恋する淫魔と大剣使いの傭兵

恋する淫魔と大剣使いの傭兵

ゆっくり書いていきます。小説家になろうさん・マグネット!さんでも投稿しています。

おかしなところがあったらやんわりとご指摘いただければ幸いです。

一章 一話(18/4/1)

 その日も朝、なんとか早くに起きることができた。

 朝は少し苦手だ。早起きするのは結構大変。たまに寝坊してしまって怒られる。今日はちゃんと間に合った。

 身支度を整えて、軽い朝ごはんをとってから外へ出る。家主であり店主である、いわば上司はもう店へ向かった後だ。

 彼女は居候させてもらっている身だった。住もうと思えば住める空き家もあるにはあったのだが、女の一人暮らしが不安だと言って、居候という形にさせてもらっているのだ。
 鍵をかけてから、通りを少しだけ急いで歩く。銀色の髪が朝陽を受けて、きらきらと揺れる。

 いくつかの道を曲がって大通りへ出ると、開店準備をする人たちでもう既ににぎわっていた。
 足早に人々の間をすり抜けて、軽い挨拶をする少女の腕を、掴んでまで引き留める者がいる。

「おはようシェスティちゃん、今日も可愛いね」

 毎朝声をかけてくる男性だった。今日は随分と熱烈だ。スキンシップの多い男ではあるが、朝いちばんからこうというのは珍しいかもしれない。苦笑しつつ、とりあえず穏便に挨拶を返す。

「おはようございます」

「今日はどこへ? 遊びに行くなら付き合うけど」

「……ご存知でしょう、ヘルムさん。お仕事です」

 手を振り払えたらいいのだが、一度掴まれると、相手は大して力を入れていないつもりでもシェスティには振り払えない。とりあえずぶんぶんと掴まれた腕を振る。離してもらえない。そうこうしていると、

「あーッ! ヘルム! 手ェ出すなって言ってるでしょ!」

 上から救いの声が降ってきた。見上げれば近くの食事処の二階テラスから、女性が見下ろしていた。彼女は男と幼馴染だという。

「げ、ナータ……」

 と彼は呟いて、ぱっと手を離す。その隙にぱっと距離を離した。すみません、という意味で女性にお辞儀をすると、彼女も慣れたもので、苦笑しながら手をひらりとふった。この男がシェスティに絡んでくると、こうして助けてくれるのは大概彼女だった。

 声をかけてくるのはこの男に限らない。ナータには、「シェスティに決まった人がいればちょっとは落ち着くかなぁ」と言われたことがある。でもそれだけのためにお付き合いすることもできませんし、とシェスティが返したところ、初心だよね、と真っ赤になった頬をからかわれた。

 それでも仕方ない。シェスティは本心から、それだけのために男性と付き合おうとは思えなかった。幸いにして、この町、テンベルクの人々――特に女性――は、彼女が少し――ほんの少し、男性から好かれやすい体質であることを理解したうえで、守ってくれる人がいる。

 通りを歩きながら挨拶をしつつ、目的の建物にたどり着く。
 古い木製のドアを押すと、ベルがからんころんと音を立てた。奥にいた店主が顔を上げた。笑いかけて、挨拶をする。

「おはようございます、モニカさん。少し遅れました、すみません」

「おはよう、シェスティ。大丈夫、こんなの遅刻にははいらないさ」

 ありがとうございます、と笑いかけると、彼女もふわりと笑い返した。それから奥に行って、エプロンをつける。まず最初に着手するのは掃除だった。といっても彼女がここで働きだしてからというものの、汚れはあまり多くない。だから店主は毎日毎日しなくてもいいんだよと言うのだが、それでも彼女は、こうやってこまめに掃除していれば大掃除もしなくていいでしょうと笑う。なによりこうしているのが好きだった。本当はそれが一番の理由だ。

 シェスティの一日は、こうしてはじまる。

 掃除が終わると、次に棚に並んだ薬の在庫の確認を行う。それから調合依頼も確認した。どれほど追加で調合する必要があるかは、店主も把握してはいたが、たまに抜けがあるということで一応シェスティも確認している。といっても、大抵は店主のみで事足りる。

 シェスティにとって重要なのは、この後どの程度薬草を採取する必要があるかを把握することだ。ここ最近、どうも回復薬が常に在庫ギリギリになっている。あと、魔除けの隠密薬も回復薬ほどではないが減っていた。

「クライン草、多めに採っておいたほうがいいですか?」

「そうだねえ。あっちにある大きい籠ひとつ、いっぱいになるまで採ってもらおうか」

「はい」

「フリーエン草は」

「いつものに半分くらいでいいよ」

「わかりました」

「しんどくなったら、後で私もいくからね。無理しちゃだめだよ」

 大丈夫ですって、と苦笑して返しながら、籠と軍手を持って、店の裏口から外へ出る。開店まではあと一時間ほどあった。それより前には済まさないといけない。

 裏手の庭は大きな木を中心とした薬草園だ。といっても、木があるほかは一見ただの小さな花畑だというようにも見えるかもしれない。しかしそこで栽培されているのは全て薬草だった。

 手入れはモニカによるものだったが、採取だけは任されていた。シェスティは一目見て、非常によく似たクライン草とギフト草を見分けることができる。

 このふたつは、丁寧に引っこ抜けば根っこの形で素人でも判別がつく――ギフト草は根の先に、ぷっくりした赤い球根があるが、クライン草にはそれがない――のだが、どちらも非常に根が細く切れやすいせいで、大抵の場合は千切れてしまう。素人が判断できる部分を見ることは素人では難しい。

 よく見れば葉っぱが光を通す具合などが違っているのだから、モニカのように慣れた者であればそれだけでわかるのだが、そうなるまでには最低でも二年は採集の修行を積むものだ、と言われていた。しかしシェスティは天性の才能で、引っこ抜くこともなく、どんな薬草でも見分けることができるのだ。

「……ふぅ……」

 ギフト草を避けながら、籠いっぱいのクライン草を集めると、彼女は一度休憩することにした。さわさわと木の葉が揺れる音と、遠くに聞こえる町の人々の声。朝のこの音を聴いているのが好きだった。

 薬草園は大通りには面していなかったが、塀があるわけではなく、子供でも簡単に乗り越えられるような小さな木の柵があるだけだ。薬屋の建物の反対側は住宅街である。侵入しようと思えばたやすく入ることができるのだが、この薬草園は――いや、ここに限らず薬草園を持つような者は必ずそうするのだが――癒しの効果のある薬草と、それによく似た毒をもつ草を必ず混ぜて植えていたから、素人では危なくて盗むことができない。一応他にもいくつか、害意ある者の侵入を知らせる結界がはられていたりする。そういうわけで、侵入者の心配をした囲いは必要ない。むしろ採光のために避けられている節さえある。

 シェスティは、薬草を見分けることは得意だが、肉体労働は得意ではない。彼女の体は非常に細く、体力もあまりなかった。薬草の採取までやるようになってからもう一年半は経過しているのに、全然体力がつかないもので、パン屋のおじさんなどはしばしばシェスティが食べきれないような量をサービスしようとする。

(パンを食べたところで、体力なんてつけようがないのに……)

 彼女はそんなおじさんのことを思い出してひとり苦笑してから、少し周囲を見回した。

 朝の誰もいない薬草園。遠く、子供の泣き声がする。足音はしなかった。モニカは調合に忙しいらしく、出てくる気配はない。

 それを確認してゆっくりと立ち上がると、薬草園を囲う小さな柵の外に咲く、小さな花へと手をかざした。薬草類ではない、何の効果もない雑草。

「……ごめんなさい」

 彼女は小さく一言呟いて、それからほんの少しだけ、花に触れた手が光る。そうして、一瞬後には、先ほどまで元気に美しく咲いていたその花はしおれかけていた。

 貰いすぎた。彼女は額を押さえる。もう一度謝罪の言葉を頭の中で唱えた。こんなに一つの花から貰うつもりではなかった。雑草抜きはモニカにも手が空いていたら頼まれていた仕事だったから、モニカに何か言われることはない。ただ、その花を殺してしまったような罪悪感が、シェスティの中に募っていた。

 パンをたくさん食べて、体を動かしたところで、シェスティの体力はつかない。パンを食べたところで、真の意味でその血肉とはならない。

 彼女が生命力を維持するためには、こうして他の生物の精力を奪わなくてはならない。

 ――シェスティは〈人間(トールマン)〉ではない。魔族であった。それも、サキュバスであった。

 種としての彼女にとって、本来の食事は、他者の生命力である。そしてサキュバスたちにとって最も効率のいい吸収方法が、人間族、特に男の体液(・・)である。サキュバスが〈淫魔〉とも呼ばれるのは、その性質上、男をかどかわし、性交を行うものだからだ。

 しかしシェスティは――サキュバスとして成体となってから二年、未だ処女であった。



 サキュバスというものは、通常多大な力を持つ『女王』の庇護のもと、行為を行うに十分でない幼年期を過ごし、成体となるとそこを出て、人間族の集落へと向かうのが慣例となっている。

 シェスティもその例に倣い、城を出た。彼女は元々、「誰とでも性交する」というのに抵抗があったのだが、言い出せなかった。というのも種族内には『一人に恋をして添い遂げた同族』をかなり嘲笑する風潮があったのである。定番の笑い話の一つと言っていい。そういう生き方は、反面教師として参考にしましょうとまで言われる類のものである。

 しかしながら漠然とではあるがそういう者に憧れていたシェスティは、からかわれたくないがために、同郷の者に出会わぬよう、少し遠目の場所へと向かう。

 そうしてたどり着いた小さな村で、シェスティは出会ったのだ。『物語』というものに。

 語り手は流れの吟遊詩人。吟じられたのは恋の物語だった。元々抱いていた漠然とした憧れと、「男は食物」とでもいうような風潮への小さな反発心が、その物語によってはっきりとした像を結ぶ。彼女は恋にあこがれたことを自覚した。そうして心に決めた。

 ――はじめては好きな人とがいい!

 それは種としてははっきり言って自殺行為である。そもそも一般に、魔族というのは人間族と違って食事からは生命力を得られない。いや、得られないわけではないが、彼らは物理世界(フィジカル)の肉体への依存度がかなり低く、主に精神世界(アストラル)の肉体に依っている。食事というのは物理世界の肉体に干渉するものだ。精神世界の肉体を主とする魔族というものは、その生命を維持するために大量の魔力を要する。そしてその魔力の収集方法が、種によってさまざまなのであるが、ことサキュバスにおいては男の体液からが最も効率よく、逆に言えば、他の方法を用いると非常に効率が悪いのである。

 しかも、これは魔族全般に言えることだが、魔力の自家発電のようなことはできない。かなりの例外を除き、魔族というのは他種の生物の生命力を何らかの形で奪わなくては自力でその命を維持できないものであった。

 魔力が枯渇しては死に到る。それなのに、彼女は願ったのだ。貞淑であることを。

一章 二話

 花の精力を受けとったことで、なんとか体力が回復したことを感じる。睡眠、食事。そういったことでも少しは元気になれるが、あくまで必要なのはこれだった。本当なら相手を生かしたままその養分を吸い取るような種族なわけで、命そのものを受け取っても大して力にはできない。人間族に例えるなら消化器官がその食べ物を効率よく消化・吸収するのに向いていないといったところである。なのでこの方法は、いうなれば勿体ない方法だ。相手はその命が早く尽きてしまう。シェスティも大してその命を有効活用できているわけではない。

 もちろん相手は植物で、断末魔の叫びをあげるわけでも、命乞いをしてくるわけでもない。そのことで罪悪感を覚えるくらいなら、町の男たちを全員食って(・・・)しまえばいいわけだが、それがどうしても嫌で。

 これは彼女の、わがままだ。

 体内で魔力として循環しはじめた魔力は、もはやもとの生き物の生命力として戻し、返してやることはできない。ごめんね、あらためて呟く。

(……さて、気を取り直してギフト草の採取、終わらせないと)

 そう思って立ち上がった時。

 薬草園の目の前を通る、小さな裏道。そこを一人の男性が通りがかる。

 小さな町で、だいたいの住民の顔は知っている。だから、彼が他所から来た人間だとはすぐわかった。

 遠目からでもわかる高身長で、非常に筋肉質。防具は胸当てや籠手といった最低限のもののようだが、背負った剣は大き目のもの、シェスティでは両手で持ち上げるのがやっとかもしれない。黒く短い髪で、洒落たという言葉は当てはまらない――質実剛健、そういった雰囲気。

 視線に気が付いたのか、男は彼女を見た。視線が合ってから一拍。

「――この町に住む人でしょうか」

 男が、口を開く。



 聞けばこの町の近辺で近年多発する魔獣被害に対応するため、領主の依頼で傭兵による討伐隊が結成されたのだという。彼はそのうちの一人で、他の隊員より先に町にたどり着いたため、宿の確保や下見といったことをしておこうと思ったが、その途中で迷ってしまったのだという。このあたりの村はあらかた襲撃を受けており、次はこの町が襲われるのではないかとは言われていた。

 テンベルクは、薬屋も面した大通りの他は全て住宅街である。が、その大通りがなぜか町の入り口には繋がっていない。これは高低差の激しい山間の土地であることも関係してくるのだが、どこにいても大抵大通りの声は聞こえてくるのに、住宅街が入り組んでいるせいで、慣れていないとなかなかたどり着けないのだ。住民でも、慣れない者に説明するのは少し難しい。

 シェスティは彼の様子を少しだけ観察した。彼女がそれと意図しなくても、サキュバスという種は生まれつきその体に刻まれた魔術紋によって、常に周囲に〔催淫(チャーム)〕をかけてしまうのである。これは一応魔術の一種なので、相手の魔術的な抵抗力によって効き具合が変わる。彼はどうやら話しぶりからして、彼はそれこそ今朝話しかけてきた男のように、抵抗力が弱くて、すぐに〔催淫〕されてしまうような面倒さはないようだと判断する。

「ご案内しますよ。口でお伝えするのが少し難しいですから、一緒に行きましょう」

「ありがたい……しかし、仕事の途中だったのでは?」

 彼は地面に置かれた籠を見やった。

「大丈夫です。時間には余裕がありますし、薬草つみが終わったらあとは店番をしてぼーっとしているだけですから」

 シェスティは小さく笑いかけた。それから、少し待っていてください、と断って、クライン草でいっぱいになった籠を持ち上げる。これだけ先に、店主に渡しておくことにしよう。

 普段の中くらいの籠でも、いっぱいになれば少し持ち上げるのに気合がいるのに、今日のように大きな籠だと思った以上に重かった。少しだけよろめく。魔力を得た直後でなければ、体の力がほとんど入らなくなってしまうから、おそらくこのままこけていた。あぶない、と胸を撫でおろした。

「……。失礼」

 その時、通りに立ったままだった男が、近づいてきた。そしてそのまま何も言わず、シェスティの持っていた籠をその手から奪っていた。

「あ、あの……」

 彼にとっては全く重いものではないのだろう。平然とした顔でシェスティを見下ろす。遠目からでも背の高い男だとわかったが、こう近くに立たれると、首が痛くなるほど見上げなくてはいけない。

「そちらの店に運ぶので、合っていますか」

「は、はい! ……すみません」

「いえ」

 はじめこそ戸惑ったものの、彼女本人としても、あと少しでこけて中身をそのあたりにぶちまけてしまいそうな気がしていたため、ありがたかった。

 裏口のドアをあける。

「モニカさーん!」

 声をかけると、店番をはじめていた店主が店の裏手へと顔を出す。そして男を見て、少し驚いたようだった。

「すみません、ギフト草の採取がまだ途中なんですが……この方に道案内を頼まれましたから、少し離れても大丈夫ですか?」

「ああ、そういうこと。すみませんね、手伝ってもらっちゃって」

「いえ。……籠はこちらでよろしいでしょうか」

 軒先に籠を置こうとして、モニカが首を振る。

「いや、それはすぐ使うし、中に入れといて欲しいね……そこに置いといてもらっていいかい?」

 彼女は裏手の一角を指さした。そのあたりには他の採取したばかりの薬草が置いてある。シェスティが来る前に、店主自身が採っておいたものである。男は失礼、と断って、そこに籠を置いた。

「でも、どうせ大通りでしょ? なんなら、店の中抜けてもらってもいいけど」

「いえ……道を覚えておかなくては」

 討伐隊の一員なのだ、と彼は語った。それから簡潔に、シェスティに先ほど語ったことと、他の隊員が後から来る予定なので、その時に道案内ができるようになっておきたいのだということを話した。

「ああ……そりゃまた、ありがたいね。でも、もう少しはやく来て欲しかったもんだけど」

 店主が顔をしかめる。ここ最近の魔獣被害は目に見えて増えていた。特に、小さな村がかなり被害を受けているのだ。滅ぼされるまでに至ってしまったのは幸いにして一つだけだったが、そこまでいかなくとも、被害を訴える村は多い。死人こそ滅んだ村以外では出ていなかったが怪我人は多い。なにより農作物が荒らされる。おそらく同一の群れによる被害であり、また噂でしかなかったが、魔族によって統率がなされているのではないかとまで囁かれていたのである。

 それなのになかなか本格的な騎士団の派遣がなかった。本来なら村が滅ぶような被害はこの町が所属する地区――ブルーメンガルテン地区つきの騎士団がすぐ派遣されるべきものだ。幾度となく陳情はなされていた。しかしながら具体的打開策はとられないままだった。この町にも一応ギルドの支部はあるけれど、傭兵ギルド所属の者はほとんど来ないから、なかなか問題が解決しない。それに一人や二人では対応しきれないだろうと考えられていた。今更すぎる――店主がそう言いたい気持ちも、シェスティにはわかった。

「しかも見たとこ傭兵さんだろ? 腕が信頼ならないって言いたいわけじゃないけどさ、……普通だったら、騎士様が来てくれるところだと思うんだけどね」

 はあ、と彼女はため息をつく。基本的に土地つきの騎士は入団試験もあって、剣術にも魔術にも長けた者しかいない。それに対して傭兵にはそういった制限はなく、ギルドに登録しさえすれば傭兵にはなれる。だから実力はそれこそ玉石混淆である。

「……そうですね。俺も異常だとは感じています。一応はブルーメンガルデン領主からの依頼という形で受けておりますが、騎士団の派遣を求める陳述はかなり出されていたようです。ギルドに対しても批判があったと耳にしております」

 確かに騎士団はその地区の安寧を脅かす重大な事件でしか派遣されないとされていた。逆に言えば、少々の魔獣被害であれば通常、傭兵ギルドに討伐依頼を出すのが慣例である。複数の村や町にまたがり、被害の拡大が予想されるような場合に、騎士団が派遣される。最早複数の村にまたがって被害が拡大しつつあるこの状況――要するに完全に後手の状態で、ようやく派遣されてきたのが傭兵部隊だというのは、確かにおかしな話だった。

 彼は特に言い訳もなく、彼女の言葉に頷いた。

「騎士団の方々には及ばないかもしれませんが、我々も善処いたします」

 そうして軽く頭を下げる。それを見て店主も少し申し訳なくなったのだろう。

「いや、傭兵さんが悪いってわけじゃなかったね。ごめんねぇ、八つ当たりして……」

「いえ」

 引き留めて悪かったね、店主はもう一度謝ってから、シェスティに道案内を任せて店番に戻った。

 通りを出てから、いくつかの道をゆく。すれ違う人は少なかった。時折遠く子供の声がするが、だいたいはもう仕事に出ているのだ。

「そういえば、……その、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 歩きながらそう男に問いかける。

「ああ、失礼しました。ゼルギウス=ゲルツと申します」

「ゼルギウスさん、……とお呼びしても?」

「はい、構いません」

「ありがとうございます」

 道案内のために話したことの他、交わした言葉はそのくらいだった。柔らかい言葉遣いだったが、あまり口がうまい方でもないのだろう。むしろ周囲に目をやって、この町の複雑に入り組んだ道を記憶しようとしていたようだったから、邪魔するわけにもいかない、とあえて黙っていた。

 道がわかっていれば数分もかからない距離だ。沈黙の気まずさに耐えかねることもなく、大通りへの道案内は終わった。

「他にも小さい道がありますが、あっちの方の立て看板に地図がありますから、そちらをご覧ください。それから、えっと、宿は向こうの……看板、見えますか?」

「はい。……すみません、ギルドの支部は、どちらに?」

「ギルドでしたら、宿から更に向こうの突き当りです」

「ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ、籠、運んでいただいて」

 ぺこり、と頭を下げる。

「いえ、大したことではありませんから」

 彼も頭を下げた。では、そう言って薬屋――大通りの正面から行った方がむしろ早いだろう――へ戻ろうとしたところで。

「……あなたは、薬屋で働かれているのですよね?」

「? はい」

 ほとんど口を開かなかった彼が、声をかけてくる。

「きっと後でまたお伺いすることになるでしょう。滞在は少しの間ですが、よろしくお願いします」

 そう彼は言って、もう一度頭を下げた。それから今度こそ、では、と言って、宿の方へと向かっていったのだった。

 その背中を見送りながら、シェスティは思う。

(す、すてきな方だった……!)

 物凄く――物凄く、理想の男性だった。まさしく思い描いていた、『騎士』のような。

 この町には一応自衛団があるものの、所詮は町の腕自慢の男たちが、慣れない武器を持っているというだけで、数人がかりでか弱い魔獣を一体倒せるといったような程度。ああして、戦うことそのものを生業とした者を、シェスティはほとんど見たことがなかった。そういった事情から、少しばかりフィルターがかかっていたという部分は間違いなくあったとは自覚している。

 いや、それにしても、だったのだ。

 彼女はたまに行商人が訪れると、貯金を使って小説を買うのが一番の趣味だった。ジャンルを問わず読むのではあるが、一番は恋愛小説。そして特にお姫様と、姫に仕える騎士が身分差の恋に落ちるような話が大好き――というか、『ただ一人を護ってくれる騎士』という存在に憧れていたのである。まあ、ゼルギウスは騎士ではなく傭兵なのだが――。

 少しだけトリップし始めてしまったが、視線を感じてはっと我に返る。部屋で小説を読んでいるときのように延々と妄想に浸ることはできない。パッと気持ちを切り替える。物語のように恋に落ちたいわけではない。ただ――あんまり思い描いていたような騎士様のような雰囲気だったから、あこがれてしまっただけ。

 うん、とひとつ頷いて、彼女もまた歩き出す。少しだけ浮いた足取りで。

 帰ったらまた、あの小説を読もう、と一冊の本の表紙を思い浮かべる。モニカに使わせてもらっている彼女の部屋には、彼女の娘のものだろうか、空っぽのまま残されていた本棚があった。そこに今はシェスティによって、ぎゅうぎゅうに小説が並べられている。節制を心掛ける彼女の、唯一のお金を使う趣味だった。

(浸るのはお仕事が終わってから……気持ちを切り替えて頑張ろう)

一章 三話

 ――その後二、三日の間に、討伐隊は全員揃ったようだ。総員二十名ほどではあるが、辺境の小さな町の宿屋では入りきらない人数だったため、普段は使われていないギルドの寄宿舎のような建物を使っている者もいるらしい。今は周辺調査を行って問題の魔獣がどこにいるか探っているようだ。

 慣れない男に話しかけられる機会はぐっと増えた。はじめに出会ったゼルギウスに全く〔催淫〕を受けた様子がなかったため、皆魔術に心得があるのかもしれないと思っていたが、どうもむしろ正反対らしい。討伐隊の男たちは、少し魔術に抵抗力のない者が多かった。というのも、〔催淫〕がすれ違った程度でも強めにかかっているらしいのだ。それなりに魔術に心得があれば、得意属性がなんであれ軽い〔催淫〕にはそうそうかからないものである。

 そういった抵抗力の低い者たちは、テンベルクにもいたから、彼女としても対処法は簡素ながら編み出している。早めに会話を終えるのはもちろん、去り際に〔解呪(リリース)〕を行うのである。

 普段から、生命維持の最低限よりも少し多めに花の精力を吸い取って魔力を蓄え、男性と会話をし、〔催淫〕がききすぎているようならば、〔解呪〕を行っていたのである。彼女は潜在的に放出されている〔催淫〕魔術が変な問題を引き起こさないようにするためである。
 幸いにして、自分がかけた〔催淫〕を解く方はそこまでの魔力を要しないが、それでも何もしないよりは多めに魔力を得ておかなくてはいけないことに変わりはない。魔力を多くストックできないがゆえに、旅に出ることもままならないシェスティは、定住するために彼女なりに気を遣っていた。

 ただ、討伐隊が来たことで、〔解呪〕を行う機会が格段に増えているのである。

 数日前――ゼルギウスと出会った日は、町の男から声をかけられるだけでなく肌に触れられてしまったから、解呪に少し多めの魔力を要していた。花をしおれされてしまったのもそのせいだ。〔解呪〕は大して魔力を要しないといっても、基本的には生命維持の最低限しか蓄えないでいたいシェスティとしては結構な負担となる。しかし、討伐隊がこの町を離れるまでは、更に魔力を多く蓄えておかないといずれ何か面倒事が起こってしまうかもしれない。

 薬草園の周囲に生える雑草は、まだ余裕がある。抜いて捨てておきましたと言えば、怪しまれはしないけれど、体力が少ないのだから無理に肉体労働をしようとするなといつも言われているから、あまりたくさん抜いてしまうと逆に怒られる。部屋で育てている鉢植えの花もあるが、そっちは限りがあるし、いわば非常食なのでなるべく手をつけたくない。ただでさえモニカに「随分手をかけているようなのに枯らすのが早い」と言われていた。

(肝心のゼルギウスさんには、全然お会いできないし――)

 討伐隊の傭兵に対して、本日十回目の〔解呪〕を行いながらそう考えたところで、はたと気が付く。

 ゼルギウスと別れた時に、すっかり〔解呪〕を忘れていたのだ。

 ゼルギウスは、外見上の言動に〔催淫〕された様子がなかったこともあって、シェスティは解呪を行うのを忘れてしまっていたのである。人のそういった欲の現れ方というのは本当に人それぞれなわけで、元々肉欲を隠すのがうまい者だと、外見上は〔催淫〕がきいているのかわからないのだ。だからあまりその様子がなくても、〔解呪〕は行っておかなくてはならない。

(きっとまた店でお会いするだろうから、その時にしておかないと……)

 いずれ薬は必要になるだろう。そのときに、ちゃんと直接対応しなくてはならない。

 しかし。それにしても――魔獣は魔族が率いているのではないか、そういう噂があるのに、あんなに精神汚染に抵抗のない人たちばかりで、大丈夫なのだろうか。魔族はサキュバス以外でも、心属性の魔術を得意とする種が多い。あれでは本当に魔族の関与があった場合、どうしようもなく全滅する可能性もあるだろう。

 個人的な悩みとは別の不安が、頭に浮かんでしまうのも致し方ないことだった。



 ゼルギウスが次に店に現れた時、シェスティはちょうど店番をしていた。

「あ、ゼルギウスさん、こんにちは」

 笑顔を浮かべる。もう討伐隊の面々が揃いきって、交代で調査を行っているそうで、何人か非番の者が町に残っている。きっと今日もそういう日なのだろう。

 モニカは奥で、朝にシェスティが採ってきた薬草を調合して薬を生成している。

「こんにちは」

 彼は挨拶を返すと、彼は店内のものを見てまわった。それからいくらか見繕って注文していく。シェスティは聞きながらどんどんとリストに書きこんでいくのだが、かなりの量だった。

「随分買われるんですね」

 売れてくれるのは嬉しいけれど、これでは在庫が尽きかねない。

「討伐隊で使うぶんです。……すみません、ほとんど在庫がなくなってしまった」

「いえ、そんな……お怪我がないほうが、いいですものね」

 確かに言われてみれば、日常で使う類よりも戦いで使うような、少し高価な薬が多い。その中に精神汚染系の魔術への抵抗力を増すようなものも少量だが含んでいて、少しどきりとする。

 袋に薬をつめ、会計をしながら、それとなく問いかけた。

「あの、……魔族の関与がありそうという噂は、本当なのですか?」

「いえ、真偽は不明です。他の者には不要だと言われているのですが、警戒しておくに越したことはないと思いまして」

 それを聞いて抱いた恐れは杞憂だったとわかった。もしかして彼は、シェスティがサキュバスであることがわかっていて、皆が精神汚染にかかっていることがわかって買っているのかと少し思ったのだ。

 領収書をギルドあてに発行するかと思いそう問えば、どうやらこれはゼルギウスの私費なのだという。なんでも、今回は薬のための助成金が無いのだという。それなりに金は持っているし、報酬で補えると彼は言うが、それにしても薬の類については必要不可欠なのだからひどいものである。
 普通は、こういった薬代のような必要経費は事前に助成金として支払われていて、領収書を発行し、その使い道を誤らなかった旨を証明するため依頼報告のときに一緒に提出するものなのだ。それが、助成金は移動費についてしかないという。どうやらギルド、ひいては領主はあまりこの件を大事に思っていないらしい。

 思わずため息も出るというもので、ゼルギウスも少し硬い表情だった。

「魔族がいるのだったら、討伐隊の方々は大丈夫なんですか? 魔族って、基本的には魔術に長けてるのに、その……失礼ですけど、あまり魔術に精通した方々には見えません」

「……ええ。そうですね。相手の魔族がもしサキュバスのような精神汚染に長けた者だと、ほとんど全滅もあり得るかもしれません。……俺はなんとかなるのですが、彼らはわからない」

「? ゼルギウスさんは、魔術をお使いに?」

 精神汚染系――心属性の魔素を用いた魔術は、人間族だと適正があることが珍しいのである。シェスティはそれで少し驚いたが、ゼルギウスは苦笑してかぶりを振った。

「いえ、〈個人技能(アビリティ)〉でして、魔術が効かないんです」

 個人技能――生まれつき人は何らかの才能を授かっているものである。それは大抵、努力などによって得られる類のものではなく、中身も多岐に渡る。

「ま、魔術が効かない……?」

「はい。いかなる魔術も効かないものです。仮に、そうですね――魔族の中でもサキュバスが相手だったとして、彼女らによる誘惑というのは、結局〔催淫〕という魔術だと、魔術に詳しい友人に聞いたことがある。なので、俺自身は特に問題ありません」

 シェスティと相対し、一定の距離でそれなりに会話をしながら、なお冷静さを保ち続けるその男性に、ようやく合点がいった。ゼルギウスには魔術が効かない。こうして会話しながらも、今なおシェスティの意志とは無関係に発され続けている〔催淫〕も、ゼルギウスにはなんの効果もなかったのだ。

「す、すごいですね」

「いや、俺自身は魔術が一切使えませんし、回復魔術も効果が遮断されてしまうので……こちらの薬には、世話になることと思います」

 そういえば随分と回復薬が多かった。袋に薬を詰め終わると、彼にそれを手渡した。

「抵抗薬も、人数分買えるわけではありませんから、もし本当に魔獣だけではなかったら、この任務はかなり厳しいものになる」

 彼は少しだけ重い顔をして、それからかぶりを振った。

「……不安にさせるようなことだったかもしれない。すみません」

「……いえ、その、うまく言えないのですが…………あまり、無理はなさらないでくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 彼は出るときにまた礼をして、店から去っていった。その背中を見送りながら、彼女は募る不安に少しだけ身をこわばらせた。誰もいなくなった店内でもう一度ため息をつくと、奥で調合を行っているモニカに声をかけに行った。

 その後ゼルギウスは何度か店を訪れた。周辺の調査の間にも、魔獣と遭遇することがある。それで回復薬が消費されていくのである。最近ではモニカが別の薬の在庫補充で忙しいので、回復薬を作るのはもっぱらシェスティの仕事になっていた。

 解毒薬はギフト草の成分を〔製薬(コンコクト)〕の魔術によって少し操作する必要があるのだが、回復薬はクライン草を煎じて煮詰めるだけのことしかしない。もちろん温度管理は必要なのだが、クライン草とギフト草の区別さえついていれば誰でも作れる品である。魔術を使わないで――つまり、シェスティに作れる薬は回復薬くらいしかない。

 途中からゼルギウスが手にしていたのはシェスティが作ったものだった。必ずしも彼が使うというわけではないけれど、自分が作ったものを買って行かれるのが、なんだかすごく恥ずかしいような気がしてしまった。自分の作った回復薬は、モニカにもいい品質だと太鼓判を押されていたから、今までにも幾度となく売っていたというのに。

一章 四話


 彼らは町を勇ましく出発していった。傭兵団の中でも特にシェスティによく声をかけてきた男――要するに〔催淫〕に非常に弱い者だが――が、「もう大船に乗った気持ちで任せてください!」などと言ってきたが、もうその目は既に全く大丈夫ではない。この期に及んでシェスティを口説こうとするのに必死な――もはやそればかりで出発もしようとしない男にたじたじしていると、大柄な男が近寄ってくる。

「……何をしている。さっさと出るぞ」

 ゼルギウスは呆れたように言いながら、男を無理矢理引きはがして引きずって行く。離れる前にさっと〔解呪〕をかけてから、

「ゼ、ゼルギウスさん!」

 すぐ背中を向けようとする彼に、あわてて声をかける。男の首根っこを掴んだまま、彼は首だけをこちらに向けた。

「……お気をつけて」

 ありがとうございますと言うのもなんだか変な気がして、それだけ言ってぺこりと頭を下げる。彼はぎこちなく微笑んだ。

「ありがとうございます」

 まわりを見渡せば、盛大に見送ってやろうとするテンベルクに住む人々も、彼らが出て行ってしまった後は誰もが不安げな表情を隠しきれないでいた。シェスティもその例に漏れない。ゼルギウスは大丈夫なのかもしれない。でも、その他の人々は。

 ――そうして、その不安はまさに現実のものとなった。



 夕刻、門をくぐった討伐隊の隊員は二人だけだった。片方はほとんど自力で歩くことができず、すぐさまそれを見た住民らによって宿に連れて行かれた。もう一人もそれなりに傷を負っていたが、それでも自らの足で立ち、走ることさえできた。彼はその足でテンベルクの小さなギルド支部に報告に行った。

 ――魔獣は弑された。しかし、その場に現れたサキュバスによって、ほぼ全員が無抵抗のまま操られ、おそらくは殺された。魔術の効かないゼルギウスと、前もって抵抗薬を服用していた隊長だけが生き残った。しかし隊長は強い〔催淫〕を受け、今はほとんど自力での行動はできない。

 それがゼルギウスのした報告だった。

 テンベルクのギルド支部は、依頼元であるブルーメンシュタットの大支部と連絡を取りつつ、ゼルギウスに内通の疑いありとした。彼は反論したものの、精神汚染系の魔術を使う相手だったのだから言葉による証言が意味をなさない。

 もうとっくに店じまいをして、日が沈もうという薬屋に、ギルドの者とゼルギウスがやってきた。モニカは薬を処方するために、簡易の診察を行うことができた。この町には本格的な病院がないが、それで問題なかったのは、彼女の診察能力が確かだったからだ。

 その時にはシェスティは既に帰っていた。あまり夜暗くなってから帰るのだと何かと問題が増えるのである。

 それと知らないゼルギウスは、少し店を見渡してシェスティのいないことを確認する。あれだけ心配そうにしていたのだ、せめて自分は生きているし、魔獣自体は殺せたのだから、今後の襲撃を恐れる心配はないと伝えたいと思っていた。診察がそろそろ終わりそうだというところで、彼は小声でモニカに問いかけた。

「……店番の彼女は?」

「あの子はもう帰ってるよ。随分心配してたから、明日にでも声をかけてやってくれ」

 そうして彼女はゼルギウスの肩をぽんと叩いてから、後ろに座っていたギルドの男に向き直る。

「〔催淫〕された形跡は一切ない。私はこの男が内通したとは思えないけどねぇ」

 この件のためにブルーメンシュタットから派遣されていたギルドの男が、表情ひとつ変えずに返す。

「しかしながらご婦人、この男はあまりに傷が少ない。サキュバスを相手取ったなら、火傷の一つもあるのが普通ではないですか?」

「ですから、俺は〈技能〉で魔術が効かないと何度も言っているでしょう。ギルドにもそう登録してある」

 耐えかねたのかゼルギウスが口を開く。

「疑うならライムエル隊長が目を覚まし次第証言をとってくれればいい。一日も寝れば〔催淫〕もある程度解けるはずです。それに今回はギルドの側から指名があっての人選だった。魔族の関与が少しでも疑われるのならば、俺を含めあのような魔術に不得手の者ばかりを集めるべきではなかったはずだ。これはそちらの落ち度ではないのか」

 そう口数の多い男ではないゼルギウスが、苛立ちを露わにしつつ一息でまくし立てるのはかなり迫力があるものだった。ギルドの男は少したじろいで、しどろもどろに言い訳をする。

 それをほとんど聞かずに、ゼルギウスは勢いよく立ち上がった。帰らせてもらう、吐き捨てるように彼はそう言った。椅子がからんと音を立てて倒れる。

「……もう、アンタねえ、物に当たるのはやめておくれってば」

 そう言う店主も、怒りを体の内に抑え込んでいるのがありありと分かる。ゼルギウスは少し冷静になったのだろう、すみません、と小さく謝って、椅子を直す。

 結局ゼルギウスがギルドから解放されたのは翌日の日暮れより少し前のことで、隊長の証言と人選の不備もありお咎めこそなかったが、報酬は出ず、既に悪い噂も立ち始めていた。



