マイファニーバレンタイン

塚田遼

  1. Part1
  2. Part2

「マイファニーバレンタイン」は恋人に別れを告げられてそれを忘れられない女性が大学の学生会館での思い出を振り返る小説です。読んでいただけたら幸いです。

Part1

 Ⅰ、見つめていたい

 私の中の蛇が暴れて、私を締め付ける。 
 
 夢乃は寒さに震えながらそう感じていた。蛇は私の全身を這い回り、そして私自身を食い破ろうとする。マンションの前の電話ボックスで、寒さのために足踏みを繰り返しながら、夢乃は芹澤の帰りを待っていた。コートのポケットに入れた使い捨てカイロだけでは体は暖まらなかった。

 蛇は容赦なく暴れて、芹澤に会いたがった。芹澤が帰って来たとしても、具体的に何をするか計画があるわけではなかった。ただ、芹澤の姿を一瞬でも見たいだけだった。

 ヘッドホンからは、ポリスが流れていた。夢乃は、「皆の思っているみたいな、甘いラブソングなんかじゃなくて、胸が悪くなるくらいひどい歌なんだ」というスティングの言葉を思い出していた。エレクトリック・ギターのアルペジオに続いて彼の独特のしゃがれたような声が流れた。夢乃は歌詞を自分で訳しながら聞いていた。君のする呼吸のすべてを。君の仕草のすべてを。君の喋る言葉のすべてを。見つめていたいんだ。夢乃は何でこんな歌が八十年代に大ヒットしたんだろうと思った。まるでストーカーじゃないの。そして、別れを告げられた恋人の帰りを家の前で待ち伏せる私はストーカーなのだろうかと自問した。しかし、すぐに考えるのをやめた。仮にそうだったとしても、自分にはどうしもようもないことだと思ったからだった。

 芹澤に別れを切り出されたのは半年前だった。電話で一方的に別れようと切り出された。他に好きな子が出来たからだと言われた。夢乃には最初何が起こったのか分からなかった。芹澤とは確かに喧嘩の多い日々だった。けれども、その奥には愛情があるということを疑っていなかった。例えば浮気されることくらいあったとしても、結局は自分のところに戻ってくると信じていた。
 夢乃は何度も電話をかけ続けた。そして自分がいかに芹澤のことを思っていたのかを切々と語った。そうすることが、よけいに事態をまずくするということが分からないわけではなかった。電話を切った後にすぐに後悔した。あんな言い方をしたら重いと思われる。鬱陶しい女だと思われる。そう思うと、また不安になってもう一度電話をかけて、ごめんね、そんなつもりで言ったんじゃないの、私の気持ちなんて気にしなくていいからねと言うようなことを長々と語ってしまったりした。そして電話を切った後、これでは最初と少しも変らないではないかと気がついて、さらに落ち込んだ。

 別れ話を切り出された週は毎日のように、芹澤の家に電話をかけた。ときには自分の芹澤への愛情について、ときには二人の幸福な思い出について、ときには何気ない世間話、ときには相手の女性についての質問、ときにはその相手と付き合っていてもいいから私と会い続けてくれという懇願まで。
 最初、芹澤は夢乃の一方的な電話に付き合っていた。しかし、次第に夢乃がかけても電話に出ないことが多くなっていった。不安になった夢乃は携帯ではなく固定電話にかけたり、非通知設定でかけたりして、何とか芹澤に電話に出させようとした。そんな小細工をしてまで相手と話そうとする自分が惨めだった。惨めだったけれども、そうせざるをえなかった。
 電話に出た芹澤はいつも、うん、うん、と頷いて話を聞いているだけだった。もともと話を聞いているだけのことの多い男であったが、別れ話をして以来、ほとんど口を利かなくなった。
いつも芹澤は夢乃の長い話を聞いた後に「もう、終わりなんだよ」「もう、すんだことなんだよ」とだけ呟くように言った。 
 次第に非通知でも違う電話でかけても芹澤は出なくなり、夢乃は芹澤の声を聞く手立てを失った。もう仕方ないのだと諦めようとした。友人に誘われた合コンに参加したりもした。しかし、気持ちはいつも晴れなかった。幸福を感じられるのは芹澤との思い出に浸っているときだけだった。

 これまでも芹澤の通りそうな駅の喫茶店で二時間も三時間も外を眺めて過ごすことはあった。しかし芹澤のマンションの前で待ち伏せするのはその日が始めてであった。思いついてから実行するまでに二週間の時が過ぎた。
 待ち伏せすればもう一度芹澤の顔を見ることが出来ると思いついたとき、夢乃は震え上がった。喜びとも恐怖ともつかない感覚が全身を走った。けれどもそれではあまりにも自分が異常な人間であるように思えた。そんなことをしていいのだろうか。見るだけ、見るだけ。それ以上に何もしない、ただ、あの人の帰宅する姿を見るだけ。そう自分に言い聞かせた。
しかし、一度姿を見てしまえば、また見たくなる。何度も続けば今度は話したくなる。どんどん欲望は膨らんでいき、自分の苦しみは増すだけではないかという不安が残った。
 けれども夢乃は待ち伏せを実行に移した。芹澤のことをすべて忘れて新しい生活に向かうことはそれも何か間違っていると感じた。ただ単に忘れてすむ問題ではなく、自分は芹澤との関係の中に何か非常に重要なものを置いてきてしまった。それを取り返すことが出来なければ自分の人生は前には進めない、そんな気がした。

 芹澤のマンションは都内だが駅から徒歩で二十分ほどかかり、夜には静かで人通りの少ない住宅街にあった。時計を見るともう十時半を回っていた。夢乃が芹澤の帰りを待ち始めてすでに二時間が経っていた。仕事で遅いのだろうか、同僚と飲んでいるのだろうか、夢乃は今芹澤が何をしているか想像する。新しい恋人との時を過ごしているのではないか、そう思い浮かべると静まりかけていた蛇がまた激しく暴れだして、夢乃は泣きそうになった。ひょっとすると今夜は帰らないのではとも考えた。けれど、このまま芹澤の姿を見ずに自分の部屋に帰ることは蛇が許してくれそうもなかった。
 指先が凍ったように冷たく、何度息を吹きかけても少しも暖まらなかった。耳元ではスティングが「苦痛」について歌っていた。スティングの曲は普段ジャズにしか関心のない芹澤が聴いていた数少ないロックだった。

 とても長い時間待っていたわりには、芹澤は唐突に現れたように夢乃には感じられた。何気ない感じで、片手に湯気の立つ食べ物を持って、少しだけ千鳥足でのん気そうな顔で歩いてきた。
夢乃の全身に冷や汗が流れた。体はがちがちに固まってしまった。この場から消え去りたいと思った。芹澤を見るためにやってきたにもかかわらず、芹澤の姿を眺めることは恐怖だった。
芹澤がこちらを気づかないことを願った。同時にこちらに気づいて話しかけてくれることも願っていた。

 夢乃は目をつぶってしまった。堪えられなかった。芹澤を、そして芹澤を待ち伏せした自分を直視できなかった。硬く目を閉じて、顔をぐちゃぐちゃにしかめた。ヘッドホンから聴こえるスティングの声は遥か遠くで流れているかのように感じられた。

夢乃が目を開いたときには、もう通りには誰もいなかった。芹澤は電話ボックスの人影に気づかずに自分の部屋に帰っていったようであった。見上げると二階の芹澤の部屋に明かりがついていた。
電話ボックスのドアを蹴飛ばすと、夢乃は走り出した。一秒でもこの場所にいたくなかった。こんなに必死で走ったことは、中学校以来だと思えるほど、必死で走り続けた。


 1、エビ電話

 あの人は大学のサークルの先輩でした。最初に会ったのは、私がそのサークルの部室を始めて訪れたとき。季節はもう夏になろうとしていました。大学一年の四月、五月は新しい生活に慣れるのに精一杯でサークルに入るなんて余裕がありませんでした。それと「サークル」という言葉から染み出してくる軽薄な感じのために敬遠していた部分もあるかもしれません。ちょうどその頃、ある一流大学のサークルのコンパで女性への集団的な暴行事件があったと社会的に問題になっていた時期でもあったのです。

 しかし、六月になるといつの間にか周りの人たちはサークルの仲間や語学のクラスメイトなどのそれぞれ大学での居場所を見つけていました。私はどこにも行くところがなく話す友達もいないことに気がつきました。それで淋しくなって、でも当時の私は決して淋しくなったなんてことを認めようとせず、何か新しいことをしたくなったからと言ったでしょうけれど、どこかサークルに入ろうと思いました。

 美術は高校の頃から好きだったんです。でも、たまに美術館に出かけることがあるのと、美術の授業で先生に褒められたことがあるのとくらいで。自分が絵を描いたりするのはまったく自信もないし、集団から締め付けられるのも嫌いな私は、しっかりとした美術部に入るのはやめてアート系のもう少しゆるいサークルにしようと思いました。
 入学時にもらったサークルの簡単な紹介が載せられた冊子を手がかりにして私が最初に学生会館の部室のドアを叩いたのが現代アート倶楽部でした。
学生会館は校舎から少し離れたところにある薄汚れた建物です。中に入ると、音楽サークルのものらしい練習の音が嫌でも耳に入り込んでくるし、廊 下中にビラが貼られているし、タバコの吸殻とかビールの空き缶がところどころに散らかっているし、政治的な内容の独特の大きな字体で書かれた縦看板が無造作に置かれていたりするし、女の子が一人で行くには随分勇気のいる物騒な雰囲気の場所でした。
実際、私も一回目はあんまり学生会館が胡散臭いので現代アート倶楽部の部室に着くまでに恐くなって引きかえしてしまったくらいです。

 でも次の日にもう一回勇気を出して学生会館に踏み込み、ドアを叩きました。
 中からは男の人のちょっとだけ不機嫌な声で、
「何ですか?」
 と返事がありました。私は恐る恐るドアを開けました。タバコの少し嫌な匂いが鼻をつきました。いたのは男性三人です。一人は第二外国語の授業で見かけたことのある私と同じ一年生でした。
 私の姿を見た彼らのうちの一人が、慌てた風に立ち上がりました。
「えっと、ひょっとして一年生?」
 私は黙って頷きました。そのとき立ち上がった人は安藤さん。とても親切で世話好きの先輩でした。彼は私をパイプ椅子の一つに座らせました。

 部屋の中を見回すと、リキテンシュタインとモンドリアンとビアズリーのポスターがむき出しのコンクリートの壁にメチャクチャな感じに貼られていました。あと、映画のポスターも何枚か貼ってありました。私の記憶があっていれば『アポロンの地獄』や『旅芸人の記録』があったと思います。どれもかなり昔から貼ってあるみたいで、色もくすんでボロボロです。コンクリートの部分には、代々の先輩たちが酔っ払って書いていったのでしょうか、馬鹿みたいな落書きがいくつもありました。壁は全体的にタバコのヤニで薄黒く汚れています。部屋の広さは多分十畳くらい。本棚が二つあって、これまた薄汚れた画集が何冊も並べられているのと、後は多分授業で使っていらなくなった教科書類、それとマンガが少しだけおいてありました。『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』、それと松本大洋なんかがあったと思います。もう使えそうもない古びた画材が床に置きっぱなしになっていて、注意して歩かないと踏んづけてしまいそうです。なぜかアコースティックギターとかサッカーボールも転がっていました。中央に大きなテーブルがあって、その上はウィスキーの瓶とコーヒーやビールの空缶と灰皿とノートとボールペンなどの筆記用具、CDケース、それとプリント類が無造作に置かれています。そのテーブルを種類がバラバラの椅子が取り囲んでいました。私もその椅子の一つに腰掛けたのです。
ジャズが少し大きすぎるくらいの音量でかかっていました。ジャズといっても全然ロマンチックなやつではなくて、ラッパが交通事故みたいな音を出して叫んでいるやつです。後で知ったのですが、当時の部室でかかっている音楽の選曲はほとんどあの人がしていたようです。彼の口からよく出るミュージシャンは、チャーリー・パーカーやチャールス・ミンガスやマイルス・デイビスだったので、そのときかかっていたのもそのうちのどれかだったのかもしれません。

 安藤さんはオーディオのボリュームを少し下げてから、私の向いに座りなおして机の上からプリントを一つ取り出しました。そこには「現代アート倶楽部(MAC)にようこそ」とタイトルが書かれ、サークルの簡単な説明がされていました。アート系のサークルにしては何だかセンスのないプリントだと正直ちょっと思ってしまった記憶があります。後で聞いたら、もう何年も前の先輩が作ったやつだということでした。結局、私たちも翌年にはそれを使うんですけどね。彼はそれに沿って、丁寧にサークルについて説明してくれました。
安藤さんがそのときどんな説明をしてくれたのかは今ではあまり覚えていません。年に二回、学園祭と新入生歓迎の時期にグループ展をやることや夏に合宿があることなどの話だったような気がします。安藤さんはちょっと丸顔で当時は髪の毛が長くて肩くらいまであって、人懐っこい顔で笑う人でした。彼の対応がとても親切だったので、私は次第に緊張を解いていきました。

 後の二人は最初は一緒に安藤さんの説明を聞いていました。しかし、だんだん退屈になったのかそのうち私が来る前にしていたらしい会話の続きを始めました。一人が同じ学年の土屋くんで、もう一人はあの人でした。
私は安藤さんの説明を聞いていたのだけれど、彼らの会話の断片がぽつぽつと耳に入ってきしまいます。だって、低い静かな声で、「エビ電話」という単語が連発されるのです。
 エビ電話? 最後には安藤さんの話なんてそっちのけでただ頷いているだけで、ずっと隣の会話を聞いていました。
「そう、もう本当に普通の電話。今じゃもう見かけないけどあのダイヤル式の黒い電話ね、日本のやつとはちょっとデザインが違うかもしれないけれどだいたいそんな感じなんだ。でも受話器のところだけエビなんだよね」
「エビって、どんなエビなんですか」
「そうだなぁ、エビっていうか、ロブスターだよね。大きなハサミを持っているやつ。大きさもちょうど受話器と同じくらい。受話器がエビっていうか受話器にエビがのっかってるような感じだったかな。エビ電話は耳の方にくる側がエビの顔とハサミで、口元に来る側が尾っぽになっているんだ」
「すごいですねぇ」
「生物と機械の組み合わせっていうのは、とても性的なイメージを持っているよね。『裸のランチ』にゴキブリタイプライターが出てきたのを覚えているかな。あれは生理的な嫌悪感を与えてくるデザインだったけれど、生理的な嫌悪をもたらすものって言うのは案外性的なニュアンスがあるものが多いんだ。エビ電話はあんまり嫌悪感はないけれど性的なニュアンスがあるっていうのはそうだと思う。尾っぽ、つまりお尻の部分が話す人の口元にくるっていうのもわざとなんじゃないかな。そしてゴキブリタイプライターと違うのは、食にも関わっているってこと。真っ赤なんだよ。つまり、のっかっているエビはゆでられた後なんだ。生きてるロブスターってあんま赤くないよね。だからエビ電話のエビは食べられるエビ。硬くて厳つい甲殻の中に隠された白くて柔らかい食べられる部分、そしてその下の無機質な機械。こうした組み合わせでエビ電話は出来ているんだ。性的なイメージと食のイメージ、この二つは非常に複雑に絡み合っていそうだよね。」
 私は吹き出してしまいました。だって、そんな間抜けなオブジェについて真面目に話しているんですから。電話の受話器がエビでそこから性的なニュアンスを感じ取るなんてこの人たちは何の話してるんだろうと思いました。
 笑った私を見て、あの人はこちらを向きました。痩せていて目が大きくて、黒いキャップを被っていました。その大きな目で見つめられたとき私は笑ったことを怒られるのかと思い少し身構えてしまいました。しかし、あの人は怒るわけでもなく、でも一緒に笑ってくれるわけでもなく、なぜだかちょっと居心地の悪そうな顔をしてしばらく私を見つめて、それからまた土屋くんの方に向き直って話の続きに戻っていきました。
 そのときのあの人の顔が、それから私の頭にこびりついてなかなか離れませんでした。困ったような淋しいような、こちらを憐れむような、けれど自信のなさそうな、どう表現しても何か違う顔でした。でも私はこの人ともっと話をしたいと思いました。しかし、最初の日は結局、安藤さんの説明を聞いただけで、六時過ぎには部室を出ました。
 ちなみに後で土屋くんに聞いたところでは、エビ電話はダリの作品だったんですね。

