを断るために嘘をついていると疑われているようで気分が悪い。
「な……何?金欠なのは本当だよ。さっきもみんなの前で言ったじゃん」
「そんなに余裕ないの?」
「ないんだよ、関西圏から出られないほどに今の私の懐事情は厳しいの」
「そっか」
 疑いが晴れのたかどうかは分からないが、環は追及するのをやめた。
(私だって二人と一緒の卒業旅行には行きたかったよ)
 ため息をついていると気づかない間に二、三通新しいメッセージが届いていた。
『そういえばそんなことを言っていたね』
『イイ考えがあるんだけど茉莉奈、個人メッセージを送ったから今すぐに確認して』
『?分かった』
 どうやら環は未来を卒業旅行に連れていくための考えがあるみたいだ。
(なんだろう)
『イイ考えってなに?』
 環と茉莉奈がしているだろう作戦会議内容が気になり、メッセージを送ってみるが。
(……無視かい)
 既読はついたが二人からの反応はない。未来のすぐ傍にいる環も無視するとは。なんて図太い神経を持っているのだろうか。
(三人のグループなのになんか私だけ部外者みたいじゃないか)
 二人の作戦会議が終わるまでは反応がなさそうなので、手持無沙汰な未来はスマホで違うアプリを起動し暇つぶしをすることにした。
(あ、この星空すごい綺麗)
 暇つぶしのために開いたのは、青い鳥が目印の他人の呟きや世界の動向がタイムラインに流れてくるアプリ。未来はそのアプリで好きなアイドル、情報アカウントなどをフォローしているのだが、アプリを開いたちょうどその時に「星空提供アカウント」なるモノが投稿した内容に目を奪われる。そこには満天の星空の画像と撮影場所が記載されていた。
(なになに……長野県?)
 長野といえば日本で一番星空が綺麗だとか、星空が観光資源だとか、星空の観光名所があるだとか……そんな話を聞いたことがある。
「長野県かぁ……」
 あまりに現実離れした美しさを放つ星空の写真に惚れ惚れしていると、通知が来た。
(おや、会議は終わったのかな)
 青い鳥のアプリを終了させグループトークに戻ると、茉莉奈からの新規メッセージが来ていた。
『実はね、私の家にギフト券があるの。残念ながらそのギフト券は一枚しかないのだけど……。私と環は未来よりは金銭的に余裕があるから、私たちのどちらかがこのギフト券を使ってしまったら少し不公平になるでしょ』
(突然何の話……?)
 話の意図が読めなかったが返事を打つ。
『それならそのギフト券は誰か他の人にあげたらどうかな?』
 茉莉奈が持っているというギフト券の有効的な活用方法を提案してみる。するとなぜか隣にいる環に軽く睨まれてしまった。なぜ、まさか環はギフト券が欲しかったのか。素直に言い出せなかっただけで実は環も金欠なのか。
 もしそうだとしたら申し訳ないことをしたと思い、優しい声で環を労わる。
「環……ギフト券が欲しいなら素直にそう言いなよ。正直に言えば茉莉奈も快く環にくれるよ。そして二人で卒業旅行を楽しんで……うん?」
 話している途中で違和感に気づいて口を閉じる。そうだった、環と茉莉奈は私がいないと意味がないんだった。
(すっかり失念していた)
 環を見ると呆れかえったように肩を竦めていた。その反応がちょっぴり洋画の登場人物みたいで笑いそうになったが踏みとどまる。
『茉莉奈、未来はやっぱり分かっていないからハッキリ言おう』
『……そうね、ねぇ未来、もしお金に余裕があれば卒業旅行に行きたいって言っていたよね』
『うん、環と茉莉奈たちと三人なら是非とも行きたかったよ』
『だよね。でね、私がさっき言ったギフト券を未来にあげようかと思うの』
『え?』
 ギフト券は現金と同じ効力があるなんとも魅力的な代物だ。そのギフト券を私にあげる?それはつまり……私は茉莉奈から施しを受けることになるということか?同じ年なのに、二人とも学生なのに……そんな施しを私は易々と受け入れていいモノか。
(駄目な気がする!だってよく考えなくてもギフト券を貰うということは現金を受け取ることと同じじゃないか!そんなの駄目だ、友人間のお金の貸し借りや金銭的なやりとりはご法度だ!)
 気持ちは有り難いがお断りのメッセージを送る。
『気持ちは嬉しいけれど同じ年の友人からお金を受け取るわけにはいかないよ』
 一瞬で既読がつく。未来のメッセージを読んだと思われる環がため息をつきながら首を振るう。
「未来は馬鹿だな。そんなこと気にしないでいいの」
「でも……友人間で金銭のやりとりはするなって言われて育ったから……」
「そういうのはいいから。未来は私と茉莉奈の好意を享受すればいいのよ」
「そうはいっても……」
(それより、環と茉莉奈の好意って?ギフト券を持っているのは茉莉奈だけじゃないのか)
 気になり二人に向けてメッセージを送る。
『さっき二人ともグループトークから姿を消したよね。作戦会議でもしているのかなぁとは思っていたけれど、まさか……そのギフト券とやらは作戦の一つなの?』
 またしてもすぐに既読がつく。しかしなかなか返答が返ってこない。図星だったのか。
『気持ちは嬉しいんだけどね……お金のことまで二人に面倒を見て貰うのは対等ではないというか、肩身が狭いというか』
 また返信は来ない。この場にはいない茉莉奈が今頃どんな表情をしているのか想像しながら、環の表情を確認してギョッとする。
(真顔だ。というか文字を打っている?あれ、まさか、茉莉奈と作戦会議中?)
 環は人形のように無機物な表情で誰かと連絡をとっていた。
(二人ともいちいち作戦会議をするなんて、本人たちが思っているよりも仲は悪くないのかもしれないなぁ)
 未来を巡る三角関係のはずなのに、環と茉莉奈の仲が案外良さそうでちょっぴり複雑な心境だ。二人が未来へのしようもない独占欲さえ捨てれば三人で仲良くやっていけそうだと嬉しく思う反面、私ではなく環と茉莉奈が親友同士になってしまうかもしれないという焦りも顔を出す。
(私も駄目だなぁ)
 人のことをとやかく言えた立場ではないと反省していると、二人から新しいメッセージが届く。
『見抜かれていたとは、さすが未来。鋭いね』
『そう、未来の言う通り茉莉奈と少し話し合ってみて、ギフト券を出せば未来はすぐさま卒業旅行についてきてくれると思ったのよ。まさか遠慮するとは思わなかったけどね』
(おや?)
『私は未来がそんな金の亡者なわけがないって言ったけどね』
『ちょっと茉莉奈、自分だけ未来を理解しているみたいな態度はやめなさいよ』
(一緒即発だぁ)
 画面上に表示される文章から険悪な雰囲気が強く伝わってくる。前言撤回。環と茉莉奈の相性はすこぶる悪い。
 二人の喧嘩が始まる前に未来は慌ててメッセージを送る。
『ちょっと私を無視して二人で盛り上がらないでよ。えーとなんだっけ?あぁそうだ、ギフト券のことだけど気持ちは本当に嬉しいし、私も一緒に卒業旅行に行きたいのは山々なんだけど……』
『嫌じゃないなら受け取ってよ。このギフト券で旅費のほとんどはカバー出来るよ』
『未来が出せばいいのは現地の食費とかぐらいだよ』
 環と茉莉奈の勧誘に心が揺れる。未来だって二人と卒業旅行に行きたい気持ちがあるのだから誘惑されるのは仕方がない。しかもギフト券を使えば未来の懐は傷つかない。よく出来た話だ。
(うぅどうしよう。元から誘惑に滅法弱いから負けそう……!)
 未来を誘い込もうと必死で手招きをする二人の手をとったほうが楽になれると分かってはいるが、未来はまだ気がかりなことがあるのだ。もちろん友人という対等な関係であるはずの二人から金銭的な補助を受けることへの抵抗、親の教えに背くことへの罪悪感もあるのだが……一番気がかりなのは……もしかして、茉莉奈がいうギフト券なんて初めから存在していなくて、環と茉莉奈が未来のために身銭を切るつもりではないかということだ。もしこの懸念が的中しているのなら尚更未来は二人の気持ちを受け取れない。
『二人のお誘いはとても魅力的なんだけどね……ちょっと気になることがあってね』
『気になることってなに?教えて?』
『一体なにが気になるっていうの?』
 チラリと隣で突っ立っている環を見る。相も変わらず電車は今にも脱線するのではないかと思う程に激しく揺れている。
(怒らないでね~)
 未来の言葉に二人が多少なりとも不快な想いをすることは分かってはいるが、出来れば環が機嫌を悪くすることだけは回避したかった。
(今日はなんだか知らないけれど特に暴力的というか……情緒不安定みたいだからねぇ)
 なるべく逆鱗に触れない様な文章を書く。
(送信っと)
 送信ボタンをタップし、さきほど打ち込んだ未来の言葉が緑色の吹き出しの中に表示される。
『実はギフト券なんて最初から存在してなくて、環と茉莉奈が私のためにお金を出すつもりなのかなって気になりだしちゃって』
 左から強い視線を感じる。
(あぁ怒らないでよ……)
 環からの視線を気にしない様に努め、返信が来るのを待つ。すると今回は意外と早くに返信が来た。
『正解!よく分かったね。だから未来は遠慮していたのね。却って気を遣わせたね?でも今回は本当に気を遣う必要はないんだよ』
『ちょっと茉莉奈?なにあっさり認めているのよ』
『ごめん、でも未来に気づかれているなら認めた方がいいかと思って』
(驚いた)
 未来の指摘をあっさりと認める茉莉奈にも、見当通りギフト券なんて初めからなくて環と茉莉奈がお金を出すつもりだったことにも驚いた。
『ねぇ、未来。確かに未来が気にするのは当たり前だよ。でも私も環も未来よりは少しくらい……いや、遥かに金銭的な余裕はあるから安心してよ』
(……茉莉奈は本当に私のことが好きなのか?私の懐事情を馬鹿にしているとしか思えないんだけど……)
 きっと悪意なんてモノはなく、純粋な親切心なのだろう。でも、だからこそ、残酷だ。
『茉莉奈の言う通りよ。私も茉莉奈も余裕はある。未来一人の旅費ぐらいなんてことない。未来はさっきも言ったけれど現地での食費さえ出してくれればいいのよ』
『でもなぁ』
 環と茉莉奈の経済状況がどんなモノなのか赤の他人である未来には到底分かるはずもないが、未来よりは裕福なのは確実だろう。何度か家にお邪魔したことがあるが、未来の家との格の違い……格差を肌で感じた。
(私よりもちょっとリッチな家庭に育った子の施しを受けるのは別にいい…のかな?)
 一生のうちに一度しかない卒業旅行。このチャンスを逃してしまえば未来は後悔することになるのかもしれない。
(でも私は今まで人生に一度しかない行事とかをことごとく無視してきたからなぁ。この卒業旅行だけが特別ってわけでも……)
 そうなのだ、未来は一般的に世の人々が生涯で一度しか経験しないであろう大事な行事などに意義を見出せなかったので、二十数年間そのようなモノに一度たりとも参加したことがない。七五三はまだ自我が芽生えていなかったので親の言いなりだったかもしれないが、自我に目覚めてからは自分の判断で不参加を貫いた。別に反抗心だとか、みんなと違う自分かっこいい……とかいう恥ずかしい理由からではない。ただ単純に意義がないとみなしたからだ。入学式も修学旅行も、卒業式、成人式……それらに特別な価値を見出せなかっただけだ。
(では今回はどうだろう)
 仲の良い友人たちと卒業を記念して行われる「卒業旅行」というモノ。「卒業旅行」という概念そのものを有意義なモノとは認識してはいないが、連れ立つ相手によっては意義があるモノに変わるとは思っている。
(そうだ、一緒に行く相手が由利さんとか桐子ちゃんならどんな施しを受けても行かないけれど、環と茉莉奈だもんね……。きっと今回の機会を逃したら後悔するのかもしれないな……まぁ二人の思惑を考えたらどちらに転んでも後悔しかないのかもしれないけど……)
 今回の卒業旅行へ行く意味、行かないことで後悔するか、色々熟考した結果、未来は二人の施しを受けることに決めた。
(親には黙っていればばれないしね?)
 そうと決まれば……。
 素早く文章を入力し、送信ボタンをタップ。するとすぐに未来のメッセージがトーク画面に表示される。
『分かった。今回は二人の好意に甘えることにするよ』
 既読がついたその時、隣からまた強い視線を感じる。
(環は口よりも目よりも、視線で語るなぁ)
 チラリと横を見やると目を大きく見開き、驚いた顔をしている環がいた。きっといきなり未来が環と茉莉奈の施しを受けることにしたから驚いているのだろう。
「ねえ、あんなにしつこく誘っときながらどうしてそんなに吃驚しているの?」
 未来の素朴な疑問に環は我に返ったのか、首を左右に軽く振るといつもの澄ました顔に戻す。
「別に……あんなに友人からお金の援助を受けるわけにはいかないって言っていたのに、あっさりと変わったから」
「あーそうだね。まぁいいよね、親には内緒にしていれば叱られないし、環たちと一緒に旅行出来る機会がいつ来るかわかんないし」
「……そうね。……取りあえず良かったわ」
 未来と卒業旅行に行けることが本当に嬉しいのか、環の口元が心なしか緩やかに弧を描く。
(うーん……クールで綺麗なお姉さまと名高い環にこんな表情をさせるのが私とはねぇ)
 僅かな優越感に浸っていると茉莉奈からメッセージが届く。
『やった!ということは私たちと卒業旅行に行ってくれるんだね?ありがとう!本当に嬉しいよ』
 文字から茉莉奈が心底喜んでいることが伝わってきて思わず頬が緩む。
『ところでどこに行くかは決まっているの?』
 実はずっと気になっていたことだ。二人は旅費のことは安心しろと胸を張っているが、果たしてどこに行くつもりなのだろうか。行く先によって交通費、宿泊費などその他諸々の必要な金額は変わってくるはずだ。しっかり者だが、熱中しすぎるとネジが外れてしまう環と茉莉奈のことだ。もしかしたらどこに行くのか見当もついていないのに旅費は自分たちが面倒を見ると言い出した可能性もあった。
(大阪からそこまで離れてなければ……あるいは)
 未来が二人の懐や計画性に気を揉んでいると返事が来た。
『実は未来へのヒアリング調査と環との相談の結果、行先は決めているの。きっと未来も気に入ると思うよ』
『未来がずっと行きたがっていた所よ。あ、もちろん国内だし交通費とかも全部計算済みだから心配はいらないわ』
(いつの間に……というかヒアリング調査ってなに……)
 どうやらこの卒業旅行は未来が二人の争いに口を挟む前から計画されていたらしいことに眩暈を覚える。行き先も決定済み、必要経費も把握済み……この調子だと宿泊場所も決まっていることだろう。後は日程だけか。
『後は日にちを調整する必要があるのだけれど……それは後日でもいいかな?そろそろバイトの時間だから』
『異議なし』
『了解。バイト頑張ってね』
 本当にバイトが始まる直前までトークルームに張り付いていたのだろう、それっきり茉莉奈からのメッセージは来なかった。

 茉莉奈からのメッセージが途絶えたと同時に電車が難波に到着する。ようやく地獄のような揺れから解放される。未来以外の乗客たちも安堵のため息を漏らす。
「ねー、さっきの運転士酷かったね」
「あれは本当に酷かったわ。私はなんとか耐えられたけれど棒切れの未来がいつ吹き飛ばされるか気が気ではなかった」
「……そこまでガリガリではないよ……」
 地獄から解放された二人はさきほど乗っていた電車の愚痴をこぼす。あんなに揺れが酷い電車に乗る機会が後にも先にもないことを願うばかりだ。
 電車を降り、ポケットから取り出したICカードをかざして改札を通る。帰宅ラッシュと訪日外国人旅行客で溢れかえった難波駅は息苦しくて堪らない。
「うわー、相変わらず人多いねぇ。なかなか前に進めないよ」
「平日でこれなら週末はもっと凄そうね」
「……想像したら阿鼻叫喚の地獄絵図だね」
 人にぶつからない様、足を踏まない様、環とはぐれない様に細心の注意を払いながら南海線へと一歩一歩、歩みを進める。
「あんまり進まないね」
「一人だったら人の間を縫って進むところだけど、今は未来がいるから駄目ね」
「なんか私がお荷物みたいな言い方だね……。まぁいいや。焦っても仕方ないからのんびり行こ」
 環の腕を掴みながらノロノロと南海線までの道のりを歩く。

「……」
「……」
 いつの間にか韓国語なのか英語なのか、はたまたそれ以外の言語なのか……それなりに大きい声ではしゃぐ外国人旅行客グループと教室と同じテンションで騒ぐ女子高生の集団に囲まれていた。
(う……うるさいなぁ)
 未来はなんとか我慢出来ているが、案外短気な環が心配になって様子を確認してみると案の定不機嫌に口をへの字に曲げていた。
(こんなに騒がしいからね……仕方ない)
 周囲の大きい声に自分の声がかき消されないように環の耳元に口を寄せる。
「ねぇ迂回路から行かない?」
「迂回路?」
 尋常ではないこの人の多さ、旅行客が増加していることも大きな要因になっているのは勿論なのだが、難波駅の各所で工事が行われていることも混雑の一因になっている。普段ならもう少し通路の幅にゆとりもあるのだが、工事の影響で道が狭まってしまっている。だが迂回路の方は比較的道幅が広くて人が少ない道となっている。南海線からは少しだけ離れてしまうが、どうせなら快適な道を歩きたい。というわけで未来は環の腕を掴んだまま迂回路がある方向へと向きを変える。
「ちょっと南海線からは遠くなっちゃうけどいいよね」
「……圧死するよりは遥かにマシね」
 人の波をかいくぐって二人は迂回路に入っていく。




 薄暗い迂回路に入ると、さきほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
「うわ、想像以上に人がいないね」
「そもそも迂回路が用意されていることに気づいていない人が多そうね」
「そりゃあんな小っちゃい看板じゃあ気づかないよねー」
 迂回路として指定されている道を歩き南海線を目指す。それにしても本当に人がいない。環の言う通り、駅を管理している鉄道会社が用意したこの迂回路に気づいていない人たちが大半なのだろう。それも仕方がない。公式ホームページには迂回路を設置したと書かれてはいたが、わざわざ鉄道会社のホームページを閲覧する人は少ないので迂回路の存在はあまり拡散されていないようだ。そのお蔭で少し遠回りにはなるが、圧死しそうなほどの窮屈な人混みから逃れられることが出来ているから、鉄道会社の広報のやる気のなさを今回は見逃すとしよう。
(冷房も効いているしすれ違う人だって数えるほどしかいないのは快適だけれど、なーんか寂しい場所だなぁ)
 目の前に広がる光景は時折すれ違う人と、薄暗い照明に照らし出されるシャッターばかり。一応ここにもお店が何軒かあると聞いていたがどうやら潰れてしまったのか、今日の営業が終了しただけなのか、元々今日がここら一帯の休業日なのか、開いているお店が一軒も見当たらない。そんなシャッター商店街さながらの寂れた迂回路を歩きながら、ただ歩くだけなのも暇なので環に話題を振る。
「そういえばさ、卒業旅行のことだけど」
「ん?なに、やっぱり三人じゃなくて私と二人きりで行きたいって?いいよ」
「え、違うよ?急になに、怖い……。えーとそうじゃなくて私も環も卒業旅行には一度しか行かないよね」
 顔色を一つも変えずに末恐ろしいことを言い放つ環の言葉を横に追いやり、本題に移る。
「普通は卒業旅行に二回も行かないでしょう。いくら友人が多いからって……そんな奴がいたら浅い付き合いの友人しかいない寂しい人間なのでしょうね」
「そう……だよね?やっぱり普通は何回も行かないよね。でも茉莉奈は由利さんたちが計画した卒業旅行にも参加するんだよね」
「そうみたいね」
「そこで気になったんだけど、お金とか日程とか大丈夫なのかな」
「はぁ?そんなの未来には関係ないことなのだから気にしなくていいよ。茉莉奈が自分で決めたことでしょう」
 とことん茉莉奈を目の敵にしているらしく、腕を組み心底嫌そうに顔を歪める。だがそうは言っても未来は気になってしまうのだ。
(というか茉莉奈は本当に由利さんたちと行きたいと思っていたのかな……今思えば環の言葉に押されて行くことにした感じもしたし)
 もう一度環に茉莉奈について話を振ろうかと思ったが、さらに不機嫌になることは火を見るよりも明らかだったのでやめた。
(後で茉莉奈に聞いてみよう)
 確か茉莉奈は家からほど近い場所にある、親せきが経営している個人居酒屋でバイトをしていると聞いた。田舎だからなのか、個人経営だからなのかは知らないが二十三時には営業が終わるはずなので、時間に余裕があったら茉莉奈に連絡してみよう。
 
無言で迂回路を進む未来と環。人が少ないことをいいことにあまり清掃が行き届いていない道をただ歩む。後五分ぐらい進めば南海線に辿り着くはずだ。早く家に帰ってご飯を食べたい気持ちもあるが、茉莉奈のことと同じくらい気になっていたことがもう一つあったことを思い出し、隣でひたすら無心で歩くことに集中している環に話しかける。
「もう一個気になっていることがあったんだった。すっかり忘れてたよ。ね、聞いてくれる?」
 環は歩く速度を緩め、未来の顔をジロリと睨む。
「また茉莉奈の話だったら聞きたくない」
「今度は違うってば、環のことなんだけど」
 環のことで気になることがあると言えば、自分に関心が向けられたことが嬉しいのか射貫くように強かった視線がわずかに和らぐ。本当にわずかに。
「私のこと?それなら聞くよ。何?」
「うん、えーとね……環って本当に研修があるから由利さんたちの誘いを断ったの?」
 瞬間、元々静かだった迂回路に響いていた未来と環の声が消えうせ、本当の静寂が迂回路を支配する。騒がしい空間よりも静かな空間が好きな未来だが、この沈黙はなんだか居心地が悪かった。
(私から話を振ったけれど環もなにかしら反応してよ……どうして黙るの。もしかして聞かない方が良かった?)
 未来の必死な心の叫びは届かない。ただ重苦しい沈黙だけが二人を包み込む。
(そんなに重大な話でもなかった……よね)
 沈黙に足をとられてしまい、身動き出来ない。数分でたどり着けるはずの南海線が遥か遠くに感じられる。
 いつまでこの状況が続くのか、恐ろしくなった未来は思い切って口を開く。
「あの、責めてるとか環を疑っているとかじゃないよ!気になっただけ!ほら、研修があるのに私たちの卒業旅行には参加してくれるのが嬉しいなーって……後は、えと……いややっぱり何もないや。ほら、帰ろう!南海線までは目と鼻の先だぞー」
 努めて明るい声を出すが、環は相変わらずピクリとも動かずに腕を組み気難しい顔のままだ。
「環―……?」
「……茉莉奈が言っていたの?」
「へ」
 物言わぬ貝のように押し黙っていた環がようやく口を開いたかと思えば、茉莉奈の名前が出てきて驚く。だってその通りだから。
(茉莉奈が環の研修だっていう話は嘘だ、演技だー……って言うから気になって質問したけれど、この質問が誰の引き金なのか勘付いていたかぁ)
 何と答えたらよいモノか悩んでいると環が勝手に話を進める。
「さしずめ茉莉奈は環……私が由利たちと卒業旅行に行かずに未来を独占しようと企んでいると考えたから、きっと環の研修がどうたらは嘘だと未来に吹き込んだのね」
「……うーん半分正解ってところかな?」
「そう……さすが茉莉奈ね。いつもはお人よしだから他人の嘘に気づくことなくヘラヘラ笑っているだけなのに、殊更未来に関わることには敏感ねぇ」
 敵ながらあっぱれといった様子で、先ほどまでの沈黙とは打って変わってなぜか満足げに笑う。
(私が関わっているというよりは環が相手だから……じゃないのかな)
 なんだか腑に落ちないが気にしないで話を続ける。
「まぁそんなわけで気になったわけさ。茉莉奈はあんなことを言っていたけれど研修は実際あるよね?」
「……研修はあるけれどそれは入社してからなの」
「……あれ?」
「会社によっては入社前に研修期間を設ける場合もあるけれど、私が入る予定の会社は入社後に研修旅行みたいなのがあるの」
 悪びれた様子もなく話しているが、それってつまり……。
「……由利さんたちに嘘をついたってこと?」
 恐々尋ねるとニッコリと可愛らしい笑みで頷く。
「そうよ、だってあいつらと一緒に旅行なんて行きたくないからね」
 爆弾発言にまたしても足が地面に縫い付けられたように動かなくなる。
(……行きたくないだって?)
「どうしたの」
「あ……てっきり環は由利さんとか、みんなと仲が良いと思っていたからちょっと驚いて……」
「そんなわけないでしょう。ただ好きじゃないからって距離を置いたり、その気持ちを相手に伝えたりするのは自分にとって不利な状況になるだけだから仲が良さそうに演じていただけよ」
「そ…そうだったの……」
 まさか、環も自分と同じような気持ちで由利たちと接していたとは……嬉しいような演技力抜群な環がちょっぴり怖いような、複雑な気持ちだ。
「未来だって似た様なモノでしょう」
「私?」
「うん。未来も波風立てない様にいつも由利たちが期待している対応をしたり、自分の気持ちを押し殺していたりしていたでしょう」
 あぁ自分では上手く由利たちの道化師を演じ切っていたつもりだったが、環には気づかれていたのか。
「もう茉莉奈からも聞いているかもしれないけれど、私は大学で未来以外に大切な人はいないのよ。未来が一番で唯一の存在なの」
 いつになく真剣な口調で言われる。前触れもなく愛の告白のような言葉を聞かされた未来は戸惑ってしまう。
「そう……なんだ……それは、その……ありがとう」
「うん、だからさっさと茉莉奈じゃなくて私を選べばいいのに」
「ちょっと待って、今はそういう話じゃないから……えーと、とにかく環には研修なんてモノは元々なかったんだね」
「そうよ、悔しいけれど茉莉奈の見立て通り私は茉莉奈が他の友人たちと楽しんでいる間に、未来を独占してあわよくばそのまま未来の親友という立場を勝ち取るつもりだったのよ」
「……そんなこと考えていたの」
 環の腹黒さと計画性の高さに若干引く。
「もちろん、だって最後のチャンスだもの。卒業しても未来が私のことを忘れるなんてことはありえないとは思っているけれど……なんだかこのまま卒業を迎えてしまったら未来の方から消えていきそうな気がしてね……」
 ふいに環の瞳が未来に向けられる。その瞳が未来の過去も思考も全てを読み取っているように見えて俄かに恐ろしく感じる。
(……落ち着け、大学で出会った人たちには昔の話をしたことはない。だから環が知るわけがない……私が何をしたのかなんて……)
 気持ちを落ち着かせようと環の瞳から目を逸らす。環は魔女でも超能力者でもなんでもないのだから未来の全てを分かるはずもない。でも、それでも、他人が奥底に秘めている何かを引きずりだそうとする環の瞳が今は、少し怖い。
「やだなぁ……最後のチャンスとか。むしろ私の方が心配だよー。卒業して新しい環境に馴染んだら環にも茉莉奈にも忘れられないかって」
「私も茉莉奈もそう簡単に未来のことは忘れないわ。由利とかどうでもいい子たちならいざ知らず」
「……言うねー」
 環の辛辣な物言いに由利たちが気の毒に思えてきたが別にいいか。
「取りあえず茉莉奈が言っていたことは本当だったんだね」
「そういうことね。分かっているとは思うけれどみんなには内緒だからね」
 もし、環が由利たちと卒業旅行に行きたくないがために研修があると嘘をついたとあの子たちが知ったらどんな反応をするだろうか。由利は傷ついて泣いてしまうかもしれない、それとも未来に怒りをぶつけてくるだろうか。
(うーんこの世の地獄を見られそうだなぁ)
 普段から未来を見下し、玩具のように好き勝手扱ってくる由利の無様な姿を見てみたい気持ちはあるが、環の名誉と平穏な日常のためにこの事実は鍵をかけて記憶の片隅にしまっておくことが賢明だろう。
「もちろんだよ、環の本性っていうの?それを知ったみんなの反応を見てみたい気はするけれど、後始末が大変そうだからみんなには黙っておくよ」
「あら、未来もなかなか酷いことを言うね」
「そうかな?個人的にはありもしない研修をでっちあげて大切な友人たちの誘いを断る人の方が酷い気がするけどねぇ」
 やや皮肉ぎみに言うと環は楽しそうに目を細める。
「まぁいいじゃない。誰も傷つけてはいないんだし」
「それもそうか。ま!環に研修の予定がないって分かったから卒業旅行の日程も決めやすくなったかな」
「それはどうかしら」
 首を傾げる。
「どうして?」
「ほら、茉莉奈は由利たちの卒業旅行にも参加するでしょう。あっちだって日程はまだ決まっていないのに……あーもう、これだから八方美人は……」
 心底嫌そうに環は深いため息をつく。しかし茉莉奈は八方美人ではなくただ優しい人だから、友人たちを悲しませたくないから彼女たちの提案に答えてあげただけだと未来は分かっている。だから環ももう少しだけ茉莉奈に優しくなってあげてもいいのに。
(そもそも環が遠まわしに行けって指示したような気もするんだけど……)
 茉莉奈が本当に由利たちと卒業旅行に行ってもよいと思っていたのか、それとも本心では乗り気ではなかったが、彼女たちを悲しませるわけにはいかないという茉莉奈の情愛が勝ったのか……。本当のところはわからないが未来は茉莉奈を責めるつもりは毛頭ない。
「茉莉奈は八方美人じゃなくて優しいんだよ。博愛とまではいかないけれど誰にでも平等なんだ。いいことじゃないか」
 茉莉奈への賛辞が気に食わないのか環はフンと鼻を鳴らす。
「それを八方美人っていうのよ。それよりも茉莉奈はみんなに平等ではないわよ。証拠に未来の一番になりたがっているじゃない。それのどこが平等だっていうの。それに平等とか博愛なんてやつは結局、誰かに嫌われるのが怖い臆病者の考えだわ」
 マシンガンのように捲し立てられてしまっては異を唱える隙間もない。お手上げ、降参だ。どうやら環は茉莉奈の性格がどうこう以前に「博愛」「みんなに優しい」という姿勢を嫌悪しているらしい。
(環の言っていることも分からなくもないけどさ……誰かに嫌われることを恐れることってそんなに駄目なのかなぁ)
 自分の主義主張を曲げずに孤立しても自分の信じているモノを貫く覚悟を決めている一方で、他人から無関心ではなく嫌悪や憎しみという感情を抱かれることに対して異常に恐怖している未来にとって環の言葉は心の奥底に深く突き刺さった。
(私は分かりやすく相手の意見に合わせたり、流れに任せたりしないだけで心の中ではいつも環が忌み嫌う人たちと同じことを考えている。……だって無関心なら傷つけあうことはないけれど、嫌われてしまったら傷つけられることもあるし、私が相手を傷つけてしまうことだってあるし……)
 環の刺々しい言葉に思わず口を噤むと、妙に慌てた様子で環が声をかけてくる。
「ごめん、ちょっと八つ当たりがすぎたわ。だからそんな悲しい顔をしないで」
「え?」
 環が少し感情的に皮肉を言ってしまったことを詫びたことも意外だし、自分が環に心配されるくらいに情けない表情をしているらしいことにも驚く。
「私……そんな顔をしていた?」
「うん、なんだか……とても悲しそうだった……。謝るから、そんな顔をしないで。茉莉奈への嫌味のつもりだったけれど言い過ぎたわ……。私、未来のその顔に弱いのよ。寂し気で今にも涙が零れ落ちそうな……そして目を離した隙に消えてなくなりそうなその顔にどうしても抗えないのよ」
 博愛精神を否定していた強い口調から一転して、手負いの小鳥を慰めるかのような優しい口調になった環になぜか分からないが……ゾワリと悪寒が走る。
(……なんだろう?)
 自分でも訳が分からずに無意識に首を傾げる。
「未来?」
「え、いや私は大丈夫だよ。えーとまぁ、あれだ、茉莉奈も色々考えがあってのことだろうからあまり責めないであげてよ」
「分かったわ、ここにはいないけれど茉莉奈もごめん。言い過ぎたわ」
「はは……直接言えたならいいのにねぇ」
 一瞬感じた嫌な感じを振り払い、いつもの「未来」に戻る。きっとあの悪寒は嫌悪感とかではなくなにか別の、身体的ななにかだろう。絶対に、私が環に対して嫌悪感を抱くはずがない。あってたまるか、大切な友人なのだから。
(……でも)
 未来を宥める優しい声色と表情にはとても不釣り合いだった瞳を思い出す。三日月型に目を細め、環の言葉に動揺する未来を嘲るような、恍惚としているような、言葉では形容しづらいあの瞳。違和感と本能的な不快感。
(私は……あの瞳をどこかで見たことがある……と思う)
 環が一瞬自分に向けたあの瞳を、そう遠くない過去に見たことがある。そしてその瞳は未来を決して幸福な気持ちにはさせてくれなかった気がする。
(……駄目だ、思い出さない方がいいような気がする。それにこんなことを考えていたら環に失礼だ。私の被害妄想に決まっている。環はあんな瞳を私には向けない。多分私が過去の何かと一瞬でも環と重ねてしまったんだ。あぁ馬鹿、環を汚すようなことをするなんて……)
 頭を振り不吉な考えを吹き飛ばす。昔のことは思い出すな、これまで通りなかったことにすればいい。心でそう呟き、綻びだした記憶の糸をもう一度きつく縛りなおし脳の片隅へしまいこむ。
(ふう……なんとか抑えこめた)
 やっとの思いで記憶を封じ込めることが出来て一息をつくと、環から不審そうな視線を投げられる。
「急に黙ったと思ったら顔を青くしたり……どうしたの?体調でも悪いの?ほら、もうすぐで南海線だから頑張って。肩ぐらいなら貸してあげるわよ」
 黙りこくり顔面蒼白だった未来を心配した環は、薄っぺらい未来の肩を支えて歩き出す。
「ごめん!全然元気だから!大丈夫、大丈夫!」
 慌てて環の身体から離れる。
「うーん……大丈夫ならいいけれど。電車に乗った途端意識飛ばしたり、嘔吐したりしないでよ?私は未来と同じ南海線でも乗る電車は違うんだから」
「もーそんなことしないってば。ちょっと違うことを考えていただけだよ。体調不良でもなんでもないから環は安心して関空方面の電車に乗り込みたまえ」
「……元気そうね、ほら行くよ」
 半ば呆れた様子で環はまた歩き出す。未来も急いで後をついていく。この道を曲がってエスカレーターを登れば南海線難波駅のホームに辿り着く。いつもなら環ともっと一緒にいたいと思うところだが、今日は色んなことがあったからとにかく早く家に帰って頭の中を整理したい。少し疲労の色が顔に現れ始めた未来は心持早歩きで南海線へと足を進ませる。




 迂回路を出て、南海線難波駅のホームに繋がるエレベーターに乗る。時間帯的に会社員の姿が目立つが、大きなスーツケースを携えた外国人も多く見受けられる。
「外国の人は空港に向かうのかな?」
「きっとそうね」
「ということは環と同じ電車に乗るのか~。座れなさそうだね」
「……間違いないわ。もうここ最近は、空港線は外国人旅行客でいっぱいだからね」
「ふーん。みんな日本旅行を楽しんでくれたかなぁ。あ、あの中国人かな?ドラッグストアでたくさん何か買ったんだね。私もあれぐらいの財力があれば……」
 スーツケースには収まらないほどの袋を抱えたアジア系の訪日外国人の姿を見て、自分の金欠を嘆く。
「馬鹿なこと言っていないで、前を向きなさい。もうすぐでエスカレーター終わるよ」
「おっと、危ない」
 環が注意してくれたお蔭でエスカレーターと道の境目でこけずに済んだ。
「いつもここで転びそうになるんだよね。何か最新技術でどうにかなんないかなぁ」
「未来がもう少し注意力を身につければいいだけじゃない。あ、ほら前を向いて歩きなってば」
 柱にぶつかりそうなところを環が腕を引きよせてくれたお蔭で激突をなんとか回避する。
「わあ、ありがとう。……環の言う通り私は注意力散漫なのかも」
「かも、じゃないよ。そうなのよ」
「厳しいねー」
 何気ない雑談を交わしながら改札を抜け、ホームに立つ。未来は泉北方面、環は関空方面の電車に乗らなければいけないのでここでお別れだ。
「……なんか今日は色々あったけれど、また卒業旅行のこととか何かあったら連絡してね」
「うん、分かった。未来も今日は疲れたでしょう。私と茉莉奈のこととか……ね。きっと脳内の容量が私よりも少ない未来にとっては処理しきれない情報が多かったと思うわ。だから今日はゆっくり休んでね」
 環に指摘された脳……頭を軽く触れてみる。
「……えーもしかして私、馬鹿にされているの?……まぁいっか。じゃあまたね!」
 環の嫌味なのか本気なのかよく分からない未来弄りはいつものことなので、無視をしていつも通り別れの挨拶を交わす。
「うん、またね」
 手を振りそれぞれ自分が乗る電車のホームへと向かっていく。途中未来は一度振り返り、環の後ろ姿をじっと注意深く見つめてみる。その後ろ姿は普段と同じ、背筋がピンと伸び、長い黒髪がよく似合う綺麗な環の姿だった。別段変化はない。思い悩んでいる様子も、意地の悪い雰囲気も……何も変化はない。それが当たり前でなんらおかしいことはないのだが、なぜだか釈然としない。
(なんだかモヤモヤする……)
 理由のないモヤモヤが未来の胸を過ったが、泉北方面行きの電車がホームに到着したのでそのモヤモヤを振り払い急いで飛び乗った。