 からん、と店の戸が音を立てて開いて、店番をしていたシェスティははっと顔を上げる。そこにはここ数日何度も目で追っていた長身の男が立っていて、シェスティを見ると生真面目に一礼をした。

「ゼルギウスさん! ご、ご無事だとは聞いていたのですが」

「すみません。ご心配をおかけしていたようでしたので、ご挨拶をと」

「そ、そんな、すみません。モニカさん……店長からご無事と伺っていたのですが、なんだかよくない噂が立ってしまったようで……」

 シェスティの耳に届く噂というのは、大概がモニカから聞くもので、その他は訪れた客の語るものである。それによれば、ゼルギウスがサキュバスに誑かされて生き残ったのだとか言われていた。店主自身は自分の診察の腕まで含めて疑われているようで気分が悪い。

「魔族の関与を考慮して抵抗薬を何人かに渡そうとしましたが、受け取ってくれたのは隊長だけでした。おそらく強い〔催淫〕だったのでしょう、それでも自我を失わずいられたのはこちら薬のおかげです」

「ありがとうございます。店長にも、後ほど伝えておきますね」

 そう微笑んで返すと、ゼルギウスも強張っていた表情を少しだけ緩めた。この店では奇異の視線で見られることがないこともあったのだろう。シェスティは知らぬことだが、実際ゼルギウスはいわれのない誹謗を受けはじめていた。

「今後は、どうなさるんですか? ブルーメンシュタットに戻られるのですか?」

「いえ、この町を出た後はそのままフェルトシュテルンの方へ向かおうと思います」

「フェルトシュテルンへ……?」

 テンベルクはベルグシュタット地方の中でも比較的東側に位置している。更に東に行くとヴァルタウ川があり、それを越えればフェルトシュテルン地方だ。

「はい。つい少し前まで、フェルトシュテルン地方を中心に依頼を受けていたので、どちらかといえばそちらの方が信頼があって顔がきくのです。ベルグシュタット地方でも活動していこうと思っていたのですが、この調子だとしばらくは難しそうですね」

「す、すぐに発たれるのですか?」

「……いえ、お恥ずかしながら、報酬が出る前提で薬を購入したりしたもので、当座の資金がないのです。なのでおそらく向こう一週間ほどは滞在することとなると思います」

 俺でも何かやれることがあるといいのですが、とゼルギウスは嘆息する。曰く、ギルドには銀行制度もあるのだが、預けた金を引き出すための本人確認として、ちょっとした簡単な魔術を使うのである。ほとんど誰でもできるような簡素なものなのだが、ゼルギウスは〈技能〉によって魔術を通さない体質であるが故に、その『ちょっとした』魔術でさえ行使ができない。そのため魔術による本人確認ができず、預けた支部でのみ引き落としができる、という形になってしまうのだという。フェルトシュテルンまでたどり着きさえすれば何かと都合がつくらしいが、そこまでたどり着くための先立つものがない。

「そう……そう、ですか。お仕事、あるといいですね」

 そう言いながら、シェスティは自分が「すぐには見つからないといいのに」と思っていることに気が付いて自己嫌悪する。はやくこの町から離れられた方が、ゼルギウスにとっては幸せだ。俯いてしまったのをどう取ったのか、ゼルギウスはやはり生真面目に礼を言って去って行った。

一章 五話

 からん、と店の戸が音を立てて開いて、店番をしていたシェスティははっと顔を上げる。そこにはここ数日何度も目で追っていた長身の男が立っていて、シェスティを見ると生真面目に一礼をした。

「ゼルギウスさん! ご、ご無事だとは聞いていたのですが」

「すみません。ご心配をおかけしていたようでしたので、ご挨拶をと」

「そ、そんな、すみません。モニカさん……店長からご無事と伺っていたのですが、なんだかよくない噂が立ってしまったようで……」

 シェスティの耳に届く噂というのは、大概がモニカから聞くもので、その他は訪れた客の語るものである。それによれば、ゼルギウスがサキュバスに誑かされて生き残ったのだとか言われていた。店主自身は自分の診察の腕まで含めて疑われているようで気分が悪い。

「魔族の関与を考慮して抵抗薬を何人かに渡そうとしましたが、受け取ってくれたのは隊長だけでした。おそらく強い〔催淫〕だったのでしょう、それでも自我を失わずいられたのはこちら薬のおかげです」

「ありがとうございます。店長にも、後ほど伝えておきますね」

 そう微笑んで返すと、ゼルギウスも強張っていた表情を少しだけ緩めた。この店では奇異の視線で見られることがないこともあったのだろう。シェスティは知らぬことだが、実際ゼルギウスはいわれのない誹謗を受けはじめていた。

「今後は、どうなさるんですか? ブルーメンシュタットに戻られるのですか?」

「いえ、この町を出た後はそのままフェルトシュテルンの方へ向かおうと思います」

「フェルトシュテルンへ……?」

 テンベルクはベルグシュタット地方の中でも比較的東側に位置している。更に東に行くとヴァルタウ川があり、それを越えればフェルトシュテルン地方だ。

「はい。つい少し前まで、フェルトシュテルン地方を中心に依頼を受けていたので、どちらかといえばそちらの方が信頼があって顔がきくのです。ベルグシュタット地方でも活動していこうと思っていたのですが、この調子だとしばらくは難しそうですね」

「す、すぐに発たれるのですか?」

「……いえ、お恥ずかしながら、報酬が出る前提で薬を購入したりしたもので、当座の資金がないのです。なのでおそらく向こう一週間ほどは滞在することとなると思います」

 俺でも何かやれることがあるといいのですが、とゼルギウスは嘆息する。
 曰く、ギルドには銀行制度もあるのだが、預けた金を引き出すための本人確認として、ちょっとした簡単な魔術を使うのである。ほとんど誰でもできるような簡素なものなのだが、ゼルギウスは〈技能〉によって魔術を通さない体質であるが故に、その『ちょっとした』魔術でさえ行使ができない。そのため魔術による本人確認ができず、預けた支部でのみ引き落としができる、という形になってしまうのだという。フェルトシュテルンまでたどり着きさえすれば何かと都合がつくらしいが、そこまでたどり着くための先立つものがない。

「そう……そう、ですか。お仕事、あるといいですね」

 そう言いながら、シェスティは自分が「すぐには見つからないといいのに」と思っていることに気が付いて自己嫌悪する。はやくこの町から離れられた方が、ゼルギウスにとっては幸せだ。俯いてしまったのをどう取ったのか、ゼルギウスはやはり生真面目に礼を言って去って行った。



 その後いつも通り仕事を終え、日が暮れる前に帰宅して。シェスティは夕食を済ませた後、部屋で花を見ながらぼんやりと考え事をしていた。

 ゼルギウスと会った日の夜は、お気に入りの小説を読んだりして、一人たいそう盛り上がったものだった。何度か読んだせいでほとんど一時間と経たずに一冊読み切ることができるのだが、そうして何度目かわからない再読をした後、ベッドに伏せて足をばたばたしてみたりした。声は出さなかったので隣の部屋にいたはずのモニカからは特に何も言われなかったが、そこそこに恥ずかしい姿である。

 今はそういう気分にもなれなかった。なんとなく手をつけた小説も目が滑ってしまうようで、集中できない。結局読書を諦めて、窓の傍に置いた椅子に座って花を眺めている。

 鉢植えにはシェスティが花屋で購入して、育ててきた花が咲いている。買う時に世話の仕方を聞いて、シェスティなりに手を尽くしていた。春夏秋冬、花の尽きぬように、さまざまな種のものを育てている。なかなか美しい光景だったけれど、すべてこれは『食料』だった。

 春は花多い時期で、シェスティにとっては過ごしやすい。ちょうど美しく咲いたトルペの花から、ほんの少しだけ――枯らしてしまわぬよう、しおれてしまわぬよう。最小限の精力を奪う。見た目にはそう変化がないが、シェスティの行為は確実に花の命を蝕んでいく。

 ――たとえば。シェスティは考える。

 たとえば彼――ゼルギウスさん相手だったら、私はキスができるだろうか。こんな風に無駄に他のものの命を奪うことなく、生きていくための糧を得られるだろうか。

 彼女はそう考えて、かぶりを振った。

 シェスティだって彼に『きちんと』恋をしているとは言い難い。自分の経験の乏しさも、それに起因する色眼鏡も、ちゃんと自覚している。これだけで体を許せるかというと、そうではない、と彼女は思う。

 それに、あの人は落ち着いていて、素敵で、シェスティの理想で、何より絶対に〔催淫〕されないのだけれど、――だからこそ、あの人は私を想ってくれない。

(まあ、〔催淫〕で作られた気持ちに付け入るのも嫌なんだけど……)

 願わくば魔術の介さないところで、――それこそ物語のように、ほんとうに育まれた感情を向けられたい。それはとても難しいことだ。

 ゼルギウスと自分の間に、そんな感情を育むための時間なんて存在していない。

 ――ただ、ただ。

 彼に対する色眼鏡も、恋に恋をするような自分のことも、ちゃんと自覚した上で、それでも。

 それでも、『あともう少し話していたい』という気持ちがあるのも確かで――。

 シェスティの思考を破ったのは、ノックの音だった。

「シェスティ? 今、ちょっといいかい?」

 声をかけてきたのは家主――モニカだった。いつの間に帰ってきていたのだろう。慌てて居住まいを正し、「はい」と声をかけると、彼女は遠慮なくドアを開けて入ってきた。

「どうかしましたか? ……あ、夕食、お気に召しませんでした?」

 この家で夕食を作るのは、はやめに帰るシェスティの仕事になっていた。帰る時間が大幅にずれるからいつも別々にとっている。

「あ、いや、それはいつも通り美味しかったよ。ありがとね」

 彼女はにっこり笑って、それから部屋の中央に据えられた椅子に腰かけた。ちょっといいかい、そう声をかけた割には、それなりの話になりそうだ、とシェスティは感じた。

「……なんでしょう?」

 そう声をかけると、モニカは少しだけ逡巡したようだったが、意を決したように口を開いた。

「シェスティ、あんたさ、……これから、どうするんだい?」

「どうする、って」

 首を傾げる。どうする、と問われても、明日も明後日も、シェスティはここで薬屋を手伝っている自分しか想像ができていなかった。確かにシェスティは〔製薬〕系の魔術がそもそも全然使えなくて、薬屋の仕事といっても、薬草採取しかしていない。だからこのまま生きていけるとは思っていなかったけど――。

 店主はシェスティの考えていることがわかったのか、苦笑いして首を振った。

「あの男――ゼルギウスといったか、彼のことだよ。随分ご執心じゃないのかい」

「ごっ……ご執しっ……」

 シェスティは一気に顔が熱くなったのを感じた。そんなんじゃありません、そう言いたかったけれど、確かに店主に対しては何度か大丈夫だろうかと零していたし、ここ数日は店番の間も少しぼんやりとしていたかもしれない。それで口をぱくぱくと動かすだけで、何も言えなくなってしまった。それを見て店主はけらけらと面白そうに笑う。

「そうじゃないか」

「い、いえ、気になってるのはっ、認めますけどっ! 彼みたいな方、この町に、いないから、それでっ! それだけですっ!」

「それだけかい? それにしちゃあ昼間、随分と寂しそうな顔してたけど」

「~~~!!!」

 手をばたばたと振るシェスティを見て、更に店主は笑った。

「まあ、悪評が立ったって言っても元々あの生真面目そうな性格だ、すぐに稼げるだろうし、さっさと出て行っちまうよ。もう会えないかもしれないよ? あんた、旅ができるようなタマじゃないじゃないか」

「…………そう、そうですけど」

 だからと言って、彼のことを引き留めたりする理由はない。

「そうさねえ」

 俯いてつま先をじっと見つめる。店主は面白げにからかうような笑いを引っ込めて、優しく微笑んだ。

「雇っちまえばいいんじゃないのかい?」

「…………雇う? えっと、仕事を頼むってことですか? でも、お仕事なんて……」

「護衛さ。傭兵ってのはそういうのもやってるもんだ」

「ご、護衛?」

「そうそう。あんた、元々旅に憧れてたんだろ?」

 にっこりとしながら断言する彼女は、憶測などではなく確信をもってそう言っていた。こっそりとした子供らしい憧れを指摘されて、途端にさっきとは別の方向性で恥ずかしくなる。

「え、ど、どうして……」

「小説。あんたの部屋、恋愛小説と冒険小説ばっかりじゃないか」

 今度こそ顔から火が出たのじゃないかと思うほどにシェスティは赤面した。本来のサキュバスは、ある程度自分の中の心属性の魔素に基づく魔力をいじることによって赤面するもしないも自在なものなのだが、ちっとも魔力のないシェスティにそんなことはできない。

「し、しし、知ってたんですか!?」

「知ってたも何も同じ家だし、たまに掃除してやってるのはあたしだよ?」

「う、うぅ…………」

 あの中には結構夢物語の過ぎる作品もあって、なかなか他人に見られると恥ずかしいのだ。シェスティ自身はかなりの初心だったが、周囲が周囲だったせいで、自分は世の中でも結構な脳内お花畑で夢見がちな性格だと自覚している。いや、好きで――大好きで読んでいるのだが、からかわれるようなものだと思っているのだ。

「そんなに恥ずかしがることだったのかい? そりゃ済まなかったね。
 ……まあ、とにかく、あたしが言いたいのは、シェスティが旅に出て、その護衛を頼むって形で雇っちまえば、あんたはあの男と一緒にいられる、あの男はさっさとこの町を出れる、お互いいいとこづくめじゃないか」

「え、……えっと、でも、それだと、私、お店のお手伝い、辞めちゃうことに……」

 そう言うと店主はまた豪快に笑って、

「元々シェスティがいなくたって一人でやってたところだよ。いや、あんたの手伝いはすごく助かってた。そりゃいなくなったらちょっと大変になると思うよ。……けど、そう心配しなくても大丈夫さ。まだまだ元気だよ」

 とシェスティの頭をぽんぽんと撫でた。

 それでもまだ、シェスティの中ではうまく決心がついていなかった。旅への憧れ、ゼルギウスともう少し長い時間を過ごしたいという気持ち。そういったものはあったけど、ようやく慣れてきたこの町での暮らしを、手放しがたくも思っていた。

 それを見抜いたのか、モニカは更に言葉をつづけた。

「何もね、もう帰ってくるなって言うんじゃないよ。そりゃ私だって寂しいさ。でもね、一年そこらして、いやしなくったってさ、満足したなって思ったら、いつだってここに帰ってきてくれたらいい。……そんときゃ、また薬草摘みをやってもらおうかね」

「……モニカさん……」

 俯いてシェスティはそれ以上の言葉を返さなかった。モニカはゆっくりと立ち上がった。言うべきことはこれで終わりだというように。

「……ま、短く見積もってもあと数日あるんだ。そう時間があるわけじゃないけど、今日の夜いっぱい考えるくらいのことは、できるんじゃないのかい」

「…………はい」

 じゃあ、よくお休みね、と彼女は言ってドアを閉めた。お休みなさい、シェスティの声は小さくて、ドアを閉める音にかき消されてしまったかもしれない。

 布団に入って、ぼんやりとモニカの言葉を反芻する。――旅に出る、それはとても魅力的な提案だった。
 目を閉じれば、すぐに意識はまどろんでいく。

 ――やってする後悔とやらないでする後悔なら、やってする後悔のほうがきっと納得がいくと、よく物語でも見るもの。

 そう考えると、もう悩むことはないような気がしてきていた。もちろん細かい不安はたくさんある。それでも、それでも。――なにもかも、明日、話をしてみよう、と。
 確かな言葉は浮かんでいなかったけれど、いくつかのやるべきことが、眠りに落ちる直前の頭の中で渦巻いていた。

一章 六話

「……傭兵部所属で受けられる依頼はないか?」

「現在はありません。こないだの魔獣討伐があって、魔獣被害がある程度落ち着いたので」

 ゼルギウスはその答えを聞いてため息をついた。

 他人から何らかの行為の見返りに報酬を得るようなことをする者は、基本的にギルドに登録することになっている。例えば薬屋の店主であるモニカも、販売ギルドと製作ギルド双方に所属している。従業員までは登録の必要がないが、店長として店を構えようとする場合には必要となる。

 販売ギルドの場合は一度登録してその場所で店をやっている限り契約の一つ一つを逐一ギルドに報告する必要はないが、傭兵ギルドの場合は原則としてギルドを通して依頼を受けなくてはいけないことになっている。傭兵ギルドは戦闘以外にも、戦闘が不可避となるような魔獣のいる地域を通ったりして物を届けるといった依頼も受けることができて、かなり認められている仕事の幅が広い。
 それゆえ違法な薬物の運搬といった違法行為に携わる傭兵をなくすために、傭兵に依頼をする場合は必ずギルドを通してからするように、ということになっている。傭兵ギルド所属の者は基本的にギルドを通してしか金が稼げないシステムなので、変に羽振りのいい者がいれば疑われるという形になる。魔獣が落とした魔獣核――武器や防具の素材になる――や、旅先で採取した貴重品を売っての金策も考えられるが、そちらは販売ギルドを通すので捕捉できる。

 ゼルギウスは傭兵部に所属しているので、ギルドに出された依頼を受ける必要があるのだが、どうもこの町は元々平和で、あまり依頼を出そうという者がいないようだ。もっとも、指名の上依頼を受けられないようにされている可能性もあるのだが、それは本人にはいまいちわからないところである。

 宿代は先払いをしていたので明後日まではいられるが、これでは出発のために必要な食糧を買うなどするのにさえ心もとない。

 さて、どうしたものか――と考えながらギルド支部を出たところ、ちょうどギルドに用があったのだろうか、薬屋の娘がこちらに向かって歩いてきていた。

 ――そういえば、随分心配してもらっていたようなのに、彼女の名前は未だ聞いていないことにゼルギウスは気が付いた。

「ゼルギウスさん!」

 どう呼びかけたものか逡巡するうちに、彼女の方が支部から出てきたゼルギウスを見つけて走り寄ってくる。

「依頼ですか? 今は、仕事をなさっている時間ですよね」

 そう問うと、彼女ははい、と頷いてから、えっと、その、と言いよどんだ。

「……? 俺に、用ですか?」

「あっ……は、はい。そうなんです。その――」

 彼女は意を決したように一人頷くと、ぱっと顔を上げてゼルギウスと目を合わせた。頭ふたつぶんほどもある身長差のせいで、かなり首を傾けていた。

「わ、私に雇われてください……!」



 二人でギルド支部へと入る。ゼルギウスにとっては出てすぐに戻ってきた格好になるためか、少し具合が悪そうだった。

 護衛の契約をするにしても、ギルドを通す必要がある。シェスティが提示した契約の内容は細部が定まっていなかったし、ゼルギウスも既に報酬等の細かいところが決まった状態の、ギルドに掲示された依頼しか受けたことがなく、こういった形の依頼は経験がなかったから、ギルドの受付に話を聞きながら決めていこうということになった。

 そうして結局、次のような形になった。期間は一年。報酬は前金をとりあえず支払い、その後は月ごとに支払う。シェスティにもあまり懐の余裕がないことを考慮して、ゼルギウスは報酬を定額制にした。普通ならば護衛の者の宿代その他は依頼人がすべて受け持つものであるが、それをあえて黙っていた。
 旅の行先はシェスティが地理に疎かったこともあり、ゼルギウスが決める。ゼルギウスの側での契約の掛け持ちは可ということになっている。シェスティが、旅の間に懐を潤すために一所に留まって働くことがあるかもしれないと言うため、その間にゼルギウスも自分の生活資金を稼げるようにするためである。

 その他禁則時効などを定めて、契約は締結された。――普通、女性が男性を護衛として雇う際には禁則時効として組み込まれるであろう、『依頼人に対する不貞行為』が入っていなかったのは、シェスティの無意識下の行動だったかもしれない。

「では、サインをしてください」

 そう促されて、二人は自らの名前を書いた。

「シェスティ・ヴェステルベリ――シェスティさん、ですか」

「……そういえば、まだ、名乗っていませんでしたね、私」

 すみません、と慌てて彼女は頭を下げる。

「いえ、俺も聞いていませんでしたから」

 そう言いながらゼルギウスもサインをした。

「ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」

「はっ……はいっ! よ、よろしくお願いします……!」

 ゼルギウスには、彼女がなぜわざわざ自分に手を差し伸べたのかいまいちわからなかった。旅をすることに憧れている、と彼女はその理由を語る。けれどそのためなら、ゼルギウスをわざわざ指名して依頼することはない。女性であるシェスティは――特に、見ている限り男性と関わることをさけているらしい彼女ならば――女性の傭兵を雇ってもいいはずだ。
 もちろん今の状況のゼルギウスは、どういった契約でもある程度呑まざるを得ない状態ではある。だからかなりシェスティにとって有利な契約を結ぶこともできる。けれど彼女の目的はそれだけではないような気がしていた。ただ、それが何かはわかっていなかった。

 彼は少し――ほんの少し、剣と鍛錬にかまけた人生を送ってきていて、そういったこと(・・・・・・・)には少々疎かったから。

「えっと、いつ出発しますか?」

「まだ午前中ですから、用意を済ませてしまえば今日にでも出ることはできます。ただシェスティさんも色々と用意が必要なのではないですか?」

「そう、ですね。お世話になった方に挨拶するのがまだです。でも、荷物をまとめるのは、もう済んでいます。旅慣れしていないので、買うものはお伺いしようと思ってました」

 ちょっと護衛の仕事とは違うかもしれませんが、と彼女は苦笑した。

「そうですか、なら、俺も荷物をまとめてきます。今日のうちに買い物は済ませておきましょう。……宿の前で待っていて頂いても?」

「はい、わかりました。あと――その、ゼルギウスさん」

 彼女ははにかんで、ゼルギウスを見上げた。

「なんですか?」

「できたら、えっと、なんていうのかな……砕けた感じで、話して頂けますか?」

「……なぜ」

「え、えっと、えっと……な、なんとなく……です」

 顔を真っ赤にしながらシェスティは俯いた。嫌だったらいいんですが、と小さく彼女が呟いて、それに少しだけよくわからない感情が動く。

「いえ、依頼人の要請はなるべく叶えます。――いや、叶えよう。あまり柔らかく喋るのが得意ではないから、きついように感じたら戻すから言ってくれ」

 普段通りの口調で言えば、シェスティは上目遣いにゼルギウスを見上げて、また笑いなおした。先ほど依頼を受けると言った時と同じくらい、彼女は嬉しそうだった。それがどうしてかゼルギウスにはわからなかったが、きっと彼女にとっては大切なことなのだろう――と思う。

「改めてよろしく頼む、――シェスティ」

「……はっはいっ、よっ、よろしく、お願いしま、す!」



 ――まさか、呼び捨てにされるとは予想してなかった。また顔が熱くなるのを自覚するシェスティだった。

二章 一話(18/5/7)

 ゼルギウスはまずフェルトシュテルン地方のフィールファルベという町へ向かうという。フェルトシュテルン地方の町の中では最西――今二人がいるベルグシュタット地方との境界線に近いところである。

 結局二人は契約を締結した次の日に出発した。前金とその他の準備はシェスティに払える程度だったし、それでもまだ貯金に余裕があった。その上店主が更に追加で祝い金をくれたから、シェスティの懐は温まっている。彼女は普段体型が出ないようなふわりとしたワンピースを着ていたが、出る時に日よけの代わりにもなるようフード付きのポンチョを購入している。

 馬車は使わずに徒歩だったのは、一応シェスティの希望だ。体力面に不安はあったものの、自分の足で歩いてこそ『冒険』だ、という気がなんとなくしていた。要するに形から入ったのである。

 二人は今、山がちの道を越え、だんだんとなだらかになってきた平野を歩いているところだった。テンベルクを出た時はまだ朝露に濡れた葉を見たが、もう日は真上にまできている。シェスティが疲れやすいため、かなりこまめに休憩をとってもらっていた。ゼルギウス一人ならば早朝に出れば夕暮れ時にはフェルトシュテルン地方の村に着くのだが、こうのんびりでは明日になるだろう。

「フェルトシュテルン地方に行ったことはあるのか?」

「ええと……ありません」

 彼の質問に、シェスティは少し嘘をついた。行ったことが全くないというわけではない。ただ、ほとんど出たことがないに等しいとは言える。というのもシェスティが知っているのは森の中だけで、そのほかはほとんど飛んで通り過ぎただけだ。

 フェルトシュテルンの南側を覆う森の中、そこにシェスティの故郷がある。
 だから行ったことがないというのは嘘といえば嘘だった。

「そうか。ベルグシュタットは山がちだが、フェルトシュテルンはほとんど平野だ。かなりかかるとは思うが、海を見るのも面白いかもしれん」

「海……」

 確かにシェスティは海を知らなかった。水辺といえば川くらいで、書物で想像するばかりだ。

「まあ、とにかくまずはフィールファルベに行く。……俺が少し前までいたのはフィールファルベでな、あそこなら金が引き出せる。海からは当分離れているが」

「えっと、その……どうしてベルグシュタットに? あの依頼のためですか?」

 そう問いかけると、ゼルギウスはかぶりを振った。

「いや、単に、そろそろ別の地方に行こうと思っただけだ」

 ゼルギウスは旅をしながら傭兵をやっているが、その先に何らかの明確な目的があるわけではないらしい。強いて言えば鍛錬といったところのようだ。

 その後あともう少しで完全に日が暮れるというところで、二人はなんとか小さな村に着いた。ベルグシュタットの最東端である。

 名もない小さな村だったが、同じようにフェルトシュテルン地方に向かう旅人が利用することもあるのだろう、それなりに手入れが行き届いていた。宿の女将にそれとなく問うてみたところ、魔獣が討伐されたという話はすでに入ってきているようだった。ただその経緯も一緒に伝わっていたのだろう、未だ村人は警戒を解いていないようだった。

 幸いにして、ゼルギウスの人相までは伝わっていない。テンベルクでは少々向けられていた奇異の視線も、特になかった。強いて言えばシェスティに対する熱い視線(据わった目)があったが、この村はどちらかと言えば老年の者が多く、一晩程度では特に問題にもならなかった。

 シェスティの魔力の補給は、ゼルギウスが周囲を警戒しに少し離れた時や、こうして宿に泊まったタイミングで行う。流石に男女だということで、それぞれ一人部屋をとっていたから目を盗むのは外にいる時より簡単だ。宿の部屋には花が活けてあった。本来は根を張り地に植わっているものの方が生命力を自ら生み出す力もあって精力を貰うにはよいのだが、活け花とて死んでいるわけではない。萎れないように、最低限になるよう気を配りながら、その命を少しだけ貰う。

(ごめんなさい)

 それは毎度彼女がそうするとき考えていることだった。



 次の日の早朝にまた出発する。シェスティは朝に弱いので――というのも、サキュバスは性質上(・・・)夜型なのである――ゼルギウスにノックで起こすよう頼んでいる。薬屋に勤めていた時は日が昇ってからしばらく寝ていたのだが、ほとんど夜明けと共に出発するのはシェスティにとってはかなりつらいものがある。

「……大丈夫か?」

 宿に併設された食堂で朝ごはんを採りながら、何度もあくびを噛み殺すシェスティを見て、ゼルギウスが少し困ったように言った。

「……い、いえ……ふにゃ……だいじょうぶ、です……すみません、ふぁ……朝、弱くって……」

 昨夜は疲れたのもあってはやめに就寝したというのに、やはり眠い。もう体の構造からしてそういうものなのだろうとシェスティは考えていた。実際には魔力量の少なさも関係していたのだが、シェスティは魔力が豊富な状態をあまり経験したことがないのでわからない。

 ゼルギウスはなるべく野宿をしないでいい距離はしないでおこうという考えであり、そのためシェスティ自身が大丈夫と言うならばそれを信頼すると言った。二人は結局、まだ夜明けの冷たい風が吹く中を歩いていくこととなる。

「すみません、私の体力がもう少しあったら、余裕をもって出られるのに」

 平原を歩きながら、ようやくあくびが止まってきたシェスティが言う。

「いや、俺は慣れている。万が一間に合わないと判断したら、担いで運んでいく」

 そう返すゼルギウスは、今も既にシェスティのぶんと自分のぶん、どちらの荷物も持っている。テンベルクを出た時点ではシェスティが自分で持つと言ったのだが、元々遅い歩行速度が更に遅くなるためほとんどゼルギウスに奪われた格好である。

「え、その……えっと、お、重たくないんですか?」

 そう問うと、彼はさっとシェスティを頭から爪先まで眺めた後、

「……貴女くらいなら、担いだまま走れる」

 と事もなげに言う。何なら試してみるか、と言われてシェスティはぶんぶんと首を振った。きっと顔は真っ赤になっているだろうから、見られないように少し俯いた。身長差があるから、おそらくゼルギウスには見えないだろう。

「えっと、その……体力は温存しておいてください……」

 やっとのことでそう返すと、ゼルギウスも納得したのだろう、そうだな、と淡々と返される。

 道中は比較的安全だった。魔獣はたまに出ていたが、あまり寄ってこないし、来てもゼルギウスが一刀のもとに切り伏せる。量も強さも、大したものは見かけていない。

「このあたりはあまり強い魔獣は出ないのですか?」

「ああ。友人が言っていたが、魔獣は大気中の飽和した魔素が凝固して生まれるものらしい」

 曰く、集結した魔素が多ければ多いほど強い魔獣になるが、人の集落があればその生活の範囲で魔素が消費され、その界隈で飽和する量は減る。そのため結果的に村の近くは魔獣は出たとしても大して強いものにはならないのだという。
 逆に集落、特にそれなりの規模の町から離れてしまうとどんどん魔獣は強くなっていく。村でも十分その効果はあるが、規模が小さいからたまに魔獣に侵入されることもある。

 だからなのか、この国、ティアラントでは案外町同士の間隔はそう空いていない。そのため、街道を通るぶんには、大して危険な魔獣は出てこないのだという。――とはいえ、その程度の魔獣であったとしても、シェスティ一人ではなすすべなく殺されてしまうのは間違いなかったが。

二章 二話(18/5/8)

 休み休みと言えど、昼過ぎには二つの地方の境界線であるヴァルタウ川の橋を渡っていた。

 橋の上を歩きながら、シェスティは少しだけ悩んでいた。同郷のサキュバスに会いたくないがためにフェルトシュテルンから離れたのに、また戻ってきてしまった。元々は単にからかわれたくないと言う程度の軽い気持ちだったが、今、ゼルギウスと共にいる時に出会ってしまったら――。

「……このぶんなら、日が暮れる前に辿り着くはずだ。一度休憩するか?」

 ため息をついたのを疲れたのだと思ったのだろうか、ゼルギウスがそう言った。

「あ……いえ、ごめんなさい。まだ歩けます」

「そうか。無理はするな」

 双方口が上手いとは言えず、沈黙の多い行程だったが、シェスティに特に不満はなかった。悩むのはその時になってからにしよう、そう心に決める。どれだけ隠れようとしても会うときは会うのだ、と不安を呑み込んだ。

 ゼルギウスの予測通り、二人は日が落ちる少し前にフェルトシュテルンの最東の村に着いた。

「まずは宿をとる。街道であまり旅人を見かけなかったから、おそらく空いているとは――」

「あっ――あんた、傭兵さんかい!?」

 ゼルギウスが言い終わるか終わらないかのうちに、村民だろう、若い男がゼルギウスに声をかけてきた。何やらのっぴきならない雰囲気だ。ゼルギウスがそうだと言って、身分証でもある傭兵の証を出そうとしたが、それを見ないうちに彼は喋りだした。

「た、助けてくれよっ! 俺たちじゃあ、どうしようもなくって……!」

 しどろもどろに言う男を一度落ち着けさせると、彼はごめん、と断ってから語りだした。

「ちょっと前くらいからなんだけどさ……村に魔獣が出てて!」

「魔獣……? この村に結界石はないのか?」

 結界石とは、魔獣が死んだ後に残る核に結界魔術を閉じ込めたもので、低級の魔獣であれば近寄らなくするという効果がある。魔術が使える者がいなくても使えるため、対応する属性――光と土――が使える者がいない面子で旅をする場合は野宿のために持っているものだし、小さい村にはその管轄の町から支給がある。少々高価なため、ゼルギウスも持ってはいたがなるべく節約することにしている。

「いや、ちゃんとあるよ、機能してるんだけどさ、強いやつで、結界を超えちまうんだよ」

「ベルグシュタットで出ていたものと同個体ではないか? それなら、少し前に討伐したはずだが」

「いや、昨日も出たし、作物がちょっと荒らされた。……あんたさ、戦えるんだろ? うちの力自慢の奴らじゃ歯が立たないんだよ、だからさ、頼むよ」

 彼は地に頭をつけんばかりの勢いで頼み込んでくる。しかしゼルギウスは眉間にしわを寄せた。

「……そういうのは、ギルドに一度依頼してからにしてくれ」

 傭兵ギルドに所属している者に依頼をする場合は、ギルドを一度介さなくてはならない。

「み、皆そう言うんだけどさ! ……だめなんだよ、フィールファルベに行こうって思って村を出ようとするとさ、しばらく行ったとこでそいつが絶対出てきて、村に突き返されちまうんだよ」

 そもそも結界を乗り越えられる強さの魔獣が出ることも異常だが、その動きは明らかに素の魔獣がとるものではない。

「魔族が噛んでいるか――」

 ゼルギウスは呟いた。

「お願いだよ……ここ最近不安で仕方ねえんだ。まだ死んだ奴はいないけどさ、怪我人は出てるんだ。頼むよ」

 若い男はまた頭を下げるが、規則があるのだろう、ゼルギウスも首を縦に振ることはできないでいた。

「……ゼルギウスさん、その」

 シェスティが不安げに見上げる。

「……規則を破るとかなり厳しい罰則がある。ただでさえ向こうで要らぬ疑いをかけられた、あまり下手なことはしたくない」

 彼は困っているようだった。眉間にしわを寄せて、頭を下げたままの村の男を見下ろしている。無視してさっさと宿を取りにいってもいいだろうに、彼の足は止まったままだった。

 シェスティとしても、このまま放っておいてしまうことはしたくなかった。――どうしても。ゼルギウスだって、規則さえなければ容易く受けてくれるのだろう。そう信じて、彼女は口を開いた。

「あの、その……なんていうか、ゼルギウスさん、私たち、この村に泊まることになりますよね」

 考えながら言葉を紡いでいく。

「……そうだな」

 彼は首肯した。

「じゃあ、その、後ほど――にはなりますが、追加で報酬をお支払いしますから、えっと、安全の確保のために、この村を襲っている魔獣の討伐をお願いできますか? ……その、護衛の一貫として」

 村の男がばっと顔を上げて、シェスティを見た。ゼルギウスはしばらく考えてから、

「……そうだな。そうしよう。依頼主の要望はできる限り叶える」

 そう言って微笑んだ。

「あっ……ありがとうっ! お嬢さんも……よく見たらすごく可愛いお嬢さんもっ!」

 どうやら戦闘能力が明らかにあるゼルギウスに気を取られて、今まで意識していなかったらしい。手を掴まれそうになって慌てて回避する。肉体的接触はよくない。ただでさえ歩き通しで疲れて魔力もあまり蓄積できていない。できたら〔解呪〕の回数は減らしたい。

「とりあえず宿を取りたい。どこにある?」

「こっちだ、案内するよ」

 よほど安心したのだろう、話しかけてきた時よりも幾分彼の表情は和らいでいた。

「最近この辺通る傭兵さんがなんか少なくってさ……ほら、足の速い人だとここ素通りしてそのままもうちょっとフィールファルベに近い村に行けるだろ?
 それに、さっきも言ってたけどさ、規則……なのかな、ギルドを通さないと依頼が受けられないってのもあって……ほんと困ってたんだ。よかったよ、受けてくれて」

「……あくまで彼女からの依頼だ」

 ゼルギウスは淡々と返した。

 幾分と経たぬうちにゼルギウスが依頼を受けたことが全体に伝わったのだろう、宿の女将は宿代までタダにしようとしたが、それは広義の報酬にあたり規則に反する可能性があるとゼルギウスは言って結局代金を支払った。シェスティも同様である。

 魔獣が来るのはだいたい夜も更けた頃、月が真上に来た頃で、その時来なければその日はもう来ないのだという。シェスティは何かできることはないかと問うたが、休んでいて欲しいと返されるばかりであった。

