極北のダイヤモンド
「極北のダイヤモンド」:2018年3月完成:広大で、長い時間の小説に挑戦した作品。
1929年にソ連にスターリンにより、イワンとマリヤの家族もシベリア、オイミャコンへ送られた。そんな夏の事、オイミャコンの郊外の森にピクニックをかねて木の実や野いちご、葡萄をとりに行った。その時、レフトと妹のベロニカが、大きな岩石が多く地表に突き出ている一画を見つけた。 イワンとマリヤが掘り返してみると、偶然、光る鉱石が十個見つかった。よく見ると水晶の様な輝くで、太陽に当てて見ると、素晴らしし輝きではないか、直感でダイヤモンドに違いないと思った。わからないように埋め戻し自宅へ帰り、家族に他人に絶対、口外しないように言った。その後イワンは戦争で戦死。終戦後、シベリアを離れ、ウラジオスロクヘ移動。夏のある日、マリアとレフが、車でシベリアの、あの森に隠した光る鉱石を掘り返して持ち帰った。その後、マリアが心臓を患い、レフの奥さんアリサの実家のあるロシアの避寒地ヤルタに移動し、レストランをして生活した。その後、マリアが、いつも監視されているようなソ連が耐えられなくなり、南ヨーロッパの温暖な地への移住を希望した。そんな、夏の日。マリアとレフは、意を決して、光る鉱石を隠し持って、ソ連の国境を越えて、ブリュッセルへ、その町の有名な宝石研磨業者に原石を持ち込んで研磨をお願いし、その後、どうしたら良いかを聞き、スイスのプラべートバンクを紹介してもらい、チューリッヒのプライベートバンクで口座を開き、ポルトガルに渡り、大きな家を買い、移住申請をして、年月が経ち、永住権を得て、国籍を取得した。その後、孫達を米国に留学させ、プライベートバンクの担当者の支持通り、投資をしていき、レストラン事業の拡大も成功していくストーリーです。(カクヨム、小説家になろう、にも、載せています。)
1話:ソ連邦の発足とスターリン粛正
1914年に勃発した「第1次世界大戦」は世界を巻き込む大戦に発展、各国総力戦に突入して国内産業は停滞、物の価格高騰や生活物資の不足に見舞われてしまいます。その後、1917年11月7日に、レーニンによるロシア革命がおこり、帝政ロシアが終わりを告げた。
スターリンは、1912年からレーニンの仲間のボリシェヴィキ達の活動に加わり、機関誌プラウダの編集に当たる。革命後は人民委員会議(ソヴィエト政権の内閣に当たる)で民族人民委員となりレーニンの片腕として次第に地歩を築いていった。1922年にロシア共産党の書記長となる。1924年のレーニンの死後、共産党の主導権をめぐってトロツキーとはげしく対立するようになった。その後、トロッキー達を排除し、1929年までには党権力を握り、スターリン政権をつくりあげた。
1929年、資本主義世界では世界恐慌が起きドイツ・イタリア・日本などのファシズム国家が台頭、一方の先進的な帝国主義諸国はブロック経済を形成し自国の利益を守ろうとした。そして世界中が混迷を深め、混沌とした暗黒の時代を迎えた。その頃、スターリンがソ連に政権を樹立した。
彼は、第一次五ヶ年計画をで政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した。一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。政府主導の農業事業の集団化による農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し1932年から1933年の飢饉へと繋がった。反対派への弾圧は、グラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上。これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた。