 幸い座席に余裕があったので、立つことを免れた未来は背もたれに身体を預けて張り詰めていた力を抜く。
(今日は本当に色々あったなぁ)
 目を瞑り今日一日の出来事を思い出す。
(そういえば今日は卒論の最終提出日だったな。でも私と環はとっくに提出していたから食堂で喋っていて……あぁそうだ。そのときにエイの裏側に似ているって環に言われたんだっけ。それにしても失礼だよねぇ。魚類に例えられて嬉しい人なんているはずもないのに)
 環の「エイの裏側にそっくり」という言葉を思い出してしまい、思わず眉間に力が入る。目を瞑り眉間に皺が刻み込まれた未来の顔は、未来自身が思っている以上に威圧感があった。それは未来の顔を見た人が本能的に踵を返してしまうほどだ。そのため徐々に人が増え始めた車内でも未来の前だけ誰もいない。他のモノよりも高めに設置されているつり革が一人、未来の頭上で寂しそうに冷房の風に合わせて揺れているだけ。しかしそんなこと自分の精神世界に飛び立ってしまった未来には関係のないことだ。
(いや、エイの裏側はどうでもいい。えーとそれで何があったかな?……そうだ由利さんたちがみんなで卒業旅行に行こう!とか騒ぎ出して……もちろん私は不参加で、環がありもしない研修があるからといって誘いを断ったんだよね)
 食堂で卒業旅行について盛り上がっていた由利たちの姿を思い出す。あの時未来は環と茉莉奈の想いを露とも知らなかったので、未来そっちのけではしゃぐ由利たちの姿に何とも言えない悲しさを感じたモノだ。
(あの時はまさか数時間後にこんなことになるとは、これっぽっちも考えていなかったなぁ)
 環の研修が本当にあると無条件で信じていたし、最後まで環と茉莉奈以外の学友たちに必要とされていないことに底知れない孤独感も抱いていた。それに環と茉莉奈にとっても自分の存在価値はそれほど高くはないだろうとも考えていたから、二人から想いを打ち明けられた時は大変吃驚した。

 環と茉莉奈の気持ちに気づいていなかった数時間前の自分の寂しい姿を脳裏に思い浮かべていると、扉が閉まり電車が動き出す。
(お、こっちの運転士さんは安全運転だな。こりゃ駅に着くまでのんびりと寝られるな)
 心地の良い揺れに合わせて眠気が未来を襲う。
(ん~意識が……)
 数分間隔で意識が落ちては浮上を繰り返す。いっそのこと完全に意識を手放した方が気持ちよく眠られるのだろうが、どうにもそれが出来ない。
(意識が浮上する度に環と茉莉奈の顔がチラつく……)
 そうなのだ、なぜか知らないがもう本能のままに眠ってしまおうとしても意識の隙間を縫って二人の顔がチラついてなかなか眠れない。脳裏に浮かぶ二人の姿を眺めながら眠りに落ちても問題はないのだが、それはちょっと嫌なのだ。夢の中でも二人が出てきそうでなんだか恐ろしい……。
(二人のことが嫌いになったとかじゃないけれどただでさえ不眠症気味だから、何も考えずにぐっすり眠りたいんだよ!このままじゃあレム睡眠一直線だよ)
 このまま目を瞑っていても疲労を重ねるだけのような気がしたので、一度目を開く。
(ん……そこそこ人が乗っていたんだね。けれど……誰も私の前にはいないなぁ……なんでだろ)
 眼球だけを動かして車内を見渡すと、乗り込んだときと比べてつり革に掴まっている人が増えていた。しかし誰も未来の前に立っていないことに首を傾げながらモゾモゾと身じろぐ。
(ふむ、それにしても目を瞑っていても意識を手放そうとしても環と茉莉奈の顔を思い浮かべてしまうっていうのは、結構重症だよね。自覚していないだけで結構衝撃的な出来事だと私の脳は受け止めたんだな)
 色々と酷使したせいで痛みを訴えるこめかみをグリグリと押す。
(まぁ確かに衝撃的だったよね。……二人の言葉とか態度、行動からしてあれは……確実に友情以上のモノを感じたし)
 友達以上恋人未満という言葉がこの世には存在する。もちろん友達以上の想いを抱いているからといって必ずしも恋愛に繋がるとは限らないが、環と茉莉奈が未来に抱いている友達以上の想い……それが恋愛感情にしろ、家族愛に近いモノにしろ、強すぎる友愛にしろ、未来が環と茉莉奈に抱く気持ちとは大きな隔たりがあることは確かだ。
(私にとって環も茉莉奈も特別な存在だ。でもそれはあくまでも友
人としてだ)
 そう、未来が抱いているのはあくまでも友情。友愛だ。もしかしたら一般的な友情と比べると未来の想いも多少は重く、特殊なモノなのかもしれない。それでも未来が環と茉莉奈に向ける感情は友情に違いない。それは未来自身がはっきりと自覚しているし、環と茉莉奈も分かっている。分かっているのだが、環と茉莉奈は友情とは微妙に色の違う感情を未来に向け続けていた。その事実を今日、未来は二人から面と向かって伝えられてしまった。
(今まで私に気づかれない様に振る舞っていたから、二人があんなにも私を大切だと想ってくれているとは思わなかった。気持ちは本当に嬉しいけれど……一体どうしたら……)
 普段働かせない頭脳を酷使しているせいか、こめかみがさらに痛み出す。
(いや、どうしたら良いかなんて分かっているよ。分かっているけれど……その選択を二人が許してくれるとも思わないし、私だって本当ならそんなことしたくない……)
 痛む頭を抱え大きなため息をつく。隣に座っていた女性が不審そうに未来を見やるが、今の未来は周りに目を向けられるほどの余裕がなかった。
(……あーもう、あれもこれも私が迂闊に首を突っ込んだから……)
 後悔しても時間は巻き戻せないし、この問題に気づかずに卒業したところで良い結果が待っているとは限らないのでむしろ環と茉莉奈の想いに気づけて良かったのかもしれないけれど、やっぱり未来には荷が重い問題なことは確かだ。
(……二人の気持ちは嬉しい、私も二人を友人として愛している。でも、環と茉莉奈はどちらかを親友として選べっていうし……)
 真剣に未来の特別な存在になることを望む環と茉莉奈の瞳を思い出す。あの瞳には覚悟と未来への強い想い、僅かな恐れも見え隠れしていた。きっと二人も想いを拒否されることや未来が傍からいなくなることが怖いのだろう。だから今までその気持ちを私に悟られないように上手く「友人」を演じてきた。恐らく卒業まで演技を続けていくつもりだったに違いない。そんなところへ私が二人の問題に足を突っ込んだばかりに……。
(そりゃあ私にも責任があるよねぇ)
 強張っていた肩から力を抜き、車窓から見える真っ暗な街並みに目を向ける。
(環も茉莉奈も真剣だからね、私も真摯に向き合う義務があるよね)
 瞳の奥に燻る友情とは違う愛を隠し持っていた環と茉莉奈。未来はあのような瞳を見たのは実は初めてではない。友人と思っていた人が未来に友情ではない、ある特別な感情を抱いている瞳。
(……あれは高校生のときだったかな)
 あの時も未来の傍には二人の少女がいた。二人の少女は孤独だった未来を優しい心で受け入れてくれて、たっぷりと愛情を注いでくれた。お蔭で未来は毎日を笑顔で過ごせていた。
(……あんなことが起きるまではね……)
 脳裏に過る忌々しいあの事件。あんなことさえなければ、私が彼女たちを必要以上に信用しなければ、私がもっと強い心を持っていれば……。
(……もしかしたらまだ一緒にいられたかもしれないのに……)
 その時、当時親しかった二人の少女の姿が頭に浮かぶ。忘れていたはずなのに、なかったことにしてここまで生きてきたのに……ついぞ二人の姿も名前も思い出すことなんてなかったのに。どうして今、私は思い出してしまった?
 寒気がして思わず身体を震わせる。
(駄目だ、このことは思い出すな。忘れろ、忘れろ……)
 目を強く瞑り、爪が食い込むほどに掌を強く握りしめる。どこかに強い痛みを与えていないと過去の存在であるはずの二人の少女に引きずりこまれそうだった。

 なんとか忌まわしい思い出を記憶の片隅に追いやり、一息をつく。気づいたら額にはじっとりとした汗が流れていた。
(ふう……どうにも状況が似ているから思い出してしまったよ)
 そうなのだ、未来は過去にも今と同じような状況に身を置いた経験がある。高校生時代、未来が友人だと思い心から信頼していた少女が二人いた。未来は彼女たちと三人で清く正しい友情を育んでいった。しかしいつの間にか友人である少女たちは未来に……恋愛感情を抱いてしまったのだ。当時の未来はまだ幼かったこともあり上手く二人の気持ちを受け入れることが出来ずに、大切な二人との関係を最悪な結末に追いやってしまった過去がある。その出来事は未来にとっても、相手の少女たちにとっても辛く悲しい思い出でしかないので未来は出来るだけ思い出さない様に努めてきた。しかし今日、環と茉莉奈の想いを知ったことで、頑丈に縛り付けていた記憶の紐に綻びが出来てしまった。
(だって環と茉莉奈の二人……私の唯一の友人である二人が、私に友情以上の想いを抱くなんて……あの時と全く同じなんだもの)
 二度とあんな場面に遭遇するはずがないと心のどこかで期待していたが、運命のいたずらか未来はまたしてもこのような場面に直面することになってしまった。
(今度は逃げないよ。うん、逃げない……私だって成長したからね。でも……やっぱり怖いなぁ)
 あの出来事から数年の月日が経ち、未来は成長した。だから今度は逃げることはせずに真摯に相手と向き合うと決めていた。そして以前は戸惑いと自分の未熟ゆえに大切な友人たちを傷つけてしまった。きっと全く傷つかずにこの問題を終わらすことは不可能だろうが、傷を浅くすることは出来るはずだ。選択さえ間違えなければ未来も環も茉莉奈も……深い傷を心に負うことはない。だから今度こそ間違った選択をするわけにはいかない。
(環も茉莉奈も覚悟は決まっているのだから、私も覚悟しないとね)
 心の中で己に喝を入れ真っすぐに前を見据える。今は電車の中なのでしゃんと姿勢を正したところで視界に入るのは真っ暗な外の景色と、腕を組みながら舟をこいでいるおじさんサラリーマンの姿だけだが。
(……うん、私も心の準備は出来たよ。後は……環と茉莉奈が私に抱く想いが限りなく恋愛に近いモノだとしても、恋愛感情ではないことを祈ろう)
 別に同性愛に偏見もなければ、特別これといった感情も持ってはいないが恋愛感情は複雑だ。男女だろうが同性同士だろうが、恋愛感情というモノは道を誤ったら相手も自分も身を亡ぼしてしまうほどに恐ろしいモノなのだ。事実未来は恋愛感情を自分に抱いてしまったがゆえに破滅してしまった少女を二人も見てきたのだ。
(それほどまでに恋愛感情というモノは人を狂わせてしまう。もし環と茉莉奈が恋情を燃やして狂ってしまったら、私はどうしようも出来ない)
 未来の未知の領域である恋愛という感情。生まれてきてから友情、家族愛、隣人愛を抱きこそすれ、恋愛感情を抱いたことは一度だってなかった。そのため未来は恋愛に身を焦がす人の想いをくみ取ってやれないし、相手が望む幸せを与えることすら出来ない。
(もし恋愛感情に限りなく近いモノだとしても、友情の範疇に収められる想いならばまだなんとか出来る)
 脳内の何処かから環と茉莉奈は過去の少女二人と全く同じ瞳をしていたと、警笛を鳴らす音が聞こえるがまだ恐怖を克服出来ずにいる未来はそれから耳を閉ざす。
(大丈夫、きっと大丈夫。環と茉莉奈は決して綺麗ではない友情だとしても、私を友人だと認識してくれている間は大丈夫だ。……そう、友人として私が二人の中で存在している間に終わらせばいい)
 深呼吸をして目を閉じる。ガンガンと鳴り響く警笛を無視して、過去の少女たちと全く同じ瞳をしていた環と茉莉奈の姿を見なかったことにして……未来は最寄り駅に着くまで心を無にして電車の穏やかな揺れに身も心も任すことにした。



10


 心地の良い揺れを提供してくれていた電車が最寄り駅である「光明駅」に到着する。眠りの世界に片足を突っ込んでいた未来は光明駅に到着した旨を伝えるアナウンスに飛び起き、慌ただしく電車を降りる。ホームに飛び降りた瞬間ドアが閉まり、さきほどまで未来を乗せていた電車は次に停まる「和泉駅」に向かってスピードを上げあっという間に走り去っていった。
(間一髪……もうすぐで降り損ねるとこだった。いやぁ電車で眠るのは気持ちがよいけれど寝過ごしてしまう危険性があるのがどうにもいただけないねぇ)
 片手に引っ掴んだリュックを背負い、ホーム中央に位置するエスカレーターに向かって歩き出す。
(そうだ、今何時だ?)
 エスカレーターに乗る前に屋根からぶら下がっている時計に目をやる。
「うわ、もう八時か……」
 つい先日新調された、駅に備え付けられているLEDライトの光を反射してピカピカと光っているメタリックカラーが美しい時計が午後七時五十分を示していた。意外と遅くなってしまったことに驚き、思わず声が出てしまう。
(お腹空いたし早く帰ろっと)
 エスカレーターを降り、改札を抜けるともう八時だというのに光明駅の周りは意外と人で賑わっていた。
(あぁ時間帯的に晩ご飯とか?学生も社会人も多いな~)
 未来が小さかったころは光明駅周辺には何もなかったが、ここ数年で再開発が進みちょっとした商業施設や飲食店、コンビニや病院、マンションが増えたことですっかり栄えてしまった。自分が住んでいる地域が栄えることは良いことなのだが、こうも人が多いのは少しだけ息苦しい。
(あーもう、邪魔だなぁ)
 早く家に帰りたいのにフラフラと歩く人が邪魔で上手く前に進めない。
(……お酒くさい)
 居酒屋が賑わいだす夜。それに合わせて酔っ払いも街に放たれ、光明駅の周りは俄かに騒がしくなっていく。未来は個人的に酔っぱいが嫌いなので、そのような連中にぶつからないように上手く人の間をすり抜けていき、駅から離れていく。
(ふう、ここまで来たら静かだし人も少ないね)
 駅の喧騒から少し離れたらもうそこにはマンションと、診察を終えた人気のない病院しかない。ここまで酔っ払いたちが来ることはないだろうから一息つく。
「さて、早く家に帰ってご飯食べよう」
 リュックを背負いなおし家までの道のりを小走りで駆けていく。道中どこかの家から漂う美味しい匂いに後ろ髪を引かれながらも、未来は真っすぐに家を目指して走った。

 十五分ほどで自分が住むマンションに辿り着いた。一階の自動ドアを通り抜け、リュックから鍵を取り出しオートロックを解除して住民専用エリアロビーに入る。さっさとエレベーターに乗り込みたいところだったが、つい数分前に母から郵便ポストの確認をメールで頼まれたので渋々ながらポストが設置されている方へ向かう。
住民用ロビーの奥まった場所にマンション住人用のポストが設けられているので、そこまで歩いていき自分の部屋番号を探す。
「え~と、私の家は六階だからー………ここか」
 普段郵便ポストを確認するのは母親か父親の仕事だったので、不慣れな未来は自分の家の郵便ポストを見つけるのにすら苦心する。
「六〇三……六〇三……お、これかな?うん、これだな。よし開けよう……あーと、ロックナンバーなんだっけ?」
 ようやく我が家の郵便ポストを見つけたが、ロックナンバーが思い出せない。そういえば未来は半年近く郵便ポストを開けていないので、大事なロックナンバーを失念していても不思議ではなかった。全く思い出せないので放置して帰ろうかと思ったが、未来はなんだかんだ言って真面目なので頼まれた仕事は遂行しないと気が済まない。
(うーん、ロックナンバー……私の誕生日?……違う。お母さんの誕生日?これも違う)
 数分間郵便ポストと格闘するが一向に郵便ポストは扉を開いてくれない。いい加減やけくそになってきた未来は苛立ちながら郵便ポストを強めに叩く。
「あ、もしかして!結婚記念日?」
 娘の誕生日と名前は時折忘れてしまう母親だが、父と契りを交わした結婚記念日だけは忘れたことがない。それだけ大事な記念日なのだ。きっと結婚記念日の数字をダイヤルで回せば郵便ポストは開くはず。
 慎重にダイヤルを回す。すると……カチャリ。
「やった!」
 苦節数十分。未来はとうとう郵便ポストの解錠に成功した。推理ゲームを解いた後のような快感を胸に抱きながら郵便ポストの中身を覗き込む。
「……」
 夕刊や宅配ピザ、不動産のチラシぐらいは入っているだろうと思っていたが残念なことに何も投函されてはいなかった。夕刊がないのは意外だったが未来より先に帰宅した誰かがもう取り出した後なのだろう。
(なんだよぉ。夕刊取ったなら私がわざわざ郵便ポストに寄る必要なんてなかったじゃん)
 ロックナンバーを思い出せた快感は消え失せ、やるせない気持ちで胸がいっぱいになる。
(帰ろ)
 いつまでも項垂れていても仕方がないので、肩を落としたままエレベーターに乗り込み六階に向かう。
「貴重な時間を返せ、このやろー」
 六階に到着し扉が開く。ぶつくさ文句を垂れながら自宅の前まで歩き、鍵を開ける。
「ただいま~、ねぇ夕刊も何も入ってなかったよ。取ったなら取ったって教えてよー」
 帰宅したことを告げると同時に台所で夕飯の準備をしているはずの母に抗議の声をあげる。
「おかえり。あれ、チラシもなかった?そうだったの~ごめんね」
 未来の声に気づいた母が台所から顔をだし、簡単に謝る。
「チラシすらなかったよ。無駄足だったわ~」
 真剣には怒っていないがわざとふてくされた様な声を出す。
「まぁいいけど。夕ご飯もう食べられる?」
「もう出来てるよ、早く食べなさい」
「はーい」
 母に返事をすると、部屋に入り電気もつけずに机の上にリュックを放り投げる。後片付けは面倒くさいからご飯を食べ終わってからだ。リュックを放り投げると、暗闇の中で服を着替える。
「ん?」
 部屋着に着替え終え、洗濯物を掴んで部屋を出ようとすると足にふさふさとしたモノが触れる。暗闇の中で視認するのは難しいので何かが触れた足元へ腕を伸ばす。すると暖かくて柔らかい物体が掌に当たる。
「……あぁなんだ、スバルか」
 スバルは我が家で可愛がっている猫だ。性別は女だが、古風で尚且つ中性的な名前が好きな私のせいでなんとも逞しい名前をつけられた猫。しかし名前負けすることなく強く、頑丈に育った自慢の愛猫だ。
「スバルもご飯食べような」
 寝転んでいるスバルの頭を撫で、洗面所に向かう。洗濯機に洗濯物を投げ入れると適当に手も洗う。
「さーてご飯だー。っと、そうかスバルのご飯の準備もしないと」
 手を自然乾燥させながらリビングに行くとすでに母と父は晩ご飯を食べ始めていた。未来もさっそくご飯を食べようとするが後をついてきていたスバルを思い出し、台所に入る。
「今日は……これにしようか」
 チキン、マグロ、ベジタブル……多種多様な餌を吟味して今日はチキン味をやることに決める。最近肥満体型に近づきつつあるスバルの健康を考慮して、ダイエット効果がある餌だ。
 計りを棚から取り出し、その上にボウルを置いてスバルに与えてもよい適切な量を計算する。その間もスバルは足元で待ちきれないといった様子で鳴きながらウロウロしている。なんとも愛らしい。
「ほい、出来たよ。ほら、吐いたりしたら面倒だからゆっくり食べなよ」
 人語を理解出来るはずもないが、まるで我が子に語り掛けるように優しい声を出しながら未来はスバルに餌を与える。しかしさすがは獣といったところか、可愛らしい容姿とは裏腹にボウルがひっくり返るのではないかと心配になる勢いでがっつく。
「よし、じゃあ私も食べようかね。いただきます」
 スバルの餌遣りを終えた未来はようやっと食卓に腰を下ろした。
「あ、今日は鶏肉なんだ」
 偶然スバルのご飯とリンクしたことに思わず笑ってしまう。
「そうなのよ、いつも行っているスーパーで特売だったから買っちゃった」
「そうなんだ」
「おい、未来、そろそろお父さんにもただいまって言ったらどうだ?お父さんさっきからずっと待っているんだけど」
「それは失敬」
「相変わらずお父さんにはクールね~」
 いつも通りの家族団らんの時間。これだけは変わることのない大切なモノだと未来は思っている。未来が唯一失うことはないと信じている居場所。これからもずっとここだけは未来の傍から消えることはない。
(環と茉莉奈みたいに家の外で出会った人はなにがきっかけでいなくなるかは分からないから、私の場合は家族だけは大事にしないとな)
 どこか感傷的になりながら晩御飯を平らげる。

 ご飯を食べ終えると父はいつもスマホで心霊動画鑑賞タイムに入る。イヤホンを耳にはめてスマホを熱心に見つめる父はちょっとやそっとのことじゃあ反応を示さない。今日も真剣な表情で心霊動画を鑑賞している父を見て未来は欠伸をする。すると目ざとい母は未来の腕を掴み立ち上がらせる。
「なに?」
「なんだか疲れているみたいね。さっさとお風呂入って寝ちゃいなさい」
「え~……まだいいよ。明日は学校もバイトも休みだし」
「いいから!というか誰かがお風呂入ってくれないと後がつまっちゃうでしょう。お父さんは例のごとく最後に入るだろうし、お母さんは家計簿つけないといけないから」
「う~ん、分かったよ」
 渋々ながらも疲れているのは事実だったので未来は風呂に入ることにした。

 脱衣所に入り服を脱ぎ散らかすと、震える身体を腕で庇いながら浴室に入る。浴室に入った瞬間、真冬の厳しい寒さに凍えきっていた身体が溶けていく錯覚に陥る。
「はぁ~極楽極楽」
 女性らしい魅力のない薄い身体を湯船に浸からせながら未来は気持ちよさに思わず声をあげる。
(ふぅ、お風呂って入るまでは面倒くさいけど入ったら気持ちいいよね~。特に冬のお風呂は至高)
 肩まで湯船に浸かり、自分の身体を優しく包んでくれるお湯にだんだん瞼が下がってくる。
(駄目だ、ここで寝たら風邪引いちゃう……)
 もう少し極楽の湯を堪能したいところだが、このまま浸かっていると寝てしまいそうだったので早めにあがることにする。

 数十分後、身体も髪も洗い終わった未来はもう脱衣所にいた。短い髪についた水分を少しでも減らそうと犬のように頭を振り、さっきまで自分を温めてくれていたお湯が冷たい水に変わってしまう前にタオルで拭き取る。
「さっぱりした」
 冷えないようにしっかりと防寒が施された寝間着に着替え終えた未来は一度リビングに向かう。

「お風呂空いたよ」
 家計簿を広げて電卓を叩く母に声をかける。ついでに父は何をしているのかな?とソファに目をやると入浴前に見た姿と全く同じ姿勢で心霊動画にのめり込んでいた。
「あ、もうあがったの?あんた本当に早いわね。これぞまさしく烏の行水ってやつね」
「そういうことだね。んじゃ私は部屋に戻るわー」
 お風呂が空いた旨を伝え終えると未来は部屋に戻る。今度は電気をつけ、部屋に入る。放り投げたリュックを片付けようと机に視線をやるとスバルがそこにいた。気持ちよさそうにリュックを下敷きにして眠っている。
「スバル~邪魔だよ~。どいて」
 熟睡しているところを邪魔するのは忍びないが、猫は所詮どこでも寝られるし大した拘りは持っていないのだ。リュックから無理矢理どかしてもすぐに違うところで寝息をたてるはずさ。
「よいしょっと」
 伸びきっているスバルの脇の下に手を入れ持ち上げる。いつもなら暴れるがまだ夢の中なのか、大人しい。
「よし、君はここで大人しくしていなさい」
 スバルをクッションの上に寝ころばせる。勝手に抱っこされ、おまけに場所移動まで強要されたスバルは少しの間機嫌悪そうにあたりを見回していたが、クッションの感触が気持ちよいのだろう、すぐに眠ってしまった。
「さてさて、お片付けっと」
 スバルの抜け毛が僅かについてしまったリュックを軽くはたいてからチャックを開け、中に入っている荷物を取り出す。
「あ、このジュース……」
 奥底で横たわっていたペットボトルが手に当たり取り出すと、大学の最寄り駅で環に買ってもらったジュースが出てきた。あの時はキンキンに冷えていたが今はもう常温になってしまっている。
「しかもびしょびしょ」
 ペットボトルには水滴が纏わりついていてリュックの内側にも水滴がついてしまったのか、薄ら湿っている箇所がある。
「リュックはそう簡単に洗えないから……干すか」
 中に入っている荷物を全て取り出し、窓際にリュックを干す。明日には湿っている箇所も渇いているだろう。
 リュックを干し、散らかった荷物……文房具、タオル、ポーチ、定期券入れなどを所定の位置に片付ける。そうすると未来の部屋はすっかり綺麗な状態だ。もう寝る準備は整った。
(でも寝るにはまだ早いよね)
 環に買ってもらったジュースを片手に持ちながらチラリと本棚の上に飾ってあるデジタル時計に目をやる。ただいまの時刻は二十二時三十分。茉莉奈のバイトが終わるまで三十分もある。
「どうしようかな~。うーん……ゲームでもやるかぁ」
 二十三時までまだ時間に余裕はあるのでスマホを取り出し、最近やり込んでいるゲームアプリを起動させる。
「よし、茉莉奈がバイトを頑張っている間に私もゲーム頑張りますか!」
 気合を入れるためにすっかり温くなってしまったジュースを一気に飲み干し、空になったペットボトルをゴミ箱に投げ入れる。


「よし!余裕で勝てた!雑魚が私に勝とうだなんて二十レベル足りないんだよ!っと……ありゃ体力が尽きたか」
 しばらくゲームに熱中していたがゲーム内の体力がついに0になってしまった。体力回復アイテムを使おうかどうか悩んでいると、突然メッセージアプリの通知が届く。しかも差出人が茉莉奈からだったので慌ててゲームアプリを終了させる。
「……忘れてた!今何時?」
 茉莉奈のバイトが終わるころに連絡をしようと考えていたのに、ゲームに熱中しすぎていた未来はすっかり茉莉奈のことを忘れていた。起き上がりデジタル時計を見ると二十三時四十分と表示されていた。
「あちゃ~」
 思っていたより時間が過ぎていたことに驚き間抜けな声を出す。
(あ、でも茉莉奈から連絡してきてくれたから今連絡しても大丈夫ってことだよね?)
 未来の考えを読み取ったのか、茉莉奈から連絡をくれたことがちょっぴり嬉しくてさっそく茉莉奈とのトーク画面を開く。
『遅くにごめんね、まだ起きてるかな?ちょっと伝えたいことがあって……』
『バイトお疲れさま!起きてるよー。さっきまでゲームしてたぐらいだから!伝えたいことってなに?そうだ、私も茉莉奈に聞きたいことがあるから茉莉奈の話が終わったら少し時間くれる?』
 気心知れた仲だというのに、未だに夜遅い時間に連絡を寄越すときには丁寧に相手の立場にたった文章を打つ茉莉奈に感心する。一方で未来は砕けた文章で返信を打つ。
『もちろん。じゃあ私から話してもいいかな?』
『いいよー』
 それにしても茉莉奈は一体何を私に伝えたいのだろうか。……まさか卒業旅行の行き先?日程?いや、でもそれは環も交えて話し合わないと意味がない。
「なんだろう」
 茉莉奈がメッセージを送ってくるまでの間、暇な未来は目の前で規則正しく寝息を立てているスバルの頭を撫でる。もし暇つぶしとしてゲームを再開させたら一時間近く熱中してしまうのは明らかなので、メッセージが来るまではスバル弄りに専念することにした。
 しばらく待つとポンと間抜けな音を鳴り響かせるスマホが茉莉奈からメッセージが届いたことを知らせてくれる。
「さてさて?」
 トーク画面を開くと想像以上に長文メッセージが届いていた。
『実はバイトが終わってからすぐにね、由利ちゃんたちに連絡したの。……みんなと卒業旅行に行けなくなったって……。もちろんみんなからは質問攻めにあったし、由利ちゃんなんて環に振られて傷心中だったこともあってすごく取り乱していたけれど……。本当に由利ちゃんたには可愛そうなことをしたとは思っているけれど、もう自分に嘘をつきたくないの。皮肉なことに環の言葉でようやく目が覚めたの。私は環みたいに由利ちゃんたちを嫌ってはいないけれど、愛してはいないの。愛しているのは未来だけなの。なら私は未来にみんなとは違う愛情を注がないといけないでしょ。だからね、私は由利ちゃんたちとは卒業旅行に行かないって決めたの』
 茉莉奈からの長文メッセージを読み終えた未来は驚きと混乱で茫然とする。
(え……茉莉奈が由利さんたちとの卒業旅行をキャンセルして、私と環との卒業旅行だけ行くことにした?……あの、あの茉莉奈が急用でもないのに誰かとした約束を反故にするなんて……)
 未来が知っている茉莉奈という人間は、どうしても外せない急ぎの用が発生しない限りは誰かと一度した約束をなかったことにはしない。茉莉奈自身が乗り気ではない案件だとしても、交わした約束を取り消して相手を悲しませるような真似は絶対にしない。それなのに今、茉莉奈は由利さんたちが提案した卒業旅行を断っただって?そんなことがありえるのか、いくら私に執着しているからって、あの茉莉奈が……。
 未来は自分の知らなかった茉莉奈の一面に少しだけ恐怖する。
(……今までの自分を壊してでも私の特別になりたいの……?もしそうだとしたら危険だ)
 他人がつくりあげたイメージを忠実に守り続けてきた人が、ある日から誰かに特別な感情を抱いたことで今までのイメージを自ら壊し、周囲の人間との関わりを絶っていくことはなにか恐ろしいことが始まる前兆なのだ。少なくとも未来にとっては。
(いや、落ち着け。過去の経験と茉莉奈を重ね合わせてはいけない。茉莉奈は茉莉奈なんだから……。うん、ただ今回の選択がイレギュラーなだけ)
 困惑しきった頭では支離滅裂な文章を送りそうだったので、一先ず冷静になる。
『そっか。正直驚いたよ!まさか由利さんたちとの卒業旅行をキャンセルするなんて……。大丈夫だった?』
 戸惑いと茉莉奈の選択に必要以上に驚いてしまったことを悟られないようにいつも通りの文章を打つ。
『やっぱり驚くよね。私も自分の選択に驚いているもん。普段の私なら絶対に一度した約束をなかったことにしないもんね』
 茉莉奈自身も自分が「茉莉奈」らしくない選択をしたと気づいていたようだ。
『まぁ茉莉奈らしくはないかもね。でもそれは他人が勝手に思い描いているイメージなんだから気にする必要はないよ。あ、で……由利さんとかは納得してくれた?』
『それはもう荒れていたよ。そりゃそうだよね、大本命の環に誘いを断られて頼みの綱だった私までもが由利さんの誘いを断ったんだから』
『……大丈夫なの?わだかまりとか残っていない?』
『どうだろう、あるかもしれない。行けなくなったって伝えただけで理由は言っていないから』
(突然行けなくなったって……行けなくなった理由もなしにメッセージだけが来たら由利さんは納得しないだろうなぁ)
 自分が望む通りにコトが進まなくて苛立っている由利の姿が容易に想像つく。
(うーん、環みたいに嘘でもいいからみんなが納得する理由があればなぁ。完全に納得はしてくれなくても由利さんの癇癪だけは治めないと)
 好きな友人が二人も揃って卒業旅行に行かないことで傷心している由利の姿は想像するだけで愉快なので放置していても良いのだが、なんだか八つ当たりされそうな予感がするので茉莉奈に穏便に済ませるためのアドバイスを送る。
『理由もなく卒業旅行には行きませんってだけじゃあ由利さんもみんなも納得しないだろうから、環みたいにこれこれこういう用事が出来てしまったから行けなくなったって説明したら?』
『嘘をつくのは気が進まないけれどやっぱりそうした方がいいかな』
(嘘……なぁ)
 茉莉奈の言葉にちょっと安心する。茉莉奈が未来のアドバイスをあっさりと受け入れて躊躇なく、自分の都合のためだけに嘘をつくような人ではないと改めて実感したからだ。
(これも私が一方的に抱いている茉莉奈のイメージだけどね)
 茉莉奈自身が苦痛に感じている「優等生」というイメージを未来自身も抱いていることに苦笑する。これでは自分も茉莉奈を苦しめているその他大勢の人間と同じだ。
「ってそんなことはどうでもいいや。茉莉奈は私や環と違って上手く嘘をつけなさそうだなー」
 約束を反故にするための嘘なんて別に大したことではない。環のようにありもしない会社の研修があるから行けなくなったとか、家の都合とかでいいのだ。これくらいの嘘で閻魔大王は怒らない。多分ね。
『嘘には違いないけれど、嘘も方便っていうじゃん』
『……あまりその言葉は好きじゃないけれど、由利ちゃんたちのためでもあるのかな』
『そうだよ、このまま理由も説明されなかったらきっと由利さんたちは悲しい気持ちのままだよ。嘘でもいいから納得する理由を教えてあげたらみんなも安心するでしょ』
『分かった、ちょっと由利ちゃんたちに連絡してくる』
『了解、上手く誤魔化すんだよー』
『頑張ってみるね。そうだ、未来も私に何か話があるんだよね?』
 茉莉奈のメッセージで自分が茉莉奈に用事があったことを思い出す。
「そうだった、そうだった。あ~でももういいか」
 未来の用事はもう済んだのだ。
(茉莉奈が由利さんたち提案の卒業旅行にも行くなら、私たちの卒業旅行の日程とかの計画をいつ練ろうか?って質問するつもりだったけれど、茉莉奈が私たちとの卒業旅行にだけ行くことが決定したからねー)
 律儀な茉莉奈のために早めに返信文を送る。
『いや、それはもう済んだから大丈夫だよ。ほら、みんなが寝てしまわないうちに連絡してきなよ』
『そう?それなら私は少しだけ席を外すね』
『頑張ってねー。私はまだ起きているから報告待ってる』
『ありがとう、じゃあ後でね』
 それっきり茉莉奈からのメッセージは途絶える。今頃由利さんたちがいるグループトークに顔を出しているはずだ。
「上手く出来るといいね」
 茉莉奈からの報告を心待ちにしつつ、未来はまたゲームを開始する。