「……そもそも、貴女の護衛が俺の仕事だ。貴女が安全な場所にいてくれた方がいい」

「そ、そうですね……」

 ごもっともであり、シェスティは結局部屋で過ごすこととなった。今回も一人部屋を別々でとっている。

 休んでいろとは言われたが、寝られないままに夜更けがくる。村は人の声こそするが静かなものだった。しばらくして、部屋のドアが叩かれる。

「……シェスティ、起きているか?」

「はい」

 彼は戸を開けず、そのまま喋り続けた。

「今日の襲撃はなさそうだ。討伐をするならもう一泊することになるが……」

「ええ、はい……えっと、討伐しておかないと、またここを通る時に困りますから、今後のためにも」

 必要かどうかはわからないが、一応建前をつくっておくことにする。

「そうだな。……明日は昼から周辺を回ってねぐらを探す。貴女は村で待っていてくれ」

「はい。何か村の手伝いでもして待っていますね」

「ああ。……じゃあ、今日はよく休んでくれ」

「はい、お休みなさい」

 足音が去って行って、隣の部屋に人が出入りする音がする。彼の部屋は隣で、耳を澄ませば色々と物音が聞こえてくる。

(……うん。よし。寝よう……)

 昨日泊った時は疲れですぐ寝入ってしまったためあまり意識していなかったが、今更ながら少し恥ずかしさがこみ上げてきた。物音から色々と湧いてくる想像を脳内で千切っては投げ、千切っては投げ。……結局彼女が寝入ったのは、もうしばらく後のことだった。

二章 三話(18/5/9)

 周辺調査は結局、村に着いた翌日では終わらず、三日目もゼルギウスは調査に出た。深夜の襲撃は来ておらず、迎撃のかたちで討伐を行えない。

 シェスティは待っているだけではなんだということで、農作を手伝ったりしていた。といってもあまり重労働になることはできないから、子供の手伝いの範囲である。

 それからもう一つシェスティは村の中でできることを発見した。

「あの、女将さん、ご飯の用意が必要ない時でいいので、台所を使わせていただいてもいいですか?」

 農作の手伝いが終わった昼食後、泊っている宿の女将に、一つ頼み事をする。

「いいけど、何に使うの」

「えっと、私、薬屋で働いていたので、簡単な回復薬なら作れるんです。それで……」

「はあ、いいけど、クライン草は自分でとってこれるの?」

 女将は疑わし気にそう言った。クライン草とギフト草の見分けが難しいことは常識だ。ティアラントでは、子供が間違ってギフト草を食べないように、小さいころから随分しつけられるものである。

「ええ、はい。薬草摘みが私の仕事だったんです」

 それを聞いて女将はシェスティに許可を出してくれた。

 昨日のうちに、村の中にクライン草が生えているのは確認していた。通りがかった住民から、雑草扱いされていることも確認済み。抜いてしまっても問題はなさそうだった。

 回復薬の原料となるクライン草は、正確にはハイルング草の下等のものである。魔素が濃い地域では地中の魔素を吸い上げて中等、上等のもの――ゲラーデ、グロースの順で等級が上がる――が生えることがあるが、魔素が生活の中で消費されている集落の中だと、自生するようなものはほとんどクラインハイルング草ということになる。

 ほとんど雑草のようなもので、そんなに手をかけずとも育つが、大抵一緒にギフト草が生えてくるので危なくて薬には使えない。それに適当に植えただけでは効能も大したものにはならない。モニカの薬草園は毎日彼女が丁寧に世話をしていたお陰で、等級こそ低いもののそれなりの効能が出ていた。

 シェスティは使われていない小さな籠を借りると、村の中に自生しているクライン草を見定めた。

(……こっちはまだあんまり魔素を吸えてない。あっちの方がまだマシかな……)

 シェスティにはそれぞれの草が有する魔力を見るだけで判断することができる。――そういう〈個人技能(アビリティ)〉だ。

 正しくは〈魔力構造解析〉で、およそ魔力で編まれたなんらかの力であれば、見ればその構築図がわかる。何らかの効能のある薬草というのは、その中に何らかの既に編まれた魔力を蓄えているものである。正確に言えば、地中から吸い上げた魔素を、植物の体内で一定の形に編み上げているのが薬草であり、シェスティはその編まれた魔力を見て薬草の効能を判断している。

 こういった器のある薬草と違って、魔術のように器のない力そのものの発露であれば、自身の魔力を用いて(ほど)くことも可能――というより、他の者がこの〈技能〉を有したならば通常はそういう使い方をすると思われるのだが、シェスティはこの〈技能〉をもっぱら薬草の判別にばかり使ってきていた。

(……これはギフト草。こっちはクライン草だけど魔素がいまいち……)

 しばらくかかってある程度の量のクライン草を集め終わると、ひと呼吸置いてからあたりを見渡す。クライン草を摘みながら、いくらかのギフト草から精力を吸っておいた。ゼルギウスと共にいる間は魔力が吸いにくい。
 二人旅の間は〔解呪〕の必要もないから、花一輪から少しもらうくらいでもなんとかなっていたが、村に滞在するとなれば多少の魔力を使うこともあるだろう。

「あら、こんなところにいたの」

 近くにあった柵に少し体重を預けて休憩していると、不意に声をかけられる。宿の女将だった。今は休憩中なの、と彼女は語る。

「それ、クライン草だったのねぇ」

「はい。……あ、でも、ギフト草も混じっていますから、採ろうとしないでくださいね」

「そしたら、アンタが全部ギフト草だけ抜いといてくれたらいいじゃないの」

 そう言う女将に、シェスティは首を横に振る。

「ギフト草を全部抜いてしまうと、どうしてかその一帯に生えていたクライン草も枯れてしまうんです。逆も然りですが。何らかの共生関係にある――と、言われています」

 どうしてなのかはよく知らないんですが、とシェスティが付け加えると、女将は残念そうにへぇ、と言った。実際どうしてなのか、シェスティがモニカに聞いた限りではわからない。自生しているものは必ずそうなる。種から育てる場合はクライン草だけでもいけるようだけど、ギフト草と一緒に植えた方が品質は良くなる。もちろん、素人が盗んでいかないようにする目的もあるが。

「それで、なんとか作れそう?」

「はい」

「……もしよかったら、ちょっとお裾分けしてもらえたりしないかい? お代は払うからさ」

 ここには薬師がいないから、薬がきれたらフィールファルベまで買いにいかないといけないのだという。シェスティは苦笑いして返した。

「ええっと……生産ギルドに所属していないので、報酬なし、品質の保障も私以外にはできない、という形であれば構いませんが……」

 シェスティは薬師として生産・販売ギルドに登録をしていないから販売はできないが、善意であげるだけなら可能である。
 もっとも、使用にあたって受けた被害については、ギルド所属でない者から貰った側の自己責任になるという側面もある。品質の保障はされていない。

「じゃあ、できたもんをあんた自身で飲んでるとこを見せてくれたらいいよ」
「はい、それは勿論」

 薬草についての素人判断は非常に危険だから、口で「見分けられる」と言っているだけのシェスティを信頼できないのも当然のことだ。ベテランでさえ、たまに間違う。
 テンベルクにいた時、モニカが摘んだクライン草のなかに一枚だけギフト草の葉が混じっていたこともあった。それをシェスティが指摘したのがきっかけで、彼女が薬草摘みを担当するようになったのだ。

 女将と話しながら宿へ戻る。夕飯の用意までもうしばらくあるから、それまでは台所を自由に使ってくれて構わない、と言った。いくらか捨てようとしていた空き瓶も用意してくれたので、容器も問題ない。

 ゼルギウスは魔術を用いて作った薬は〈技能〉がそれを打ち消してしまうようだが、単に煎じるだけなどの単純な薬なら効果を受けられる――と言っていたので、いくらか作っておけば使いどころもあるだろう。

 クライン草を洗い、土を落としてから、少々細かめに千切ったものを沸騰した湯に入れてしばらく茹でる。火は魔石によってつける。これは生活必需品のため、ギルドを介して月初めに村単位でかなりの量が支給される。ここは宿だから、よそよりも多めに受け取っているのだろう。かなりのストックがあった。

 煮詰める時間の感覚はモニカの薬屋に勤めていた時に養った。湯に色がついたら火を弱め、少し粘り気がでてくるまで煮詰める。しばらくは回復薬に困らぬようそれなりの量を採ったからその分湯をわかすにも煮詰めるにも時間がかかるが、逆に言えば時間がかかるだけだ。卵焼きの方がはるかに難しい、とシェスティは考えている。

 出来上がったものを用意してもらった空き瓶につめ、洗い物を済ませる。ちょうど女将が夕食の準備をしようと戻ってきた頃には、片付けもすっかり済んでいた。

「もういいのかい?」

「ええ、はい。お鍋、ありがとうございました。一応、洗っておきましたが」

「そっかそっか、ありがとね」

 女将に断って、ナイフで少しだけわざと傷を作ってから、毒見用に残しておいたものを女将の前で飲み干してみせた。傷は見る間に塞がり、数秒のうちに跡形もなくなった。

「ああ、大丈夫そうだねえ。使った鍋は一つ?」

「はい。これだけです」

「じゃあどれも品質は同じね」

 瓶を数本渡すと、ありがたくいただいておくね、と彼女は笑った。魔獣被害で回復薬が減ってきたのに、町に向かおうとすると妨害されるため、在庫の補充ができず困っていたのだという。そうでなくても回復薬はあるに越したことはないものだ。

「……ああ、そういえばさっき、傭兵さんが帰ってきてたみたいだよ」

「本当ですか? 昨日より少し早めでしたね」

 昨日ゼルギウスが帰ってきたのは、日没ぎりぎりになってからだった。だから、今日もそのくらいになると思っていた。

「そうねぇ。もう部屋に戻ったみたいだから、話、聞いといたらどうだい?」

「はい、ありがとうございます」

 頭を下げてから、籠に薬をつめた瓶を入れ、そのまま寄り道せず客室に戻ることにした。

二章 四話(18/5/18)

 シェスティが泊っている部屋の隣が、ゼルギウスの部屋だ。ノックをすると、ほどなくしてドアが開く。

「お帰りなさい。お出迎え、できなくてすみません」

「いや、構わない」

 ゼルギウスは戦闘の後という雰囲気ではなさそうだった。彼は部屋にシェスティを招く。どうやら何か準備の途中のようだった。少し荷物が散乱している。

「調査はどうでしたか?」

「ああ……該当の魔獣の本拠地を発見した。夜行性かと思ったが、昼もそれなりに活動しているらしい。数も思ったよりいたからな、一度準備を整えることにして戻ってきた」

「お疲れ様です」

「いや、この程度は。……暗くなってしまいそうだが、今日のうちに片付けようと思う」

「今日のうちに……? 危険ではありませんか?」

 まだ日没までは時間があるが、それでも長引けば真っ暗になってしまう。魔獣は基本的に夜目がきくから、人間族の中でも特に夜目がききにくい〈人間(トールマン)〉が夜に討伐などを行うのは避けるものである。

「そうだな……相手が魔狼だから、おそらく苦戦する。魔術に依った戦い方をする相手なら、有利をとれるのだが」

「なら、明日にしてしまっても……」

「魔族の関与があるかもしれない。普通の魔獣被害ならば明日にするが、魔族が関与しているならば、むしろ人間族は日没近くに襲撃を行わないと考える可能性がある。あえてこの時間に出ることで、虚をつける可能性がある」

 この時間にいったん戻ってきたのは、準備を整えるためもあるが、一度村へ戻ることで今日はもう襲撃しないと思わせられるかもしれない、という意味もあったらしい。

「……回復薬の予備はあるか? 少しもらってもいいだろうか」

 手持ちだけだと少し不安が残る、と言う彼に、持ったままだった籠から数本回復薬を出す。こんなにすぐに使いどころが出てくるとは思っていなかった。

「この村に自生していたクライン草で、予備を作っておいたんです」

「……ああ、貴女は薬屋で働いていたのだったな。これだけあれば気兼ねなく使えそうだ。助かる、ありがとう」

 笑顔を向けられて、シェスティは少しだけ胸が高鳴った。護衛されている身で、何もできないことにもどかしさを感じていたが、こうして感謝されると嬉しいし、何より安心する。自分にも彼になにかしてあげられることがあるのだ。

 シェスティから受け取った薬を腰につけた小型の鞄に入れると、ゼルギウスはよし、と小さく呟いた。

「行ってくる。明日にはフィールファルベへ出発しよう」

「……はいっ、行ってらっしゃい、お気をつけて」

「ああ。なるべく早く戻る」

 シェスティには魔力に余裕がないから、魔術も使うことができない。ついて行っても邪魔なだけだ。どれだけ不安でも、見送ることしかできない。

 それでも、彼が大丈夫だ、と言うのだから、それを信じるべきだ――と。笑顔を見せた。



 村を出て、ゼルギウスはもう一度目的の位置へと向かう。松明は一応使えるようにしてきたが、できるだけ早く帰りたい。

 村や町といった集落の周辺で出る魔獣は、大して強くはない。村の男が総出でクワでも持ち出せば、一匹や二匹は問題ない。

 だが、今回出現した魔獣――狼型ゆえ、魔狼と呼ばれることもある――は素早く、群れで動く。通常ならば村の周辺には現れない強さだ。遠くから移動してきたとも考えにくい。魔獣は普通、発生した位置からそう動かない。

(……やはり、魔族が関与しているのだろうな)

 一般に、魔獣を操ることができるのは魔族だと考えられている。その認識は誤ってはいない。しかし正確に言えば、魔獣は心属性の魔術によって従わせることができる。

 その心属性の魔術というのが、一般に人間族はほとんど使い手がおらず、適性はもっぱら魔族に偏るものなのだ。故に魔獣を操る術を有するのは大半が魔族だということになる。

 ゼルギウス自身は魔術を行使できないが、その分多少の知識はつけた。魔術は生活に用いるごく簡単なものを除き、大抵は師匠から弟子へと伝授される。自分が魔術を扱わないぶん知らないことも多いものの、討伐以来で必要になるだけのことは頭に入っている。

 よほどでない限り、あの量の魔獣を全てまとめて細かに、それも一挙一動すべからく操ることはできない。魔力とか技量とかの問題ではなく、単に一個人の頭の処理能力の問題で、複数――今回なら七体――の魔獣を丁寧に統率のとれた形で個別かつ同時に動かすのは至難の業。人間族だろうが魔族だろうが、同時に処理できることなんて大して無いのだ。

 だから、おそらく、命令を送られているのは大概一匹、多くて二匹。それも群れの頭となる個体を操る。そうすることで後は勝手に、他の個体もそれに従う。元より統率のとれた動きをする群体だ。一匹一匹操る必要は無い。

(だからまずは主たる個体を優先して殺せば、一気に崩れるはず――だったか)

 魔術に長けた友人から言われたことを思い出しつつ、ゼルギウスは歩を進める。魔狼は村からそう遠くない森の中、浅いところに陣取っていた。一人ならばねぐらの付近、警戒されないギリギリまですぐに辿り着くことができる。

 可能な限り気配を殺しつつ、様子をうかがう。日が暮れだしていた。今回の対象は夜行性だ。それゆえ、昼日中に発見したときよりも更に警戒して動く。

 遠目から七体揃っていることを確認する。頭がどれかは見当がついていた。普通の魔狼は大型犬よりも一回り大きいくらいだが、その中でもひときわ大きい個体。中央で丸くなりながらも、耳はピンと立てている。

 正直、一人で相手取るには多すぎる数だ。依頼として出された場合、受注するには少なくともメンバーが三人はいないと認可が下りないだろう。せめてあと一人、魔術師がいればもう少しやりやすいのだが。建前上ゼルギウス個人に対する依頼の形をとているのだから、致し方ないと言える。

 細く息を吐いて、覚悟を決める。やれないことはない。背負った剣に手をかけた。そうして一拍。駆け出す。

 こちらの存在に気が付かれていたのか、そうではないのか、ゼルギウスにはわからない。どちらにせよ、魔狼たちの対応は一瞬だけ遅れた。虚をついて。――中心へ。

 抜刀と共に一閃。頭を一刀のうちに落とす。断末魔を聞き終えるのを待たずして、振り返りざまに薙ぎ払う。――近くまで寄っていた二匹の目を潰した。そうしてl、闇雲に暴れる二体にとどめをさす。三体がサラサラと金色の粉のようになって宙へと消える。虹色に輝く石がころりと地面に落ちた。出遅れた残り四匹は二の足を踏んでいる。

(やはりリーダー格はあれだったか)

 ゼルギウスは手に持った大剣を握りなおした。そう時間をかけてはいられないだろう。もし本当に魔族の関与があり、近くに操っていた者がいたならば、すぐにリーダーはすげ替えられる。

 悩む間もなく、端にいた一体に向かって駆け出して、頭蓋から顎まで叩き切る。そのまま踏み込んで、近づいてきたもう一匹を切り上げる。残り二頭、そう思った瞬間、左手首に鈍い痛みが走る。――気づけば寄られていた。咄嗟に後ずさる。

 先ほどまで動揺をあらわにしていた一匹が、今は冷静にゼルギウスを見据えていた。新な頭の存在を感じ取ったのか、もう一匹も落ち着きを取り戻す。手首の痛みは激しく、剣を持つには難しいが、一人である今、回復薬を飲む隙を与えられるとは思えない。

(見られている、か――)

 どうやら咄嗟に〔洗脳(マニピュレイト)〕をかけなおしたらしいと見えた。類推でしかなかった魔族の関与を確信する。そうでなければ今頃、この二頭も殺せていたはずだった。――なにより。

 ゼルギウスの得物は両手持ちの大剣。首を狙えばいいところを、まず手を潰して反撃を困難にした。血が噴き出すのを感じている。――脈まではいかなかったことを幸運とみるべきか。

 左手を下ろし、右手だけで柄を持つ。切っ先は地面について引きずっている。

 しばらくそのまま睨み合って、先に動いたのは魔狼のほうだった。片方は足に向かって。もう片方は喉を狙って。

 ――それを。

「……油断したな」

 片手で(・・・)大剣を握りなおして。まずは足を狙ってきた方の喉を突く。それからすぐに軸をずらして、もう一体の突撃から身をかわす。そうして剣を振り上げる。着地の隙を狙って、最後の首を落とした。

 サラサラと光の粒が舞う。あたりは静かになった。

 ひとつため息をついた。

 ――噛まれたのが右でなくてよかった。得物が大剣ゆえに、片方が使えなくなれば戦えぬと判断されてよかった。この剣はゼルギウスにとっては片手剣(・・・)だ。ただ、両手で振るったほうが威力が出るから両手持ちをすることが多いというだけで。

 剣を背負いなおして、腰につけていたポーチから回復薬を一つ取り出して飲み干す。じきに痛みが引いてくるだろう。

 魔獣は魔素の集合体だから、殺しても死体は残らず、身体を構成していた魔素が空気中へ戻っていく。討伐の証は、魔獣を倒した後に残る魔石だ。

 魔石は魔獣の体内で凝固した魔素が石の形をとったものだ。力を得た魔獣ほど大きいものが取れる。魔道具の作成など、使用法がそれなりにあるらしい。――ゼルギウスはそういった方面に疎かったから、町で売り払う以外の用途を知らないが。

 今回はギルドを通しての依頼ではないから、持っていく必要もないかもしれないが、後々金策にはなるだろう。七つすべてあることを確認して、鞄に入れた。

 もう日は落ちかけているようだった。――はやく帰ったほうがいいだろう。持ってきておいた布に油を浸み込ませ、着火石を使って松明に火をつける。それから結界石を使ってしまうことにした。なるべく足止めされずに帰りたかったのだ。

二章 五話(18/5/25)

 ゼルギウスが村に戻ってきたのは、日もすっかり暮れてしばらくした頃だった。

 村の入り口で立ち尽くすシェスティに、村の男が代わる代わる寄ってきては声をかけてくる。

「シェスティちゃん、もう戻ったら?」

 どこで名前を聞いたのか、若い男が言う。それをあしらって彼女は待っていた。

 順調に〔催淫(チャーム)〕がかかってしまっているのはわかっていたし、部屋に引きこもっているべきとも思ったが、それでも不安だった。

 森のほうから光が出てきて、こちらに近づいているのがわかった時、心底ほっとした。やがてそれが足早にこちらへ向かってきて、長身の男の影を認めたとき、漏れた息でようやく自分が随分息をつめていたことを自覚した。

 良かったね、などと傍にいた二人の男のうち片方がシェスティの肩を叩いた。生返事のままゼルギウスに手を振る。そんなシェスティに気が付いたのだろうか、彼は少しだけ歩を速めた。

「お帰りなさい」

 村へとたどり着いたゼルギウスにそう声をかけると、彼はまとっていた緊張をようやく解いて、

「――ああ。討伐は問題なく終わった」

 と言った。

 魔石の確認をしてから、村は宴を始めた。報酬は受け取れないとゼルギウスは固辞したが、たまたま村がやる宴に巻き込まれただけだと村人たちが屁理屈をこね、とうとうゼルギウスも折れた。ただ、普段夕食代で出している分だけの金を出すということにしておいた。

 ギルドの規定に引っかからないぎりぎりの範囲での、せめてもの礼だ。村の中央にある広場で焚火をしながら、随分な騒ぎようだ。

「夜に怯えなくていいのが随分久しぶりに感じるよ!」

 と、村に入った時に声をかけてきた男が言った。先ほどからシェスティにかなりすり寄ってきている。彼だけではない。村には若い男が数人いたが、その誰もがシェスティに絡もうとして、そのたびにシェスティは逃げていた。中には宿の女将の息子もいて、昼間に見たときには真面目に食堂の掃除をしたりしていたのだが、今は赤ら顔でシェスティに近寄ろうとしてくる。

 何度も酒を飲まされかけるが、そのたびに首を振ってそれを拒否する。

「……その、私、お酒はとても弱いので」

 その言い訳は嘘ではなかった。テンベルクに住んでいた頃、十五で酒を飲めるようになってすぐに誘われて飲んだことがあるが、その時も確かに他の者より早く酔っていた。

 だがシェスティが酒を断るのはそれだけが理由ではない。少しでも酔うと体から放出する〔催淫(チャーム)〕の効果が強まってしまうようなのだ。というより、普段は意識的にその効果を絞っているのだが、そのストッパーが無くなってしまうといったところらしい。

 それに酔っている者は、〔催淫〕に限らず精神汚染系の魔術への抵抗力がぐっと落ちる。だから余計に危険なのだ。それであまりシェスティは酒を飲みたくなかった。

 少しだけ手をつけた料理はとても美味しかったが、どうにも男たちに追いかけられていて落ち着かない。所帯持ちはさすがに寄ってきていなかったが、下卑た視線は感じていた。抜け出そうとしても「まあまあ」と腕を引かれそうになるので、体に触れられないようにするので精一杯だ。

 すでに〔催淫〕が効きすぎているのは明らかだったけれど、今〔解呪(リリース)〕したところでまた同じだけの〔催淫〕がかかってしまうからきりがない。

 不安で辺りを見渡すと、ゼルギウスは少し離れたところで老人らに囲まれていた。どうやら酒をかなり勧められているらしいが、ちっとも酔った風がない。それでまた更に飲まされているらしい。

 あれでは助けを求めようにも、とシェスティが諦めかけた時、不意にゼルギウスと目が合った。彼は勧められていた酒を断ると、シェスティに近寄ってきた。

「……こういった宴は苦手か?」

 小さな声でそう聞いてくる。彼はさりげなく他の男とシェスティの間に入った。少し酒の匂いがしたが、酔っている様子は微塵もない。

「ええ、はい、少し……疲れてしまって。すみません」

「いや。部屋まで送ろう」

 そう申し出られてシェスティは思わず笑顔を浮かべた。

「あっ……ありがとうございます」

 感謝の気持ちゆえにやってくれていることだとわかってはいたけど、正直早めに部屋に戻ってしまいたかった。ゼルギウスがいれば、抜け出しやすい。

「……食事は十分にとったか?」

「あ、えっと、……あと少しだけ食べてもいいですか?」

「ああ。待っているから食べてこい」

 そう言われて急いで机の上に並んだ食事の中から、いくつか――柔らかく煮られた肉とか、そういった食べやすいものを胃に収めた。

「お水はいる?」

 いつの間にか女将が近寄ってきていて、グラスを手渡された。それをぐっと飲み干して。

(――っ! こ、これ、お水じゃ……ない!)

 一瞬ぐらりと体が揺れかけて、慌てて地を踏みしめる。香りを確認せずに飲んだのが悪かったのだが、水割りされた米酒だった。

「あ、……ありがとうございます」

 苦笑いするが、女将のミスなのか、それとも誰かがわざと水と偽って酒を入れたのかわからない。

 とにかく早く部屋に戻ろう、そう思ってゼルギウスのもとへと走る。

「もういいのか?」

「はい」

「女将にはシェスティが疲れたようだから先に戻ると言っておいた。……行くぞ」

 そのままシェスティはつられて宿の部屋へと戻った。



 部屋にたどり着いて、ゼルギウスは宴に戻ると言った。

「わざわざ抜け出してもらってすみません」

 と頭を下げると、ゼルギウスは首を振った。

「……俺もああいった空気は好きなわけではない。だが、俺がいなくては興ざめだろう」

「そう、ですね。主役ですから」

 シェスティは少し笑った。

 その背中を見送ろうとしたところで、ゼルギウスが不意に振り返る。

「ああ、回復薬だが、役に立った。……感謝する」

「あっ、えっと、……その、ちゃんと効きましたか?」

 テンベルクにいた頃は薬屋で働いていたとはいえ、直接使用者から効き目を聞く機会はあまりなかった。モニカの太鼓判があったとはいえ、少しドキドキしてしまう。
 シェスティの問いかけに対して、ゼルギウスは左手を上げて応えた。篭手に穴が空いているが、軽く手をひらひらと振ってみせる。

「噛まれたが、もう塞がって痛みもない。明日には傷跡もなくなるだろう」

「よかった、お役に立てたんですね」

 安心して笑顔を向けると、ゼルギウスも微笑み返してくれた。

「では戻ってくる。……戸締りをしておけよ」

 そう彼は付け加えて、今度こそ宿を出て行った。

(……戸締り?)

 村の人々を信頼していないわけではないが、それでも盗難などがあったりすると困るから、寝るときは言われなくても施錠している。

 どうしてわざわざ……? いぶかしみつつも、ドアに鍵をかけた。そして肌着に着替えてから、寝台へ飛び込むようにして寝転がる。

 明日からまた旅を再開するのだ。目指すのはフィールファルベという町だと聞いている。テンベルクよりも大きくて華やかな町だというけれど、シェスティには想像がついていなかった。

 酔いも手伝ってか、寝転がるとすぐに眠気がやってくる。村の人の対応をすべてゼルギウスに任せたことが少しだけ申し訳ないな、と思いつつ、シェスティは意識を手放した。

二章 六話

 ――異様だ。

 宴が終わり、部屋へと戻りながら、ゼルギウスは村の男たちの様子を思い返す。

 村の、特に妻を持たぬ若い男たちの様子は、少し異常だといえた。

 シェスティに対する好意――というより情欲。ぎらついた目。妻帯者らしい者は、妻がいる手前もあるのだろう、そうあからさまではなかったが、それでもその視線は彼女に向けられていた。

 酔った勢い、そう片付けてよいものか。

 村に若い女がいないわけではない。その情欲がすべからくシェスティだけに向けられるというのは、なんともおかしな話だ。

 自分が出ている間に誘惑した? そうも考えたが、首を振って否定する。少なくともゼルギウスが見る限りにおいて、シェスティはそうして向けられる感情を迷惑がっているようだった。だから部屋に戻るよう言ったのだし、彼女の表情を見る限り、それが正解だったのだろう――と思う。

 彼女はどうも危なっかしい雰囲気があった。体が弱いのに旅に出たいという。時折しおれかかった花をじっと見ていることがある。弱いぶん身の程をわきまえていて、ゼルギウスが危ないからと言えば、大概のことは逆らわない。時には命令するな、主はどっちだと言い出したり、好奇心を優先させようとしたりする依頼人もいるから、そういう意味で扱いやすいのはありがたい。

 彼女を心配するのは、たいてい男がらみのことだ。テンベルクにいた頃から男に人気があるらしいことは察せられたが、あそこには長くいたのだから性格もあいまって人気がでることもあるだろう。討伐部隊の者も惚れかけていたのが何人かいたようだが、あれらはおそらく周囲に女がいない環境で育ったのだと思う。――思っていた。

 だが、旅に出てから、初めて訪れたはずの町でも、彼女は同じような視線を投げられる。

(まるで〔催淫〕だな)

 そう一瞬考えてから、打ち消す。〔催淫〕――心属性の魔術を使うことができるのは基本的に魔族。しかし彼女はテンベルクに長く住んでいた。もし彼女が魔族なら、とうにつまみ出されているはずだ。魔族がその正体を隠して人間族の集落にとどまり続けるのは難しい。

 人間族と魔族は、別に大々的に敵対しているわけではない。もちろん、魔族の生命維持にはしばしば人間族の生命とか精力といったものを必要とする関係上、どうしても魔族が生きていること自体が人間族の害となる。

 だが、魔族とて人間族をすっかり殺してしまうよりも長く生きさせたほうが効率的な生態をもつ種族ばかりだから、例外もあれどそうそう殺しはしない。なにより強大な魔力が、時に有効な魔族によってもたらされれば、人間族にとっても利益とならないではない。

 そういう関係があるので、人間族も何もないのにあえて積極的に魔族を滅ぼしにいくことはない。何か具体的に害をなされれば反撃するというだけで。

 とは言っても、魔族相手にそう友好的に接する理由もない。むしろ自分たちが食料とされているというのはあまり気分がいいものでもない。それを是として契約でも結んだならばともかく、人間族の集落に入り込んだ魔族は、基本的に排斥される。

 〔催淫〕を得意とする魔族――サキュバスというのは性交を行って生命をつなぐ。シェスティに惚れていたらしい男たちは、関係をもったとかいう話は少しもしなかったし、彼女はどうやら、男との関わりを避けているようだった。サキュバスであればとうに魔力が尽きて死んでしまっているだろう。

 魔族は人間族と違い、魔力が尽きると死に至る。故に魔力が非常に少ない状態での生活は非常に飢餓感を伴い、耐えがたい苦痛があるのだと聞いたことがある。――あくまで伝聞だが。

 何より彼女のすぐに照れたりするような――生娘のような反応は、〔催淫〕を行うサキュバスには似つかわしくない。

 だから、ありえない、そう結論づけて。彼は部屋へとたどり着いた。

 防具を外して手入れを始める。すぐに宴が始まったせいで装備を整えることもできなかった。酒を入れてかなり眠いのだが、手入れは済ませてしまわねばなるまい。よく考えれば先ほどシェスティを送った時についでに外しておけばよかったのだが、早く宴のほうに戻らねばならないという気持ち故に忘れてしまった。

 左手の篭手に空いた穴が目に入った。これでは防具の意味がないかもしれないと苦笑するが、腕を貫通されなかっただけマシかと思いなおす。

(フィールファルベに着いたら、防具を買いなおすか……)

 一つひとつ留め具を外しながら、別のことへ思考をうつす。

 魔獣を操っていた者の存在を、確かに感じた。テンブルクのことを合わせて考えると、裏で手を引いているのがサキュバスである可能性は、十分に考えられる。同一の個体かはわからないが――。

 しかし、どちらにせよ、サキュバスが魔獣を操って人に危害を加えるというようなことはそう多くない。魔獣など使わなくとも、人里に入り込んで〔催淫〕してしまえば目的のものは足りる。

 テンベルクにしても、この村にしても。なぜ、襲われたのか。
 手を動かしながら考えていたが、それらしい理由は思いつかない。

 手入れを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。窓を少し開けて見上げれば、月が真上にきている。そろそろ寝なくては明日に響くだろう。そう思いながら布団についたとき。

 カチャリ、と音がした。この部屋ではない、隣の部屋だ。

(シェスティ? 出ていたのか)

 手洗いなど用があることもあるかもしれないが、てっきり寝ていたのだと思っていた。明日、手洗いであっても夜中に一人で出歩くのはなるべく控えたほうがいいと言ったほうがいいかもしれない、と少し思って。

 忍ばせているようで丸聞こえの足音。衣擦れの音。この宿の壁はそう厚くなくて、ゼルギウスのように慣れた者なら、全て筒抜けになってしまう。

 宴の片付けも終わったのか、あたりはしんとしていた。

(……何か、おかしい)

 少しの違和感が確信に変わったのは次の瞬間だ。

『――ンッ!?』

 がさ、と大きな音がして。少しだけ女の声が漏れて。――あれは、シェスティだ。
 暴れるような物音。少しの振動。

『静かにしてよ、ねぇ、悪くはしないから』

 ――潜めたつもりらしい男の声が、はっきりとゼルギウスの耳に届く。

二章 七話

(な、何!? なんで、この人、ここに!?)

 男の肩越しに見えた扉は、壊されたような風はない。何よりそんなことをしたら、隣の部屋にいるはずのゼルギウスが先に気が付くだろう。

 何かが布団に入り込んだ気配で目が覚めて。気が付けば口を塞がれ、馬乗りされていた。もがくものの、脱出は難しい――と混乱した頭でそれだけはわかる。酔っているらしいとはいえ男女の差があるし、その女の中でもシェスティは輪をかけてひ弱だ。

「暴れないでってば……」

 そうねっとりと耳元で囁かれて怖気がする。どうにか抜け出そうとするが、その様がかえって男をそそるらしい。

 少し寝ぼけていて頭が働かなかったが、だんだん冷静になってきた。サキュバスは夜目がきく。目の前にあった顔は、宿の息子だった。なるほど、少し合点がいった。――合鍵を使われたのだ。

 それがわかったからって状況はどうにもならない。男が着ていたキャミソールをたくし上げようとした。

「ンーッ! ンーッ!!」

 塞がれたままで必死に声を出す。視界が少しぼやけていた。――やだ。そんな気持ちで頭がいっぱいになる。

 だからお酒は嫌なんだ。〔催淫〕がかかりすぎるから。

 〔解呪〕は明日の朝、酔いが醒めた後にすればいい、そう思っていたのが悪かったのか。でも今夜すぐにしてもあの抵抗力の状態ではすぐに〔催淫〕が再度かかってしまい、大して意味がなかった。だからしなかったのだ。
 それにシェスティ自身少し酔ってしまったから、早めにあの場を離れたかった。

 いつの間にか両手がまとめて押さえつけられていて、自由になるのは足だけだった。蹴り飛ばそうにも体勢が悪い。

「可愛いね、いっぱい愛してあげるからね」

 再び囁かれ、目にたまっていた涙がとうとうこぼれた。――いやだ、いやだ。こんなことでこんなところで、ずっと大切にしてきたものを。

(たすけ、)

 露わにされた胸のあたりに男の顔が近づいてきた――その瞬間。

 ドアノブが回されようとして、鍵がかかっているのがわかったのか、間髪入れずドンドン、とノックの音がする。

「シェスティ、何かあったか」

 ――ゼルギウスさん。そう呼ぼうとしたけれど、口を塞いでいる手が一層強く押し付けられた。

 男はがばっと体を起こし、凍り付いたように動かなくなった。息をひそめて。何事もなかった風を装うように。

 けれど。

「……返事がないのは何かあったということだな」

 そう彼は確かに言った。そうして直後、バァン、と大きな音がして。
 ――男の肩越しに、廊下の光が暗い部屋の中に届く。ドアが破られていた。

「…………」

 何をしている、とも、ゼルギウスは言わなかった。ただつかつかと歩み寄ってきて、そうしてシェスティに覆いかぶさったまま固まった男の首根っこを掴み、そのままベッドから引きずり下ろした。

「な、なんてことしてくれるんだ、扉は――」

 自分のことは棚に上げた様子で、男がゼルギウスを責める。

「明日にでも、女将に事情を説明する。……今日は遅い」

 そのまま男をぽいと部屋の外に放り投げるようにして追い出した。力でかかってこられたら敵わないのが明白だったからだろうか、男はすぐに逃げていった。

 シェスティはそれを、体を起こしはしたけれど茫然として見ていただけで、ゼルギウスが振り返って「大丈夫か?」と問われても、ただただ頷くしかできなかった。

「…………とりあえず、肌を隠したほうがいい」

 そう言われても、一瞬何のことかわからなかったくらいで。

「――――!?」

 一拍置いて、慌てて布団で体を隠す。

「大丈夫か?」

「あ、えっと、はい……その、すぐ、来てくださったので」

 そう言って礼もしていなかったことに気が付いて、慌てて「ありがとうございます」と付け加えた。

「いや。……何もなければよかった」

 ふ、と彼はため息をついた。

「しかし、ここでは眠れないな」

「あ、はい、そうですね……」

 ドアはすっかり破られていて、鍵どころか閉じることすらできなくなってしまった。

「すまない」

 そう言いながら彼はシェスティに歩み寄ると、彼女をくるまっていた布団ごと抱えた。そうしてさっさと歩きだす。

「へっ、えっ、あの?」

 まだ先ほどの涙も乾かないうちに、今度は心臓が別の意味でうるさい。

「この時間だ。女将に新しく部屋を用意してもらうわけにもいかん。俺の部屋なら守りやすい」

「え、えっと、それって、」

 同じ部屋で寝るってことですか――!?

