月への階段
星がきらめき、月はこうこうと辺りを照らす。優しい風が静かに湖水をゆらしている。僕は水面に浮かぶ月影をそっとすくう。手のひらをのぞくと月はもうどこにもなかった。
「いい夜だね」
いつの間にか隣には知らない子がいた。僕がうなずくとその子がほほ笑んだ。
「桂」
僕が聞き返すとそれが名前だと言う。
「よろしければ、月へお連れしましょう?」
桂が指さす先に階段があった。湖をグルグル回り、らせん状に空へと伸びている。その行き着く先はとても見えない。見えないけれども、桂の言うようにきっと、月へと通じているのだろう。
「さあ」
僕は差し出された桂の手を取り、階段を登り始めた。コツコツと小気味の良い音が耳をくすぐる。僕らの足音はしだいにリズムをきざみ、二人で踊るようにかけだしていた。
空へと登るにつれて、街の灯りが遠のいて行く。それでも地上の光は、星々の輝きよりも明々としている。僕は何だか、登っているはずなのに海の底へと沈んで行くように感じていた。
「おや、こんな所に人間がいるとは珍しい」
羽音を響かせ一羽の鳥が階段に止まった。茶色っぽくて白黒まだら、長いくちばし、僕の腕に丁度収まりそうな大きさだった。
「俺っち、てっきり空には、人間はいないものだと思ってた」
鳥はめずらしそうに僕たちの周りを回り、そこら中を突く。とくに背中は念入りに突かれた。僕らは、くすぐられるような感覚にもだえながら、鳥から離れた。
「翼もねえくせに、よくもまあ、こんな高くまで来たものだ」
鳥は不思議そうに首をかしげている。
「歩いて登ってきたんだ」
桂はずっと下へと続く階段を指さす。すると鳥はその時、初めて地上と月をつなぐ、きざはしに気が付き、フワリと飛び上がった。
「たまげるね。空へ昇るのに歩くなんて」
「鳥だって、夜、目が見えないのによくここまで飛んで来られたね」
僕が思っていたことを桂が言った。鳥は馬鹿したように高い声で鳴く。
「夜、目が見えない鳥なんてニワトリぐらいのものさ」
どうやら、鳥と僕らはお互いに、お互いをかくあるべしと決め付けていたようだ。
「ところでお前さんたちは、どこへ行くつもりなんだ? おれっちは、寒くなる前に南へ行くんだけどな」
「月まで」
僕たちは、はるか上空を指さした。
「まったく変なやつらだ」
そう言うと鳥は、どこからともなく大きな羽織を取り出した。
「行先は違えども、同じ旅する仲間だ。こいつを持って行きな。上へ行けば行くほど寒くなるからな」
羽織を受けとる。触るだけでそれが暖かい物だと分かる。
「良い旅をな。アディオス、アミーゴ」
鳥は南の空へと飛び去って行った。
「さあ、休憩は終わりだ」
僕らは再び階段を登りはじめた。鳥が言っていたように登れば登るほどに寒くなって行く。思わずブルリとする。
「せっかく貰ったし、これを着よう」
羽織は、僕ら二人が一緒に着るのに丁度よかった。僕が右そでに、桂が左そでにそれぞれ腕を通す。互いに肩を抱き、まるで二人三脚のようにして歩く。羽織は思ったとおりに暖かかった。それどころか、翼を得たように身体が軽くなる。僕らの歩みは弾むように速度を増して行く。
見下ろすと地球の丸みが分かる所まで登っていた。
「ずいぶんと遠くまで来たね」
桂の言葉に僕は小さくうなずいた。
「ところでキミはどうして月へ行こうと思ったんだい?」
僕は少し考えた。どうして、うながされるままに階段を登る気になったのか分らずに首を振った。
「分らないなんてことはないだろう。自分のことなのだから」
やっぱり分からない。でも、何故だかさみしかった。
「まあ、いいさ」
宇宙に出てしまうと地球と月だけが、はっきりとしていて、星はあまりにも遠かった。不安にかられたけれど、今さら地上に戻ろうとは思わない。一路、月を目指すだけだ。
一歩、また一歩と月が大きくなって行く。
僕らは階段を登っていたはずだった。けれども、月に近づいて行く内にいつの間にか階段を下っていた。ゴールは近い。
月面のようすが少しずつ明らかになる。デコボコとした大地には見渡す限り、砂と岩しかない。
階段の行く先には、くぼみの中でもひときわ大きいな穴へと続いている。
「はい、到着」
桂はそう言うと羽織からスルリと抜け出し、かけだした。僕はとっさのことにボーっとしてしまう。でも、桂を見失うわけにはいかない。慌てて桂を追いかけた。
追いかけた先には、大きな木がそびえ立っていた。月の空をおおい隠し、辺り一帯を暗くしている。
その薄暗がりの中に桂を見失っていた。心細さを感じながら、必死になって探す。でも、桂はどこにもいない。
その時、遠くに小さな光が灯っているのを見つけた。僕は涙をこらえて、光を目指してトボトボと歩く。どうやら光は暗がりの真ん中、大木の根本の方から来ているようだ。
光に近づくと辺りが甘い香りに満たされていた。きっとこの木の香りなのだろう。
光の側に人影が見えた。きっと桂だと思い、僕はかけだす。
「おやまあ。こんな所まで来たのかい」
その声を聞いた瞬間、僕は泣いていた。人影はおばあちゃんだった。
「ほんに甘えただね、ぼんは」
しわしわの手が、あやすように頭をなでる。
「でも、命がある内にこんな所へ来ちゃいけない」
おばあちゃんは、涙をこらえる僕の目をのぞきこむ。
「さあ、もうお帰り」
もうお別れなのか。そう思うと知らずに、またしゃくりあげていた。
「何も悲しむことなんかないよ。おばあちゃんは、いつでもぼんを見守っている。それに三百回も満月が登れば、また会えるさ。その時は、ぼんが優しくしておくれよ」
おばあちゃんは、ギュっと僕を抱く。僕の身体をクルリと反転させるとトンと優しく背中を押した。
すると僕の身体は、吸い込まれるように宙へと浮かび上がった。とっさに何かをつかんだ。しかし、むなしくもそのままドンドンと吸い上げられていった。
そして、気が付くと僕は自分のベッドの上にいた。手の中には枝が一本。黄色い小さな花を無数に付けて、甘く香っている。
月への階段