 茉莉奈が未来とのトークルームから退出してから一時間近く経過した。時刻は午前一時。もうすっかり夜中だ。
(茉莉奈からまだ連絡こないな~)
 由利たちと何か揉めているのかそれとも寝落ちしてしまったか。スマホゲームをプレイしながら茉莉奈は今頃どうしているかと思いを馳せる。
「もう一時間経つよね」
 バッテリーが二十パーセント以下になったので一度ゲームを中断して充電器に繋ぐ。充電しながらでもゲームをプレイしたいところだが、充電中にスマホのバッテリーを酷使させるゲームをプレイするのは良くないとこの前聞いたので我慢する。
「することなくなったな~。どうしよう、もう寝ちゃう?どうしようか、スバル」
 相変わらずクッションの上でだらしなく眠りこけている愛猫に話しかける。ゲームをプレイ出来ない今、暇つぶしの道具がない。本を読んでもいいが、読書は熱中しだしたら読み終えるまでやめられなくなるので駄目だ。音楽を聴くにしても未来はスマホのミュージックストリーミングサービスを利用しているので今は使用出来ない。
「あ~……寝よ!寝ている間に茉莉奈から連絡来ても明日の夕方までには返信したらいいでしょ」
 寝ると決めたら未来の行動は早かった。ゲームをプレイするのに邪魔な前髪を束ねていたクリップを外し、夜中に尿意で起きないようにトイレに向かう。用を足し終え部屋に戻ると、冬の独特の空気のせいでスッカリ乾燥してしまった唇に保湿用リップバームを塗り込む。いくらファッションや美容に疎くても未来だってれっきとした女性なのだ。これくらいのケアはやる。
「さて」
 お休みの準備は整った。明日は学校もバイトも何もないからアラームをセットする必要もない。いくらでも寝ていられる。なんて最高なんだ。
「よし、じゃあ寝るか!」
 ボスンと布団に身を投げ、クッションの上にいるスバルを撫でる。
「おやすみ、スバル……」
 リモコンを手にして電気を消す。瞬間、部屋は真っ暗になる。静寂と暗闇。安眠の必須条件だ。
 電気を消して数分後、未来はまだ眠りにつけていなかった。それは仕方がないことだった。未来は高校生のときに不眠症を患っており、今では大分ましになったがその時の後遺症か、はたまたまだ完治していないのか未来が完璧に寝付くには後数十分は必要だ。
(うーん、眠たいときはいいけれど今日は特別眠たくないからなぁ)
 目を瞑っていてもなかなか訪れない睡魔にイライラしてしまい無意味に寝返りを打つ。その時だった。スマホが光った。
「んあ?」
 暗闇の中に浮かび上がるスマホの液晶画面。目を瞑っていても天井を明るく照らすソレは無視出来ない。目を擦りながら未来はスマホに手を伸ばす。
「ん~、体力回復のお知らせかな」
 けだるげにスマホの液晶を確認するとゲームのお知らせではなく、茉莉奈からメッセージが届いていた。
「おっと」
 既にお休みモードだった脳内が覚醒していく。
(上手くいったか?)
 首尾が気になり布団から這い出た未来は手探りでリモコンを取り出し、電気を再び点ける。スバルが少し眩しそうに腕で顔を隠す。少しだけ可哀想に思えたが猫はいつでも、どこでも寝られる生き物だ。遠慮は無用ってもんだ。
「さてさて」
 まだ充電中だがゲームではなくメッセージアプリを起動するぐらいならそこまでバッテリーに負荷はかからないだろうと判断した未来は、茉莉奈からのメッセージを確認する。
『未来、起きてる?取りあえず伝えてきたよ。結果はまずまずかな』
『今起きた!結構時間かかったね、お疲れー。まずまずの結果ということは由利さんとかみんなを納得させられたの?』
『うーん、由利ちゃんは微妙かな。他の子たちは分かってくれたみたいだけど……由利ちゃんは完全に拗ねているね』
(拗ねている由利さんか……想像に難くない)
 どんな表情で拗ねているのかすぐに思い浮かべられる。でも由利の顔を思い出すだけで不愉快なので、すぐに頭から由利の姿を追い出す。
『由利さんは強敵だからねぇ。で?なんて言ったの?』
『えーとね、私の貧相な想像力ではいい案が浮かばなかったから、癪だけど環のアイデアを借りたよ』
(環のアイデア……)
『もしかして研修?』
『そう、環に続いて私も研修だとさすがに怪しいかなって思ったけれど時期的に現実味があるのはこれかなって』
「なるほどねぇ」
 まさか茉莉奈も環と同じく新入社員の研修を言い訳に使うとは。でも確かに今一番説得力がある用事は研修以外にない。もしかしたら変なところで勘の鋭い由利は何かしら察知しているかもしれないが、まぁいいか。
『それでその説明に由利さん以外のメンバーは納得してくれたんだね』
『うん、みんな残念がっていたけれど研修を嘘だとは思わなかったみたい』
 由利以外のメンバーを思い出す。由利といつも一緒にいる騒がしい栞。あの子は由利ほど粘着質ではないから、茉莉奈のいうことなら嘘な訳がないと無条件に信じたのだろう。次にさやか。あの子は天然で人を疑うことを知らないからこれ以上突っ込まれることはないはず。そして見た目はゆるふわ系女子なのに、誰よりもうるさくて下品な桐子。なんだかんだ言って桐子は未来の価値観にそぐわないだけで決して悪人ではないので茉莉奈の言い訳を追及することはないだろう。最後に……。
『由利さんは疑っているのかな、それともただ拗ねているだけかな』
『それは今のところは分からない。文章だけじゃあねぇ……。来週にまた学校で会うからその時に由利ちゃんが納得してくれたか分かるかどうかってところだね』
『そうだねぇ。まぁ取りあえずはみんなが納得する理由をでっち上げるのには成功したんだね』
『人聞きの悪い……でもそういうことになるよね』

「ふーん……ま、これで心置きなく?卒業旅行について話し合いが出来るってことだよね」
 茉莉奈からの報告を聞き終えた未来はそろそろ寝ようかと、別れの文章を打っていると茉莉奈からメッセージがくる。
『環にも伝えてくる』
「あ~そっか、まだ環には言ってなかったのか」
『はいよ~』
 適当な返事で茉莉奈を見送るとスマホを枕元に投げる。スマホが床と激突した音にスバルがビクリと身体を震わせる。
「ん~なんか目が覚めちゃったな。でもそろそろ寝ないとしんどいよなぁ」
 茉莉奈とメッセージのやり取りをしたお蔭ですっかり目が覚めてしまった。どうしたものかと腕を伸ばし、部屋を明るく照らすLEDライトを見つめる。その時スマホから間抜けな通知音が鳴り響く。
「ん?」
 今度こそゲームの体力回復のお知らせか。もしそうならもう一度体力が切れるまでゲームをプレイしてから寝ることにしてもいいかもしれないな。
 枕周辺に置いたはずのスマホを手探りで見つけ出し、通知を確認する。
「ん?あれ、茉莉奈……環に報告するっていうからてっきり二人きりのトークルームですると思っていたのに……こっちかぁ」
 未来に報告を済ませた茉莉奈は、環と二人きりのトークルームで報告をすると思っていたが違った。未来、環、茉莉奈の三人で構成されたグループトークで茉莉奈は由利たちとの卒業旅行をキャンセルしたことを報告していた。
『もう未来には報告したので環にも報告します。由利ちゃんたちの卒業旅行はお断りました』
「業務連絡みたい」
 環にあてたメッセージだからか、全く愛嬌のない文面だ。
 未来はさきほど茉莉奈から聞いたので返事をする必要はないかと思ったが、一応返事を送る。
『了解―。環も読んだら返事よろしくね』
 送信。するとすぐに既読が一つつく。タイミング的に環ではなく茉莉奈だな。
『わざわざ返信ありがとう、未来。環、そういうことだから。じゃあ』
(環への態度と私への態度が全然違うなぁ)
 未来と環への態度の違いが分かりやすくて思わず笑ってしまう。
「んー。私のメッセージにも既読は一つしかついてないから、環はもう寝ちゃったかな?茉莉奈も引っ込んだし、私も寝るかぁ」
 スマホを消し、また枕元にスマホを放り投げる。
「おやすみ、スバル」
 熟睡しているスバルの額を撫で、リモコンで部屋の電気を消す。明日になったら環から返信が来ているだろう。
(さて、私たちの卒業旅行は一体どういったモノになるのかな)
 目を閉じ、未来は深い眠りの世界へと意識を落とす。



11


 (誰かが私の名前を呼んでいる?)
 ふわふわと水に包まれているようなけだるい重みを身体に感じながら、未来は目を覚ます。
(……ここはどこ?)
 あたりは海の底のような、はたまた月が顔を出していない真夜中の森のように真っ暗だった。一寸先すら見通せないほどの暗闇。こんな墨をぶちまけたような暗闇に果たして誰かいるのか。そもそもなぜ未来はここにいるのか。
「……なんで私はこんなところにいるの?……こんな場所……知らない」
 全く目にしたことのない空間にいきなり放り出された未来は茫然と周囲を見渡す。どこを見ても闇、闇、闇。光はどこにも見当たらない、純粋な暗闇。前を向いているのか下を向いているのか分からなくなるほどの闇。しかし未来はこの状況を恐ろしいとは思わなかった。目を覚ますと知らない場所にいて、真っ暗闇で、未来しかいないという本来なら恐怖で叫びだしてもおかしくないはずなのにこれっぽっちも怖いとは思わない。
(……怖くはないけれどどうしようか)
 膝を抱えて蹲る。
(さっき誰かが私の名前を呼んでいたような気がするけれど、近くには誰もいない……あれは幻聴?というより私はなんでここに?)
 こんな人気もない、音もない、光もない場所にどうして自分がいるのか考えてみるが全く分からない。自分が直前まで何をしていたのか、自分が帰るべき場所すら分からない。
(どうしよう)
 途方に暮れた未来は膝を抱えたまま空を仰ぐ。といってもここが屋外なのか室内なのかは不明だ。
 しばらくそうしていると遠くから誰かの声が聞こえた、気がした。
「誰かいるの?」
 心持大きめな声を出す。しかし返事は返ってこない。静寂と闇が未来を包む。
(誰かいるのならここから脱出出来るヒントを貰えるかと思ったけれど……。誰もいないのか)
 やはりただの幻聴だったことに肩を落とし、項垂れる。別にこの暗闇で独りぼっちでも怖くはない。けれど異常な状況だということは分かる。だって私はここで目覚める前はどこで何をしていたのか、私が帰るべき場所がどこなのかも分かっていないがこの場所がおかしいことぐらい本能が見抜いている。
(……本当にどうしよう。えーと私は星野未来。家族は……スバルに母親に父親。そして……私は大学生だったかな)
 記憶喪失にでもなってしまったのかと思い、冷静に自分にまつわる事柄を頭の中で整理してみる。そうすると未来はだんだん気づいてしまった。同時に今更になって恐怖が足の先から這い上がって来た。
「……あれ?私……そうだ、茉莉奈とメッセージアプリでやりとりした後に寝たんだ。家で、スバルの傍で。……それならなんで私はこんなところにいるの?」
 ぼんやりとしていた記憶を鮮明に思い出した途端、未来は自分があまりにも現実離れした状況に置かれていることに漸く気づいた。
(どうしよう、どうしよう。ここはどこ?どうして自分の部屋で寝ていたはずなのにこんな所にいるの?嫌だ……怖い)
 ようやく訪れた恐怖に身を震わせる。どうすればよいのか、どうすれば元いた場所に戻れるのか、考えてみても分からない。恐怖と焦りで支配された未来はいてもたってもおられずに立ち上がり、闇雲に走り出す。すると今度こそ誰かが未来の名前を呼んだ。
「未来……」
 聞き間違いなんかではなく、ハッキリと聞こえた。未来は足を止めて周囲を見渡す。
「……誰?ねぇ誰かいるの?」
 未来の名を呼んだ姿なき人物に問いかけるが返事はない。
(一体なに?……それよりさっきの声……どこかで聞いたことがある)
 確かに聞き覚えがある声だった。か細く、弱弱しいけれど綺麗な声。未来はその声の持ち主を知っている。
(……玲奈にそっくりだ)
 玲奈、彼女は未来が高校生のときに仲の良かった数少ない友人の一人。今は……もう会うこともなければ、思い出すこともない、かつて友人だった彼女。そんな玲奈の声がなぜここで聞こえた?
「……」
 得体のしれない恐怖に立ち尽くしているとまた未来の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「未来?」
「……誰!」
 今度はさっき聞こえた声とは違い、凛とした声だった。
「ねぇ待ってよ、私……この声も知ってる」
 そうだ、知っている。この声は美琴だ。美琴、彼女も未来が高校生のときに仲が良く、いつも一緒にいた友人だった。美琴も玲奈と同じく大学生になった未来の近くにはいないはずなのに、お互いがお互いを忘れたはずなのにどうして今、美琴も玲奈も未来の名前を呼ぶのか。
「ねぇ……まさかとは思うけれどそこに……美琴と玲奈がいるの?いるなら返事をして。お願い、ここはどこなの?一体なにが起きているの?」
 非現実的なモノだらけのこの空間に嫌気が差してきた未来はここにいるはずの二人に問いかける。
(どうだ?)
 しばらくの間、しんと無音状態だったが彼方から足音が聞こえてきた。足音がする方向を静かにじっと見つめる。
 たっぷりと十分以上は待っただろうか、ついに足音の主たちは未来の前に姿を現した。
「……やっぱり……」
 暗闇から姿を出した人は未来の予想通り、美琴と玲奈だった。二人は懐かしい高校の制服を着ておりまるで未来の記憶からそっくりそのまま飛び出てきたようだった。
「未来、久しぶりだね」
「……美琴」
 美琴。彼女は高校生のときと全く同じ姿で未来に笑いかける。低い位置で括られたポニーテールを揺らし、特徴的な八重歯を覗かせた人懐っこい微笑み。間違いない、美琴だ。未来が知っている、覚えている美琴そのものだ。懐かしさと数年ぶりの再会に心が震える。その震えが果たして喜びか、恐怖なのかは未来にも分からなかったが。
 高校生の姿のまま少しも変わっていない美琴を見つめていると、玲奈が悲しい声で未来を呼ぶ。
「……未来、私もいるよ……。私のことも見てよ」
「あ、玲奈も……久しぶり、だね」
「うん、久しぶり……」
 玲奈、彼女も美琴と同じく高校生の姿のままだった。色素の薄い髪を震わせ、自信なさげに俯く姿。変わっていない。仕草も外見も服装も、未来は年相応に成長しているのに美琴も玲奈も成長している様子が見られない。
(これはおかしいぞ)
 未来と同じ年である二人が高校生の制服を着ていることも、外見に変化が見られないことも、真っ暗闇で現実離れした空間に未来たちがいることも……全てがおかしい。
(……まさかこれは夢?だってそうじゃないと辻褄が合わない。二人が……美琴は別としても玲奈が私の前に現れるはずがない。それにこの場所……こんな真っ暗で何もない世界が現実に存在するわけがない。きっとこれは私の深層心理が夢に反映されたんだ。でも……夢のはずなのにやけにリアルだ)
 夢にしてはあまりにもリアルな感覚に眩暈を覚え、ふらつく。すると美琴と玲奈が慌てて未来の元に駆け寄り、心配そうに手を伸ばしてくる。
「大丈夫?しんどいなら座ろう、ほら」
「……未来、辛いの?安心して……私がいるから」
「違う……違うよ。おかしい、こんなのおかしいよ。これは夢だ、夢なんだ!私は悪夢を見ているんだ!」
 この場にいるはずのない美琴と玲奈の幻影に叫ぶ。するとさきほどまで未来を愛おし気に見つめていた二人の瞳が瞬時に凍り付く。
(やめろ……やめてくれ。夢の中でまでそんな瞳を私に向けないで)
 未来を見つめる熱がこもった瞳も、未来を責めるような冷え切った瞳も嫌いだ。私はずっとこの瞳を忘れるために二人の存在をなかったことにしてきた。だから美琴も玲奈も私を忘れてほしい。それがどんなに身勝手な願いか分かっている、でもそうでもしないと耐えられないのだ。
「……お願い、私をそんな目で見ないで。もう、やめて……早く、早くこの悪夢から目覚めさせてよ」
 視線から逃れるために二人に背を向け蹲る。
(リアルな夢を見ているだけだ。早く、早く、目を覚ませ!)
 恐怖に身を震わせていると後ろから優しい声が聞こえた。
「未来?悪夢って何を言っているの?私たち、こんなに毎日が楽しいのに!」
「そうだよ……突然どうしたの?……こっちを向いてよ」
「?」
 なにやら様子がおかしい。二人の様子もおかしいが、未来たちを囲む雰囲気も少しだけ変化したような気がする。
 恐る恐る顔を上げ、後ろを振り返るとそこにはさらに信じられない光景が広がっていた。
「嘘、ここって……」
 真っ暗闇だったはずなのに、未来の目の前にはどこまでも続く青い空に、懐かしい制服を着た学生たちが笑い合う姿と母校があった。
「なんで、どうして?ここは私が通っていた高校じゃないか……」
 幸せな思い出も辛い思い出もつまった我が母校。それがどうして、目の前に。
 茫然と眼前に広がる光景を見つめていると、美琴と玲奈が未来の手を引き歩き出す。
「ちょっと待って!なんで?いや、分かっているよ。これは夢だ、夢だから……別に焦る必要はないよ、落ち着いて自分」
「未来ってばさっきから何を言っているの?早くしないと授業に遅れるよ」
「え?」
「……ほら、急ごう……?」
 二人に手を引かれたまま未来は校舎に向かって歩き出す。
(なんだろう違和感を覚える。夢なのに感触がある……。どういうこと?)
 土を踏みしめる感触、手から伝わる美琴と玲奈の体温に暑い日差しを受けてヒリヒリと痛む頬。全てがリアルで、まるで今、ここに生きているようだ。
(私はとっくの昔に高校を卒業して今は大学生だ……。それなのにどうして?なんだかまるで、こっちが現実で……あっちが夢みたいだ)
 ふわふわと水に揺蕩う藻のように二人に身を任せたまま教室に入り、元々そこにいることが正しいかのように自分の席に座る。
(あ、暗闇の中にいたときは部屋着だったのにいつの間にか制服に変わってる)
 自分の知らぬまに服が変わっていることに今更気づき、奇妙な感覚に陥る。
(この教室……ここが三年生のときに使用していた教室だ。ということは夢の中の私は三年生なのか)
 すでに朧げにしか覚えていないが、周囲を見渡してみる限りこの教室は未来が高校三年生の日々を送った教室に違いない。
(あ、あの子は確か田中さん?……あれ、あの子も……みんな知っている。あの頃と全く同じクラス構成だ……)
 クラスメイトも担任も全てが未来の記憶と一致している。未来が見ている夢なのだから当たり前かもしれないが、ここまでピタリと一致していてみんながそれぞれ活発に活動している姿を見ているとだんだんこれが夢だとは思えなくなってくる。
(私がおかしくなったのか?)
 自分の脳がおかしくなったのかと恐ろしくなった未来はじっと机を見つめる。
(早く、目を覚ませ)
 この奇妙な夢から解放されたくて必死に願うが、残酷にも夢はまだ続く。

 夢が始まってから恐らく数時間が経ったが、未来はまだ目を覚ませていない。
(日常だ……。私が送ってきた平凡な日常が繰り返されている)
 自分の席に座りなぜこんなことになってしまったのかと思い悩んでいる間に授業が始まり、気づいたら昼休みになっていた。あまりにも平穏で平凡な時間が流れている。しかも夢なら多少は突拍子もないことが発生したり、未来の記憶にはない行動を起こしたりする人がいてもおかしくないのに全てが未来の記憶と同じだった。先生の言葉もクラスメイトの言動も、美琴と玲奈も、みんな、みんな、数年前と同じ日常をなぞっている。
(なんて奇妙な夢なんだ。夢なら同じ日々を辿る必要なんてないのに。これじゃあ現実みたいじゃないか)
 夢と現実の境目があやふやになってきたころ、再び美琴と玲奈が未来の前に現れた。
「ねぇ、お昼食べよ!」
「……ほら、今日も私が、未来のお弁当を作ってきたよ……」
「ありがとう……」
 あぁそういえばそうだったなぁ。いつもお昼は三人で食べていたっけ。毎日コンビニ弁当を食べている私を心配して料理が得意な玲奈がお弁当を作ってくれていたね。
 玲奈からお弁当を受け取り、無言で青色のお弁当箱を見つめる。なぜだが分からないが胸が張り裂けそうだ。
(そっか、幸せだったんだ、あの頃の私は。今、見ているこの夢は私がまだ幸せだった日常をなぞっているんだ。美琴も玲奈も……私もまだ誰も傷ついていない平和な毎日。私が永遠に大事にしたいと願ったモノたち。そう、本当に毎日が幸せだった……だから私はこんな夢を見ているんだ)
 無言でお弁当箱を見つめる未来に二人が訝し気に声をかけてくる。
「いきなり黙りこくってどうしたの?」
「……私がつくったお弁当、いらない……?」
「いや、そうじゃない!玲奈がつくってくれるお弁当はいつも美味しいから嬉しいよ。そうじゃなくて、なんか……ううん、なんでもないや」
(これは夢だよね?なんて聞けるわけがない)
 なんとか誤魔化してお弁当に箸をつける。
(玲奈のお弁当か……久しぶりだなぁ)
 果たして夢の中でも味が分かるのかどうか怪しかったが、卵焼を口に運び入れた途端、口内に卵焼き独特の甘い味が広がる。
(……美味しいけれど、どうして?)
 数年ぶりに食べる玲奈のお弁当に舌鼓を打ちつつも未来は不安で堪らなかった。二度とこの夢から醒めなかったらどうしようと……。いくら幸せだった頃の夢だと言ってもいつまでもこの空間にはいたくない。打開策が全く浮かばないことが不安だが、そのうち目を覚ますはず。目を覚ましたら……環と茉莉奈に卒業旅行について連絡しよう。そう決心して未来は黙々と箸を進めた。

 昼休みが終わり午後の授業が始まった。案の定先生も、授業中に交わされる私語も未来の記憶通りだ。ずっとデジャヴを感じているようなどこか気味の悪い感覚を必死にやり過ごしているとようやく放課後を迎える。未来以外の生徒はいそいそと荷物を纏め終えると元気に教室を出ていく。しかし未来は椅子から立ち上がれずにいた。
(どうしたモノか……とうとう放課後になってしまった。家に帰らなければいけないけれど……夢の中の家に帰ってはいけない気がする。でもいつまでも教室にいても問題は解決しないよねえ)
 石像のように動かずにいたら美琴と玲奈が未来の元へやって来た。
「どうしたの?早く帰る準備しなよー」
「……今日の未来、なんか……変」
「ん?まぁ変かもしれないね」
 そもそも変なのはこの空間なのだから。でもそれを二人に伝えたところで事態は好転しないだろう。未来は大人しく席を立ち、二人と共に校舎を出る。
 校舎を出ると運動部が校庭で爽やかな汗を流していた。響き渡る掛け声、夕日が赤く照らす青春を謳歌している学生たちの姿。全てが幻のようにキラキラと輝いている。
(……幻だけどね)
 かつて存在していた、今では幻影にすぎない姿を後目に校門を目指して歩く。しかし校門に一歩、また一歩近づくと未来はあることに気づいた。
(……?なにあれ)
 未来の数メートル先に校門はあった。校門自体は未来の記憶と寸分違わない姿かたちをしていたが、校門の先、つまりそこから繋がっているはずの外の景色に違和感を抱く。
(……真っ暗だ)
 ぽっかりと口を開けた校門の先はブラックホールのように真っ暗闇だった。未来が夢の始まりにいた空間と瓜二つの暗闇。一寸先も見えないほどの暗闇が、未来たちが校門をくぐる時を今か今かと待ち構えていた。
(どうしようか、あの暗闇の向こうに行けば目を覚ますか?それとも……)
 立ち止まり、暗闇を睨みながら考える。そこで未来は美琴と玲奈の反応を確かめてみることにした。月が顔を出していない夜よりも、墨汁で塗りつぶした色よりも暗い、闇が二人にも見えているのかどうか。
「ねぇ、ちょっと校門から向こう……おかしくない?」
 そう言ってからやっと気づいた。未来を導くように先を歩いていた二人がいつの間にか背後に回っていたのだ。しかも心なしか二人はなにかに怯えるように未来の制服の裾を掴んでいる。
「あれ、いつの間に……いや、今はどうでもいいか。そんなに怯えてどうしたの?」
「あれは駄目だよ、駄目なんだ。あそこに行ったら二度と戻れなくなっちゃう。だから、行っちゃ駄目だよ!」
 真っすぐに暗闇を見つめたまま美琴が震える声で答える。この怯え方から考えるとどうやら美琴はあの暗闇が一体どういう存在なのか理解しているようだ。
(聞いたら素直に教えてくれるだろうか)
 美琴にあの暗闇は一体何なのか尋ねようと口を開いた瞬間、玲奈が未来の腕を強く引っ張る。
「うわ!突然なに?」
「やめて……!やめてよ、未来……!お願いだからそっちには行かないで……ずっとここにいて……!」
 玲奈はそのまま未来に縋り付いたまま地べたに膝をつける。
「ちょっと!何してるの?」
 あまりにも異様な行動に驚き、慌てて玲奈の肩を掴み立ち上がらせる。
「……駄目なの、未来はそっちに行ったら……駄目なの……」
「一体なにが駄目なの?どうして私はそっちに行ったら駄目なの?ねぇ、教えてよ」
 静かに肩を震わせる玲奈に問いかけるが返事はない。
(一体どうなっているの……)
 玲奈の背中をさすりながら二人が異常に怯えている暗闇を見つめる。暗闇はずっと未来たちを待っている。
(……もう意味が分からない……でも、私があそこに行ってはいけないって……)
 二人がなぜそこまであの暗闇を怖がるのか知りたくなり、おもむろに校門に近づいてみる。
「未来、駄目!戻ってきて!」
「……お願い……そっちに行かないで……」
 二人の悲痛な叫びを無視して未来は一歩、また一歩、校門に近づく。もう手を伸ばせば暗闇に飲みこまれてしまいそうな程の距離まで来た。それでも未来はこれっぽっちも怖いとは思わない。
(ここに来る前にいた空間を思い出すなぁ。あの時は徐々に異様な状況だと理解するにつれて怖くなっていったけれど、この闇は大丈夫そうだ)
 この暗闇は自分には無害だと判断した未来はそっと腕を伸ばし、暗闇に触れようとした。その瞬間、美琴と玲奈がこの世のモノとは思えない声で叫ぶ。
「なに……!?」
 あまりに恐ろしい声で叫ぶものだから、未来は本当に吃驚して後ろを振り向いた。そうすると美琴と玲奈がまるで鬼女のような鋭い目つきで未来を睨んでいる姿が目に飛び込んでくる。二人の豹変に未来は心底恐怖し、身体が氷のように固まってしまう。
(……なに、これ。美琴も玲奈も……人とは思えないほどに恐ろしい形相に……。どうして?私、また何かした?)
 旧友の凄まじい表情に慄きながらも勇気を振り絞り、問いかける。
「ど……どうしたの、もしかして怒ってる……の?そうなの?えっと……ごめん。私がなにかしたなら謝るよ。だから……ねぇ、そんな顔しないでよ」
 本当に美琴と玲奈の顔が恐ろしくて仕方がなくて、声が震えてしまう。おかしい、どうして私はたかが夢の中に存在している二人に怯えているのか。
 二人は未来を睨んだまま、何事かを呟く。
「また未来は逃げるつもりなの?そっちに行くってことは私たちを捨てて新しい世界に逃げるってことだよ。ねぇ、未来はまた私たちを置いていくの?」
「……美琴」
 美琴の言葉に未来の心がズキリと痛む。
(やめてよ、そんなの……もう終わったことじゃないか。どうして夢の中でまで私を責め続けるの……。それに今更じゃないか……いい加減こんな忌々しい過去なんて捨ててしまえばいいのに……!)
 もう何も聞きたくなくて耳を塞ぎ二人に背を向けるが、玲奈が追い打ちをかけるように未来に言葉を投げかける。
「……私たちはずっと未来と一緒にいたかったの……。でもその願いは叶わなかった。だから、今度こそは私たちの傍にいてよ……お願い……」
「……やめてよ……」
 もう耐えられない。高校を卒業してから数年の歳月が過ぎてもずっと未来を苦しめる思い出たち。大学という新しい世界に逃げ込んでからはついぞ思い出すこともなかった忌々しい記憶たち。それがなぜ今になって夢の中にまで現れて未来を苦しめるのか。
「……私だって、私だって……辛いんだよ。もう許してよ……」
 何も聞こえないように、聞かない様に耳を塞ぎ、蹲る。一刻も早くこの悪夢から解放されたい。必死で夢から覚めるように祈っているとふいにある人たちの顔が頭を過る。
「……環、茉莉奈……」
 ぼそりと今の未来にとって大切な友人たちの名を口にすると、背後にいる美琴と玲奈が動揺していることがなんとなくだが伝わって来た。
「未来?どうして今その名前を口にしたの?駄目だよ、未来は私たちと一緒にいるんだから」
「……未来はどこにも行かないよね?ねぇ、ずっと一緒だよね……?」
「……違う!二人のことは確かに好きだったよ……でも、友人関係を壊したのは美琴と玲奈じゃないか!もう、もう……私を苦しませないで……。今の私にはあなた達とは別に、大切な存在がいるの!」
 未来はそう言うや否や立ち上がると、目の前に迫る暗闇に向かって大きく足を踏み出した。きっとこのブラックホールのような空間を乗り越えれば夢から覚めると思っての行動だった。
「……待って!未来、せめてこれだけは持っていて……」
 あと一歩で暗闇に飲みこまれるといったときに玲奈が走り寄ってきて、何かを手に握らせる。薄い髪の様な、埃のような……まるで重みのないモノが一体何なのか気になって手を開いて確認してみると、そこにはキヅタの花があった。
(……これはキヅタの花だったか?どうしてこんなモノ……)
 お世辞にも華やかさを持ち合わせていないキヅタをなぜ玲奈が未来に渡したのか不可解だった。
 不思議そうに眉を顰めている未来の表情を見て玲奈は寂しそうに笑う。
「未来、花言葉って一つの花に何個もあるの……。いい意味もあれば、悪い意味……怖い花言葉だってあるの……。このキヅタの花にはね、誠実って花言葉が……あるのだけれど、私が未来に贈りたい言葉はもう一つの意味の方なの……」
 じっと掌に鎮座するキヅタの花を凝視する。未来はこの花を見るのが二度目な気がする。そしてキヅタのもう一つの花言葉もすでに知っている気もした。
「……私が未来に贈る花言葉は……」
 玲奈のゆっくりと動く口元を見ながら、未来もつられて口を開く。
「「死んでも離れない」」
 未来と玲奈は同じ花言葉を口にした。やはり未来は知っていたのだ。この花が持つ恐ろしい花言葉を、この花を玲奈から受け取るのが二度目だということを。
「……なんだ、未来も覚えていてくれたんだね……」
「覚えていたって……」
 玲奈の含みのある言い方が気になり顔を上げると、玲奈は目に薄らと涙の膜を張りながら微笑んでいた。
「……私が未来に贈った最期のプレゼントだった、よね……」
「最期って……そうか……そうだったね」
 玲奈が言わんとすることがようやく分かった未来は掌にあるキヅタの花が恐ろしくて堪らなくなった。
『死んでも離れない』
 玲奈は最期に花言葉を通じて未来に想いを伝えたのだ。それはあまりにも純粋で、あまりにも狂気じみた愛。
(あぁすっかり忘れていたはずなのに……ついに二回もキヅタの花を受け取ってしまったよ)
 恐怖と絶望でだんだん意識が朦朧としてきた。ふと足元を見ると闇が未来を飲みこむように纏わりついていた。
(やっと……悪夢から解放される)
 薄れゆく意識の中、美琴と玲奈に目をやると二人は鬼女のような顔とも、昔見ていた年相応な可愛らしい笑顔とも違う形容しがたいなんともいえない悲しい表情をしていた。
(……そんな顔をさせたいわけじゃなかったのに……。でも過去は変えられないから、ごめんね)
 ついに視界が真っ暗になり、未来は闇に取り込まれた。もう何も見えなくなっても未来の脳裏にはいつまでも二人の姿とキヅタの花が見えていた。

 水中に沈んでいた身体がゆっくりと引き上げられるような感覚と共に未来は目を覚ました。視線の先にはLEDライトと小さい頃から何度洗っても落ちない天井についたシミの見慣れた光景があった。どうやら未来は長い、長い悪夢からやっと目を覚ませたようだ。
「……ふぅ」
 ノロノロと身を起こすと深いため息をつく。片膝を立て、酷い寝癖がついてしまった前髪をくしゃりと握る。未来は寝起きだというのにすでに疲れ切ってしまっていた。確実にあの夢が原因だろう。
「……はぁ~……。嫌な夢見たなぁ」
 夢と言うにはあまりにもリアルで、未来自身が夢だと自覚し、自分の意思で動けていたことが不可解だったが深く考えないことにする。
(……二人から逃げて、知り合いも誰もいない環境に飛び込んですっかりあの出来事はなかったことに出来たと思っていたのに……どうして今更思い出すかな~)
 こんがらがる脳内とモヤモヤとした不快感を紛らわせるようにグシャグシャと髪の毛を乱す。そしてさっきまで見ていた夢について考える。
(……美琴と玲奈……。美琴とは高校を卒業してから全く連絡もとっていないし、玲奈に至っては二度と会えないっていうのに、なんで今の今になって……)
 夢の中に出てきた二人の少女、美琴と玲奈。彼女たちは未来が高校生のときにとても仲の良かった友人だ。何をするにも一緒、どこへ行くにも三人一緒で本当に仲が良かった。幼いころから孤独だった未来を受け入れてくれて、友人として惜しみない愛を与えてくれた美琴と玲奈。この関係は永遠に続くものだとばかり思っていたが、高校三年生のときに未来たちの友情はあっけなく潰えてしまった。
(……あれは優柔不断で弱虫な私にも責任はあったかもしれないけれど、きっと誰も悪くはなかった。唯一悪かったところを挙げるならば……二人が友人以上の関係を私に求めたことだよ)
 夢のせいで辛い過去を思い出してしまった未来は頭を抱えたまま、また深いため息をつく。今日が学校もバイトも何もない日で良かったと心底思う。きっとこの調子じゃなにをやっても失敗しかしなさそうだ。
(……いつまでも夢のことを、美琴と玲奈のことを考えていたらもっとしんどくなるだけだよね。余計なことを考えないようにしよう)
 そう決めると未来は布団から這い上がり、大きく伸びをする。なんとなく足元に目をやるとスバルが寝る前と同じ位置でスヤスヤと寝息を立てていた。
「こいつはいつまで寝ているんだ!」
 スバルの鼻を撫でながらデジタル時計を見る。するとすでに十一時をまわっていた。あと三十分も経てばお昼ご飯の時間だ。
「そんなに寝てたのか~。うーん、どうしよう。早いけれどお昼食べようかな」
 寝癖がついた髪を揺らしながら洗面所で顔を洗い、つい数十分前まで寝転んでいた布団を細い腕で抱えて押入れに詰め込む。そして次に台所に向かい、何か食べるモノがないか物色する。
「あ、焼きそばあった。これにしよ」
 紙袋の中にカップ焼きそばがあったのでそれを食べることに決めた。お湯を沸かし、三分待った後に出来上がった焼きそばを持ったままリビングに移動する。壁にかけられたアンティーク調の時計を見ると時刻は十一時半になったばかりだった。
「少し、いやかなり早いけれどいただきまーす」
 テレビも点けずに、スマホも弄らずにただ無心で焼きそばを食す。出来るだけ何も考えない様に、数年前と夢の中で玲奈がくれたキヅタの花が脳内に浮かびそうになっても必死で無心を貫いた。
「はー、ごちそうさま」
 無の心で焼きそばを食べ終えると台所に戻り、容器をゴミ箱に放り投げ箸を適当に水で洗い、元あった場所に片付ける。
(……暇だ)
 空腹を満たした未来は手持ち無沙汰だった。何かをやるにしても卒論はとっくの昔に終わらしているし、近々控えている資格試験もないので未来は暇だった。読書をするにしても今は雑念が多すぎて集中出来なさそうだ。
「……うーん、これはゲームしかないね」
 一旦部屋に戻りスマホを持ってくる。その時なぜかスバルも未来の後をついてきたが放置しておく。
 リビングに戻った未来はソファにダイブし、ゲームアプリを起動させる。
「今日は何も考えないでゲームだけをする日にしよう」
 そう宣言すると未来はソファの空いているスペースに入り込んできたスバルを抱き込み、ゲームに集中する。