 そう問いかける間もなくシェスティはゼルギウスの部屋のベッドの上に寝かされていた。そして彼は淡々と荷物の移動を始める。ものの数分、いや数秒でその作業は終わって、シェスティが唖然としている間にゼルギウスは気が付けば部屋に鍵をかけている。

「えっ……と、あの、布団……」

「ん? ……ああ、気にするな。俺は床でも寝ることができる」

 そう言ってもともとこの部屋にあった掛布団をさっと取ると、ゼルギウスはそのまま壁を背にして座り込んだ。

「あ、あの、でも、ゼルギウスさん、お疲れですから、今日は私が床で寝ますよ」

「体力がない貴女が、よく眠れなくては明日に響く。今日はクライン草も摘んでいたのだろう?」

「あれくらいは別に……いつも、やっていましたし……」

「薬屋の店主は、それでも貴女にとっては重労働のようだと語っていた」

「う、……その、ゼルギウスさん、怪我をなさったのでしょう? 下位の回復薬は本人の体力でその治癒能力を高めて怪我を治すものですから、あなたが自覚しているよりも疲れていらっしゃると思います」

 気づけばかなりの押し問答になっていた。長々と自分が床で寝ると終わらない平行線をたどり続けて。

「もうっ、そんなに言うんでしたら私も床で寝ますっ!」

 そう言って寝台から降りようとしたシェスティを、ゼルギウスが押しとどめた。そのまま後ろへと倒される。

「え、えっと……?」

 無言のうちにゼルギウスはシェスティに隣の部屋から持ってきた布団をばさりとかけなおし、シェスティの横に座り込む。

「……これでいいだろう。早く寝るぞ」

「へっ、あっ、は、はい」

 ゼルギウスの声は憮然としていた。思わず返事をしてしまったが、咄嗟にまずい、と思い直す。しかし彼は寝台のそばにあった蝋燭を吹き消して、もう一つの布団をかぶり、背中を向けて寝転がっている。

 一人用の部屋の一人用の寝台で、大柄なゼルギウスはただでさえ幅をとる。布団越しとはいえ触れない距離まで離れることはできなくて。

(ね、ね、寝れるわけが、ない……!)

 心臓が破裂しそうだった。こんな格好で、こんな距離で。――彼のそばにいるのは。
 つい少し前とは違う意味で鼓動が早まる。

 少し身をよじってゼルギウスに背を向けた。それでも少しゼルギウスが身動きをするたびに、反応してしまって落ち着かない。

 しばらく葛藤したのちに、

(…………や、やっぱり、むり…………!)

 こっそりと寝台から抜け出そうとしたのだが。

「ちゃんと布団で寝ろ」
 背中を向けていたゼルギウスが振り返って、シェスティのことを押さえて引き留める。そのまま腕が背中へ回されて、引かれるがままに距離が埋まる。

 目の前にその精悍な顔立ちがあった。思わず息がつまる。夜行性のシェスティの目には、ゼルギウスの表情がはっきりと認識できていた。完全に体を硬くしてしまったシェスティを見てか、彼は苦笑した。

「……あんなことがあった後で男と同衾するのは嫌かもしれないが、床で寝ると布団で寝るとでは熟睡具合が違うものだ」

「いえ、はい、えっと、その……」

 言い淀むシェスティが怯えているのだと思ったのだろう。彼は背中に回されたままだった腕をそっと外す。

「心配するな、誓って貴女には何もしない」

 彼はそう言ってまた目を閉じた。そのまま寝息を立てる。先ほどのように背中を向けることはなかった。ただ、「何もしない」という言葉は確かであるらしかった。

(……………………誓って…………)

 ほんの少し複雑な気持ちを抱いて、シェスティは小さくため息をついた。
 暗闇の中、すぐ目の前で目を閉じているその顔を盗み見る。

 ――ああ、認めなくてはいけない。
 この高鳴りは誰であっても感じるものではないと。
 『少し気になっているだけ』なんていう可愛らしいものではなくて。――ああ。

 魔力の枯渇した体が、その男の気配を敏感に感じ取る。それは食物だ、と本能が言う。
 わかっている。不快感と苦しみとの中にあった、長らく満たされなかった飢餓から抜け出せるという歓喜。わかっていた。助けてもらったときに感じた安心感と、ほんの少しの――失意と。
 本能が言う。食事を奪ったこの男が、次は糧となるべきと。

(違う、そんなものじゃない。そういうことじゃないの。私は――私は)

 必死にその気持ちを、本能を打ち消そうとして。ただこの人を、少しでも長く、傍で見ていられたらそれでいい。そう願って。――でも。それが嘘だということだってわかっている。
 違うと思いたいだけ。清らかな恋というものが、私の中に宿ると、そう、信じていたいだけ。
 今まで理性で押さえつけていたものが、こうして、――心音が届きそうな錯覚までしてしまうような近さで、頭をもたげる。

 認めなくてはいけない。
 ――私は、このひとが、欲しいのだと。

 そして、それを、隠さなくてはいけない。
 ――生きていくためにこのひとを使うことを、したくなくて。

 初めては好きな人とがいい――なんてあまりに難しい。
 好きな人を『食事』にはしたくなくて。きっと理想はこのひとが私を好きになってくれること。

 〔催淫〕でそういう気分にさせるのは違うと思っていた。だから、そもそも感情を偽造できないこのひとに惹かれた。――そうなのだけれど、一方で、何もない状態で自分を好きになってもらう方法が、いまいちわからない。

 物語の男女は驚くほど美しく惹かれあっていて。
 私たちサキュバスはそういう形の恋を知らない。

 ほんの少しの距離にあるその顔に、触れる勇気はなかった。ただ少しの間、見つめて。
 ――ああ、やっぱり、欲しいのだと、自分の欲を認めて。それを認めたくない自分を認めて。何よりその欲を納得いく形で満たす方法がわからなくて。

 けれど、やっぱり、――だれでもいいからとりあえず、という気持ちになれないことも、確かで。

 まだ心臓の音はうるさいし、おさまる気もほとんどしない。でも、確かに、寝ておかなくては明日彼に迷惑をかけるのだ。

 意を決してとりあえず目を閉じるだけ閉じた。視界が真っ暗になると、酒もあったのかもしれない、すぐに眠気がやってくる。

 思っていたよりも早く、シェスティは眠りについていた。

二章 八話

 翌朝。

 シェスティが目を覚ましたとき、日はすでに昇っていた。旅に出て以降、ほとんどの日は夜明けの少し前に目を覚ましていたことを考えれば、寝坊とも言える時間だった。

 勢いよく起き上がってあたりを見渡すと、ゼルギウスはもう服を着ていて、ちょうど目が合った。

「……おはよう。よく寝られたか」

 彼はそう言ってからすぐ、気まずげに目を逸らした。普段よりも一段と声が低く、どうも目つきも悪い。

「ふぁ……おはよう、ございます。はい。ちゃんと寝られたと、思います」

 結局、寝れない寝れないと思っていたわりには熟睡していた。自分が思ったよりも図太いのかもしれないという気がして、ひとり苦笑する。

「そうか。……。なら、すぐ服を着たほうがいい」

 そう言われて、はた、と気が付いて自らの体を見下ろせば、完全に下着同然の恰好。薄手のキャミソールワンピースは、若干肌が透けてしまう。しかも寝ている間にすっかりはだけてしまっている。ばっと布団で体を隠した。

「着替えは……ああ、昨日適当に持ってきた中にあるだろう。そのあたりを探してくれ」

 ゼルギウスは雑に積まれた荷物の山を指した。

「あ、は、はい……」

「俺は先に食事をとってくるから、ゆっくり着替えて準備したらいい」

 言いながらゼルギウスは軽くあくびを噛み殺した。

「珍しいですね、あくび」

 部屋からすぐ出ようとするゼルギウスにそう声をかけると、彼は振り返らずに、

「……酔いすぎたな。寝過ごした」

 とぼそぼそとした声で返して、そのまますぐ食事に行った。

(寝過ごしたっていうより、寝不足気味だったみたいだけど……)

 野宿もすることがあると語っていたゼルギウスのことだから、短く深く眠ることができるのだと思っていたが、寝不足になるのかと少し驚く。

 けれど、考えてみれば、昨日は結構お酒を飲んでいたようだった。お酒を飲むと眠くはなるが、眠りそのものは浅くなると聞いたことがあるから、そういうことなのかもしれない。
 そう納得してから、シェスティは急いで服を着替えて食堂へと向かった。

 食事を持ってきた女将さんにドアを壊したことを、ゼルギウスが謝ったのだが、逆に謝られてしまった。どうやら息子がシェスティの部屋に侵入したことはすでに分かっていたらしい。

「弁償を……」

「そんなの貰えないよ! むしろ助けてもらったのに恩を仇で返すようなことしちゃって、本当にごめんなさいね」

 結局ゼルギウスが出そうとしたドア代は受け取られることはなかった。息子本人からも謝罪があり、シェスティ自身がすぐ助けてもらったこともあってほとんど何もされていないに等しいのだと言った。あまり大ごとにしたくないと言ったこともあってそれ以上追及はされないことに決まった。

(悪いのはある意味私だし……)

 〔催淫〕については種族上、ある程度は仕方がないとはいえ、酒の入る席に長居しすぎたのが悪かったのだ。

 ――というか、根本を辿ればサキュバスが人間のふりをして人間のようにふるまっているせいで起こったことだとも言えるから、『ある程度は仕方がない』と思うこともおこがましいのかもしれない。

 宿の息子他何人かには、遭遇した限りで〔解呪〕をかけておいた。寝るとある程度効果が薄まったりもするのだが、おかげで少し魔力の枯渇が深刻だけれど、道中でどうにか補うことにしよう。

 食事を済ませ、準備を終えた頃には、もう日はすっかり高くなっていた。

「あんなことがあった手前嫌かもしれないけれど、よかったらまた寄っていってね」

 普段よりかなり遅い時間の出発だ。村の人々も皆起きだしていて、見送りはいらないと言ったのに、結局総出で見送られる。

「ええ、はい。近くに寄ったら、またご挨拶します」

 シェスティが頭を下げると、女将も笑った。

 村に滞在していたのはたかだが数日だったのに、二人旅は久しぶりのように感じた。街道沿いに草を踏みしめて、遠く広がる大地を見ていると、胸がどきどきしてくる。
 テンベルクに限らず、ベルグシュタット地方は山がちの地形だから、こうして起伏のない草原を見ていると、それだけでなんだかわくわくしてくる。

 歩きながら、ゼルギウスに問いかける。

「次は、フィールファルベという町でしたよね?」

「ああ。……すまないが、途中の村に寄っていくと少し遠回りになるし、その――手持ちの資金が底をつきそうでな。野宿することになるが、いいか?」

「はい、構いません。……すみません、私がお金をもう少し出せていたら、泊れたんでしょうけれど……」

「いや、構わない。貴女にとっても急なことだったのだからな。……それに、今まで避けてはいたが、野宿というのも旅らしさがあるかもしれない」

 そう言って微笑みかけられて、思わずシェスティも笑顔が浮かぶ。

「はい。……はい! なんだか、楽しそうです」

「まあ、続けば嫌になるだろうがな」

 ゼルギウスは少し苦笑いして、まあたまになら楽しいこともあるだろう、と言った。

 野宿の際に必要となる結界石は高価ではあるが、宿泊費用に食事代を合わせたものと、比較すると、二人分ならむしろ宿代のほうが高くつく場合もある。
 フィールファルベに着けば、貯蓄があるから、今手持ちがなくても、フィールファルベでどこにも泊まれない等という自体にはならないらしい。

 それに、村で行った魔獣討伐の際、得られた魔石を売却することで、それなりにお金が得られるのだという。それなりの強さの魔獣の魔石が複数個あれば、しばらくの食事代くらいはまかなえるとゼルギウスは語った。

 町に着いてからその先どうするということも、二人の間ではまだ決まっていない。不安はあったけれど、それ以上に楽しみだった。

 ――昨夜のようなことがまた起こらないように、十分に気をつけなくちゃ。

 シェスティは肩から下げた鞄のひもをぎゅっと握りなおして、また歩き出した。

三章 一話

 野宿は特に問題なく終わった。小さめの結界石をゼルギウスが使ったから、魔獣に襲われる心配もない。

 結界石が効く時間と範囲は、概ね石の大きさによって変動するようになっている。もとが大きな魔石だと、その分複雑に編まれた魔術を込めることができるのだ。二人ぶんの寝床を、夜の間確保するくらいなら、シェスティの手のひらに収まるくらいの大きさで済むが、村や町に置かれるようなものは、抱えて持つような大きさになる。

 寝袋はゼルギウスが二つ用意してくれていた。夜中にこっそりと手近な花から精気を吸っておいた。少し魔力不足かもしれないけれど、魔術を使う機会がなければおそらく大丈夫だと言える量だった。

 その翌日も歩いて、昼過ぎごろに町の外壁が見えてきた。

「あれがフィールファルベだ」

 シェスティが訪ねる前に、ゼルギウスは言った。まだ遠くだが、目的地が目に入ると足取りもなんとなく軽くなる。少し休憩を挟み、また歩き出す。

 フィールファルベが目前に迫ってきたところで、ちょうど鐘が鳴った。ギルドが鳴らしているもので、町では太陽の昇り沈みの他、この鐘の音がだいたいの時間の目安になる。
 常に時を刻み続けることのできる時計は高価なものだから、ギルドを始めとして町でも一部にしかない。だから鐘の音は大切だ。今の鐘の音は夕前の鐘――午後三時頃。

「支部が閉まる前に辿り着けたな」

 とゼルギウスは言う。

 道中で言われたのだが、一定の規模のある町には、ギルドが旅をしていて定住地のない傭兵向けに、宿舎(アパート)を用意しているらしい。二十日、つまり四廻(四週間)以上の滞在であれば、宿に滞在するよりもずっと格安で部屋を借りられるのだという。別途料金はかかるが、食堂も併設されているらしい。一定の信頼は必要だが、この地方であれば問題ないだろう、ということだ。

 ギルド関係者でなくても、一人か二人ならば、旅先で出会った恋人とか色々あるだろうということで共に入居することができるらしい。もちろん手続きは必要だが、そこまで厳密なものではない。犯罪者の一覧に含まれていないかとか、そういうことを確認する程度のことで、大抵は許可される。

「とりあえずひと月(五廻)ほどはフィールファルベに滞在しようと思うが、構わないか?」

「はい」

 シェスティに断る理由はない。初めて訪れる町は、テンベルクとは雰囲気が違って、なんだかわくわくする。

 フィールファルベに入ると、まず真っ先にギルドへと向かうことになった。ゼルギウスは長い間ここを拠点にしていたため、道に問題はない。道中は大変賑わった空気で、早めの夕食を取る者もちらほらと見受けられる。

 ギルド支部の建物は、テンベルクとそう構造が変わらない。大きな扉を開けて入れば広間があり、その奥にあるカウンターで受付が待機している。

 テンベルクと違うのは、あちらはあまり傭兵もおらず依頼が多くなかったためか、受付が一人だったのだが、フィールファルベ支部には三人が待機しているという点だ。
 シェスティは後から聞いて知ったことだが、中央は一般向けの依頼提起用、向かって右隣りは傭兵ギルド所属の者が受注するためのカウンターだ。左側にいるのは、その他業務のための案内役である。

「……あら、ゼルギウスさんじゃありませんか?」

 入ってきた二人を見て、受付の青い髪をした女性が声をかけてきた。受注担当である。

「ああ、ルネリットさん。お久しぶりです」

「どうなさったんですか? ベルグシュタット地方に活動を広げるために行ってくるって、仰ってたじゃないですか」

「いや、それが……」

 ゼルギウスはテンベルクであったことをかいつまんで語った。

「ああ……あれ、ゼルギウスさんも巻き込まれていらっしゃったんですね」

「噂はこちらでも?」

「はい。……いえ、テンベルクで魔族の関与が明確な魔獣被害事件があったということは聞いておりますが、討伐部隊の内に内通者がいたとかそういう話はありません。こちらでの仕事に支障はないと思いますよ」

 ゼルギウスは少し硬くなっていた表情を和らげた。

「……ところで、お連れのお嬢さんはどうなさったのですか? 保護依頼でしょうか」

 彼女は台帳をぺらぺらとめくる。魔道具の一種らしく、開くたびに新たな文字が浮かび上がってきている。

「いや。……ああ、地方を跨いだから情報が登録されていないのか。テンベルクで受注した護衛依頼です」

 ギルドは地方ごとに管轄がわかれている。通常、依頼を受注した傭兵の魔力登録によって、その傭兵が今どんな依頼を受注しているのかという情報が管轄を跨いでも共有されることになっているのだが、ゼルギウスの場合その魔力登録ができないので地方を跨いでしまうと確認が取れなくなってしまう。
 普通ならば依頼完了報告や報酬の受け渡しはどのギルド支部でも行うことができるはずなのだが、ゼルギウスの場合は依頼内容についての簡単な登録を行っておかないと混乱を招くのである。

 ゼルギウスは普段、手続きが面倒なので必ず受注した支部で報告を行っていたが、今回は『旅をする』ということそのものが依頼内容のため、どうしても必要不可欠になる。

「確認取れました。フェルトシュテルン地方全体では明日以降の登録になるかと思います。ご不便おかけします」

「いや、こちらこそいつも申し訳ない。……あと、宿舎利用の申請を行いたいのですが」

 そう言うと左側にいた別の女性が手を挙げた。こちらは獣人――鳥人のようだった。人間族の中でも、毛皮や鱗、羽といった器官をもつヒトである。テンベルクにはあまり多くなかったのだが、フェルトシュテルンでは道中でもしばしば見かけていた。そう珍しくないのだろう。

「こちらでお伺いします」

 諸々の手続きが終わり、シェスティが犯罪者リストにないことの確認が終わると、二人は部屋の鍵を渡された。

「しばらくはフィールファルベに滞在するつもりです。またよろしくお願いします」

「ええ、はい、こちらこそ!」

 ルネリットと呼ばれた女性は満面の笑みを浮かべた。シェスティはその顔を見て少しだけ心がざわめくのを感じた。

 ――気のせい、かな。

「……シェスティ、行くぞ」

 気づけば訝し気にゼルギウスがこちらを見下ろしている。

「――あ、はい!」

 シェスティはギルドの受付たちに一礼すると、ゼルギウスと共に支部を後にした。



 道中の商店街で、夕食として食べられそうな軽いものを購入してから宿舎へと向かう。
 宿舎は旅人向けの宿が立ち並ぶ界隈ではなく、住宅街の中にあった。――といっても、商店街にほど近いところで、閑静な住宅街とは言えない。

 ゼルギウスについてたどり着いたのは、三階建ての建物だった。一階は一般開放された食堂で、二階と三階に部屋が並んでいる。外付けの階段を上がって、二人が過ごすのは三階の角部屋だった。

「ちょうど前の入居者が出たばかりらしい」

 とゼルギウスは言った。

 鍵を開けて中に入る。玄関から少しだけ廊下が続いていて、目の前のドアを開けるとリビングとキッチン。ひととおりの家具や調理器具、食器も置いてある。そこから二つの部屋に繋がっている。軽く中を覗いてみれば、どちらにも寝台が置かれている。

 風呂とトイレもあり、ある程度の魔石――火炎石や水流石は備え付けで置かれていた。
 曰く、生活用の魔石も家賃に含まれているらしい。もちろん生活日数に応じた必要数しか支給されないし、使用数は報告の必要があり、余った分は返却しなくてはならない。とはいえ、無駄遣いさえしなければ問題はないだろう。

 ちなみに――こういった生活用の魔石は、正しくは魔石そのものではなく魔道具と呼称するのが正しい。正確に言えば、魔石はその素材のことである。ただ、石の形で流通し、魔術が使用できない者にも生活に必要な魔術を使うことのできるようにする魔道具は、通称魔石と呼ばれる。

 魔術が使えさえすればここに置かれている魔石を使わなくて節約になるということなのだが、生憎シェスティもゼルギウスも生活用魔術が使用できないため、この魔石たちには厄介になりそうだ。

 なんにせよ、衣食住のうち住については、不自由することはなさそうだった。

 さすがにタオル類などは無いようだったので、今日のところは旅の間使っていたもので我慢して、明日に買い出しを行い、昼以降に仕事を探そう、ということになった。

 初期費用としてかかった保証金はゼルギウスがこちらのギルドに預けていた分のお金から出してもらったため、シェスティが旅に出てから出したお金は、自分用の食事代と宿泊費くらいのもの。ゼルギウスに対し、テンベルクではじめに渡した分以外のお金を渡せていない。

 明日の買い出しも含め、当面の生活費はゼルギウスがとりあえず支払うということになっていた。

「あの、ゼルギウスさん……」

「なんだろうか」

 買っておいた肉串や野菜とハムを挟んだパン(店じまい直前で、安売りになっていた)を夕食に食べながら、シェスティはゼルギウスに話しかける。ゼルギウスは久しぶりに少し多めに食事をとりたいということで、装備を外しているところだ。

「私、明日からちゃんと働いて、頑張って報酬、用意しますね……」

 立て替えてばかりで申し訳なくて、そう宣言する。

「……。そうだな。そうしてくれ。ただ、……酒の入るようなところは、やめておけよ」

「そ、それは、はい。もちろんです」

 言われずとも避けるつもりだったが、心配してもらえたようで嬉しい。……と、思ったけれど、よく考えると彼は護衛だ。シェスティがああいう目にあうと、ゼルギウスが余計な仕事をしなくてはならなくなる。

 ゼルギウスを見送ってから、シェスティは一人で悩んでいた。ひと月だけでも雇ってもらえて、酒が入るようなところではなくて、できれば、昼間だけの仕事。

(薬屋、はなぁ……信用問題とか、あるし……)

 テンベルクで薬屋をやらせてもらっていたのは、自分の世話をしてくれた人がたまたま薬屋だったという幸運があったからだとシェスティは考えている。店番だけでも、かなり厳密に記録を付けたりする必要があるから、突然やってきた旅の人間にやらせてもらえるものではないだろう。

(昼間だけの食事処とかで働かせてもらえるのが、いいんだけどな)

 昼なら酒を出す店でもそこまで酒を飲む人間はいない。皆無ではないが、何人もいなければ〔解呪(リリース)〕である程度は対処がきくだろう。――たぶん。

 とりあえずそういうことは明日に悩むことにして、お風呂に入ろう。そう決心して、シェスティは風呂の用意を始めた。

三章 二話(18/5/25)

 翌日。

 タオルや石鹸といった日用品の買い出しを終え、部屋に運び終えると、ギルドへ向かうゼルギウスとはいったん別れることになった。滞在中は、だいたい一日で終わる簡単な討伐依頼を受けて金を稼ぐのだという。

 ギルドに預けてある貯蓄でもある程度は暮らせるのだが、それを食いつぶすのもどうかということだそうだ。

「夜には必ず帰る」

 と本人は言っていたので、シェスティは少し安心した。

 とりあえず商店街を歩く。昼時だったので、とりあえず自分の食事のために店を探した。表の大通りにもたくさん店はあったのだが、昼から酒を飲む人の姿も見えたためそこは避ける。
 そうして、大通りから一本小さい通りを入ったところに、こぢんまりとした喫茶を発見した。

 ――なんか、いいな。

 なんとなく惹かれて、ここにしよう、と決めた。

「いらっしゃいませーっ!」

 中に入ると、元気のいい少女が料理の乗った皿を運びながら声をかけてくる。

「……えっと、おひとり? カウンターしか、空いてないけど、それでよかったら」

「ええ、はい、構いません」

 示された席に座ってメニューを見ると、どうやら麺類が中心の店のようだった。細かく見ていってしまうと悩んで永遠に頼めないような気がしてきたため、『本日のおすすめ・お昼のセット』を頼む。

 あまり大きな店ではないけれど、席はほとんど埋まっていた。お昼時だからというのもあるだろうけれど、それなりに繁盛しているようだ。
 大人数で来るところではなくて、多くても四人席。それも机を二つくっつける形になる。

「お嬢ちゃん、パスタまだかい?」

「待ってー、すぐだからッ!」

 お嬢ちゃん、と呼ばれた店員は、笑顔で振り返って客に返す。奥の厨房には別の人がいるようだが、表で動いているのはこの女性だけのようだった。

 テンベルクにいたナータ――友人のことを思い出して、知らず顔がほころぶ。どこか元気のよさや雰囲気が、彼女を思い起こさせた。

 それなりに待ちはしたが、出てきた料理は美味しかった。テンベルクではあまり見ない、トマトという野菜を使ったパスタは少し新鮮だった。ここはフェルトシュテルン地方の中でも、山がちなベルグシュタット地方に近い地域だから、あまりベルグシュタットと大きな違いはないらしいけれど、もっと北――海の方へ向かうと、全然違う食事が出るのだとゼルギウスが言っていた。

(そこまで、行けるのかな……)

 とにかくまずは、仕事を得なければ。お金が足りなくなってしまったら、すぐに履行遅滞で契約破棄となってしまう。どうにか仕事を得なくてはならない。

 お昼を食べるために入った店だったけれど、雰囲気がどこか好みだった。ここで働くことができたらいいな、と思える雰囲気。それに――こういうとなんだが、おそらく手が足りていないようにも思える。
 声をかけたら、どうにか働かせてもらえないだろうか。

 食事をすっかり食べ終わり、人も減ってきたところで、決心して配膳をしていた女性に声をかける。

「……あの……」

「ん? 何でしょ。追加?」

「あ、えっと、そうじゃなくて……その。恥ずかしながら、私、お仕事を探しているんですけど……」

 そう言って、かいつまんで事情を説明した。女性は片付けを片手間にしながらも話を聞いてくれた。

「そういうわけで、こちらで配膳の仕事を手伝わせていただけないかと……思ったのですが」

「うー……ん。待ってね。シェフに聞いてみる。多分、いけると思うけど……うち、人手足りてなかったから」

 彼女はささっと空いた食器を片付けながら、奥へ引っ込んでいった。しばらくして戻ってきた彼女は、「ごめん、他のお客さんがだいたいはけるまで、待っててもらっていい?」と声をかけてから仕事に戻った。

 言われるがままに席についたまま、迷惑にならない程度に店員の女性の動きを観察する。とりあえず言ってはみたものの、少し不安が出てきた。立ち仕事で結構な体力がいるかもしれない。魔力、足りるだろうか。

 やがて客足も落ち着いた頃、奥から出てきたのは、恰幅のいい熟年の女性だった。

「あなたが働きたいって言ってた子?」

「あっ、はい、そうです」

 席を立って一礼する。内心少し安心した。店員が女性ばかりなら少し気楽だ。そちらに魔力を割かなくてよくなるから。

「名前は?」

「シェスティです」

 シェフはじっとシェスティの瞳を覗き込んだ。そうしてしばらく、沈黙。なんだか落ち着かなくて、体が硬くなる。そうと知ってか知らずか、シェフは「うん」と一人、頷いた。

「ここじゃなんだから、奥に来てもらってもいい?」

「はい、構いません」

 まだ残っている客の対応を店員の女性に任せると、シェフはシェスティを奥へ招いた。
 キッチンの更に奥、こぢんまりとした事務室にシェスティは招かれた。小さなテーブルと椅子、それに書類類が並んだ棚が並べられていて、最低限の事務仕事をここでやっているらしい。座って、と促されるままに、椅子に腰かける。

「自己紹介がまだだったわね。私はヴェロッテ。よろしくね、シェスティ」

 人の好さそうな笑みで、シェスティの体から緊張が抜ける。こちらこそ、と言うと、彼女は笑みを深めた。

「いやあ、助かるわ。前まで勤めてた子がいなくなっちゃってね、猫の手も借りたいって状態だったの」

「……えっと、彼女にはお話したのですが、私、ひと月ほどしか、いられないとは思うのですが、構いませんか?」

「大丈夫よ、聞いてる聞いてる。ちょっとの間でも嬉しいわ」

 何らかの面接のようなものが行われるかと思っていたシェスティは拍子抜けした。そのことに気が付いたのか、ヴェロッテがにこりと笑う。

「見たらわかるわ。あなたの目――変な下心がなさそうだもの」

 そんなことでいいのだろうか――と思いつつも、勤務先が決まりそうなのはありがたい。ただ、まだ、先に確認しておかないといけないことがある。

「あの、あと、私……その、昔夜道で、……怖い目にあったことがありまして、それで、できれば、夕方ごろには帰りたいのですが、構いませんか……?」

 これはあながち早めに帰りたいがための嘘ではなくて、テンベルクにいた頃に実際ちょっと嫌な目にあったことがあったのだ。あの時はモニカが助けてくれたけれど、ここではそうもいかない。
 さすがに図々しいだろうかとも思ったが、彼女は笑みを崩さずに、

「ああ、そこは気にしないで。もともとうちは、夕の鐘の頃には閉めるのよ。そのころにはお客さんも少なくなってるから、ちょっとくらい早く抜けてもらっても構わないわ」

 と返してきた。それでシェスティもほっとした。どうやら仕事は、思ったよりも順調に決まりそうだ。――シェスティが早々にへまをしない限り。

「もちろん、早めに抜けるぶんは給料から引かせてもらうけどね?」

「……ふふっ、はいっ、わかっています」

 おどけた口調で言ってくるヴェロッテに、シェスティも笑顔で返した。

 軽い面接のようなものはすぐ終わり、勤務の時間や休みの日について、それからいくらかの注意事項の説明を受けた。
 仕事は朝から夕まで。少しはやめに上がることになる。具体的には夕前の鐘が鳴った時だ。その頃にはお昼ご飯を食べる客もいなくなり、のんびりとお茶を楽しみに来る数人の客が来るばかりになるのだという。

 給料は短期間だということ、シェスティがほとんど所持金がなくなりつつあることから、はじめ一廻(五日間)は日給で、それ以降は週給での支払いということにしてもらった。町にきちんとした住居を構えていない者でも仕事で給料が発生した場合は町を治めているギルドへ納税の必要が出てくるのだが、その分は給料から天引きされる。そこはテンベルクにいた頃と同じだった。

 勤務内容については、シェスティが何に向いていそうか見ながらおいおい固めていくということになった。とりあえずは片付けが中心だ。

 もう一人の店員――ヴェロッテいわく、ゾフィというのだそうだ――はひとりで調理以外のすべての仕事を担っていたので、雑用的な仕事を引き受けるだけでもかなり店としては楽になるのだという。

 勤務は明日以降からということになり、シェスティは一度帰ることになった。まだ片付けをしていたゾフィに、すっかり払うタイミングを失っていた代金を支払う。

「あの、明日から働かせていただくことになりました。よろしくお願いします」

「ん? あ、大丈夫だったんだ。よかったね」

 硬貨を渡しながら言うと、ゾフィはにっこりと笑った。

「こっちこそ、よろしくね。……あ、あたしはゾフィっていうんだ」

「ええ、ヴェロッテさんから伺っています。……えっと、シェスティです」

「うん、シェスティ。……覚えた。改めて、明日からよろしくね」

 店にいた客の一人が、ゾフィに声をかける。この時間からは喫茶として利用する客が増えるのだという。

 「じゃあね」と慌ただしく彼女はカウンターを離れていった。

 明日からは彼女の負担を減らせるように頑張ろう――と思うのだった。

三章 三話(18/6/4)

 店を出たところで鐘の音が聞こえた。かなり長居してしまっていたらしい。

 家に帰るついでに、商店街を軽く見て回って、食材の売っている店を見ておくことにした。朝に石鹸他を購入したときには、ゼルギウスと二人でゆっくりと見て回れなかったのである。

 とりあえず当分――ここでの生活に慣れるまでは、総菜を売っているような店で出来合いのものを買うつもりだったが、野菜や肉といった生鮮食品を売っている店の品を見て回っていると、やはり出来合いのものでは少し割高になってしまっていることがわかる。

次の廻り(来週)あたりからは、ちゃんと料理することにしよう……)

 テンベルクでも、モニカの分も含めてシェスティが料理をしていた。これはテンベルクに来てから身に着けたのではなくて、元々シェスティは料理が好きだったのだ。

 サキュバスにとって必要不可欠とは言えない料理も、人間族にとっては必須。人間族に紛れ込んで生活しようとするのであれば、料理はできて損はない技術だ。

 まだ独り立ちできぬ年齢のサキュバスが集う城では――少なくともシェスティのいたところでは、そういった『男を落とすテク』とでも言うべき技術を磨く慣習があった。
 シェスティは個人的好みも手伝って、料理と裁縫を好んでいた。人間族――特に〈トールマン〉にとって、『家庭的で素敵な女性』にはこの二つが必須だと本で読んだ、ということもある。

 特に料理については、『男は胃袋で掴め』などという文句まで登場するくらいの重要性をもつ。……とシェスティは理解していた。
 もっとも、他のサキュバスたちは、胃袋なんぞで掴む前に〔催淫〕で心ごと掴んでしまえばいいし、自分自身には食事は必要ではないということで、料理の腕を磨こうとする者は多くなかったが。

 まあ、肉や野菜といった食事が必要不可欠ではないとはいっても、美味しい料理を食べるというのが楽しいのは間違いない。サキュバスにも人間族と同じような味覚が備わっている。
 それに、シェスティのようにカツカツの生活をしていると、調理後の料理に残された微弱な――ほんとうに僅かな魔力でもありがたいというもので。

(それに節約にもなるし、いいことづくめだよね)

 とりあえず今日のところは総菜をいくらか購入しつつ、安くて質のいい食品を売っている店をざっくりと確認しておく。

 それから、最後に花屋で鉢植えに植えられた花をいくつかと、簡単な手入れ用品。これは当面の『食料』である。活け花ではあまり精力を吸えないから、できれば鉢植えにしたかったのだ。
 ひと月後、どうするのかという問題はあるものの、安定した吸収源がなくては立ち仕事はやっていられない。

 めぼしい店にあらかた目星をつけ終わったところで、日が落ちる前にシェスティは部屋へ戻った。
 ゼルギウスはまだだったようで、彼が戻った時にすぐ食事がとれるように皿の準備をする。

(……あれ? でも、依頼が討伐系だったら、先にお風呂に入りたいかな)

 と、そう考えたところで手が止まる。
 少しくらい汚れた格好には慣れているだろうけれど、お風呂がある環境なら体を清めたいかもしれない。そうしたらお風呂の準備をしておいたほうがいいだろうか。

(いや、でも、いつ帰ってくるのか……)

 ――と。そうこうしているうちに、玄関の戸が開く音がする。

「……あっ、おかえりなさい!」

 ぱっと出てきて出迎えたシェスティを見て、ゼルギウスは一瞬目を見開いた後、すぐに真顔に戻る。

「……ただいま」

 少しだけぼそぼそとした声でそう返された。シェスティは先ほどまでの思考のまま、

「えっと、お風呂にしますか? それともご飯にしますか?」

 と問いかけた。
 ゼルギウスは硬直した後、シェスティから露骨に目を逸らした。

「……………………。先に飯にしよう」

 そう言ってそのままシェスティの脇を通り抜け、リビングへと入った。

(……?)