 Ⅱ、メールを送ること

 夢乃にとって昼間は何もすることのない時間になっていた。といっても、起きるのはいつも午後になってからであった。バイトを辞めたため、外へ出る理由がなかった。テレビを見たり、近所に買い物に出かけたりするだけだった。貯金を切り崩しての生活だった。バイトをしていたときには月々の食費を親に払っていたが、最近ではそれもしていない。もちろんまとまった蓄えがあるわけではなく、そろそろまた働き始めなければならないことは夢乃自身がよく分かっていた。
 母親は何もしていないのなら結婚してしまいなさいと夢乃に言ってくる。具体的な見合いを持ってくることもあった。しかし、他の男のことを考えることなど夢乃にはできなかった。
 働く気は起きなかった。働かなくてはならないとはいつも思っていた。しかし、それを現実に移そうとすると、芹澤に別れを告げられた直後に感じた大きな無力感が襲ってきた。何をする気も起きなくなった。芹澤といられないなら、何をしても意味がない。芹澤と過ごせない人生にどんな価値があるのだろう。無力感の後では狂おしく芹澤を求める蛇がまた暴れだそうとするのだった。

 一人の夜は夢乃を淋しさが支配した。以前ならこんな淋しい夜は芹澤にメールが出来たのにと思うとよけいにつらくなった。失恋は半年で治ると誰かが言っていたのを夢乃は聞いたことがあった。しかし、半年が過ぎても芹澤の思い出は消えていかなかった。
 たまに、芹澤と付き合っていた頃のことをはっきりと正確に思い浮かべられるときがあった。そんなときが夢乃にとって最も幸せなときだった。
芹澤の好きだった音楽や絵画や映画の中にかすかに芹澤の存在を感じ、夢乃は思い出に酔った。しかし、そうした幸福は束の間のもので、すぐにまたもう芹澤に会うことが出来ないという恐怖に支配された。
他の男を探そう、芹澤でなければならない理由などないと何度も自分に言い聞かせても、夢乃のうちに潜む蛇は納得してはくれなかった。

 夢乃は何か新しいことを始めようと新しくパソコンを買った。しかし、いざ買ってみたはいいものの特にこれといってやりたいことはなかった。結局、たまに土屋から来るメールに返事を書くこと以外に夢乃のパソコンは役に立っていなかった。
しかし土屋とのメールのやり取りの中で思い浮かでくるのはやはり芹澤のことだった。芹澤は大学時代からパソコンでグラフィックソフトを使ってコラージュなどを製作していた。付き合っているとき芹澤のホームページの話を聞き、何度かアクセスしてみたことがあった。しかし、途中で夢乃の家のパソコンが壊れて中のデータも取り出せなくなってしまい、サイトの名前も難しい横文字で忘れてしまったため、たどり着けなくなっていた。夢乃は土屋にメールで芹澤のサイトのアドレスを聞いた。芹澤との関係を知らない土屋に怪しまれないように、「先輩たちの作ったホームページのURLを教えてよ」と書いた。夢乃の計算どおり土屋は何人かの先輩のサイトとともに芹澤のページも教えてくれた。
何となくの後ろめたさを感じながら、夢乃は久しぶりにそのURLをクリックした。それは日食の写真を背景にした簡素なページだった。コンテンツは主に芹澤の作ったコラージュと簡単な美術展覧会の感想だったが、更新は半年以上されていなかった。恐らく社会人になってやる気がうせたのだろうと夢乃は思った。

 しばらく芹澤の書いた美術展覧会の感想を読んでいた。古い感想のいくつかは夢乃とともに行ったものだった。そのことが、夢乃にとっては嬉しかった。自分と芹澤が共に時を過ごした痕跡は確かに残っているんだと感じた。アップされた作品のいくつかも大学時代の学園祭の展示でプリントアウトされたものを見たことがあった。夢乃は久しぶりに芹澤の部屋へ訪れたようなそんな気がした。そしてそれは、芹澤のいないすきに部屋に忍び込む陰気な喜びでもあった。

 夢乃は、HPの右隅に表示された〝Mail to〟の文字に目を留めた。
ここをクリックすれば、芹澤にメールが出せる。自分の気持ちを芹澤に伝えることができる。電話をしても芹澤は出なかった。そして携帯にメールをしても返事をくれなかった。たとえパソコンにメールをしても芹澤は返事をくれないかもしれないことは容易に想像できた。しかし、それでも新しいツールで芹澤に話しかけることが出来るという誘惑は大きかった。携帯よりもずっと長い文を書くことが出来る。

 夢乃は出す出さないは後で考えることにして、とりあえずメールを書いてみることにした。
どのようなメールにするか悩んだ。現実的な問題として今更芹澤と復縁できるとは思っていなかった。ただ、芹澤が自分の話を聞いてくれればそれでいいと思った。淋しいけれど元気でやっていますというメールを書くことにした。簡単な近況報告と、別れてからもう半年がたつということ、そちらはどんな日々を送っていますかという質問、最近見に行ったバルデュスの展覧会が面白かったし芹澤も気に入るのではないかということ、それらを夢乃は出来るだけ淡々とした文章で書いていった。

 書き終わってみると、出すか出さないかはすでに決定していた。出さずにはいられなかった。迷わず送信をクリックした。きっと返信は来ない、期待してはいけないと夢乃は頭の中で言い聞かせていた。
出し終わってから、これは癖になりそうだと夢乃は思った。淋しくなったときに何通もメールを書いてしまうかもしれない。しかし、向こうにとってマンションで待ち伏せるよりもメールの方がずっとましだという開き直った気持ちもあった。

 高揚する心を落ち着かせるために、土屋への返信をした。土屋はそのうち飲みにでも行こうと誘ってきていた。性的な意味のある誘いなのだろうかそれとも単に大学時代の友人としての誘いなのだろうかとしばしキーボードを叩く指を止めて考えた。しかし、夢乃にとってそれはどうでもいいことにも思えた。「そうだね、飲みに行きたいね」と同意しておいたが、具体的な日時については触れなかった。


2、いんちきアーティストたち

 高校生くらいからなぜだか私はあんまり人付き合いが苦手みたいだと気が付きました。他人と何を話したらいいのかよく分からないんです。そして、クラスメイトたちが何かについて話していても、それに少しも関心が持てないんです。テレビドラマとかゲームとかファッションとか男の子の話とか。聞いていても全然面白くないし、ただ相槌を打っているばっかりじゃ向こうもつまらないだろうし、結局気がつくといつも一人になってしまうんです。一人でいることが嫌なわけではないのだけれど、いつも一人でいる子だと思われることは何だか嫌なのでした。

 けれど、現代アート倶楽部の人たちとは美術という共通の趣味の話が出来るせいか、それともみんな私のように人付き合いが得意ではない人が多かったせいか、部室にいても気詰まりな感じを味合わずにすみました。
先輩たちはむしろ、「周りのやつらはバカばっかりだぜ」というような考え方をしている人たちだったです。あの人もそうだったと思います。私と逆なんですね。周りの人たちに合わせられないのを、私の場合は私がどうかしているんだと思って落ち込んだりしてしまうけれど、先輩たちは周りの人たちがダメなやつらだからいけないんだって開き直るんです。そんな考え方も出来るんだって、ちょっと驚きでした。私もそう思えればいいと思ったこともありました。でも、いざ集団の中に入ってしまうとなかなか上手くはいきませんけれど。

 そんな先輩たちも、今冷静になった私の目からみて、そんなに優秀な芸術家じゃありませんでした。口ばっかりなんです。口では大きなことを言ってるけれど、実際に出来てくる作品は大したことなかったり、何が言いたいのか誰にも分からなくて、「これはこういうことなんだ」って自分で一時間くらい説明しなきゃいけないような作品だったりするんです。それならまだいい方で、安藤さんなんかは最後の方はほとんど自分の作品を満足に完成さえさせていなかったんじゃないのかな。年に二回の展覧会も全員が出すわけではなく作品が完成した人だけで、作品点数が足りないときには去年の作品を無理矢理出したりすることもありました。

 サークル員は全体で三十人くらいいたでしょうか。でも籍だけ置いてあってほとんど来なかったり、飲み会のときだけ顔を出したりする人もいたり、誰も見たことないけれどなぜか名簿には載っているみたいな人もいたりして、実際に活動しているのは半分以下の十人前後。直接に運営に関わっているのはそのうちの三、四人という小さな集団でした。私が一年で入学したとき、あの人は二年生だったのですが、その上の代にちゃんとした人がいなかったらしく、二年生たちがサークルを動かしていました。安藤さんが部長で、あの人は会計だか副部長だかそんな役職についていたと思います。まぁ、展示会の前後に忙しくなることを除けば、それ以外にすることというと、授業がある日は毎日部室にやってきて、うだうだ美術についてのうんちくを語って、それでビールや安いウィスキーをがばがばと飲むくらいだったんですけれどね。
実際、みんなよく飲んでましたよ、来る日も来る日も。男の人たちはもう大学に来た日は必ずと言っていいほど飲んでたんじゃないでしょうか。私は自宅生で泊まると親が怒ったので十時過ぎには帰っていましたが、残った人たちは徹夜で飲むらしく、次の日の午前中に部室に行くと、前の日に私が帰ったときと同じポジッション取りのまま机に突っ伏してみんな寝ていることなんかもよくありました。徹夜で飲んだり何日も家に帰らなくても全然平気な男の人たちが羨ましい反面、彼らに女はすぐに帰ってしまうし少しも無茶をしようとしないというような批判をされると、女の立場を何にも分かっていないのねと猛烈に腹が立ったりしました。やりたい放題の人生をおくらないと芸術が分からないみたいな変な信仰みたいなのがあって、みんなそれで頑張って毎日飲んで暴れていたのかもしれませんよね。と言っても、大学の学生会館でのやりたい放題なんてたかが知れているものだったのですが。

 でも、そんな感じで毎日飲んで騒いでいて、おまけに絵画とか音楽とかの話をさせると私なんかよりもずっと詳しくて、そんな先輩たちを私も土屋くんとかも憧れを抱いて見ていたんです。

 土屋くんとはわりとすぐに仲良くなれました。部室で何度か会った後で、語学の授業のときに彼から話しかけてきました。土屋くんは大人しい人でした。部室でもあんまり自分の意見を言えないタイプです。私も議論するのが得意なわけではないですが、土屋くんはそれ以上だったかもしれません。そのせいで、先輩たちからは必要以上に過小評価されていたように思います。土屋くんは土屋くんなりに、頑張って色々本を読んだり美術館に行ったりしていたのですが。それと、どことなく重たい風貌だったんです。太っているとかじゃなくて、オタクっぽいのとちょっと近い感じで、どことなく重たくて陰鬱な風貌。そのせいで、軽視されているというのもあったかもしれません。
でも私と二人になると彼はよく喋ってくれました。土屋くんも自宅生でそれに厳しい家庭らしくて、徹夜で飲むことはたまにしかありませんでした。そのためよく土屋くんと二人で夜に部室を出て駅まで帰ることがありました。彼は、今の先輩の話はこういうことなんだとか、あの人はこう言ったけれど、本当はこうなんじゃないかなとか、私の前だといきなり雄弁になって話だしたりしていました。
そういうのってちょっと嬉しいじゃないですか。普段は無口な人が、私の前だとよく話してくれるのとかって。だから私も土屋くんの話をよく聞いていました。
そんなわけで、たまに土屋くんと私はあやしいとからかわれることもあったっけな。土屋くんは恥ずかしそうな顔してうつむいたり、たまにすごく怒ったりしてしまいました。私は全然平気で、そんなことないからって普通に否定してたんですけどね。
それに、やっぱり何だかんだいっても、土屋くんは恋愛の対象という感じではなかったですから。悪い人じゃないのだけれど、土屋くんと話していてドキドキもしないし、彼とどうにかなってしまうことも全然想像できないし。

 色々な人がいて色々なことがあったけれど、現代アート倶楽部での時間は私にとって楽しいものでした。けれど、他の多くの私と同じ代の女の子たちがこのサークルをやめていった中で私だけ残ったのは、あの人がいたからということが一番大きな理由だったのだと思います。


Ⅲ、退屈なデート

 芹澤からメールの返事は夢乃の予想通り来なかった。そして、夢乃は芹澤へメールを書くことにはまっていった。芹澤に話しかけたいことは次から次へとわいてきた。夢乃は毎日のようにパソコンに向かって長いメールを書いた。
芹澤へメールを書くことは、夢乃にとって痛み止めの注射のようなものであった。メールを書いてそれを送るその間だけは芹澤との別れのつらさが和らぐように感じていた。
 次第に返事は全く期待しないようになっていった。メールの内容はより感情的なものへと変っていった。芹澤のいない毎日の恐ろしさ、突然別れを告げた芹澤への恨み、そして未だに消えることのない愛情について、夢乃は書き続けた。あまり芹澤に迷惑をかけないようにと、夢乃は一日一通という制限を自分の中で設けていた。しかし、あまりに淋しい夜にはその規則を守れないこともあった。
内面にこもっていた芹澤への愛情が少しずつ放出されていくようにも感じられた。その逆に、メールを書くことによって、芹澤への思いを増幅させているようにも感じられた。どちらが正しいのは夢乃自身にも分からなかった。

「飲みに行きたいね」と書いて以来土屋からのメールには絶えず具体的な日程の調整をしようとする文章が含まれていた。夢乃はそれを何度かはぐらかした。しかし、土屋は引き下がらずに何度も「いつが暇なのか」と聞いてきた。夢乃は土屋が自分のことを好きなのだと気がついた。何度も相手に近づこうとしてそのたびにあしらわれている姿は、まるで芹澤に対しての自分のようだと感じられた。土屋が少し哀れに思えた。夢乃は「平日の夜はいつでも暇だよ」と返事を書いた。

 夢乃は布団に寝転がりながら土屋について考えてみた。土屋はいつから私のことを好きになったのだろう? 大学一年の頃のような気もしたし、最近のような気もした。
 土屋は同じサークルで知り合った頃から絶えず夢乃に優しくしてくれた。そうした優しさが異性としての関心を背景を持つものだったと考えることは、友人の少ない夢乃にとって少し複雑な心境にさせられることであった。
夢乃は土屋と男女の中になることを想像してみた。特に具体的な不満はなかった。確かに見た目は地味だったが、夢乃にとっては派手すぎるよりも地味なほうがよかった。土屋は優しく、そして教養もある人であった。しかし、何かが違っていた。何かが足りなかった。その土屋にない何かを芹澤は確かに持っているように思った。

 金曜の夜、夢乃の予想に反して土屋は待ち合わせの時間に少しだけ遅れて現れた。たった五分の遅刻であったが、彼は頭を下げて何度も謝った。スーツ姿だった。

「何、土屋くんスーツ似合うじゃん。昔はいつもだっさい服着てたけど、スーツを着ると何だかパリッとして見えるねえ」
「だっさい格好していたかなぁ」
「それを自分で気がつかないところが駄目なとこなの」
「うるさいな、駄目じゃないから、駄目じゃ」

 土屋は歩き出した。二人は現代アート倶楽部の他の部員たちの近況について噂話をした。フリーターになったもの、就職をしたもの、何をしているのか分からないもの。土屋は夢乃が行かなかった今年の学園祭の話をした。OBとして学園祭に訪問するのは、なぜか照れくさいと土屋は言った。

 二人は学生時代よりは少しだけ小綺麗な居酒屋に入った。そしてビールを頼んだ。夢乃は土屋に仕事の話を聞いた。土屋は嬉しそうに上司の愚痴をこぼしていた。酒に酔いながら夢乃はそれをぼんやりと聞いていた。そして、好きな男とそうではない男とは何が違うのだろうと考えていた。目の前にいる、恐らく自分に好意を持っているように思われる男は、決して嫌な男ではない、しかし自分の心は全く動かない。
 夢乃は退屈を感じ始めた。この男と二人で過ごす時間にはどんな価値があるのだろうかと思った。芹澤との関係が上手くいっているときには、土屋と話していてもそれなりに楽しかった。けれども芹澤を失い一人になった夢乃にとっては、土屋はどこまでもつまらない男だった。別れる直前の芹澤は、自分と話しているときにこんな風な退屈さを感じていたのかもしれないという気がしていた。