 数時間後、スマホのゲームアプリをプレイし尽し、家庭用ゲーム機でも思う存分ゲームを堪能した未来はぼんやりとソファに座っていた。時刻は十六時二十分。既に日が傾き始めている。
「……眠い」
 長時間ゲームをプレイし続けた未来は眠気に襲われていた。スマホのゲームアプリの体力が回復するにはまだ時間がかかるし、家庭用ゲーム機の方は全てのステージをクリアしてしまったのでやることがなくなってしまった。やることがないなら寝てしまえばよいのだが、この時間に寝てしまえば夜に眠れられなくなってしまう危険性があるので、ここで寝るわけにはいかなかった。それに今朝見た悪夢をまだ引きずってしまっている。またあんな夢を見てしまったらどうしようと不安で瞼を閉じられずにいるのだ。
「……はぁ、駄目だ。やっぱりいつまでもグルグルと考えちゃう……」
 額に手を当て天井を仰ぐ。ゲームをしている間は考えなくてもすんだが、やることが無くなってしまうと途端に今日の夢について、美琴と玲奈について、キヅタの花言葉について考えてしまう。
(本当……美琴と玲奈の夢を今になって見るってことは……きっと状況があの時と似ているからだよね)
 美琴と玲奈みたいに……友人二人が未来に友情以上の感情を抱き、どちらかを選べと選択を迫るという状況。まさしくそれは今の未来と環と茉莉奈の関係そのものだ。
(細かいところは違うけれどほぼ同じ状況だよね。……だから美琴と玲奈のことを思い出してしまったんだろうなぁ)
 高校生のときの未来と今の未来はほとんど同じ状況に立たされていた。二度とこんな思いをしたくない、させたくないと強く願ったのにまさか、二度があるとは。自分の運のなさを呪うと同時に未来自身の人間関係の築き方にも問題があるのではないかと考えてしまう。
(昔からどういうわけか、あまり他人に好かれる性格ではなかった。そのことに幼いうちに気づいた私は積極的に誰かと仲良くしようはしなかった。だからといって極端に他人と距離を置いたり、人見知りになったりはしなかった。ただ深い付き合いを避けてきただけ……。ノリが悪いとか言われたこともないし、無口だとか言われたこともないのに)
 いつどこで、自分は人との付き合い方を間違ってしまったのか。これといって問題は見つからない。もちろん万人受けしない性格を持ち合わせていることはよくないことだったかもしれないが、そのことが原因で誰かの目の敵にされた経験はない。嫌がらせの被害にあったことは何度かあるが思い詰めるほど他人の悪意に触れたこともまだ、ない。
(もちろん誰からも好かれる人と自分を比べて落ち込んだことはあるけれど……)
 はぁと深いため息をつく。
「……今度こそはずっと一緒にいられる友人が出来たと思ったのになぁ」
 ぼそりと漏れた声は思いの外切なく、今にも泣きそうなほどにか細かった。
  一体どれほどの間物思いに耽っていたのか、気づいたら時刻は十八時を回っていた。真っ赤に染まっていた空はすっかり未来が夢で見た暗闇と同じ色を纏っていた。
「……もうこんな時間か」
 二時間近くも環と茉莉奈、かつての親友だった美琴と玲奈について考えに耽っていたことに驚き、ノロノロとソファから立ち上がり日が落ちた外を眺める。すると玄関から物音がした。物音に反応したスバルが玄関に向かって素早く駆けていく。未来がじっと玄関を見つめていると母と父がドアから顔を覗かせた。
「ただいま~、今日のご飯は焼き魚よー」
「ただいま。お、スバル、お出迎えか?可愛いな~」
「おかえり、お腹空いたよー。早くご飯!」
「あれ、未来ってば家にいたのね」
「そうだよ、今日はバイトも何もないって言ってあったよね」
「そうだったわね~」
 家族との他愛もない会話。今日見た夢と高校生のころと同じ状況に立たされてしまった未来は、こんな平凡な日常の一場面に今日も安堵する。
(……もし環と茉莉奈との関係が……あの頃のように壊れてしまっても私はまだ大丈夫。でも……)
 笑いながらこっそりと拳を握りしめる。
(もし、環と茉莉奈との関係が壊れてしまっても……今度はキヅタの花を彼女たちに近づかせはしない。悲しいことに玲奈はキヅタの花と出会ってしまったけれど、環と茉莉奈との関係はキヅタの花によって終わらせはしない)
 いつも通り「未来」らしい笑顔で家族と過ごす裏側で未来は強い覚悟を決めた。


 晩ご飯も食べ終え、入浴を済ませた未来は布団の中でまたゲームをしていた。只今の時刻は十一時半。明日はゼミがあるので夜更かしは出来ないのだが、十一時半はまだまだ夜更かしと言われる時間ではない。そのため未来は思う存分ゲームを楽しんでいた。
(あ、それはそうと環からの返信なかった……よね?)
 ゲームプレイ中に偶然環というユーザーネームを見つけ、昨夜茉莉奈がグループトークに送信したメッセージにまだ環からの返信が来ていなかったことをふいに思い出す。
「どれどれ?」
 ゲームアプリを終了させ、メッセージアプリを起動する。未来、環、茉莉奈の三人からなるグループトークの画面を開き環からの返信が来ているか確認してみるが、案の定まだ返信は来ていなかった。しかも既読すらついていなかった。
(私が送ったメッセージにも既読がついていない……。どうしたのかな?)
 メッセージアプリの不具合で環に通知が行っていないのか、はたまた用事が立て込んでいて新着メッセージを確認出来ていないのか。
(うーん、返信を催促するのは鬱陶しいよねぇ)
 茉莉奈が由利たちとの卒業旅行をキャンセルしたという、なかなか重大な知らせをまだ環が知っていないのかと思うとなんともいえない気持ちになるが、返信を催促するメッセージを送るのは憚られる。
(……そのうち気づくよね!それに明日学校で会うしね)
 まだメッセージを確認していないのなら、明日学校で教えればいい。そう判断した未来は今一度ゲームアプリを起動させる。だが、ローディング中に新しいメッセージを受信したことを伝える通知が届く。
「おや?」
 もしかしたら環からかもしれない。そう思った未来はせっかくローディングが終わり、タイトル画面まで進んだゲームを終了してメッセージアプリを開く。
 メッセージアプリを開き、新規メッセージを確認するとやはり環からだった。さっそくメッセージを確認してみる。
『……どういうこと。未来は納得しているみたいだけど、私は納得していないよ』
「……」
 文面から溢れ出る怒りのオーラ。なぜ環が怒っているのかは不明だが、茉莉奈が導き出した答えに不服なのかもしれない。このまま未来が何のフォローも入れなかったら環と茉莉奈の話し合い……もとい喧嘩が始まってしまうことは必至だ。未来は慌ててメッセージを送る。
『やほー、環。やっとメッセージ読んでくれたね。えーと、取りあえず……なんていえばいいのかな。うん、あまり茉莉奈に対して好戦的な態度を取らないでね』
(……)
 送信してから自分が打ったメッセージを冷静に読んでみるが全くフォローになっていなかった。
(好戦的な態度を取らないでねって……!駄目だ!環と茉莉奈の闘争心に火をつけてしまうだけだ!)
 せっかく苛立っている様子の環を宥めようと送ったメッセージが逆に環の機嫌を損ねてしまう可能性が高いことに気づいた未来は動揺する。なんとか上手く環を鎮める言葉がないかと、忙しなくスマホをタップしている間に、未来が送ったメッセージに既読が二つついた。
『環に納得してもらう必要はないからね。事後報告だよ、報告。環はただ分かったとだけ言えばいいのに……』
「火に油だ……」
 環以上に好戦的な茉莉奈に思わず目を覆う。
(吹っ切れた茉莉奈はもしかしたら……環よりも厄介かもしれないなぁ)
 目を覆い、つい先日まで環と張り合う真似なんてしなかった茉莉奈を思い出す。きっとその時も心の中では環に対して悪態をついていたのだろうが、その毒々しい感情が表面化されるとこうも恐ろしいモノだとは。
『茉莉奈、うるさい。どうして急に由利たちとの卒業旅行をキャンセルしたわけ?茉莉奈らしくないじゃない』
『私らしくないって……まるで私のことを全て分かっているみたいな言い方だね』
『誰が茉莉奈のことを分かっているって?気持ち悪いこと言わないで。私は茉莉奈に興味はないから』
『そっくりそのまま返すよ。とにかく、私は由利ちゃんたちとは卒業旅行には行かないから。これはもう決定したことだから』
「……」
 スマホ上で交わされる環と茉莉奈の言葉の応酬を未来は黙って見ていた。下手になにか発言すると二人の逆鱗に触れてしまう可能性があるので迂闊に口を挟めない。だからといってこのまま放置していてはヒートアップしていくだけなので、そろそろなにか言わないといけない。
「うーん……どっちにしても明日は三人で会う予定があるからここらへんでストップさせないとな」
 明日は三人ともゼミしかなく、バイトも入っていないということなので学校でゆっくりと卒業旅行について話し合うことになっていたはずだ。それなのに環と茉莉奈の言葉での殴り合いを明日まで持ち込んでしまうと、未来がしんどい。いちいち二人の仲裁役はやりたくない。しかしどうしたら環と茉莉奈の言葉の殴り合いを止められるか……未来は悩む。残念なことに環と茉莉奈はかつての親友だった美琴と玲奈とは違って自己主張が強く、負けず嫌いな性格をしている。だからいくら二人にとって大事な存在である未来が「みんなで仲良くしよう」といっても自分が納得しない限りは己の主義主張を貫き通す。環がそういう性格だと初めから知ってはいたが、まさか茉莉奈も環と同じタイプの人間だとは思いもしなかった。もちろん茉莉奈は環よりも博愛精神が強いかもしれないが、根っこでは自分の主義主張を曲げない頑固な性格をしていたようだ。
(いやぁ、単純に私が人の本質を見抜く力がないってだけなのかもね。茉莉奈の見かけだけを見つめて、勝手にイメージをつくりだして……。そう考えると三人の中で一番辛い想いをしてきたのは茉莉奈なのかもしれないな)
 二人の終りの見えない言葉の応酬と、茉莉奈がずっと抱えていた本性をつい最近まで見抜くことの出来なかった自分に深いため息をつく。
(……さて、いい加減……)
 この間にも続く環と茉莉奈の言い争いを終わらすためにメッセージを打つ。
『喧嘩はひとまずストップ!明日会うんだからその時に落ち着いて話したらどうかな』
『……え?』
『仕方がないな。未来の言う通り明日ゼミが始まる前にでもしっかり、詳しく説明をしてもらうから、分かったね?茉莉奈』
『……分かったよ。じゃあまた明日ね、未来』
『うん、私と合流するまでに決着をつけといてね。じゃあおやすみ!』
『うん、おやすみ……未来』
 結果として環と茉莉奈の喧嘩を完全に止めさせることには失敗したような気がするが、よしとする。きっと顔が見えないから喧嘩が白熱しただけで、いざ直接話し合うときは環も茉莉奈も理知的な人間だから落ち着いて話し合いが出来るだろう。環と茉莉奈、表面上は真逆に位置する性格だが根底にあるモノはどうやら同じようなので、衝突しながらも分かり合えることの方が多いはずだ。
「……うん、もうメッセージ来ないから二人とも寝たかな」
 すっかり大人しくなったスマホを見て未来は安堵のため息をつく。
「さて、私も寝ようかな」
 時刻は十二時を少し回ったところ。ゼミは十時四十分から始まって家から大学までは約一時間ちょっとかかるので、寝坊するわけにはいかない。もし午後からなら多少寝坊しても間に合うかもしれないが、午前中に開講される授業は寝坊した瞬間から「死」しか待っていない。
「八時に起きれば間に合うけど……二度寝する危険性があるから七時四十五分にアラームセットしとこう」
 よく二度寝をしてしまう未来は起きる時間よりも早い時間にアラームをセットする。これで準備は完璧だ。後は二度寝したとしても八時には布団から起き上がり、九時には家を出られるようにすればいい。明日の自分が予定通りこなせることを願い、未来は布団に入る。
「スバル―、おやすみー」
 部屋にはいないが近くにいるかもしれない愛猫に挨拶をし、目を閉じる。実のところ今日もまた美琴と玲奈の夢を見てしまうのではないかと不安だったが、その心配はどうやらなさそうだった。
(だって、ずっと環と茉莉奈の姿が浮かんでいるから……)
 恐らく就寝前に環と茉莉奈とやり取りをしたお蔭で、未来の心を支配していた過去の存在たちが追い出されたみたいだ。今、未来の心を占めているのは環と茉莉奈だけ。辛い別れを経験した未来がその過去をなかったことにして出会った友人たち。とても、とても大切な二人。この大切な二人とは二度とあの時のように残酷で、苦しくて、悲しい別れ方だけはしたくない。だから、どうか分かってほしい。
(環、茉莉奈……。どうか、分かってね。私が望むこれからを、私たちがずっと幸せに過ごせる方法を……。例え一時は傷ついたとしても絶対にこれが最善な選択だから)



12


 ピピピ……ピピピ……。耳元でセットしていたスマホのアラームが鳴り響く。快適な眠りから無理矢理引きずり出された未来は不機嫌な表情のままアラームを止める。
「……二度寝してた……ということは三度寝しても大差ないよね……」
 スマホを握りしめながらまた船を漕ぎ出す。毎朝の恒例行事だ。一度はアラームをセットした時間に起きるがすぐにまた眠りにつく。そして十分後にもう一度鳴るように設定してあるアラームが作動すると、素早くアラームをオフにして三度目の眠りにつこうかどうか悩む。基本的に二回目のアラームが鳴るころには目も覚めつつあるのだが、異様に眠たい日や寝不足な日は三度寝を実行してしまう。そのせいで一体どれだけの授業をサボってしまったか……。考えるだけで悍ましい。
「う~ん……まだ寝ていたいけれど起きないと……」
 三度寝の誘惑を断ち切り、布団から抜け出す。今にも閉じてしまいそうな瞼を掌で擦りながら時間を確認する。
「……七時五十五分……か。上出来」
 目標起床時刻は八時だったのでいつもの未来と比較すると今日は早起きした日に分類される。
「さーて、朝ですよっと」
 まだフラフラとする足で洗面台に向かう。リビングからは今日一日のお天気の様子を知らせてくれるお姉さんの可愛らしい声が聞こえてくる。洗面台にまで聞こえてくるその声に耳をすませて、今日の服装を考える。
『今日は全国的に晴れます。しかしまだまだ寒いので防寒対策はキッチリと!』
(……まぁ一月はまだまだ寒いよね)
 朝から爽やかなお姉さんのアドバイス通り未来は防寒対策がバッチリな服を用意するために自室に戻る。裏起毛のパンツに、着ているだけでなぜか暖かくなる肌着、この前買ったトレーナーを箪笥とクローゼットから取り出す。
「……今日もモッズコートにしようか」
本日もモッズコートを着ることにした。
 今日着ていく服を選び終えた未来はリビングに足を運ぶ。リビングに入るとソファに座りコーヒーを啜っている父と、スーパーのチラシを熱心に見つめている母の姿が目に入る。未来の起床にいつまで経っても気づかない母と父に声をかける。
「おはよう」
「ん、おはよう」
「あ、おはよう~。パンあるよ、食べる?」
 テレビから目を離さずに挨拶を返す父とは違い、朝から元気な母が机の上に置かれているパンを指さす。
「いや、いらない」
「そう?本当にあんたって朝ごはん食べないわよね~」
「なんか朝から何かを胃に取り込むと気持ち悪くならない?」
「ならないわよ~。ま、いいや。まだ消費期限大丈夫だから食べたくなったら食べなさい」
「はーい」
 母と他愛もないやり取りをした後、未来はさっそく出かける準備に取り掛かる。自室に戻り寝間着を脱ぎ捨て、外出用の服に着替えているとどこからともなくスバルが現れた。
「ニャー」
「うわー、ちょっと。着替え中だからこっち来ないで!毛がつく!たださえスバルの毛の色は目立つんだから~」
 嫌がらせなのかスキンシップのつもりなのか、スバルはモッズコートに身体を擦りつける。マーキング、愛情表現……。猫の習性はよく理解してはいるが、なぜこうも毎回擦りつけて欲しくないモノに擦り寄って来るのか。
「こら、スバル!私の上着にマーキングしないの。これは私のモノなんだからなー」
 目を細めて身体を擦りつけているスバルの元からモッズコートを取り上げる。
「アアーン」
 モッズコートを取り上げるとスバルは不満そうに、抗議するかのような声で鳴く。
「はいはい、ごめんねー」
 不満そうなスバルの頭と顎を優しく撫でてやる。そうするとすぐにスバルは気持ちよさそうに喉を鳴らし、コテンと横になってしまった。
「はい、終わり」
 目を細めて心地よさそうに寝転ぶスバルを後目に未来は準備を再開する。

 服も着替え終え、化粧も髪のセットも終えた未来は玄関にいた。出かける準備が整ってから暇つぶしにスマホを弄っていたらそろそろ家を出る時間になっていたのだ。
「未来ってばもう行くの?」
「うん、もうすぐ九時だしね」
「そう、行ってらっしゃいー」
「行ってらっしゃい」
「行ってきますー」
(今日はお母さんもお父さんも中番か……)
 凍えるような空気に肩を竦ませる。
(それにしても本当に寒いなぁ)
 吐く息は雪のように白く、手袋も何も身に着けていない手はすでに感覚がない。
「寒い、寒い。早く暖かい電車に乗りたい」
 両手をモッズコートのポケットに突っ込み、早く駅につくように速足で道を進む。


 当初の予定通りゼミ開講前に学校に辿り着いた未来はゼミ室でのんびりしていた。
(もうみんな卒制が終わった状態で何をするのかなぁ)
 ぼんやりと頬杖をつきながら意外と広いゼミ室を見渡す。
(……みんな楽しそう)
 未来以外のゼミ生達は笑顔でなにやら雑談をしている。入学当初から感じてはいたがどうやら未来はこのゼミ生たちとあまり馴染めていない。共通点もなかったので打ち解けることもなく、ゼミの中で未来はすっかり孤立してしまった。そのことを寂しく思ったことはあるが、辛いとは思わなかった。幸い、陰口を叩かれたり仲間はずれにされたりすることもなかったからだ。ただ親しくなれなかっただけ。
(でもちょっぴり残念だよね。同じゼミに所属しているんだからもう少し仲良くなりたかったかも)
 そんなことを考えているとゼミ生の一人が未来に近づく。
「……ねぇ星野さん」
「わっ!な、なに?」
 ゼミ室では滅多に話しかけられないので不覚にも驚いてしまった。未来の驚きように声をかけてきたゼミ生も少し吃驚したようで目をまん丸に見開いていた。それがなんだか恥ずかしく未来はすぐに平静を装ってそのゼミ生に笑いかける。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。で、何か用かな、大田さん?」
「あ、うん。私こそごめんね。えっと星野さんに聞きたいことっていうか、確認?したいことがあって……」
(なんだろう?)
 太田さんが一体何を未来に伝えたいのか皆目見当がつかず眉を顰める。
 太田さんは未来と同じゼミに所属する小柄で大人しい女性だ。眼鏡をかけていて、いつも長くて黒い綺麗な髪を三つ編みに結っている些か古風な人だ。同じゼミに所属しているので挨拶や事務的な会話を交わしたことはあったがこうやって個人的に話しをするのは初めてだ。
 眉を顰めた未来を見て太田さんがなぜか慌てる。
「えっと、あの、星野さんに不快な想いをさせたいわけじゃないんです!その、なんといえば……」
 何にそんなに怯えているのか太田さんは今にも泣きだしそうに眉を八の字に下げ、敬語で未来の機嫌を窺う。
(え?どうしてそんなに怖がってるの?)
 全く意味が分からずに未来こそ困惑する。そんな二人を遠巻きから見ていた他のゼミ生たちがボソリと耳打ちをする。
「星野さんって、中性的な見た目で整っているけれど真顔だったり眉を顰めたりしたときってちょっと怖いよね」
「分かる。怒ってるわけじゃなさそうだけど……ね」
 そんな密談が行われているとはこれっぽっちも気づいていない未来は出来るだけ穏やかな口調と表情を意識して続きを促す。
「うん、落ち着いて。ゆっくりでいいから話してくれる?えーと……で、太田さんが私に聞きたいことって何かな?」
「あ、はい。こっちこそ取り乱してごめんなさい……」
 敬語口調のままなのが気になったがスルーする。このままダラダラとやり取りをするのは時間の無駄だし、太田さんの話の内容が気になる。
「うん、大丈夫。話してみて」
 そう優しく話しかけると落ち着いたのか、太田さんは話し出す。
「今更な話なんですが、星野さんって第一北高校出身ですよね」
「……そうだよ」
 忌々しい記憶がつまった母校の名前をここで聞くとは思わず、頬がひきつる。しかし太田さんは未来の微々たる変化に気づくことはなかった。
「実は私も第一北高校出身なんです」
「……え?」
 今、太田さんはなんて言った?第一北高校出身……私と同じ高校を卒業したってこと?私が、美琴が、玲奈が……涙を流したあの、あの高校に太田さんが通っていたということ?そんな、そんなことが……。
(じゃあ、もしかしなくても太田さんはあの出来事を知っている……?)
 未来は混乱しきっていた。貧血のときのように視界は白く染まり、心臓が平常時より早く脈打ち、手が震えてしまっている。
(どうして?どうして、今になってそんなことを私に伝えるわけ?私と同学年だったなら何があったか知っているはず。美琴が、玲奈が、私がどうなってしまったのか……!)
 恐怖と嫌悪感で未来は何も言えずにいた。すると太田さんがさきほどのように慌てふためいた様子で口を開く。
「あ、あの!別に星野さんを追い詰めたいわけじゃなくて……その」
「……ごめん、太田さん。外で話そう」
 混乱と恐怖で叫びだしたい衝動を抑えて太田さんの腕を掴み、ゼミ室を出る。しばらく廊下を進むと普段から人通りのないロビーに出た二人はそこに設置されていたソファに座る。
「ここなら、落ち着いて話せるからね。あまりあの話を他の人に聞かれたくないし……」
「……あ、ごめんなさい、私……配慮が足りなかったですね……ごめんなさい」
「別にいいよ」
 知らず知らずのうちにぶっきらぼうな態度になってしまったが、もう気にしていられない。
「……それで?」
「はい?」
「太田さんの話は終わってないよね。私と同じ高校出身で、私が起こした事件を知っている太田さんは私に何を言いたいの?」
「あ、それは……」
 周囲の目がなくなったことと、ここに来て高校の話を蒸し返す太田さんを敵としか認識出来なくなった未来は猫を被るのをやめにした。突然の変貌ぶりに太田さんはまた怯えているが仕方がない。ここで余裕な態度を演じていられるほど未来は強くない。
「何?早く言ってほしいな」
「はい……その、未来さんが起こした事件というか騒ぎについては詳しくないですが、知っていました」
(だろうね)
 横目で太田さんを見て続きを急かす。
「でも、私は……本当にそのことについて星野さんを責めたり過去を穿り返したりするつもりはないんです!」
「……そう。どうでもいいから続けて」
 未来の冷めきった態度に太田さんは瞳を潤ませたがなんとか涙を呑みこみ、話を続ける。
「はい……それで私は今までこのことについて星野さんに追及しませんでしたし、他人に話したこともありませんでした。でも……」
「?」
 言葉が途絶えたことが不審に思い、そちらに目を向けると太田さんが唇を噛みしめながら涙を流していた。
「ちょっと!?なんで太田さんが泣いてるの?泣きたいのはこっちなんだけどなぁ」
「ご……ごめんなさい……!あの、星野さんを傷つけてしまったこと、いくら強制されたからって他人の……星野さんの過去を誰かに話してしまった自分が情けなくて……本当にごめんなさい!」
「……」
 ボロボロと涙を流す太田さんを見つめる。嗚咽の合間に聞こえてくる太田さんの懺悔から考えるに、太田さんは未来と出会ったときから未来が高校生のときに起こした騒動を把握してはいたが、未来を傷つけないようにその話題に触れるつもりはなかったし、他人に話すつもりもなかったみたいだ。しかし最近になって太田さんは誰かに未来の過去を話してしまったということらしい。
(自分の過去をベラベラと他人に話されるのは確かに気に食わないけれど、私の場合は元々大勢の人に知られていたしね……)
 いつまでも血が出そうなほどに強く唇を噛みしめ、肩を震わせている太田さんが可愛そうに思えてきてポケットに乱雑に突っ込んでいたポケットティッシュを取り出す。
「もう、泣かないでよ。こんな場面人に見られたら私が悪者になるから……」
「うう……ごめんなさい」
「はぁ」
 深くため息をつき、未来はティッシュで太田さんの涙を拭う。顎にまで伝っていた涙はあっという間にティッシュを濡らす。
「ごめんなさい……弱い人間でごめんなさい……」
「もういいから……太田さんはこれまでずっとそのことについて触れてこなかったよね。その気遣いと優しさには感謝するよ。ありがとう」
 何度拭っても溢れ出てくる涙をティッシュで拭きながら未来はなるべく優しい声で話しかける。
「でさ……さっき強制されたって言ったよね。それって誰なの?誰に無理矢理言わされたの?」
「あ、それは……」
 無理矢理太田さんの口を開かせた人物に思い当たりがあった。
「言えません。言ったら駄目だって……言われたから……」
「……言えないか……じゃあ私の予想を聞いてくれる?」
 太田さんがその人物になにやら弱みでも握られているのか分からないが、尋常ではないほどに怯えている様子だった。
「……予想ですか?」
「うん、別に頷く必要はないよ。ただ私の予想だけ聞いてほしい」
 そういうと太田さんは「分かりました」といい未来の予想に耳を傾ける。
(誰かを恐怖に陥れ、自分が有利になる情報を集めてくるような人間……あいつしかいない)
 泣いたせいで腫れぼったくなってしまった太田さんの丸い瞳を真っすぐに見つめながらある人物の名前を告げる。その名前を認めた瞬間、太田さんの元々丸い瞳がさらに丸くなり恐怖の色が滲んだ。
(やっぱり)
 確信を持った未来はポケットティッシュを丸ごと太田さんに渡す。
「あの?」
「それあげるよ。じゃあ私は先にゼミ室に戻るね」
「あ、はい……」
「じゃあ」
 太田さんに背を向けるが呼び止められる。
「待ってください!」
「何?」
「……本当にすみませんでした!もう信じてくれないと思いますが、私……本当はあの話はしたくなかったんです……。許してほしいとは言いません、でも私が星野さんに悪意を持っていないことだけは……知っていてください……」
 未来が渡したポケットティッシュを強く握りしめ、未来に否定されることを恐れている太田さんがあまりにも不憫で、いじらしくて無意識に頭を撫でていた。
「こっちこそごめんね。太田さんが置かれた状況を想像もしないで感情的に振る舞って……そのせいで怖がらせたよね。……安心して、太田さんが私に悪意を抱いているなんて思ってないよ」
「……ありがとうございます」
 安心したのか胸を大きく動かし、安堵の息を吐き出す。
「うん、じゃあ落ち着いたらゼミ室に戻ってきなよ」
「はい……」
 今度こそゼミ室に向かおうとした未来だったが、一つ太田さんに言い忘れていたことがあったのでそれだけは伝えとく。
「そうだ、きっと太田さんからその話を無理矢理聞き出した人に弱みを握られていたり、脅されたりされているかもしれないけれど怖がらないで大丈夫だよ。私がなんとかしとくから」
「え……あ、はい」
「じゃ!」
 すでにゼミが開講してから十分近く経っている。早くしないと欠席扱いになってしまう恐れがあるので、未来は急いでゼミ室へと向かった。


 欠席扱いになる前にゼミ室に戻った未来は、太田さんが体調不良でゼミ室に来るのは少しだけ遅れると伝えると心の広い教授はあっさりと納得した。そこから数十分後にまだ薄らと目元が赤い太田さんがゼミ室に入ってきて、ゼミは滞りなく進められた。
(……太田さん、大丈夫かな)
 ほぼ雑談と教授の昔話に時間を費やされたゼミが終わり、仲の良いゼミ生と雑談している太田さんを横目で見る。表向きは元気そうだが未来の態度で不必要に脅かしてしまった罪悪感がある。さきほどはちゃんとフォロー出来なかったのでなんとかしないといけないと思うがどうすればよいのか全く分からない。処世術に長けている環と気遣いが出来る茉莉奈の傍にいるというのに未来は相変わらず不器用なままだった。
(……少し声でもかけていくか)
 友人たちに囲まれている太田さんに近づくと太田さんの友人たちはなぜか急に口を閉ざし、未来から距離を取る。今まで彼女たちに自ら接触することはなかったがこうもあからさまに距離を取られるとさすがの未来もちょっぴり傷ついてしまう。
(仕方がないか、茉莉奈と違って全方位に穏やかな態度をとっていたわけじゃないからね)
 みんなから敬遠されてしまうのは自業自得だと反省し、太田さんに声をかける。
「太田さん、さっきは、その……ごめんね?太田さんの話を碌に聞きもせずに辛く当たってしまって……本当にごめん。後さ、敬語は使わないでいいよ。私たち同い年なんだし」
 太田さんを囲む友人たちの刺さるような視線が痛かったが、無視して太田さんを真っすぐに見つめながら話す。すると太田さんはまた驚いたように目を大きく開いた後、照れくさそうに俯いてしまった。
「……大丈夫です……あ、大丈夫!私こそ星野さんへの配慮が足りなかったから、星野さんが謝る必要はどこにもないです!……じゃなくて、ないよ!逆に私こそごめんなさい!……あぁ駄目、敬語になっちゃう……」
「……ありがとう」
 敬語を使いそうになる度に慌てる太田さんはやっぱり愛嬌があり、思わず頬が緩んでしまう。
「それと、太田さん。件の人のことだけど、本当に安心してね。もう太田さんは私に罪悪感を抱かなくてもいいし、あの人に怯える必要もないからね」
「……あ、あの……その、はい……ありがとうございます」
「うん、じゃあまた来週!」
 手を振りながらゼミ室の扉を開く。
「あ、はい……じゃなくて、うん!また来週!」
 頬を薄ら赤く染めながら手を振り返してくる太田さんに微笑み、未来はゼミ室を出る。
(……さて、環と茉莉奈もゼミが終わったみたいだから食堂に行こうか)
 スマホを取り出し、環と茉莉奈から届いていたメッセージを確認した未来は待ち合わせ場所である食堂に向かった。