 そんな態度を訝し気に思いながらも、シェスティもリビングへ戻り、途中で中断していた夕食の用意をする。

 今日はくるみ入りのパンに、ちょっとした揚げ物数種類とサラダだ。シェスティが食べる分よりも、少しだけ多めに買ってきておいた。一階に食堂もあるのだが、共同の場所で食事を取るのは、――特に夜は、気が引ける。

 揚げ物は、シェスティが購入した時点では揚げたてだったが、少し時間は経ってしまった。……それでもなおサクサク感を失っていないあたり、なかなかの技量だとシェスティは食べながらひとり感心していた。

 夕食をどちらが用意してくるかについて打合せをしていなかったこともあり、ゼルギウスもいくらか総菜を買ってきていた。昨日シェスティが食べていたものと同じ店の肉串のようだ。あとはいくらかのパン。ゼルギウスにとっての一人分よりは、少しだけ多めのようだ。
 二人で買ってきたものを合わせて、だいたい二人分になりそうだった。

「……ゼルギウスさん、お肉ばっかりだと、病気になっちゃいますよ」

 ゼルギウスは少し肉ばかり食べるところがあった。旅の間は保存食ばかりになるし、ある程度仕方なかったため特に何も言わなかったが、こうして腰を落ち着けるところがあり、食べ物の選択肢がある程度存在する状況ではさすがに偏っていると言わざるをえない。

 栄養学の概念はまだティアラントでは起こったばかりである。ギルドによる統治が安定し、地方でもそれなりに食事に困らないようになってきたために始まった研究なのだという。
 シェスティは少しだけ本で読んだことがある程度だから、単に腹を膨らますだけでなく、いろんなものを食べたほうがいいという程度にしか理解していないが、少なくとも肉とパンだけで済ませるというのが『栄養が悪い』のは間違いないだろう。

「……。野菜は買っていない」

「もう……私の買ってきた分がありますから、今日はそれ、食べてください」

 ゼルギウスが買ってくるかどうかわからなかったため、少し多めにしてあったのだ。サラダを皿に取り分けて差し出すと、渋々といった調子で野菜を食べだした。

「嫌いですか?」

 そう問うと、

「いや。あえて食べようとは思わないというだけだ」

 少し憮然とした調子で返される。

「……。明日から、夕食はゼルギウスさんの分までまとめて私が買ってきます」

「いや……。ああ、…………そうしてくれ」

 じと、とした視線を送ったのが功を奏したか。嘆息気味に承諾される。思わず、少しだけ笑ってしまった。

 本人の言った通り、自分で買おうとしないというだけで、野菜も食べられないわけではないのだろう。特に特定の食材を残すでもなく、ゼルギウスはサラダを完食した。

「明日も同じくらいの時間になりそうですか?」

 食事のあと、片付けと風呂の準備をしながら問いかける。

「いや、今日は遅くなったほうだ。普段はもっと早い」

 どうやら、今日の依頼は町から少し離れたところでの討伐依頼だったらしい。

 討伐依頼、と言っても、前の村であったような急を要するものはそう多くない。大抵は一定の大きさの魔石を納品するのが実質的な内容だ。要求される大きさに応じて、どこまで討伐に行くかを傭兵たちは変える。

「そうですか。……えっと、明日からは、お風呂、先に入られますか? 用意しておきますが」

「いや、一定の時間に帰ってこれるという確証もない。夕の鐘までには帰るから、夕食の時間はこのくらいになるはずだが、風呂は魔石が無駄にならんように、二人とも入れる時に用意してくれ」

「はい、わかりました。では、夕食だけ用意しておきますね。あと、お風呂、沸きましたよ」

「ああ、ありがとう」

 風呂が沸いた――と言っても、温水が出る魔石を使用して湯をためただけなのだが。温水石は火と水の複合魔術を込められた魔石であるため、他の魔石よりも少し高価だ。昨日今日と使ってはいるが、少し我慢したほうがいいかもしれない、とシェスティは思っていた。

 ちなみに、ゼルギウスに確認したのだが、彼が打ち消す魔術は『自分に対して行使されたもの』という制約がある。なので魔道具に込められた魔術を解除してしまうということはなく、魔石に込められた魔術を起動することもできる。

 しかしそのこととは全く関係なく、風呂の準備他、洗濯などの家事はシェスティがやっていた。別にゼルギウスに家事ができないわけではなく、現に下着類は本人が洗っている。ただ、モニカの家に居候させてもらっていた時から家事はシェスティの仕事だったため、自然とそうなっていたのだ。

(ゼルギウスさんがお風呂に入ってる間に、ちょっと花から魔力を吸って……)

 料理含め、家事は半分ほど趣味になっているのだが、重労働なのも事実。魔力が不足しかかっている。

(旅は楽しいけれど、これを誤魔化すのが大変だからなあ)

 自分の部屋があると、確実に鉢植えから精気を吸うことができる。ひと月だけの滞在にも関わらず鉢植えで花を買ってしまったことが不自然だったかとは思ったが、致し方ない。活け花にしてしまうと急速に枯れてしまうのだ。

(明日からは立ち仕事なのだから、ちゃんと体力をつけておかなくちゃ……)

 シェスティはそう心に決めて、部屋へ戻った。

三章 四話

 仕事は思ったよりも問題なくやれていた。多少男性の客に絡まれることもあるが、それをシェスティが嫌がっているのを察されたのか、注文をとったりするのはすぐ任されなくなって、シェスティはもっぱら片付けに専念するようになった。
 とはいえ、ちらちらと見える銀髪の見慣れぬ店員の気をひこうとして、普段は頼まないサイドメニューを頼む者が増え、売り上げが伸びた――らしい。
 そんな集客効果があるとわかっても、シェスティを前に出して客寄せにしようとしないヴェロッテとゾフィには感謝しかなかった。

 ある程度魔力は回復するあてがあるものの、〔解呪(リリース)〕を使う機会はなるべく減らしたい。

 ――問題は仕事が終わった後である。

 夕前の鐘の音が鳴る頃には店を出させてもらっているシェスティだが、二日目から店を出た途端男に話しかけられたのである。――シェスティの仕事が終わる時間を見計らって出待ちされていた。

 それ自体はテンベルクでもしばしばあって、慣れたものだったため、〔解呪〕をしつつも人込みにどうにか紛れる――というかたちでかわしていたのだが。

 働きだしてちょうど一週間目。

 環境に慣れるため、食事は賄いを出してもらえる昼の他は総菜で済ませていたのだが、そろそろ出費を抑えるべく食材を買おう――と商店街で買い物をした。朝の時点で、今日から自炊をするつもりだとゼルギウスには伝えてある。

 調味料は家に備え付けられていたものがそれなりにあり、消耗分の支払いは必要であるもののある程度は使用していいとのことだったので、野菜や肉といったものだけ購入したのだが、それでもそれなりの重さになった。

 道行く男からかけられる「持ってあげようか」などという言葉に対して〔解呪〕を行いつつも対応する。

 今までは最低限の買い物をしたら足早に通り抜けていただけだったのだが、その日は料理をする初日だということで買いすぎたのもあり、急ぎたくとも歩くのは遅く、魔力不足で若干注意力散漫になっていた。

 ……いや。それだけが原因ではない。少しだけ、少しだけ浮かれていたのだ。

 ――ゼルギウスさん、私の料理、美味しいって言ってくれたらいいなぁ……! などと考えて。

 そのせいで。

 家の前で買い物袋を一度置いてから、鍵を取り出そうとして、――そこでようやく、背後の気配を感じた。

 ――下卑た空気。サキュバスにはなんとなくそれが感じられる。ゼルギウスではない、と振り返る前からわかっていた。

「ここに住んでたんだね、店員さん」

 振り返ればそこに立っていたのは傭兵然とした男だった。店で時折見かけたことがある――ような、気がする。尾行されていた、とわかっても、ここまで来られてしまえば後の祭りだ。

「ねえ、店員さん、ちょっとお邪魔させてほしいんだ、君とお話してみたくって……わかるでしょ」

「……いやです。ここは、私だけの家ではありません」

 シェスティは鍵を開けてさっさと中に入ってしまいたかったが、押し入られてしまうかもしれない。そうなるとシェスティでは追い出すことができない。

「ちょっとだけだよ、友達連れてくるくらい、いいでしょ」

「いつあなたと友達になったんですか」

「ええ、あんなに熱い視線を送ってくれたじゃない」

 それは完全に気のせいである。なのだが、それを言っても仕方がない。

 ――もしかするとたまたま目が合ってしまったのかもしれない。不覚だった。そういうことでうっかり〔催淫〕が強めにかかってしまうのだ。食器を下げるときもなるべく人と目を合わさないようにしていたつもりだったのだが。

 家の前まで来られてしまうと逃げようもなく。どうしようもなく後ずさりした。

 そこで階段を上がってくる音がした。ほどなくして、その姿が男の肩越しに見える。ちょうどゼルギウスが帰ってきたところだった。その顔を見て、思わずほっとした。

「……シェスティ。知り合いか?」

 シェスティに迫ろうとしていた男は、比較的長身な者が多いとされるティアラントの中でも大柄な部類に入るゼルギウスを見て少しぎょっとしたようだった。

「あ、いえ、その……お店からつけられてしまっていたようで……」

 問いに対してしどろもどろに返すと、

「そうか。……こいつのことを、傭兵ギルドに報告しておいたほうがいいか?」

 と彼は事もなげに言った。

「あの、そこまでは……」

 とシェスティが言うか言わないかのうちに、男はゼルギウスの脇を抜けて去っていった。……咄嗟に〔解呪〕をしておくのは忘れなかった。

「いいのか。つきまとい行為は罰則の対象だったはずだ」

「初めてですし、特に大事には至りませんでしたし……」

 そう言うと、ゼルギウスは呆れたようにため息をついた。

「貴女は前もそう言っていたが、もしすぐに俺が来なかったら大事になっていただろう。次からはもう少し厳しく接したほうがいい。特にここにはしばらく滞在するのだから」

 彼は言いながら扉の鍵を開け、床に置いたままだった買い物袋を自然に持って中に入っていった。あわてて、すぐ後ろについていく。

「……すみません、ご迷惑おかけして」

「気にするな」

 そう言われても、気にするものは気にする。確かにゼルギウスがちゃんと来てくれていなければ大事なのだ。毅然とした対応というものも、時には必要なのだろう。

 どうしても、自分がサキュバスでなければ、とか、ちゃんとサキュバスとしての本来の魔力供給を行って、自分の〔催淫〕をコントロールしていれば、こんなことにはならなかったのに――という気持ちもあって、なんとなく強い対処をしたいと思えなくなってしまう。
 それでも、曖昧にするせいで事がどんどん大きくなってしまえば、それこそゼルギウスに迷惑がかかるのだ。

「……それより、かなり買ったんだな」

 シェスティが凹んでいる間に、ゼルギウスはキッチンの前まで袋を運んでしまっていた。

「あ……量、多かったでしょうか?」

「いや、料理はあまり得意ではない。どのくらい必要かは俺には判断できないから、貴女に任せる」

「では、任されました。すぐ作り出しましょうか?」

「そうだな。頼む」

「わかりました」

 そう言って部屋に戻り、荷物を置いてから、花の魔力を吸う。普段は食事後に残量を考えながら吸うのだが、今日は少し使いすぎて眩暈がし始めていた。

(久しぶりにお料理するんだから、ちゃんと気持ち切り替えないと……)

 久しぶり――といっても、ゼルギウスと旅に出てから数週間程度のことで、ブランク、とは言い難い。それでもシェスティは少し緊張していた。
 料理を学んでいたのは、『胃袋を掴むため』――だが、今のシェスティにあまりその気はない。いや、喜んでもらえたらそれはそれで嬉しいけれど。

 ――好きになってもらったとして、それからどうするの。

 たしかに、シェスティが努力して、なんとかゼルギウスからの好意を得られたら、契約で縛られただけの関係から、契約終了後も共にいる理由をなんとか見つけられるのかもしれない。
 けれど、サキュバスであるという真実を、隠し通して傍にいられるのか。――恋仲になることを目指すならば、それは無理だろうと思う。

 サキュバスは対象としたい相手に合わせてある程度姿を変えられるけれど、身体に刻まれた魔術紋だけは誤魔化せない。
 魔術紋は、普段から垂れ流される〔催淫〕の原因でもあるのだが、直接視認すると理性が飛ぶ程度の強力な呪いのトリガーという側面もある。回避するためには事前の入念な〔抵抗〕魔術による準備が必要で、それも生半なものでは耐えられない。
 相手に魔術が効けばその強い効果によって理性を吹き飛ばし行為に及ぶことで魔術紋があったこと自体を誤魔化せるのだが、ゼルギウスは完全に魔術を無効にするために間違いなくバレる。

 恋仲になるならいつかは――と思うところだけれど、その行為をするためには肌を晒さなくてはいけない。そうするとトールマンでないことまで晒されてしまって。

(……というかそもそも、ゼルギウスさんって、性欲あるのかな……)

 エプロンをつけながら何度か考えたその問いに辿り着く。そもそも女性に異性としての興味があるのか甚だ謎な人だった。
 そういう話も雰囲気もなく、寝るところがなければ同衾を提案し一切の手出しもせず。
 ――なんというか、胃袋を掴んだところで向けられるのは感謝とか友愛とか、シェスティの恋慕に対して期待するものよりも淡泊なものになりそうな気がしてきていた。

 そういったいくつかの事情を考慮して。
 この自炊の目的は『第一に節約、あわよくば契約が終わった後もご飯を理由に離れがたいと思ってもらえる程度には美味しいものを作る』ということになった。

 少しばかりの思考時間を終えてキッチンへ戻ると、ゼルギウスの姿はなかった。装備の手入れをしているのだろう。手を洗うと、料理の支度を始めた。

 今日の料理は羊肉をメインに、サラダとスープを作る。パンは美味しそうな店のバゲットをいくらか買っておいた。

 サラダはサラト等の葉物野菜を中心に。ドレッシングはオイルと香草、塩を混ぜたものを使った。

 羊肉は少しだけ高かったが、なるべく安くていいものを選んだつもりだ。それをさっと焼く。中身は美しいローザ(桃色)に。いくらかの香辛料と香草を使う。……流通のいいフェルトシュテルンでも、胡椒はそれなりに結構高いから、控えめにだけれど。

 そこまで時間がないのでスープはベーコンを使い、出汁をとる時間を短縮する。ゆくゆくは喫茶店が休みの日に時間をかけて数日はもつタネを作っておく予定である。とりあえず今日のところは、サラダを作った時に出た野菜のあまりを細かく切って、ベーコンと共にスープに入れる。

 フェルトシュテルン地方はベルグシュタット地方に比べて海に近いこともあり、塩が幾分安いようだった。入手困難になるということもないようなので、過剰な節約はせず必要なだけ入れる。シェスティにとっては少し塩辛いくらいの味付けにしておいた。相対的に多く体を動かしているゼルギウスは、汗をかく分シェスティよりも塩分の多い食事を好むだろうと思ったからだ。

 羊肉は焼いてから時間が経ってしまうと味が悪くなるので、盛り付けから配膳まで時間を計算していく。

 概ね食卓に並べ終わったあたりでゼルギウスが部屋から出てきた。食卓に並んだ料理を見て、少しだけ驚いたようだった。

「シェスティ。ここまで作らなくても構わないぞ。別に肉を焼いただけでも――」

「いえ。お肉とパンだけたくさん食べるのではおなか一杯になるのに結構なお金がかかってしまいます。スープやサラダ……副菜でお腹を膨らませば安くで済みますし、ついでに栄養も取れていいのです。……それに、今日はあまり、手間はかけていませんよ」

 本当に今日はすぐできる料理ばかりで、少し恥ずかしいくらいだ。ゼルギウスはシェスティの言い分に納得したのか、それ以上何も言わなかった。冷めてしまうのもよくないと思い、どうぞ、と勧める。

「……あの、お口に合いましたか?」

「ああ。美味い」

「よかった」

 微笑んで言われた言葉に世辞はなさそうで、思わず顔がほころぶのがわかる。テンベルクにいる間も食事は担当していたから自信はあったけれど、こうして美味しいと言ってもらえるのは素直に嬉しい。

 ただ、サラダは少しだけほかに比べて手が進まないようだった。別に不味いというわけではないらしいし、スープは抵抗なく野菜も食べていたから、もしかすると生野菜が嫌いなのかもしれない。明日からは炒めてみたりしよう。――と。明日の献立を考え始める。

「……ああ、シェスティ」

 ほとんど食べ終わりかけた頃、それまで黙っていたゼルギウスが口を開いた。

「なんでしょう?」

「シェスティが働くと言っていたのは、『色彩亭』という喫茶だったな」

「はい」

 ゼルギウスは言ってから羊肉の最後のひとかけらを口に含み、咀嚼する。そうして飲み込んでからまた喋りだした。

「仕事は何時に終わるんだ?」

「ええと……だいたい、夕前の鐘の頃です」

「なら、その時間に迎えに行く。一人で帰らないように。俺のほうが遅かったら、店内で待っていてくれ」

「え……え?」

「ごちそうさま」

 ゼルギウスはそう言うと食器を片付けはじめた。

「ま、待ってくださいゼルギウスさん。ありがたいですが、その……えっと、ご迷惑じゃ……依頼もあるのに……」

「いや、迷惑ではない」

 彼は淡々とした調子で断言した。

「フィールファルベまで来た今、貯金もあるし、金にはそう困らない。言ってあっただろう。
 それにそのくらいの時間には、帰ろうと思えば問題なく帰ってこれる」

 ゼルギウスの表情は、片付けをしたりして動き回っていて、伺うことができず、だからシェスティは、いつも淡々としていて抑揚に乏しいその声から、彼の感情を想像することができなかった。
 とりあえず、もうすっかり空になってしまった自分の食器を、シェスティも片付け始める。

「それに、ああして押しかけられるようなことがまたあっては困る。…………俺は護衛だしな」

「……はい、わかりました」

 そう付け加えられてはシェスティも反論しがたい。ああいうことがあるとシェスティだけでは対処できないのはわかっている。普通護衛依頼で想定される魔獣との戦闘よりも、ああいった手合いからの護衛の方が多くなってしまいそうな勢いだ。

 少し多めに残ったスープの残った鍋をなるべく涼しいところに移したり、洗い物をしてしまおうとしていたら、ゼルギウスは風呂の準備を始めていた。私がやりますよとシェスティは言ったが、食器の片付けを優先しろと言われてしまった。

(うっかりしてたせいで、お仕事、増やしちゃったな……)

 と思いつつも、ゼルギウスがいればさすがに声をかけてくる男はある程度減るし、周囲を過度に気にしたりしなくてよくなる。単純に気が楽になるのだ。

 それに――一緒にいられる時間が増えるのは、正直、ちょっと、嬉しい。

 申し訳なさはあるけれど、迷惑ではないという言葉を信じたいと思った。彼はあまり嘘を吐かない。その表情は伺えなかったけれど、苦虫を噛み潰したような顔ではなかったと信じよう。

 いざ確定事項になってしまえば、ゼルギウスが自由に行動できる時間を奪う申し訳なさよりも、一緒にいられるという嬉しさが勝ってしまうもので。
 頬が緩みそうになったのを引き締めて、シェスティは洗い物を続けた。

 どうやらこの町でも、疑いをかけられることは今のところなさそうだった。
 ゼルギウスはシェスティの部屋に置いてある鉢植えを一度見て、案の定「すぐに出ていくところなのだから」と苦言を呈したのだが、それ以外は特に文句を言われることもない。何か疑われている風もない。
 とりあえず今のところは、問題なく旅を続けていけそうだ――と。

 この時は、思っていた。

三章 五話

 ――彼女自身に特に悪いところはなさそうだな、とゾフィはこの数日で判断していた。

 男性が怖いと言って、片付けを中心にすると聞いていた。ここは少し可愛らしい雰囲気の喫茶店だから、男性の客は比較的少ない。それで問題ないと言っていたのだが、シェスティが勤め始めてから男が増えた。それも、ちょっと――イヤな感じの目付き。

 客として注文してくれるならなんでもいいけれど、問題は起こさないでほしい。そういう男がいるときはそれとなくシェスティに洗い物ばかり任せて、表に出てこないようにした。
 幸いにして皿を割りまくるようなドジな子ではない。むしろ手際よくやっていると言える。ここで働き出してすぐのゾフィよりもずっと。

 ただ単に、旅の途中で路銀を稼ぎにきただけの子。それにしては来たばかりという町で随分男に追いかけられているらしい。
 どうもおかしい気はしたけれど、シェスティ自身がかなり嫌がっている様子だったし、それにしばしば謝ってきていたから、ゾフィはとやかく言うつもりはなかった。確かに可愛い子ではあるし、真面目であまりキツそうでないところがモテるのだろう。

 まあ――初日から出待ちをされていたのにはびっくりした。店の外からじろじろと店員を眺めまわされるのははっきり言って営業妨害だ。

 ――うちはそういう店じゃない。

 ゾフィは手が空いた時にそういった手合いを追い払うことにしていた。だいたいは気の強いゾフィが出てくれば引っ込んでいくが、中には面倒なのもいる。そういう時は可能な限りヴェロッテが対応してくれた。シェスティが帰る時間にはだいたい客足は落ち着いているから、少し出ていくくらいなら問題なくやれた。

 シェスティが働きだして九日目のこと。

 その日もシェスティが帰るくらいの時間になって、店の前で立ち止まる男がいた。時折皿を片付けるために表に出てくるシェスティを、少し見ているようだった。ああ、いつもの手合いか――と、ゾフィはため息をつく。さっと周囲を見渡してから、少しなら外に出てもよさそうだと判断して、男を追い払いに出た。

「ねえ。お客さん――じゃないよね?」

 ゾフィは男を見上げた。彼女は別に小柄というわけではなく、ティアラントでは平均くらいの背丈だったけれど、それでもその男は長身で、体つきもよく、近くに立つと少し威圧的な雰囲気さえあった。それでも怯むことはない。

「営業妨害なので、入るか、それかどっか行くかしてもらえないかな」

 大抵の男はこう言えば去っていくものだが、今日の男は結構ねばるたちだった。

「……申し訳ない。ただ、シェスティと約束しているもので。すぐに行きますから」

 言葉つきは存外丁寧なもので、ゾフィは少し驚いた。けれど、騙されはしないぞ、思う。その約束とやらが妄想の可能性は十分ある。それにこの男は、――どこかで見たことがあったかもしれないが、少なくとも客として来た記憶はない。金は落とさない上に出待ちだけして迷惑をかけてくるのだ。

「約束? 具体的には?」

 猜疑心を隠すことなくそう問いかけると、男は表情一つ変えず、

「彼女を家に送る約束をしています」

 と言った。

(え、これ、すっごいヤバイ人じゃないの!? 住んでるところを突き止めようっての!?)

 シェスティは宿ではなく、短期間入居できる住居に住んでいるのだと聞いている。ギルド管轄でそういう集合住宅があるのは知っていたし、旅をしているのだからギルドにも所属しているのだろうとゾフィは考えていた。

 宿ならまだ女将なりなんなりが助けてくれることもあるかもしれないが、家までついてこられたら逃げにくいだろう。これはいよいよ追い払わねばまずいとゾフィは決心した。――のだが。

「……あっ」

 エプロンを外したシェスティが、裏口から出てきたところだった。声が聞こえてしまったようで、男もシェスティのことを見る。

 ――これはシェフ呼んでくる案件かな。そう思ったものの、シェスティは直後、普段の困ったような表情ではなくて、ただ、申し訳なさそうな顔をして。

「すみませんゼルギウスさん、遅くなりました」

 と言って、男に頭を下げた。

「あれ、本当に知り合い?」

 どこか安心した風のシェスティを見て、ゾフィは呆気にとられた。

「あっ……すみません、お話するのを、忘れていました」

 そう言ってシェスティは、彼が傭兵であり、護衛の依頼でシェスティと共に旅をしていること、昨日帰り際後をつけられて家まで来られてしまったので、送り迎えをしてもらうことになったことを話した。どうやら朝も一緒に来たようだったのだが、大通りからこの店のある通りへの角のところで別れたためゾフィは知らなかったのである。

「なんだ、すみません……てっきり、いつものシェスティ目当ての男の、妄想の約束で家までついていこうとするすっごいヤバい人かと」

「……………………いえ。そう思われるのも致し方ないかもしれません。申し訳ない、こちらこそ説明不足でした」

 物凄く微妙な顔つきだったものの、彼は怒るでもなくむしろ謝ってきた。

「あ、あの、私が先に言っておけばよかったので……」

 全員で謝り倒すような空気になって、なんだかおかしくなってしまい、少し笑った。

「えっと、ヴェロッテさんにはさっき言っておいたのですが、明日から私が上がる時間に来てもらうことになると思います」

「わかった、次からは追い払わない。……むしろあなたが他の男を追い払ってくれると、ありがたいんですけど」

 ゾフィがちらりとゼルギウスを伺いながら言うと、

「……ああ、裏手から忍び込もうとしていた奴なら追い払っておいたが」

 と事もなげに返される。

「え、あー……それはどうも、ありがとうございます……」

 どうやら既に追い払っていたらしかった。優秀な護衛である。
 重ね重ねの失礼を詫びたが、ゼルギウスはさして気にしていないようだった。

「では、これ以上は本当に迷惑になりますから、俺たちはこれで。……帰ろう、シェスティ」

「はいっ。……あ、夕食の買い出しだけ、してもいいですか?」

「ああ。……では、失礼します」

 ゼルギウスは慇懃に礼をすると、シェスティを伴って去って行った。

 あれだけ腕の立ちそうな男が隣にいたら、よほど無謀でない限りシェスティに絡みにいこうとする男は出てこないだろう、とゾフィは安心して店に戻る。

 ゼルギウス、という名前が、少し引っかかっていたけれど、少し考えて、数か月前まで時折客の話題に上っていた傭兵がそんな名前だったかと思い出す。そういえば、最近この町に戻ってきたとかいう話も聞いた。

 大柄な大剣使い。ともすれば不愛想とも言える口数の少なさと表情の乏しさだけど、傭兵としてはかなり紳士的だとかなんとかで、腕も立つこともあって一部でちょっとした女性人気があったらしいのだ。主に傭兵ギルド関係者の間でだし、ゾフィは今日初めてその姿を見たわけだが。

 どういう経緯かは知らないけれど、その彼が護衛だったのか。ゾフィは少しだけ驚いていた。

(ベルグシュタット地方に行ったとかいう話だったけど、シェスティの依頼を受けて戻ってきたのね)

 ――それにしても。注文の落ち着いた店内で、せわしない印象を与えない程度に動き回って机を拭いたりしながら、ゾフィは少し前のシェスティの表情を思い出していた。

(完全に恋する乙女じゃないのっ!)

 店の中で男性に向ける表情は、大抵困ったような笑顔。それか心底迷惑そうな顔、相手がしつこければ無表情で。華やいだ表情を見たのは初めてだったかもしれない。

 ゼルギウスの方は今の一瞬しか話したことがないから、確証はないけれど。――『護衛』って、こんな男避けみたいなことまでするのが普通、というわけではないのではないか。
 それに、その態度も仕事で嫌々やっているようには見えなかった。

 ――だから、まんざらでもないのかもしれない、と思ったりして。

 ゾフィは噂話をする客に聞き耳を立てることはあるけれど、客と噂話に興じることはない。けれど、時には参加してみたいときもあるのだ。

(よし。今度お休みの日に誘って問い詰めよう。出会った経緯とか。どこが好きかとか!)

 自分にはそういう話がちっともないし、周囲にあんな『恋をしています』という顔をする知り合いがそうそういないのだ。めちゃくちゃ根掘り葉掘り聞いてやる――そう決心するゾフィだった。

三章 六話

 ゼルギウスに送ってもらえるようになってから、随分気が楽になった。店ではヴェロッテとゾフィがかなり気を遣ってくれている。その分できる仕事はきっちりこなそうとシェスティは思っていた。
 時折、忙しいときには調理補助のようなこともするようになった。野菜の皮むきとかカットとかその程度のことなのだが、手際の良さを褒められた。

「いやー、ゾフィはこういうの全然うまくならなくって!」

 とヴェロッテが笑って言ったのに対して、ゾフィは少しむくれていたが、調理場の方でできる仕事があるならよかった、と笑っていた。

 表は相変わらず忙しそうだから、あまり負担を減らす役には立っていないのかもしれないと思ったのだが、聞けば以前は洗い物もゾフィがやっていたらしい。昼時の一番忙しい時間には、かなり洗い物がたまってしまっていたようなので、それだけやってもらえるのでもありがたいのだと言われた。

 ひと月だけというのが惜しい、と言われて、シェスティはちょっとだけ困ってしまう。確かにここは随分居心地がよかったから。

 そういった調子で、一廻がすぐに過ぎていった。節約の甲斐もあって、ゼルギウスに対して支払う報酬分もたまってきている。

 この数日でゼルギウスの食の好みもなんとなくわかっていた。予想通り、ゼルギウスは生の野菜をあまり好まないのだ。だからサラダは好んで手をつけなかった。何かしら火を通しておくと、そこまで抵抗を覚えないらしい。それでもきっと、自分で買うとなると野菜を選ばないのだろうけど。

 穏やかに微笑みながら自分の作ったものを口に運ぶ彼の表情が好きだった。美味しいですか、と問うと、必ずああ、と返してくれる。代り映えない感想と言えばそれまでだったけれど、あまり感情を言葉に示さない彼が、どことなく穏やかに応えてくれるその瞬間が、シェスティにとっては嬉しかった。

 まだ契約期間は一割も終わっていなくって。

 ――ああ、こうしてずっといられたらな、なんて思ったりして。



 仕事が終わって、夕前の鐘を聞きながらエプロンを外し、二人に挨拶をしてから店を出る。裏口から表に回ると、普段は一人で待っているゼルギウスが、今日は見知らぬ男性と話をしていた。

 追い払う――というでもなく、世間話をしているらしい。ゼルギウスがそうして人と話しているのは、珍しいことだった。

 ティアラントの平均的な男性よりも少しだけ背が低い――といっても、小柄なシェスティからすれば、頭一つ分は大きいくらいの男性。髪はブロンドの長髪で、夕陽を受けてきらきらと輝いている。その艶やかさは、少し薄暗くなってきたこの時間でもはっきりとわかった。そんな髪を、ひとまとめにくくって下ろしている。服装もゆるやかで、少しローブのようだった。魔術師だろうか――となんとなく、思う。

「あれ、……ああ、待ち人が来たんじゃないかい?」

 男がシェスティに気が付いてそう言った。

「ああ――すまない、シェスティ」

「いえ。えっと、お知り合いの方ですか? お邪魔でしたか?」

 近寄りながらそう問いかける。間違いなく、シェスティにとっては知らない人間だった。

「いや、旧友なのだが、たまたまここで再会した」

 よくよく見るとその耳は尖っている。――エルフだ。そう思った。

 エルフは人間族の中でも、その身体構成が少し精神世界(アストラル)に比重を置いていて、魔術に長けている者が多い、と聞く。シェスティがエルフを見たのは、初めてのことだ。

 ティアラントは周辺の他国に比べてトールマン以外の種族が多いが、エルフはどちらかというと隣国であるフェルバックに多く住んでいて、ティアラントではそうそう見かけない。

 ところによってはトールマン以外の者――主に獣人やドワーフだが――が迫害されるような国もあるのだが、ティアラントはギルドがそれを強く取り締まっていること、またそもそもの成り立ちが迫害を受けた移民によるものだったという歴史もあって、多種多様な種族が入り乱れている。
 エルフが多くないのは、保守的だということもあるが、単純にそもそもその土地で爵位を得るなどして一定の地位を確立していて、迫害されることがないから、ということもある。

 変にじろじろと見ては失礼だと思って、シェスティは礼をした。

「はじめまして、シェスティです。えっと、ゼルギウスさんには、護衛の依頼で一緒に旅をしてもらっています」

「ああ――さっき、ゼルギウスから聞いたよ。はじめまして。僕はノルベール」

 彼は見分を広めるべく旅をしており、ここでゼルギウスと出会ったのは本当にたまたまなのだという。その雰囲気から、ある程度魔術に対する抵抗力があって、短時間なら〔解呪〕の必要はなさそうだと判断した。
 そういえば、旅をしている中で、こうしてきちんと魔術を扱うことのできる者に出会ったのは、これが初めてかもしれない。

「なあゼルギウス、今から空いてるか? 久しぶりに話そうよ」

 どうやら、ここでの立ち話では満足な会話はできなかったらしいとみえる。それはゼルギウスにとっても同じだったのだろう。

「……そうだな。すまないシェスティ、今日は――」

 申し訳なさそうにゼルギウスがこちらを見やった。それに対して笑顔で返す。

「あ、はい。私のことは、お気になさらないでください。せっかくですもの、たくさん話してきてください」

 どういう関わりなのかはわからなかったけれど、ノルベールとゼルギウスは随分と親しい間柄のようだった。お互い旅をしているというのなら、そう出会うことも多くないのだろう。こういった機会にたくさん話しておいたほうがいい、と思う。

「ああ、ありがとう。……ノルベール、とりあえず俺は、彼女を家に送ってから戻る」

「はあ……わかった」

 ノルベールはなんとも言い難い表情でゼルギウスを見ていた。ゼルギウスはそれを意に介した風もなく、話を続ける。

「待っている間、席を取っておいてもらえないか」

 ゼルギウスにそう言われて、ノルベールは眉尻を下げた。

「んー……この辺の店、詳しくないんだよね。どこで待ってたらいい?」

 なら、と言って、ゼルギウスは一つの酒場の名と場所をノルベールに告げた。丁寧に道順まで細かく伝えている。そんなにわかりにくい場所ではなさそうに感じたけれど、ノルベールは大真面目に聞いていた。

「うん、わかった」

 随分長々とした説明が終わり、彼は納得したように首肯した。それからようやく一行は歩き出した。行く道は途中まで一緒だ。

「シェスティ。買い出しは必要か?」

 歩きながらゼルギウスにそう問われ、家に残っている食材を頭の中に並べる。

「えーっと……いえ、昨日買ったもので十分です。ゼルギウスさんの分は用意しなくて大丈夫ですか?」

「ああ。帰りは遅くなると思う。風呂も適当に入っておいてくれ」

「わかりました」

 戸締りはしておけよ、と付け加えられて、わかってます、と苦笑する。

「……………………」

 そんな二人を見るノルベールの表情が、どことなく苦いものであることに、シェスティは気が付かなかった。

三章 七話

 ――夜。

 久しぶりの一人の夕食。ゆったりとした風呂の時間。どことなく寂しい気もしたけれど、一人の時は気を遣わなくて気楽、というところもある。

 たとえば。

 シェスティが尖った耳を見て、ノルベールをエルフだと判断したように。シェスティの耳は、見られるとトールマンでないことがばれてしまう。
 ただ、耳でばれる――とは言っても、エルフと魔族では形が違う。エルフは長く尖った耳だが、魔族の場合は人間族とそう変わらない長さの耳なのだが、角が尖っている。

 耳は、種族の違いをどうしても示す。

 サキュバスは生まれつき人間族のどれかとかなり似たすがたかたちになるけれど、耳や、獣人に似た姿の者の場合は爪といった細かい部位の、どこかで違うところが生じてしまう。

 シェスティは髪で耳を隠していたけれど、見られたらトールマンのふりをした別のものだということがばれる。短く尖った耳は魔族の証だ。
 だいたいの、シェスティのように人間族の集落に紛れ込もうとする魔族は、魔術でその見た目を変化させる。けれど、そのためには常時姿を誤魔化すための魔術を使用し続ける必要がある。

 シェスティも、本当はちゃんと姿を変えたいのだけれど、常に魔力を使うことになってしまう。だから諦めて髪型で誤魔化している。

 村で襲われかけた時、後から考えればかなり危うかったのだ。耳元で言葉をささやかれたということは、耳をよく見られたかもしれないということで。幸い酔っていたし暗かったから、ばれていなかったようだけれど。

 一人の時は、そういったことに気を遣わなくていい。寂しい代わりに、気楽だった。

 部屋で一人、花の手入れと『食事』をしつつ、ぼんやりと空を見上げる。

 半月だった。もう幾分すれば満月になる。テンベルクよりも幾分賑やかなこの町は、夜になってもどこか明るくて、その分星が少ないような気がなんとなくしていた。それでも、雲一つない夜空は心が落ち着く。

 遠く喧噪を聞きながら、シェスティは思う。

 ――ああ、夜の町も見てみたかった。

 シェスティの生き方ではどうしようもないことだけれど、そう考えてしまうのも仕方ないといえば仕方なかった。
 お酒が飲みたいとまでは言わないが、せめてその雰囲気だけでも見たかった。今日だって可能ならついて行ってみたかったけれど、また迷惑をかけるわけにはいかない。

 むくむくと育つ好奇心に対して、強い諦めが心の中に吹き込んだ。わがままを突き通す代わりに、自由に動き回れることを捨てたのだ。これも一つの代償だ。

 月が昇る空に星がまたたく。あんな風に気持ちが晴れる日が来るのだろうか、などと。不意に考えた。
 その月に、少しだけ影がさした。雲ひとつない夜空のはずなのに。

(――え?)