強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された。多くの人を罪人に仕立て上げて大規模な粛正を行った。
この小説の主人公であるイワンとマリアも、その被害者としてモスクワ郊外の村で野良仕事から帰る途中、KGBの検問で多くの村人と共に国家反逆罪を言い渡され、極北の地、シベリアのオイミヤコンへの追放処分を受けた。その後、シベリア送りになった多くの男達の手で、大きな二階建てのアパートを建て、室内にトイレも作った。世界一寒いので九月から五月までは、薪や石炭で、常に、暖炉をたいて過ごしていた。行き先は現在のサハ共和国のオイミャコン。
2話:シベリア脱出と水晶の様なものを発見
冬はマイナス50℃と寒い、水道も凍るので使えない。そのため水は川から調達する。洗濯物は外に干すと、干したそばからどんどん凍っていき、数分経つと服の表面に水分が吹き出し氷のかたまりになり、それを払い落とせば終わり、見事に乾いているという具合だ。
冬は、常に、車のエンジンを、かけっぱなしでないと止まったら再びかからない。しかし夏は暑く、7~8月は30℃以上になり、年間の気温差は100℃近くなる世界で最も過酷な住環境の土地。しかし、住人に長寿の人が多い。その理由は病原菌やウイルスも冷たすぎて死滅してしまう。冗談の様な、話しが成り立つ程の厳しい環境だった。仕事と言えば、ただ、毎日、毎日、ひたすら土を掘り返し、採掘した岩石を運ぶだけだった。その岩石を作業場に持っていくだけの単純作業。実は、その岩石の中から稀に、大きなダイヤモンドが見つかる事があるのだ。
イワンとマリア夫婦の間に1935年、レフという男の子が誕生し、続いて1937年に女の子、エミリヤが誕生した。1943年、夏の事。イワン一家4人でオイミャコンの郊外の森にピクニックを兼ねて、木の実や野いちご、葡萄を取りに行った。その時、レフトと妹のエミリアが、大きな岩石が地表に突き出ている一画を見つけた。イワンとマリヤが掘り返してみると、偶然に光る水晶のような石が3つ見つかった。よく見ると水晶の様な輝きで、太陽に当てて見ると、素晴らしい輝きを放つではないか、直感でダイヤモンドかも知れないと思った。そこで、他人に知られず、自分たちがわかる様に、目印となる物と共に地中深く埋めた。日が落ちてきたので、家に帰った。
翌日、ツルハシとスコップとバケツを台車に載せて人に見つからない様に、朝早く、あの森へ出かけた。その場所についてツルハシで、その周辺を広く浅く掘り、次にスコップで岩石や土をどけた。その後、その周辺を4人で、慎重に探ってみると、また別の3個の大きな水晶のような物が見つかった。その後も夕方、日が落ちるまで、その作業を続けると、合計10個の水晶みたいな物を探しあてて、今後は、前と違った場所に、目印なる物と一緒に埋めた。日が落ちてから、家に戻り、この話は、他人に絶対に話さないと家族で約束した。
その後、父のイワンは、1944年にロシアと日本の戦争に駆り出された。その後の日本軍とロシア軍のカムチャッカの戦いで戦死してしまった。スターリンも亡くなり、1946年、母のマリアとレフ、カテリーナは、極寒の地オイミャコンを離れることにした。イワンの古くからの友人で、毛皮商人ユーリの家族とトラックにのって、ひたすら南下していった。夏のシベリアは、昼間は暑く、ヤブ蚊、ブヨなど多く、トラックの長旅は困難を極めた。2週間後、ヤクーツク到着し、そこを南下してネヴェルから東へ、海の方向へ向かった。一週間後ハバロフスクへ到着し、そこから南下を続けて二週間、ウラジオストクの港にでた。
3話:ウラジオストクで毛皮製品販売