 食堂に入り環と茉莉奈の姿を探していると、食堂の奥から茉莉奈が手を振りながらこちらにやってきた。
「おはよう、未来。今日は人が少なめだったから食堂の一番奥の席にしたの」
「そうだったんだ。そりゃあ入口から見渡しても二人とも見えないわけだ」
 茉莉奈に手を引かれながら食堂の奥まで行く。しばらく歩くと頬杖をつき窓の外を眺めている環の姿を見つける。
「環―、おはよう」
「……あぁ未来、おはよう」
「……本当に未来にだけは愛想がいいよね……」
 未来の声ににこやかに笑いかける環を見た茉莉奈がボソリと呟く。きっとわざと環にも聞こえるように言ったのだろう、嫌味を言われた環は一瞬眉を顰めるがすぐに気を取り直した様子で未来のために椅子を引く。
「ほら未来、座って」
「ありがとうー」
 環が勧めてくれた椅子に座ると茉莉奈があからさまに嫌そうな顔をする。
「どうしたの?」
「いや、なんで未来が環の隣に座るのかなぁって……不公平じゃない」
「……かといって未来が茉莉奈の隣に座るのも不公平でしょう?じゃあもうこれでいいじゃない。未来は私の隣で」
 不貞腐れた茉莉奈に環が勝ち誇ったように笑う。そんな二人の様子に未来は心の中でため息をつく。
(これじゃあ茉莉奈が不貞腐れたままだし、環が図に乗るから駄目だな……よし)
 今日は平穏に卒業旅行について計画を立てたいので、環と茉莉奈がつまらないことで口争いを始めるのを出来るだけ避けたい。そのためには未来が環の隣に座ったりどちらかに肩入れしたりしてはいけないのだ。
 無言で立ち上がると環と茉莉奈が不思議そうに未来を見る。
「よし、こうしよう。茉莉奈、こっち来て」
 未来と向かい合わせに座っていた茉莉奈を立たせて、未来が座っていた椅子に座らせる。そして未来は茉莉奈が座っていた椅子に移動する。これで解決。環の隣には茉莉奈、未来の隣には椅子に積まれた三人分の荷物。これなら何の文句もないだろう。
「これで文句はないよね?」
「あるよ!どうして環の隣に座らないといけないの……」
「ゼミの時も隣だったのに、ここでも隣とか……」
「別にいいでしょー。異論は受け付けません!」
 文句を垂れる二人を完全に無視して、未来は「そういえば」と話題を変える。
「そういえば環は茉莉奈が由利さんたちとの卒業旅行に行かないことについては納得した?」
「ん?……まぁ納得したよ」
「環は頑固だから説き伏せるのに苦労したよ……」
「そっか、それなら良かった」
 依然として茉莉奈から環への嫌味は続いているが険悪な雰囲気ではないので、どうやら本当に環は茉莉奈が由利さんたちとの卒業旅行をキャンセルしたことについて納得したようだ。
 これで自分たちの卒業旅行についての話し合いを進められると思ったが、茉莉奈が不安そうな声をあげた。
「でも一番の問題は由利ちゃんだよね。他のメンバーは会社の研修なら仕方ないって分かってくれたけれど……」
「……きっと今回の由利はしぶといわよ。あの子、私と茉莉奈以外の友人を自分の手下か暇つぶしの相手だと考えている節があるから、このままのメンバーで卒業旅行に行きたくないでしょうね」
 環は呆れたようにため息を吐く。
「……だよね。自分でいうのはなんだか自慢みたいであれだけど、由利ちゃんのお気に入りだからね、私と環は」
「嬉しくないわ」
「あぁやっぱりそうなんだ。由利さんって環と茉莉奈にだけは優しいというか、寛容というか……まぁ特別扱いだなぁとは思っていたよ」
「そうなんだよ。本人は無意識なのか故意的なのかは分からないけれど、由利ちゃんのお気に入りである私と環が二人揃って卒業旅行に行かないってなって、このまま素直に聞き入れるはずもないし……」
 心底困ったというように茉莉奈は腕を組み唸る。
(……由利さんは納得していない。環だけならまだしも茉莉奈までもが自分が提案した卒業旅行に行かないなんて……あいつが許すはずがない)
 由利にどうやって対応すればよいのか頭を悩ませている環と茉莉奈を見る。この二人は未来に執着していて、もしかすると友達以上の想いも抱いている。そのことに張本人である未来は気づいていなかったが、未来を強く想っている二人に執着している由利ならば環と茉莉奈が誰を特別に扱っていて、誰を愛しているかなんてとっくにお見通しなのかもしれない。
(ずっと環と茉莉奈を見ていたから気づいてしまったんだろうね。そして今回、自分が提案した学生最後の一大イベントに由利さんお気に入りの二人が、揃って不参加を選んだことに何かを感じ取ったのかもしれないな……)
 口元を手で覆い、由利の行動、思考回路、これからの行動を予測していると環と茉莉奈が顔を顰める。
「……未来?そんな難しい顔してどうしたの……」
「なんだか探偵みたいになってるよ?」
「……探偵……?それはちょっとかっこいいなぁ」
 探偵みたいだと言われた未来は少し嬉しくなって、探偵っぽいポーズを取り始める。
「……まぁいいや。それよりどうするの?私はこのまま私たちの卒業旅行について話を進めてもいいと思っているけれど……」
「うーん、それも一緒に進めていきたいけれど由利ちゃん対策が先決じゃない?」
「由利対策っていってもねぇ……茉莉奈が卒業旅行に行かないことがショックみたいだから茉莉奈一人でなんとかしなさいよ」
 探偵と言われて悦に浸っている間に環と茉莉奈が話を進めていることに気づいた未来は慌てて話に割り込む。
「ちょっと放置しないでよ!」
「楽しそうだったからね……それより未来はなにかいい方法でもある?」
「環……こんなこと言ったら失礼だけれど、きっと未来では由利ちゃんをなんとか出来ないよ。私の見立てでは由利ちゃんはお気に入りか、自分より立場が上の人間じゃないと言うことを聞かないから……」
「そういえばそうね……」
 さりげなく失礼なことを言われたが事実なので言い返せない。確かに未来は由利のお気に入りでもなければ、由利に立場が上の人間だと思われていない。由利にとって未来は手下かもしくは、いてもいなくてもどうでもいい存在なのだ。
(そんな見下している奴が自分のお気に入りと仲が良いってなると気分は良くないよねぇ)
 傲慢な由利の姿を思い出す。環と茉莉奈以外の友人には自分の雑用をやらせ、自分と違う意見なんて言わせやしない。そして自分より立場が下だと認識した人物には辛く当たり泣かせることだって厭わない。まるで悪魔みたいだと思ってしまうが、特別悪いことをしているわけではない。こういうことを平気で、悪意なくやってのけてしまう素質が女子にはきっとある。由利がその素質が強いだけで女子に生まれた以上は誰だって上記に挙げたことをやったことがあるはずだ。もちろん未来だってあるし、それを近々実践する予定なのだ。
(由利さんは私のことをちっぽけな存在で自分より劣っている人間だと認識しているようだけれど、私との認識にズレがある。だって私は由利さんのことをどうでもいい存在で自分より出来の悪い人間だと思っているから)
 つまりお互いがお互いを大したことない人間だと思っている。それはとても都合がよい認識のズレではないか。もし未来が由利を特別視していて、優秀な人間だと考えていたら未来は由利に敵わなかったかもしれない。しかし本当のところは違う、未来は由利に勝つことが出来るのだ。
(我儘で人の気持ちを考えない、躊躇なく人を傷つける……そんなどうしようもない人に私が負けるはずない)
 由利のように自分本位で相手に自分の優位性を示したり、自分の利益のために誰かを傷つけたりすることは女子なら……いや、人なら誰だってやってしまうことだ。その行いは神に裁かれるほどの大罪でもない。でも由利は少しだけ酷すぎた。そしてあまりにも幼すぎた。もう私たちは成人している、さきほど挙げた悪事は人々が幼いときに犯す失敗だ。そして学んでいくのだ、人としてこのようなことはやってはいけない……と。それが心からの反省なのか世間に溶け込むための擬態なのかは知らないが……とにかく人は年をとるにつれやってはいけないことの分別が出来るようになってくる。しかし由利は駄目だった。体だけが成長して中身はいつまで経っても未就学児より幼い。
(……だから私は由利さんの行いを無視するわけにはいかない)
 つい数十分前に言葉を交わした太田さんのことを思い出す。未来がなんとかしてあげないと太田さんの不安は払拭されることはない。
「……ねぇ由利さんのことは私に任せてくれない?」
「え?」
「……未来、本気?」
「本気も本気。なんか私なら出来る気がするんだよね~」
「そうかしら?」
「不安要素しかないよ……」
「じゃあ二人は何かいい対策があるの?」
「それは……」
「……由利ちゃんに何か言われる度に謝る……くらいしか思いつかないや」
「でしょ?なら一度私に任せてよ!もし失敗しても環と茉莉奈の株が下がることはないんだし。あ、でももし雲行きが怪しくなってきたら助けてね」
 胸を張り高らかに宣言する。自信満々な未来を見た二人は何か言いたげに視線を交わすが未来に任せてみることにした。
「由利は結構未来に対して冷たい態度だから、未来が傷つかないか心配だわ」
「……もしなにかあったら私たちに言ってね!多分由利ちゃんのお気に入りメンバーの私たちが間に入ったら傷は浅く済むはずだから」
「分かった、分かった。じゃあ由利さんの話はこれでおしまい!そろそろ私たちの卒業旅行について話を進めないと危ないんじゃない?私、どこに行くのかも知らないし……」
 由利の話題を終わらせ卒業旅行に話を変える。
「そうだったわね。未来にはまだ教えてなかったか」
「そうだよー。どこへ行くのかヒントも教えてもらってないんだよ!」
「ごめんね、本当は未来も交えて行き先を決めるべきだったかもしれないけれど……」
 茉莉奈が申し訳なさそうに眉を下げる。
「いや、今回の旅行は環と茉莉奈に金銭的援助をしてもらうから私の意見なんて気にしなくていいんだけどね……。」
 そういいながら未来は今更情けない気持ちになってくる。ついさきまでは「打倒、由利さん!」と燃えていたがその炎も急激に冷めていってしまった。
(やっぱり同い年の友達に旅費出してもらうって恥ずかしいなぁ。いや、別に私が自ら金銭的援助をしてくれ!って頼んだわけじゃないし、二人からの提案だったから気に病む必要はないけれど……。うーん、他人から見た私はどう映るのだろうか。ケチ?物貰い?うわぁ……嫌なイメージしか持たれないよ)
 突然黙り難しい顔をしている未来に環は口を三日月に歪める。
「ねぇ、未来。まさか旅費全般を友達に出させる自分ってやっぱり情けない!とか思ってる?」
 心の中をズバリ言い当てられた未来は居心地悪そうに前髪を触る。
「そりゃあ……ねぇ?情けないでしょ……だからって現地での食費以外も出せるほど懐は潤っていないんだけどね」
「そうでしょう、なら気にしなくていいのよ。それに一々他人に説明するわけではないんだし。黙っていたら未来が金欠苦学生だなんて周りの人は気づかないわよ。それともなに?言いたいの?」
 意地悪く微笑む環に未来は頬を引き攣らせる。環は未来に優しいが、たまにこんな風に意地悪になるのが玉に瑕だ。
「誰が言うか!」
「ふふ」
「あ~、ほら話を進めるよ。はい、まずはこのパンフレットを見て」
 茉莉奈が机に数冊の旅行パンフレットを置いた。一体どんな所へ行くつもりなのかずっと気になっていた未来はすぐさまパンフレット手に取り内容を確認する。
 表紙にはまるでCGのように美しく煌めく星空が映っている。次に表紙を捲ると今度は星空のパノラマ写真が大きく掲載されていた。
(……綺麗……私も一度くらいこんなに美しい星空を肉眼で見てみたいなぁ)
 掲載されている星空があまりにも素晴らしくて未来は惚ける。
(私は国文学科に進学したぐらいだから完全に文系だけれど、実は天文学にも興味があった。でもその学問に進むほどの実力はなかったから趣味として楽しむことにしたんだよねぇ)
 特に秘密というわけではなかったが、未来は環にも茉莉奈にも伝えていない趣味があった。それが天文だ。もちろん天文学に精通している人たちとは比べ物にならないぐらい未来が持っている知識は未熟だが、一般の人よりは天文への強い想いと知識はある。そんな天文好きな未来にとって写真ではなく、自分の目で満点の星空を見ることは長年の夢だった。もちろん何度か星空が綺麗だと言われている場所に足を運ぼうかと計画したことはあったが、結局は実行していない。
(家族旅行で星空メインの田舎に行ったところで楽しくもないし、一人旅をしようにも時間とお金が足りなかった……)
 そのうち行こう、いつか行こう、別に星空は逃げないから急ぐ必要はない……なんて考えているうちに自由な時間がたっぷりある大学生活も終わりを迎えようとしていた。社会人になれば今よりも懐に余裕が出来るが、それに反比例して時間も体力もなくなってしまうことは有名な現象だったので学生のうちに綺麗な星空を己の網膜に焼き付けたいと思ってはいたが、結局今日まで来てしまった。
(……もしかしてこんなに綺麗な夜空が見える場所へ行くのかな?)
 期待と興奮を孕んだ瞳を環と茉莉奈に向けると二人は目配せをした後、静かに頷いた。よく分からない合図を交わし合う二人を未来は見つめる。
「未来、そのパンフレットに載っている地名を読んでみて」
 環に言われた通りパンフレットの表紙に大きく印字されている地名を読み上げる。
「長野県、阿智村……!?」
(ここって……日本一星空が綺麗だって言われているところじゃないか!私がずっと行きたいと思っていた場所だ……!)
 長年恋い焦がれていた日本一の星空を有する長野県、阿智村という言葉に未来は気が動転する。
(まさか本当にここに行くのかな?それなら本当に嬉しい……けれど他にも候補地があるかもしれない。その時に私は星空を見に行きたい!って我儘を言うわけにはいかないしなぁ)
 一人であれやこれや考えていると茉莉奈がなぜか安心したように笑う。
「な……何?」
「いや、安心しちゃって。薄々未来が星空に興味があるってことには気づいてはいたけれど、わざわざ足を運ぶほどに好きなのかどうか分からなかったから、もし微妙な反応をされたらどうしようかと不安だったの。でも未来の反応を見る限り私たちの選択は正解だったみたいだね」
「……じゃあここに……阿智村に行くの?」
「行くよ。環と相談して宿も決めてあるし」
「イイ宿にしたから安心してよね」
「……やったぁ」
 星空の写真を眺めている時、昔と比較して星が見えにくくなってしまった地元の空を見上げている時にいつも恋い焦がれていた長野県、阿智村の星空。ずっと行きたいと願っていた……それがまさか今、叶うなんて!嬉しくて堪らない未来はパンフレットを胸に抱き、顔を綻ばせる。その微笑みはまるで穢れなど何も知らない少女のようだった。
 しばらく未来が喜びを噛みしめていると、ハッと我に返ったように二人に質問を投げる。
「それにしてもよく分かったねぇ、私が星空とかそういうモノに興味があるって」
 未来の疑問に茉莉奈が笑って答える。
「あぁそれは未来をよく見ていたらすぐに分かったよ。本屋さんに行けば天文関連の書籍コーナーに必ず行くし、未来が書く作品にも星空の描写が多かったしね」
「そうかぁ」
「それに苗字も星野だしね」
「……環……」
 茉莉奈とは違い、ややふざけた返答をする環に思わず苦笑いが漏れる。
「さて、話を進めるんでしょう?行き先はもう未来に教えたからよしとして……次は日程、行き方とか……色々決めようか」
「そうだね」
「……そういえば長野県までどうやって行くの?」
 広げたパンフレットを覗き込みながら三人は卒業旅行の予定を練っていく。


「大分纏まったね~」
「そうね、後は申し込むだけだわ」
「日程調節もなんとか出来たね」
 卒業旅行の話し合いを始めてから二時間近く経った今、ようやく話が纏まった。日程は二月下旬で、阿智までは新幹線と高速バスを利用することに決まった。最初のうちは日程調節でごたついたが、日程が決まってからは案外スムーズに話が進んだ。
「そういえば申込用紙に記入したけれど、どこに提出するの?」
「あぁこれは私がお父さんに渡しとくから」
 申込用紙を片手に環が答える。
「なんでお父さんに渡すの?」
 不思議そうに首を傾けると茉莉奈が驚いたといわんばかりに目を見開く。
「未来ってば環のお父さんの職業知らないの?」
「う……うん。だって人の親の職業とかを詮索するのは失礼だし、他人の親がどんな仕事しているかなんて興味もないし……」
 幼いころから両親に「親の仕事をペラペラと他者に明かさないこと、一握りの信頼出来る人には教えてもいいが積極的に話す必要はない」「他人の親がどんな職業に就いているか探るのも失礼なことだからしてはいけない」と言い聞かされていた未来にとって茉莉奈が環の父親の仕事を把握していることのほうがむしろ不可解だった。
「一度未来に言ったことがあったはずだけれど……そうね、未来の言う通り他人の親の仕事を気にするなんて失礼よね。でも本音は後者なんでしょうね」
「……まぁ未来らしいよね」
 どこか呆れたような、残念がっているような二人の反応を疑問に思いながら話を続ける。
「それでさ、なんで環のお父さんに申込用紙を渡すの?」
「えぇ……ここまで言ったら分かると思ったんだけど……」
 茉莉奈が呆れたように笑う。
「……もしかして環のお父さんは旅行関係の仕事に従事しているの?」
「そうよ、詳しくいうと旅行代理店に勤めているの。だからこの申込用紙をお父さんに渡せばそのまま申込が出来るってわけ」
 申込用紙をヒラヒラさせながら環が答える。
「そうかぁ……そうだったのか……。じゃあ申込は環に任せるね」
「任せなさい。そうだ、それと茉莉奈。費用のことだけれど用意してきた?」
「もちろん」
 待ってましたとばかりに茉莉奈は素早く鞄から封筒を取りだし、環に手渡す。余談だがそのやり取りを見つめていた未来が経済格差をヒシヒシと感じていたことは内緒だ。
「ん、ちゃんと用意してあるね。じゃあ申込用紙と一緒に代金も支払うから」
 茉莉奈から受け取った封筒の中身を確認した後、封筒と申込用紙を鞄に入れる。
「うん、お父さんによろしくね」
「分かった。あ、そうだ未来。この申込用紙とお金を渡したら申込は完了するから。なにか今のうちに変更したいこととかない?」
「変更ねぇ」
 ふむと腕を組み考える。未来が星空の神秘さに惹かれたときから行きたいと願っていた長野県は阿智村に行けるのだから行き先に不満はもちろんない。宿泊予定の旅館だって未来の財政状況では泊まれそうにないほどに素晴らしい宿だ。変更するわけがない。日程だって二月下旬とまだまだ寒さが厳しい時期だが、冬の澄んだ空気は嫌いではなくむしろ好きなので自分には問題などない。移動手段はそれしかないのだから変更する余地がない。
(変更したいところはないね)
「うん、大丈夫!さっき決めた内容でいいよ!」
 全く問題はないと環に告げると「了解」と返される。
「じゃあ申込が完了したらまた書類とか渡されるから、その時にまた連絡するわ」
「お願い~」
「うん、よろしく頼むね」
 話も纏まり、今日の目標は達成された。
「あ……環、もうこんな時間」
「ん?あぁもう十四時回っていたのね」
「急がないと!」
 俄かに慌て始めた二人に未来は声をかける。
「どうしたの?」
 未来の問いに茉莉奈が答える。
「実は教授から頼まれて三年生に卒論の書き方?取り組み方?を教えないといけないの」
「はぁ……面倒くさいわ。私と茉莉奈が成績優秀だから声をかけてきたのだろうけれど……面倒だわ」
 うんざりといった様子で深いため息を吐く環についつい同情してしまう。
(環や茉莉奈のようになんでも出来たらかっこいいけれど、その分周りから頼りにされてしんどいことも増えるんだなぁ)
 嫌そうには見えないがどこか表情が曇っている茉莉奈と心底面倒くさそうにノロノロと動く環。何も力にはなれないが取りあえず応援の言葉を贈る。
「うーん、本当に面倒くさそうな仕事を頼まれたみたいだねぇ。でも頑張れ!」
 そうエールを送るとさきほどまで死霊のように生気がなかった環の顔に色が射す。
「……まぁほどほどに頑張って来るわ」
「うん、ありがとう未来」
「うん、後輩にしっかりアドバイスしてきなよ!」
 荷物を纏め終え、立ち上がった二人に座ったまま手を振る。
「うん、流されない様にその子のためになるアドバイスをしてくるよ」
 未来に手を振り返しながら茉莉奈は食堂の出口を目指して歩き出す。
「ほら、茉莉奈も行ったよ。環も行かないと」
 一向に動き出そうとしない環に話しかける。
「……ねぇ、この後何か予定ある?バイトとか……」
「この後?なにもないよ。でも環も茉莉奈もいなくなっちゃうからもう帰ろうかなー」
「駄目。私たちの用事は一時間ほどで終わる予定だし、終わったらすぐに食堂に戻ってくるからここにいて」
「う……うん?分かったよ。分かったから早く行きなー茉莉奈が待ってるよ」
 食堂の出入り口の前で環が来るのを仁王立ちで待っている茉莉奈を指さす。
「じゃあ行ってくるから、ここで待っていてね」
「うん、行ってらっしゃいー」
「行ってきます」
 ようやっと茉莉奈の元へ歩き出した環の背中を見送る。
(さて……一時間かそこらで終わるって言っていたけれどどうやって暇つぶししようかなぁ)
 環と茉莉奈を見送った未来はいきなり与えられた空白の時間をどのように過ごそうかと腕を組む。
(今日は勉強道具持ってきていないし、本も持ってきてない……。モバイルバッテリーは持ってきているから、ゲームくらいしかやることないかな?)
 机の上に放置していたスマホを手に取り、ゲームアプリを起動させる。通信制限が恐ろしくて基本的に屋外ではゲームをプレイしないが、幸い食堂にはWi-Fiが完備されていたので安心してゲームが出来る。
(卒業旅行について早く話が纏まって良かったなぁ)
 ゲームタイトル画面をタップし、本日のログインボーナスを受け取る。
(昨日の夜なんて茉莉奈が由利さんたちの卒業旅行をキャンセルしたことについて環の理解を得られていなかったからどうなることかと思ったよ)
 昨夜のメッセージアプリでの殺伐とした空気を思い出す。文字だけのやり取りなのにあそこまで険悪な雰囲気になってしまう二人だからちゃんと話し合いが出来るのか不安だったが、未来と合流してから嫌味の応酬はあれど殺伐な空気にならなかったことから本当に二人が話し合いで納得したのだと安心した。
(……どんなこと話したのかなー。基本的に他人には興味ないけれど環と茉莉奈が私と会う前にどんな話をしたのかはちょっぴり気になる)
 スマホの画面をタップしながらキャラを操作し、敵を薙ぎ倒していく。
(聞いたら教えてくれそうだけど、聞かない方がいいよね。きっと環と茉莉奈の間には私には分からないなにか、共通するモノがある気がするから……)
 クリティカルヒットを連発し、サクサクとステージを進んでいく。
(あ、そういえば今日は由利さんたちのゼミもある日だったな。今日は特に集まる約束とかしていないから大丈夫だろうけど、由利さんのことだ……直接茉莉奈と話し合おうと乗り込んでくるに違いない)
 茉莉奈が由利たちとの卒業旅行をキャンセルしたことについて由利はまだ納得していない。他のメンバーは茉莉奈の嘘を信じきって、茉莉奈と一緒に卒業旅行に行くことを諦めてくれたが由利はしつこい。それもそうだろう。さきほども話したが由利は環と茉莉奈のことが大好きだ。お気に入りなのだ。そんなお気に入りが二人揃って由利が提案した卒業旅行に行かないだなんて大問題だ。せっかくお気に入りの二人と学生最後の思い出をつくろうと計画していたのに、それが台無しになってしまったのだ。傷ついただろう、困惑しただろう、イラついただろう。
(……ここで普通の人なら諦めるけれど、由利さんはそう簡単には諦めないからねぇ)
 卒業旅行は学生最後の一大イベントだ。目立ちたがりで自分が世界の中心だと信じてやまない由利にとってこのイベントに環と茉莉奈が参加しないのは屈辱的で、耐えられないことなのだ。だから自分が納得出来る理由が欲しい、もしくは考え直してこちら側に戻ってきてほしいと乞う。
(環も茉莉奈も会社の研修という至極まっとうなキャンセル理由だけど、どうして由利さんは食い下がり続けるのかな)
 会社研修があると言われてしまえば悲しいが引き下がるはずなのだが。だってそうだろう、会社の予定は私たちではどうにも出来ない。もし本人が卒業旅行に行きたいと心の底から願っていたとしても、無力な学生は会社に従うしかないのだ。
(……まぁその研修っていうのも嘘なんだけどね)
 パーティが全滅することなくラスボスまで辿り着く。後はひたすら敵を殴るだけだ。
(うーん……もしかしてその嘘がバレた?どうにも由利さんは動物的勘というのか、そういうのが鋭いみたいだし……。でも嘘だと向こうが疑っていても嘘ではなく真実だと突き通せばいいだけのこと。環は演技が上手いから大丈夫だろうけど、問題は茉莉奈だなぁ。普段から嘘をつかないし、顔に出やすい。どうしたものか)
 無心で攻撃を繰り返していたらラスボスはあっけなく倒れてしまった。
(由利さんが環と茉莉奈に食い下がっている間はまだ安全なんだよ。問題は由利さんが私に矛先を向けるときなんだよなぁ)
 未来と由利は喧嘩らしいことも言い合いもしたことなんてなかったが、入学時からなんとなく相性が合わなかった。当初はお互いに緊張しているからだろうと思っていたが、違っていた。未来が由利の言動に生理的に嫌悪感を抱いており、運の悪いことに未来が己に嫌悪感を抱いていることを察知してしまった由利。その事実に気づいてしまってから未来と由利はずっと気まずい関係なのだ。挨拶はするが笑い合わない、横に並ばない、二人きりになろうとしない……。そして酷いときには由利が未来に聞こえるように未来の悪口を言う、あからさまに未来への態度が冷たい、みんなの前でわざと未来を貶める言動をする……。
(あ、駄目だ。むかついてきた)
 今までされてきた仕打ちを思い出すと苛立ってくる。
(まぁ私も幼稚なやり返しを繰り返したもんだけど……)
 由利の発言に遠まわしに皮肉を言う、由利の前で環と茉莉奈と親し気に笑い合うなどなど……。
(うーん、私も大人げなかったかもしれないけれど今はどうでもいいや)
 ラスボスを倒したご褒美として受け取ったアイテムをスワイプして確認する。
(そう、問題は由利さんが私に矛先を向けたときなんだ。何度かそのせいで痛い目にあってきたから出来れば今回も避けたかったけれど……)
 データがちゃんとセーブされていることを確認してからゲームアプリを終了させる。
(薄々勘付いてはいたけれどやっぱり今回は避けきれなかったみたいだね……)
 スマホを机の上に置き、ゆっくりと顔を上げる。
(……まさか太田さんに私の過去を聞き出したりするなんて……今回の由利さんは大胆な攻撃に出たもんだねぇ)
 顔を上げた先には一目見たときから今日まで生理的嫌悪感しか抱いたことのない相手、由利が立っていた。
「……ねぇ、未来………話があるんだけど」
 由利との会話なんて時間の無駄でしかないけれど、太田さんのためにも環と茉莉奈のためにも……自分自身のためにも今回は由利と向き合う必要があった。覚悟を決めよう。姑息な由利のことだ、未来の過去を持ち出してきて精神を傷つけようと作戦を練っているはずだ。だから今回は油断禁物、毅然とした態度で立ち向かわないと。
「……由利さんか……私に話ってなにかな?……あぁ座ってよ」
 いつまでも突っ立っている由利を斜め前の椅子に座るよう促す。真正面の方が話しやすいのは確かだが、由利と少しでも距離をとりたいのだ。由利も未来に話はあっても必要以上に近づきたくはないようで、いう通りに斜め前の椅子に座った。
「……で?私に話って何?」
「……本題に入る前にちょっといい?」
「どうぞ」
「環と茉莉奈はどこ?もうゼミは終わっているはずでしょ?どこにいるの?」
 旦那の浮気現場に乗り込んできた女のような甲高い声を出す由利が不快で思わず眉を顰める。
「二人ならゼミ室だよ。教授に三年生たちに卒論の書き方を教えてやれって頼まれたみたい」
「そうなの?いつまで?いつになったら終わるの?」
「……一時間ほどで終わるって言っていたから十五時ぐらいに終わるんじゃないかな」
「そう、分かった」
「……」
 マイペースとはまた違う、自己中というか……由利の相変わらずな態度に未来は苛立つが必死で抑える。
「それで、話ってなに?」
 机に肘をつき、顎に手をあてる。人の話を聞く態度ではないかもしれないが由利に気遣いは無用だ。事実、斜め前にいる由利だって未来より遥かに短い脚をわざわざ組み、背もたれに全体重をかけた生意気な態度だ。向こうがそうならこちらが正しい姿勢になる必要はどこにもない。
「……分かっているでしょ」
「何が?」
「何がって……私が未来に何を言いたいのか分かっているでしょって言っているの!」
 わざと知らない振りをしてみたら由利は苛立った様子で机上に投げ出していた鞄を叩く。本当に乱暴な女だ。
「いや、分からないよ。というか由利さんは私に話があるんだよね。それならさっさとそれを話せばいいじゃない」
「……そうね……!」
 由利とは真逆に冷静な口調で言えば悔しそうに顔を歪ませる。あぁ嫌だ、嫌だ。感情的で冷静に会話を出来ない由利という人間が本当に嫌だ。
(面倒くさい駆け引きをしようとするなよ)
 うんざりしていると由利がついに本題に入る。
「あのさ、茉莉奈が卒業旅行に行かないこと、知ってた?」
「……それは初耳だなぁ」
 嘘、由利より早くに未来が知っていたことだ。でもここで敢えてそれを由利に教える必要はないので茉莉奈が卒業旅行をキャンセルした事実をまさに今、知った体で話を進めることにした。
「卒業旅行に行かないってなんで?由利さんたちと一緒にパンフレットを広げてどこに行こうかあんなに盛り上がっていたのに」
「……茉莉奈は会社の研修が入ったから行けなくなったって……」
「あ~そうなんだ。研修なら仕方ないよね。残念だねぇ」
「……」
 これも嘘。茉莉奈が会社の研修に行くことも嘘だし、未来の言葉も嘘。嘘だらけだ。
「それで?茉莉奈が会社の研修だっけか。それが理由で卒業旅行に行けなくなったことが私に伝えたかった話なの?」
「違うわよ!最後まで話を聞きなさいよ!馬鹿!」
(……なんて幼稚な……)
 じっと冷めた瞳で由利を見つめていると突然大声を出す。
「本当にあんたってムカつく!いつもいつも自分だけ大人みたいに振る舞って、私たちとは違いますってお高くとまって、生意気な言葉ばかり言って……!本当に腹立つ!なんでなの!?なんであんたみたいに可愛げもない、一緒にいても楽しくない奴なんかが環と茉莉奈の傍にいるのよ!我慢出来ない!どうせ今回のことも未来の差し金なんでしょ!環と茉莉奈を私に渡したくないから……!いい加減にして!環と茉莉奈は私の友達なの。あんたは独りぼっちがお似合いなんだから二人から離れろ!」
「……」
 四年間の鬱憤を爆発させている由利を未来は冷静に観察していた。由利は苛立ちと興奮のせいで頬が赤らみ、薄らと瞳に涙の膜が出来ていたが未来の顔色は一つも変化していなかった。ただ冷たい視線を由利に向けるだけ。
(……こいつ本物の馬鹿だなぁ。そうやって感情を吐露したところで状況は改善されないというのに……)
 由利の浅ましい姿にいっそ同情してしまう。
「なんとか言いなさいよ!」
「……由利さん、落ち着いて。ほら、周りを見てよ」
「……!」
 周囲を見るよう由利に諭すと恐る恐る食堂を見渡す。食堂を見渡すとほぼ全員が未来と由利に注目していた。悪目立ちもいいところだ。
「ね、こんな風に目立つのは本望じゃないよね?だからさ、落ち着いてよ。もっと冷静に話し合おうよ」
「……うるさい……」
 食堂にいる学生のほぼ全員が自分たちに好奇の眼差しを向けていることに気づいた由利は弱弱しい声を吐きながら机に突っ伏す。しばらく机に伏せた由利のつむじを眺めているとこちらに注目している学生の数が減って来たので由利を起こす。
「そろそろ起きて。こっちに注目している人はだいぶ減ったから話の続きをしようよ」
「……未来のそういうところが本当に気に食わない……!」
「……ハァ。……それで?由利さんは私が環と茉莉奈に何か余計なことを言ったからせっかくの卒業旅行が台無しになったって言いたかったわけ?」
「……まぁそんな感じよ。あんたが黒幕なんでしょ?あっさりと認めるわけはないとは分かっていたけれど、本当になんなのよ……。どうして私たちの仲を邪魔するのよ。環も茉莉奈も学生最後のイベントを楽しみたいはずなの。それなのに未来……あんたに邪魔されるなんて……。酷いじゃない。だから早く二人から離れなさいよ……!」
「……」
 ここまでくるともう哀れだ。由利は未来より二人と親しくて、環と茉莉奈も由利を愛してくれていると盲目的に信じている。恐ろしいと同時に哀れ。どうして由利はこんなに滑稽で惨めで、可哀想なのだろう。
(……そういう生き物なんだろうな、由利さんは。本人が自分の悪いところに気づくこともなければ、それを指摘してくれるほどに由利さんのことを大事に想っている人もいない。あぁ家族には愛されているだろうけど、逆にそれが裏目に出たのかもしれないぁ)
 由利が情けなさ過ぎて未来の胸中は穏やかだった。こんなにも惨めな人間にいちいち腹を立てていてはいけない。彼女は未来より弱者で哀れな存在なのだから。
「……分かったよ」
 ボソリと呟いた声に由利が顔を勢いよく上げる。
「え?」
「分かったって言ったの。由利さんの言う通り環と茉莉奈から離れるよ」
「……あ、そう?そう!そうよ、分かればいいのよ」
「……でも私は環と茉莉奈には近づかないけれど、向こうからの接触は断らないからね」
「……どういうこと?」
「……私は自分から環と茉莉奈に話しかけないし、近づかない。けれど環と茉莉奈から私に話しかけてきたり、近づいてきたりしたときはそれを断らないってこと。だって二人の意思で私に近づいてきたなら二人は私を選んだってことだから」
 そう言い、ニンマリと笑うと由利の顔が歪む。あぁ、醜いなぁ。
「は?あんたなに言ってんの?そんなの駄目に決まってるでしょ」
「そんなに怖い顔しないでよ。でも大丈夫だよ。だって環と茉莉奈は私より由利さんのことが好きなんでしょ?それなら二人が私の所に来るわけないから」
「そ…そっか……そうよね!」
「うん……。本当に環と茉莉奈が私よりも由利さんのことが好きだったらの話だけどね」
「……!」
 由利の逆鱗にわざと触れる。我ながら意地が悪いと思うがこれぐらいしないと駄目なのだ。未来が心から愛する環と茉莉奈を奪われないためには。
(……私もやっぱり女だね)
 未来の挑発に歯を噛みしめていた由利が突然何かを閃いたようで、先ほどまでの表情とは打って変わり嫌らしい笑みを浮かべる。それがあまりにも不愉快で思いっきり眉を顰める。
「もし環と茉莉奈が未来のことを嫌ってはいなくても、きっとあの話を聞けば二人はあんたのことを大嫌いになるはずよ」
「……あの話?」
 ドクリと心臓が大きく脈打つ。
(……あの話って……心当たりがあるぞ……)
 元々鋭い目つきをさらに鋭くさせ、由利を睨みつける。
「……全部聞いたよ。未来と同じ高校出身の太田さんって子から……あんたの汚い高校時代の話をね……!」
 太田さん……その名前を聞いて未来は確信した。やはり自分の予想は正しかったと。
(やっぱりこいつが太田さんから私の高校時代の話を聞き出したんだな)
 不快感と怒り、恐怖で眉に刻み込まれた皺がさらに深くなる。
「……そっか。それで?一体どんな話を太田さんから聞いたの?」
 なるべく感情的にならないように意識して言葉を続ける。
(由利さんの前では何でもない風に装わないと……。こいつは馬鹿だけど人の心を抉る方法だけは気味が悪いほどに巧妙だからな……)
 出来るだけ冷静に、由利に過去を知られても問題などこれぽっちもないと風に動揺することなく話を続ける。
「そもそも太田さんが私と同じ高校を出ていたことすら知らなかったよ。そんな私と全く面識のなかった太田さんに私の何を聞いたの?」
「……なによ……その反応……!未来だって分かっているでしょ!私が何を言いたいのか、太田さんがどんな話をしたのか!」
 どうやら由利が予想していたよりも未来の反応が弱かったようで、だんだん声に棘が目立ちだす。
「なによ……平気な振りして……。いいの?そんな態度で?未来が高校で起こした事件を環と茉莉奈が知ったらもう二度と一緒にはいてくれなくなると思うけど……?」
「……そう」
「……っ!」
 未来の最大の弱点、汚点である過去の話を持ち出せば自分は勝てると確信していたのだろう。由利は思い通りに進まない現状に顔を歪める。
「あんたね!分かっているの?あんたの高校時代の話よ!どうしてそんなに冷静にいられるわけ?普通なら……普通ならねぇ、そんな冷静でいられないはずよ……!それなのにどうしてあんたは……」
「……それで?教えてよ。由利さんが太田さんから聞いたっていう私の過去を……。環と茉莉奈が知ってしまえば私のことを嫌ってしまうに違いない……その話を」
「……あんたまさか……本当に覚えていないわけ?それともなによ……頭がおかしいわけ?」
まるで怪物を見るような眼で由利が見てくる。なんだよその眼は。確かに私も怪物に近い存在なのかもしれないが、それはあんただって同じだろう。
「……そんな顔しないでよ、由利さん。いいからその話を聞かせてほしいなぁ」
「……ふん、分かったわ。話してあげるわよ。………それにしてもあんたも物好きっていうか変人よね。わざわざ自分が犯した罪の話をもう一度聞きたいだなんて。反省していないの?」
 挑発的に未来に詰め寄ってくる。
「……あぁ知らなかったの?私は変人だよ。昔からよく言われる。まさか四年も一緒にいたのに今頃気づいたの?由利さんってば酷いなぁ……。そんなに私に興味がなかったのかぁ……。まぁそんなことどうでもいいや。ほら、早く話してよ」
 挑発に乗ってこなかった未来が面白くなかったらしく由利は小さく舌打ちをする。
「えぇ話してあげるわ。あんたの滑稽で醜い高校時代の罪の話をね」
「……わぁ、楽しみだぁ」
 白々しく小さく拍手をすると由利はとても不愉快そうだったがすぐに気を取り直し、話を始めた。