 『それ』は間違いなく、シェスティのもとに近づいてきていた。尖った羽の姿をみとめた。近づくにつれてその輪郭をはっきりと認識した。
 ――窓を、閉めて。見なかったふりをしたい。そう思ったけれど、彼女(・・)と間違いなく、目が合っていた。
 気づけば影は、窓の前で一時停止して、シェスティを見据えて口を開く。

「シェスティ、久しぶり」

 女の声。聞き覚えのある、声。

「エーレリア……」

 空を飛んでやってきたのは、同郷のサキュバスだった。せめて変な目撃情報を残さないために、彼女を部屋に招き入れる。エーレリアは素直に従ってくれた。

「どう、したの」

「んもー、怖がりすぎよぅ、シェスティ。……ってあなた、何、魔力なさすぎない? 大丈夫、生きてる?」

「生きてるよ、生きてるってば……」

 肩を掴まれてがしがしと揺らされる。彼女は比較的、シェスティの憧れに理解のあるほうだった。といっても、馬鹿にしない、という程度のことだったけれど、シェスティにとってはそれがとてもありがたかった。

「城を出た後は基本不干渉――じゃなかったの?」

 これはフェルトシュテルン地方のサキュバスにとっての習慣だった。もっと城単位でまとまりをもって動くところもあるらしいが、フェルトシュテルンの女王は基本的に放任主義なのだ。

「んー、そうなんだけどね。『招集』があったのよ」

 そう聞いて、シェスティは知らず体が強張った。

「……なにかあったの? 女王の身に……」

「いや、女王は健在――なんだけどね。えっと、ちょっと長くなりそうなんだけど」

 彼女の語るところによれば。

 ベルグシュタット地方のサキュバスが、魔獣を町や村にけしかけて『遊んでいる』のだという。ついでに領主を篭絡して、その問題に適切な対処がなされないようにしている。

「あ、テンベルクでもあった……」

「ああ、そんな名前の町もあったっけ。うん、そう、その他にも結構おっきい被害になってるのよ」

「でも、ベルグシュタット地方だけなら、私たちに招集がかかるのは――」

「いやあ、それがね、あいつら、なんか調子に乗っちゃって。フェルトシュテルンでも遊び始めちゃったの」

 基本的にサキュバスは地方ごとにその拠点となる城があって、なんとなくではあるが、お互いの領域には不可侵ということになっている。要するに「遊び場は決めておこう」ということだ。
 シェスティのように、およそサキュバスとは思えないような生活をしているとか、ほとんど人間たちに紛れ込んで一人の者と寄り添っている――というような風なら見て見ぬふりをされることが多いのだが、大っぴらに人の集落全体を巻き込むような『遊び』は各々の領域の範囲でなくては許されない、ということにしているのである。

 好き勝手してしまうとすぐ人がすっかり堕落して、最終的には食事処(・・・)がなくなってしまうかもしれない。

「女王が代替わりしたばっかりでねぇ、ちょっと加減がわかんなくなっちゃってるみたいなのよ。
 まだ被害が出てるのはベルグシュタットに近いちっさい村くらいなんだけど――」

 そう言われて、シェスティはフィールファルベに辿り着く前に行った村で遭遇した、魔獣被害のことを思い出した。

 ――魔族の関与。ゼルギウスはその可能性を口にしていた。

「あれ、フェルトシュテルン(うち)のひとたちじゃ、なかったんだ……」

 シェスティが安堵と共にそう口にすると、エーレリアは少しばかり憤慨した調子で、

「あったりまえじゃない! なんであんな非効率的で趣味悪いことしなきゃいけないの」

 と返された。――フェルトシュテルン地方のサキュバスは、少しプライドが高いのが多いとか、サキュバスの中では言われているらしい。

「とにかく、それでね。流石にこっちに手出すのは見逃せないし、あと、人間族を変に堕落させようとするのもちょっと気に食わないってことで、女王が懲らしめに行く(・・・・・・)って言いだして」

「えーと……本気?」

 それは『本当にやるの?』という意味ではなく、『どのくらいやるの?』という意味での問いかけである。

「割と本気」

 そう返した同郷のサキュバスは、どことなく「ご愁傷様」とでも言いたげな雰囲気だ。

「ね、シェスティ。今から私も戻るところなんだけど、一緒に行こう? そんなに魔力のない体じゃ大変でしょ? 城なら食事(・・)も十分にあるし」

 そう言われて、シェスティは首を振った。

「その……みんなに、伝えておいて欲しいの。私、やっぱり、そのー……えっと、すきなひととがいいって、いうか……それでその、魔力がないから、力になれないから……」

「ああー……やっぱり、それなんだ。うーん……」

 エーレリアは少し悩んでいたようだった。

「えっと……アタシもね、女王から、シェスティのこと、絶対連れてこいて言われてて……」

「えっ……お母様(・・・)が?」

 シェスティは驚いて、思わずそう問い返していた。

「うん、そうなの。女王直々で。……まあ、しかたないかしら。招集の期間はそれなりにあるから、とりあえず説得してみるわ。ダメだったらまた来ることにするけど――あんま、期待しないで?」

「……ごめんね、エーレリア」

「いいのよ、別に。……じゃ、とりあえず行ってくるわ。そろそろ、あの傭兵サン、帰ってきちゃいそうだし」

 そう言って、彼女は来た時と同じように窓をさっと抜けると、挨拶もそこそこに飛び立って行った。

(……お母様が、わざわざ私を……)

 散々その倫理観について矯正しようとしていたようだったが、結局喧嘩別れのような形で成体となるとともに逃げてきてしまった。招集の時も魔力がなくて戦力外だと言えば仕方ないと切り捨てられると思っていたのだが。

(……やっぱり、ほかの子に女王を譲る気、ないのかなあ……)

 女王の子はシェスティしかいない。そもそもサキュバスはほとんど子をなさない。

 サキュバスには人間族のような避妊は必要なくて、魔力を吸収しないように意識して精液を体内に取り込めば妊娠する。逆に言えばかなり意識しないと子をなせないのがサキュバスという種族である。

 大抵のサキュバスは、面倒だし、なにより勿体ないということで子作りを行わない。そのうえ相手が人間族だった場合、産まれるのは魔族ではなくて人間族になってしまうため、淫魔の子が欲しければ、インキュバスと交わらなくてはならないのだが、彼らとの行為は魔力供給効率が悪いので普段は互いに関わろうとしていない。

 そういう事情で、余計にサキュバスは数が少ない。

 ただ――なんとなく生命の本能として、ある程度歳をとってくると「まあ一人くらいいてもいいかな?」という気持ちになってくることもあり、気まぐれでつがいとなるインキュバスを見繕ってきたりするのである。

 女王というのはそうした子を城で育てる役目を担っている。育児が好きなサキュバスもいないではないので、そうした者が城に残る。

 城に残っていた成体のサキュバスには、女王ほどでないにしても、かなり力の強い者も多かった。彼女らか、彼女らの娘でいいじゃないか――とシェスティは常々思っている。

 思っているのだが、女王は昔から常々シェスティに、お前が次期女王なのだから、と言ってきていた。

(……ああ、行きたくないなあ)

 食事がある、というのは、つまるところそういうこと。篭絡されて拉致された男たちがいるということ。

(お母様がまだ諦めてないとは思ってなかった……)

 エーレリアの来訪からほどなくして、ゼルギウスが帰ってきた。物思いにふけっていたシェスティは、珍しく出迎えを忘れていた。

 部屋のドアがノックされて、「……シェスティ?」と問いかけられる。

「あっ……おかえりなさい。おもったより、早かったのですね」

 まだ夜の鐘が鳴ってそう経っていない頃(夜九時すぎ)だ。もっと遅くなるのかと思っていた。

「ああ、ノルベールの宿に、門限があるらしくてな。……寝ていたところか? 起こしてしまったならすまない」

「あ、いえ、少しぼーっとしていただけなんです。大丈夫です」

 寝間着に一枚上着を羽織ってから、ドアを開けた。ゼルギウスが気づかわしげな表情で見下ろしていたから、微笑んでみせたものの、ゼルギウスは普段のように微笑み返してくることはなかった。

「……何かあったか?」

 硬質な声で、表情は変わらずに。そう問い返されて、答えに窮す。

「え――と、いえ、特に――」

 まさかサキュバスが訪ねてきたと言えるわけもなくて、曖昧に誤魔化した。

「本当にか? 玄関を何度も叩かれたりとか、壁をよじ登って窓から侵入されかけたとか――」

「いえ、いえ、違います、そんなことはないですっ、静かな夜でしたっ!」

 若干当たらずとも遠からず、なことを言われて、まさかばれてはいないはずなのに、なんだか焦って必死に弁解してしまう。
 そんな自分がどこか滑稽だな、と気が付いて、なんだかおかしくなってしまって、つい笑ってしまった。それでやっと、先ほどまでの自分の表情が、どこか強張っていたことに気が付いた。

「……そうか。ならいい。なにかあったら、言ってくれ」

 シェスティの表情を見て、ゼルギウスもようやく表情を緩めた。

「風呂の湯は残っているか?」

「あ、はい、一応。沸かし直しますか?」

「いや、かなり飲んだからな、体を拭くだけにしておく。貴女も、もう寝る準備をするといい」

 彼はそう言いながら、何気なく。――本当に何気なく。いつも通りの世間話の流れという風に。
 手を伸ばして、シェスティの頭を撫でた。
 ほんの少しの酒の匂い。大きな手のひらの感触。

 ――顔に、熱が集まって。

「あ、はっ……はいっ!?」

 思わず声が裏返ってしまったのを、変に思われなかっただろうか。……いや。
 その声でぱっと手を離したゼルギウスは、少し目を大きく見開いていた。

 ――思われた。絶対に変に思われた。

 思わず俯いて視線から逃れる。頭から暖かい感触が離れていって、――それが少し名残惜しいような、ほっとするような。

「………………おやすみ」

 言うが早いか、ぱっと彼は背中を向けて、そのまま足早に風呂場へと向かった。

「お、おやすみなさい……」

 その背中にかけた声は消え入るようなものになってしまった。

 ふらふらとした気持ちのまま、部屋のドアを、ぱたんと閉めて、

(……い、今の何今の何今の何ーーーッ!!)

 ひとり。心の中で絶叫するのだった。

三章 八話

 同郷のサキュバスがシェスティのもとを訪れた数日後。

 あの夜の翌日はゼルギウスを見るたびに顔が真っ赤になったりもしていたけれど、流石にどうにか一日で落ち着いた。

 あれ以来ゼルギウスから触れられたことはない。よほど変に思われたのだろうか。
 ――ゼルギウスの方から掘り返してくることはないし、もしかすると妄想だったのかもしれないという気さえしてきたくらいである。
 それか、ゼルギウスにとっては何も特別なことではなくて、取り立てて深い意味はなかったのか――。

 とにかく、シェスティなりには大事件だった出来事などなかったかのように、ごく代り映えのない日常が続いていた。

 あのサキュバスの方も接触はなく、シェスティはたまってきたお金からあとどのくらい旅ができそうかを計算する毎日である。

 今日は喫茶店は定休日で、一日特に予定はなかった。シェスティは一人、商店街に来ていた。目的は食材の買い出しである。

 本来は家で引きこもっているべきなのかもしれないけれど、ゼルギウスに付き合ってもらおうとすると、彼が帰ってきてから買い出しをして、それから調理、ということになって、時間がかかるものは作れない。

 あれ以降、ゼルギウスは何度かノルベールと共に食事をしに行っていた。そうなる日はだいたい事前に伝えてくれていたけれど、やっぱり一人で自分の作った料理を食べるのは、誰かとの食卓を経験した後だとどことなく寂しい。その反動もあって、ゼルギウスがいる時の料理は少し品目を増やして、できるだけ共に食卓を囲みたくなってしまっていた。

 今夜はうちで食べると言っていた。せっかく時間があるのだから、それなりに凝ったものを作りたい。そう思って昼間に一人、外に出てきていたのだ。ついでに減ってきた花の手入れのための肥料なども買うつもりである。

 もう昼時を過ぎていたけれど、遅めの昼食をとる人はちらほらと見える。足早に店を見て回り、目当てのものを購入していく。

 だいたい目的を果たした――というところで、向こうから来る、見たことのある人物に気が付いた。

「……あれ、君は」

 相手もシェスティに気が付いて近寄ってきた。先日出会った、エルフの男。

「こんにちは、ノルベールさん。奇遇ですね」

 ぺこり、と頭を下げる。他の男ならば無視するか挨拶もそこそこに立ち去るのだが、彼はゼルギウスの旧友だというから、あまり邪見に振舞うのもよくないと思い、シェスティは足を止めた。

 ただ、目は合わせない。失礼だとはわかっているが、視線を合わせることで〔催淫〕の効きは強くなる。魔術の素人だというわけではなさそうだから、こうして距離を取って話す分には問題ないだろうけれど、余計なことはしたくない。

「やあ。えっと……えっと、ゼルギウスの……依頼主の……」

 ノルベールはしばらく頭に手を当てて悩んでいたが、数秒の後、

「すまない、君、名前はなんていうんだっけ」

 と苦笑いしながら聞いてきた。

「シェスティです」

 シェスティも苦笑して返す。

「人の名前、覚えるのが苦手なんだ。本当にすまない」

 その言い方に悪意は感じられない。おそらく本当に苦手なのだろう。

「あ、いえ、前お会いした時も、きちんとお話したわけではありませんでしたし」

「次は多分、覚えてると思う。……多分」

 その立ち振る舞いに、変に媚びるところがないことがわかって、シェスティは少しほっとする。

「今日はゼルギウスと一緒じゃないのかい?」

「はい。えっと、ゼルギウスさんはいつも通り、討伐依頼で外に行かれています。今日は少し、遅くなるかもしれないとお聞きしています」

 というのも、シェスティが休みの日は、シェスティを迎えに行くために夕前の鐘よりも前に帰ってくる必要がないのだ。そのため、普段よりも少し遠出して大型の魔獣を討伐するのだという。
 それを聞くと、ノルベールはふぅん、と言って、そのまま押し黙る。

「……あの、ゼルギウスさんに御用でしたら、帰ってきた時にお伝えしておきましょうか?」

 そう提案すると、ノルベールはいや、と首を横に振った。

「用があるのは君に対してなんだ。……そうだな、ちょうどいいのかもしれない」

 独り言のように呟いてから、彼はシェスティの持っていた買い物袋を一つ奪い取るようにして持った。

「えっ、あの!?」

「話したいことがあるんだ。宿舎って、あっちだったよね?」

 そう言うと、さっさと歩いて行ってしまう。シェスティは逡巡したけれど、夕食のための野菜たちを人質にとられてしまっていた。
 ノルベールの歩は早く、急いで追いかけないと間に合わない。シェスティは慌てて、その背中が見えなくなってしまう前に声をかける。

「……ノルベールさんっ、そっち、逆ですっ!」

 振り返ったノルベールは、バツの悪そうな顔をして戻ってきた。そうして、シェスティについてくるようになった。
 道すがら袋を返して欲しいと言っても、どうやら取り合う気はないようで。

(言い寄ってくるために、って雰囲気じゃないし、……それにゼルギウスさんのご友人なんだから、家に上げても問題はない、よね)

 そう納得して、二人で宿舎へと向かう。もちろん、ある程度の距離はたもった状態で。

 毎日こまめに部屋を掃除していたから、慌てて片付ける必要はない。突然の客人をとりあえず椅子についてもらうと、急いでお茶を用意する。夜に時折飲むこともあったから、一応茶葉の用意はあった。

「そう気を遣ってもらわなくても大丈夫だよ」

 と彼は言うが、そういうわけにもいかない。シェスティとしては、客人をもてなすのに食卓につかせているのもどうかと思っていたが、この家に応接間はないので致し方ない。

「ええと、お待たせしました」

「いや、ありがとう」

 ティーカップとポットを置いて、シェスティも席につく。椅子は四つあったけれど、ノルベールと垂直の位置にある椅子に座った。

「……それで、お話って?」

 そう問いかけるが、ノルベールは出されたお茶の香りをかいでからゆっくりと口につけ、「うん、美味しいね」などとお茶を嗜んでいる。

 お茶の色は美しい琥珀色。シェスティとしても自信をもって淹れているけれど、何もお茶を飲みにきたわけではなかろうに――と苦笑する。

 ことり、とカップを置いてから、ようやく彼はシェスティに向き直った。

「数日前に――そう、あれは、君とはじめて出会った日かな」

 ぽつり、と言って、彼は一旦言葉を切った。
 目を閉じて、何かを思い出すようにして。――そこでようやく、シェスティは嫌な予感がしはじめていた。

「ゼルギウスと別れてさ。風にでも当たろうと思って、一人で散歩してたんだ。――そこでね。空をさ。飛んでる影を、見た」

 はじめは、鳥か何かかと思った。けれどそれにしては影の形がおかしくて。魔術を使って、注視して。彼は訥々と語る。

「――魔族、だろうね。女の」

「……町に、魔族がいたのですか? それも、そんな堂々と飛んだりして……」

 知らず、硬い声になった。握りこぶしをぎゅっと握って。知らないふり。けれどこれが――意味のないことのような、気がする。

「うん。でね。それが、飛んでいくから。どこに行くのかと思って――見てたんだ」

 ぞくり、とした。思わずその目をちらりと伺う。

 ――静かな、冷たい瞳。

「その魔族が向かう先で、窓を開けて、女性が空を見ていた。その魔族は、まっすぐそこへ行って、窓から部屋に入った。……静かだったよ。
 そうして、しばらくしてから、何事もなかったように、出て行った」

 彼はもう一度お茶に口をつけた。その余韻を味わっているようだった。彼がカップを空にしても、シェスティは何も言うことができなかった。

「ねえ、向こうの部屋って、君の部屋でいいのかい、――シェスティ」

 彼は問いかけているのじゃなくて、確認している。そう確信して、ふぅ、とため息をついた。誤魔化しは効かなさそうだと観念する。

「……はい」

 ただ、そう言って頷いた。――だって。きっと私のことも、見られていたのだろうから。

「……うん。思ったより素直で従順で、助かったよ」

 ふ、と彼は息をついた。

「いや。初めて会った時から、なんとなく嫌なものだとは思ってた。何かはわからないけれど、常に魔術を行使しているような風だったし」

「わかって、いたんですか」

「そりゃ、魔術師の端くれだからね。むしろ今までよくヒトのふりができてたね」

 〔催淫〕を含む心属性の魔術は、人間だと適正がある者がほとんどいない。それに自然属性の魔術とは違って、精神属性の魔術――特に心属性は、その効果が目に見える形では現れない。そのため、感知自体がしづらいのである。

「あまり……その、普段の〔催淫〕は、勝手に発されるもので、そう強い魔術ではないので。自分からはほとんど魔術を使いませんし」

 使わないというよりも魔力の関係で使えないのだが。そのことは黙っておく。彼は気に留めた風もなく、語り続けた。

「ゼルギウスは君のこと、疑っていないようだったけど、あいつ、魔術が効かないしな。それをいいことに、そのだだもれな魔術がバレないって思った君が、あいつのことを騙していいように使ってるんじゃないかって思って、しばらく観察させてもらった」

「…………」

 どう、返したらいいのか。シェスティは返答に詰まっていた。彼の意図が、わからなくて。

 ノルベールはおそらく、魔術師としてはかなりの使い手だ。だからきっと、シェスティを殺してしまおうと思えばできるはずだった。けれど、そんな素振りもなく、彼は語り続ける。

「君の意図はいまいちわからなかったけど。まあいい。とにかく今日の一つ目は君が魔族の中でも何なのか、確かめること」

 そう言って、彼はにわかに立ち上がる。

「僕の予想じゃ、多分、サキュバスだろう。なんとなく――『君に惹かれる感覚』がある。君みたいなのは、別に好みでもなんでもないのに」

 そうしてシェスティの腕をつかんで、服に手をかけた。

「――僕の予想が当たってるなら、体のどこかに魔術紋があるだろ。確認させろ」

 そう言って服を脱がされそうになる。突然のことに硬直しかけていたシェスティは、慌てて手を振りほどこうとした。

「だっ――だめです、それはだめ! サキュバスなことは認めます、認めますからっ、それはやめてくださいっ!」

「――そう言ってデーモンだったりしたら、肝心なところで対策を間違えるかもしれないじゃないか」

 なおも服を脱がそうとするエルフの男を、精一杯突き放す。彼の腕は一般的に見ても比較的細いほうに見えたのだが、見た目よりも力があった。それでもなお必死に止めて。

「だめです、本当にっ――あれ、あれは〔催淫〕効果があるのでっ!」

 魔術紋の存在そのものは、ちょっと高度な魔術の書物を読めば書いてあることかもしれないが、その効果については、案外魔族以外に知られていない。
 というより、どこかのサキュバスが、意図的に魔術紋の存在を明かしたうえで、その強力な効果について伏せるように情報を流したのだろう。――警戒されないように。それが一種の武器であり切り札であるとバレないように。
 とは言え、それを今隠してはいられない。

「……〔抵抗〕魔術なら使っている。心属性に適性はないけど、多少は――」

「違います、そんな簡素なのじゃ理性が吹っ飛んで精魂尽き果てるまで出そうとしちゃいますから、ほんと――」

 それでようやくノルベールの手が止まった。先ほどまでも間違いなくあったけれど、その存在を口にされたことではっきりと認識した。彼の〔抵抗〕魔術は、『見るからに』不十分だった。

「……その。インキュバス(同族)でも、念入りに準備したうえで、〔抵抗〕をかけて、それでもちょっと効果があるくらいの強度なんです。だから、その――いやです」

「…………」

 彼はシェスティから距離を取ると、ため息をつきながら椅子に座りなおした。シェスティも少し荒くなっていた息を整えてから、口を開く。

「……。あの。サキュバスだってわかっても……殺さない、んですか」

「まあ――君、ゼルギウスと契約してるだろ。君を傷つけちゃうとさ、あいつが契約不履行でギルドから違約金取られるし、なにより、あいつから剣向けられる可能性がでてくる。それは困る」

 そう返されて納得する。確かにゼルギウスは、シェスティを護衛するという契約を結んでいる。それは結んでしまった以上、シェスティが何であれ有効な契約だ。

「その。サキュバスなことは、認めます。ただ、……ゼルギウスさんには、言わないで欲しいんです」

 お願いします、と頭を下げる。虫のいい願いだとはわかっている。けれど、どうしても。
 まだ、この旅を、続けていたくて。

 ノルベールは、冷たくシェスティを見下ろしてしばらく押し黙っていた。

三章 九話

「……君の目的次第、かな」

 シェスティの願いに対し、彼は淡々とそう返した。机に肘をついて、エメラルド色の瞳がシェスティを見据える。

「えと、それは――」

「いまいちわかんないんだよね。ゼルギウスにそれとなく聞いてみたけど、君とあいつに肉体関係はないみたいだし」

 思わず赤面してしまう。ノルベールはちらりと横目でそれを見ると、何事もなかったかのように言葉を続けた。

「かと言って、ゼルギウスの目を盗んで男をひっかけてる感じもないし。魔族だってこと以外変な行動はとってないし。ちらっと見た限り、使ってた魔術に攻撃性はなかったみたいだし」

 おそらく〔解呪〕するところを見られていたのだろう。心属性の魔術は傍目には見えないけれど、魔術の素養があれば『何か使った』ことくらいはわかる。

「ゼルギウスにも、他の誰にもサキュバスだってことは隠してる。表立ったことも、何もしてないらしい。でも、同族とは接触してる。……いったい、何が目的だ?」

 静かな声で。そう問われて。

「……あの。言わなくては、いけませんか」

 少しだけおさまっていた顔がまた熱くなる。

「聞いて、君が無害だと判断すれば、ゼルギウスには言わないでおこう」

 しばらく考えてから、仕方ないと諦める。更に顔が熱くなって、一度深呼吸。そうして、ようやく口を開いた。

「……ゼ、ゼルギウスさんが……」

「ゼルギウスが?」

 冷静な声が、そう問い返してくる。

 ――なんて。なんて恥ずかしいの。

「えっと、ゼルギウスさんが、かっこよくて……」

「……………………は?」

 シェスティの絞り出すような声に対して、返ってきたのは面食らったような、呆れたような一音。

「町に来たゼルギウスさんが……すごく好みの男性で……もっと一緒にいたいなと思って……」

 いっぱいいっぱいでそれ以上言葉が続かない。シェスティが黙り、ノルベールも言葉を失っているようだった。

 ――沈黙が、流れる。

「あああ、あの、なので、あの子――サキュバスが私のところに来たのは、ゼルギウスさんと一緒にいることとは、関係ないんです。ちょっとした事件がありまして、その報告で」

 わたわたと弁解をするが、ノルベールは考え込んだ後、「ちょっと待ってくれ」と静かに言った。

「つまり――君、ゼルギウスに惚れたから一緒に旅をしてるってことか?」

「惚れっ――――えと、はい、そう……です……あ、いえ、えっと、旅をしてみたいっていうのもあったんですけどっ……」

 顔から火が出そうだった。何の辱めだろう、これは。

「……あいつに〔催淫〕は効かないぞ」

「わかってます! その、えっと……一緒にいられたら、それで……よくて……」

 再度沈黙が訪れる。シェスティはほんの少し泣きそうだった。大真面目に疑われて。大真面目にその目的を問われて。そんなノルベールの眼差しに対してこの返答。ギャップで更に恥ずかしくなる。

「…………はー」

 ノルベールはため息をついて、体を背もたれに預けた。

「そんっ……な……馬鹿なサキュバスがいるとは思ってなかったな……」

 元々少し凹んでいたシェスティだったが、直接的に馬鹿にされ更に項垂れる。
 ノルベールは気にした風もなく、ポットに入ったままだった、もうすっかり濃くなったお茶を自ら注いで唇を潤す。

「じゃあ、あのサキュバスはなんで来たんだよ」

 そう問われて、少し逡巡したものの、言わずに見逃してもらえるとも思えない。シェスティは観念して、全て語ってしまうことにした。

「…………。えっと」

 ベルグシュタットのサキュバスのこと。――魔獣被害については、ノルベールも知っていた。そうしてフェルトシュテルンでも、境では時折被害が報告されていることも。

 要するに縄張り争いのようなことになる、ということ。

 人間族の町に被害をもたらす目的ではない――とは、言えなかった。サキュバスがその魔術を大々的に行使するなら、必ず人間族の男性が何らかのかたちで『消費』されているから。

 ――今だって、きっと。誰かが、捕まっているはずだ。

「君、魔術は使わないんじゃなかったのかい? そんなところにいても、お荷物だろう」

「あの――えっと。それは魔力がないから、なんです。その、に、肉体関係がありませんから、魔力量もほとんど蓄積がなくて。
 でも、『城』には多分、その、男性が集められてるんじゃないかと……思います。その体液を飲むなりすれば、問題なく魔術は使えます」

 あまりしたくはありませんが、と付け加えると、ノルベールはにやにやと笑った。

「なんで?」

 明らかにわかって問いかけている。シェスティは顔を真っ赤にしながら、

「……ゼ、ゼルギウスさん以外のは……嫌なのでっ……」

 いよいよ羞恥やらなにやらで目に涙さえ浮かんできた。ノルベールはけらけらと声を立てて笑っている。

 ――このひと、性格悪い。

 ひとしきり笑って満足したのか、ノルベールは不意に真面目な顔つきに戻った。

「……魔獣については、実際ゼルギウスからもサキュバスの関与があったって聞いてるし、他のことも、サキュバスとして致命的におかしいってことを除けばおかしいところはない、か」

「ええと……その、信じていただけますか」

「まあ君が嘘をついてるって可能性はあると思ってるけど、なんというか――うん、実害もないようだし。言われた通り、ゼルギウスに告げ口するのはやめておいてあげるよ」

 彼はにこり、と笑った。ほっとして、体から力が抜ける。思ったよりも、緊張していたことを自覚した。

「ところで、君のその〔催淫〕は止められないのかい?」

「えっと……魔術紋によって自動で発動してしまう魔術なので、止められないんです。できれば私としても、止めたいのですが……」

「そっか。……そうだな」

 ノルベールはシェスティの言葉を受けて、少しだけ考えているようだったが、やがて、

「ちょっと待っていてくれないか。すぐ戻るから」

 と言って出て行ってしまった。

 ほどなくして――とは言い難い時間をかけて――彼は戻ってきた。どことなく汗をかいているようだから、おそらく道に迷っていたのではないか――という気がしたけれど、聞きにくい。

「これは普通のペンダントなんだけどね」

 言いながら、ノルベールはイヤリングの石を取り外すと、懐から別の、虹色に輝く石を取り出してペンダントに取り付けた。艶やかに磨かれているけれど、それは――

「魔石……?」

「そう。これに――こう――」

 彼はぽつぽつと何かを呟いていた。そうして魔術が行使される。

(魔力遮断――? でも、向きが内から外のもの、かな――。あと、ノルベールさんに繋がる魔力回路の埋め込み――)

 その魔術が石に吸い込まれていく。

「魔道具師――だったのですか」

 思わず目を見張る。魔道具師だったとしても、普通こんな風にその場で魔術を込めることはできない。
 本来魔道具作成には、原料となる魔石以外にも、魔術の通りをよくしたり、効果を増幅させたりするための専用の機器が必要となるはずだ。今目の前にいる男は、それを材料と自らの魔術だけで行っているらしい。

「そう。僕の〈個人技能(アビリティ)〉で――これくらいなら、すぐ込められる。……はい、渡しとくね」

「えっ……あ、ありがとうございます」

 ぽん、と差し出されて慌てて受け取る。虹色に輝いていたはずの石は、落ち着いた金色に変化していた。あまり魔石のようには見えない。
 そういう魔術を新規に開発したのかと思ったが、どうも器材なしでやれるのは〈技能〉の力――つまり、天性の才能らしい。
 本人曰く、外で気軽にやると目立って嫌なのだという。だから買ってきた後わざわざここまで戻ってきたのだ。

「もとは呪詛除けの魔術だけど、編み替えて自分から発されるものを遮断する魔術にしておいた。普段魔術を使わないなら、これで問題ないでしょ」

「あの、お代は……」

「お茶代と迷惑料も兼ねて、これはあげるよ」

 そんな、と鞄の中から財布を取り出そうとするが、結局固辞されてしまう。

「とにかく、普段はそれつけて生活してれば、その〔催淫〕くらいは防げるよ。あからさまに呪詛除けってわかると変に思われるかもしれないから、偽造しておいたし」

「ありがとうございます……」

 すぐにペンダントをつけてから、深く礼をすると、ノルベールに手を振って嫌がられる。

「やめてくれよ。それつけたままでいる限り、君も変なことしてないだろうって僕が安心してられるってだけなんだから」

 そう言って、彼は立ち上がった。

「僕の確かめたかったことはこれで終わり。……帰るよ、ちょっと長居しすぎた」

「あ、すみません、長々と――お仕事とか、あるでしょうに」

「いや、どうせギルドに魔石を納品したら結構な収入になるから、あんまり困ってないんだよ。
 いやあ、それにしても――サキュバスと二人きりで部屋にいるのって、そっちがそのつもりじゃなくても、かなり神経使うんだね。はじめて知った」

 疲れた、と言って、彼はそのまますたすたと玄関へと向かっていった。

「え、あ……ご、ご迷惑おかけしました……?」

 慌てて見送りに出ると、ノルベールは苦笑した。

「それ。つけたまま無理に魔術を使うと、魔石の方が破裂する。破裂したら僕に伝わるようになってるから、そのつもりで」

 じゃあね、と言って、彼は出て行った。

 ばたん、と閉じられた扉の前で、シェスティはしばらく立ち尽くしていた。

(――ほんとうに、秘密にしてくれるのかな)

 今にして不安がこみあげてきて。でも、追いかけて問い詰めるわけにもいかなくて。ただ、間違いなくペンダントは言った通りの効力の魔術が込められていた。彼は、嘘をついていない。シェスティの〈個人技能(アビリティ)〉で、そのことははっきりしていた。

 彼には『見られている』とわかっていなかったはずだから、こめた魔術について、嘘を言うこともできただろうに。

 ――呪いを込める、とか。できたはずだろうに。

 夕前の鐘が鳴っている。思ったよりも時間がなくなってしまったことに気が付く。慌ててキッチンへと戻った。

 結局。彼の言うことを信じるしかなくて。悩んでも、仕方がないから。

 今日はじっくり煮込んだシチューにするつもりだったから。ゼルギウスが帰るまでに間に合うだろうか。――いや、もうすでにすこし間に合っていない気もするから、急がなくては。

三章 十話

 夜始めの鐘(午後六時)が鳴って少しした頃、ゼルギウスは帰ってきた。どうにか間に合った、と安心しながら、シェスティは彼を迎える。

「お帰りなさい、今日はシチューを作ったんですよ。少し煮込み時間が足りないかもしれませんが、それなりには――」

 と。その顔を見て。言葉が中途で途切れる。

 彼はシェスティを見下ろして。眉間にしわを寄せていた。

「あの、何か――」

 言いかけて、その瞳がシェスティの顔を見ているのではないことに気が付く。その視線は、じっと一点を見つめていた。胸元――ペンダントを。

「それは?」

 ぽつり、とこぼれるような言葉。

「あ、えっと……昼間、ノルベールさんとお会いして。えっと。綺麗だなと思って見ていたら、買っていただいてしまって……」

 咄嗟に言った言葉は、半分嘘で半分本当だ。自分で買った――とか、もっとちゃんと嘘をついたらよかった、と咄嗟に後悔する。どうしてか、わからないけれど。

「……そうか。あいつが……」

 そう言って、ほんの少しゼルギウスは考え込んでいるようだった。

「あの、えっと、そう、高くないものでしたので……自分で買うのは浪費かなと思って悩んでいただけで……」

 何に言い訳しているのだろう――という気分になりながら弁解する。ゼルギウスはまたしばらく無表情に沈黙していたが、やがてため息をついた。

「……家の中では、つけないほうがいい」

「え――と、そう、ですか?」

「…………家事の間に傷がつくかもしれない」

「あ……そ、そうですね。外しておきます」

 言われて納得し、ペンダントを外すと部屋に置いてきた。流石に外に出るときには付けることになるだろうけれど。

「食事にするか。……着替えたらすぐ食べよう」

 戻ってきたシェスティに、ゼルギウスはほんの少し笑いかけた。普段通りの硬質な声だったけれど、どことなく――さっきよりも柔らかいような気がする。

 あるいは。さっきだけ、どこか硬かったのかも、しれない。

「あ、はいっ! すぐご準備しますね」

 彼の言葉に笑顔を返して、閉じておいた鍋の蓋をあけて。皿を片手に軽くシチューをかき混ぜながら。
 まだ壊れていない日々に、ひどく安心している自分を、自覚する。

 食事をとりながら、「そういえば」と少し気になっていたことを切り出した。

「ノルベールさんとゼルギウスさんって、どういったお知り合いなんですか?」

 ゼルギウスは手を止めて、少しシェスティの顔を伺った――ように見えた。しかしすぐにそれは引っ込んでしまう。気のせいだったのだろうか、そう思っているうちに、ゼルギウスは「そうだな」と語り始める。

「ノルベールはフェルバックの伯爵家の産まれだ」

 突然なんだか違う世界の話が始まってしまったような気がして驚く。

「…………え、えっと、隣の国の、貴族の方……ですか」

 フェルバックは王家を中心とした貴族政をとっており、その貴族階級の中にはエルフの一族も存在している。むしろエルフの力が強い国だと言ってもいい。

「ああ。まあ、と言っても三男坊だが。
 俺の父がその伯爵家――サロート家に仕える騎士だった。と言っても平民の出の、雇われだ。剣の腕を見込まれて、住み込みで護衛をやっていた。父に剣の手ほどきを受ける合間に、ノルベールの遊び相手として付き合わされていた」

「幼馴染だったんですね」

「ああ。あいつは魔術に長けていたが、俺を全く魔術で打ち負かせないので何度も突っかかられてな」

 無駄だと言っても聞かずに魔術をぶつけ続けた末、仲良くなった――もとい、ノルベールが折れたのだという。

「あいつはかなり凄まじい魔術の才能があった。研究熱心だったし、俺を打ち負かそうとして相当努力を積んだと聞いている。
 しかし貴族という階級ではいまいちそれを活かしきれなくてな。跡取りとしては期待されていなかったが、それでも家にいると貴族の責務というのに巻き込まれる。それで、あいつが十三の頃に出奔した」

 ゼルギウスが言うには、真夜中に家出同然で出て行こうとするのを、ゼルギウスの父に見つけられ、せめて護衛は連れていけと言われ、ゼルギウスまで一緒に追い出されてしまったのだという。

「以来二人で旅をしていたが、フェルバックでは自由に生きにくかったのもあって、ティアラントに来た。数年間は共にいたのだが、ノルベールは別に護衛がいなくても問題ないということがわかった。むしろ研究にあたっては一人のほうがやりやすいと感じていたらしい。俺にもやりたいことがあったんでな、そのまま別れた」

 ……なんとも――護衛として出たわりには、てきとうな話である。

「それであんなに仲が良さげだったんですね」

「そうだな。……今はこちらで魔道具師として一定の地位も得、実家からも旅をすることについてある程度承認を受けている、と聞いている」

 とりあえず、なんとなくは腑に落ちる。マイペースで、魔術師然としたエルフのノルベールと、魔術とはかけ離れたゼルギウスと。どこで知り合ったのかいまいち予想がつかなかったのだが、そういう経緯だったのか。

「今仰っていたゼルギウスさんのしたいことというのは、もうできたのですか?」

 話の中で気になったことを問うと、ゼルギウスは少し硬直した。そうして珍しく、目を逸らされる。

「……いや」

 どうやら微妙に言いにくいことだったらしい。突っ込んだことを聞いてしまって申し訳ないと謝ると、彼は首を横に振った。

「大したことじゃない。――その。よく馬鹿にされるのだが」

「?」

 思わず、首を傾げる。ゼルギウスは少し言い淀み、悩んだ後、意を決したように口を開いた。

「父に、憧れていた」

 そうして出てきた言葉は、そうおかしなことでもないようで、しかし文脈としてはなんだかおかしい。

「えっと……?」

 思わず問い返すと、ゼルギウスは語りだした。

「父は――サロート家に仕えてはいたが、正確には土地づきの騎士ではない」

「……?」

 よくわからない、という顔をしたシェスティに、ゼルギウスが解説する。ティアラントとフェルバックでは多少事情が違うが、基本的に騎士というのは、土地を護るものだ。
 この国、ティアラントでは騎士というのは役所の一機関のようなものになる。これに対してフェルバックでは土地を有する貴族に仕える者になる。
 どちらにしても、その剣はその土地を迫害する者に対して向けられる。こういった騎士になるためには、国ごとに決められた試験に受かる必要がある。

「ただ、騎士、というのはもう一種類あって――これは、個人に忠誠を誓うものだ。たった一人の命令を絶対として、その一人を護る。こちらの『騎士』になるためには試験はいらないが、忠誠を誓う相手に〔騎士の誓い〕をしなくてはならない。
 ……物語に描かれる『騎士』は、土地づきのものと個人づきのものを混同している節があるようだな」

 〔騎士の誓い〕には魔術的な契約を必要とし、また非常に精神的な密接性も必要とされるという。二人以上の者相手に誓いを立てることはできない。ただ、立ててしまえば、互いの危機を知ることができたり、魔力をある程度受け渡すことができる〈ライン〉が成立するなどの利点がある。主には精神的なものが中心らしいが。

「俺の父は、サロート伯爵夫人づきの侍女――俺の母に対し、〔騎士の誓い〕を結んでいた。母がサロート家に仕えていたから、父もサロート家にいて、伯爵家の護衛をしていた」

 非常に仲睦まじい夫婦だったのだという。曰く、父の一目惚れで。何度も通い詰めて、そうして誓いを結んだ。

「剣の手ほどきを受けながら、父によく、言われていた。護るべきものがあったほうが強くなれると。お前も誰かを――できれば生涯にわたって、たった一人の、それも女性を護る『騎士』となるといいと。
 ――実際、父は鬼のように強かった。魔術にも長けていたが、魔術無しでも、俺はいまだ、父に太刀打ちできないように思う」

 ゼルギウスはそこまで言うと、コップに手を付けて、水を飲んだ。そうして一息ついてから、また口を開く。

「何度も言われていたから、俺も『騎士』というものになりたいと思っていた。父は旅をしているうちに母と出会ったのだという。それで俺も、旅をしていたら、そうして護りたい人に出会えるのかもしれないと思って」

 それが。やりたいことだと言われて。

「な、なんだか……」

 ゼルギウスは後悔するように、眉間にしわを寄せている。恥ずかしい、のかもしれない。確かに人によっては夢見がちだと取るかもしれない。けれど。

「す、素敵ですね……! お父様も、ゼルギウスさんも、ほんとうに……」

 シェスティはどきどきと胸が高鳴ってしまっていた。

 ――まるで素敵な恋物語みたい、なんて。

「いや――実際のところ、俺は結局そう言いながら、別に女性と深く関わることもなく、ただ剣の腕ばかり磨いてきた。旅に出てからそれなりに年もとって、それなりの腕にはなったが、父の言うような女性には――」

 彼はそこで言葉を切った。そうして難しい顔をする。

 下りた沈黙の中、シェスティもはたと気が付いた。

(それってつまり私も……対象外ってこと……かあ……)

 突きつけられた現実に、高鳴っていたはずの胸が今度はちくりと痛む。

 ――いや、わかっていたはず。このひとが私のことを好きになってくれることなんて本当に少ない確率で。
 大きな期待はしない、そう覚悟してたつもりだったじゃない。

 シェスティは笑顔を作る。

「いえ、でも、いずれ素敵な人と出会ったときに、剣の腕が不十分では護り切れません。
 けど、ゼルギウスさんは、たくさんいた魔獣だって、簡単に倒してしまいます。護衛をして頂いていて、命の危険を感じたことはありません。きっと誰かのための騎士になられても、きちんとその方を護り切れると、思います。
 だから……今まで、そうして剣の腕を磨かれてきたことは、決して無駄ではなかったと思います」

 そう素直に言うと、ゼルギウスはシェスティの目を見て、ほんの少し目を見開いてから――柔らかく笑んだ。

「そう、か。いや――貴女は、馬鹿にしないのだな」

「そんな、馬鹿になんてしません! 私――私、いつかゼルギウスさんがそんな素敵な方に出会えるよう、応援しています」

 ああ、でも、旅の途中に見つけてしまったら、少し困ってしまうかもしれないですね、とおどけたように笑ってみせて。胸の痛みを、気にしないようにつとめた。

「いや、そうなっても貴女のことを優先しよう」

 それでも、微笑みを返されると、少し頬が熱くなる。誤魔化そうとして慌てて口を開く。

「で、でも、少し羨ましいです」

「何がだろうか」

 そう問い返されて、少し回りきっていない頭のままで言葉を続ける。

「ゼルギウスさんに、誓いを立てていただける方が」

 そう言って。言ってしまった後で。

(こ――これ、なんか、なんか告白みたいじゃないっ――!?)