そのウラジオストクの郊外に、ユーリと共に、大きな家を借りて住み始めた。間仕切をつくって、その小さい方の一画をマリアとレフ、カテリーナの住居として住まわせてもらった。その後ユーリは、ウラジオストクの町中の大きな毛皮屋を探しては雇ってくれる様に頼み込んだ。しかし、そう簡単には、雇ってくれない、あきらめかけた時に毛皮屋を見つけ、そこの主人セルゲイと話をすると、主人がじっと考えて、じゃー俺の試験に合格したら、雇ってやろうと言い、倉庫から、4つの毛皮を出してきた。どれも、あまり上等ではない熊の毛皮だった。熊の毛皮のベスト(600ルーブル)にハーフコート(1000ルーブル)、帽子(200ルーブル)、マフラー(400ルーブル)合計で2200ルーブルが仕入れ値だった。これら全部を売って利益が出たら、それを俺に返せ。もし赤字や売れ残りがでたら、それで不合格で雇わないという条件のテストを受けるかと聞いてきた。もちろん、そのテスト受けるといい2200ルーブルを払って買い取った。ユーリーは、その毛皮は直感で高いと思い、うまく工夫をして売らないと、そんなに簡単に利益が出ない事を悟った。自宅に帰り作戦を立てるのだが、もし自分がお客だったら、間違いなく買わないであろうB級品をどうやって売るか考えあぐねていた。
そんな時に、隣に住む、亡き友人イワンと妻のマリアとマリアの妹のベロニカが裁縫上手で、綺麗な刺繍の服をつくっては売っていたのを思い出した。そこでマリアに、どうやって高く見せるか相談を持ちかけた。するとベロニカと二人で3日いただければ、きれいな刺繍をつけて見せますといい、毛皮商品を持っていった。3日目の晩に、加工し終わりマリアが商品を持ってきた。帽子の内側に綺麗な刺繍の布をあて、ベストとハーフコートに、前あわせの所に縦長の刺繍入りの布をつけてきた。マフラーには目印になるような美しい刺繍の布を外から見えないようにうまくつけてきた。
早速、翌日、町に出て、町1番の高級ホテルの近くで金持ちそうな夫婦や外人の夫婦に売って回った。やはり思ったとおり刺繍の美しさをみて、その日のうちに全商品が売れた。売値は全部で3000ルーブル。店の店主に2500ルーブルと言って、その金を手渡した。喜んだ毛皮屋の主人は、どうやって売ったのか聞いてきた。それに対して、ユーリは商売人の腕ですよと答えて煙に巻いた。明日から、うちで雇うから、売れ残った商品を外で売ってこいと言った。まーそんなとこかと、ユーリは思っていたが、職にありつけたので、良しとしよう自分に言い聞かせた。家に帰り、妻のミラナにこの話をした。ミラナは明日からの仕事が見つかって大喜びだった。儲けの500ルーブルのうちの200ルーブルをマリアに手渡し明日からも、また手伝っておくれと依頼した。
翌日、セルゲイの店へ出かけて、今後の仕事について聞くと店で販売するのではなく、店の商品を卸売りするから買い取って郊外の町や村へ出かけて売ってこいと言った。仕方なく了解した。セルゲイが店の倉庫に残る在庫品をユーリーに見せて、どれでも良いから持っていって良いと言いユーリーが慎重に商品をみて、毛皮のチョッキ、ハーフコート、合計15点を選んだ、セルゲイが10000ルーブルで良いと、言ったが、ユーリーは8000ルーブルなら、即金で買う、10000ルーブルなら5回に分けて、来月から1ケ月にごとに支払うと答えた。そりゃ厳しい、帽子3つもつけるからとい10000ルーブルで即金と言っても、ユーリーは8000ルーブルで即金を譲らない。
4話:レフとフョードルが柔道習う
押し問答したが、セルゲイが即金の魅力に負けて8000ルーブルで売った。その商品を家に持ち帰り、4日かけて、マリアが前のようにベロニカと協力して綺麗な刺繍付きの布を縫い込んだ、素敵な毛皮に仕立て上げた。それを持ってユーリーがトラックに乗って女房のミラナと二人で販売して回った。安い物から売れ始め、初日にチョッキが5つ、ハーフコートが4つが売れた。3日かけて全部売れた。売れた金額の合計が12000ルーブルで綺麗な刺繍が特に女性達に人気だった。