「じゃあ太田さんから聞いた事件について話すわね。……まず未来は入学当初から仲の良い友達が一人いた。その子の名前を太田さんは知らなかったみたいだけど、いつも元気で人気がある子だったから顔は何度か見たことあったらしいわ。ポニーテールが目印の女の子だったって言っていたわね。それでそのポニーテールちゃんと未来が一緒にいる姿もよく見かけた」
(ポニーテール……美琴だな。というか太田さんはそんな前から私のことを知っていたのか……)
「一年生のころの未来はポニーテールちゃんといつも一緒だったみたいね。移動教室のときや他のクラスと授業を受ける合同教室、文化祭、休み時間、放課後……ずっとポニーテールちゃんと未来は一緒にいた。ちなみにポニーテールちゃんは男子からも女子からも人気があったみたいだけど、未来がポニーテールちゃん以外と親しくしている様子はなかったと聞いたわ」
(由利さんの……いや、これは由利さんが太田さんから聞いた話だから太田さんの言う通り私はずっと美琴の隣にいた。そして美琴が人気者で自分は除け者というよりは……微妙にみんなと距離があったことも事実だ。うん、何も間違ってはいない……。それなのに……なんだろう、この違和感は……)
 正体不明の違和感に首を捻りながら由利の話の続きを聞く。
「そんな風に一年生は平穏に終わって、二年生になった。そこで未来とポニーテールちゃんの前に新しい人が現れた。太田さんはやっぱりその子の名前を知らなかったけれど、なかなか特徴的な子だったみたいね?太田さんの話によるとその子は元々色素が薄いのか幽霊のように肌が真っ白で綺麗なのに、どこか禍々しい雰囲気を纏っていたらしい。私はもちろん見たことがないから想像でしかないけれど、どうやら未来よりも陰気な女の子だったみたいね」
(二年生に進級してから新しく仲良くなって子で、肌が真っ白な女の子は玲奈のことだな。あぁ確かに玲奈は美琴と違ってあまり笑わなかったし、どこか影のある子だった。でも禍々しいとか陰気とか……それは言い過ぎじゃないか?)
 かつての親友へのあんまりな評価に少しだけイラついたが、感情を顔に出さない様に気を引き締める。
「続けるわよ?えーとその新しく出てきた女の子は……雪女でいいわね。その雪女は未来とポニーテールちゃんの新しいお友達になったのよね。以前は未来とポニーテールちゃんのツーショットだったけれど、二年生になってからはそこに雪女が加わって三人で行動している姿をよく見たって。……それで何だったかしら?……あぁ思い出した。しばらく三人グループとして平和に過ごしていたようだったけれど、二年生の後半あたりから三人が一緒にいるのを見なくなったらしいわ。たまーに一緒にいるときはあったみたいだけれど、第三者から見ても陰険な雰囲気が漂っていたって。人気者のポニーテールちゃんと薄気味悪い雪女と、掴みどころのない未来……良くも悪くも目立つあんたたちは女子生徒の噂の的になった。太田さんもこのあたりから未来たちの噂話をよく聞くようになったって言っていたわ」
「……へぇ、私たちって有名人だったんだ」
 ゴシップが好きそうな女子生徒に観察されていたのは気づいていたが、まさかそこまで注目されていたとは。少し驚く。
(それにしても……私が思っていたよりも太田さんは私たちに詳しいなぁ)
 なにかが胸につっかえているような気持ち悪さがあったが、続きを促す。
「ほらほら、早く続きを教えてよ」
「……分かってるわよ。えーと、なんだっけ……あぁ、そうだった。これは太田さんの憶測もあるけれど、あんたたち喧嘩をしていたらしいわね?でも未来は誰とも仲違いはしていなかった。ポニーテールちゃんと雪女が喧嘩していたみたいね。それで未来が何とか二人の間を取り持とうと頑張っていたけれど、生憎ポニーテールちゃんと雪女の溝は深くなるばかりだった……。ちなみに一体喧嘩の原因が何だったのかは太田さんも芸能記者ばりに未来たちの動向を追っていた女子生徒にも分からなかったみたいだけどね」
「……それで?」
「それで……相変わらず未来たちの陰険な雰囲気が続いていたから色んな憶測が出ていたみたいよ。ポニーテールちゃんは外面が良かっただけで本当は性悪な女だから後からやってきた雪女を虐めたとか、雪女は精神病患者みたいな風貌だからポニーテールちゃんに危害を加えただとか、はたまた未来が黒幕で二人の間に軋轢が生じるように何かしたとか……。それはそれはたくさんの噂があったみたいよ」
「それは初耳だよ」
(……まさか事件発生前からそこまで注目されていたとは……)
 当時は美琴と玲奈のことで精いっぱいだった未来は周りが自分たちをどう見ているかなんて全く眼中になかった。
「次は……三年生になってからね。三年生になると大学受験の準備をしないといけないでしょ。だから太田さんは面識もない未来たちの噂話にかまける暇がなくなったみたいで、あまり面白い話は聞けなかったわ」
 心底残念そうに首を振るう由利の姿がとても癪に障る。
「そっか、それは残念だね」
「……あ、でも一つだけ面白い話があったわ。三年生になると完璧に未来たち三人が一緒にいる場面を見かけることはなくなった。でも未来とポニーテールちゃん、未来と雪女という具合に未来がどちらかと一緒にいる姿をよく見るようになったらしいわ。それで……特に面白いのが未来の態度の違いよ。ポニーテールちゃんといる未来は一年生のときと同じで、よく笑っていた。でも雪女と二人きりの時の未来はあまり笑わないし、雪女にどこか冷たい態度を取っていたって。太田さんはそれを見て未来は雪女のことが嫌いで、縁を切りたがっていると思ったみたいよ。しかし雪女は未来に執着していたようでなんだか狂気じみていたとさ」
「……へぇ」
 また違和感が未来を襲う。
(おかしい、太田さんはなぜそんなに私たちのことを知っているの?なぜそんなに私たちを見ていたの?なぜ……?なぜ私たちをずっと見ていたの?)
 これ以上太田さんについて追及すると恐ろしい結末が待っていそうで脳が警笛を鳴らす。考えるな、太田さんは由利に強要されて話しただけ、入学当初から未来たちに注目していたわけではない、太田さんは……。
(……やめよう、今は由利さんの話にだけ集中しよう。それに私のために涙を流す人なんだ……太田さんを疑うことはやめよう)
 無理矢理太田さんを意識の外に追いやり、由利の話に神経を集中させる。
「じゃあ続けるわよ。そんな風に殺伐としたまま未来たちは夏休みに入った。太田さんは部活にも入っていなかったから夏休み中に学校に行くことはなかったみたい。それで夏休みが開けて登校すると、三年生はみんな未来たちの話で持ち切りだった」
「……」
(……来るぞ)
 ポケットに突っ込んでいる掌を強く握り直し、息を整える。
「……太田さんが一体未来たちになにがあったのか友達に聞いてみたらさ……何が起きていたと思う?ねぇ、分かる?」
 俯き加減の未来を覗き込むように由利が首を傾ける。
(あぁ分かるよ。だって私はあれを目の前で見たから……)
 脳裏に過るのは玲奈の無残な姿と手に掴まれていたキヅタの花。そんな玲奈を見て言葉を失う未来と美琴。なんて忌々しくて、残酷で、悲しい記憶なんだ。
「……ねぇ、未来。分かっているなら未来の口から言ってよ。ほら、早く」
(こいつ……!)
 由利はとても愉快そうに目を細める。きっと未来の顔が面白いのだろう。由利が話し始める前まではなんとか平静を装っていたが、話を聞いていくうちに血の気は失せ、唇は恐怖で震え始めていた。そんな未来の反応が楽しくて堪らないのだろう、由利はさらに追い詰める。
「ほら……。怯えきっているその唇で言ってみてよ。未来とポニーテールちゃん、雪女の間になにがあったのか」
 恐怖と絶望で頭がくらくらしてくる。どうして、どうして私はいつまでもこんなに辛い想いをしなきゃいけないのか。ねぇ、美琴、玲奈……やっぱり二人は私を赦してくれないんだね?
「あ……」
 震えた声が漏れる。駄目だ、いくら強がっても、あの事実を未だに受け入れられずに逃げ回っている私が……自分の口から話すだなんて……出来ない。
(くそっ……!悔しい……由利さんの前でこんな風になるなんて……。なんとか冷静な振りを続けられると思ったのに……!駄目だ!身体は嘘をつけない……)
 自分の意思とは裏腹に恐怖と怯えで血の気が失せていく顔、震えが止まらない指先と唇……砂漠に迷い込んだようにカラカラに渇いた口内。体は未来の恐怖を如実に表していた。
「ふ~ん……。その反応を見る限りやっぱり本当の話だったんだぁ。太田さんの作り話かもしれないって心配していたけれど……これはガチだね!」
「……はぁ?」
 訝し気に由利を見ると手を叩いてケラケラと喧しく笑う。まるで猿みたいだ。
「いやね、どうにかあんたに一泡吹かせてやりたくてたまらなかったのよ、私は!だから未来が人には知られたくない思い出、黒歴史ってやつ?それを入手出来たらあんたに勝てると思ったのよ。でも未来と同じ高校出身の人は私たちの学科には誰もいなかった。顔が広い私は他の学科にも範囲を広げたけれどいなかったのよ……。だから諦めるしかないかって思っていたところに太田さんの登場よ!」
「……?太田さんと私が同じ高校出身だって分かっていたから無理矢理私の過去話を聞きだしたんじゃないの?」
 よく分からない展開に恐怖よりも戸惑いが勝つ。
「はぁ?人聞きの悪いこと言わないでくれる~?太田さんから言ってきたのよ。未来と同じ高校を卒業したって」
「……え?」
 あまりのことに言葉がない。
(……待って、ちょっと待ってよ。太田さんはそんなこと言っていなかった……。だって、あんなに涙を流して必死で謝っていたんだ……。そんな人がわざわざ由利さんにそんなこと言いに行くはずがない……。あ、そうか……これは由利さんの嘘だ。そうだ、嘘に決まっている)
 バクバクと煩く脈打つ心臓を押さえる。
「……太田さんと由利さんはそんなに親しくないでしょ。それなのに向こうから由利さんに話しかけてきたってこと?なんか……想像つかないなぁ」
「あ、疑ってるわね?残念ながら本当よ。私も最初は全く話したことも、名前すら覚えていない子にいきなりそんなこと言われたから驚いたわよ。正直私と住む世界が違うというか……あんまり可愛くないしダサいしね~。なーんか気持ち悪いから無視しようと思ったけれどこんなに面白いことになるとはね~」
 視界が黒く染まっていく。嘘、嘘だ。なんで、どうして?太田さんは私を騙したの?
「……でも辻褄が合わないよね?どうして由利さんが私と同じ高校を卒業した人を探しているって知っていたわけ?会話したことないんだよね?」
「あ~それは太田さんが盗み聞きしてたのよ。気持ち悪いことに!」
「盗み聞き?」
「そう!私が未来と高校が一緒だった子いない~?って質問し回っているのを聞いていたみたい。それで自分のことだ!って思ったから私に教えてくれたんだって」
「……そう」
 あまりにも残酷な現実に頭がおかしくなりそうだ。
(……太田さん……。あの話は嘘だったのか。由利さんに強制されたどころか自ら話しているじゃないか。なんだよ……あの嘘泣き女め……)
 怒りと失望、裏切られた悲しみでもう訳が分からない。
 様々な感情をどうやって整理しようかと黙っていると、由利が焦れたように人差し指で机を叩く。
「もう太田さんのことはどうでもいいからさ~。ほら!言えよ!あんたが……未来が友達に何をしたのか、何を見たのか。その生意気な口で言ってみろよ」
「……」
 背筋に冷や汗が伝う。本当に情けないが未来は怖かった。執着に未来を陥れようとする由利が、未来に嘘をついて由利に全てを話した太田さんが、高校三年生の時に起こったあの出来事が……全てが怖い。
(……嫌だ、怖い……)
 爪が皮膚に食い込むほど掌を強く握りしめ、口を引き結ぶ。しかし由利は諦めない。
「おい、言えって」
「……」
 首を垂れ、汚れが蓄積しているスニーカーのつま先を見つめる。
(あぁ……汚いなぁ。本当に……汚いよ……由利さんも太田さんも、私を置いて遠くに逃げてしまった美琴も玲奈も……みんな、汚い。……もちろん私も汚い)
現実逃避をしていると由利が椅子から腰を浮かし、前のめりになった状態で未来の顔を覗き込む。今にも鼻が触れそうなほどに近い。
(……やめろ……やめろよ!)
「……!」
「……ふん、結構いい顔するじゃん。いつもポーカーフェイスで何を考えているのか分からない薄気味悪い奴だと思っていたけれど、怯えきった顔はなかなかいいんじゃないの?まさしく負け犬って感じで私は好きよ。いつもの未来よりね」
「……」
(……むかつく。むかつくけれど言い返せない。今口を開けば絶対に今以上にみっともない姿を見せてしまう。それは……嫌だ)
 他者を甚振る愉悦に酔う熱を帯びた由利の視線から逃れるように目を強く瞑る。しかしそんなことくらいで由利は引き下がらない。お気に入りを奪われた鬱憤を晴らすにはまだ足りない。
「……フッ……」
 未来の必死な様子を鼻で笑い、ゆっくりと口元を未来の耳に近づける。由利の息が耳にかかり、こそばゆいが今はそのこそばゆさも恐怖を与える一因でしかない。
(……何をする気だ)
 次にどんな行動に出るのか全神経を由利に集中させていると、耳元でボソリと由利が呟く。
「この人殺し」
「……っ!」
 『人殺し』。その言葉の意味を理解した瞬間、走馬灯のようにあの日の映像が次々と脳裏に現れては消えていく。
「……あ……」
 涙の跡を頬に残したまま目を開かない玲奈、玲奈の右手に握られたキヅタの花、玲奈の真っ白な肌が赤く染まっていく姿を茫然と見つめるしか出来ない未来と美琴、現実を受け入れらずに床に膝をつく未来、目を見開き大粒の涙を零す美琴、玲奈の身体から流れる液体のように真っ赤な夕日が射しこむ教室……。あの日起きた、地獄のような、忘れようとしていた恐ろしい情景が一気に記憶の引き出しから溢れ出してくる。
「……うぅ……」
 絶望、恐怖、罪悪感で何かが身体の底から這いあがってくるような気がして口を押え机に突っ伏す。
「……うっ……うぅ……嫌、だ」
 あの日の匂い、声、音、感触……全てをリアルに思い出してしまい未来を苦しめる。その姿を由利は満足そうに眺めていた。
「ふふっ……!ふふふ!あ~面白い!なに、どうしちゃったの?未来ってば~。急に突っ伏しちゃって。どうしたの、吐きそうなの?体調悪いの?」
 未来の体調を気遣うようなことを言いながらもその瞳と口元は湧き上がってくる悦楽を隠しきれていない。
「……ねぇ未来ってば急にどうしちゃったの?」
 机に伏せた未来の耳元でわざとらしく由利が問いかける。
(……こいつ……なんて奴だ……!ここまで性根が腐っているとは思っていなかった!)
「う……うるさい……」
 胃からせり上がってくる吐き気を堪えながら由利に反抗する。すると由利は少しだけ機嫌を損ねたようで声のトーンが下がった。
「あ?なに、もういつもの未来に戻ったわけ?駄目じゃん、そんな簡単に立ち直ったら。そうじゃないと私が困るし、……なにより楽しくないでしょ」
「は?何言ってるの……この性悪女……!」
 頭を軽く上げ、由利を睨みつけると心底不愉快そうに由利の顔が歪む。だがすぐに憎たらしい笑みを浮かべる。
「……確かに私は性格が悪いかもしれないけどさ、未来よりはマシだよね?だってあんたは人殺しじゃない」
「っ……!」
 『人殺し』という言葉に後頭部を金属バットで殴られたような衝撃が走る。
「……ち、違う……!私は、人殺しなんて……してない!」
 本当だった。今までの人生で間違いを犯したことがないわけではなかったが、決して法を犯したことは一度もなかった。『人殺し』なんてもちろんしたことがない。そんな重罪を犯した人間が今、この場所にいられるわけがない。
「……私は法を犯したことはない……!」
「もう、何マジになってるの?分かってるよ、そんなこと。未来が本当に人殺しだったら大学に通えないもんね。法律はよく分からないけれど多分まだ少年院とかにいるはずだもんね~」
「……分かっているなら……!二度と人殺しだなんて言わないで!」
「ん?でもさ~ある意味人殺しじゃない?」
「……何を言って……」
 由利のあんまりな言い方に勢いよく机から顔あげ、由利の胸倉を掴もうと腕を伸ばすとその腕を由利に絡めとられる。
「ちょっと、何感情的になってんの?落ち着いてよ、冷静に、冷静に!未来がいつも言っている言葉でしょ。ほら、未来が騒ぐからこっち見てる子が何人かいるじゃん」
「あ……」
 数十分前の自分の言葉を真似されたことに腹が立ったが、由利の言う通りこちらに注意を向けている学生が何人かいたので我に返る。
 大人しく椅子に座り直す。
「……」
「ん、それでよし」
 まだ未来の腕を握ったまま由利も椅子に腰かける。
「……でさ、続きだけど……。未来が直接手を出したわけじゃなくてもさ、雪女を死に追いやったのは未来でしょ」
「……」
(それぐらい私だって分かっているよ……だからもう何も言わないで……)
「あんたと雪女がどんな会話をしていたかは太田さんもよく知らなかったみたいだけど、どうせ酷いこと言ったんでしょー。私に近づくなとか、鬱陶しいとか……。それで未来の心無い言葉に傷ついた雪女は死を選んだってわけ」
(……確かに私は何度か玲奈に冷たい態度を取ったし、酷いことを言ってしまったこともある。でも、でも!それだけでまさか……)
 いつも未来に縋って、依存して、執拗に未来からの愛を求めて……。そんな毎日が続けば嫌になるのは仕方がないことだと思わないか。私だって限界だったんだ。異常な愛を玲奈に与えられて、求められて辛かったんだ。
(決して玲奈を憎んだことはなかった。でもあんな異常な愛され方をみんなは受け入れられるのか?私だけが悪かったのか……?)
 玲奈の執着にも疲れ果てていたが、美琴だって狂い始めていた。果たしてあれが美琴の本性だったのか玲奈に感化されたモノだったのかは、知るすべもない今となっては考えるだけ無駄なのだが、美琴も徐々におかしくなっていった。初めは玲奈を諭していたが、途中からまるで玲奈の愛し方が正しいとでもいう風に異常な愛を未来に与えて、求めて……。そんな狂った二人に囲まれた私に全ての罪を押し付けるのは酷ではないだろうか。
(……二人を救えなかった事実は認めるし、私の言動で二人を追い詰めてしまったことも認めよう。でも、それでも……本当に私だけが悪かったのか?私がずっと、ずっと、今も!人殺しと言われ続けないといけないのか?美琴は、玲奈は……私を赦していないということなのか……)
 音信不通になってしまった美琴とこの世ではない遠いどこかに逝ってしまった玲奈のことを想う。
「……私はやっぱり人殺しなの……?私は、赦されてはいけないの?二人は……美琴と玲奈には何の落ち度もなかったの?私も、私だっていっぱい傷ついたのに……それなのに二人は私から逃げたの?罪だけを私に押し付けて?」
 もはや未来は現実と過去がごちゃ混ぜになってしまっていた。
「……ちょっと?いきなりどうしたの?」
 終始楽しそうに笑っていた由利だったが、未来の様子が明らかにおかしいことに気づき身体を強張らせる。
「……ねぇ……教えてよ……私は人殺しなの?なんで美琴と玲奈は私から逃げたの?私を見捨てたの?どうして私だけ……」
 目の前にいるのが由利と認識出来ていないのか、未来は由利の両手を握り懺悔するように、責めるように、ここにはいない美琴と玲奈に問いかける。
「ちょ……ちょっと?未来、あんたどうしたの?」
 由利の両手を力強く握りしめる未来の瞳には光が無かった。予想よりも悪い事態に陥ってしまったことに気づいた由利は慌てふためく。
「……未来!手を離して!ねぇ、聞いているの?」
「……」
 由利の両手を握り、下を向いた未来は何も言わない。
「あぁ……くそ!」
 せっかく未来の弱点を抉って、楽しんでいたのに水を差された由利は酷く不機嫌になる。八つ当たりで未来の手に爪をたて、無理矢理解放させる。未来の手には赤い線が何本か出来ていた。
「……なによ、本当に気持ち悪いわね……」
 未来に触れられていた手をパンパンと払い、この場を去ろうとした由利の眼に食堂に戻って来た環と茉莉奈が飛び込んできた。
「……そうだ!」
 なにやら良からぬことを思いついたらしい由利はもう一度椅子に座り直す。
(……私は人殺しなんかじゃない……いや、本当に?私のせいで玲奈は……美琴は……。違う!私だけの責任じゃない……!そうだよね?二人とも……)
 環と茉莉奈が食堂に戻って来たことすら未来は気づけない。そんな心ここにあらず状態の未来に由利は笑いかける。
「ねぇ、環と茉莉奈が戻ってきたよ。ちょうどいいから二人にもその話をしてあげなよ。あ、おーい!環―、茉莉奈―。こっちー!」
「……環……茉莉奈……。あ、あぁそっか。そうだった」
(私は今大学にいるんだった。少し混乱してしまっていた。……?待てよ、今、由利さんはなんと言った?)
『二人にもその話をしてあげなよ』
 ぞっと未来の背中に悪寒が走る。いけない、環と茉莉奈にだけは知られてはいけない。本当は誰にも知られたくなかったけれど、由利やその他のどうでもいい人間に知られるのはまだ我慢出来る。でも未来にとって大事な人たちである環と茉莉奈にだけは内緒にしていたい。だって、もし、未来の過去を二人が知ってしまったら……一緒にいられなくなる。
「そんなに怯えないでよ。あんたが間接的に人を殺したことは黙っといてあげるよ。でもね、未来が自分の意思で親友だった二人を見捨てた過去があるってことは教えてあげてよ。そうしたら環と茉莉奈もあんたに失望して私の元に帰ってくるだろうし」
「そ……そんなの……嫌に決まっている。そもそも私はあの子たちを見捨てていない。……思春期によくある複雑な人間関係が私にもあった。ただそれだけじゃない。別に……環と茉莉奈に教える必要なんてどこにもないよ……!」
 縋る想いで由利の手を掴むが、虫を払うかのように叩き落される。
「笑わせないでよ。思春期によくある?そんなわけないでしょ。よくある問題だっていうならなんで雪女は死んじゃったの?誰が雪女をあそこまで追い込んだの?どうして未来は知り合いがいない大学にわざわざ入学したの?……あんたは雪女を殺したも同然だし、あんたは二人から逃げるためにポニーテールちゃんと雪女との過去をなかったことにしようとした。これって二人を見捨てたってことよね?」
「……うぅ……」
 由利の的確な指摘に何も言えなくなる。このままでは由利の思惑通りにことが進んでしまう。どうすれば、どうすればいい?
 迫りくる断罪の時に恐怖し、身体を小さくしていると環が声をかけてくる。
「ただいま、未来。……ってどうしたの?顔色悪いし、よく見るとなんか……目も潤んでいるし……」
 すぐに異変に気付いた環は心配そうに未来の肩を抱き、隣の席に腰を下ろす。
「……だ、大丈夫。なんにもないから……!」
「大丈夫そうには見えないけれど?というか身体、震えているわよ。声だって覇気がなくなってるし……」
「……」
 さすが環といったところか。ずっと未来を見つめていた人間なだけあって、未来の僅かな異変でも見落とすことはない。
「あれ?由利ちゃんも来てたんだ」
 トイレにでも寄っていたのか、環より数分遅れて環も合流する。
「あ、茉莉奈~。おはよう。さっきゼミが終わってね、環と茉莉奈に会えるかなーってさっき食堂に来てみたんだ」
「……あーそうだったんだねぇ」
 ちょっぴりぎこちない笑顔のまま由利と談笑する茉莉奈。恐らくあんなに不自然な笑みを張り付けているのは、キャンセルした卒業旅行についていつ駄々をこねられるか不安だからだろう。
(……多分由利さんはもう駄々はこねないだろう。だって環と茉莉奈が由利さんの元へ帰る、とっておきの切り札があるもんね……)
 『人殺し』で親友を『捨てた』未来の過去を知れば、さすがの環と茉莉奈だって由利を選ぶかもしれない。そっちの方が二人にとってもいいのかもしれないけれど。事実、環と茉莉奈もかつての親友、美琴と玲奈のようにやや歪な感情を未来に抱いている。このままその歪んだ想いを未来が無視して付き合っていけば、あの悪夢を繰り返しかねない。それならいっそのこと環と茉莉奈に未来の汚らわしく、醜く、情けない過去を伝えて、未来から離れさせるほうが良いかもしれない。
(本当は嫌だけど……二人とずっと仲良く一緒にいたいけれど……でも、きっと由利さんは二人に教えてしまう。そうしたらもうお終いだ)
 環に肩を抱かれながら、絶望と涙を抑えるために床を見つめる。すると由利と雑談をしていた茉莉奈が訝しげにこちらを見る。
「ねぇ、未来?もしかして体調悪いの?さっきから静かだし、顔色も優れないね……。それに……寒いの?ほら、こんなに手が震えて……」
 未来の掌を茉莉奈が優しく包み込む。
「……大丈夫、大丈夫……!心配しすぎだよ~」
「……未来……本当に大丈夫なの?帰ったほうがいいんじゃないかな?」
「確かに体調悪そうね……。ごめん、未来。私たちの用事が終わるまでここで待っていてって言ったから」
「いや、大丈夫!それに環のせいじゃないから謝らないでよ!」
 心底申し訳なさそうに眉を顰める環と、子を慈しむように優しい手つきで未来の頭を撫でる茉莉奈をこれ以上心配させまいと必死で元気な自分を演じる。しかしやはりというか、さすがというべきか……環と茉莉奈は未来の言葉なんて当てにせず、未来をここまで追いやったと思われる元凶を見つけ出した。
「……もしかして由利?」
「……もしかしなくても由利ちゃん?」
 未来ばかり構い、放置されていた由利が嬉しそうに返事をする。
「うん、何?」
「ちょ……ちょっと待って……」
 由利には分からないのだろうが、未来には分かる。環と茉莉奈が一瞬で纏ったこの不穏な空気。
「ねぇ、由利さぁ……未来とここで何を話していたの?」
 未来の肩を引き寄せながら低い声で環が問いかける。未来ばかり構う環の様子に些か腹が立っていたのか、由利は頬を膨らませ答える。
「何って……普通の話だよ!どんな卒論書いたの?就活はどうなったの~?とかそんな話!あ……後はぁ、高校時代の話とか?きっと環と茉莉奈も知らない未来の驚きの過去話を聞いちゃったの!二人とも知りたくない?」
「……!」
 由利が今から何を話すつもりか、見当がついた未来は不自然に身体を強張らせ息を詰める。肩を抱き寄せていた環は未来が何かに怯えるような態度に何かを感じ取る。
「……未来の過去かぁ。確かに私たちも知らないこともあるから気になるけど……由利ちゃんと未来って自分たちの昔話で盛り上がるほど仲がよかったかな?あまり一緒に話している姿も見たことないし……」
 茉莉奈がわざとらしく首を傾げる。恐らく茉莉奈も気づいているのだろう。自分たちが席を外していた僅か一時間の間に、未来は由利によって傷つけられたのだと。
 茉莉奈の言う通り、未来と由利は親しくない……むしろ仲が悪い。そのことは由利も自覚していたので茉莉奈の言葉に狼狽したが、すぐにいつもの調子を取り戻す。
「まぁ確かに今まではあまり話したことはなかったけれど、もうすぐ卒業でしょ?だから一度ぐらい未来とちゃんとお話ししてみたいなーって思ってね!それで食堂に行ったら偶然未来がいたから色々お話ししたの!そしたら意外と盛り上がってね~、ね、未来!」
「……え?」
「盛り上がったよね?」
 可愛らしく微笑み、未来に同意を求める。その瞳には「頷け」と書いていたので未来は大人しく頷いた。
「う、うん……。も、盛り上がったね~。こんなに楽しいならもっと早くから由利さんとお話しすればよかったよ~……」
「ほらね~。未来もこう言ってるじゃん!環も茉莉奈も大げさだな~。何、未来が誰と話して、誰と仲良くしていたか、どんなことを話したかとか、把握したいの?それは少しおかしくない?」
 少しだけ環と茉莉奈を挑発するような口調で由利は問う。しかしそんな厭味ったらしい態度を気にも留めずに環と茉莉奈は何のこともなさげに答える。
「えぇ、そうよ。由利の言う通り私たちは未来が誰と話して、誰と仲良くしているか、その人と一体どんな話をして、どんなことをしたのか、全てを把握したいの」
「……うん、私も環と同じだよ。由利ちゃんの言う通りそこまで知りたいと思うのはおかしいかもしれない。けれど知っておきたいの。私たちがいないところで未来が誰と笑いあっていたのか、もしくは誰に傷つけられたのか……全てを知っておきたいの」
「……」
(……引いてる?)
 怯むこともなく堂々と、まるでそれが当然だという風に断言した二人を由利は若干頬を引き攣らせながら見つめていた。環と茉莉奈の発言に引いていることは明らかだ。
「へ、へぇ~そんなに環と茉莉奈は未来のことが好きだったんだ~。それは知らなかったわ。ていうかさ、二人が把握しておきたいことはもう私が教えたよね。未来はここで私と、お互いの高校時代について盛り上がった。ね?これ以上知る情報は何もないでしょ」
「……まぁ確かにそうなんだけどね……まだ足りないわ。ねぇ、由利。あんた未来に何をしたの?つい一時間ほど前の未来は何かに怯えているような態度じゃなかったし、もっと元気だったわ」
 未来の肩を強く抱きしめ、環は由利を問い詰める。
「……な、何もしてないって!勝手に私を悪者にしないでよ!」
 激昂した由利は椅子から立ち上がり、なぜか未来を睨む。
(……まずいなぁ……由利さん、怒ってるよ。なんとかしなきゃ…
…)
 挙動不審に目線を右に、左に彷徨わせていると由利が焦れたように声を荒げる。
「未来もなんとか言いなよ!あんたがそうやって被害者ぶっているから私が悪い奴になっているじゃない!いい加減にしてよ!」
 由利の声に背筋を伸ばし、慌てて由利のフォローに回る。
「あ……ご、ごめん!えーと二人とも!私と由利さんは本当に高校時代の思い出について話していただけだから……由利さんを悪者扱いするのはやめてやってよ、ね?」
「……じゃあどうして未来はそんなに顔色が悪いの?環も言った通りさっきまでとは大違いだよ。突然体調が悪くなった風にも見えるけれど……誰かの言葉で傷つけられたような表情をしているよ、今の未来」
「……え?」
 茉莉奈が未来の頬を優しく包み込む。
「今にも泣きだしそう……ねぇ、未来、本当なの?本当に未来は誰にも傷つけられていないの?」
 じっと茉莉奈の大きな瞳に見つめられ、思わず口ごもってしまう。
「うぅ……だから……それは、気のせい!気のせいだよ!も~二人とも過保護だなぁ。そうやって気遣ってくれるのは嬉しいけれど由利さんに失礼じゃないか」
「そうよ!さっきから環も茉莉奈もどうしたの?未来ばっかり構って、未来の心配ばかりして、おまけに私を悪者扱いするなんて、あんまりよ!」
 未来と由利が必死になって二人を説き伏せようとするが、無駄だった。
「未来は意外と自分に無頓着だからねぇ。例え自分がどれだけ悲しい想いをしていたとしても誰かを庇ったり、なんでもなかった風に笑ったりする子なのよ。だから、未来の大丈夫は当てにならないってとっくの昔に気づいているわ。……それに個人的に由利に関しては前から気にいらないところがあったから」
「本当だよ、未来は嘘が上手だからね。その嘘っていうのは誰かを守る為の優しい嘘が大半だけどね。でもその嘘はもうやめたほうが良いよ。私たちみたいに未来のことを誰よりも大切だと想っている人の心を傷つけることになるんだから……。あぁそれで、なんだっけ?由利ちゃんか。うん、由利ちゃんはね……未来のことがなくても目に余る行動が多かったからね。いい機会だからハッキリ伝えようか」
「……環?茉莉奈?なに、どうしたの……。気に入らないってどういうこと?」
 環と茉莉奈の氷のように冷たい眼差しに由利の声が震える。それも仕方がない。普段の環と茉莉奈も未来のように素を曝け出さずに、多少の演技をしている。周囲が求める「自分」を、勝手に創り出された自分らしい「自分」を演じている。それは由利の前だって例外じゃない。だから由利は知らなかったのだ、環と茉莉奈があんなに冷たい口調で話すことを、嫌悪に満ち溢れた瞳を自分に向けることを、この瞬間まで知ることはなかった。
「……二人ともいきなりどうしたの?今日もそうだけど、なんか最近変だよ?私が遊びに誘っても断ることが増えたし、一緒に過ごす時間だって急に減ったし……それに!卒業旅行まで行かないっていうし……。ねぇ、環、茉莉奈、一体どうしちゃったの?」
 二人の態度が急変したことに戸惑ったのか、由利は環と茉莉奈の手をとり問いかける。しかし二人はその手を振り払い、面倒くさそうに由利の質問に答える。
「どうしたもなにも……私たちは元からこうよ。ただ由利の前ではあんたが望む環を演じていただけ。一度だって由利のことを友達だと思ったことなんてなかったわ。でもそれを正直に伝えるのはあまりにも酷でしょう?だからたまに由利の誘いに乗ってあげたり、一緒に遊んであげたりしていただけよ」
 うんざりとした表情で環は由利に残酷な事実を吐き捨てる。由利は驚愕で目を大きく見開く。
「う……嘘でしょ!?どうしてそんなこと言うの?今まで楽しくやってきたじゃない!ねぇ、環、私たち友達でしょう?」
 由利の必死な姿を環は素知らぬ顔で無視をする。
「……っ!茉莉奈!茉莉奈は違うよね?私たち……友達だよね?」
「……由利ちゃん、ごめんね。その質問には答えられないよ。だって素直にその質問に答えてしまったらきっと由利ちゃんは悲しむよね。だから……言えないよ」
 遠まわしに「由利とは友達ではない」と認めたモノだ。さすがの由利も茉莉奈が言わんとすることを理解した様子で茫然と立ち尽くしていた。
(……どうしよう、なんだか可愛そうになってきたぞ)
 初対面から気に食わなかった由利。普段から嫌味を言ってきたり、未来を便利屋として扱ったりと嫌な目にさんざん遭ってきた。つい数十分前にも未来は由利によって深く傷つけられたばかりだ。誰にも触れられたくなかった過去を弄りまわされ、古傷を抉られた。その行いを赦せるはずもないが、さすがに今の由利は哀れで見てられなかった。
「ね、ねぇ二人とも……言い過ぎじゃない?」
「そうかしら?由利はこれぐらいで傷つくほどにか弱い乙女だったかしら」
「そんなわけないよ。由利ちゃんは強いよ、本当に強い。自分の利益のためなら躊躇なく誰かを陥れるぐらいに強いよ」
「……」
 どうやらもう駄目みたいだ。未来が由利への怒りを爆発させる前に環と茉莉奈の堪忍袋の緒が切れてしまった。
「由利は我儘なお姫様だから気づいていなかったかもしれないけどね、あんたの言葉と行いで未来がどれだけ傷ついてきたか分かっているの?由利が未来に心無い言葉を吐き捨てる度に怒りでどうにかなりそうだったわ」
「本当に……。どうしてそこまで未来を傷つけるの?やめてよ……私たちの大事な、大事な未来を傷つけないでほしい。ねぇ、由利ちゃん……分かったらもう二度と私たちの前に現れないで」
「……」
 お気に入りである環と茉莉奈に己の存在と今までの関係を否定されるようなことを言われながらも由利は何も言わなかった。ただ俯き、掌を強く握り肩を震わせているだけ。
(……泣いている?)
 まさかそんなはずはないと心のどこかでは思うが、もしかしたらと不安になった未来は由利の肩に優しく触れる。本当は未来が由利を心配する必要はどこにもないのに、未来を『人殺し』だと罵った相手を、環と茉莉奈の元から未来を離させようと画策していた人を、ずっと憎たらしいと思っていた由利を……それなのに愚かにも未来は同情してしまった。そうやって未来のことを好ましく思っていない相手に情けをかけたところで、事態は好転しないというのに。そう、これこそが未来の駄目なところなのだ。どんなに憎い、嫌いだと思っていても最後には手を差し伸べてしまう。結果、未来が苦しむことになると分かっているのに。
「……由利さん、大丈夫?」
 怒りか、悲しみか、震える由利の肩を優しく触れた瞬間、由利は顔を上げ未来を睨みつける。
「……!」
 未来を睨みつける由利の瞳に今まで見たことのないほどの憎悪が渦巻いていることに気づき、息を呑む。
(……まさか、ここまで嫌われていたとは……)
 憎悪に燃え滾る瞳で未来を睨んだまま、由利は癇癪を起した子供のように大声を出す。
「うるさい!未来ごときが私に同情するな!触るな!あんたに触られたら汚れる!」
「……ちょっと由利?いい加減にしなさいよ」
「由利ちゃん!声が大きいよ……!」
 環と茉莉奈が興奮している由利を落ち着かせようとするが由利の怒りは止まらない。
「うるさい!なんで未来なの?未来のどこがいいの!?こんな奴……一緒にいても楽しくない奴なんかが……!どうして未来みたいなどうしようもない人間が環と茉莉奈に愛されるのよ!意味わかんない!」
 話す度に怒りが増していくのか、由利の声は徐々に大きくなっていく。それにつれて周囲の関心もこちらに集まってくる。
(うぅ……みんなが見ている……)
 未来たちとは全く無関係の他人が、まるでワイドショーでも見ているかのように興味津々といった様子でこちらを見つめている。娯楽の一種として、暇つぶしとして……食堂にいる全ての人間が未来たちのショーを楽しんでいた。
(……やめて、やめてくれよ。私たちは見世物じゃないんだよ……!お願いだから、見ないで……聞かないで!これから由利さんが言ってしまうだろうあの言葉を、聞かないで!)
「……由利!声が大きいわよ……!みんなが見ているわ、こんなみっともない姿をこれ以上見られたくないでしょ?一旦落ち着きなさい」
「そうだよ……!由利ちゃん、落ち着こう……」
「なによ!私はずっと、ずっと……環と茉莉奈のことを気に入っていたのに!だから他の奴より贔屓してやったのに!それなのにあんまりじゃない!どうしてよ?どうして未来なの!?こいつは環と茉莉奈の友人に相応しくない!」
 憎しみに塗れた瞳がまっすぐに未来を射貫く。
「……あ……」
(駄目だ……言わないで……)
 冷たくなった玲奈を抱きしめる未来に暴言を吐いて逃げ去る美琴の後ろ姿、今まで普通に接してきたクラスメイトからも名前も知らない生徒からも後ろ指を指され、逃げ惑うありし日の自分の姿……。忘れていた情景が脳裏に駆け巡る。
「……やめて、由利さん……」
(……あの言葉一つだけで私が……私の存在が悪になってしまう)
「未来みたいな人間なんかが環と茉莉奈の傍にいいと思っているの?あんたは……のくせに!」
「……由利さんやめて!」
 由利の唇を塞ごうと手を伸ばしたが、遅かった。
「人殺しのくせに!」
「……っ!」
「……は?」
「……え、由利ちゃん……今なんて?」
 『人殺し』。あまりにも物騒な言葉に食堂が静まり返る。さっきまで騒ぐ由利を見てなにやら愉快そうに言葉を交わしていた学生たちも口を閉ざしていた。
(……聞かれた!食堂にいる人たちにも……絶対に知られたくなかった環と茉莉奈にも聞かれてしまった……!)
 周囲と二人の反応が恐ろしくて未来は顔を覆い、蹲る。
(……終わった、終わった。いくら私が本当に人を殺してはいないことを力説しても『人殺し』という言葉はきっと学校中に広まるだろう……)
「……」
 数分、いや数秒だろうかしばらくの間、静寂に包まれていたが俄かに外野が騒ぎ出した。
「え、人殺しって?マジ?」
「少年院出身ってやつ?え~最悪……」
「人殺しと同じ大学とか嫌……」
「ねぇ、誰のこと言ったんだろう?もしかしてあの蹲っている人のこと?じゃああの人が人殺しなの?」
「……!」
 悪意、好奇、軽蔑、嫌悪の言葉が食堂を支配する。それらは全て未来に向けられていた。みんなお前が『人殺し』だと、指を差してくる。
「……あ、あ……違う……違う……!」
 頭を抱き込み外野の声が耳に届かないように耳を塞ぐ。しかし由利はさらに大きな声で未来を追い詰める。
「何が違うのよ!あの子は最終的に自分の手で命を絶ったかもしれないけれど、そうさせたのはあんたでしょ。あんたがあの子の想いを否定したから。これも人殺しと同じよ。この人殺し!人殺しのくせに環と茉莉奈の隣に図々しく居座りやがって……!ねぇ、環、茉莉奈、聞いた?未来は人殺しなの。あぁ、本当に殺したってわけじゃないけれどね、死んだ子はね未来の親友だったのよ。でもね未来はその子を否定して、酷いことばかり言ったのよ。その結果未来に否定されたその子は自らこの世を去った。どう?間接的だけれど人を殺しているでしょ?そんな穢れた人間を大切にする必要はないよ!こんな汚くて狡くて、薄情者なんてどうでもいいでしょ!ねぇ、だから……環、茉莉奈……私のところに戻っておいでよ!」
 環と茉莉奈に手を伸ばす由利。環と茉莉奈が由利のところに行ってしまうのは辛いけれど、どうしようも出来ない未来は唇を噛みしめ、今にも溢れ出そうな涙を押しとどめるだけで精一杯だった。
(……嫌だな、本当に嫌だよ。どうして?どうして由利さんはこんなにも私を追い詰めるの?……あぁ私が環と茉莉奈からの愛を一身に受けているから?でもそれにしたって酷すぎる……)
 グスグスと情けなく鼻を啜っているとふいに頭に何かをかけられる。感触から察するに誰かのコートのようだ。
「?」
「……行くよ」
「……え?」
 頭から誰かのコートを被せられた状態で腕を両側から掴まれ、立たされる。さながらFBIに捕獲された宇宙人のような恰好だ。
「……え、ちょっと?」
「……いいから行くよ」
「未来、ちょっと恥ずかしいかもしれないけれど、今は誰にも顔を見られない様に移動することが大事だから少しだけ我慢してね?」
「……う、うん?」
「あ、ちょっと!環!どこ行くの?」
 未来は困惑していた。『人殺し』だと言われた未来への二人の態度がいつもと変わらないことに。普通なら『人殺し』と呼ばれた人に触れたくもないはずだ。それなのに環と茉莉奈はいつも通り未来に優しく声をかけて、触れてくれる。
(……どういうこと?)
 周りが見えないことも加わり未来は現状が把握出来ないまま、食堂を出る。幸い誰かから『人殺し』という野次を飛ばされることもなく無事に食堂から脱出出来た。背後からなにやら叫んでいる由利の声はずっと聞こえていたが。
食堂を出てから数分経ったところでようやくコートから解放される。
「ぷはっ」
「あぁ、私のコートだと少し息苦しかったかしら。ごめんね」
「いや、大丈夫……」
 明るくなった視界に目を細め、辺りを見渡すと図書館前に設置されているベンチの前にいた。
「そこに座っていてね」
「茉莉奈、早くこっち……。あ、未来、ちょっと寒いかもしれないけれどすぐに戻ってくるから待ってて」
「あ、う……うん」
 環と茉莉奈の言う通りベンチに腰掛け、去っていく二人の背中をぼんやりと見つめる。
(なんだろう……)
 コートを膝の上に置き、環と茉莉奈が戻ってくるのを待つ。
 しばらくすると環と茉莉奈が由利を引きずりながら戻ってきた。
「あ……」
「未来、お待たせ。ほら、由利、ちゃんと歩いてくれない?」
「由利ちゃん、泣くのは後にしてね。取りあえず未来との間に何があったか詳しく話してもらわないといけないから」
「……なによ、環も茉莉奈も馬鹿なんじゃないの!どうかしてるよ……もう意味わかんない」
 環と茉莉奈に引きずられている由利はどこか疲れ切ったような表情だ。今にも泣きだしそうにも見えるし、呆れきっているようにも見える。
 未来が座るベンチの前まで由利を連れてくると、環は由利の両手を掴んだまま背後に回り、茉莉奈は未来の隣に腰を下ろす。
「お待たせ」
「いや、そんなに待っていないけれど……えっと、それで今から何が始まるっていうのかな?」
 未来の隣に座り、爽やかに笑いかけてくる茉莉奈に疑問をぶつける。
「あぁ、事情聴取ってやつだよ」
「事情聴取?」
「うん、私たちがいない間に未来と由利がどんな話をしていたのかを全て話してもらおうと思ってね」
「……」
(……もしかして、由利さんが言った『人殺し』という言葉の真意を探るつもりなのか?)
 由利が未来を『人殺し』と呼んだ真意について環と茉莉奈が探るつもりならば、未来にとって非常に良くない状況だ。だって二人は『人殺し』という言葉を由利の嫌味か、口から出まかせのただの悪口だと思っている可能性があるからだ。
(そうか、だから環と茉莉奈もいつもと同じ態度なんだ。『人殺し』なんて言葉、由利が勢いで思わず口にしてしまった言葉だと思っているから……。じゃあ、どうして私が『人殺し』だと言われたのか……その理由を知ってしまったら……)
 真実を知った後の環と茉莉奈を想像するだけで胸が痛む。
(……絶対に嫌われる、軽蔑される……。嫌だ、怖い。怖いよ。だから、もういいよ。真実なんて探らなくていいよ……!)
 血の気が失せた唇を震わせながら必死で願う。環と茉莉奈がこのまま真実を追求せずに未来と由利を解放してくれることを。しかし、そんな臆病で狡い『人殺し』の願いなんて聞き入れられるはずもなかった。
「さて、由利。全部話してくれるかな」
 由利の両手首を強く掴み直し、物理的に痛みを与える環。
「痛い!痛いってば!なによ、少し前から違和感はあったけれどやっぱり環も茉莉奈も頭おかしいんじゃないの……!」
 由利は痛みに顔を引き攣らせるが、環は力を緩めようとしない。
「頭がおかしいのはお互い様よ。お気に入りの友達が自分の傍から離れたからって食堂で大声を出して、未来の人格を否定するような暴言を吐く由利だってなかなか頭がおかしいんじゃないの?」
「……環と茉莉奈よりはマシよ……!」
「ちょっと二人とも落ち着いてよ。環もいちいち煽らないで。由利ちゃんも興奮しないで。ただ私たちは知りたいだけなの」
 いつまでたっても話が進まないことに焦れた茉莉奈が環と茉莉奈のやり取りを中断させ、本題に入ろうとする。
「知りたいって何を?」
「分かっているでしょ。由利が未来に言った言葉の意味よ」
「どうしてあんな酷いことを未来に言ったの?未来は由利ちゃんの言葉にとても傷ついた。だからどうしてそんなことを言ったのか教えて……そして未来に謝罪してほしいの」
「……」
 由利がこちらに目を向ける。怯えきった未来の瞳と悪意、疲弊が入り混じった薄汚い由利の瞳が数秒間見つめ合う。すると由利が不適に笑う。
「私は全部話しても別にいいけれど、未来が困るんじゃないの?」
「……っ」
 思わず肩が跳ね、コートを掴む手に力がこもる。
「未来が困るってどういうこと?」
「さぁね、知らない!未来に聞いてみたら?ねぇ、未来!あの話……環と茉莉奈に知られたくないよね」
「……」
 冷や汗が背中を伝っていく。
(由利さんの言う通りだ。由利さんが私に『人殺し』と言った理由を話されたら私が困る)
 しかし未だに由利が完全な加害者で、未来を完全な被害者だと信じている環と茉莉奈は由利の態度を許さない。
「またそうやって未来を脅す……。由利、あんた本当に性格悪いわね。私はね、あんたのそういうところがずっと嫌いだったのよ」
「……へぇ……私は環のことを入学式の時からとても気に入っていたのにな、酷くない?」
「酷くないわ。酷いのはあんたよ。私たちの大事な未来をこんなに傷つけて」
「あぁ……また未来?ねぇ、やっぱりおかしいのはそっちの方よ。そりゃあね、私も環と茉莉奈を未来に取られたせいで頭に血が昇っていたことは確かだよ。でもさ、私以上に環と茉莉奈の方がおかしいよ。未来との関係はただの友達でしょ?それなのに環と茉莉奈の未来への態度は友達以上にしか見えない。なんか一々重たいのよ。なに、まさか……恋愛感情でもあるわけ?レズなの?それはさすがに気持ち悪いんだけど!」
 気持ち悪い~と笑いながら身体を揺らす。どうやら由利はもう環と茉莉奈に媚を売ることをやめたようだった。それも仕方がないことだろう。自分がいくら想っても振り向いてくれない相手を求め続けるのは時間の無駄だし、辛いだけだ。それに由利も薄々勘付いていたあることの疑惑が確かなモノになったこともあるだろう。
 ひとしきり笑った由利は渾身の力で環の拘束から抜け出し、未来の耳元に口を寄せ囁く。
「もういいや、未来。なんとか環と茉莉奈を自分の傍に戻したかったけれどもういい。環と茉莉奈は未来にあげる。ずっと信じたくなかったから気づいていない振りをしてきたけれど、今日確信したわ。未来、あんたが今大事にしている友情はポニーテールちゃんと雪女の時のように悲惨な結末を迎える可能性が高いわね。私を選ばなかったあんた達がどうなろうがもうどうでもいいけれど、環と茉莉奈の命だけは救ってやってよ。……代わりに未来、あんたがいなくなればいいのよ」
「……!」
 由利の言葉が恐ろしくて堪らない未来は目を見開き、震えだす身体を止められない。震えあがっている未来の様子に由利は満足げに目を細め、最後に気味が悪いほどに優しい声で囁く。
「今度は自分を殺せばいいんだよ。簡単でしょ?この『人殺し』」
「由利!」
「由利ちゃん!」
 環と茉莉奈が由利の腕を引っ張り、未来から遠ざける。
「なんて奴……執拗なまでに未来を虐めるのがそんなに好きなの?」
「好きではないけれど……嫌いでもないかな?」
「由利ちゃん……」
 環と茉莉奈が呆れたように額を押さえる。
「ほら、おふざけはお終いよ。由利、ちゃんと話してくれないかな……」
「もういいよ!」
 コートを握りしめ悲痛な声で叫ぶと、環と茉莉奈が驚いたようにこちらを見やる。
「もういいって……良くないでしょ。もしかして由利を庇っているつもりなら止めたほういいわよ」
「そうだよ、未来。このまま話を有耶無耶にするわけにはいかないよ」
「……違う、違うから……とにかく!もういいの!ほら、早く由利さんを放してあげてよ……」
「……でも……」
「……お願い、お願いだからこれ以上……」
 瞳に涙を溜め、環と茉莉奈に懇願する。ようやく未来の尋常ではない様子に気づいた二人はしばしどうするべきか話し合う。
「……未来の様子が変ね、どうする?未来の言う通り由利を見逃す?」
「うーん……個人的には由利ちゃんを見逃したくはないけれど、未来の焦りようを見ているとどうやら優先すべきことが由利ちゃんの事情聴取以外にあるみたいだね」
「そうね、じゃあ一先ずは未来の言う通りにしようか」
「うん」
 未来のお願いを承諾した二人は由利を解放する。
「あ~、やっと解放された……。もう、環も茉莉奈も強く掴みすぎ!跡が残ったらどうするのさ」
「どうもしないわ。さぁ、今日のところはもう帰っていいわよ」
「……はい、由利ちゃんの荷物」
「……ふん、もう環と茉莉奈なんて知らないから!精々共倒れでもすればいいのよ!」
「お好きにどうぞ。さっきも言ったけれどもう二度と未来の前にだけは現れないでね」
「……感じ悪っ……」
茉莉奈から上着と荷物を引っ手繰ると、由利はぶつくさ文句を垂れながら未来たちの前から去っていった。