 そう気が付いたけれど後の祭りだ。ゼルギウスは少し驚いたような表情をしてこちらを見ている。

「あっ……あのっ、わ、私、その、物語の――騎士様に、憧れていてっ……! なんだか、ゼルギウスさんが騎士になるって、すごくしっくりきて……それだけで、変な意味はなくって……!」

 思わず手をぶんぶんと振りながら弁解する。するとゼルギウスは苦笑して、

「いや、変な意味はないのはわかっている」

 と返してきた。それはそれで、少し複雑だけれど。ゼルギウスは話を続ける。

「それに、俺は騎士にはなれない。――さっき言ったように、〔騎士の誓い〕は魔術的な契約だ。……俺は魔術が使えないから、その誓いを立てることができない」

 口約束ならできるんだがな、と彼は嘆息する。それ以上のことはできない。

「ノルベールには、『魔術が使えないのに誓いを立てる相手を探して旅をするのはちょっと夢見がちがすぎるんじゃないか』と言われた。……そうなのかもしれないな」

 自嘲気味に彼は笑う。あまりこういった表情は見たことがなかった。それで少しだけ、気になってしまって。

「……いえ、そんなこと、ありません」

 真面目な顔で、シェスティは語りかける。

「だって、ゼルギウスさんはそれでも、できることをされてきたんですから。諦めることなんて、ないと思います。きっと口約束でもいいって人はいます」

 だって、私がそうだもの――とは言わないけれど。

「きっと、諦めなかったら、出会えます。だから」

 笑顔で。

「そんな風に、自嘲なさらないでください」

 ――ああ。今日の心は本当に、上がったり下がったり忙しい。

 本当に。サキュバスは、人の心を操るものなのだから、もっと落ち着いていなくちゃいけないのに。

 ――私だったら口約束でも全く構わないのに。なんて、思うのを、隠して。

「……ありがとう」

 ゼルギウスは微笑んで、それから食事を再開した。

 その後食事が終わるまで、シェスティは何も言えなかった。

四章 一話

 確かに、ノルベールからもらったペンダントは効力を発揮しているようだった。
 変な視線は随分と減って、今までそういった視線に付きまとわれ続けていたシェスティにとっては新鮮なものに感じられた。あくまで外に〔催淫(チャーム)〕を放つのを防ぐだけのものであって、〔催淫〕自体が止まっているわけではないため、魔力消費と戦わねばならないのは相変わらずだけど。

 喫茶店では、時折片付けで表に出る際でも緊張せず済むので助かっていた。「そのペンダントは誰から?」とにやにやとゾフィにつっつかれ、困ったように微笑んで返すしかできなかったのは少し困ったけれど。

 そうなると、送り迎えについては、やめてもらうこともできたのだが――。

 ペンダントの効力を確認した日の夜、ゼルギウスの負担を減らすために、それとなく提案したところ。

「あの、ゼルギウスさん、その……今更ですけど、やっぱり、迎えに来ていただくの、負担ではありませんか?
 受ける依頼も限られてしまいますし。私ひとりでも、多分、大丈夫ですから――」

 なぜ大丈夫になったのかということは、説明することはできない。だからぼかしてそう言った。
 しかし彼はじっとシェスティの目を見つめた後、

「……迷惑だろうか」

 と、真顔で返してきた。

「えっ……い、いえ! むしろ来ていただけるのは嬉しいですっ!」

 動転してそう返したけれど、妙に恥ずかしくなって顔を隠そうと俯く。
 それに対して、降ってきたのは少し和らいだ風の声だった。

「なら、いいだろう。別に負担でも何でもない。……俺がしたくてしていることだ、気にしなくていい」

 そうして、ぽん、と頭に暖かな感触があって――それが彼の手だ、とシェスティの頭が認識する前に、離れる。

(――!? !!!!?????)

 シェスティが声にならない叫びをあげている間に、ゼルギウスはさらりと離れて「おやすみ」と言い残し部屋へと去って行った。

 ――そういうことがあって、そのままこの話はうやむやになり、送り迎えはずっと続けられている。



 そうして。日々が過ぎてゆき。

 フィールファルベに滞在するのも、残り一廻という日になった。

 シェスティの部屋に、窓から手紙が差し込まれていた。封筒には、お世辞にも整っていない字で、エーレリアと雑に差出人の名が書かれている。

『あの傭兵サンに見つからずお話するのが思ったより難しそうだから、手紙で失礼するわ。
 ごめんね、やっぱり女王の説得は無理だった。なんか、思ったより強情ね。まあ、あなたは次期女王だから仕方ないかしら。
 三日後の夜の鐘の頃に、フィールファルベから一番近い森の入り口で待つ、って女王が。これで来なかったら次はじきじきに迎えに来るって言ってるわ。……諦めたほうがいいかもね』

 文面を見て、思わずため息が漏れる。女王はエーレリアのように、こっそりと来てはくれないだろう。おそらくついでに男を食い荒らしたうえでシェスティを連れていこうとするに違いない。――きっとパニックが起こる。

 けれど――けれど。素直について行きたくはない。

(だって、絶対脱がされて『食堂』に連れていかれるし……)

 食堂――要するに乱交部屋というか。捕らえられた男たちがいて、それを食う《・・》ための場所。昔からそこには近づきたくなかった。成体になる前にちらりと覗いたことがあって、――ああ、あそこには入りたくない、と確信した。

 しかしシェスティの魔力不足は明確だ。女王はシェスティを前線に出すつもりだ。飛ぶこともままならない魔力量で、戦いに参加することはできない。
 それを誤魔化すことはできないだろう。

 手紙をランタンの火で燃やしながら、ぼんやりと空を見上げる。月を見上げればもう少しで満月だ。ちょうど、あと三日といったところか。

(どうにか直接、お母様を説得しなくては――)

 とにかく、女王に町に来られては困る。三日後、指定の場所――『城』のある森の入り口へ向かう必要がある。
 ただ、そのためには、ゼルギウスに隠れてこっそりと町を出なくてはいけない。――その、ゼルギウスにバレずに出ていく方法が、必要だった。

 家に彼がいる時に、夜に出ようとすれば理由を聞かれるだろう。なんとか――彼が夜遅くまで帰ってこない時でなくてはならない。

 そう考えて、はたと思いつく。――ノルベールに、頼めばなんとか引き留めてくれるかもしれない。
 シェスティが行けなくて困るのは向こうも同じだ。別に人間族の町をまるまる滅ぼすのに加担するのではない。きっとわかってくれるはずだ。

(――明日。探して、頼んでみよう)

 彼がどこにいるかは聞いていないから、町を探し回るしかない。ゼルギウスは知っているのかもしれないけれど、どうして話をしたいのか聞かれると困る。
 どうにか、シェスティ一人でノルベールを見つけなくてはいけなかった。



 翌日、ゼルギウスを見送ってから、町に出る。闇雲に探してもそう出会えそうにないことはわかったけれど、結局手掛かりが思いつかず、ノルベールと出会った場所を思い出しながら、商店街を歩くことにした。
 門限のある宿だという話だけは覚えているけれど、それで見つけられるとも思えない。

 そもそも彼がどういう生活をしているのか。それもわからない。――おそらく、以前出会えたのは、ノルベールがシェスティのことを観察していたからだろう。今は、ペンダントを作ってもらったことでその監視の目も離れてしまったかもしれない。

(困ったな……)

 せめて、居場所を聞いておくか、連絡手段をもっておけばよかった。ペンダントをわざと破壊すれば彼に伝わると言っていたけれど、そうすると大切な自衛手段を失う。
 夕方になっても見つからなかった場合の、最終手段とするべきだろう。

 商店街にはいくつかの店が並んでいる。昼前でいい香りが漂いだしていた。屋台で串を売っているようなところもある。
 そんな中にアクセサリー屋も存在していた。自分が今首にさげているペンダントと同じようなものがあった。もしかしたら、ノルベールはここでこのペンダントを購入したのかもしれない。

 ――と、そこでようやく手がかりになりそうなものに思い至った。
 彼の収入源である。

 魔道具師として路銀を得ているのであれば、きっと生産ギルドあたりに登録をしているはずだ。ならば、もしかしたら、ギルドへ向かえばどこに行けば会えるか教えてもらえるかもしれない。

 もちろん、信頼がなくて断られるかもしれないが……まあ、それならそれでまた別の手がかりを考えればいい。

 そう考えて、シェスティはギルド支部へと向かった。この町に来て最初に訪れて以来、三廻ぶりくらいだが、道は一応覚えている。どうにか迷わずに辿り着くことができた。
 昼の鐘(午後十二時)までもう少し時間がある。だいたいどこに行けば会えそうかを聞いたら、とりあえず食事にしよう。
 そう思いながら、受付へと近づく。

 顔ぶれは以前来た時と同じだった。かなり前のことだったのに覚えられていたのか、入った途端に「ああ、ゼルギウスさんの――」と声をかけられる。向かって右側、――たしか、名前は。

「ええと……ルネリットさん、で、よろしかったでしょうか」

 ぼんやりとした記憶を辿ってそう尋ねると、彼女は笑みを浮かべた。

「ええ、そうです。よく覚えていらっしゃいましたね」

「いえ、そちらこそ」

 苦笑してそう返す。

「今日は何のご用ですか?」

「ええと……あの。人を探していまして。
 今はフィールファルベに滞在しているはずなのですが、もしかしたらギルド登録のある方かもしれないと思って――こちらでお伺いできないかと」

 話しかけている相手が、傭兵ギルド所属の者が依頼を受注するためのカウンター担当だから、部署違いだとわかってはいたのだが、どうやら彼女がそのまま対応するつもりのようだ。

「はあ。その方の、お名前はわかりますか?」

「はい。えっと、ノルベール……サロートさん、です」

 ああ、と一言彼女は言った。どうやら覚えがあるらしいとわかる。
 希望を持ったがしかし、――次の瞬間、ルネリットから怪訝な目を向けられる。

「……あなた、ゼルギウスさんと同棲してるんですよね? 彼にどういう御用なんですか?」

 ノルベールを探していると言っただけなのに、特に今関係のないゼルギウスの名を出されて困惑する。

「え? えっと……同棲っていうのは、なんだか違う気がしますが……宿の代わりに宿舎を使わせていただいているだけですよ」

「違わないでしょう。一緒に住んでるんじゃないですか」

 言葉に詰まる。
 その声色と視線は攻撃的で、十数日前に感じた胸のざわめきが、気のせいでなかったということをここにきて確信した。

「護衛されてるからなんて理由つけて、部屋も何もかも頼りきりで彼に依存して。そのうえノルベールさんにまで色目使うんですか? どういう神経してるんですか」

 彼女は憮然として畳みかける。受付の他の二人が苦笑してなだめようとするが、かえってそれが逆効果になっているようだった。私は彼女に聞いているんです、と、まっすぐシェスティを睨みつけてくる。

 ――ゼルギウスは影でちょっとした人気があるのだと、ゾフィが以前、休憩中に話していた。そんな人を捕まえるなんて隅に置けない――なんて言われて困ってしまったけれど。

 ああ、この人が、と。情報が結びつく。

「えっと、あの」

 どう言ったものだろうか、と悩み悩み言葉を紡ぐ。

「ノルベールさんには、その……彼がゼルギウスさんのご友人ですので、それで知り合って。彼にしか頼めそうにないことがあるので、お願いしたいんです」

 報酬は発生しないし、ギルドを通す類のものではない個人的な依頼ですが、と添えたうえで、更に続ける。

「ゼルギウスさんに甘えっぱなしなことは、認めます。ただその、宿舎に住ませていただいているのは、単純に宿に泊まるより安いからで――つまり、経費の削減です。色目を使うとか、そういうことではなくて。
 同棲――って言うと、なんだか、……特別な関係みたいですけど、全然、そういうのは私たちにはないです」

 最後は少しだけどういう顔をしたらいいのかわからなくなって、思わず眉尻を下げた。うまく返せた気がしない。案の定彼女はいまだ憮然とした表情だった。

「経費を本当に削減するんだったら、宿舎の部屋を借りるんじゃなくて、すっごい安宿に泊まればいいじゃないですか。それに――特別じゃないなんて、なんですかその嫌味。自慢ですか?」

「……え、」

 自慢ですか、そう返されて返答に困る。

「ゼルギウスさんは……その。護衛として、親切にしてくださってはいますし、色々と便宜を図っていただいていますが、それだけです。自慢なんて、そんな」

「『護衛』って言いますけど、それは旅の途中で魔物に襲われないようにするための『護衛』で、命が狙われるような立場の人が暗殺されないようにするとか、そういうのじゃないでしょ。町の中でそんなついて回らなくてもいいじゃないですか。
 なのにゼルギウスさん、あなたを迎えに行かなきゃいけないとかでわざわざ受ける依頼を簡単なやつにしたり――今までにも他の方の護衛任務につかれたことがありましたけど、こんな風にはなさってなかったもの」

「それは――その、私が、えっと、色々トラブルに巻き込まれやすいからで」

「それにしたってだいたいあなたの自己責任だし、ゼルギウスさんは何か起っちゃってから対応すればいいようなものですよ、町の中のやつなんて。命の危険ではないんだから」

「…………」

 思えば『護衛』という単語の解釈についてゼルギウスと内容を確認したことはなかったのかもしれない。彼が護衛としてするのだと言えばそうだと思ったし、それに甘えていたのだ。

 依頼を受けるような人は、もう少し早くに来ているのだろうか、受注用のカウンターをシェスティが占拠して困っている人はいないようだった。ちらほらと依頼を出しにきた町の住民が、ぶしつけな目を向けてから去って行く。

「とにかく、ゼルギウスさんに大事にされてるのに、その上ノルベールさんにまで色目使うのは私としては許せません。――私情ですがっ。別にギルドに通すべきでない、個人的依頼だというならこれで構わないでしょう?」

「だから、色目ではなくて――」

 そう言いかけて、やめる。――結局この人も、彼のことが好きで、だから私が気に入らないのだ。こういう説明ではいつまで経っても平行線で。

 だからはっきりと言わなくてはいけない。胸の痛みに耐えながら、懸命に笑顔を作った。……苦笑気味なのは、仕方ないだろう。

「……その。彼は本当に、親切なだけです。私が頼りないから、気を遣っていただいてばかりなんです。それに、彼自身が、その――誰にも特別な気持ちはもってないって、言ってましたので」

 ――彼は『一生かけて護りたい』と思える人に、出会っていないのだから。

 シェスティの言葉を受けて、今度は少し、ルネリットが言葉に詰まった。そうして目線を逸らして、「でも、」と呟くように言う。

「でも――あの人、今までは、全然――」

 ぼそぼそ、と彼女は言った。どういう意味だろう――と問い返す前に、ぽん、と肩に手を置かれた。

「……僕に用だって? 君のこと?」

 振り返ると、そこにはノルベールが立っていた。以前宿舎利用のために対応してくれた鳥人の女性が、困ったような笑顔でこちらを見ている。――たぶん、呼んでくれたのだ。

「あ――はい。そうです」

 彼はちらり、とシェスティの胸元を見た。ペンダントをつけていることを認めてから、笑顔を向けてくる。

「どうせゼルギウス関係のことでしょ。ここじゃなんだから、どこか行こうか。……昼はもう食べた?」

「いいえ、これからです」

「じゃあついでに食べよう。……では、失礼」

 ノルベールは受付にさっと礼をして、身を翻す。シェスティも「ご迷惑おかけしてすみません、失礼します」と一礼して後に続いた。

四章 二話

 大通り沿いの食事処で、二人は昼食をとった。がやがやとした店内で食事をとる人々は、誰も隣のテーブルでの会話など気にしていないようだ。

「なんで揉めてたんだい? 鳥人の彼女、とにかく来て欲しいとしか連絡を寄こさなかったから」

 どうやらノルベールは念話用の魔道具を持っているらしい。それでギルドといつでも連絡が取れるのだという。

「え……えっと、ゼルギウスさんが……その、私に、こ、好意を抱かれていると誤解されていたようで。
 ……受付の――ルネリットさんが多分、ゼルギウスさんのことをお好きなんだと思いますが、なのに彼に護衛をしていただいている私が、ノルベールさんを呼び出そうとしたのが、気に食わなかったらしくて」

「……へえ、なるほどね」

 彼は色恋沙汰にそう踏み込んで興味を示すようではなかったけれど、シェスティの言葉に、

「誤解、ね」

 とぽつりと反応を返す。まるで彼女と同じようなことを――ゼルギウスまでもがシェスティを好いているような言われ方で困惑する。

「誤解ですよ。だって彼自身が、私――というか、誰のことも特別に思ったことはないって言ってましたし」

 このことを口にすると悲しくなるのだが、そんな誤解を受けてしまったらゼルギウスに迷惑がかかる。

「本当にそう断言したの?」

「そうです」

 はっきりとそう言うと、ノルベールは「ふうん」と呟いた。

「……まあ、あいつ、そういうの鈍そうだしな」

 ぼそぼそと言うのはシェスティには聞こえなかったが、どうやら納得した風であったので安心した。

「……で? 僕に用だったんだよね。……見たところその魔石はちゃんと効果を発揮しているようだけど」

「えっと、はい。ペンダントは、本当に助かっています。でも、今日はこれのことじゃなくて……」

 シェスティは若干声を潜めつつ、以前届けられたサキュバスからの手紙のことを話した。流石にこんな場所で、直接的に種族名は出しにくいからぼかしたが、問題なく伝わったようだ。

「えっと、それで……女王が町に来るのは本当に迷惑なので……とりあえず、行くだけ行って、どうにか説得を試みたいのですが、家にゼルギウスさんがいらっしゃると、バレずに出ていくことができません。それで――」

「ああ……なるほど。つまり、――僕に足止めを頼みたい、と。そういうことでいい?」

 こくりと頷いた。ノルベールはしばらく目を閉じて考えていたが、やがて、

「まあ、いいよ。僕もあいつとは話したいし」

 と笑顔を浮かべた。

「……でも、なるべく遅くまで引き留めてみるけど、君が当日中に帰ってこなかったら結局無駄なんじゃない? そこはどう考えてるの?」

 そう問われて返答に悩む。うまくいかなかった時のことをきちんと考えていなかった。

「うまくその、説得が通ってさ。帰ってこれたとしても、ゼルギウスより帰るのが遅くなった時の言い訳は考えてあるの? それと、結局無理だった時のことも」

「ええ……と。もう、女王の説得ができなかった場合は、その時は色々と諦めようかと。数日間空けることになるでしょうけど、そこの言い訳ができませんし――」

 手切れ金とか色々あるだろうが、最終的にはギルドに届けておけばどうにかなるだろう。

「説得はできたけど遅くなった場合については、えっと……ううん」

 その場合はどうにか誤魔化すしかないだろう。色々と不審がられるだろうが、特にいい案がこの場では思いつかなかった。

「本当に、ちゃんとした計画とは言えないので、無理があるんですけど……」

 苦笑せざるを得ない。どうにか女王の説得をすぐに終わらせるしかないだろう。

「……そうだね、かなり無理があるけど、君がゼルギウスに正体を明かしたくないんならどうにか無理を通さざるを得ないだろう」

 ノルベールもまた苦笑していた。彼にも特にいい案はないのだろう。

「とりあえず、僕もなるべく引き留めようとはしてあげるから、あとは君自身でどうにかしてくれ」

「……すみません、ありがとうございます」

 そう息を吐いたシェスティは、普段からの癖で、視線を合わせようとしていなかった。
 だから――ノルベールの目が笑っていないことに、気が付いていなかった。



 ノルベールと別れた後、シェスティは普段通り、食事の用意をしながら待っていた。
 ガチャリ、とドアの開く音がして、いつものように出迎える。

「おかえりなさ――」

 けれど言葉が尻すぼみになってしまう。帰ってきたゼルギウスが、――どことなく、不機嫌そうで。

 こういった雰囲気の時は今までになくて、刺々しさに少し怖くなる。

「……。ただいま」

 一応、そう返してはくれるものの、やはり普段のような柔らかさがない。

「えっと……あの、何か、嫌なことでもありましたか?」

 問いかけてみるが、その刺々しさが明らかに自分に向けられている自覚はある。案の定、

「…………いや」

 と目を逸らされた。そのまま、ゼルギウスは部屋へ行ってしまった。装備の手入れをしに行ったのだ。それはいつも通りの行動なのだけれど、普段なら「食事にしようか、すぐ戻る」とか一言は添えてから行くものなのだ。

 今日はもう、夜始めの鐘が鳴ってしばらく経っている。多分、すぐにご飯は食べるだろう。
 シェスティはおろおろとしていたが、とりあえず彼が出てきたらすぐに食べられるよう、準備を始めた。

 しばらくして出てきたゼルギウスは、先ほどより幾分和らいだ雰囲気ではあった。食卓について、とりあえず共に「いただきます」と言うことはできた。

 それでもやはり空気の重い食卓で、普段からそう会話が多いわけではないのに、今日の沈黙はなんだか居心地悪く感じる。

「……あの、えっと、私、何かしましたか……?」

 食べ終わってからそう問うと、ゼルギウスはじ、とシェスティを見つめた。

「……ノルベールには、何の用だったんだ」

「……え、」

 どうしてノルベールのことを、と問おうとして、すぐに合点がいく。ギルドの受付で聞いたのだろう。
 受付自身が話さなかったとしても、あれだけ騒いでいたのだから、噂がゼルギウスの耳に入ってもおかしくはない。

「お前の依頼を受けているのは俺だ。俺に頼めばいい。……買い物にしたって、言ってくれたら早めに帰ってくる」

 さらに畳みかけられて、慌てて言い訳を考える。

「……その……あの、――魔術のことについて、相談していたんです」

 けれど、咄嗟にいい嘘が思いつかなくて、適当なことを言った。

「その――わ、私、適性は火属性のようなのですが、魔術が使えなくて――でも、料理をたくさんするのに、せめて着火だけでもできたら、魔石が浮くと思って、それで」

 明後日の方を向きながら、手をぱたぱたと振って。それらしいことを言わなくては、と口から出まかせを続ける。――けれど、

「でも、私が魔術が使えないのは、どうも魔力が足りないからみたい、で――」

 ぱし、と。手首を掴まれて。中途で言葉が途切れる。
 気が付けば目の前にゼルギウスがいて、じっと見下ろされていた。彷徨っていた視線は自然と下を向いた。
 ――顔を、見られたくない。

「……目を合わせろ」

 ぽつんと降ってきた声に、反応が返せない。意識が掴まれた腕に集中する。大きな――骨ばった手。自分のものとは、全然違う。込められた力は決して強いわけではないのに、振りほどける気はしなかった。

 思考が止まってしまい、黙りこくったまま俯いたシェスティに、業を煮やしたのか、ゼルギウスは片手を離し、その手でシェスティの顎を持って無理矢理上を向かせた。

「――!」

 瑠璃色の瞳と視線が合った。真っ赤になった顔を、正面から見られて、――恥ずかしくて、泣きそうになった。人とまっすぐ正面から視線を合わせることに、慣れていなかった。それが恥ずかしさを助長して、言葉が出なくなる。

「……………………」

 ゼルギウスも、少し面食らったようだった。一拍後に、ぱ、と拘束が解ける。

「……。すまない」

「い、いえ……」

 どういうわけか彼はそれ以上追及しないことにしたらしい。うやむやのまま背を向けて、「風呂の準備をしてくる」と言い残してリビングを出て行った。

(さ、最近、なんだかすごく……触れられて……)

 心臓が、もたない。机に突っ伏して、はああ、と長い溜息をつく。

(……いや、ゼルギウスさん的には、そんなに深い意味はない――んだよね、変にどきどきしちゃって、馬鹿みたい。なんか、呆れられたみたいだし――)

 どうにか気持ちを切り替えようとするけれど、まだ触れられていたところが熱いような気がした。

(それにしても、何がそんなに気になったんだろう……)

 しばらく考えてはみたものの、こんな風に迫られた理由はいまいちわからない。片付けを済ませないといけないとわかってはいたけれど、体が動きそうになかった。

四章 三話

 夜中の道を一人で行くのは、ほとんどしたことがない。そもそも一人で町や村の外に行った経験自体ほぼなかった。徒歩に限れば、これが初めてだ。
 この時間は、魔獣が活性化するという。一人で出歩くのは危険とわかっていて、――ちょっと高くても、結界石でも持ってきたらよかった、と後悔する。

 幸いにして、町の周辺はきちんと討伐もなされて魔獣の気配はないようだった。もうそろそろ初夏の気配が漂ってきていたけれど、いまだ夜になると少し肌寒い。

 風通しのいい草原の中を、一人、歩く。ぼんやりと行く道の中、かつて一度だけ、一人でこうして村や町の外を行ったときのことを思い出す。



 ――二年前。シェスティは成体となって城から出ていく時に、一人で町を出た。

 貞操概念について同胞と考えが合わず、馬鹿にされることの多かったシェスティは、あまり同胞のいるところに行きたくなかった。だから、自分のことを知る者にうっかり遭遇したりすることのないように、なけなしの――女王から付与される、独り立ちのための最低限の魔力を、ほとんど遠くへ向かうことのために使った。

 そうして降り立ったのが、テンベルク付近にある村だった。

 村では非常によくしてもらった。性欲旺盛な若い男性が少ない、ほとんど高齢の男女で構成されたところだったのも幸いした。

 とても、かわいがってもらっていた。といっても、できることはそう多くなかった。当時は回復薬の作り方も知らなくて、本当に農業の手伝いをできる限りで少しするだけで。
 それでも邪魔者扱いされることはなかった。きっと皆、自分の子供たちが村を出て行って、誰か代わりに可愛がりたかったのだろう。

 そんな村に、吟遊詩人が訪れた。村の者たちは数少ない娯楽なのだと、こぞって唄を聴きに行った。シェスティも連れられて、その唄に耳を傾けた。

 吟じられたのは、いつかどこかの、古い恋物語。

 政略結婚のためだけに産まれて、どこにも逃げてゆかぬよう囚われた姫。塔の一番上の階、小さな四角い窓で切り取られた空だけが、彼女の世界だった。

 彼女は決められた結婚を、人生を、すべてを嘆く。

 彼女につけられていたのは、一人の老侍女と、若い護衛の騎士だけだった。騎士は本来外を護っていて、姫とは出会わぬはずだったのだが、ある時二人は窓を通して、遠く離れていたというのに、その視線を交わした。――それだけで二人は、恋に落ちた。

 騎士はその人生すべてを投げうって、彼女を連れて城を出る。何も知らない彼女に、大きな空を、大地を、世界を、そして、――愛を。騎士は彼女にすべてを与えた。

 国にいられなくなった二人は、何も持たないただの旅人になってしまったけれど、それでも、豊かな大地は二人を祝福した――。



 ある時村は魔獣に襲われた。思えば今の魔獣被害は、あの時からはじまっていたのだ。あるいはあれが最初だったか。

 村の人々が、シェスティを隠した。シェスティに魔力があれば、あの魔獣たちから村の人々を救えたはずだった。――けれど、できなかった。

 怯えながら、押し込めるように入れられた衣装箪笥の奥、折り重なる悲鳴と魔獣の鳴き声から逃げるように、必死になって耳を塞いだ。

 ――そうして、どのくらい経ったのか。気が付けばあたりから物音は消えていた。

 シェスティがそろそろと外に出た頃には、魔獣も、――人も、誰もいなくなっていた。ただただ、死体が積み重なっていた。つい少し前まで、シェスティに笑いかけてくれていたはずの目は、もう、何も見ていない。

 泣きながら、住民たちの血を舐めた。死んだ後の血では、サキュバスであるシェスティの魔力は殆ど回復しない。それでも――花の精力を吸うよりは、ずっと効率的だった。どうにか一人で、どこかに辿り着くまで――生き残るための術が、必要だった。

 彼らを埋葬しなくてはならないのに、シェスティ一人にとてもできる気がしなかった。誰か手伝ってくれる者を、見つけなくてはならなかった。

 ――そうして茫然とした気持ちのまま村から出て、魔獣に襲われてしまったのだが、誰かが助けてくれた。旅をしていた、傭兵だろうか。記憶が曖昧で、その顔は思い出せない。

 その誰かがテンベルクまで連れて行ってくれたのだ。気が付いたら、モニカの家にいた。村人たちの埋葬は済んだと、彼女は言っていた。



 ――よく、考えていた。あの時、シェスティがあそこにいたから、村は襲われたのではないかと。

 私は。ヒトのふりをしようとする私は。――ここにいては、いけない存在なのではないかと。

 優しい人たちに囲まれて。そのことを必死に忘れようとして。それでも時折、あの血の味を思い出す。シェスティは吸血鬼ではないから、それは決して美味なものではなくて、ただ、――ただ、鉄の香りと味が、鼻に染みついて離れない。

 あなたのせいじゃないよ、と人は言う。本当に。――ほんとうに、そうなのだろうか。

 領域を犯した自分に対する報復だったのではないかという不安が、ずっとシェスティに付きまとっていた。



 自分の分の旅の荷物はすべて持ってきていた。食材は残らないように調理しきってきた。作り置きをして、彼が、食事に困らないようにしておいた。

 『もし今日のうちに帰らなかったら、もう戻れなくなるようなことが起こったのだと思います。その場合、契約は破棄なさってください。出せる限りの報酬を置いておきます。足りなければギルドを通して請求をしてください。勝手なことで申し訳ありません』――そう手紙をしたためて、金と共にリビングに置いておいた。

 説得を諦めるつもりはない。まだ、旅を続けていたかった。けれどもしそれが通らなかったら、――その時はつまり、自分はもう、綺麗なままであの人の前に立てないということだ。中途半端に期待したりしてしまった分、余計にそれがつらかった。

 ――綺麗なままいたいというのは、あくまでシェスティのわがままだ。だから、覚悟を決めなくてはならなかった。

 わがままが通らないなら、あの人のことは諦めて、潔く望まない行為も受け入れよう。そうして――あのときの清算を、この手でつけるのもいいのだろう。

 けれど、それは仕方ないからやるのだ。一番いいのは、女王を――母を説得して、どうにか町へ戻ること。それを第一目標にしなくてはならない。

 ――脳裏で声がする。冷たい自分の声。

 私は、戻ってはいけない。今いる場所はいてはいけないところ。逃げ帰るなんて、してはいけない。
 いるべき場所に、あるべき姿で戻らなくてはならない。そうして、罪を――償わなくては、ならない。

 償いを、すべきなのだ――

四章 四話

 しばらく歩いて、そろそろ町の近郊とは言い難いところに差し掛かってきた。
 ここまでは討伐依頼の成果もあるのか魔獣が出てくることはなかったが、この辺りからは流石に、魔獣に遭遇することもあるだろうか――と不安に思い始めたところで、頭上から声がかかった。

「シェスティ!」

 見上げれば、エーレリアが飛んできていた。聞けば、魔力がないシェスティを心配してわざわざ来てくれたのだという。
 彼女はシェスティに合わせて高度を下げてくれた。

「待ち合わせ場所なんだけどねぇ、女王が来ちゃってるのよ。良かった、ちゃんと来てて」

「ちゃんと待ってらっしゃるの?」

 まだ夜の鐘は鳴っていないはずだ。けれど彼女は少しせっかちなところがあるのもわかっていた。エーレリアは苦笑しながらシェスティの隣に並ぶ。

「うん。でも、もう少し遅かったら、入れ違いで町に行っちゃってたかもしれないわ」

 シェスティは安心した。躊躇していたら、手遅れになっていたかもしれない。

「……アナタも大変ねえ」

 聞けば、実のところシェスティ以外にもほんの一握り、恋をして複数のひとと交わることを良しとせず、人間族の伴侶と人間族のふりをして生活している者もいて、彼女らは招集に応じていないものの、特に引きずり出されることもなく日常を送っているのだという。
 つまり、シェスティが特別なのである。

「……次期女王は、私以外にしてくれたら困らないのにな」

「それは――無理でしょうねえ」

 彼女はシェスティの体をてっぺんからつま先まで眺めまわす。

「アナタは――アナタにとっては不本意でしょうけど、逸材だもの」

「……うん」

 同い年の者にそう言われて、気が重い。まあ、諦めなさいって、とエーレリアに背中を叩かれる。

「説得するつもりはあるの?」

「うん。どうにか納得してくれるといいのだけど……どうかなあ」

 せっかくノルベールに協力してもらったはいいものの、あの日言ったように、うまくいくとはあまり思えていなかった。
 足取りは重い。それでも、シェスティは行かなくてはいけなかった。



 森の入り口にようやくたどり着くと、そこには女王が一人でふわふわと漂っていた。

「女王、お久しぶりです」

 そうシェスティが言うと、女王がにこりと笑う。

「シェスティ、久しぶり――思った通り、全然元気じゃなさそうねっ!」

 けらけらと彼女は笑った。ちょっとむっとする。確かに魔力量は少ないけれど。
 しかし喧嘩別れのような形で飛び出したのが最後だったから、少し緊張していたのだが、彼女の方はそこまでそのことを気にしていなかったらしい。普段通りの、余裕の笑みである。

「それじゃ――一緒に帰りましょうか。飛ぶのはわたくしが手助けしてあげるから――」

 そう言われて、シェスティは首を振った。血が滲むほど強く、手を握る。

「い、いや、です――」

 どうにか声を振り絞り、面と向かって拒絶する。

 ――どうして。あそこのサキュバスに報復をしたくはないの。そう問いかける声がする。

(いやだ。今ここで行ったら、――帰れなかったら、あの人とどんな顔して出会えばいいのかわからない。さっき、決めたじゃない――)