「どうしたの、ちょっと大人しいじゃん」
「ん? 何でもないよ」
「夢乃さんって、たまにそういうときあるよね、疲れてるのかな」
「疲れてるはずないってば。仕事してないもん」


3、恋に気づくとき

 恋の始まる瞬間って、分かるときがあるものなのでしょうか。私はあんまり人を好きになれないみたいで、今までに好きになった男の人もあの人をいれて三人くらいなのだけれど、どれもいつ恋愛が始まったか、いつ好きになったのかはよく思い出せません。一度好きになってしまうと、そのときには何にも感じでいなかったはずの会ったばかりの頃の思い出まで眩しいものに変ってしまいます。
 最初に部室で見たときからずっとあの人のことを好きだったのか、それとも部室に足を運ぶようになり次第に魅かれていったのか。今の私の頭の中ではあの人に関しての記憶は何もかもスペシャルでとても冷静に当時の心境を語るなんて出来そうもありません。
 でも気がついたらあの人に会うために部室に通っている自分がいたんです。そのことに気がついた瞬間は覚えています。私は彼の一週間の部室に来る予定を大体把握していたんですね。他の人のことも何となくは分かっていたんだけれど。ある日いつものように部室へ向かっている途中で、今日は何曜日だから、誰と誰と誰あたりが部室にいるかなぁと考えていました。そういう予想って当たるんです。暇なときに部室にいる人って大抵決まっていたんで。でもその日はドアを開けると私の予想した中で彼だけがいなかった。そのことで、いっぺんに部室の空間がつまらないものに感じたんです。あぁ、今日は来なければよかった、家に帰ってゆっくりお風呂でも入りたいって。ドアを開ける前は、心を弾ませるとまで言ったら言い過ぎかもしれないですが、楽しみにして歩いてきたんです。でもドアを開けた瞬間、急に私の中の温度が冷めていってしまった。
 そのとき、私はあの人のことが好きだから部室に来ているんだって初めて気がついたんです。恋に気付くことは嬉しいような悲しいような恐いような恥ずかしいような、色々なものがごちゃ混ぜになった大きな衝撃でした。私はちょっと動揺して、その日は部室での会話もさっぱり頭に入らずに、安藤さんとかに「今日どうかしてるんじゃないの? 具合悪そうだよ」と心配されたくらいです。

私はあの人のことが好きなんだ、
 私はあの人のことが好きなんだ、
 私はあの人のことが好きなんだ、

 そればっかりがぐるぐると頭を駆け巡っていました。そう気がついて以来、もっともっと彼のことを意識するようになりました。
「恋愛っていうのは、本当はこれが恋愛だって気がついた瞬間に始まるものなんだよ」というのは何かのときに土屋くんが言った言葉です。土屋くんは見た目に似合わずたまにロマンチックなことを言うんです。それが本当かどうかは分からないですが、自分のあの人に対しての感情に気がついてから、私の気持ちは加速度をつけて大きく膨れ上がっていきました。
 今まで以上にあの人が部室に来る曜日や時間に敏感になって、私はできるだけその時間に合わせて部室に行くようになりました。大勢で会話しているときにはちらちらとあの人の様子を伺ってしまうようになりました。けれど、二人で話すことになったりすると、恥ずかしくってドキドキして満足に喋れなくなってしまうんです。私はもっと知的に話すことが出来てもっと面白いことだって話せるはずなのに、彼が相手になると何だか恥ずかしくて頭が真っ白になって、無口で不機嫌な感じになってしまうんです。そうなるのが嫌だから逆に飲み会とかでは彼の正面には座らないようにしたりして、馬鹿みたいですよね、話したいくせに。

 彼は、色々なことを知っていて論理的な人だったですけれど、それほどガンガン議論を挑んだりするタイプではありませんでした。どちらかというと聞き手に回るのが上手い人です。でもここってときにはぴったりな冷静な意見を言ってくれるんです。私もあんな風に会話に参加できたらいいなって思うくらいに、他人の会話をしっかりと咀嚼して自分のものにしてまとめたりするのが得意な人でした。私の軽薄で感情的な意見もじっくりと聞いてくれて、時々は厳しいけれど、それでもはっとさせられるような意見を言ってくれたりします。普段でさえ言うことが支離滅裂な私なのに彼の前では緊張してさらにわけが分からなくなっているにもかかわらず、あの人は優しく聞いて自分のことみたいに考えてくれました。

 私はあの人がよく来る曜日にだけ、部室へ訪れるようになりました。いつも頭の中で次にあの人に会えるのは何曜日だろうって指折り数えていました。あの人がいいって言っていた画家はすぐに図書館で調べたりしました。毎夜あの人が夢に出てきますようにと願いながら眠りにつきました。

 あの人は、キリコとデルヴォーが好きだったみたいです。キリコのことはしばしば話題に上りました。ブラック・ジャックのライバルのドクター・キリコは絶対にジョルジュ・デ・キリコから来ているって主張していたなぁ。周りの人は、本当かよって顔していましたけれど。でも、私もその通りかもしれないって思いますよ。だって、手塚治虫はシュールレアリスムとか好きそうですから。マグリットは空の色が鮮やか過ぎるからあまり好きではないらしかったです。私はキリコの薄暗い空よりもマグリットの青空の方が好きなんだけれど。
 あとはクリムトとかビアズリーの挿絵とか、そんな世紀末っぽい絵の話をあの人はよくしていました。
 印象派は嫌いだって言っていたんですけれど、私はあの人はちゃんと印象派の絵を見てないんじゃないかなって思ってます。人気がありすぎるから大衆的というイメージを持ってしまって、ちょっとひねくれているあの人は最初から毛嫌いしちゃったんだと思います。私自身は印象派が大好き。見ていて、色彩と同時に心の中の色々なものが解放されていくようなそんな気分がします。特にシニャックの描点画なんかが、お気に入りです。
 ピカソは私もあの人も一致して好きな画家でした。サークルの何人かで一緒に上野のピカソ展に行ったことがありましたよ。私はあの人の後ろばっかりついて歩いていました。あのとき帰りに売店で買った「読書する女」がデザインされた缶バッチは今でも私の鞄についています。


 Ⅳ、執着の消えるとき

 夢乃は、土屋と十一時前に別れた。土屋は笑って「楽しかったよ、また遊ぼうね」と言った。そのことが夢乃には心苦しく感じた。ぼんやりと電車に乗り、そして外の景色を眺めていた。

  違う違う違う違う違う違う
  私がしたいのはこんなことじゃない

 多分普通なら学生時代に親しかった友人と半年振りくらいで会って飲むことは楽しいことなのだろうと思った。しかし夢乃はそれを楽しむことが出来ない。何かが欠けている、人生を楽しむための何かが欠けてしまった。何かとは考えるまでもなかった。芹澤しかいない。夢乃の中の蛇がまた大きくうねりながら動き出した。夢乃は電車の手すりをぐっと掴んだ。蛇はゆっくりゆっくりと体中を這い回ってそして、キシキシと内臓や骨を絞め始めた。全身が砕けるような気がした。頭も割れるように痛かった。
 夢乃は思わず開いたドアからホームへ下りてしまった。そして頭を抱えてベンチに座り込んだ。周りの客たちは酔っ払いでも見るような目で夢乃を一瞥して、それぞれ電車に乗っていった。

 また芹澤のマンションに行くしかないと思った。それ以外にするべきことを思いつかなかった。夢乃は重い体を引き摺って反対側のホームへと移動した。
 もう終電が近い。夢乃は芹澤が今何をしているのだろうかと想像した。もう家に帰っているのだろうか、それとも同僚と飲んでいるのだろうか。あるいは恋人との時間を過ごしているのだろうか。芹澤は就職して一人暮らしをするようになった。夢乃も金曜の夜には何度も芹澤の部屋に泊まりに行ったものだった。芹澤は夢乃が芹澤の部屋に私物を置くのを嫌がったが、夢乃は歯ブラシやらマグカップやらタオルやらシャンプーやら、様々な自分の持ち物を芹澤の部屋に持ち込んだ。あの私の持ち物たちはみんな捨てられてしまったのだろうか。
 
 この日も外は寒かった。夢乃はコンビニで使い捨てカイロと温かいペットボトルの紅茶を買って芹澤のマンションへと向かった。暗い夜道であったが、恐くはなかった。恐いのは自分の中に潜む蛇だけだった。
 芹澤がもう帰っているとすると、この間のように帰宅する姿を見ることは出来ない。それでも芹澤のマンションへと行く意味があるのだろうかと自問した。芹澤の姿は見られないかもしれない。それで、蛇は満足してくれるのだろうか。

 マンションに着くと芹澤の部屋の窓の明かりがついているのがすぐに分かった。芹澤は帰って来ているのだ。夢乃の心臓は高鳴っていった。

あそこにあの人がいる。今でもちゃんと動いて考えて話して笑って、昔と少しも変らず生きているあの人がいる。思い出じゃない、現実のあの人がいる。

 窓が開くことを夢乃は願った。彼が窓を開けてその姿を見せてくれたら、今夜はこれで帰れる。一目だけでいいから姿が見たいと思った。路上で立ち尽くすのは寒すぎるし不信に思われてしまう気がして夢乃は前と同じように電話ボックスに入った。

 電話ボックスの透明な壁に寄りかかりながら芹澤の部屋の窓を見上げて、夢乃は執着について考えた。執着が消えるときというのはどんなときなのだろう。なぜ自分はこんなにも芹澤に執着しなければならないのだろうか。男なら芹澤だけではなく沢山いる。なぜその中で芹澤でなければならず、こんなにもこだわらなければならないのだろうか。夢乃は子どもの頃に執着したおもちゃについて思い返していた。夢乃は古いおもちゃを捨てられない子だった。いくら汚くなったり手が取れかけたりしても、お気に入りだった人形は手放さなかった。祖母に買ってもらった、中途半端に東洋的な顔をしたフランス人形だった。母親に「こんなに汚くなっちゃったんだから、もう捨てなさいよ。今度新しいの買ってあげるから」と言われても、頑固にその汚い人形に固執し続けた。固執し続けた思い出までは残っている。しかし、今の夢乃はそんな古い人形は持っていないし、その人形がないことで不安を覚えたりはしていない。だとすると、あの人形に対する自分の執着はどこかで消えたのだ。あれほど強固に私を捉えて離さなかった執着もいつの間にか消えていくものだったのだ。
 夢乃は自分の芹澤に対しての執着が消える日のことを想像した。しかし、芹澤に対して全く何も感じなくなる自分を許せないと思った。自分ではないような気がした。忘れたくない、芹澤に対しての愛情は決して忘れたくない。しかし、このまま苦しみ続けることにも、耐えられそうになかった。

 突然窓が開いた。夢乃は電話ボックスから飛び出した。見えたのは影だけだった。男の影が干してあったタオルを取り込み、すぐに引っ込んでしまった。一瞬の出来事だった。


4、恋に恋する日々

 私は大学に入るまで、男の人と付き合ったことはありませんでした。好きな人がいなかったわけではありません。でもいつも片思いでした。

 中学の頃、すごく好きな男の子がいたけれど、毎日じっとその人のことを見ているだけ。それ以上何にも出来ません。クラスメイトの中にはもう男の人と付き合ったりしている人たちがいましたけれど、私はとてもそんなこと考えられませんでした。バレンタインデーにチョコレートをあげることすら恥ずかしくて出来ません。恋愛をすると頭がおかしくなるくらいに相手のことばっかり考えて、それでいて相手の前に出ると何にも出来なくなっちゃうのはこの頃からなんですね。

 高校生になると、私は自分が周りの人と違うと考えるようになってきました。周りの女子たちが不愉快で仕方なく思えてきました。いつも下品に男子の話をするか、おばさんみたいな買い物の話をするばっかりで、私には少しも楽しくないって。クラスメイトの女子たちが集まって男子の話をしている場所に同席することを私は嫌いました。誰が誰を好きだとか、誰と誰が付き合っているとか、誰と誰はもうセックスまでしてしまったとか、そんなことを私は全然聞きたくありませんでした。何でそんな他人の話をわざわざ皆で騒ぎ立てるのは少しも理解できませんでした。
もっと知的な会話がしたい、もっと音楽とか絵画とかそんなものについての会話がしたいと私は思っていました。そんなことを思っていながら、私自身は大して音楽や絵画に詳しいわけじゃなかったんですけれど。

 そんな私ですから、男の子との縁もありませんでした。私に合う男子がいるとも思えませんでした。同年代の男子はみんな子どもっぽくて品がなくて、何かっていうとエッチな話ばっかりしていて。この当時私が好きだったのは美術の先生でした。先生は三十代で結婚もしていたみたいですけれど、私は密かに慕っていました。もちろんそれだけです。その先生に告白したわけでもありませんし、付きまとったわけでもありません。むしろ、あんまり先生のことが気になるからって、美術の時間をさぼったりしてしまうような子でした。何やってるんですかねぇ、まったく。

 そんな高校時代の恋愛の延長で、私はあの人に自分の気持ちを告げることが出来ませんでした。あの人は頭もいいし、本当は優しいし、顔立ちだって悪くないから、絶対に彼女がいると最初から決め付けていましたし。
 それに恐がっていたのもあるかもしれません。自分が本当に誰かと付き合ったり、愛情を表現する言葉を伝え合ったり、それからセックスをしたり、そんな風になることが恐かったのかもしれません。自分じゃなくなってしまうみたいで。大学生にもなって何でそんなことを思ってたんでしょうね。やっぱり私は遅手のようです。生理が始まるのは早かったんだけど。ってそれは関係ないのかな。

 だから相変らず中学生みたいに、あの人と結ばれることを想像するだけでした。あの人との時間を空想する癖がつくともうやめられなくなってしまいました。ちょっとでも時間があると、すぐにあの人のことを考えてしまいます。電車の中でも授業中でも、歩いていても友達と一緒のときも。変な話だけれど、おかげで授業が短く感じられるようになったほどです。あの人のことを考えるだけで、全身を幸せな空気が包んでしまいます。

 街角であの人とばったり出会ったり、部室で二人きりになったり、私の取っている授業を実はあの人も取っていてノートを貸してくれと頼まれたり、私の空想は羽が生えたようにどんどん飛び回っていきます。あの人から愛情を告げられた私はすぐには応じられず戸惑うの、そんな私を見たあの人は我慢できずにぎゅっと私を抱きすくめてキスをする、それが彼と私の最初のキスで、そして私の最初のキス。少女マンガですよね、これじゃ。でも今思い返すと、そういう風に恋に恋していた時間はとても貴重な、そして幸福なものだったと思います。だから大学生にもなって幼いとは思っても、無駄だったとか馬鹿だったとは思いません。これも大切な私の思い出の一つです。


Ⅴ、噂話

  芹澤と安藤は、大学時代によく行った狭い居酒屋で飲んでいた。昔話やそれぞれの近況を語り合っていた。留年して芹澤より一年遅れで卒業した安藤はフリーターだった。安藤は酒が回って普段以上に陽気な調子になっていた。
「最近さぁ、土屋と飲みに行ったんだよね。やつは昔から老け顔だったけど、スーツ着たらもうまるっきりおっさんだよな」
 安藤は焼き鳥を頬張りながら話す。
「そしたらさぁ、やつがこの間夢乃ちゃんと二人で飲みに行ったんだって、おいおいちょっと何だかこれ面白いことになってきそうだぜ」
 夢乃の名前を聞き、芹澤は軽いプレッシャーを感じる。未だに毎日のように夢乃は芹澤のパソコンに長いメールを送ってきていた。
「土屋はやっぱり夢乃さんのこと好きだったのかな?」
 芹澤が以前夢乃と付き合っていたことを安藤や土屋は知らなかった。
「そう、やつはポロッと夢乃ちゃんと飲みに行ったってことをもらしちゃったんだけど、そこを見逃す俺じゃないからね。どんどんほじくり返して吐かせたよ。土屋は一年のときからずっと夢乃ちゃんのこと好きだったんだって」
「マジで? そんなら何で学生時代に口説かなかったの?」
「何でだろうねぇ、もともとウジウジしたやつだからさぁ、言えなかったんじゃないの」
「そんなもんなのかな。でもあの二人怪しいって噂にはなってたよね」