セルゲイの店でも、在庫が少なくなり、困ってしまったが、即金で毛皮を買い取ってくれるユーリーの話が他の毛皮屋でも話題になったようで、ユーリのトラックを見つけると、うちによって、毛皮製品を買い取ってくれと、呼ばれるようになった。そこで、大きな毛皮屋のマルク、ロマン、イリヤ、アントン、エリセイと商売するようになった。その後、コンスタントに、稼げるようになったある日。また、いつものように販売して回っていると、トラックを見て、あるご婦人が、お金がなくなって、食べ物を買えなくなったので、自分の持っている、厚手の毛皮のコートを買って欲しいと言われ、かわいそうに思い、1000ルーブルでどうか、と言うと、倍以上の値段で手に入れたが、仕方がない現金の方が欲しいからと、1000ルーブルで買い取った、そして、売れ残った毛皮の帽子をただで、渡してやった。
その話が、広まって、正直者のユーリーと呼ばれるようになり、商売がうまく回転していった。そして、秋が来て、大雪で、トラックを出せない日が続き、冬の晴れ間を利用して、月の1/3程度、商売をして回った。新しい年が明け、3月が来て、4月になり、毎日のように商売ができるようになった。その頃には、ユーリー家でも後家さんのマリアの家でも、十分に食料を買えるようになり、少しずつ、お金が貯まっていった。夏場に、お客さんから毛皮製品を安く買い取り秋の頃から、また買ってもらうケースが多くなった。根の優しい、ユーリーは、あかぎれの手をした子を見ると、売れ残りの手袋を無料で渡したり、安い中古の毛皮の靴も、寒そうな子供に恵んでやっていた。そんなユーリーを近くの地域の人達は見ていて、ユーリーが行商に行くと、家に呼ばれて、お茶やパンをもらうこともしばしばあり、商売もうまく回転していた。
そして数年がたち、ユーリーの息子、フョードル、娘、ヴェーラも中学校に入り、マリアの息子のレフ、娘のエミリアも仲良く一緒に中学校へ行くようになった。フョードルとレフは、活発で身体も大きく、一生懸命、家の手伝いをして、夜遅くまで勉強して、成績も良く、良きライバルであった。学校の近くに、戦争後、ここに、住み着いた、加藤清志という日本人がいて、空手や、柔道、習字、日本語を子供達に教えていた。フョードルとレフは、中学校3年の時に、空手と柔道に興味を引かれ、道場に通うようになり、日本語の会話も教えてもらうようになった。そして、日本の漢字に、興味を持ち、武士道の国、日本に憧れるようになっていた。そして、月日の流れるのは、早いもので、中学を出て、フョードルは商業学校、レフは工業学校に入り3年、いよいよ、18歳の青年、それでも加藤の柔道、空手教室に通い続け、加藤の弟子として、生徒達を教える様になっていった。日本語も日常会話程度は、マスターしていった。フョードルは、ウラジオストックの貿易会社へ、レフは、船会社に勤めた。仕事をしながら、毎日のように、加藤の道場に通い続けた。
5話:レフの結婚と日本旅行
1957年にレフが同じ会社のウクライナ系ロシア人女性アリサと結婚し、翌年1958年にフョードルがロシア系の女性ポリーナと結婚した。レフは妻のアリサとの間に1958年に長男マキシムと1959年に長女ソフィアを授かった。フョードルの奥さんポリーナは1959年の長男マカール、2年後に長女オルガを出産した。1958年、レフ24歳の時、船会社の仕事で1958年から開設された、ナホトカと日本の敦賀港への定期貨物船の船乗りの仕事に就いた。敦賀港につくと、りんご、なし、お米、お餅やうどん、そばの乾麺など珍しい物をお土産に実家に帰ってきた。ユーリーは51歳になり毛皮の行商から毛皮の店を持ち、その他食料品や日用品などスーパーマーケットを経営し金回りも良くなっていった。店を閉める頃に売れ残った商品を貧しい人達に超格安の値段で売るので閉店間際には行列ができた。売れ残りだけでなく使用期限の短くなった商品も捨て値で彼らに譲っていた。
