ラブ&ヘイト 見習い天使と見習い堕天使の物語(9)

第九章 天使へのラストステップ

誰かが、俺の足を引っ張る。そう、あのホームレスだ。まだ、いたんだ。だが、チャンス到来だ。今、空には、「L、O、V」の三文字が浮かんでいる。残りは、Eだけだ。これが揃えば、俺は見習いから卒業できる。初心者マークを外すことができる。派遣から正社員になれる。給料が出る。ボーナスがもらえる。年金だってつく。ひょっとしたら、弟子だってわんさかやって来るぞ。これがほんとのEチャンスだ。俺は、笑顔満点で足元を見つめた。
「遅くなって、ごめん。コンビニが込んでいたもんだから・・・」
「あんた、空ばっかり見つめていたよ」
「そうだ、そうだ」
 もう一人のホームレスも相槌を打つ。見られていたのか。まだ、まだ、俺も若い、未熟者だ。それに、仲が悪いと思っていた二人だが、以外に、仲が良いみたいだ。二人は、餌を待つペットの犬や猫のように椅子に座って待っている。俺は、空に浮かぶ「E」が欲しくて、二人の前に立つ。コンビニで買った弁当を渡す。
「ありがとう」「ごぜえますだ」
二人は、礼もそこそこに、弁当の蓋を開けると、がっつき始めた。
「なあ、この弁当の蓋についている飯粒が美味しいんだよな」
「そう、そう。まずは、この飯粒をひとつ、ふたつと、はさみにくい割りばしで掴んで、口の中に入れる。少し、おかずの汁のついた味が、また、たまらなくいいんだ」
「なんだ、お前、割りばしを使うのか?俺は、この箸を使うぞ」
男が胸ポケットから、既に割られた箸を取り出した。
「おっ、エコ活動家。でも、それも割りばしだろう?」
「割られた箸だ。今、弁当についている箸は、非常用に置いておくんだ。それで、前に使った箸を使うんだ」
「大丈夫か。汚いんじゃないのか」
「大丈夫、中丈夫、小丈夫。醤油やソースおかずの汁を、まずは舌を使って、唾液で洗浄した後、水道水で洗い流し、太陽光線に当てて、殺菌消毒するわけだ。これなら、衛生上問題はない。もちろん、これを永久的に使うわけじゃない。手持ちの箸が二本になれば、自然に帰してやるんだ」
「自然に帰す?」
「ああ、土に埋めてやるんだ。土の中のバクテリアが、この箸を分解して、元の土に戻るんだ。ひょっとしたら、この箸から芽が出て、葉が開き、幹が伸び、枝を広げ、花が咲き、割りばしの実をならすかもしれないぞ。そうなると、今までみたいに、割りばし一本、お願いしますなんて、頼まなくてもよくなる」
「割りばしの木かあ。そりやあいい。早速、食事が終わったら、この箸を植えよう」
「なんだか、生きる目標が出きたぞ」
二人は、たわいもない冗談で盛り上がっている。くだらない話だが、二人の心が通じているのは確かだ。これでは、俺の出る幕がない。折角、大金の七百円をはたいて弁当を買ってきたのに、成果がないのか。仲違していた二人は、このノートを使うことなく、弁当だけで友人になってしまった。あと、一歩のところで、「E」を逃してしまったのか。早くに弁当を渡し過ぎたのか。無念だ。だが、いつまでも残念がっていても仕方がない。この二人がだめならば次の獲物を探さないといけない。時間はない。ぐずぐすしていられない。
俺は、他の獲物を探しに、別の場所に移動する。目指すは、あの港の堤防の先端にある赤灯台。ガラスで作られた珍しい灯台で、夜になると、赤く点滅するらしい。そこには、暇を持て余した釣り客がいる。きっと、釣り場を巡って、争いがあるだろう。あいつが釣れて、なんで、俺が釣れないんだ、とか。俺が釣れるのは、腕がいいからだ、とか。くそっ、あいつの邪魔をしてやれ、とか。なんだ、こいつ、釣れないのは自分の技術のなさなのに、人のせいにするのか、とか。想像するだけでも、ワクワクする。俺の釣り場は、あの灯台だ。赤灯台よ、お前が俺の天使の道標だ。
だが、待てよ。俺は、天使だ。いや、天使の見習いだ。人の幸せを願うべきではないか。これじゃあ、人の不幸を待っているみたいだぞ。いや、人の不幸があるからこそ、俺たち天使の活躍の場があるんだ。そうなると、俺たち天使は、人間にとって必要悪か。必用善か。納得がいくような、いかないような。まあ、いいか。