「なってたなってた。でもただ単にからかいたかっただけで、俺は内心ではありえねぇだろって思ってたよ。だって、夢乃ちゃん可愛いから、土屋にはもったいない感じじゃん」
 芹澤は苦笑する。
「それ土屋に失礼じゃないの。お前散々講義のノートとか借りてたくせに」
 芹澤の心は奇妙に揺れ動いた。自分が付き合っていた女が他の男と飲みに行く、嫉妬に似た感情は確かに存在してた。しかしまた一方で、これで夢乃の気持ちが自分から離れていってくれるという安堵もあった。早く昔の男を忘れて、新しい毎日を送って欲しい、それが芹澤にとっても夢乃にとっても最もよいのだと思っていることもまた事実だった。
 メールももう来なくなるかもしれない。それはほっとする反面少しだけ淋しいようでもあった。
 どちらにしても、芹澤は夢乃の話題はやめようと思った。
「そうそう、この間、バルデュス展を見に行ったんだよ。なかなかよかった」


 5、豚の品評会

 あの人に思いを告げられないまま、季節は巡ってまた春を迎えました。私は大学二年生になりました。ろくな絵もかけず、絵画の知識だって全然ない、こんなに頼りない私が先輩になるなんて信じられないと思ったのを覚えています。でも時間は容赦なく流れていきます、いつまでも私を十八歳にしておいてはくれません。
 先輩になるのは何か嫌でした。一番下で色んな人に構ってもらいたかったんでしょうか。自分が子どもだから誰かの世話をするのが嫌だったんでしょうか。でも、四月の始業式やオリエンテーションの前後には部室で待っていてやってきた新入生にサークルの説明をしたり、新入生たちにビラをまいたりする手伝いをしました。
 去年の私のように不安を感じながらやってきた人たちに、覚束ないながらも現代アート倶楽部についての説明をしていきました。そのときに私に説明してくれた安藤さんのことを改めてすごいなぁって思い返したりしていました。私は口下手だし、初対面の人と話すのは得意じゃないし、自分で話していて何言っているんだか分からなくなっちゃったりするんですよね。
 でも、新入生歓迎の時期にはいつもサークルに人が沢山いて、もちろんあの人もいて、みんなでわいわい騒いで夜は毎日飲みに行ったりして、新入生の勧誘ではなくて、そっちの方が楽しくて毎日大学に出かけていました。
 けれど、男の部員たちは、訪れた一年生の女の子が去った後に品評をするんです。あの子は可愛かっただの、あの子は巨乳だっただの、網タイツがセクシーだっただの、逆にあの子はキュビズム的な顔だっただの、ルシアン・フロイトの裸婦のような体型だったの、田口トモロヲに似ていただの。
そういう話を聞くのは正直、不愉快な気がしました。きっとみんな不安を感じてそれでも何か新しいことをしたくて頑張って部室のドアを叩いたのに、そんな豚の品評会みたいに言われてしまって。それに私自身も去年どんなことを言われていたのかって思うと恐くなってきてしまいます。
もちろん男の子だけではなくて、女の子が多いサークルでは逆に新入生の男の子がそうした品評を受けてしまうのかもしれないので、男女差別ではないのかもしれないけれど、現代アート倶楽部の人たちにはそんなことをして欲しくはなかったんです。
 そして恐らく私を最も淋しい気持ちにさせたのは、他の人ならまだしもあの人もそういう話を喜んでしていたことです。私の中のあの人はそんな話をしない人だったんです。でも、そんな風に勝手に相手を理想化してしまうところが私の悪いところなのかもしれないけれど。あの人が嬉しそうに、あの子のスカート短かったよなぁなんてジョッキを片手に話しているのを聞いていると、何だかもう情けない気分になってしまいます。
情けなくなるだけじゃなくて、私が入ったときにあの人は、安藤さんたちにどんな風に私のことを話したのかってすごく気になってしまいます。もちろん、嫌なんですよ、物みたいに品評されるのは。嫌だけど、でもやっぱりあの人は私のことを女の子としてどんな風に感じたのかってことは知りたかったんです。
 だからある日の新入生歓迎の後の飲み会で男の人たちがその日に来た女の子の話を始めたときに、ちょっと酔った振りをしながらふざけた感じで、
「もぉ、そんな風にしか女の子のこと見れないんですか、全く。去年は私のことをめちゃめちゃ悪口言ってたんじゃないんですかぁ」
 とか言ってみたりしました。そうしたら、安藤さんが笑いながら、
「そりゃもう夢乃ちゃんはみんな大絶賛だったってば。あの子しかいないでしょ! あの子を逃がしたらこのサークルの運命は終わりだってくらいの勢いで」
 でも聞きたかったのは安藤さんの優しい冗談じゃなくて、あの人の言葉だったんですけどね。
 
 土屋くんは最初は恥ずかしがって何にも言わなかったけれど、だんだん生意気に先輩と一緒になって「ああいう女は見た目はいいけれど、仲良くなってみると扱いづらそうだ」とか何とか言ってみたりして、その言い方には私も笑ってしまいました。土屋くんなんて、女の子と付き合ったことがあるのかどうかさえかなり怪しいのに、何を偉そうに男女のことは何でも知っているっていうような顔しちゃって。

 新入生歓迎の時期が落ち着いて、何十人も一年生が説明を聞きに来て、その中の三分の一くらいが新歓コンパにやってきて、その中のさらに三分の一くらいが部室にちょくちょくやってくるようになりました。残ったのは四、五人くらいだったです。なぜだかみんな男の子でした。もともと女の子自体が少ないサークルだったのですが。
 けれど、私はやっぱり年下の人が苦手なんです。どうやって会話に入ったらいいか分からなくて。他の同級生たちはそんなに熱心に一年生と話そうとしていなくて、土屋くんだけは一生懸命話しかけているけれど、傍目で見ていると彼はちょっと後輩たちに馬鹿にされているような感じもしてしまいます。もちろん絵画の知識とかで土屋くんは負けないと思うのだけれど、どう見ても一年生たちよりも彼は世慣れない雰囲気を持っていたので。安藤さんやあの人たち三年生も去年よりも部室に来る回数は減ってきたし、ただでさえ少なかった四年生はもっと来なくなってしまいました。
 そんなわけで、一年生は一年生で固まり始めてしまったんです。一年生たちだけでわいわい話したりしているときに私がドアを開け入っていくと、彼らはその話をやめてしまったりするんです。何だかそういうのって感じ悪いじゃないですか。私や土屋くんとかは先輩たちにそんなことはしなかったのに。もちろんそれは私に先輩としての魅力とか知識とか能力が足りないってことかも知れませんが。
 そんな態度を見ると、私は笑って「何話してたの?」何て言えないから、ぶすっとしてしまって部室の空気が暗くなってしまいます。彼らに気を使って優しくこちらから話題を振ったりするのも得意じゃないんです。それに身近な人たちだけ仲間意識を持って群れたがる連中なんて高校の時のクラスメイトと少しも変らないじゃないですか。私はそんなのが嫌でこのサークルに来たはずなのに。現代アート倶楽部の部室で流れているのはあの人がセレクトしてきたビ・バップやハード・バップのはずなのに、彼らときたら先輩がいないと平気でJ‐POPをかけちゃうし。
 だから、二年生のときはつくづく去年の方が面白かったなって思っていました。

 あるとき、上級生だけで飲み屋にいったときに、たまたまあの人の隣に座れたんでそんな愚痴をこぼすと、あの人は静かにそれを聞いてくれました。あの人に話を聞いてもらうとただそれだけで救われる気持ちになります。何て言ってもらったのかな、一人一人に向き合ってあげてって言われたのか、君は十分しっかりした先輩だよって言われたのか、今考えてみるとそんなにすごいことを言われたわけじゃないのだけれど、その夜はあの人のアドバイスのおかげでとても幸せな気分で過ごせました。


 Ⅵ、毎夜のメール

 芹澤は安藤と終電間際まで飲んで別れた。部屋にたどり着き、ペットボトルからミネラルウォーターを飲みながらパソコンのスイッチを入れた。やはりその日も夢乃からのメールが届いていた。芹澤は安藤が話していた夢乃と土屋のことを思い出した。夢乃にとっては土屋は恋愛の対象ではなく、単に昔の知人と飲みに行ったというだけなのかもしれないと思った。
 夢乃から来るメールは、疲れているときやあまりにも長いときには飛ばす日もあったが、ざっとではあるが目を通していた。返事は書けなかった。どう返事したらいいかも分からなかったし、返事を書いて応対することがいいことかどうかも分からなかった。何より面倒だった。
 夢乃から来るメールを読みながら芹澤は恋愛について考えた。自分は夢乃ほど誰かを好きになったことがあるのだろうか。芹澤には、なぜこれほど夢乃が自分にこだわるのか分からなかった。なぜ他の人ではいけないのか。高校時代に付き合っていたときのクラスメイトと別れたときも、夢乃に別れを告げたときも、そして恐らく今の恋人と別れることになったとしても、自分は夢乃ほどに相手に執着は出来ないに違いない。
 芹澤は夢乃には特別な力があるのではないかというような気がした。誰かを好きになる特別な力。そしてその力は自分にはないのであろう。
夢乃に別れを告げたときに、肩の荷が下りた気がした。これからは夢乃のことを考えなくてもいいと思ったとき、毎日が何て楽になるのだろうと安堵した。新しい女を好きになったのではなくて、本当は夢乃と別れたかったから別の女に逃げたのだと気がついた。しかし、そんなに簡単に夢乃は芹澤の前から消えたりはしなかった。
 半ば酔いが残った頭で、芹澤は今夜の夢乃のメールを流し読みしていた。いつも通り他愛のない近況から始まり、芹澤への愛情が消えないことの苦しみが書かれて終わっているメールだった。芹澤は、メールの最後の方の文に目をとめた。

〝芹澤さんに謝らなきゃいけないことがあるんです。こんなことしたらいけないと思いながらも、この間芹澤さんのマンションへ行ってしまいました。
 芹澤さんの部屋は電気がついていました。しばらく見ていると、芹澤さんは干してあったタオルを取るためにベランダに顔を出しました。久しぶりに見た芹澤さんの姿でした。私は嬉しいような悲しいようなおかしな気持ちになってしまいました。でも、もうこんなことしないようにしたいと思います。
 もうマンションにはいかないから、せめてメールを出すことだけは許してくださいね。返事はいただかなくてもいいから、ただ私の気が静まるまで芹澤さんに話しかけていたいんです。〟

 芹澤は窓を開けてベランダに出た。外には普段と変らない住宅街が広がり、前の通りには誰もいなかった。今夜は夢乃は来ていないのだろうか。芹澤は彼女がどこまでするのだろうかと考えた。このまま放っておけば、メールも来なくなり、自分のことを忘れてくれるのだろうか。それとも、もっともっと行動をエスカレートさせるのだろうか。不思議と恐怖心はなかった。芹澤が感じたのは、多少の面倒くささと、そして夢乃の強い感情への畏敬に近い気持ちだった。
 冷えてきたので芹澤は部屋の中に戻った。


6、二人の夜

 そんな風にして私の大学二年も過ぎていこうとしていました。後輩たちとは馴染まないなりにもだんだん折り合いをつけていけるようになっていったと思います。二度目の学園祭も終わった冬のある日の夕方でした。

 その日部室に入ると誰もいませんでした。机の上が散らかっていたので私はそれを片付けながら誰かが来るのを待つことにしました。その日はあの人が来るときもあれば来ないときもある微妙な曜日だったんです。土屋くんはいつも来ている日なのだけれど、午前中の同じ授業で会わなかったので大学に来ていなかったのかもしれません。
 私はあの人が置きっぱなしにしているCDの中から、私が聴いても心地よいソニー・ロリンズを探してかけました。それにしても、みんなCDを気にせずにその辺にあったパッケージに戻してしまうから、外側と中身がバラバラになってて、どこにどれがあるのか分からなくて見つけるのが大変なんです。ちゃんと直しておいても一週間後にはまたバラバラになってしまうから困ったものなんです。
 CDに合わせて鼻歌を歌いながら、私は簡単に部室を片付けました。冷蔵庫を開けると、缶ビールが何本かと安い赤ワインが一本残っていました。前の日の夜に飲んで部室を汚していった人たちは相当に買い込みすぎて飲みきれなかったみたいでした。

 椅子に腰をかけてみんなが勝手に好きなことを書き込めるようになっている連絡帳を眺めていました。ワインをちょっと飲みたいなという気分だったのだけれど、一人で飲むと何だか淋しくなるときがあるので、早く誰か来てくれないかなって思っていました。

 ドアを開けて入ってきたのはあの人でした。
「あれ、夢乃さんだけなんだ」
 あの人は少し猫背な格好で私の向かいの席に座りながらそういいました。
「私だけじゃ不満なんですか?」
 私はちょっとふざけてそう聞いたように覚えています。あの人は苦笑いをしただけでそれには答えませんでした。でも恐らくもっと男の子たちが沢山いると予想して来たのだろうと思いました。
「私一人しかいないけど、冷蔵庫にはこんなもんが入っているんですよねぇ」
 私は缶ビールとワインを取り出してあの人に見せびらかしました。
「飲みます? 飲んじゃいます?」
 あの人は断らないだろうということを私は知っていました。現代アート倶楽部の先輩たちはお酒に誘われたら断っちゃいけないというような変てこな美学を持ってましたから。
「あるんなら、飲むしかないでしょう。おつまみとかはないの? コンビニで何か買って来ようか。そのうち他のやつらも来るだろうしね」
 私は頷きましたが、他の人など来なければいいと内心では思っていました。あの人と二人で大学の校舎の川を挟んでちょうど向かい側にあるコンビニまでおつまみを買いに行きました。私が籠を持って彼が適当にスナック菓子とかキムチとか入れていきました。二人で相談して買い物をしているなんて、何だか同棲してるみたいで嬉しくてたまらなかったです。私は絶えずニコニコしてしまってちょっと無気味な子だったかもしれません。

 買い物を終えて帰ってくると部室の明かりは消えたままでした。私はちょっとほっとしました。私たちはさっきと同じように向かい合って座りました。あの人は自分の缶ビールを取ると私には紙コップにワインを並々と注いでくれました。
「こんなに飲めないですよお」
「何言ってんだよ、いつもガブガブ飲んでるくせに」
 
 私たちは軽く乾杯をして、飲み始めました。買い物をしているときや、部室に帰って来て飲み始める準備をしているときには、いい感じで話をすることが出来ていたのだけれど、改まって向き合うとドキドキしてきてしまって何を話していいのか分からなくなってきてしまいました。こういうときって本当に自己嫌悪に陥ってしまいます。何で私ってこうなんだろうって。別にそのときに告白をしようとか思っていたわけじゃなく、私はそんなこと急になんて絶対出来ないし、ただ楽しく二人の時間を過ごせたらいいなって思っていただけなのに、一緒にいると心臓の鼓動が止まらなくなってしまうみたいな感じがして息がつまりそうで。恋愛って何でこんなに苦しくて上手くいかないんだろうなんてことを考え出したりしちゃって、そうなると二人の会話はちぐはぐになってしまい、彼は私との会話に飽きたのか自分の鞄からCDケースを取り出して何か新しく買ってきたらしいCDを視聴し始めたりしてしまいます。すごく好きな人を前にして、この気持ちをどうやって表したらいいの? この気持ちはどうすれば満たされるの? なんて考えてしまっているあのときの私はまだほんの子どもに過ぎなかったのでしょう。

「今日ちょっと何か大人しいねぇ、お酒のペースも早くない?」
 あの人はそう私に聞いてきました。私はそんなことないと否定して、彼のために新しいビールを冷蔵庫から出しました。酔わせてしまえばいいんだ、そんな結論に達しました。彼を酔わせてしまえばいい。私も酔っ払ってしまえばいいんだ。