1961年、フョードルの会社で、ウラジオストクと横浜港との定期航路が開設され日本とロシアを旅客船が往来する様になった。そんな、ある日、地元で柔道を教えている加藤が日本へ旅客船で帰るというのでレフとフョードルも休暇を使って日本に行きたいと言いだした。ユーリーが旅費を出してくるから、日本を見てきなさいと言い送り出た。1962年の横浜に降り立つと、大きなビル、電車、人、車の多さに驚いた。横浜に泊まり、翌日、東京へ行き、東京駅周辺の高層ビルに圧倒され、おしゃれな銀座、魚の築地、公園の皇居と二人は見るもの全て、物珍しく興味津々だった。東京に二泊し、電車で下町、山手、武蔵野の方まで回った。写真をいっぱい撮ってウラジオストクへ戻った。実家に帰って、たくさんのお土産と、多くの写真を家族達に見せて、日本の発展しているのに驚いたと語った。
1964年、マリアと言えば、ベロニカとアリサと一緒に得意の裁縫の腕で綺麗な刺繍入りのシャツや下着を仕立ててユーリの店の一角を借りて、順調に商売を続けていた。最近マリアの家でも乗用車を買い、レフや、妻のアリサが運転していた。季節は春から夏へ、そんなある日の晩、マリアが二十年前のピクニックの話を思い出して息子のレフと娘のエミリアに、この夏、車で、オイミャコンへ行ってみようと言い出した。毛皮の縫製の仕事と家の方はベロニカに任せ3週間ほど休暇を昔の友人に会うという名目で出かけた。一週間ほど走り続けシベリヤのオイミャコンに到着。ピクニック用具を買い込んで20年前、水晶の様な物を埋めた草原に行き、ピクニックに行く振りして、レフとエミリアに野いちご、レッドベリーなどを取らせて、マリアは埋めたと思われる所を小さなスコップとシャベルで丹念に探し出した。30分位で目印の物を見つけ、地中から袋に入れた水晶の様なものを探し出した。
次の埋めた場所を探してスコップとシャベルで探す事15分で目印を見つけ、埋めた物を回収した。その後、何食わぬ顔をして、買ってきたサンドイッチとポットに入れた珈琲を飲んで、ゆっくり休み、取ってきた、野いちご、ベリー類を袋に入れて、車に戻り、来た道を一目散に、南下して、ウラジオストクへめざし、途中の町で宿泊しながら、六日間で自宅に戻った。帰って、留守番していたベロニカに、お土産を渡して、お礼を言った。13日間で戻ってきたのを不思議に思い、ベロニカが何かあったのというので、昔なじみの友人達が、モスクワ郊外に既に引っ越していなかったと伝えた。
6話:ダイヤとレストラン開業
マリアが、その後、持参した水晶のような物をいれた袋を家の縁の下に穴を掘ってしまっておいた。気になったので一番小さな水晶の様な物を別にして持ち歩いた。1964年の日曜日にウラジオストックの町の宝石屋に行き気になり小銭いれにいれた小さな水晶みたいな物を鑑定してもらった。その結果、間違いなくダイヤモンドの原石だと言われた。こんな物どうしたのと不思議そうに聞いてきたので、亡き夫から大事にする様にもらった形見の品だと言い店を出た。マリアは心臓が飛び出そうになるのを抑え、冷静さを予想っていたが額に冷や汗が滲んでいた。
家に帰りベロニカが不在なのを確認して息子のレフと娘のエミリアに本物のダイヤモンドの原石だったと伝えた。すると二人とも大喜びだった。しかし、その頃のソ連では、こんなにダイヤモンドを持っているのを見つかったら、大変なことになり、警察官や役人に取り上げられ、牢屋に入れられたり、場合によっては殺されるかも知れなかった。そこで秘密を守り続ける様に言い、子供達に、絶対口外するじゃないよと念を押した。1960年代以降、食料品は以前として配給制で品不足、そのため魚市場に朝早く出かけて、エビ、カレイ、ウニ、オヒョウを仕入れたり、傷がついて売り物にならない魚を買いに行き、魚の煮付け、フライ、ピロシキの具にして使っていた。野菜市場にも行き、松茸、行者ニンニクなど手に入る野菜を買いあさって料理に使っていた。