 由利の後ろ姿が見えなくなると、環と茉莉奈が未来に問いかける。
「どうして未来は由利を庇ったわけ?未来だって由利のこと好いてはいなかったでしょう。それなのにどうして?」
「そうだよ、それに私たちが食堂に戻ってきてからずっと様子が変だよ。一体何に怯えているの?」
「……ご、ごめん……。ちょっと今は……気が動転していて、上手く話せない……」
 胸を押さえ、呼吸を整える。由利が去ったことで幾分か心に余裕は出来たが、まだ落ち着かない。
(それもそうか……。だって環と茉莉奈に私が『人殺し』って呼ばれる人間だということがバレてしまったんだから)
 だんだん呼吸の乱れが治まり、冷や汗も引いていく。恐怖から震えていた身体も大分落ち着いてきた。
「……ふぅ」
 深呼吸を数回。その間も環と茉莉奈は静かに未来を見守っていた。
 五分は経っただろうか、未来は徐々にいつもの自分を取り戻し始めていた。とはいえまだ環と茉莉奈に『人殺し』という呼び名がついた所以を説明出来るほどではない。きっと今日は無理だ。久方ぶりに美琴と玲奈との惨い過去を思い出し、ずっと耳を塞いできた『人殺し』という名前で呼ばれたことで未来は心も身体も疲弊しきっていた。この調子では冷静に二人に話すことなんて出来やしない。
「……はぁ」
「未来、落ち着いた?」
「ごめんね、私たちもムキになっていたよ。本当は未来の体調を優先しないといけなかったのに。ごめんね」
 環と茉莉奈がとても切なげに眉を寄せ、未来を労わる。愛情を持って未来の頬を、頭を撫でてくれる掌が心地よくて目を細める。
(あぁ……本当に二人は優しいなぁ。私みたいな『人殺し』にはもったいないぐらいに……)
 ずっと前から分かっていた。いくらあの過去をなかったことにしても、自分が本当に人を殺したわけじゃなくても、悪い偶然が重なっただけで誰も悪くなかったとしても……私みたいな薄汚い人間が環と茉莉奈の友人でいられるわけがないって分かっていた。そんな当たり前のことを気づいていたくせに、二人の好意に甘えすぎていた。二人には過去を内緒にしていればずっと一緒にいられるなんて身の程知らずもいいところだ……。
(これは罰だ。過去をなかったことにして、自分だけ明るい世界に居座ろうとした罰だ……)
 美琴が今、どんな世界を歩んでいるかは分からないが、玲奈の世界はあの日から真っ暗闇だ。それなのに未来だけが明るくて、優しい世界で幸せな人生を歩んでいくことは赦されないことだ。
(あ、そうだった……玲奈が最期に私に贈ったキヅタの花言葉は……)
 ぼんやりと自分の世界に耽っていると軽く身体を揺らされる。
「……あ」
 我に返ると環と茉莉奈が相変わらず心配そうに未来の顔を覗き込んでいた。
「熱でもあるのかしら」
「そうかもしれないね、じゃあ今日はもう帰ったほうがいいね」
「あ、ごめんごめん!ちょっとボーっとしてた」
 余計な心配をかけまいと、くったりと力なく背もたれに預けていた背筋を伸ばし、体調不良ではないことをアピールする。
「無理はしなくていいわよ」
「無理はしてないけれど……うーん、でも今日は色々あったから早めに横になりたいかなぁ」
 そういうと環と茉莉奈は数秒間顔を見合わせ、頷き合う。
「そうね、今日はもう帰ろう。長居させて悪かったわね」
「気にしないでー」
「はい、これ未来のリュックだよ。難波までは環と一緒だから大丈夫だろうけど……そこからは一人で行ける?」
「うん?大丈夫だよ!あ……そうだ、悪いけれど今日は一人で帰ってもいいかな?」
 未来の言葉に何かを感じ取ったのか環と茉莉奈は押し黙る。きっとなぜ未来が一人になりたがっているのか察知したのだろう。
「……本当に体調不良とかではないのよね?」
「もちろん」
「……それならいいけれど……うん、分かった。気を付けてかえ帰るのよ」
「じゃあ私たちは未来が出て行ってしばらくしたら帰るね」
「うん、ありがとう……後、ごめんね……色々気を遣わせて……」
  気まずそうに未来が謝罪を述べる。
「……いや、私たちこそ悪かった……と思うわ」
「……思うってなんだよー。じゃあそろそろ行くね!また家に帰ったら連絡するから」
「うん、またね」
「またねー」
 環と茉莉奈に背を向け、校門を出る。
(今は一緒にいないほうがいい。家に到着するころには気持ちも大分落ち着いてきているはずだから、その時にまた連絡しよう……)
 まだ微かに震える両手にギュッと力を籠め、速足で駅へと向かう。


13



 残された環と茉莉奈はしばらくの間ぼんやりと突っ立っていた。
「……ねぇ、環……いつまでも外にいると風邪引いちゃうからカフェに移動しない?」
「……そうね」
 赤くなった鼻を啜り、環は茉莉奈の提案に賛成する。
「……じゃあ行こうか」
「……うん」
 心ここにあらずとはまさにこのことか。環と茉莉奈はおぼつかない足取りで学内に設置されているカフェへと向かう。

 普段なら学生たちで賑わっているカフェだが、今日は幸運なことに学生の数も疎らで騒がしい連中もいない。これなら落ち着いて話が出来そうだ。
「ここにしようか」
「イイよ」
 観葉植物のお蔭で死角になっている席に環が荷物を置く。座れるならどこでもよかった茉莉奈は特に意見することなく環と同様に肩にかけていた鞄をテーブルの上に置く。
 学内カフェはケーキやドリンク、ちょっとした食事類を提供している。そのため学内カフェを利用する学生たちの大半はケーキかドリンクを注文するのだが、環と茉莉奈は何も注文しない。なんとここの学内カフェはオーダー必須ではないのだ。もちろん混雑しているときに何も注文しないで長居するのは顰蹙モノだが、今日は閑散としているので注文しなくても眉を顰められることはないだろう。ちなみにドリンク、食事の持ち込みも許容されている。あまりにも学生に寛容なカフェだ。
 間接照明が優しく照らすテーブルの上に売店で買ったドリンクを並べる。
「……」
「……」
 お互い無言でドリンクに手を伸ばし、口を付ける。
「……」
「……」
 喉の渇きを潤し、ドリンクをテーブルの上に戻す。
「……」
「……」
 沈黙、沈黙、沈黙。環と茉莉奈はいつまで経っても口を開かない。きっと考えていることや気になっていることは同じはずなのだが、どうにもタイミングを掴めない。
「……」
「……」
 気まずそうに目線を泳がせる環と茉莉奈。何度か目が合うが思わず逸らしてしまう。それは決して照れとかではなく、気まずさからだ。
「……ねぇ……茉莉奈」
「……な、なに?」
 口火を切ったのは環だった。
「……何って……私が言いたいことっていうか……私が今、何を考えているのか分かる?」
「……なんとなく分かるよ。多分だけど私も環と同じことを、同じ人のことを考えているから」
「……そう」
「……」
 また沈黙が流れる。これでは話が進まない。きっとこの場に未来がいればもう少しスムーズに話が進んだのかもしれなかったが、残念なことに未来は帰路についてしまっている。
「あぁ……もう!なんか茉莉奈と二人きりで話すのはなんだか疲れるわ……」
 環は深いため息を吐き、米神を押さえる。そんな環の言葉に茉莉奈がムッとしたように眉間に皺を寄せる。
「……ちょっと……それはこっちの台詞なんだけど……。私だって環と話すのは疲れるし、嫌だよ」
「なによ、茉莉奈ってば一丁前に口答えするようになったわね。本当……前の八方美人な茉莉奈も気に食わなかったけれど、今の妙に強気な茉莉奈も好きになれないわ」
「……環……あなたって人は本当に我儘よね。前は散々未来の隣に立つ人間は八方美人なんかじゃ駄目、博愛主義者じゃなくて未来だけを愛する人こそが相応しいとか言っていたくせに。いざ私が八方美人キャラを捨てた途端に今度は本性まで否定するなんて……嫌な人」
「……仕方ないでしょ。まさか茉莉奈が未来のために今まで築き上げてきたキャラをあっさり捨てるとは思わなかったからね」
「……あっさり……というわけでは無かったよ。今までこのキャラの自分が認められてきたからね……。それに未来にだってみんなに笑顔を振りまいて、誰にでも優しい人間が茉莉奈だと認識されているからね」
「……」
「全てが嘘というわけじゃないけれど、多少は演じている部分もあった私の人格を好きだと言ってくれていた未来に、演じることをやめた私の本性を受け入れてもらえるかまだ……不安だよ」
 未来に否定される自分の姿を想像でもしたのか、茉莉奈の表情が曇る。そんな茉莉奈を見て環は少しからかいすぎたなとこっそり反省する。
「ごめん、別に茉莉奈を責めるつもりじゃなかったのよ。ちょっと迂闊だったわね」
「あ、いや……大丈夫。というか私こそごめん。今は私の愚痴よりも未来のことが大事なのに……」
「……そうね」
「……環はさ、由利ちゃんの話を聞いてどう思った?」
「あぁ……未来が『人殺し』って言われた話?」
「うん、由利ちゃんの話だと未来が本当に人を殺したわけじゃないみたいだけれど、未来の言葉が原因で死んだ子がいるって……」
「……そうねぇ。正直その話を由利がしたとき、由利はもちろん私たちも少し興奮していたでしょ?だから話の内容をしっかり覚えていないのよね……。あ、でも由利が未来に向かって『人殺し』って言ったことと、その言葉を言われた瞬間から未来の様子がおかしくなったことはちゃんと記憶しているわよ」
「……そっか。確かに由利ちゃんも、私たちも冷静ではなかったよね。ということは『人殺し』も、由利ちゃんの話も口から出まかせのただの悪口って認識でいいのかな?」
「……それはどうかしら?未来の反応を見る限りでは、完全な言いがかりってことでもなさそうだったけれど」
「そんな……」
 身を乗り出し、環に詰め寄る。
「じゃ、じゃあ環は未来が由利ちゃんの言う通り『人殺し』かもしれないって言いたいわけ?」
「落ち着いてよ、誰もそんなこと言ってないでしょ」
「でも……!」
「それにその『人殺し』って言葉は比喩みたいなモノでしょう。未来は人を殺すなんてことしてはいないけれど、未来の行動、言葉がきっかけになって死を選んだ人がいた。それが真実だとすると未来は『人殺し』ではない。その人が自分の判断で死んだだけ。でも人によっては未来の行いがその子を死に導いたのならば未来を『人殺し』も同然だと考えるかもしれない。……つまり由利が言った『人殺し』はそういう意味なのよ」
「……な、なるほど。つまり未来は『人殺し』なんかじゃないってことだよね」
「それはまだ分からないけどね」
「なっ……まさか、環は疑っているの?未来が誰かを死に追いやるような人間だと思っているの?」
「……はぁ……ちょっと落ち着きなさいよ」
 やれやれといった様子で環は肩を竦め、茉莉奈を宥める。しかし茉莉奈はなかなか冷静になれない。
「……落ち着けって言われても……」
「あのね、茉莉奈、未来の過去は未来しか知らないの。他人から見た事実と本人が知っている事実は違うことが多いのよ。だから未来の口からこの話について言及されるまでは、私たちが言い争っても無駄なの」
「でも……そんな悠長に構えていてイイの?不名誉なことを公衆の面前で言われた未来は傷ついているはずだよ。『人殺し』だなんて言われるようなことをしてもいないのに……あんなことを言われて……しかも信頼している環にまで疑われて……こんなの、未来が可愛そうすぎない?」
「……」
「……」
 また沈黙が環と茉莉奈を包む。
「……まぁ、傷ついているはずよね」
「でしょ?なら私たちは……」
「慰めの言葉をかけたいわけ?『未来が人殺しと言われるようなことをする人ではないことを知っているよ』、『未来の過去にはそんな後ろ暗いことがあるはずがないよね』とか言うわけ?それって逆に未来を苦しめることになるわよ」
「……じゃあどうすればいいの?私たちはただ黙って未来が話してくれるまで待つだけなの?」
「……」
 茉莉奈の話を聞いているのかいないのか、環は呑気にドリンクに手を伸ばし残り少なくなっていたカフェオレを飲み干す。
「……その通り、私たちは待っていればいいの。未来が話してくれるその時まで、辛坊強く待てばいいの。それだけ」
「ほ、本当に待つだけ?慰めたり、元気づけたりしなくてもいいの?……未来を放置しとけばいいって?」
「放置じゃないってば……もう、茉莉奈は分からず屋だな。ねぇ、未来はいつもなら私たちと一緒に帰るでしょう」
「うん、今日は違ったけどね」
「そう、今の未来は一人になりたかったのよ。一人で何か考えたいことでもあったんだろうね。それはもう見当がついているでしょ?きっと由利が言っていた未来の過去と関係があるのは間違いないわ」
「……」
「……だからね、今の未来に必要なのは一人の時間と適度な距離感なのよ。今、私たちが未来に無暗に近づいたらきっと混乱させてしまうかもしれない。そうなってしまったら話してくれたかもしれない過去の話を聞くことは叶わない。それに未来のあの態度を見るに、怖いのよ」
「怖いって……何が?まさか……私たちが?」
 静かに環は頷く。
「未来はなんだかんだ言って私たちを心から信頼しているし、愛してくれている。でも……いや、だからこそ怖いのよ、私たちが……。私たちに拒絶されるのが」
「拒絶?私と環が未来のことを拒絶するとでも……」
「そう。未来は自己肯定が極端に低いのよ。だからまだ話していない過去のことについて私たちが知ったとき、自分の元から去っていくんじゃないかって怖くて堪らないのよ……未来は」
「……」
 俯き黙りこくってしまった茉莉奈を横目に、環は空になったチルドカップをゴミ箱に放り投げる。命中。チルドカップはゴミ箱の奥底に姿を消した。
「……というわけだから未来から何か話してくるまでは、この話題に触れない様にしよう」
「……うん、分かった。でも……」
「でも?」
「どうして未来がそこまで怯えるのかが分からないよ。未来は絶対に『人殺し』って呼ばれるような人じゃないって知っているから、だから……分からない。どうして未来は……」
「……茉莉奈、あんたは結局何も分かっていないのね」
「……どういうこと?」
「その信頼が未来の負担になっているのよ」
「そんなこと言われても……じゃあ環は未来を信用していないの?……やっぱり心のどこかでは未来が『人殺し』って言われても仕方がない人間だと思っているわけ」
 一旦は落ち着いたものの、また熱が高まってきた茉莉奈にうんざりしながらも環は話を続ける。
「だから、何度も言っているでしょ。過去は未来しか知らないって。それなら未来の過去に私たちが想像もつかないことがあっても不思議ではないでしょ」
「それはそうだけど……」
「でしょ?だから信頼は負担なのよ。~なはずがないって決めつけられたら未来だって本当のことを話せなくなるわ」
「つまり……未来が『人殺し』の可能性も考慮しとけってことか……」
「そうよ、もちろんこれは未来を疑っているとかじゃないのよ。むしろ逆よ。未来の全てを愛しているからこそよ」
「……なるほどね、結局はそこなのね……」
「そうよ、どう?私の未来への愛に恐れ戦いたかしら」
「……ちょっとね。でもさ、もし……もしだよ。もし未来が本当の『人殺し』だったらどうするの?」
 茉莉奈の質問に環は首を傾げる。
「どうするってどうもしないわよ?」
「……そのまま付き合いを続けていくってこと?」
「そうよ、未来の過去がどんなモノであろうと未来への愛は変わらないわ」
「……そっか。それはあれ?ドラマでよく見る『世界中を敵に回しても僕だけは君の味方だよ』みたいな感情なの?」
「そんな薄っぺらいモノじゃないわ。ただ私は未来を愛しているから。……少し違うわね、私は未来だけを愛しているの。だから世界が未来の敵になるわけがない。私の中ではすでに世界が私の敵なんだもの。未来以外の存在は全て等しく敵よ」
「……」
 ここにはいない未来を想いうっとりと目を細める環。それを見て茉莉奈は漠然とした不安が過る。
(……私も未来が大好きだ、愛している。ずっと未来の隣を歩いていきたい。あわよくば未来の一番になりたいと願っている。でも……こいつ、環の未来への愛は……なんだろう……)
 環の友愛以上、でも恋愛感情よりも重たい愛情に何とも言えない気持ちになる。
「……環は本当に未来のことが好きなんだね」
「もちろん、茉莉奈だってそうでしょ?」
「……うん、でも……なんか環の愛は想像以上に重たいなって」
「うーん、そうかしら?」
「そうだよ。こんなに誰かを愛せるのは幸せだよね……まぁこの感情をある人は執着とでも言うのかもしれないけれど」
「……執着ねぇ……」
「……」
「……」
 三度目の沈黙。
「……」
「……」
 居心地が悪くなってきたのか、茉莉奈がそういえば、と何気なく環に話しかける。
「……ねぇ、環はなにがきっかけで未来と仲良くなったの?」
「ん、いきなりどうして?」
「……いや、環がどうしてそこまで未来を好きになったのか、ヒントが出会いにある気がして」
「そういうことね。別に教えてもいいけれど未来と仲良くなったきかけに特別なドラマはないわよ」
「そうなの?」
「そうよ、出会いは入学式の日に迷子になっていた未来を案内してあげた時だし」
「……大して広くもないこの大学で迷子になるって凄いね」
 以前から方向音痴だということは知っていたが、まさか小規模なこの大学で迷子になっていたとは思わなくて茉莉奈はがくりと肩を落とす。
「それがきっかけで仲良くなったのよ」
「ふーん、確かに特別なことは何もないね」
「……唯一挙げるとすれば未来の方向音痴が特別酷いってことぐらいね」
「そうだね」
 方向音痴故に迷子になってしまい焦っている未来の姿を想像し、二人をくすりと笑い合う。
「そういう茉莉奈はどうなの」
「私?私は……健康診断の日に初めて未来と出会ったかな。……えーと、あぁ思い出した。未来だけ健康診断が実施されている教室に行かずに、困ったように廊下を右往左往しているところに私が声をかけたんだっけ」
「……それってまさか……」
「そうだよ、環と同じ。私も迷子になっていた未来を助けてあげたのが出会いなの」
「……はぁ、未来ってば」
「極度の方向音痴だね」
 二人とも未来との出会いが迷子になっていた未来を助けるという状況だったとは。方向音痴の未来への呆れとまさかの共通点に笑みが零れる。
「なんか不思議ね。私も茉莉奈も未来との出会い方がここまで似ているなんてね」
「確かに。それにしても未来は迷子になりすぎだね」
 そこから未来の方向音痴エピソードでしばらく盛り上がった。

「未来の方向音痴エピソードはこれからも更新されそうね」
「するよ、絶対にする。本人は必死だから笑っちゃ失礼なんだろうけど」
 未来の方向音痴エピソードのお蔭で場の空気が和やかになった。普段は犬猿の仲とまではいかないにしても、馬が合わない環と茉莉奈だがこうして未来の話をしている時だけは笑い合える。
 ひとしきり未来について話すとまたもや沈黙が訪れる。
「あ、一番聞きたいことを忘れてた」
「何?」
「未来との出会いはさっき聞いた通り、迷子の未来を助けてあげたってことだけど……」
「うん」
「その出会いからいつ、何が理由で環の中で未来が特別な存在になったの?」
「……そんなこと知りたいの?」
 頷く茉莉奈。
「知りたい。環みたいに媚を売らなくても不特定多数から人気があって、何でも器用にこなす……漫画の登場人物みたいな環が、どうしてそこまで未来を愛するようになったのか知りたい」
「……別にいいけど、なんでそこまで気になるの?私が未来を好きになった理由を聞いて茉莉奈はどうするつもりなの」
「……どうもしないよ。ただ……確認するだけ」
「確認?」
 環は頬杖をつき、茉莉奈を見つめる。
「そう、確認。私と環の未来への愛の重さを確認したいの。私だって環に負けないぐらい強い愛を持っているよ、でも、不安なの。なんだか……初めから、未来と環だけの私が知りえないなにか……特別な世界にありそうで」
「……」
「……教えてくれたら私も話すからさ。まぁ環と比べたらしようもない理由かもしれないけれど」
「……」
「……」
 何度二人に訪れたか分からない沈黙がまたやって来た。
「……」
「……」
 環は顎に手をやり、なにやら考え込んでいる。未来を特別な存在として扱うようになった出来事を思い出しているのだろうか。一方茉莉奈は膝に手を置き、環の口が開くのを今か今かと待っていた。
「……うん、別に話してもいいけれど」
 思案が終わったのか顔をあげ、環は茉莉奈と向かい合う。
「けど?」
「うん、私が未来を愛するようになった出来事を他人に話すってことは、自分の弱点やコンプレックス、闇を曝け出すことも同義なの」
「……環にも弱点とかあるんだね」
「もちろん、完璧な人間じゃないからこそ私は未来を愛しているのよ。一人ぼっちでも完璧な人間として生きていけるなら誰かを愛する必要はないし、きっとそんな感情は芽生えないわ」
「……そう……なのかな?よく分からない」
 茉莉奈は環の言わんとすることがあまり理解出来なくて首を捻る。環は最初から理解してもらおうとしていなかったらしく、これ以上説明はしなかった。
「まぁそれはいいとして。つまり、茉莉奈が知りたがっていることは簡単に人に話せるモノじゃないの」
「……」
「それに心の準備も必要ね、だってこの話は未来にだってしたことないのよ」
「そうなの?」
「当たり前でしょ。いちいち親しくなった友人に『あなたとのこれこれがきっかけで、あなたは私の特別な存在になりました』なんてわざわざ伝えないでしょ」
「……おっしゃる通り……」
「だから話してもいいけれど、今、ここで、茉莉奈に話したくはないの」
「え、でもさっきは話してもいいって」
「今、ここで、茉莉奈に話してもいいと言った覚えはないけれど」
「あー……そういうこと。私、環のその話しぶりはどうしても好きになれないよ。なんか癪に障る」
「それは結構。で、今日、ここで話すわけにはいかないけれど後日教えてあげるってことでどう?」
「……後日?」
「そう、後日。そうねえ……卒業旅行のときにでも話すわ」
「……旅行は二月下旬だよ。今は一月の中旬……。随分と焦らすね」
「……どうせなら未来にも聞いてほしいからね。私が未来をどれほどまでに愛しているのか、私にとって未来がどれだけ大切な存在なのかを伝えたいのよ」
「……分かった、本当は未来がいない所で教えてほしかったけれど仕方ないね」
「期待に応えられなくて申し訳ないわ。でも、卒業旅行のときにちゃんと話すから。そしてその話を聞いた茉莉奈が身を引いてくれることを願うわ」
 挑発的に笑う環。環の企みに気づいた茉莉奈は天を仰ぐ。
「そういうことか……」
「言い出しっぺは茉莉奈だからね」
「確かにそうだけど、そういうつもりで質問したんじゃないよ」
「そうでしょうね。でもいい機会じゃない。自分の想いと未来への愛が芽生えた瞬間を未来本人へしっかり伝えることが出来たなら、きっとずっと未来の隣に立てるわよ」
「……そうだろうね。でも……少し私が不利じゃない?そりゃ私にだって未来が特別な存在になったきっかけはあるよ。けれど環と比べたらとても薄っぺらいモノになりそう……」
 茉莉奈は頭を抱え唸る。
「あら、自信がないのね。駄目よ、自信を持たないと。強いけれど誰かの支えを必要としている未来に選ばれたいなら、自分が強くならないと」
「……そうだね」
 環の正論が胸に刺さる。そうなのだ、未来は強い。未来本人は自分のことを弱虫だと評価しているが、そんなことない、未来は強い。一人でも逆境に立ち向かう姿勢、自分の意見を大事にして誰かに流されない生き方……。それを平然とやってのける未来は強い。しかしそんな強さの反面、時折メンタルが酷く脆くなることがある。その時は素直に誰かに寄りかかればいいのに、未来はしないのだ。いや、出来ないのかもしれない。多分自分なんかが助けを求めてはいけないと勘違いしているに違いない。そんな時、未来に必要なのは支えになってあげられる人だ。
(そしてその支えになる人も未来と同じくらいに強くないといけない。そうじゃないと未来が安心して甘えることが出来ないもんね)
「あぁ……なんだか今日は憂鬱な日だよ」
「同意見だわ。由利が私たちの未来を虐めるし、教授には面倒くさい仕事を押し付けられるし……」
「そっちじゃなくて……いや、その通りなんだけど……やっぱいいや。……あ、そうだ。由利ちゃんで思い出したけれどこれからどうする?」
「どうするって由利の処遇のこと?」
「処遇って……うーん、まぁそうだね。で、どうする?由利ちゃんはどうやって始末する?」
「……茉莉奈もなかなか物騒な物言いよね……。まぁいいわ。そうねぇ……由利の逆切れを見るに、もう私たちには関わってこないんじゃないかしら」
 つい一時間ほど前の由利を思い出す。怒りからか身を震わせ、大声で叫ぶ姿は滑稽だった。
「じゃあ由利ちゃんはほったらかしでいい?」
「いいんじゃない。本当は由利を追い詰めて、追い詰めて……もっと追い詰めて、謝らせたいけれどそんなことしても無駄だからねぇ。捨て置こう」
「そうだね……」
「……」
「……」
 何処かから終業を知らせる鐘が響く。恐らく大学と同じ敷地内にある高等学校から聞こえてくるのだろう。
「……」
「……」
 チャイムを合図に同じタイミングで二人はカフェに飾られているアンティーク時計に目をやる。時刻は既に十七時を回っていた。
「あら、もうこんな時間。長居しちゃったわね」
「じゃあ帰ろうか」
「そうね」
 環は荷物を纏め、椅子を整える。茉莉奈は自分が飲んでいたペットボトル飲料を捨てるか持って帰るか数秒悩んだのち、ゴミ箱に放り投げる。
 帰宅の準備が整った環と茉莉奈は静かにカフェを出る。元々閑散としていたが、いつの間にか二人以外の学生の姿は見当たらなかった。
「まさか私たちだけになっていたとはね」
「気づかなかったね……」
「どうりで静かなわけよ。いつもこんなに静かで落ち着いた雰囲気ならいいんだけれどね」
「ハハ、私もそっちの方が嬉しいけれど難しそうだね」
 普段のピリピリとした空気ではなく、のんびりとした空気を纏ったまま環と茉莉奈は他愛もないことを話しながら校舎を出る。校舎を出た途端身を切るような冷たい風が二人を襲った。すっかり日も落ちてしまっている。
「……寒い」
「寒いね~。ほら、早く駅行こ」
「……寒い」
「……同じことは二度言わなくていいよ」
 身体を小さくし、ぶつぶつ寒さに文句を言いながら駅に向かう。
「……そうだ、茉莉奈」
「う~寒い……ん?なに、環」
「約束してね」
「何を?」
「辛抱強く未来を待ってあげること、卒業旅行の日に未来への愛を語ること。この二つを約束してね」
「……」
「……」
「……もちろん。私は意外と短気なところもあるけれど未来のためならいつまでも待つよ。……それと愛を語るって言われたら物凄く恥ずかしいね……。……うん、分かっているよ。ちゃんと私も話すよ」
「……そう、良かった」
「……」
「……」
 二人は無言で街灯に照らされた道を歩く。いつもなら隣に未来以外の誰かがいることに嫌悪感しか抱かないが、今日は違った。隣にいる人が自分と同じ人を、自分と同じくらい愛している……ある意味仲間だからだ。
(……未来を傷つけようとしないから茉莉奈は他の奴よりは信頼出来るかもしれないわね)
(私よりも未来を理解しているところは気に食わないというか、羨ましいけれど環は他の人たちよりも信用出来る相手かもしれないね……)
 お互いがお互いを初めて評価しあった瞬間だった。