 お酒が回り始めてからはだんだん緊張もとけて、少しずつ話せるようになってきました。というか、あの人の方が酔いが回ってきて饒舌になってきたのかも知れません。最初は他の部員たちの噂話とかだったですが、次第に絵画の話になっていったと思います。今覚えているのはあの人がゴッホの話をしていたことです。ゴッホの「ひまわり」をあの人はずっとどこがいいのか分からなかったと話しました。でも、新宿の東郷青児美術館に行って本物を見て初めて何がすごいのか理解したらしいんです。以前はあの黄色がただのポップな黄色だと思っていたみたいなんです。だから、何事にも深刻に考えてしまうあの人はその黄色いひまわりの何がそんなにすごいのかさっぱりピンと来なかった。でも、実物に触れてみて、ゴッホの黄色はポップなTシャツとかに使いたいような黄色ではなくて、ギラギラと見るものに突き刺さるような狂気の黄色なのだと感じたと、珍しく熱っぽく語っていました。見ていると不安をかきたてられるような、恐ろしい黄色がゴッホの「ひまわり」なんですって。そう言われると、私はギラギラ突き刺さるゴッホの黄色を「ひまわり」以上に、「カラスの飛ぶ麦畑」の方に感じるかもしれません。そして覚えているのは、あの夜あの人が「ひまわり」の背景もまた黄色であることのすごさを何回も主張していたことです。あんなにギラギラした黄色で花を描いていながら、さらに背景まで黄色にするパワーって信じられないよねと嬉しそうに言うんです。
 私はそんなあの人の絵画の話を聞くのが大好きでした。あの人の趣味は少し片寄っているけれど、説明の仕方がすごく上手くて絵を描くよりも評論家とかの方が向いているかなと時々思ったりしてしまいます。もちろんあの人はそう言われたら創作の才能がないってことかと不満かもしれないですけれど。あの人の絵画の話ならずっといつまでも聞いていたいです。でもこれは恋は盲目だからなのかな。
 その後であの人は自分の作品について話していました。そのとき手がけていたパソコンを使ったコラージュの話です。あの人はその頃から筆を持つことはほとんどなくなってパソコンで作品を作るようになっていきました。でも実際のところ私はあの人が手で描いた作品の方が好きだったです。はっきり言ってしまうと、下手なんですよね、何だかふにゃふにゃした絵なんです。でもそのふにゃふにゃしたところが、いかにも繊細で、そうちょうどアンディ・ウォーホルの描いた猫や靴みたいに、優しくて可愛い絵だったんです。でも彼はグラフィックソフトを使い始めてしまいました。
私はパソコンがあんまり詳しくないから、あの人のパソコンを使った製作の話をさっぱり分からないで聞いていました。それでも私に向けて話をしてくれるあの人の顔をずっと眺めていられることがとても幸せだったんです。

Part2

 Ⅶ、愛情がないということ

 一緒に飲んだ日以来、土屋からのメールは頻回になった。それが夢乃にとってはいい暇つぶしとなった。土屋とやり取りすることは、ときに退屈であったが、何よりも楽であった。
 夢乃は土屋の誘いにのって、二度目のデートへ出かけた。前回よりも自暴自棄な気分であった。どうなろうが構わない。芹澤とよりを戻せない自分の人生に意味などないから、何が起こっても驚かない。
 土屋は前回よりも嬉しそうによく喋った。土屋の口がカクカクと動くのを夢乃は見ていた。土屋の目をじっと見れば彼が自分のことが好きなことは明らかだった。嫌いではない誰かから好意を持たれることは、決して悪い気分ではないはずだった。だが、「この人私のことを好きなんだ」とぼんやりと思ったとしても、何の感慨も湧いてこなかった。しかし自分に何の感慨もわいて来ないことが、夢乃にとって心地よかった。
 前回よりもアルコールは進んでいた。二人でワインを二本空けた。途中で夢乃は、これは割カンだと自分の今日の手持ちでは払えないと思ったが、気にせずに飲み続けた。自分が土屋に好かれていることにつけ込んでいるのかもしれないと気がつきながらも。
 店を出る頃には、二人ともふらふらであった。夢乃は土屋に寄りかかった。土屋はそれを少し戸惑いながらも抱きとめた。
「土屋くん、私のこと好きなんでしょ」
 酒臭い息で夢乃は土屋の耳元に囁いた。土屋は沈黙した。
「ねぇ、どおなのよぉ」
 夢乃はさらに甘えた声で囁き土屋の頬をつついた。
 大きな溜息をついてから土屋は言った。
「うるさいなぁ、そんなこと今気がついたのかよ」
 夢乃はゆっくりと微笑んだ。
「私疲れたからホテル行きたいなぁ」
 土屋の体が強張るのが夢乃には分かった。夢乃は土屋の顔を覗き込んだ。
「お前、ちょっと酒癖悪すぎだぞ」
「そんなことないよ、いつもこんなだよ。ねぇ、土屋くんは行きたくないのお」
 夢乃は土屋に抱きついて、胸を彼の背中に押し当てた。
「酔いすぎだぞ、お前はこんなことする女じゃないだろ」
 夢乃はどこかで聞いたことのある陳腐な台詞だなと思ったが、どこで聞いたのかは思い出せなかった。
「今夜はこんなことする女なのぉ」
 土屋は夢乃に抱きつかれているのを通行人に見られるのを恥ずかしそうにしながら、ホテル街へ歩き出した。夢乃は土屋の手をつないでそれに従っていった。
 夢乃の目からは、土屋が酔っているというよりもむしろ動揺しているように見え、そのことが可笑しかった。

 ホテルに着くと、土屋からシャワー室に入っていった。夢乃はカラオケを歌おうと思ったが、酔っていたせいか使い方がよく分からずテレビ画面がカラオケにならなかったので諦めた。
 部屋を薄暗くしてベッドの上に仰向けになった。土屋の浴びるシャワーの音が聞こえてきた。私は何でここにいるんだろう、と思った。なぜ土屋をホテルに誘ったのだろう。
 土屋のことを好きではない、それははっきり分かっていた。

  私は土屋くんのことが好きじゃない
  土屋くんは私のことが好きだ
  それでも私は土屋くんのことが好きじゃない
  だから私は傷つかない、苦しまない
  土屋くんがいなくなっても
  土屋くんにひどいことを言われても
  私は決して傷つかない
  何て、楽なんだろう
  何て、楽しいんだろう
  私は何をやっても大丈夫なんだ
  どんなに土屋くんを傷つけても
  私は少しも苦しむことはない
  だって、土屋くんを愛していないから

 いつのまにか笑いがこみ上げてきた。夢乃はベッドの上で笑い出した。大声を上げた高笑いだった。

 何だって出来る、何だってしてやれるんだ
 愛情がないってなんて楽しいことなのだろう

 夢乃の笑いは止まらなかった。腹のそこから笑いが噴出してきた。爽快だった。アルコールが汗となって体の外へと発散していくような気がした。
 土屋が腰にバスタオルを巻いてシャワー室から不安そうな顔をして姿を現した。ベッドの上で笑い転げている夢乃を見て、最初は少し心配そうな顔をしたが、夢乃に合わせて自分も笑みをつくり、「何がそんなに可笑しいの」とベッドに近づいてきた。
 夢乃はそんな土屋の姿を見て、さらに一層笑い転げた。土屋はいじめられっ子のような照れ笑いを浮かべてベッドに座り、そして夢乃の肩に手を乗せた。
 夢乃は全身の力を込めて土屋を蹴飛ばし、ベッドから突き落とした。
「やめて、触らないで」
 床に倒れた土屋のバスタオルが外れて、ペニスが夢乃から丸見えになった。勃起していた。それをみて夢乃はもう一度だけ笑った。
 夢乃はこの男は私に拒絶されることで苦しむだろうと思った。その想像は心地よかった。もっともっと苦しめばいい。
 床の上で頭を上げた土屋の顔に夢乃はもう一発蹴りを入れた。
「調子にのらないでよ。あんた私が本当にあんたなんかと寝てあげると思ったの? どうかしてるんじゃない、冗談じゃないわ、気持ち悪い」
 土屋は目を大きく見開いたまま固まって、反論することも出来なかった。ただ、夢乃を見返すことが精一杯でそれ以上に何も出来なかった。
「何ぼけっと見てるのよ、早く消えなさいよ、目障りなの。あんたの顔なんて見ていたくないの、早く帰りなさいよ、ほら」
 土屋は夢乃を睨みつけながら慌てて服を着替えて部屋を出て行った。夢乃は、芹澤が自分を拒絶したときもこんな快感を味わっていたのだろうかと考えた。夢乃は自分が蛇そのものになったような気がした。それから、お金のことが心配になってきた。一人でこのホテル代を払えるほど財布にお金が残っていただろうか。
 全身に疲労が滲み出してくるように感じてきた。折角だからここで一休みしようと思った。有線をJAZZに選曲して、布団の中に入って、夢乃は眠りについた。


7、帰れない私

 楽しい時間はすぐに過ぎていきます。私はあの人が時計を見ないことを願っていました。そろそろ帰ろうかと言いだされるのを恐れていました。それじゃ徹夜で飲み明かす気だったのかと言われるとそこまでの覚悟はないのだけれど、ただ何も先のことを考えずに今の時間が長く続くことだけを願っていました。
「結局、今夜は誰も来なかったね。まぁ、タイマンで飲むのも嫌いじゃないけど」
 そう言いながら彼はゆっくりと立ち上がりました。

「そろそろ行こっか。電車なくなっちゃうし」
 私も重い腰を上げました。私の大学から駅までは、公園のようになっている川沿いの並木道を十分くらい歩かなければいけませんでした。まだもう少し二人でいられる時間はあるんだと自分に言い聞かせました。
「夢乃さん、けっこうお酒強いねぇ、俺かなりふらふらだよ」
 校門から出た彼は確かに少し左右に揺れながら歩いていました。外は寒かったです。両手をポケットに入れてマフラーをしっかり首に巻いて私はあの人の横を歩いていきました。手でもつないでくれたらいいのになと思いながら。こういうときには、街灯や薄暗いコンクリートの壁や風で囁く木々、それどころか公衆トイレでさえ、何であんなに美しいんでしょう。私はこの人といられればなんだって素晴らしいものに思えてしまうんだと実感していました。それでやっぱり手をつないでくれればいいのになって思いました。

 突然あの人が私に倒れ掛かるようにブツかってきたんです。私は驚いてしまいました。周りは暗い並木道で他に人はいませんでした。あの人は無理矢理に私を抱き寄せました。私は抵抗しましたが、酔っ払っていて上手く力が入りません。あの人の息が私の頬に触れたかと思うと、口の中に彼の舌が押し込まれるように入ってきました。初めてのキスでした。私は慌てて彼の顔を引き離しました。
「ちょっと、やめてくださいよ、芹澤さん酔ってます、酔いすぎですよ」
 あの人はそれでも私を抱くことをやめないで、今度は私の肩をぎゅっと強く抱きしめました。彼の体と私の体がくっついて彼の息遣いが聞こえてきました。
「酔ってますよ、芹澤さんこんなことする人じゃないです。ね、こんなことしたらダメですよ」
 私は何だか泣きそうな声を出していました。
 彼は一旦私の肩を離して私の顔を少し上目遣いに見て、それから何か言おうとしていたのですが、結局何も言わずもう一度私の肩をさらに強く抱きました。そのときの私を上目遣いに見る彼の顔は私以上に不安げで淋しそうな気がして何だか涙が流れてきました。
「俺はもともとこんなことする人なんだよ」
 そう耳元で彼が言いました。私は涙を流しながら、彼の体を抱き返してしまったような気がします。こんなはずじゃなかったのにと思いながら、こんなかたちであの人とキスするなんてと思いながら。
 あの人の股間に堅いものがあることに気がつきました。何だか変な不思議な恐い感じでした。あの人は私のことを考えて、あそこがこんなになったのかなって思うと体が震えてしまいました。男の人はこんなものをずっと股間にぶら下げて生きているなんて不便だなって変なことを思ったりもしました。もちろん男の人のあそこのふくらみをこんなに間近で感じるのも初めてでした。
 あの人の体はとても暖かでした。私が抵抗しなくなったのに気がつくとあの人はもう一度私にキスをしました。今度はゆっくりと、そして静かに彼は舌で私の口の中を嘗め回してきました。
「絶対、酔ってるからそんなことするんだよ。芹澤さんはひどいんだよ、そうやっていつも女の子をもてあそんでるんだ、芹澤さんはひどいんだよ、ホントにひどいだよ」
 彼の唇が頬や耳を伝っている間に、私は独り言みたいに呟くようにそう言っていました。苛められた子どもが帰り道で吐く独り言みたいに。
「何にも喋らなくていいから。夢乃さんはとっても綺麗だよ」
 包み込まれるような優しい声であの人はそう言いました。そしてキスをしながら私の涙を唇でぬぐってくれました。あの人はシャツの裾から私の服の中に手を忍ばせてきました。
「何にも心配ないんだよ」
 彼はそういいながらブラジャーの上から私の胸に手を当てました。彼の手はとても冷たかったです。あの人は数回優しく撫でてから、私の乳首をブラジャーの生地の上から軽くつまみました。私は首を振りました。もう何が何だか頭の中がパンクしそうでした。
「案外、胸大きいんだね、夢乃さんの体暖かい」
 そんなことを囁き声で語りかけてきます。この人は私のことが好きなのだろうか、それともこういう遊び人なのだろうか、今日は特別酔っ払ってしまっただけなのだろうか。この人は何を考えてこんなことをしているんだろう、この人にとって私って何なんだろう。
 そんなことを考えているうちに、涙はもっともっと出てきて、私は首を振り続けました。強く強く首を振り続けました。このままされるがままになってしまったら、私は帰って来れなくなる、私に戻れなくなってしまう、私が私じゃなくなってしまう。私の涙は絶え間なく流れていきました。それは私があの人のために涙を流した最初の夜でした。


 Ⅷ、噂話その2

「実はこないださぁ、すんごい話聞いちゃったんだ、マジこれ信じらんないよ」
「何だよ、勿体つけずに早く言えよ」
 芹澤はその日も安藤と飲んでいた。芹澤の職場の近くの薄暗い照明の居酒屋だった。安藤はこの話をするためにやってきたと言わんばかりに熱っぽく話している。
「前さぁ、土屋と夢乃ちゃんの話したじゃん。あの二人がえらいことになってんだ」
「えらいことって、何それ? 付き合い出したの」
「それがね、土屋が泥酔して泣きそうになりながらいうには、二人でホテルに行ったんだって。何か夢乃ちゃんから誘ってきたらしい。ちょっと意外だよなぁ。あぁ見えてわりと遊んでるのかな」

 夢乃のメールは相変らず芹澤のもとに届いていた。その夢乃と他の男がホテルに行く話を聞くのは芹澤にとって奇妙な圧迫感があった。
「でもってさぁ、まぁ、ホテルに行ったんだからシャワーとか浴びるわなぁ。で、土屋が最初にシャワー浴びてたんだって。そしたら、部屋からメチャクチャ大笑いしてる声が聞こえてきたんだって」
「大笑いって夢乃さんが? テレビでも見てたんだろ」
「いやいや、だったら別にすごい話じゃないだろ。土屋が不安になって出てってみると、夢乃ちゃんがベッドの上で狂ったように笑ってんだってさ。何だか恐くなったけど、やつはどうしたのって近づいてったんだ。そしたら思いっきり蹴り飛ばされたんだって。すごくない、これ」
「蹴り飛ばされた? 夢乃さんが土屋を? 何だよそれ、全然話が見えないんだけど」
「分かんないだろ、俺も分かんない、土屋も分からないらしい。で、蹴っ飛ばされてそのあと夢乃ちゃんはすんごい冷たい顔して『私があんたなんかと寝てあげるはずがないじゃない、調子にのらないでよ』って怒鳴りつけたらしいよ。何か土屋が可哀想すぎだよなぁ。ありえないだろ、そんな展開」
「それ、本当なのか? 土屋がふられて嫌がらせでデマ流してるとかじゃないだろうなぁ」
「そりゃ、わっかんない。でも土屋はデマ流したりはしなそうだけどなぁ。まぁ、夢乃ちゃんがホテルで男を蹴っ飛ばしたりもしなそうだけど。でも、土屋には悪いけど、その話聞いたときには噴出しちゃったね。そんなの誰も予想できないもん」
 芹澤は微妙な沈黙の後で静かに苦笑し始め、そしてそれは爆笑に変った。芹澤の笑いで許されたかのように安藤も笑い出した。二人でしばらく笑っていた。
「いやぁ、久々にすごい話聞いたよ。やっぱこれお前も笑うだろ、ここまでやられちゃうと」
「何だかねぇ、蹴られた土屋を想像すると可哀想だけど笑っちゃうよな。何なんだろう、夢乃さんって。何がしたかったのかなぁ」

