羽 音
全ての息を吸うモノ達がホームシックにかかった。そんな夜に思えた。だって本当に静かだったから。キャンパスからの帰り道はとても遅くなった。時刻は25時。肌を撫でる風は無駄に優しくて嫌になる。アパートから数百メートル先に或る見慣れた街灯が力なく光っていた。でも何時もと様子がおかしい。アスファルトだけを照らしている筈の人工の光は、細い腕で脚を抱え込んで座る1人の女を照らしていた。その女の背中には学園祭で製作されたハリボテで真っ白な造り物の様な羽が生えていた。そのままゆっくりと進んでよく見ると白いワンピースを身に着けていて裸足だった。そばに置かれた靴もない。気味が悪いと思った。誰だって気味悪く思う筈だ。ボクは早歩きでソイツが座っている前を早々と駆けて行き、亜鉛メッキで塗布されているアパートの階段をカーン、カーンと登って行って薄い扉に侵入者を抵抗する弱そうな鍵穴に鍵を差し込んで勢い良く部屋に入った。鞄をテーブルの上に投げ捨てて窓を見た。街灯の下にまだあの羽の生えた女が居た。ボクはカーテンを閉めて世の中には奇妙な奴が居るなと思いながら風呂場に向かい、服を脱いでシャワー浴びた。熱い湯が頭を打ち付けても何故かあの街灯の下に座る女の事が頭から離れなかった。風呂場から出てジャージを穿いた。手ぬぐいで頭を乾かしながらカーテンを少しだけ開いて見た。やはり、まだあの羽が生えた女は座っていた。ボクはドライヤーで髪の毛を乾かした後、お湯を沸かしてココアのパウダーをマグカップに注いでスプーンをくるくると回した。そうして、ミルクを入れ忘れた事に気づいて出来上がった液体に入れた。ココアを飲みながら再びカーテンを開けて下を見た。あの羽の生えた女はまだ街灯の下に居た。1ミリも移動していない。まるで、その一角が油絵に見えた。ボクは深いため息を吐いた。それでマグカップを食器棚から取り出してココアをもう1個作ってアパートから出た。それで思った。ボクはお節介を焼く人間に何時の間になったんだと。
羽を生やした女は街灯の青白い光の下で冬眠した石造みたいだった。
「おねぇーさん。そんな場所に居たら風邪ひきますよ」
ボクの声はどうやら、その羽の生えた女に聞こえたらしく伏せていた顔を上げた。二つの大きい瞳がボクの姿を捉えていた。小さな唇が震えて何かを言おうとしたが音が出なかった。仕方がない。ボクはそう思って持っていたココアをその羽の生えた女に渡した。羽の生えた女は一瞬、ビクッとする。でもそれから静かに二つの細い腕を伸ばしてココアを受け取り顔に近づけた。湯気を眺めて、ボクの顔を見た。ボクは取りあえず笑った。その表情を見た所為か羽の生えた女も少しホッとした様に笑って漸くココアを飲んだ。
「あ、あっつい」
第一声がこんな言葉だった。羽の生えた女は舌を出してボクを睨んだ。まるでボクが悪い事をしたと言いたげさの顔だ。
「猫舌?」
ボクは質問した。
「猫舌って何よ? 貴方、ワタシのベロを焼けどさせる気かしら?」
「知らないよ。君の舌が熱に弱いんだろ」
「でもまぁ、この飲み物、結構美味しいわね」羽の生えた女はニヤリと笑ってココアを飲み干した。最初に見た顔の表情からすると、まるっきり印象の違う女だった。
「こんな所で何しているの? 君って不審者? まぁ、どう見たって、ただの不審者にしか見えないけど」
「真夜中に街灯の下でうずくまって居たら不審者なのかしら?」
「それが不審者じゃないとすれば、世の中は或る意味で平和かもな」
ボクがそう返答すると羽の生えた女は立ち上がってボクの顔を見た。クスリと笑っている。続いて物珍しいモノを観察する様にボクの廻りを回って観察した。
「貴方、面白いわね」
「面白い? 何が」
「だって……。まぁいいわ。貴方、ワタシの背中に生えている羽と同じモノを見なかったかしら?」
「そのハリボテのダンボールかプラスチック製の板で作ったみたいなダサい羽? 見てないよ。でも見かけたとしても即刻、燃えるゴミにポイ捨てコースだね」
ボクがそう言うと羽の生えた女はケラケラと笑って「そうね! 確かに貴方の言葉の通りカッコ悪い羽よね」と言った。
「なあ聞くけど。その羽ってなんかの飾り物なのか?」
ボクは改まって聞いた。
「飾り物ではないはね。貴方の指みたいなもんかしら、何かを始めたり、何かを求めるには手で掴む様にするでしょ? それと似ているかしらね」
「まるで人間ではない言い方だな」
「そうじゃなければ、何か問題でもあるのかしら?」
ボクはそう言われて少し考えて答えた。
「確かに問題はないかもしれないし、問題はあるのかもしれない。ただ一つ忠告するなら、そろそろ家に帰った方がいいと思う。もう遅いしね」
「貴方の言いたい事は何となくだけど分かる。でも帰れないのよね。別に家が燃えて無くなったとか、主に二度と帰って来るなと言われたとか、帰り方を忘れたとかではないの。簡単に言うとそんな時期じゃないのよ。分かるかしら? 冬に西瓜は採れないし、夏に暖炉に火をくべない。難しい事を説明したくたないの、めんどくさいから」
「そうか。でも何時までも此処に居るんじゃないぞ」
ボク言った。それでアパートに戻ろうと振り返った。でも1つ気になって、羽の生えた女に聞いた。
「その羽でもし、飛んだら、どんな音が鳴るんだ?」
「素敵な音よ」羽の生えた女はマグカップをボクに渡しながら言った。
土曜日の朝はやけにウルサイ音で目が覚めた。無数の風を切る音がこのアパートの外から響いてくるのだ。ボクは何事だと思い、カーテンを開けた。するとだ。この前、街灯の下に居たあの羽の生えた女が空中を舞っていた。だが、その女だけではない。同じ顔、同じ姿、同じ形、同じ羽の生えた女達が空を飛んでいるのだ。ボクは息を飲み込んだ後、アパートの外に出た。街の中を走りまわって見渡す。羽の生えた女たちはどの場所、どの位置にも浮かんでいる。だが、その下で歩いている人々は全くの無関心で歩いていた。いや、無関心ではない、気づいていないのだ。そこら中に飛んでいる羽の生えた女の姿が見えないのだ。何故? ボクはそう思って、飛んでいる羽の生えた女たちをもう1度見た。だが1つ違う事に気づいた。羽の生えた女たちは皆、2つの羽が生えていた。あの日、街灯の下で喋りかけた女ではない。こいつら全員、羽でも探しに来たのか? でもそんな様子はない。だってなんだか嫌な羽音に変わったから。
羽 音