俺は、この、数十年来から知己であるかのようにふるまっているホームレスたちに別れを告げようとした。だが、ふと、気になって、ノートを開く。ノートには、「岡 誠、山本 孝」の次に、別の見しらぬ名前が記載されていた。誰だ、俺のノートに勝手にいたずら書きをしたのは。それもいつ?疑問が浮かぶ。「岡 誠、山本 孝」の次には、「安藤 修一、玉岡 武」という名前が記されてあった。誰だ、こいつらは。俺は、名前を呼んだ。
「安藤修一くん」
 返事がない。もう一度、呼ぶ。
「安藤修一くん」
「はい」
 返事をしたのは、仲良く弁当を食べているホームレスの一人だった。やっぱり、そうだ。
「でも、名前を呼ぶのは、食事をすませてからにしてくれないかな」
「わるい、わるい」
 だが、俺は続けて名前を呼ぶ。
「玉岡武くん」
 安藤の横の男が、口をもぐもぐさせながら、箸を持った右手だけを挙げた。眼や鼻や口や体は、眼の前の弁当に集中している。やはり、この二人だ。この字は、俺の筆跡ではない。そして、二人の名前の字も、筆跡が違う。別々の人間の字だ。俺の知らない間に、俺のノートに勝手に書いたんだ。いつだ?そうだ。「V」の字を確認するために、空を見上げていた時だ。
 俺は、事実関係を確認するため二人に尋ねた。仲良く、食事をしている安藤と玉岡。食足りて、友の楽しさを知る、だ。俺は、再び、空を見上げる。最初に空に浮かんだ「L」の字が薄くなってきている。もう少しで、消えそうだ。時間がない。急がないと、また、最初からのやり直しだ。それは御免こうむりたい。長年の友人のようなふるまいをしている、短期的な友人のふたりは、米粒ひとつはもちろんのこと、千切りよりも細かな万切りキャベツを一本も残さずに、平らげてしまった。さすがに、舌を使っての弁当箱の掃除だけは、俺がいるせいか憚られるようだった。もう、食事を盗られるかと思って、餌を与えた飼い主にさえ、ウーウーとうなり声を発する犬の様子はなかった。俺は、おもむろに、声を掛けた。
「この字は、安藤さんと玉岡さんが書いたんだね?」
 俺は、できるだけ優しく尋ねた。お腹が満たされた二人は、ぽこっとでた腹を突き出し、もっと大きくなれと、さすっている。何が生まれるんだ、お前たちに。
「ああ、そうだよ。ノートとペンが芝生に落っこちていたんで、拾ったんだ。多分、あんたのだと思って、預かってやったんだ」
 安藤が答えた。
「それは、ありがとう。だけど、この名前は何だい?」
「ああ、それは、俺の名前だ。玉岡と言うのは、こいつの名前だよ」
 玉岡は、楊枝が十本ぐらい入るような歯の隙間を、楊枝一本で掃除していた手を緩め、手を上げた。
「いやあ、あんたには悪いと思っていたけど、つい、ノートを開いてしまったんだ。そうしたら、他のページに名前が書いてあったので、サイン帳か何かと思って、白紙のページに名前を書いたんだ。何しろ、ホームレスになって、自分の名前なんか、十何年来、書いたことがないからなあ。何か、こう、急に、自分の名前が書きたくなって、それで、サインすると、気持の上で、すっきりしてね。自分が生きているという実感が湧いてくるんだよ。そうしたら、この玉岡が俺の方を見ていたので、どうだ、お前もサインしてみるかって聞いたら、俺もやってみると言ったから、ノートを渡してやったんだよ」
 玉岡が歯と歯の隙間から息をスーハー、スーハーしながら、俺の方を向いている。
「安ちゃんが、何か書いていたから、俺も急に何か書きたくなって、つい、サインしたのさ。悪かったかな?」
 安ちゃんか!先ほどまでは、口もきかず、視線も合すことがなかった二人なのに、今は、「ちゃん」付けで呼び合う仲になっている。やはり、このノートの力はすごい。俺が書かなくても、当事者同士、誰が書いてもいいんだことが分かった。これを販売するためには、取り扱い説明書を作る必要があるな。大天使様に報告しよう。
「いやいや、いいんだよ。安ちゃんや玉ちゃんの言うとおり、これはサイン帳だ。サイン帳だから、できるだけ多くの人の名前があった方がいいんだ。こちらからも礼を言うよ」