 芹澤は夢乃に会いたいと思った。もちろんよりを戻したいわけではなかったし、土屋とのことを責める気もなかった。しかし、ぼんやりと好奇心が湧いてきたのであった。夢乃が今どんな様子であるのかを見たくなったのであった。危機感も多少はあった。けれど、アルコールによって麻痺してしまう程度の危機感だった。
 しばらく夢乃と土屋の話題で盛り上がった後で、芹澤はしんみりとした調子で言った。
「でも何だか勢いある話で楽しそうだよなぁ。最近仕事終わって家帰ってもだらだらして何もする気しないよ」
「そんじゃお前も夢乃ちゃんに蹴飛ばしてもらえよ」


8、待ちきれないメール

 あの夜はそのまま終電で帰してもらえました。あまり首を振り続ける私を見て、あの人は手を止めて、私の頭を軽く撫でて、そして駅に向かって歩き出しました。私は黙ってピッタリとあの人の後をついていきました。あの人の服の肘のところをぎゅっとつかんでついていきました。
 ホームや途中まで一緒の電車の中では、何を話したらいいのか分からなくて、彼もそう思っていたらしくて、ずっと黙っている二人でした。でも、ずっと黙っていたけれど彼の隣を離れたくありませんでした。このまま電車が乗り換えの駅に着かなければいいのにと思っていました。明日になったら、彼は今日のことをすっかり忘れてしまうかもしれないとそんなことを考えました。全く何事もなかったような顔で現れて何事もなかったように話しかけてくる、今夜のことが本当に起こったことなのか私の妄想なのかさえ分からなくなってしまう。今夜の出来事は私の下らない日常生活にぽっと浮かんだ夢のようなものなのかもしれない。そうであるなら、今夜が終わらなければいい、ずっと彼の隣に座って、ただじっと黙って気まずい二人でもいいから、このまま電車でずっと遠くへ、千葉でも茨城でもどこかすごい遠くまで、あの人と寄り添っていけたらとそんな風に思いました。

 その夜はほとんど眠れませんでした。何だか頭がこんがらかって同じことを何度も何度も堂々巡りで考えたりしていました。あの人と私はこれからどうなるのだろう、あの人は私のことを好きなのだろうか。
 寝不足で疲れた体を引き摺って私は次の日も一限から講義に出ました。授業の間も全然集中出来ずにあの人のことばかり考えていました。昼休みになると急いで部室に向かいました。三限目の講義はあの人と同じなのです。三限目に講義があるため、あの人はその曜日はしばしば昼休みに部室で缶コーヒーを飲みながらパンを食べていました。
 部室には電気がついていました。力強くあけると、中にいたのは土屋くんと安藤さんと、後は一年生たち二人だけでした。
「夢乃ちゃん、何慌ててんだよ」
 安藤が半笑いの顔で言いました。私は軽く笑ってごまかしました。私が席に着くと彼らはまた話の続きに戻っていきました。忘年会と追コンの相談をしていたみたいです。あの人は二日酔いで家で寝ていたのでしょうか。その場の会話についていけずに、うつらうつらと昨夜の記憶の中を彷徨っていました。何度か土屋くんに今日はぼけっとしてるねとつっ込まれたりしながら。

 あの人は三限目の授業にも現れず、結局その日は会えませんでした。私はひょっとしたら電話が来るんじゃないかって気がしてずっと携帯を気にしていたんですけれど、私の携帯はいつも通り静かに黙ったまんまでした。
 私からかけることも考えてみました。でも結局出来ませんでした。想像するだけで緊張で心臓が爆発してしまいそうだったので。メールを送れたらとも思ったのですが、私はあの人のメールアドレスを知りませんでした。二年も同じサークルにいながらそんなことさえ知らなかったんですね。安藤さんなら知っているかなと思ったけれど、「芹澤さんのメールアドレスを教えてください」と電話するのはあんまり怪しいからそれも出来ません。ひょっとするとあの人が一年生のときに書いた新入生名簿には載っているかも知れないから、明日こっそりメモしてこようかなとか計画を立てたりしました。その夜は疲れていたのか前の日よりは眠ることが出来ました。

 次の日、あの夜から離れてしまえば離れてしまうほど、私とあの人とのつながりが消えてしまうような気がして、焦りを感じていました。早く何とかしなくては、このまま流されてしまう。一昨日のことはただの夢みたいな出来事で終わってしまう。
 私は以前あの人が聴いていたポリスのCDを聞きながら大学へ向かいました。あの人と関係のあるものの中に包まれていたい気分でした。あの人の好きな音楽を聴いて、あの人の好きな映画を見て、あの人の好きな絵画を飾って、あの人の好きな本が読みたい。
 四時間目の空き時間に部室に寄ると、あの人がいました。土屋くんと二人で話していました。私が行くと二人は軽く顔を上げて会釈をして、話に戻っていきました。マイルス・デイビスの後期のエレキを取り入れた作品群をどうとらえるのかとかそんな話題でした。土屋くんはクラシックは聴くけれどジャズはそんなに詳しくないはずですが、真剣な顔で聞いて相槌を打っていました。
あの人は私が来ても顔色一つ変えずに、何事もなかったように振舞っていました。ひょっとすると、本当に大したことだと思っていなかったのかもしれません。
 土屋くんの方はむしろぼうっとしている私に気を使って、話題をふってきてくれたりしました。これはいつものことでした。私はひょっとするとついてきて何か声をかけてくれるかなと思って、途中でトイレに立ったのですが、あの人はずっと部室の奥の椅子に座ったままでした。それどころか、缶コーヒー買ってきてと無造作に頼まれてしまいました。私の頭がこんなにぐちゃぐちゃになっていたのに、あの人はごく普通にちょっと飲みすぎたなくらいの感じで遊ばれたんでしょうか。もう、あの人の考えていることがさっぱり分からなくて、トイレで頭を抱えてしゃがみ込んで、部室に帰りたくないとか思ったりしました。
 悔しいからあの人はブラックしか飲まないのを知っていて、砂糖入りのコーヒーを買ってやりました。そんなちっちゃな復讐をする自分が馬鹿馬鹿しいとは分かっているんですけれど。

 部室に戻ってしばらくすると五限目の時間になりました。あの人は重い腰を上げました。
「土屋、そんじゃビールでも買ってくるか」
 授業に出る気はなかったみたいです。
「私は授業があるんで」といって、私も立ち上がりました。ビールを買いに行くあの人と土屋くんと、授業に出る私と三人一緒に部室を出ました。そして学館を出て二人と別れてから私はこっそりと部室に引き返しました。誰もいない部室で、過去の新入生歓迎ノートあさりあの人のメールアドレスを探しました。思った通り携帯のメールアドレスが書かれていました。三年近く前のものなので番号が変ってしまっているかもしれないという不安もありましたが、私は散らばっていたプリントを取ってその裏にあの人のアドレスを書き写しました。そして、慌てて小走りで部室を出ました。

 その日の夜、ひょっとしたらあの人はまた今日も部室で徹夜で飲んでいるのかもしれないと思いながらも、メールを送りました。あの人が私のことを何とも思っていなくても、遊んでいるだけでも、もう一回二人で会いたいという気持ちは抑えられませんでした。遊ばれているんなら、もっともっと遊ばれたい、そんな心境でした。

〝初めてメールしちゃいます。一昨日の夜は楽しかったですね(^〇^) また二人で飲みに行きましょう☆〟

 どんな返事が返ってくるかは全然予想出来ませんでした。恐くて予想したくもありませんでした。でも、メールを書かなきゃおかしくなりそうだと思っていました。こんな短い大したことないメールでもいざ送ろうと思うと不安になって、何回も何回も読み返したりしてしまいました。送信を押すときには指が震えました。メールは送信されました。ちゃんと送られたので、アドレスは変っていなかったみたいです。
 返事はすぐには返ってきませんでした。私は机の上で携帯と睨めっこしてじっと待っていました。三十分待って我慢できなくなって、でもそのまま放っておいて他のことをするなんてことは出来そうもないから、えいっと携帯の電源を切ってしまいました。そして私はお風呂に入って、ヨーグルトを食べながらテレビを見ました。その後自分の部屋に戻って、恐る恐る携帯の電源をつけて問い合わせをすると、一件のメールが届いていました。

〝ありがとう、夢乃さんは優しいね。うん、僕も楽しかったよ。また遊ぼうね。〟

 
 Ⅸ、眠る蛇

 土屋と飲んだ夜以来、夢乃は脱力状態が続いていた。何もする気が起きなかった。一日中自分の部屋のベッドで寝転がっていた。テレビをつけてもマンガを読んでも少しも面白くなかった。誰かと会って遊ぶ気力も起きてこなかった。
 ただぼんやりと憂鬱に浸っていた。激しい悲しみというわけではなかった。ただぼんやりとした虚無感が漂っているだけであった。芹澤へのメールでさえも、次第に短くなっていった。あれほど湧くようにあふれてきた芹澤に伝えたいことも、いつのまにか影を潜めていた。
 蛇は死んだのかもしれないと、夢乃は思った。しかし、蛇とともに自分まで死んだような気がした。蛇は自分を苦しめたけれど、自分の活動の原動力になっていた。蛇がいなくなった自分の体は舵を取る人がいなくなって見捨てられた船のようだと思った。ただ漂っているだけで、どこへも行こうとしない。
 土屋に対してはすまないという気持ちを持っていた。しかし、謝罪の電話やメールはしなかった。それさえ、夢乃にとっては面倒なことだった。
 一日中部屋に閉じこもり降りてこない娘に親は心配をしはじめていた。けれども夢乃はちょっとだるいのとだけ言って、ベッドの上を動こうとしなかった。
 ぼんやりとした憂鬱の中で、夢乃は楽しいとはどんな感覚だったのだろうかと遠い記憶を辿っていた。楽しいとは何だったのだろうか。自分は何かを楽しんだことがあったのだろうか。
 何もかもが無駄で、何もかもがけだるく感じた。食事も美味しいとは思えなくなっていた。このまま芹澤のことも忘れるかもしれない。そしてこのまま眠るように死んでいくのかもしれない。そんなことを考えていた。
 蛇は自分の中から大事な何かを奪い去っていった。ひょっとすると、自分の蛇はあのとき土屋の中に移っていったのかもしれないとぼんやりと空想した。

 ホテルへ行った日から、一週間後、土屋からメールが来た。土屋は夢乃の態度を責めながらも、結局は謝ってきていた。もし自分に悪いところがあったのなら言ってくれ、夢乃を弄ぶ気は一切なかった、失礼なことをしたのであれば謝らせてくれと書いていた。夢乃は返事を書かなかった。土屋の気の弱さを悲しいと感じたが、どう返事を書いていいのか分からなかったし、またそれを考える気力もなかった。

 さらに二日して、芹澤からメールが来た。
夢乃は恐ろしくてすぐに開くことが出来なかった。パソコンの画面に何十分もじっと座り続けて、ようやく芹澤のメールを読む決心がついた。

〝夢乃さん久しぶりです。毎日メールを貰って起きながら返事を出さずに申し訳ないです。
 けれど、どう返事書いたらいいか分からなくて。
 土屋との話をちょっと噂で聞きました。詳しくはしらないけれど、あんまりよい状態じゃないみたいだね。ありきたりな言い方だけれど、もっと他人のことも自分のことも大事にした方がいいよ。
 それはさておいて、久しぶりに夢乃さんと会いたくなりました。別れても夢乃さんのことを嫌いになったわけじゃないから、友達としてやっていけたらと思います〟

 夢乃の心は再び激しく動いていた。蛇は死んでもいなければ去ってもいなかった。ただ眠っていただけであった。
「他人のことも自分のことも大事にした方がいい」
 そんなこと芹澤に言われたくないと思った。芹澤は私のことを少しも大事にしてくれなかったじゃないか、芹澤に大事にされていたら、土屋に対してあんなことをしなかったのに。芹澤に対しての恨みで夢乃の頭の中はいっぱいになった。
 しかし、会いたいという感情はその恨みよりもさらに強いものだった。芹澤が「友達」でいてくれる、私と会ってくれる、そんなことが起こっていいのだろうか。夢乃には信じられなかった。夢乃にとって、死んだ人が生き返ったような驚きだった。何度も何度もそのメールを読み返して、確認した。
 そして是非会いたいと書いて返信をした。


 9、想像していたよりもずっと

 それからあの人と会うようになりました。二週間に一回ほど、大学から少し離れた繁華街で待ち合わせて飲みに出かけました。最初の二回は飲んで夜道で同じように抱き合ってキスされるだけでした。三回目にあの人は私をホテルに連れていこうとしました。私は思わず拒絶しました。あの人は耳元で「大丈夫だよ」と囁きます。それに応じなければもう会ってはくれないのではないかという不安が頭によぎりました。彼は一緒に遊んでくれても、私のことを好きだとか、付き合おうとかそんなことは少しも言ってはくれないんです。ひょっとすると誰か他に彼女がいるのかも知れないし、ただやりたいだけなのかもしれない。でも、私は結局彼について行ってしまいました。恐いけれど彼に抱かれたいとも思った。彼が私を抱く瞬間なら「私のこと好き?」って聞けるかなって思ったことと。

 私は恥ずかしくって初めてだってことをなかなか言い出せませんでした。ひょっとしたら気がつかれずに何とかなるのかなって気もしました。血が出るという話も聞いたことがあったけれど、私の周りでその話をしている子たちはそんなにドバドバ出たとは言ってなかったし。ちょっとだけだったら、まだ生理が終わってなかったとかそんな嘘をつけばいいかなって思ってました。
 
 あの人はスタスタと繁華街を抜けてちょっと薄暗いラブホテル街に入っていきました。周りを歩いているカップルはみんなセックスをしてきたところなんだなと思うと何だかこっちまで照れくさい気分になってきてしまいます。すごく年の差がありそうなカップルとかもいて驚きでした。私は慌ててあの人を追いかけて、彼の片腕をつかみました。あの人はちょっとびくっとしたけれど、そのまま腕を組んでいてくれました。あの人は少しあたりを見回して迷ってから一件のホテルへ入っていきました。
 中に入ると色々な部屋の写真のついたボードがありました。部屋の写真は、後ろからライトで照らされた明るい部屋と、そうじゃない暗いものとがあって、明るい部屋が空室になっているらしかったです。
「ねぇ、夢乃さんお金どのくらい持ってる?」
 と、情けなそうな顔で私に小声で聞きました。私は大体の所持金を答えました。奢ってくれないもんなんだなとちょっとガッカリしたりして。
 彼は一番安い部屋の写真についたボタンを押しました。

 部屋に入るとあの人はくつろいだ感じでベッドに横になり、有線をいじりながら「先にシャワー浴びてきていいよ」と言いました。部屋の内装は私が想像していたよりも広くて綺麗だったです。今思えば私との最初のセックスだったんで、あの人は綺麗めなホテルをチョイスしたんですね。そんな素振りは見せなかったですけれど、少しは考えてくれていたみたいです。この後どんどん安くて狭くて汚い昭和の雰囲気漂うホテルを使うようになっていったんですけど。

 私が緊張で震えながらシャワーを浴びて、臭いとか言われたらショックで生きていられないって思ったからって死ぬほどゴシゴシ体を洗っていると、部屋からは有線じゃなくてあの人が暢気にカラオケを歌っている声が聞こえて来ました。やっぱりその日も結構酔っていたのかなぁ。曲は沢田研二の「おまえにチェックイン」でした。何でジャズ好きの癖にカラオケはジュリーなんだろう。