 ぷるぷると手が震えた。自分の昏い声から耳を背けるように。必死に立って女王を見据える。
 女王はほんの少し眉尻を下げて、「もう」と首を振る。

「わがままを言わないの。――あなたはわたくしの娘、次期女王。フェルトシュテルンのサキュバスで、わたくしの次に魔力があるのは、あなたなの。あなただってわかっているでしょう」

「それは――」

 ――そう、そう。わかっている。シェスティだって、そのくらい。

 シェスティが次期女王と言われていたのは、別に現女王――ゲートルーデの娘だからというだけの理由ではない。それだけなら自分のような倫理観の破綻した(・・・・)出来損ないは、すぐに捨て置かれたはずだった。

 けれどシェスティは、現存魔力はともかくとして、その器は莫大な量を有していた。女王の血を引いて、女王から魔力を受けていた幼い頃から、すでにそれはわかりきっていた。出来損ないであることを差し引いたとしても、彼女の魔力量は明らかにだいたいのサキュバスよりも格上だ。

 ――それゆえに、次代の女王はシェスティだと言われていた。

 いくら笑われようとも、馬鹿にされようとも、その女王の決定が覆らないのは、埋めようもない才能の差がそこにあったから。

 女王は、そんな力が持ち腐れになっていることが不満なのだ。わかっていた。ああしてシェスティを嗜めようとするのも、ある意味で親心であることも。
 シェスティにそんな器がなければ、こんなにとやかく言われることはなかったに違いない。

「それに、今回は、ベルグシュタットのコたちが、わたくし亡き後もフェルトシュテルンにちょっかいをかける気を起こさないようにするために、あなたの力を示すいい機会なのよ。
 直接おしおきできるなんて滅多にないのよ。これを逃すわけにはいかないわ」

「……はい、わかっています」

 女王の言うように、この報復はある種の政治的な意味を孕んでいた。できれば他地方のサキュバスたちに対して、有利に出たいと思ったとしても、大義名分がなくてはやり返されてしまう。
 こんな――不必要な領域侵犯などという、おあつらえ向きの機会がきたのだ。この機会に徹底的に殴っておく。そして次期女王の代まで含め、しばらく自分たちの『遊び場』を誰にも邪魔されぬ安泰なものとしたい。

 そうするためには、シェスティ自身がその力を見せる必要がある。

「……何、何が不満なの? もしかして、やっぱり魔力の回復の仕方が不服なの?」

 黙りこくったシェスティに対し、女王がため息交じりにそう問う。それに、シェスティは少し返答するのを悩んだ。

「……そう……なんでしょうか。そうかもしれません」

 確かに――回復の仕方がもう少し健全なやり方なら、戦力として扱われることについては構わないのかもしれない。問題はサキュバスであるが故にシェスティが受け入れ得る『健全なやり方』がすべて効率の悪いものになるという点だ。

 ――強いて言えば、サキュバスであることを捨てたいとすら時折思うシェスティとしては、そもそもサキュバス同士の抗争というものに巻き込まれたくなかったけれど、今回については、シェスティ自身まったく無関係なことではなかったから、その点については目をつぶることにする。
 女王が言うように、この件でベルグシュタットのサキュバスたちが大人しくなってくれるなら悪いことはない。

「じゃあ――そうねえ」

 女王はふぅ、とため息をついた。そうして次に口を開いた時には、――妖艶なまでの笑みを浮かべている。知らず、背筋にぞわりとしたものが走った。

「相手が――あの男なら、構わないのかしら?」

 言いながら彼女は、シェスティに向かって指をさす。――いや、違う。その指先はシェスティではなく、その後ろから来る者に向けられていて――

「――シェスティ!」

 ――静かな低い声が、耳を打つ。

(え、)

 どうしてここに。そんな言葉も出てこなくて。振り返らなくてもわかった。ここにいるはずのない人。

 草を踏みしめる音がする。ほんの少しだけ上がった息遣いが聞こえる。走って、きたのだろうか。

「ねえ、シェスティ?」

 女王が――クスクスと笑う。

四章 五話

 前は門限があると言ってきた割に、今日のノルベールはやけにゼルギウスを引き留めたがった。

 あともう少し。大丈夫だから。前もって報告しておけば門限だって破っても構わないのだ。そう言ってきたが、今までそんな風に長居したがることはなかった。もうほとんど話すことも尽きていたのに。

 ――家にいるはずの、シェスティは大丈夫だろうか。自分のいないことに気が付いて変な男が家に押しかけようとしてはいないだろうか。彼女のことを考えて、はたと気が付く。
 昨日も今日も、彼女は買い出しをしなかった。食材はほとんど尽きていたようなのに。

「――帰る」

 そう言って、ノルベールを無視して会計をした。酒も料理も、空けてしまってからもうずいぶん経っている。

「ちょ、待てよ!」

 背中にかかる声を無視して、宿舎へと戻る。

「ただいま」

 そう声をかけ、鍵を開けたドアの向こう、明かりはついていなかった。普段ならすぐに玄関にやってくるはずの姿が、ない。
 寝ているのか――いや。人の気配そのものがない。

 しんとして物音ひとつしない部屋の中、リビングの明かりをつければぽつんと置かれた置手紙。

「ああ、もう、折角いい機会だと思ったのに」

 気が付けばノルベールが部屋の中にいた。どうやらついてきていたのだろう。少し息が切れていた。

「――お前、」

 思わず睨みつけるが、「引き留めるように言ってきたのは彼女の方だ」と首を振られる。数日前、ノルベールを呼び出した日。――あのときか、と合点がいった。動揺してうやむやにしてしまったが、もう少しちゃんと問い詰めるべきだった――と後悔する。

「あのな――前に言っただろ(・・・・・・・)。サキュバスだぞ、あいつ。どれだけ害がなさそうって言ったって、何考えてるか全然わからん。彼女に害がなかったとしても、周囲がそうだとは限らない。できれば友人から離れて欲しいと思っても仕方ないだろう」

「……彼女は――」

 ゼルギウスの反論を聞かず、ノルベールは首を振った。

「わかってるわかってる。お前なりに信頼してるんだろう。そこまで必死になってるの見て、なお邪魔するほど僕だって野暮じゃないさ」

 それはどこか呆れたような調子でもあった。

「どこに向かったか、知っているか」

 ノルベールは何もかも諦めたかのように、首を振る。

「森――じゃないかな。サキュバスの根城はあの辺にあるって話だから」

「そうか」

 ゼルギウスはそれだけ言って、外してあった装備を手早くつけた。それから、部屋を飛び出して行った。

 ――どういう事情なのかは知らない。彼女がこうして出て行ったことも。自分に何も伝えたがらないままに出て行ったことも。ただ彼女が自分に正体を隠そうとしていることだけはわかる。きっと自分が行けばその秘密が暴かれてしまうような事情なのだろう。
 思いつめたように震えた字。どことなく帰ることのできない未来を予想したような文面。行先――ノルベールの言を信じるのであれば、森。そのような危険のある場所に彼女一人で行かせるわけにはいかない。自分はすでに彼女の依頼を受けた護衛なのだから。

 ――――いや。そうではない。契約などどうでもよかった。仮に彼女が勝手にギルドを通して契約破棄を行っていたとしても。自分はこうして、彼女を追いかけていた。

 それなりに時を過ごした自分よりも、ちょっとだけ会話を交わした程度である友人の方が遥かに彼女に関する情報を得ているようで腹立たしい。けれど今はそれどころではない。行先の手がかりがあることを喜ぶべきだろう。

 駆ける。魔力はなくとも、魔術などなくとも、戦えるように。ひたすらに鍛えてきた身体を駆って。



「……せめて、鍵、閉めていけよな」

 残されたノルベールは、一人苦笑する。
 夜の鐘が、鳴っていた。



 シェスティが茫然としている間に、女王が魔素を編み、魔術の行使を始める。――〔催淫(チャーム)〕。驚くほど強い魔力で編み上げられる精密なそれは、シェスティが無意識に放出するそれとは同名でこそあるがほとんど別の魔術。完全な精神汚染。
 女王の場合、欲を抱く対象を自分以外に操作することもできる。

 けれど――当然、それはゼルギウスに届かない。

「――魔術が効かないっていうの、本当だったのねえ」

 その話はどこから聞いたのか、もしかするとエーレリアあたりが軽く接触を試みていたのかもしれない。
 〔催淫〕は目に見える魔術ではないから、ゼルギウスにはよくわからなかったようだが、その言葉で何かされたことはわかったらしい。

「何をしたのかはわからないが、俺に対する魔術は通らない。……サキュバスに、俺に対する有効手段はない」

 ゼルギウスがシェスティの肩をそっと引き寄せた。背中越しに、ゼルギウスの存在を感じる。――こんな状況なのに、悲しいかな、頬に熱が集まるのが止められない。

「俺はシェスティを迎えに来ただけだ。何のつもりかは知らんが、お前に俺は止められない」

 シェスティは、混乱していて話について行けないでいた。

(ゼルギウスさんが、私を? どうして?)

 間違いなく当事者のはずなのにまるで蚊帳の外である。ゼルギウスの言葉に、女王は焦るでもなく、むしろ笑みを深めた。

「んー――つまり、『あなたに対して』でなければいいんでしょう?」

 彼女はまた魔術を編み始める。今度は、別の――

(まずい)

 そう思った次の瞬間――咄嗟に、ゼルギウスがシェスティを庇うように抱え込む。
 直後、浮遊感。ほんの僅か、足元が失われ、落ちるような感覚がして。それが止んでも、うまく着地できずに思わず座り込む。

 ――真っ白な、何もない四角の部屋。気づけばシェスティはそこにいた。抱き留められたままの恰好で。
 見上げれば、ゼルギウスはそのままの状態で、辺りを困惑したように見渡している。足元の地面だけ、先ほどまで立っていたのと変わりない。夜の平原から一気にうつったせいで、目がちかちかとした。

 亜空間生成。女王の扱う、魔術の形をした〈個人技能(アビリティ)〉。空間を亜空間に反転させて、一定の範囲内を閉じ込める。対象は、シェスティとゼルギウスに対したもの――ではない。その周囲の空間一帯。
 空間に対する魔術は、ゼルギウスの〈魔力遮断〉で無効になる魔術の範囲外である。

 ここは先ほどまでとは、別次元にある空間。出るためには、術者の――女王による開放が必要となる。術者からは中の状態を知覚可能で、普通に使えば最強格の拘束魔術。
 ――女王はだいたい、ロクなことに使わなかったが。

『――聞こえてる、シェスティ?』

 女王の声が頭の中で鳴り響く。女王は念属性魔術の使い手でもあった。シェスティからは念を飛ばせないけれど、一方的にその声が受信させられる。

『わたくしとしては、あなたの魔力が回復して、その魔力でちょっとベルグシュタットのコたちを懲らしめらるのを手伝ってくれたら、別にいいのよ。別に、嫌って言ってることを無理強いする気はないわ。
 っていうわけで……その男を喰べる(・・・)まで、出してあげないことにするわ。なるべくはやく、済ませてくれると嬉しいのだけど、ウブなあなたにはちょっと難しいのかしら?
 ……そっちのカレには聞こえていない……みたいね。ちゃんと伝えといてよ。じゃあ、頑張って』

 一方的に言うだけ言って、ぶつり、と交信が途切れる。とは言っても、声はしないだけで、多分見られているのだ。頭を抱えた。――もう。お母様は、ほんとうに。こんなことばっかりする。
 嫌な予感がしていた。この空間。入ってしまったら最後だとわかっていたけれど、咄嗟に対応できなかった。

 ため息をついたシェスティの耳に、ガキン、と硬質な音が聞こえた。はたとそちらを見れば、ゼルギウスはすでに壁際まで移動していて、剣で床や壁をたたき割れないか試しているらしかった。

「……駄目だな。やはり空間干渉系は突破できないか」

 ある程度試したところで、諦めたらしい。剣を仕舞って、シェスティのもとへと戻ってきた。

「シェスティ、何か彼女は言っていたのか? 俺には念話は通じないのだが」

 そう問いかけてくる目線は、まっすぐなものだった。思わず目を逸らす。顔が熱い。きっと怪訝な顔をされているだろう。

「ええと……はい。ええと……その」

 まさか――まさか『あなたとできたら出してくれると言っていました』とは到底言えない。絶対に言えない。死んでも言えない。更に血が上る。ああもう。きっと首まで赤いのだろう。
 ゼルギウスも何か察したのか、気まずげに目を逸らされた。

「……。ええと、どうしてここに? ノルベールさんと、一緒に飲みに行っていたのではなかったのですか」

 とりあえず適当な話題をふる。

「途中で引きあげてきた。普段さっさと帰ろうとするのに今日に限って引き留めるから、変だと思った」

(ノ、ノルベールさん……)

 引き留めるのはうまくいかなかったらしい。思わず嘆息した。けれど確かに今までは夜の鐘が鳴る前に帰路についていたのだ。不自然なのは否めなかった。

 また沈黙がおりる。なんとなくそわそわとして、とりあえずゼルギウスの傍まで近づいた。芝生は局所的で、二人が元々立っていたところから降りれば、壁と同じ材質と思しき硬質な白い床だ。こつん、と自分の足音が響く。

 一人ぶんの距離感で、向かい合う。

 旅に出てすぐの道中での沈黙とも、数日前にゼルギウスが不機嫌だった日の沈黙とも違う、どうにも互いに落ち着かない雰囲気の無言が流れる。

 ――ああ、もう、わかっている。私が何か言わなくては始まらない。

 今の状況を見ているであろう女王に、再度突っつかれる前に、早いこと行動を起こさなくてはならない。
 ひとつ深呼吸をしてから、意を決してシェスティは口を開く。

四章 六話

「そ、その、ゼルギウスさん」

「……なんだろうか」

「出る手段は、あります。あるんですけど、問題があって」

 どう言ったものか、悩み悩み、口を開く。

「ええと……その。要するに、私の魔力不足、なんです。それがどうにかなれば」

 目を閉じる。ゼルギウスは無言で次の言葉を待っていた。真っ暗な視界の中、数度の深呼吸を行った。
 出るためには、術者による開放が必要となる。普通なら。

 けれどシェスティは特別だ。〈魔力構造解析〉――その〈個人技能(アビリティ)〉によって、この空間をほどく(・・・)ことが可能なのははっきりわかっていた。
 ただ――ただ。致命的に、魔力が足りない。普段はしない遠出をして、普段以上にかつかつで。
 こんなところで花を探すことなんてできなくて。そもそも花の一本や二本、ほんのわずかの芝生程度で得られるような魔力では、ほどくことはできない。

 仕方ない、どうしようもない。――それに、ここに来られてしまった時点で、もはや今更隠し通すことはできない。

「その――」

 勇気を出して、口を開く。

「わ、私、ずっと隠していて、申し訳ないんですが……〈トールマン〉じゃなくて、〈淫魔〉――サキュバス、なんです」

 その告白は最後の方は消え入るような声になってしまって、目を閉じ、俯いたまま、彼の返答を、待つ。

「……ああ、知っていた」

 ――。

「え……え!?」

 弾けるように顔を上げて見返すと、ゼルギウスはなんともないような普段通りの顔をして、

「知っていた。貴女が、サキュバスであることは。……貴女が隠したがっているようだったから、黙っていた」

 思わずぱくぱくと口が動いたけれど、言葉が出てこない。

 ――その目を見つめても、感情が読み取れない。ただ、拒絶のようなものは、感じなかった。

「い、いつから……」

 茫然として問うシェスティに、いつものように、淡々とした声で。

「……なんとなくおかしいとは思ってはいたが、はっきりしたのは少し前だ。……ノルベールに、告げられた」

「あ……あのひとっ……約束っ……!」

 どうやら約束は違えられたらしい。……あんなに恥ずかしい思いをしたというのに。絶対――今度、なにかしら物申さないと気が済まない。

「……すまない。ここに俺が来ることを、貴女が嫌がるのはわかっていた」

 そう言われて、顔を上げる。謝られることではなかった。むしろ自分が謝らなくてはならないとシェスティは思っていた。黙って出てきてしまったこと。騙していたこと。こうしてここまで追いかけさせてしまったこと。巻き込んでしまったこと。――これから頼まねばならぬこと。

「そんな、」

 違います、と言おうとしたシェスティを、ゼルギウスが首を振って制する。

「貴女のせいではない。俺がここにきたのは、俺の意志だ」

 彼はそこで言葉を切った。そうして一歩、シェスティの方へ踏み出して、その手を取る。

「たとえ貴女が何であったとしても、俺はここに来ていた。――現に、俺はわかっていてここにいる」

 引きかけていた熱が、また顔へ集まる。

「貴女に悪意がないのも、ただ純粋に旅をしたかっただけなことも、その魔力が引き起こす事態を好ましく捉えていなかったのも、今までの旅の中でわかっている。俺は貴女を信頼している」

「……そんな」

 そんな綺麗な気持ちじゃない。悪意――は確かになかったかもしれないけれど、ほんとうに純粋に旅をしてみたかっただけではない、少しばかり邪な気持ちがそこにはあった。襲われかけたのは嫌だったけれど、同じことをゼルギウスにされていたら別に拒まなかったのかもしれない。
 けれどそうは言えなかった。この期に及んで――とも言えたのかもしれない。それでも。恥ずかしさとかそういうものじゃなくて、単純なうしろめたさで。

 シェスティの沈黙をどう受け取ったのか、ゼルギウスは続ける。

「だから、気に病むことはない。……それより、護衛なのにも関わらず、こうなることを防げなかった」

「違うんです、そんな……」

 女王の魔術展開は非常に早い。それにゼルギウスには空間干渉系の魔術は防げないのだ。致し方ない。

「いや。……すまないが、俺にはこの状況を打開することはできない。シェスティに頼ることしかできない」

 彼は手を放し、本当に申し訳なさげにシェスティを見ていた。

「魔力不足――というのは、何か俺にできることはあるだろうか?」

 そう問われ。ちらりと顔色を伺う。――涼しげな表情。思わず恨めしい気持ちが沸き上がってくる。
 この人、本当にわかっていないのか、それともわからないふりをして言わせようとしているのか、どっちなんだろう。
 相手はサキュバス、なのに。そう思うと顔が熱くなる。

「……は、い。というか、ゼルギウスさんに協力していただかないと、どうしようも……なくて」

 もうほとんど彼の顔は見れなかった。

「俺に? ……ああ、」

 サキュバス、ということと、自分の存在が、ようやく結びついたらしい。

「それは……その、ここで、か? ……床とか、痛くないか?」

 感情が言葉に乗らないゼルギウスが、珍しいことに、微妙な焦りのようなものを端々ににおわせている。物凄く妙な心配まで添えて。

「ちっ……ちがう、違うんですっ! その、た、体液、ならっ! なんでも、構わないのでっ!」

 慌てて、ぶんぶん、と首を振る。何が悲しくて――本当に、何が悲しくてはじめてをこんなロマンもへったくれもない場所で母親に見られているとわかりながら捨てなくてはいけないのか。ここまでこんなに必死に護ってきたというのに。
 嫌だ。絶対に嫌だ。死ぬよりも嫌だ。ゼルギウスさえ巻き込まなくて済むならここで舌を噛み切って死にたい。

「そういうものか」

 ゼルギウスは幾分ほっとしたような声を出した。それに――若干、なんとも言えない気持ちになりつつも、

「そうなんです、本当に、巻き込んでしまってすみませんが……」

「いや、俺は構わない」

 そう返されてほんの少しだけほっとする。
 シェスティは、血を分けてもらうつもりだった。幸いにしてゼルギウスは刃物を持っている。申し訳ないけれど、腕を少し切ってもらって、それをなめさせてもらえばいい。……それだってかなり恥ずかしいけれど、多分、一番ましだ。

「ありがとうございます、なので、その――」

 申し訳ないんですが、腕のあたりから、血を。顔を上げて。そう言おうとしていた。
 けれど言えなかった。何かに口を塞がれて。

 ――やわらかいなにかが。唇に。当たって。

 物凄く長い時間だったような気がしたけれど、実際には一瞬のことだった。背中から暖かい感触が離れていって、それでいつの間にか一瞬でも抱き留められていたことに気が付く。
 がくん、と膝から力が抜けた。そのままへなへなと座り込む。

「……シェスティ?」

 ゼルギウスがそれに合わせてしゃがみこむ。逃げ出したくなったけれど、どこにも逃げられなくてただ俯く。

 たった一瞬のことだったのに、それだけで異様なまでに心臓の音がうるさい。久しぶりにほんの少しだけ余裕のある魔力が、信じがたい出来事が本当にあったことを伝えている。

(――う、そでしょ嘘でしょ嘘でしょ!?)

 ぶるぶるとへたりこんだまま体を震わせるシェスティの顔を、ゼルギウスが覗き込んでくる。見られないようにするにも限界があった。

「すまない、不快だったか?」

 自分の頬はこんなにも熱いのに、ちらりと伺ったゼルギウスの顔はひどく涼しいものだった。気づかわしげに見つめられて、――ああ、このひとにとっては、なんでもないことなんだとわかる。

 ――私は、はじめてだったのに。

「い、いえ……だ、だいじょうぶです」

 気が動転していた。……顔が近い。息が当たりそうな距離で、今は触れられていないのに、体のどこも熱いような気がした。

「そうか」

 彼はやはり淡々とそう返した。しかし動いてはくれない。シェスティが立ち直るまで待つつもりなのだろうか。離れてくださいと言いたい。

 けれど――わかっている。その空間を構成する魔術を『見て』、これだけの空間をほどくためには、――いまの魔力では、足りていない。悲しいことに、全く。

「やれるか?」

 そう至近距離で問われ、恥ずかしさで泣きそうになる。けれど言わなくてはならない。そうしなくては何も始まらない。

「も……うすこし、だけ」

 震える声で、小さく。けれど何もない空間で、それははっきりと伝わったようだった。

四章 七話

 シェスティの言葉に、ゼルギウスはほんの少しだけ息を呑んだ。けれどやはり続く相槌は淡々としたものだ。

 血で――血がいいんです、キスは――恥ずかしいから。そう先に言わなくてはいけなかったのかもしれない。けれど気が付けばまた唇を塞がれている。

 一瞬で離れたかと思えば、また触れられている。啄むようなキスだった。何度も何度も、角度を変えて落とされて。息が荒くなっていく。思考がとろけて、ぼんやりと目を閉じた。

「……シェスティ」

 低くて静かな声がする。唇が離れて、いつの間にか閉じていた目を開けば、瑠璃色の瞳が目の前にあって、吸い込まれていくような気になった。
 終わったのだろうか、と思ったけれど、次の瞬間体を持ち上げられて、膝の上に乗せられた。そして頭と背中に手を回される。シェスティが口を開く前に、また、口づけを落とされる。

 次第に、回されていた腕に力がこもった。そうして薄く開いていた唇の間から、やわらかくてあついものが入り込む。

「ん……ぅ」

 思わず声が漏れた。自分でも出したことのないような甘い声。背筋にぴりっとした感覚が走る。一段と強く抱きしめられた。
 入り込んできた舌が歯の裏をなぞる。そのたびに体が少しだけ跳ねた。霞がかったような思考の中で、気が付けばそれに自分の舌を絡めていた。

(――う、だめ、だめだってば、もう、十分、)

 脳裏で、遠くそんな声がする。静かな空間で水温と自分の心音だけが鳴り響く。腕に込められた力が更に強くなって、苦しいほどで。
 くらくらとしていた。血でいいんです、そう言うはずだったのに。そのはずだったのに、いざされてしまうと拒めなくなってしまう。あるいはもしかしたら――こうなることを期待して、あえて言わなかったのかもしれない。

 ――どれくらいされていたのか、もうよくわからなくなってきた頃に、ようやくシェスティは解放された。
 薄く目を開けると、瑠璃色の瞳はやはりシェスティをじっと見つめていた。それが珍しく、どことなく熱っぽいような気がした。瞳に映る自分の顔は、とろとろとふやけてしまっている。
 顔を離せば、名残惜し気に糸を引く。視界が若干ぼやけていた。きっと顔はこれ以上ないくらい真っ赤なのに、目を逸らせないでいる。

 しばらくぼんやりと見つめあっていた。体が火照っている。体が反応している。
 ――シェスティは処女だけれど、その体はそういうことのためにあるようなもので、だから、ちょっとだけ――反応がいい。
 息が荒かった。シェスティも、ゼルギウスも。湿っぽい呼吸が静かに耳を打つ。

 ――と。突然ばっと肩を押され、距離を引き離された。

「………………。こんなものでいいだろうか」

 ゼルギウスは少し顔を背け、少しだけ荒くなった息を整えていた。シェスティはというと、まだ脳が付いていかなくて、乱れた呼吸を繰り返すばかりである。

「……シェスティ。シェスティ?」

 何度か名前を呼ばれて、散り散りになっていた思考が戻ってくる。

「はっ……は、はいっ! はい!?」

 起きたことに脳の処理が全く追い付いていない。完全に飽和していた。とりあえず促されるままにふらふらと立ち上がる。

「大丈夫か?」

「だっ……い、じょうぶ、です!」

 ゼルギウスの方を見ないようにして、無意味に大きな声で返す。

「魔力は、足りているのか?」

 普段通り淡々とした声でそう問われて、ようやく、自分が何のためにあんなことをしていたのかを思い出す。

 ――魔力。こんなにあるの、久しぶりだ。

 気が付けば、かなりの量の魔力が体内にあることが感じられた。

「だい――じょうぶです。これだけあれば、問題ありません」

 それでも、シェスティの器の半分程度だけれど。――平均的なサキュバスにとっての、全容量よりちょっと少ないくらいはある。

「そうか」

 彼は普段通りにシェスティを見下ろしていた。彼からしてみれば、後はシェスティに任せるしかないのだから。
 十回ほど深呼吸をして、ようやく気持ちを落ち着ける。

(ああ――もうっ、もう)

 〈魔力構造解析〉を開始する。シェスティの、〈個人技能(アビリティ)〉。編み目のような魔素の繋がりを、ひとつひとつ分解して。

(今のだって、本当は――)

 彼女には『見え』ている。その魔術がどのように構成されているのか。それがいかに初めて見る魔術でも。どんな者が編んだ魔術でも。構造がわかれば魔素の状態までほどくことだって、簡単にできる。

(こんな義務的なことでするキスじゃなくて――)

 するり、するりと糸を抜くように。そのたびに魔力が消費されていくのがわかる。けれど手を止めない。

(二人っきりで、それにもっとロマンチックな状況でファーストキスはしたかったのにっ――!)

 風もないのに髪がたなびく。少し荒っぽいほどき方をして。ストレスをぶつけるようにして。まだおさまりきらない胸の高鳴りを無視して。

(お母様の馬鹿ーーーッ!!!!)

 ぱんっと。構成されていた空間が弾けるように霧散して。

「あら――あらまあ」

 夜の平原、元居た場所に二人は立っていた。

「前戯もほとんどしてないのに、勝手に出てきちゃったの」

「お母様が見てるってわかってるのにするわけないじゃないですか馬鹿ーーーッ!!!!」

 シェスティの渾身の叫びが、辺りに響き渡った。

四章 終

 さて、女王の亜空間を出て一件落着というわけにはいかない。

「もう、魔力、まだ半分くらいしかないじゃないの。あなたならそれでいいでしょうけど」

 女王は少し不服そうだが、シェスティは曲がりなりとも娘であり、彼女のことは把握している。少なくともシェスティが知る限りでは最強の魔力を有し多属性の魔術を操るサキュバスであり――その魔力に比例して性欲も物凄く強い。
 おそらくあれで言われるがままにし始めていたらなんとなくその気になって乱入してきていたに違いない。断固拒否である。
 隣でエーレリアが苦笑していた。

「まあ――いいわ。あなたの〈個人能力(アビリティ)〉があるから仕方ないわね。何度閉じ込めても出てこれちゃうし。
 それで、シェスティ。ちゃんと魔力回復もできたことだし、『懲らしめる』のにはついて来てくれるわよね?」

 にっこりと笑って彼女は言った。
 まあ、確かに『食堂』に突っ込まれることなく魔力は得られたのだから別にいいと言えばいいのだけれど、どことなく腑に落ちず、シェスティはつい渋ってしまった。なんとなく、言う通りにするのが癪、という程度のことであるが。

 そうすると、ゼルギウスが代わりに一歩前へ出た。

「……聞いていいだろうか。その――『懲らしめる』というのは、どういうことなんだ?」

「あら……知らないでここまで来たの?」

 女王が呆れたように言った後、さらさらと事情を語った。

「ベルグシュタットのコたちってば、ほんと加減を知らないんだから」

 そう呟く女王も、おそらく今から加減を知らないレベルで殴り込みに行くのだが。
 ゼルギウスがふむ、と納得したうえで、口を開いた。

「そうだな。俺を連れていくのならば、お前がシェスティを戦力として使うのを俺も止めない」

 え、とシェスティが驚いているうちに、ゼルギウスが話を進める。

「お前の言う、ベルグシュタットのサキュバスは俺も世話になった。本拠地を叩ける機会はそう多くない。幸い俺は魔術が効かない体質だから、足手まといになることもないだろう」

「そう、ねぇ。……飛んでいけないのがネックだけれど、まあ、それ以外は別に問題ないかしら」

「ちょ……っと、ゼルギウスさんっ、そんな……」

 またしても、シェスティを一人置いてけぼりで話を進められて慌てるが、ゼルギウスはシェスティに笑顔を向けた。

「シェスティが否定しないということは、嘘の話ではないのだろう。それに――」

 と言葉を切って。

「――あれは、あの時のことは、許される所業では、なかった」

 静かにそう言われて。その瞳が遠く、何かを思い出すようにシェスティの目を覗き込む。

 ――テンベルクでのこと、途中で立ち寄った村のこと。そのことだけでは決してない。きっともっと昔の――ふたりが、こうして出会う前のこと。

 その背中に、ぼんやりとした記憶が重なった。

 シェスティが言葉を返せずにいると、そのままゼルギウスは向き直って話を続けた。

「何かこちら側に攻撃しようとしたり、シェスティに無理をさせようとしたら確実に殺す」

「……ふふ、まあ、二人が揃ってたらこっちには有効打がないもの。そんな無駄なことはしないわ」

 女王が面白そうに笑ってそう返して、一時的な共同戦線が組まれることが決まった。



 その後、朝になってから二人で急いでベルグシュタットへと戻った。期日までに戻れるか曖昧だったため、少し早めだが宿舎は引き上げておくことになった。夜の間は流石にどうしようもないので、ギルドが開いたタイミングですぐに手続きをすることになった。
 幸いにして、普段から掃除を怠っていなかったおかげで、大した手間もかからずに済んだ。

 ゼルギウスにその手続きをしてもらっている間、急いで勤めていた喫茶店に出向く。こちらはまだ勤務日が残っていた。どうにか「急ぎの用事で町を離れることになった」と伝える。とりあえず休みという扱いにしてもらって、残った分は後ほど戻って穴埋めするということにした。

 ――なお、借りていた家にノルベールがずっといてくれたようで、謝罪を求められたのだが、シェスティが約束を破られたことを引き合いに出すと気まずげに目を逸らされた。

「……いや、でも、結局どっちにしろ問題なかったんじゃないのか」

「そういう問題じゃありませんっ!」



 道中はゼルギウスが馬を借り、それに乗せてもらうことになった。のんびりと歩いてやってきた道のりも、早駆けすれば丸一日でどうにか辿り着く。

 戦いは一方的だった。ベルグシュタットのサキュバスたちはフェルトシュテルンの者よりも全体的に若く、戦いなれていなかったらしい。

 ベルグシュタットの山の中、その城は破壊的に荒らされた。シェスティの母よりも随分若い女王は、しばらく責め苦を浴びせられた挙句、町の領主たち――特にブルーメンガルデン地区の者たちを取り込み、彼女らが好き放題やっても咎められぬように動かしていたということがわかった。

 領主たちは解任され、また選任されなおすのだという。ベルグシュタットのサキュバスたちも、しばらくは動けないだろう。

 また、シェスティが二年前――あの村の惨劇のことを問うたところ、これもベルグシュタットのサキュバスたちのやったことだとわかった。どうやら魔獣を使ってどのくらいの力が発揮できるのか、試していただけだったらしい。
 当時はテンベルクの領主しか支配下に入れられておらず、やりすぎて目をつけられたと反省したため、以降あれほどの惨劇は起こらなかったのだという。
 地方の違うサキュバスであるシェスティがいたことは知らなかったという。

 ――領域侵犯に対する報復だったのであれば、自責の念を抱きながらも納得することができたのかもしれない。けれど、そんなことはなかったのだ。『試したかった』などという軽い理由で、あの場所は奪われた。

 シェスティはそのことを語った女王を燃やして、燃やして、燃やし尽くしてやりたい衝動に駆られた。――けれど、ゼルギウスがその手を止めた。

「貴女の手を、汚す必要はない。彼女は生かしておいて、二度と同じことを繰り返さぬよう監視をしておいた方がいい――」

 そう、彼は言った。たくさんの血に濡れた大剣が、ほんのわずか、震えていた。



 おしおき――という名の蹂躙が終わった後、二人はテンベルクへと戻ってきていた。

 シェスティはとりあえずモニカの家を訪れたのだが、昼前で、モニカはまだ仕事中だ。当然、中には誰もいない。けれどシェスティの部屋だった場所に入ってみれば、ほとんど変わり映えのない状態で掃除がなれていた。

 シェスティが食料として育てていた花は、手入れされて美しく咲いていた。モニカが丁寧に世話をしてくれていたらしい。きっとシェスティがいる時よりも長く咲き続けるに違いない。

 部屋に荷物を置いて出てくると、ゼルギウスは玄関先でじっと待っていた。

「シェスティ、すまないがギルドに向かっていいだろうか。諸々の報告をしておきたい」

 そう問われて、手ぶらになったシェスティはきょとんとした。

「え、っと、構いませんが……その、何も、私を待たなくても」

 シェスティはなんとなく、ゼルギウスとはここで別れるのだと思い込んでいた。なんせ自分はサキュバスである。それがはっきりしてしまったのだから、契約の解除は当然だろうと。

「……? 依頼主を待つのは当然だろう」

 しかしゼルギウスは何を言っているのか、といった調子でそう返してくる。

「え、えっと……その、私、……サキュバス、ですよ? その……いやだな、やめたいな、と思って、ないんですか?」

「……ああ――いや、そんなことはない。言っただろう、たとえ貴女が何であったとしても、俺は貴女を護る」

 彼は柔らかく微笑んだ。

「だから、貴女が良いのなら、何も問題はない」

 そうしてさらりとシェスティの手を取って。

「行こう。……まだ行っていない場所は沢山ある。海は、きっと楽しんでもらえるだろう」

 そう言ってそのまま歩き出そうとする。

「えっ――と! あの!」

 シェスティは目をぐるぐるさせながらどうにか手を振り払った。どうにも、恥ずかしくて。

「私――ほ、報告についていっても仕方ありませんから、その……モ、モニカさんに、あ、挨拶、してきます……!」

 そんなシェスティを面白そうに彼は見つめる。

「そうか。……終わったら、ここで待っていたらいいか?」

「や、宿に行っていてください……!」

 逃げ出すようにシェスティは走っていった。久しぶりに出した彼女の全力も、しかしあっさりと追いつかれて。

「この町は、道が複雑で迷いそうだ。……貴女が、ギルドまで連れていってくれ」

「…………わ、わかりました」

 渋々といった調子で承諾するシェスティに、ゼルギウスはまた柔らかく微笑みかけるのだった。



 そうして。次の日から、また旅は再開される。
 まだ契約を結んでからひと月で。これからたくさんの時が残されている。
 この契約が終わった時。どうなるかわからないけれど。

 ――まだまだ、世界はきっと美しいもので溢れているのだ。

恋する淫魔と大剣使いの傭兵

完全に設定その他が作者の趣味なので、誰か一人でもちょっと性癖にささる人がいたら嬉しいな、という感じです。よろしくお願いします。

恋する淫魔と大剣使いの傭兵

恋に生きては命を保つこともままならないサキュバスが、その種族を隠しながらいかなる魔術もきかない人間(トールマン)の男と旅に出る。 恋愛もの。性質上逃れられないR-15です。 18/6/8 完結

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-04-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一章 一話(18/4/1)
  2. 一章 二話
  3. 一章 三話
  4. 一章 四話
  5. 一章 五話
  6. 一章 六話
  7. 二章 一話(18/5/7)
  8. 二章 二話(18/5/8)
  9. 二章 三話(18/5/9)
  10. 二章 四話(18/5/18)
  11. 二章 五話(18/5/25)
  12. 二章 六話
  13. 二章 七話
  14. 二章 八話
  15. 三章 一話
  16. 三章 二話(18/5/25)
  17. 三章 三話(18/6/4)
  18. 三章 四話
  19. 三章 五話
  20. 三章 六話
  21. 三章 七話
  22. 三章 八話
  23. 三章 九話
  24. 三章 十話
  25. 四章 一話
  26. 四章 二話
  27. 四章 三話
  28. 四章 四話
  29. 四章 五話
  30. 四章 六話
  31. 四章 七話
  32. 四章 終