「それほどでもないよなー、玉ちゃん」
「そうだよ、安ちゃん」
 中年のおっさん同士が見つめ合い、手に手を取り合う姿を目の前で見るのは気持ちがいいものではない。いや、単刀直入に言おう。気持ちが悪い。
「だけど、そのノートにサインしたせいで、急に、自分の名前をあちこちに書きたくなってしまったんだ。だから、ほら」
 安ちゃん、いや、俺までもが、この中年コンビと仲良くなる必要はない。安藤が指差した先の東屋の柱、天井、椅子には、「安藤 修一」、「玉岡 武」の名前が、至る所に書きなぐられていた。だが、幸運にも、マジックやボールペンで書かれたものではない。公園の泥で書かれている。掃除のおじさんたちがぞうきんがけすれば、きれいに落ちるだろう。
「なんか、自分の名前を書くと、妙に落ち着くんだよな。玉ちゃん」
「そうそう、安ちゃん。自分が生きているって気がするし、大げさに言えば、生きてきた証拠を未来に送れるような気がするよ」
「いいこと言うなあ。玉ちゃん」
「名前を書こうと言いだしたのは、安ちゃんの方だよ。これも、安ちゃんのおかげだよ」
「いやいや、玉ちゃんが俺の考えに同意してくれたから、この事業が広がったんだ。いつの世も、変革者は孤独だから。その孤独を、同時代に置いて、分かちあえる理解者がいるんだ。俺は、今、最高の気分だよ。玉ちゃん」
「よし、安ちゃん。これから俺たち、名前書きプロジェクトを推進し、ひきこもりや孤独に埋没している人びとを救おうじゃないか」
「いいこと言うね、玉ちゃん。俺たちにも生きがいができたぞ。どこかの学習センターでやっている英会話やヨガなどの、単なる暇つぶし、時間つぶしの生きがいじゃなく、自らの存在価値を賭けた生きる使命だ」
 さっきまで、のんべんだらりの、ぐうたら生活をしていたおっさん同士が、急に、眼から大きな星マークを飛ばしながら、熱く語り合っている。あんたら二人の夢を壊す気はないけれど、街中にいたずら書きするのはやめてくれ。
おっと、俺は、このおっさんたちの奇妙な行動に眼を奪われていて、肝心なことを忘れていた。俺の使命だ。俺が名前を書かなくても、このラブ・ノートの効力はあるんだ。と、言うことは。俺は、空を見上げた。空には、俺のプロジェクトの集大成が完結しているはずだ。太陽が昇る東の空には、太字から細字になった「L」、真ん中の口が閉じられている「O」、二本指が引っかき傷になりつつある「V」、そして、できたてほやほやの、はっきりとした「E」の字が浮かび上がっていた。続けて読めば、「LOVE」.俺はやりとげたんだ。ついに、見習い天使を脱出できる。明るい未来が待っている。愛だ。愛こそ力だ。愛こそ、人間のあいだをつなぐものだ。
「空に、何かあるのか」
俺が感極まって、空を見上げていたものだから、安ちゃんが尋ねてきた。
「おっ、何か、文字のような雲だなあ」
玉ちゃんも呟く。
「英語だ」
「L、O、V、E、ラブだ」
「へえ、自然もたまには、洒落たことするもんだねえ」
 安ちゃん、玉ちゃんコンビが東の空を見上げる。俺も、もう一度確認するかのように、空を見上げる。背中からの夕日が俺たち三人の影を伸ばした。まるで、青春ドラマのエンディングだ。さあ、俺も、おうち、天に帰ろう。ノートをポケットにしまい、折りたたみの羽根を出し、空に飛び立とうとした。その時、「L」の字が消え、「O」も字が消え、「V」の字が消えた。残るは「E」だけだ。それも消えるのは、時間の問題だ。俺は、慌てた。これじゃ、元の木あみだ。俺のやったことが全て水の泡だ。原因を探さないと。俺は、もう一度、最初の振り出しの駅前に戻ろうと、飛び立った。

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見習い天使と見習い堕天使が、天使と堕天使になるための修行の物語。第九章 天使へのラストステップ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-15

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