 私がシャワーから出ると、あの人は「夢乃さんも歌いながら待っていいよ」とよけいなお世話なことを言いながらシャワー室に入っていきました。私はそれどころじゃないのでカラオケを消して、そして恥ずかしいから部屋の照明を暗くしました。早くシャワーから出てこないかなと思いました。一人でじっとしていると色々なことを考えてしまうから。やっぱり痛いのかなとか、あの人は私と付き合っているつもりでいてくれているのかなとか。

 彼は腰にバスタオルを巻いて半裸でシャワーから出てくると、少し照れ笑いをして、そして私の横に座り私の肩を軽く抱いてキスをしました。私の心臓は鳴りっぱなしでした。彼は唇を私の首や耳に這わせながら、シャツのボタンを外してきました。そう、私はバスタオルを巻いただけの姿で待っているのが恥ずかしいからまた服を着ちゃったんですね。彼の手が私の胸を優しく触り、それから背中に伸びていきブラジャーのホックを外します。手馴れた仕草でさっと外すのかなと思ったら結構手間取ってたのを覚えています。それから彼の手はスカートをたくし上げて私の股間に這い上がってきました。ゆっくりと内股を通ってその真ん中へ向かいました。彼の指が周辺をそっと撫でた後、私の身体の中に入ろうとした瞬間に、私は彼の手を止めました。不安を我慢できなくなりました。
「ごめん、初めてだから」
 彼は驚いた様子を見せませんでした。優しく頷いて、「分かった。でも心配しなくてもいいよ」と言いました。「安心して僕に任せてくれればいいから」とゆっくりと微笑んでくれました。

 彼が驚かなかったのは私の振る舞いがいかにも処女っぽかったからなんでしょうか。私としては、馬鹿にされないようにラブホテルなんて何度も行ったことあるよって顔していたつもりだったのですが。男に縁のない女だって思われたくなかったし、気張ってかっこつけてたつもりなんだけど。

 何だか彼にそれを言ってしまったら、急に私は子どもに返ったような気がしてきました。すべて彼に任せてしまおうって思いました。もちろん彼が私の中に入ってくる瞬間はすごく緊張しましたけれど。緊張だけじゃなくて、刺されるような激痛が走って。私はここでも彼を止めて、そして私から引き離してしまいました。それから顔をしかめて、
「痛っ、思ってたよりずっと痛いじゃん、何これ」
 と、何のムードもない普通のリアクションをしてしまいました。
 彼は笑って、「ごめんね」と謝ってくれました。最初はみんなそんなものだよ、何度かするうちになれるからって言ってくれました。私は彼の首に抱きついてキスをして、それから手と口で逝かせてあげました。このやり方も上手く出来なかったけど、彼が手を添えて手伝ってくれました。
 ことがすんであの人がベッドに座ってティッシュで自分のオチンチンを拭いている背中を見ると、何だか無性に彼のことが可愛く思えてきて、その背中に寄りかかって頬を寄せました。
「ねぇ、芹澤さんのこと大好き」
 彼はティッシュを丸めてゴミ箱に放りながら、「ありがとう」と答えました。
 本当はその後で「芹澤さんは私のこと好き?」って聞きたかったのだけれど。

Ⅹ、再会

 夢乃の目には芹澤が半年前と少しも変っていないように見えた。待ち合わせ場所で夢乃を見つけた芹澤はまるで先週あったかのような素振りで手を上げて、そしてそのまま歩き出した。すぐに芹澤が歩き出したことで夢乃は救われた気がした。半年振りに芹澤と向き合って、激しく動揺していたからであった。
 居酒屋で飲み始めたときも、芹澤の態度は変らなかった。夢乃は改めて何を考えているか分からない人だと思った。毎日メールを送りつけて、そして夜中に勝手にマンションに覗きに行った私を怒ろうともせずに、何事もなかったように話している。
「そうそう、夢乃さんがメールで書いていたバルテュス見に行ったよ。あれ、なかなかよかったね。ちょっといじわるな顔をした子どもがカーテンを開けちゃうやつ、あの絵はやばいねぇ。それと椅子に座った顔がちょっとつるつるした女の子の絵覚えてるかな?『テレーズ』だったっけ。あの絵は昔何かの画集で見たことあってずっと記憶に残ってたんだ。バルテュスの絵だったんだね。最近ちょっと彼にはまりそうだよ」
「芹澤さん私のメールちゃんと読んでてくれたんですね。いっぱい色々書いちゃってごめんなさい」
「ざっとだけどね。もらったものは大抵読むよ。最近家帰ってもすることないし」
「本当に、色々ごめんなさい。何だか自分でもどうしようもなくなっちゃって」
「もうその話はやめようよ。別にいいよ」
 芹澤は手を上げてビールのお替りを頼んだ。
「そんなことより、土屋とはどんなことになってたの?」
 夢乃は土屋を憎んだ。仕返しに方々にベラベラと自分の悪口を喋り捲っているのだろうと思った。
「芹澤さんその話誰から聞いたんですか?」
「誰って、まぁいいじゃん。噂って本当なの?」
「どんな噂が出回っているか知らないですけど、やっぱりこれも私が悪いのかな。土屋くんと二人で飲んで、その後で土屋くんに誘われて酔っていたんでホテルについて行ってしまったの。でも彼がシャワーを浴びているときにはっと気がついて、慌てて逃げ出してきたの。それだけ。本当にそれだけだよ」
「いや、別に夢乃さんが何をしても、もう僕に何も言う権利はないからいいんだけどね。夢乃さん、お酒全然進んでないじゃん、ほら、ちゃんと飲まなきゃ」
 アルコールが回り始めると、夢乃はまるで付き合っていたときのままのようだと感じ始めた。酔眼で芹澤を眺めるとまるで夢のようだと思った。離れたくなかった。このままずっと一緒にいたいと思った。
 酔わしてしまおう、最初にキスをされた晩のように、今夜も芹澤を正体なく酔わせてしまおう。夢乃は自分のグラスを空けると、「芹澤さんも飲みますよね」と言って焼酎をボトルで頼んだ。
「おぉ、そうでなくっちゃね」
 夢乃に芹澤は楽しそうに微笑んだ。
 それから二人は付き合っていた頃の昔話をした。夢乃にとっても芹澤にとっても、別れて過ごした半年間が存在しなかったかのような、二人で過ごした日々に帰った時間だった。夢乃が想像していたよりも、芹澤が想像していたよりも、二人の再会は何事もなかったように進んで行った。


 10、恋人の時間が始まる

 体の関係を持った後も付き合おうとかそんなことを言った覚えも言われた覚えもありませんでした。でも、私とあの人は何度も会って体を重ねあいました。二週間に一回が一週間に一回になっていました。
 しかし部室では彼は、私たちが付き合っていることを隠していました。何気ない素振りをして誰にも気づかれないように振舞っていました。私は何だかそのことが不満だったんです。別に悪いことをしているわけじゃないし、何であの人は私とのことをみんなに話してくれないんだろうって。気分が落ち込んでいるときなどには、彼はひょっとして私と付き合っていることに引け目を感じて他の人たちに言えないんじゃないかなんてことを考えたりしてしまいました。
 なぜ私と付き合っていることを他の部員に話さないのかと問いかけると、「あんな狭い人間関係内で、よけいな気を使われると疲れる」とか、「言う必要性がない」とか「もし分かったらひやかされて夢乃さんだって嫌な思いをしなきゃいけない」とか答えてきました。そう言われてそのときは納得するのだけれど、でもやっぱりあの人の彼女として私が認められていないような感じは消えませんでした。
 その話を持ち出した何度目かで、あの人は「なぜみんなに言いたいの?」と逆に聞き返してきました。私は少し不意をつかれた気がしました。でも自分の気持ちを振り返ってみると確かに私は他の部員たちに、あの人と付き合っていることを言いたかったのかもしれません。ひょっとすると、私はみんなに自慢したかったのかもしれません。私はこんな素敵な人と付き合っているんだぞって。

 それでもそんなのは些細なことで、付き合い始めた頃の私は、安っぽい表現だけれど夢を見ているような心持でした。あの人に抱かれてキスをしているときでさえ、これが現実なのか夢なのか分からなくなってしまうようなときがありました。あの人のことを毎日毎日慕い続けて、それでも私なんかには手の届かない人のように感じていた過去の私にこのことを教えてあげたいなんて思ったりしました。
 学生の頃はよく二人で美術館や映画館へ行きました。私は多分なんだってよかったんだと思います。彼は色々とその日に見た絵画なんかについて批評していましたけれど、私もうんうん頷きながら聞いていましたけれど、結局私にとってはそんなことどうでもよくて、彼と一緒にどこかに出掛けて彼と一緒に何かを体験できるということだけで楽しくてしょうがなかったんです。
 あの人は相変らず、何を考えているのか分からない人でした。もちろん私に「好きだよ」とか「愛してる」とかそんなことは言ってくれません。あんまり気楽に口にする人は不愉快だけど、全然言ってくれないのも不安になってしまいます。あの人が全然言ってくれないから、逆に私があの人に愛情の言葉を送るようになっていきました。ホテルでエッチをしている最中とか、あの人が酔っ払って珍しく手をつないでくれたときとか、夜中に携帯のメールでとか、様々なときに私はあの人に「大好き」と伝えました。ほとんどいつも言うチャンスを狙っているみたいな感じでした。
 幸福な時間は流れるように過ぎていきます。私は週一回の彼とのデートを日々の糧みたいにして、生きていました。いつしか私は大学三年生になり、彼は四年生になりました。ほぼ留年が決定していた安藤さんなんかは就職活動を全然していませんでしたし、その他の現代アート倶楽部の四年生たちもフリーターになると言っている人が多かったですが、あの人は就職活動を始めました。自分がアート系の仕事に就くということは考えていなかったみたいです。そうは言わないけれど能力の限界を感じていた部分もあったのでしょう。私は彼は作品はそれほどでもないけれど、批評したりする力はあるから、美術評論家をすればいいのになと勝手なことを思ったりしていたのですが。
 たまに就職活動の後でデートするときなどは、スーツ姿で現れたりしました。感傷的な私はあの人のスーツ姿を見て、いつの間にか時が流れていたのを感じました。いつまでも楽園みたいな学生会館での生活が続くわけではないんですね。
 あの人は苦笑いをしてネクタイを解いて鞄に放り込みました。
 私が接するのに散々苦労した一つ下の学年の部員たちが今度は先輩になって、あの人たちの学年はほとんど部室に寄り付かなくなりました。気がついたら私と同学年の女性部員は私一人になりました。土屋くんは相変らず優しくて、私によく話しかけてきてくれました。あの人がほとんど来なくなったサークルに私がなんとか居続けられたのは、土屋くんのおかげと言っても過言じゃないかもしれません。
 私自身の人生についても、遅ればせながらちょっとずつ悩み出したのも大学三年くらいからでした。それまでは全然自分が社会に出て行くことなんて想像していなかったんです。全く暢気ですよね。でも、先輩たちが就職活動をしたりフリーターになるとか言ったりしているのを聞いて、私も自分の人生を見つけなければいけないんだなとようやく気がついてきました。私はもともとこんな社会性のない人間ですし、アルバイトとかも人間関係が濃密だとすぐに嫌になって辞めちゃったりしていました。続いたのはコンビニくらいで。そんな私が本当に社会で生きていけるの? という不安というか疑問が浮かび上がってきてしまいました。
 この問題の答えは、今でも出ていないのかもしれません。私は自分の人生の決定的な選択をせずにこれまで来てしまったような気がします。そのつけがやっぱり回ってきているんでしょう。
 あの人がどうやって自分と折り合いをつけて普通に就職することにしたのか私は分かりません。彼は私と比べれば全然集団に適応出来そうだし、有能な人だとも思うんです。でも、あんなにアートの話ばっかりして俗世間をバカにしていたあの人が普通の会社に就職してスーツにネクタイでサラリーマンになることには、淋しさを感じてしまったのも事実でした。けれど、毎日のように説明会や面接に行って、そのたびに落とされたりして苦労しているあの人をみると、やっぱり私は応援したくなっちゃうし、就職活動で色々なストレスが溜まるだろうから私といるときだけでもくつろいでくれたらいいなとか思ったりもするんですが。
 あの人自身は、あんまり自分の人生をどう考えているかなんて話してくれない人だけれど、「小器用な自分が嫌だね」なんてボソッと夜中にベッドで言っていたことがありました。やっぱりこの人はやりたい放題しながらアーティストとして生きていきたかったんだろうなと思ってなぜかそのときはちょっと安心したりもしましたよ。


 11、恋人の時間は続く

 どんな相手でもそうだと思いますが、長く付き合っていくと相手のいい部分だけじゃなくて悪い部分も見えてくるんでしょう。私とあの人との場合は、嫌な部分が見えたというと違うのかもしれませんが、次第に気まずい空気が支配する時間が増えてきました。
 あの人といれば何もかもが楽しかった時間は過ぎていきました。私が大学四年生になりあの人が社会人になった頃からだったのかもしれません。以前から持っていたあの人は私のことを全然考えてくれていないという不安を、私はさらに強く感じるようになっていきました。
 実際にそうだったのかもしれないですし、ひょっとすると進路が見えてこない私自身の苛立ちからよけいにそう感じてしまっているところもあったのかもしれません。
 私はあの人に送ったメールの返事が遅かったり、待ち合わせに遅刻されたりすることを異常に気にするようになりました。
 あの人の遅刻は以前からないわけではありませんでした。しかし社会人になってさらに多くなりました。仕事の疲れが溜まっていたのかもしれませんが、私は待たされるのがとても苦手なんです。待たされているとどんどん悪い方に考えて言ってしまうんです。私に会いたくないから遅れるんだとか、私のことが大事じゃなくなったんだとか、私と会うことが彼にとっては少しも楽しみじゃないんだとか。しまいに私は何て魅力のない価値のない人間なんだろうと思えてきて何もかも嫌になってしまいます。デートの待ち合わせをした相手には、その週の間ずっとそのことばっかり楽しみにして、あんまり楽しみだから待ち合わせ場所に二十分も三十分も早く着いちゃったりするくらいでいて欲しかったんです、だって私自身もそうだったから。
 そんなときに遅刻したあの人が苦笑いをしながら現れると、あの人に会えて嬉しいのと、待たされたのが悔しいのと、あの人がいなくなってしまうんではないかという不安と、あの人にも同じ苦しみを味合わせてやりたいという復讐心がごっちゃになってどういう態度を取ればいいのかさっぱり分からなくなってしまい、ただただ無口にうつむき続けたりしてしまいます。
 私が無口になるとあの人も無口になってしまいます。二人はただ顔をつき合わせてじっと黙って時間を過ごしたりしました。このままだとあの人も苦しいだろうし、私も苦しいんだけれど、そんなときはあんまり心の中がぐちゃぐちゃだから、話題をふる力もなくなってしまいました。

 けれど、そうした息苦しい時間を過ごした日の夜ほど、あの人のことを大切に思った日もまたなかったんです。何だか逆のようだけれど、あの人と気まずくなって空気が淀んでしまった後でベッドで抱き合うとき、やっぱり私にはこの人しかいないんだって、この人なしではやっていけないんだって実感するんです。