 環と茉莉奈が一月の寒い夜の道を歩いている中、未来はすでに家にいた。家に辿り着くなり未来はリュックを放り投げ、服もそのままにソファに倒れ込む。ソファの端で熟睡していたスバルが振動で一瞬目を見開くがすぐにまた瞳を閉じ、惰眠を貪り始める。
「……はぁ~……」
 誰もいないリビングに未来の深い、とても深いため息が反響する。
「……私はどうすればいいんだよぉ……」
 頭を搔き毟り唸る。
(今日のところはなんとか二人の追及から逃れることが出来たけれど……ずっとこの話題をのらりくらりと交わすことは出来ない)
 未来は苦悩していた。つい数時間前に由利が環と茉莉奈の前で未来に言い放った『人殺し』という言葉を二人にどう説明すればよいのか悩んでいた。
(……最初は『人殺し』って言葉を聞いても態度が変わらなかったから、この話題に触れなくても大丈夫かもしれないって期待したけれど……環と茉莉奈も『人殺し』を由利さんの根拠ない悪口か、感情に任せて吐いた憎まれ口だと勘違いしているみたいだった)
 環と茉莉奈もまさか友人である未来が『人殺し』なわけがないと信じ切っている。確かに未来は人を殺したことはない。言葉通りの意味では。
(……でも視点を変えてみたら由利さんの言う通り私は『人殺し』なのかもしれない)
 『人殺し』。その言葉の中に誰かの心を壊したり、死への引導を渡したりすることも『人殺し』だという意味があるのならば未来は『人殺し』かもしれない。
(……いや、やめよう。もし私が玲奈に対して自殺を勧めたり、唆したりしていたならば自殺ほう助だったか?の罪で罰を受けただろう。でも私は一度だって玲奈に自殺を強要したこともない。……だから私は『人殺し』なんかじゃないんだ……)
 頭を抱え胎児のように背を丸め、無駄に長い足を折りたたむ。
(……私は『人殺し』なんかじゃない……。……それなのにどうして私はこんなに必死でこの話題から逃げているんだ?……それはつまり、後ろめたい気持ちがあるから?それともやっぱり私が原因で玲奈が死んだと思っているから?)
 未来は何度心中で己には非はなかった、あれは悲運な事件だった、未来も美琴も玲奈も誰も悪くはなかったと言い聞かせてみる。だが『人殺し』という言葉と、悲しそうな瞳でこちらを見つめていた玲奈の表情が脳内にチラつく。
(……なんだよ、これはもしかして玲奈の呪いかぁ?)
 きつく目を閉じ、未来の目の前でこの世のいざこざから逃げ出した玲奈を思い出す。
(……あぁ玲奈が私に贈ったキヅタの花の花言葉を思い出した……)
 薄く目を開き、その花言葉を口にする。
「死んでも離れない……か」
 玲奈が最期に未来に伝えたかったメッセージ。それはいっそ悲しいほどに清い愛と憎しみが入り混じった花言葉だった。どうやら玲奈は花言葉通りに死んでもなお未来から離れていないようだ。
「……やだなぁ、いい加減私を解放してよ。……玲奈のそういうところが私はしんどかったんだよ……」
 未来はオカルトが結構好きだが、本当に呪いが存在しているとは思っていない。だから本気で玲奈のせいで今も苦しめられているとは思ってはいないが、どうにも『死んでも離れない』という花言葉が頭から離れない。
(……いや、今は花言葉なんてどうでもいいか……。まずは環と茉莉奈についてだよねぇ)
「……でもどうすればいいのさ……。ねぇ、スバル、私はどうしたらいい?」
 ぐっすりと眠っていたスバルを胸に抱き、問う。スバルは快眠を邪魔され、不機嫌そうに呻く。しかし未来はそんなこと一斉気にせずにさらに強くスバルを抱き込む。
「……このまま何事もなかったかのように振る舞う?詳しい過去は話さないで『人殺し』ではないことだけは弁解しようか?それとも二人に嫌われることを覚悟で全てを話す?……ねぇ、私はどの選択肢を選べばいいかな」
「ウニャ~」
 スバルが心底迷惑そうな声で鳴き、腕の中で暴れ始めたので大人しく解放してやる。解放されたスバルはソファから降り、未来に触れられた箇所を消毒するかのように毛づくろいを始める。
「そんなに熱心に毛づくろいされたら傷つくなぁ」
 スバルの可愛らしい反応に未来は軽く口角を上げ、寝返りを打つ。
「……あ~本当にどうしよう」
 このまま何もなかった体で日常に戻るのもありだろう。環も茉莉奈も無理強いはしないだろうから、この話はもう二度と話題に上がることはなくなることだろう。でもそれだと未来は二人へ不信感を抱かせてしまう。今までだって高校生の時の話をしたことはなかったが、今回は少し状況が違う。環も茉莉奈も未来の高校時代に何かあったことに勘付いていて、知りたがっている。それなのにそれらを無視して前に進もうとするのは自ら「私の過去には他人に話せない後ろ暗いことがあります」って言っているようなモノだ。二人は複雑な未来の過去を気遣って優しく接してくれるかもしれないが、過去を一切語らない友人に果たして全幅の信頼を置けるだろうか。
「……無理だね。今は大丈夫でも積もり積もった不信感はいつか爆発する」
 では詳しい過去に言及はしないが、由利がいう『人殺し』ではないことだけでも弁解するのはどうだろうか。ざっくりとした過去について話すので不信感は先の選択肢よりは減るはずだ。未来がどんな高校時代を送ったかを簡潔に伝えて、『人殺し』ではないことをしっかり説明すれば問題は解決……するだろうか?簡単に過去の未来について話したところでなぜ、未来が『人殺し』と呼ばれるようになってしまったかを詳しく話さないと意味がないのではないか。よく考えてみればそうだ。多少のフェイクを入れて「私の高校時代は至って普通だったよ~。適当に学校に通って、数少ない友達と遊んで……って平々凡々とした学生生活を送っていたね」と環と茉莉奈に話したところで、由利が言い捨てた『人殺し』ではないことの説明にはなっていない。むしろ大事な部分を隠したと思われる可能性が高い。そうしたらやっぱり二人には不信感しか与えない。重要な部分はベールで隠し、心の扉を閉ざしきっていると認識されたら意味がない。
「……ということはこの選択肢も駄目……。残った選択肢は……」
 最後に残った選択肢、それは未来の過去を全て正直に話すことだ。とても恐ろしい、出来れば選び取りたくないカードだった。だって未来の過去を嘘偽りなく話してしまったら嫌われてしまうかもしれない。もちろん本当に『人殺し』をしたわけではないことは分かってもらえるかもしれないが、ある意味人を殺めた人間だと軽蔑されることもあり得る。そんなの嫌だ。環と茉莉奈にだけは嫌われたくない、離れてほしくない。ずっと二人から愛されていたい、傍にいてほしいんだ。我儘だって自覚している、自分のような人間がそんなことを望んではいけないってことくらいちゃんと分かっている。でも、それでも未来は環と茉莉奈を失いたくない。
「どうしよう」
 目を瞑り他に良い選択肢がないか思案してみるが、いくら頭を捻っても思いつかない。これはもう腹を括るしかないのか。
「……そうだよね、このまま逃げ続けるわけにはいかない……。ここは覚悟を決めて全てを環と茉莉奈に話そう、うん、そうしよう」
 深呼吸をして拳を強く握る。
(二人に嫌われてしまう恐れは相変わらずあるけれど……話そう。私の全てを環と茉莉奈に知ってもらおう)
 高校を卒業してからずっと目を背けてきた過去と向き合うことに決めた。本音はやっぱり過去と向き合いたくなんてないけれど、いつまでも環と茉莉奈に隠し事なんて出来ない。自分を偽って二人の隣を歩き続けるのは卑怯だし、未来は二人の信頼に応えてやらないといけない。
(……よし、どうやって話そうか。やっぱり直接会うのがいいよね?うーんいつ話そうか……なるべく早い方がいいよね……なら今度学校で会うときがいいかな?)
 クッションを掴み、何度も寝返りを打ちながらどのタイミングで環と茉莉奈に過去を打ち明けるか考える。
(……そうだな、来週ゼミが終わった後にでも話そうか……)
 一週間後のゼミが終わった後に全てを二人に話すのが良いタイミングだと判断する。
「……よし!来週に備えて心の準備もしとかないとな」
 ソファのスプリングを利用して勢いよく起き上がる。突然動き出した未来に傍らにいたスバルが驚き、飛び上がる。
「……もし環と茉莉奈に軽蔑されても大丈夫なように、今からイメージトレーニングでにしておこう……」
 なんとも後ろ向きな対策だが、そうでもしとかないと未来のメンタルは保てない。
(あ、そういえば……)
 環と茉莉奈に暴言を吐かれ、冷たい目で睨まれている自分の姿を想像しながら耐性をつけようとしている最中、ふと大事なことを思い出す。
「……太田さん……」
 太田さん。未来と同じゼミに所属しいて今日の昼間に泣きながら、未来に謝罪を述べてきた、眼鏡をかけたあまり目立たない女の子。
(……あの時は太田さんの涙に絆されてしまったけれど、どうにも彼女は怪しい)
 あの時太田さんは由利に強要されて未来の過去を喋ってしまったと言った。本当は言いたくなかった、未来を傷つけるのは本望じゃないとも言っていた。
(私に悪意を持っている風には見えなかったけどなぁ)
 真面目そうで、人を欺くなんて出来そうにも見えなかった。しかしどうやらそれは間違いみたいだった。
(由利さんによると喜々として由利さんに私のことを話したみたいだし……)
 ふむと腕を組み太田さんについて考え込む。
(……もしかして太田さんは私を陥れようとしていた?)
 あまり認めたくはないことだが、その可能性は非常に高い。だってあまりにも行動が不自然だ。四年間ろくに会話もしたことがなかったのに、今日に限って未来に声をかけ、由利の脅しに屈服してしまい高校時代の未来について話してしまったと未来自身にわざわざ伝えに来た。今思えばこの時点でおかしいと気づくべきだった。太田さんが未来と同じ高校出身だったことを、由利に未来の凄惨な過去を話したことを未来に敢えて伝えるなんて目的が分からない。しかも実際のところは由利の脅しなんて受けておらず、自ら情報提供をしたというじゃないか。
「……よくわからないや」
 そしてさらに不可解なのが、太田さんの情報量だ。未来は高校時代に太田さんの存在を認識すらしていなかった。それなのに太田さんは一度も会話をしたことがない、目が合ったこともない未来についてやたらと詳しかった。もちろん未来と美琴、玲奈が起こしたあの事件は当時の在校生の間では有名だったから太田さんが一方的に未来のことを知っていたとしても不思議ではない。
「不思議ではないんだけどね、随分前から私のことを知っていたよね……」
 そうなのだ、太田さんは入学当初から未来のことを知っていた。未来の名前、組、交友関係、普段の行動などを事細かに記憶していた。これはやはりおかしくはないだろうか。なぜ太田さんはそんな前から未来のことを知っていて、未来のことを見ていたのだろうか。そして太田さんはどうして未来と同じ大学に入学して、同じゼミに所属しているのだろうか。
「……」
 言葉では言い表せない恐怖が未来の背筋を走る。
(……解決しないといけない問題が増えてしまったね)
 環と茉莉奈に過去を全て話すこと、そして太田さんの正体と企みを突き止めること。一気に二つも厄介な問題が出てきてしまった。
(由利さんは……もういいかな。一度くらいぎゃふんと言わせてみたいけれどこれ以上由利さんとは関わらないほうが安全だ)
 未来の心を完膚無きまで傷つけた由利に近づくことは得策ではない。それに由利はもう環と茉莉奈の二人に愛想をつかしたみたいだし、二人からもハッキリと拒絶されていた。それならもう放置でいいだろう。また向こうから絡んできたときに対策を考えればいい。
「……私がやらなければならないことは二つ。環と茉莉奈に全てを話すこと。そして太田さんの真意を問うことだね」
 ふうと気持ちを落ち着かせるために息を吐く。どちらも気が重くなる問題だが卒業までには解決させないといけない。そうじゃないと未来はいつまで経っても過去に囚われたままだ。
「よっしゃ!来週は心がしんどくなる場面に直面することになるけれど頑張るぞ」
 頬を叩き、自分に喝を入れる未来を見ていたスバルが不安そうに鳴く。
「ニャー……」


14



 由利に『人殺し』と罵倒されたあの日から一週間が経った。
(うぅ、やだなぁ……全然気が進まない……)
 今日もゼミが終わった後に環と茉莉奈と会う約束を交わしている。いつもなら早く二人に会いたい気持ちから大学に向かう足取りが自然と軽くなっているところだが、今日は違う。鉛のように重い足取りで大学に向かっている。それもそのはず、今日は環と茉莉奈に未来の過去を全て話す運命の日だからだ。
(まぁ私が勝手に今日話そう!って決めただけだから先延ばしにしても何も問題はないんだけどね……でも、このままずるずると先送りにしても結果は同じ!それならさっさと話してこの重圧から解放されたい……!)
 自ら課した問題から逃げたい気持ちを抑えこみながら、一歩一歩大学に近づいてく。その時、前方に見覚えのある女性が現れた。今どき珍しい三つ編みおさげを揺らし、俯き気味に歩く女性。平均よりも小柄でお世辞にも垢抜けてはいない、地味なセーターを着ているあの子は……。
(太田さんだ……)
 太田さんの姿を認めた未来は思わず足を止める。その時、突然立ち止まったせいですぐ後ろを歩いていた女性が未来に激突してしまった。肩甲骨あたりに後ろにいる人の頭が当たった感触がして未来は慌てて振り返る。
「うわぁすみません!大丈夫ですか?ちょっとボーっとしちゃって……すみません……!」
「いえ……あの、えと、大丈夫……ですから!あ、むしろ私こそぶつかってすみません……」
 肉付きの悪い未来の骨に直撃したのだろうか、女性は鼻を抑えながら居心地悪そうに視線を彷徨わせていた。
(ん、この人どこかで見たこと……?いや、気のせいだな)
 目の前にいる女性をどこかで見かけたことがあるような気がしたが、気のせいに違いない。
「えーと……鼻血とか出てませんか?」
 彼女がいつまでも鼻を押さえていることが気がかりで不躾だと分かっていたが、鼻血が出ていないかどうか尋ねる。幸いティッシュは常備しているので、もし鼻を負傷していても対応は出来る。
 頭一つ分、いや二つ分ほど小さい彼女の顔を覗き込み、鼻の無事を確かめようとした瞬間、彼女は走り去っていってしまった。
「本当に大丈夫ですから……!」
「あ……」
 ぽつんとその場に取り残されてしまった未来。
(うーん、やっぱり私は駄目だなぁ。上手く人とコミュニケーションがとれない……。こんな時、環や茉莉奈なら上手くやるんだろうなぁ)
 だんだん小さくなっていく女性の後ろ姿を見つめながら環と茉莉奈に想いを馳せているといきなり誰かに肩を強く掴まれる。突然のことに未来は飛び上がった。
「うわっ!?」
「ちょっと」
「未来?」
 勢いよく振り返るとそこには環と茉莉奈がいた。
(……こ、心の準備が……!)
「ちょっと驚きすぎじゃないの?未来ってば」
「おはよ、未来」
「お、おはよう……環、茉莉奈」
 なぜだか落ち着かなくて目が泳いでしまう。きっと今の未来は怪しい人物にしか見えないだろう。
「?どうしたの未来。なんか様子が変よ」
「そ、そん……そんなことないよ!」
「……」
「……ごめん、あんまり私を見ないで……」
 探りを入れるように未来の肩を掴み、じっと見つめてくる環の瞳に耐えきれずに両手で顔を隠す。
「こら環……あまり未来を怖がらせちゃ駄目だよ」
「怖がらせてなんかいないわよ」
「……いや、環の真顔に見つめられたらちょっぴり怖いよ」
 茉莉奈に注意された環は漸く未来の肩から手を離してくれた。
「そうだ未来、さっきの人は知り合いかしら?」
「さっきの人?」
「ほら、ついさっきまで未来と話していた女の子だよ。なんかいきなり走り去っちゃったけど」
「あぁ~、知らない人だよ。私のせいでちょっと接触事故を起こしちゃって謝ってたんだ」
「……ふーん」
「……うーん、なんかあれだよね。未来って無意識に人を傷つけるっていうのか……無意識に相手の心を乱すっていうか……なんか、ね?」
 環と茉莉奈がなにやら苦々しい表情で唸っていたが、未来は気にしないことにした。今日の未来は心に余裕がないのだ。なぜなら二つの問題を今日中に解決しないといけないからだ。
(環と茉莉奈に全てを話すことと……太田さんの真意を確かめること……)
 とても難解かつ未来のメンタルへの負担が相当なモノになる問題に直面しなければならない。だから今の未来に二人と呑気に雑談している心の余裕などどこにもなかった。
「……あ!早くゼミ室に行かないと!遅刻したら教授に失礼だからね~。それに今日は最後のゼミだよね?なら尚更遅刻なんて言語道断だよね!」
「……何を言っているのかしら、この遅刻魔は」
「教授に失礼だとか言いながら未来は毎回遅刻してるよね……それに最後のゼミは来週だよ」
 環と茉莉奈の冷静な指摘に未来は胸中で地団駄を踏む。
(確かに私はよく遅刻する方だけど!そんなに冷静に突っ込まなくてもいいじゃん!というか最終ゼミは来週だったの?知らなかった!)
「あ~……とにかく!ゼミに遅刻するのはよくない!じゃあ私は行くね!また昼休みごろに食堂で会おう!」
 そう二人に告げると未来は走り去る。後にはいつも以上に様子が変な未来に首を傾げる環と茉莉奈だけが残された。
「今日の未来ってばなんだか不自然ね」
「うん、でも先週のことを引きずっている様子はないから良かったかな?」
「……それもそうね」
「このまま何も起きずに平穏にコトが進めばいいね……」
「どうかしらね?今のところは大丈夫そうだけれど油断は禁物よ。未来は野良猫みたいにこっちが気を緩めた隙に行方を晦ます子だから……」
「……そう、なんだ……」
 環と茉莉奈はどこか深刻な空気を纏い、不格好なファームで走り去っていく未来の背中を見つめ続けていた。


「はぁ……はぁ……だ、駄目だ、急に走ったからお腹痛い……」
 誰も乗っていないエレベーターで手すりに縋り付き、荒い息を吐く。いきなり走ったせいか、普段の運動不足のせいか未来はたった数分走っただけなのに虫の息だった。
「はぁ……はぁ……あ、着いた」
 ゼミ室がある八階に辿り着いた。酸素不足で足元が覚束ないが、エレベーターを降りゼミ室に向かう。
「……ふぅ」
(やっと息が整ってきた)
 深呼吸を繰り返しながらゼミ室を目指して廊下を歩く。すると誰かがゼミ室から出てきた。
(あれ?今日はいつもより大分早めに来たつもりだったけど、もう教授以外の誰かが来てるのかなって……そうだ!太田さんだ!)
 つい数分前に校門前で太田さんを見かけたことをすっかり忘れていた未来は、ゼミ室から出てきた彼女と距離をとるように数歩後ずさる。
「あ……星野さん……お、おはよう」
 太田さんは未来と目が合うと頬を薄ら赤く染め、恥ずかしそうに目を伏せる。
「……おはよう」
(……なんかこんな初心な態度を取られたら毒気を抜かれるなぁ)
 太田さんはやっぱり今日も清純、素朴そのものだった。こんな見るからに大人しくて優しそうな彼女が、悪意を持って由利に未来の過去を垂れこんだとは考えられない。やはり由利が太田さんから無理矢理聞き出したのかと疑ってしまう。
(いや、待てよ。それじゃあおかしいんだった。だって太田さんは高校生の時の私を知りすぎている。あの時はお互い面識がなかったはずなのに、あそこまで私に詳しいのはなにか裏がある……はず)
「あ、あの星野さんどうしたの?教室入らないの?」
 挨拶を交わしたっきり一歩も動かない未来を不審に思ったのか、太田さんがおずおずと声をかけてくる。
「あ、ごめん!ちょっとボーッとしてたよ……。あー、そうだ太田さん」
「はい?」
「今日ゼミが終わった後、時間ある?少し話したいことがあって……」
「……話したいこと……?」
 『話したいこと』というワードに太田さんは眉を顰め、ほんの少しだけ警戒心を見せる。
「うん、話したいことがあるんだ。もし時間に余裕があったら少し付き合ってくれないかな?」
「……うん、大丈夫だよ」
「……ありがとう!じゃあゼミが終わったらまた声かけるから」
「あ、うん……。えと、じゃあお手洗いに行ってくるから……」
「あぁ、ごめん!邪魔しちゃったね」
「い、いえ……じゃあ」
「うん、後でね」
 廊下の端により太田さんを通してあげる。
「……」
 足早に通り過ぎる太田さんを横目に未来は教室の扉を開き、ゼミ室の奥でなにやら作業をしている教授に挨拶をする。
「おはようございます~」
「おや、星野さんか。今日は随分と早いじゃないか」
「いや~もうそろそろ大学生も終わりじゃないですか。だからせめて最後くらいは規則正しい学生生活を送ってみようかと思って」
「ははは、それは良い心がけだけれど、もう少し早いうちから規則正しい学生生活を送ることの有意義さに気づいてほしかったかな」
「気づいてはいましたよ、どうにも実行に移せなくて~」
 教授と雑談をしながら他の学生たちが到着するのを待つ。元々未来以外のゼミ生たちは基本的に遅刻なんてしない子たちばかりなので、五分も待てば続々とゼミ室に学生がやってきた。
「やぁ皆さんおはようございます」
「先生、おはようございます」
「おはよ~」
 あっという間に全員が集合した。気づかなかったが太田さんもいつの間にかトイレから戻ってきていたようだ。
(みんな来るの本当に早いな。私なんて授業開始時刻ちょうどに来たら良い方だったのに……ここのゼミ生は真面目な子ばかりだな~)
 四年間同じ学問を追及してきたゼミ生たちの生真面目さに今更ながら感心する。
 そうこうしているうちに授業開始時刻になる。
「はい、皆さんおはようございます。もう卒論も提出して特にやることもないですが―」
 教授が何か話しているが特に重要な話題ではなさそうなので未来は教授の話に耳を傾けずに、太田さんについて考える。どうやって話を切り出そうか、どうしたら太田さんが真意を話してくれるか。
(由利さんに強要されたのが本当だとしても、太田さんが私のことを知りすぎていることの謎だけは解明しないといけないな)
 チラリと真剣に教授の話を聞いている太田さんの横顔を盗み見る。その横顔を見る限り太田さんは邪悪、悪意などの醜悪な感情とは無縁な人物としか思えない。純粋、無垢という言葉が似合う女性だ。見た目はもちろん、普段の態度や言葉遣いからも太田さんは未来よりも遥かに誠実な人だと感じられる。
(まぁそれも結局は私のイメージだからねぇ。本性は違う可能性もあるということも忘れない様にしないと……)
ジッと太田さんの横顔を凝視していると知らないうちに教授の話は終わり、ゼミも終了していた。
(……あ、どうしようこれっぽっちも教授の話を聞いてなかった……)
 きっと、いや、ほぼ確実に重要な伝達などはなかったと思うが、念のために隣に座っていたゼミ生に確認する。
「ねぇ、ちょっといい?」
「あ、はい!?」
「突然ごめんね、あのさ、教授から何か大切な伝達事項とかあったかな?少しぼんやりとしていたから後半聞いてなかったんだよね……」
 後半どころか最初から最後まで全く聞いてなかったが、そこまで正直に言う必要はない。
「……別に何もなかったよ。あ、来週は最後のゼミだからよっぽどのことがない限りは出席してねって」
「なるほど~。分かった、ありがとう!」
「いえいえ……じゃあ失礼するね」
「うん、じゃあねー」
 何故か未来から目を逸らしつつ席を立つ彼女に疑問を抱きながらも手を振る。
(……さて、太田さんはっと)
 太田さんの姿を探すと友達となにやら話をしている様子だったので、声をかけようとして止める。
(あ~いつも友達と一緒にお昼食べてるっぽいもんね~。ごめん、今日一日だけ太田さんは借りるよ)
 挨拶ぐらいでしか言葉を交わしたことのない太田さんの友人たちに心の中で謝る。
「うん、じゃあまた来週ね」
(お、話は終わったのかな?)
 太田さんが手を振り、友人たちがゼミ室を出て行くのを確認した未来は椅子から立ち上がり、太田さんに近づく。
「太田さん、いいかな?」
「きゃっ!!あ、はい!」
 いきなり話しかけたせいか、太田さんは大げさに驚く。
(……そこまで驚かなくてもいいのに……)
声をかけただけでここまで吃驚されるのはなんだか複雑だ。
「あー、突然話しかけてごめんね。えーと、ここだとちょっとあれだから場所を変えてもいいかな?」
「あ、はい!私も大きな声だしてごめん……。……移動するんだよね?」
「うん、じゃあ行こっか」
「……」
 荷物を纏めてゼミ室を出ようと扉を開く。教授に挨拶をしようと教室を見渡すが、そこまで広くないゼミ室なのに姿が見当たらなかったので何も言わずに退室する。
「教授どこに行ったのかな?」
「……あ、多分お昼ごはんを買いに行ったと思う」
「なるほど」
「……」
「……」
 ほぼ無言で未来と太田さんは廊下を歩く。とても空気が重い。
(うーん、気まずい、とても気まずい)
 気まずい空気のまま二人は八階に設置されている学生ラウンジに入る。この学生ラウンジは各階ごとに設置されている学生専用の休憩場所だ。ソファ、テーブルはもちろん、自動販売機もスマホを充電出来るスペースも用意されている。無論Wi-Fiも完備している。
「あ、やったね。私たちだけだよ!貸し切りだねー」
「……そうだね」
 学生ラウンジを使用する学生はとても多い。そのため貸し切り状態になるのは珍しいことだった。今、未来たちがいる学生ラウンジは八階に位置していることが原因か、元々利用者は多くない方だったがそれでもいつも誰かしらが利用している。それなのに今日は誰もいなかった。未来と太田さんしかいない。
「これなら落ち着いて話せるね。さ、座って座って」
「……うん」
 学生ラウンジの奥に置かれているソファに座り、太田さんにも座るように促す。太田さんは緊張しているのか、恥ずかしいのかギクシャクとまるでロボットみたいな動きで未来の隣に腰を下ろす。
「わー、このソファ座り心地イイね~。家に持って帰りたいぐらいだ」
「……そ、そうだね」
「……」
「……」
「……太田さん」
「な、なに?」
 全身の力を抜きリラックスしている未来とは正反対に、太田さんはカチコチに強張ったまま少しも寛いでいる様子がない。家のように寛いでくれとは言わないが、もう少し肩の力を抜いてほしい。そうでなければ落ち着いて話も出来ない。
「もう少しリラックスしなよ。ほら、そんなに背筋伸ばさずにさ、背もたれに凭れてみよ。凄い気持ちいいから、ほら!」
「え、あの……」
 太田さんの肩を押し、半ば無理矢理背もたれに凭れさせる。
「ね?良い感じでしょ?」
「うん……」
 まだ完全に緊張は解けていないが、ソファの柔らかい感触のお蔭で先ほどよりは身体から力が抜けたようだ。それなら、そろそろ本題に入ってもいいかな。
「じゃあこの体勢のままでいいから本題に入ってもいいかな?」
「あ、どうぞ……」
「うん、それじゃあさっそくだけど太田さん……私に嘘をついていない?」
「……」
 『嘘』の言葉に太田さんは氷のように固まってしまう。これは図星なのか、それとも謂れのない暴言に衝撃を受けているのか……果たして。
「先週さ、太田さんが私に言ってたよね?誰かに私の高校時代の話をしろって強要されたって」
「……うん」
「それってさ、やっぱり由利さんかな?」
「……」
「太田さんは由利さんに強要されたの?」
 背もたれに凭れつつ、目の前にある作者不明の絵画を眺める。全く関係ないがどうしてこういう場所にはいつも何かしらの絵画が飾ってあるのだろうか。
 頭の片隅で目の前の絵画は誰が描いたモノなのだろうかと、どうでもいいことを考えながら太田さんの返事を待つ。
「……うん、由利さんに頼まれたから……」
「……そうかぁ。……ねぇ、太田さんを疑っているわけでも、責めているわけじゃないんだけどね。太田さんさ……本当に由利さんに強要されたの?……もしかして太田さん自ら由利さんに私のことを話したりしてない?」
「そっ、そんなことしてない!わ、私……そんなことしません……」
「ごめん、別に怒っているわけじゃないから。泣かないでね」
「な、泣いてない……です」
 泣いてないとは言うが、声が震えてしまっている。それに動揺しているのか、さっきまでため口だったのに敬語になっている。
「うん、分かった、太田さんの言葉を信じるよ」
「……ありがとうございます……」
「……それともう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「……はい……?」
「実は今から話すことこそが一番知りたいことなんだ。だから本当のことを話してね」
「……わ、分かりました」
「……」
 絵画を見つめながら、軽く息を吐き出す。そして座高が未来より幾分か低い太田さんの頭を見つめ、尋ねる。
「……どうして太田さんは高校入学当初からの私をあんなに詳しく知っていたの?」
「……へ?」
 間抜けな声を出した太田さんが顔を上げ、未来と目が合う。
「こんなこと言ったら失礼だれど、私は太田さんと同じ高校出身だったなんてこと先週まで知らなかったんだ」
「……」
「高校生のころも太田さんのことを知らなかったし、同じクラスになったこともなければ会話したこともなかったじゃない」
「……」
「それなのに太田さんは私のことをよく知っていた。高校入学から卒業までの私のことを……。私がどんなことをしていたか、誰と仲が良かったかとか……色んなことを知っていたよね……」
「……」
「……なんかおかしいと思わない?どうして、面識もない太田さんがあそこまで詳細に私のことを知っていたのか気になるんだ。ねぇ、太田さん……あなたは何がしたくて高校生のときから私を見ていたの。一体どういう考えで先週まで同じ高校出身だということを私に内緒にしていたの。何が目的で由利さんに私の過去を話したの?」
「……」
「ねぇ、教えてくれないかな?」
「……」
「……」
 沈黙が続く。その間も未来と太田さんは見つめ合ったままなのだが、意外なことに太田さんの瞳には怯えの色が見られない。ともすれば怒りの色の方が強いかもしれない。
「……」
「……星野さん……」
「何?」
 背もたれから身を起こし、太田さんは今まで見たことのない瞳で未来を見つめる。
(なんだろう……何故か分からないけれど不気味だ)
 未来も身を起こし、太田さんと向かい合う。すると太田さんはニコリと笑いながらも今にも泣きだしそうな声で話し始める。
「……星野さん……酷いです……どうしてあなたはいつもそうやって私の気持ちを蔑ろにするのですか?星野さんは私の気持ちを何度も踏みにじってきた……」
「……は?」
「本当に分からないの?思い出さない?私のこと……」
「ちょっと、太田さん?いきなりどうしたの、落ち着いて」
 肩を震わせ、若干興奮した様子の太田さんを宥める。背中を優しく摩ってやると少し冷静になったのか、落ち着いた声色に戻っていた。
「取り乱しました。すみません……でも、これも星野さんがいつも一緒にいる……誰だっけ。あぁ、環さん?と茉莉奈?さんのことばかり大事にするから……」
「……太田さん……」
「あぁごめんなさい。そうですよね、星野さんは知らないんだ。私のことも、私の気持ちも……。はい、説明します。今から星野さんの疑問にちゃんと答えるので……」
「……」
 得体のしれない恐怖にたじろぎつつも、未来は太田さんの言葉を待った。
「えっと、まずは……何がしたくて星野さんのことを見ていたか?ですよね……。うーん、これは説明しにくいな……だって初めは何の目的もなかったんです。ただ純粋に星野さんを見ていただけだから……」
「……じゃあ一から話してくれないかな?」
 太田さんがどうして未来を見つめるようになったのかを教えてもらう必要はもしかしたらないかもしれないが、このまま有耶無耶にするよりは良いと判断した未来は太田さんに全てを話すよう頼む。
(これは長くなるぞ)
 話が予想とは違う方向に進んでしまったことに少し辟易しながらも、太田さんの話を聞くために気合を入れ直す。
 一方未来に全てを話すよう頼まれた太田さんは嬉しそうに笑い、もちろんと頷く。
「はい、星野さんのために全てをお話しします……」

卒業旅行 前編

卒業旅行 前編

大学卒業を間近に控えた女子大学生の未来はある秘密を抱えていた。その秘密のせいで未来は人と深い関係を築くことが出来ずにいた。 そんなある日、卒業旅行に行かないかと二人の友人、環と茉莉奈が未来を誘う。 もっと親しくなりたいが秘密のせいで大学の友人たちとはこれ以上深い仲にはなれないと、諦めていた未来は最後の思い出をつくるために誘いを快諾する。 しかし卒業旅行前に環と茉莉奈から友情以上の感情を未来に抱いていると衝撃の告白をされてしまう。 二人の告白に未来は戸惑ったが、環と茉莉奈が勇気を出して気持ちを打ち明けてくれたことが嬉しかったので未来も今まで秘密にしていたことを二人に話す決意を固める。 未来は人殺しと後ろ指を指されてきた過去を二人に明かす。 果たして環と茉莉奈は未来の過去を受け入れ、未来はこれからも大切な友人たちと共に歩んでいけるのだろうか。

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更新日
登録日
2018-04-03

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