 楽しいばっかりじゃなくて、嬉しいばっかりじゃなくて、ときには死んでしまえって思うほど悔しかったり悲しかったりとかそういうときがあるから、なおさらあの人のことが愛しく思えてきます。でも、あの人にはそういう感覚は分からなかったのかもしれません。あの人にとっては、息苦しい愛情の駆け引きの中でお互いのことを確かめ合うようなそんなことは面倒なことだったみたいなんです。
例えばあの人が、遅刻したり何気なく他の女の子の話をしたり週末に予定が出来たといってしばらく会ってくれなかったりして私がすねて気まずくなったとき、私はじっと黙ってしまったりするけれど、あの人のそばからは決して離れないんです。でもあの人は、「それなら別にいいよ」とすぐにどこかに行こうとします。私はそれを引き止めるんです。「もうちょっと一緒にいて」って。
メールとかで喧嘩をしても、あの人の方から謝ったり仲直りのメールを送ってきたりすることはほとんどありませんでした。気まずくなったらあの人は、ずっとそのまま放りっぱなしにしてしまうんです。そのことが私には信じられませんでした。最初は根競べみたいなもので先にメール出したほうが負けのように思って、私も彼に連絡を取るのをやめたりしていました。でも、そうしているといつまでも彼からの連絡が来ないんです。
 そうなると何だか腹が立ってきて、「あなたはこのまま私がいなくなっちゃっても平気なの?」とか思うんですが、でも試したりする勇気もありませんし、あの人は絶対私がいなくなっても平気に違いないとも思えてきます。あの人は何かの縁で私と付き合い始めたから一緒にいるだけで、明日から私との関係がぷっつりと途絶えたとしても他の相手を探すだけで何も苦しまないのではないだろうかって。それに引き換え私はあの人がなくちゃ絶対に生きていかれないような気がしていました。
 でも悔しいから「ゴメンね」とはいえなくて、全然関係ない世間話のメールを送ってみたりします。そんなときあの人は、本当に何事もなかったようにその世間話に対しての返事を返してきます。
 でも今考えるとあの人もとても繊細な人だったのかもしれません。当時の私は何て無神経で人の気持ちを考えない人なのと思っていたけれど。繊細だからこそ、人と感情をむき出しにして関わることが嫌だった、出来なかったのかもしれません。私はそんな彼をちょっと一方的に責めすぎていた気もします。もちろん面と向かってののしったりは出来ないんですが、愚痴のように私のことを考えてくれないとか言ったり、逆にこれ見よがしに愛情を表現してみたり。あの人とはもっと間をおいて付き合うべきだったのかもしれないです。そうすれば、ずっと一緒にいられたかもしれない。でも、距離を置いて付き合うには私はあの人を好きになりすぎていました。あの人なしでは暮らせない人間になっていました。

 こうして私の大学四年のときは過ぎていきました。部室にはほとんど寄らなくなっていました。行っても後輩ばっかりで自分の部室じゃないような気がしたし、相変らず年下の集団は馴染めなかったし。土屋くんは私と違ってちゃんと計画を立てて就職活動をして、それほど大きくはないけれどコンピューター関係の会社に就職しました。文系でもシステムエンジニアになれるんですね。それに比べて私はぽつぽつ色々な業界の入社試験を受けてみるもののどの会社にも落とされて、落とされるたびにへこんでしまい、しばらくは活動する元気がなくなって、かなり経ってからまた始めるのだけれどやっぱり落とされてみたいな日々を送っていました。もともとどんな会社に入りたいとかどんな仕事をしたいとかそんなヴィジョンがまるでないからどこに行っても駄目なんですよね。結局いつまで経っても私の就職先は決まりませんでした。
 就職活動にも、あの人との関係にも煮詰まっていた学生生活最後の年でした。


ⅩⅠ、よけいにつらくなるから

 夢乃の予想通り、焼酎を空けた頃には芹澤はふらふらになっていた。夢乃に一万円札を掴ませて芹澤は先に店から出て行った。会計を済ませて夢乃が外に出ると、芹澤は店の前の電柱に寄りかかっていた。
「飲みすぎですよ、前からそうだったけど」
「平気だよ、このくらい。っていうか夢乃さん前より強くなってない?」
「強くなるわけないでしょ、芹澤さんが弱くなったの」
 芹澤は歩き出そうとするがよろけてしまう。夢乃は帰りたくなかった。土屋と同じようにすれば、芹澤ももう少し一緒にいてくれるだろうかと考えた。しかし、そんな手を使わないと、彼を引き止められない自分の無力さを感じた。
 覚束ない足取りで芹澤は先を歩いている。夢乃はそれを追いかけて後ろから肩を抱いた。
「大丈夫ですか? 芹澤さん倒れそうですよ。私の肩貸してあげます。しっかり歩いてくださいね」
 ぐっと芹澤が体重をかけてきた。自分もアルコールの回っている夢乃にはとても重かった。芹澤の腕を自分の肩に回させて、何とか姿勢を整えて歩いた。芹澤の指が夢乃の胸を掴んだ。
「ちょっと、変なとこ触らないの。まったく、芹澤さん全然変ってないんだから」
 この男はやっぱり女の子なら誰でもいいんだ、たまたま二十歳の私を口説いただけだったんだと夢乃は実感した。私のことが好きだったのではなく、ただ酔っ払って女の子に手を出しただけだったんだ。そして、自分がなぜそんな男が好きなんだろうと悲しくなった。しかし、芹澤を嫌いになることは出来なかった。このまま彼の肩を抱いていたいと思った。
「こんなんじゃ、帰れないんじゃないですか、しょうがないからもうどこか泊まりましょうか?」
 芹澤は夢乃の胸を触りながら、寝ぼけたような声で同意した。本当はそれほど酔っていなくて、ただエッチなことをしたいからこんな酔ったふりをしているのかも知れないと夢乃は少し思った。
もう一度、芹澤の胸の中で眠れる。そのことを夢乃は思い描いた。しかし、この半年毎夜のように夢見ていたことであるにもかかわらず、どこか白々しいことのようにも感じられた。そして汚いことのようにも感じられた。酔わせて体を差し出さないと、自分は彼をつなぎとめられない。
ずっと夢乃に寄りかかっていた芹澤は、ラブホテルを見つけると、さっと自分で歩き始め中に入っていってしまった。夢乃はやはり泥酔は半ば演技だったのかもしれないと思った。

 芹澤は部屋に入るやいなやベッドに大の字に横になってしまう。
「シャワーでも浴びてきなよ」
 仰向けのまま夢乃にそう言った。この男はどんな気持ちで半年前に別れた女を抱くんだろう、夢乃はそれが知りたかった。

 シャワーを浴びていると、懐かしい沢田研二のカラオケが聴こえてきた。それを聴きながら、何で自分はこんなことをしているんだろうと思った。何で自分はこんな男が好きなのだろう。こんな男のことが忘れられないのだろう。シャワーと共に涙が流れていった。芹澤はきっとセックスをしたいだけだろう。それが終わってしまえば再び私のもとから去っていくだろう。私は体を提供することでしか彼をつなぎとめられないけれど、それも一時のことでしかなくて、こんなことをしたらつらくなるだけなのかもしれない。そう思うとよけいに涙が流れていった。シュルシュルと蛇がシャワーの水と共に体に巻き付いて締め上げてくるような気がしていた。

 シャワーから出ると、芹澤は一曲歌い終わって疲れた顔をして、ペットボトルで水を飲んでいた。夢乃を見ると優しくにこりと笑い、抱き寄せてキスをした。しかし、夢乃の心は満たされなかった。もう明日の晩はこのキスをしてくれないのだと思うと、蛇が体内を駆け回っていく。
 夢乃は、芹澤に自分がシャワーを浴びながら泣いていたことを気づかれたと思った。しかし、芹澤はそのことについて何も触れなかった。それが芹澤の優しさなのか面倒におもっただけだったのか、夢乃には分からなかった。
 芹澤はゆっくりと夢乃から手を放し、そしてシャワーを浴びに行った。
 夢乃はベッドの上で待っていた。音楽は聴きたくなかった。部屋を薄暗くした。そして、夢乃は横になって静かに目を閉じた。


12、マイ・ファニー・バレンタイン

 大学四年も終わりに近づいた十一月くらいだったと思います。このときの喧嘩の原因は今でも覚えています。やっぱりあの人の都合でしばらく会えなくなったということでした。彼の法事と出張だったかな。それで週末が二回つぶれてしまって、三週間も会えなくなってしまったんです。私はそのことをメールで伝えられて目の前が真っ暗になりました。たかが三週間って思われるかもしれないですし、もともとそのくらいの間隔でしかあってない人たちでしたらそのくらいなんてことないのかもしれませんが、毎週、少なくとも二週間に一回は必ず会っていた私にとっては三週間はあまりにも長い時間でした。それに、週末が駄目なら平日とかに二時間でも三時間でも時間を作って会えるようにしようとしたりとか考えてくれてもいいじゃないですか、それを今週と来週の週末は会えそうもないということだけ平気で言ってこられたこともつらかったんです。
 私は怒って、

〝そんなに全然会えないなら、芹澤さんと付き合っている意味がないよ。私はもっともっと沢山会いたかったの。こんな関係じゃもう嫌だ〟

 ってメールを送ったんです。私としては怒っていじけてその勢いでメールをしただけだったのだけれど、彼はこれを別れ話のメールとして受け取ったみたいです。返事が来るまでに二十分くらいの間があって、こんなメールが来ました。

〝ごめんね。でも今まで色々楽しかったよ。最近は時間的にも心理的にもすれ違ってばっかりだったよね。僕はこれからも夢乃さんの人生が幸福であることを願っているから〟

 私は最初何のことか分かりませんでした。とりあえずあの人が珍しく謝ってきたんだなと思ってしまいました。しかし、なぜだかソワソワ胸騒ぎがして何度もこのメールを読み返して、ようやく彼が別れ話をしたことに気がつきました。「そんなつもりで言ったんじゃないの、芹澤さんがいなくなったら私困るから」というメールを出そうとしたのですが、何かが私を引き止めました。それはつまらないプライドなのか、あの人に対しての怒りなのか、あんまり自分が惨めだと思ったせいなのか。
 私のメールを読んでから彼は二十分で返事をしてきたのです。それも冷静なメールを。彼は二十分の間に私と別れることに対しての気持ちの整理をつけてしまったのでしょうか。
 私は逆に彼に決断させるようなメールを打ちました。

〝私はそんなつもりで書いたんじゃないんです。ただ怒っただけで。でも芹澤さんは私と別れたいのですね。もう私と一緒にはいられないと考えているんですね〟

 メールを送信した瞬間に激しい後悔が私を襲いました。やっぱりただ謝って、これからも一緒にいてくださいってメールにすればよかったと思いました。
 あの人からのメールの返事はなかなか来ませんでした。私はすぐに来るものだと思っていました。あんまり返事が来ないので、それがあの人の答えなのかと思いました。もう私とは別れると、あの人は私にメールの返事を出さないことでそう言っているんじゃないだろうか。もともと私は出したメールの返事はすぐに欲しい方なのだけれど、このときくらい返事が来ないことがつらかったことはなかったかもしれません。
 私は部屋を真っ暗にしてベッドの上に丸くなって布団に包まり、泣き始めていました。それも大泣きをしていました。泣き声が下の階でテレビを見ている両親に聞かれないように枕をぐっとかみ締めて音を消しながら。嗚咽はいつ消えるともなく沸きあがってきました。内臓の奥から震え出して、それが全身に及ぶみたいな感じで、私はいつまでも顔をくしゃくしゃにして泣き崩れていました。
 机の上においてある私の携帯は光ってはくれませんでした。
 散々泣きはらして、それでも心は晴れずに体ばっかり疲れて、気がついたらもう十二時を回っていました。私は階下に降りてこっそりシャワーを浴びました。お風呂場の鏡に映った私の目はプール上がりみたいに真っ赤になっていました。
 部屋に戻るとメールが届いていました。

〝今、夢乃さんの家の近くの公園にいるよ。出てこられるかな〟

 私は家を飛び出しました。慌てていたんで靴下を片方しか履いていなかったんで、後になってそのことを彼にからかわれたっけな。家の近くの公園というのはどこのことを言っているかすぐに分かりました。一度彼に送ってもらった夜に二人でそこでコンビニで買ったワインを飲みながら話したことがあったからです。家から歩いてほんの五分くらいの場所。踵を踏んだスニーカーが何度も脱げそうになりながら私は走りました。あの人の顔を見たら何て言おうとか、あの人は何で私に会いに来たんだろうとか、そんなことは全然考えられませんでした。ただただ、あの人に会いたいだけでした。

 あの人は公園の前に駐車した車に寄りかかって待っていました。私も乗ったことのある、今年彼が中古で買った車でした。あの人は缶コーヒーを飲んでいました。私を見つけると少し照れたような顔をして、手を上げました。
 私は走るのをやめてあの人の方にゆっくりと歩いていきました。
「こんばんは」
 あの人が言いました。私もあの人に会釈しました。
 あの人はいきなり私を抱こうとしました。私は体を強張らせました。こんな解決法は嫌だ、体を寄せ合ったって問題が解決されるわけじゃない、抱いたらすべて上手くいくなんてそんな風に思ってほしくない。ちゃんと自分がどんな風に思っているのか言葉にして私に言ってほしい。そうじゃないと、今晩仲直りしたって、また同じことを来週もやってしまうかもしれない。
 一度私に拒まれたあの人は、少し困った顔をしてから、もう一度私を抱き寄せました。私に二度目は彼に身を任せました。この人はこれ以外にできないんだ、抱き合えば何でも解決できると思っているわけじゃなくて、抱き合うことしか知らないんだってふと分かったからです。仲直りの方法も、謝る言葉も、愛情を伝えることでさえ、知らない人なんだ。この人は付き合い始めてからずっと、私に何にも言ってくれなかった。それは言えなかったんだ。この人は私を抱きしめることしかできないんだ。
 私たちは街灯に照らされた夜の公園の前で抱き合い、そしてキスをしました。

 それからあの人は私を車に乗せました。
「どこに行きたい?」
 私は明日会社じゃないのと聞き返しました。彼はそんなことはどうでもいいと言い、それじゃ海でも見ようかと車のエンジンをかけました。

 私たちは第三京浜で神奈川へ渡り、深夜の海岸通りをドライブしました。夜の海は真っ暗で何も見えなかったけれど、あの人はいつになくハイテンションで、二人は馬鹿な話ばっかりして笑いっぱなしでした、まだお酒も飲んでいなかったのに。
 そして海岸沿いの大きなラブホテルにたどり着いたのはもう午前三時過ぎだったです。こんな時間までフロントが開いているホテルが見つかってよかったです。
 そこはとても立派なホテルでした。暗くて見えないけれど窓のすぐ外は海になっていて、部屋はとても広くて内装も新しかった。そしてお風呂が大きくて、湯船も普通の家庭のお風呂の二倍くらいあるんです。あの人と一緒にお風呂に入ったのはこのときが最初で最後でした。二人はじゃれあいながら湯船につかって、恥ずかしがりながらお互いの体を洗いっこしました。

 ベッドに横になったのはもう四時を回っていて、彼は「明日は風邪ひいて会社休もう」なんて笑いながら言いました。いつの間に持ってきたのか彼は小さなポータブルオーディオとスピーカーを鞄から取り出しました。彼がそのときかけたのは、いつも部室でかけていた狂ったようなハードなジャズではなくて、甘くロマンチックなチェット・ベイカーでした。そのことをあの人に言ったら、アンソニー・ミンゲラの『リプリー』は『太陽がいっぱい』に比べれば劣るかもしれないけれど、巷で言われるほど悪くはないなかなか良質な映画だった、特にトム・リプリーに酒場で歌わせる曲に「マイ・ファニー・バレンタイン」を選ぶセンスが嬉しいとか、そんな話をしていたっけ。それから私たちはチェット・ベイカーの「マイ・ファニー・バレンタイン」を聴きながらベッドの上で子どもみたいに戯れました。私はあの人の体の色んなところをいじくりまわしちゃったし、あの人は私にプロレス技をかけようと必死になったりしていました。

 はしゃぎ疲れた二人が眠りにつくころには、夜が明け始めていました。私は彼の腕の中で眠りの中へと引き込まれながら、今この瞬間が私の人生の中で最も幸せな時間なのかもしれないと、そんな哀しいことを考えていました。

                                                           終 

マイファニーバレンタイン

* 本作品は塚田遼の小説サイト「ぼくは毎日本を書く」および「小説家になろう」に同時掲載しており、文芸同人誌「孤帆」関連のサイトに掲載される可能性があります。

マイファニーバレンタイン

恋人に別れを告げられた夢乃は彼を忘れられずに苦しみ、自分を抑えられずに何通もメールを送ってしまったり、家の前で待ち伏せてしまう。そんな彼女は彼と出会った大学の学生会館での思い出を振り返っていく。そこはいんちきアーティストたちの集まりであり、彼女にとって忘れられない時間であった。

  • 小説
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