それでも足らなそうな時は車で直接、農家を回り料理に使えそうなものを買いに回っていた。1965年マリアは洋服造りはベロニカとアリサに任せて得意の料理で、いろんな具の入ったピロシキ、牛肉、豚肉、鶏肉やタラ魚の煮込み料理、ビーツ(赤カブ)と肉、ベーコンの入ったボルシチ、ロシア風の小ぶりな水餃子(ペリメ)、ビーフストロガノフを看板とした、レストランを開業した。ものめずらしさもあって、狭い店なので、行列ができるほどになり、料理ができ次第、皿や大きな入れ物にいれて待ってるお客に提供した。入れない客は、外で簡単なテーブルと椅子で食べて帰る人も出だした。
それを見かねて忙しい時はベロニカも手伝うようになった。二年が過ぎた1966年、休みの日には、お客が多く、ユーリー、フョードル、レフなど男達が大きなテーブルと椅子をつくり小さな店の屋根を大きくしてレストランの席を急ごしらえして大きくしてくれた。そう言う訳でレストランは面白いほど儲かった。1966年マキシム妹のソフィアはと近くの小学校入った。マキシムは、レフの料理が好きで自分でもつくりたいようで、レフに少しずつ手伝わせながら料理を教えた。
ソフィアはマリアの刺繍が好きで作ってもらったブラウスを大事に着ていた。1967年には、儲かった金でもっと立派なレストランを借りることができる様になり、男性3人、女子4人の従業員を雇う程、繁盛した。
7話:もう1つのレストランオープン
また、レストランで食べずに、食器や鍋を持ってきて料理だけを持ち帰る人も増えてきた。日曜日に休んでいるレフを見てレストランを手伝ってくれと言い、1967年、船会社の安月給の数倍、稼げるから退職して手伝う様に言った。レフは、マリアがいつも大忙しで大変な姿を見ていたので、翌週、船会社に辞表をだして店を手伝う事にした。食材の買い出し、搬入、下ごしらえを手伝う様になるとマリアも楽になってきた。
すると町の反対側から来てる客が向こうのレストランが、このマリアの店に客を取られて、お客が減って、仕方がないので来月、閉店すると言う情報を聞きつけきた。そこでマリアが顔を知られていないレフに、その情報が本当かどうか調べてこいと言った。そこでレフが出かけていった。その店の前に店を売ると書いてあった。片付けをしている男に聞くと不景気で客足が減って売り上げが下がってやっていけないから大きな損を出す前に店を売っ、て他の町へ行くと言った。レフが料理道具は重いから持っていくのは大変だろうと彼らの労をねぎらうふりをして、いろんな事を聞き出した。料理道具をもっていくか、置いていくか、思案している所だと話した。新しい場所で仕事を始めるのに、うまくいかなかった店の道具を使うんですか、それで繁盛するんですかねーと言い、私だったら心機一転、新品を買って、頑張りますがねと言った。すると店主が確かに、それもそうだと頷いた。ここの中古品売れるかなというとつぶれた店の使い古しなんて買う人はいないでしょと言い。最近は道ばたに勝手に捨てると警察がうるさいですから、そっと置いていったら良いんじゃないですかと入れ知恵した。そうしようかなと言って、また片付け始めた。そっと店の外に出たレフは、この話をマリアに伝えてた。レフが、今度はマリアが直接、店の購入交渉をしてみたら良いんじゃないかと言い、店は見ているからと言い送り出した。その後、一時間位してマリアとがニコニコして帰ってきた。店の中古の道具を置いていくから処分しておいてくれと言われ、現金で買うからと言うと安い値段で店を売ってくれたと大喜びだった。1967年、秋からレフが今のこの店をやってマリアが向こうの通りの店を買い取り、店を始めた。レフは小さい頃からマリアに料理を教わってマリアが仕事で忙しい時に食事を作っていたので料理は得意だった。レフは女房のアリサにも手伝ってくれる様に言うと明日ベロニカに聞いてくると答えた。翌日ベロニカに事情を話すと儲けもレストランの方が大きいので仕方ない。刺繍、裁縫の仕事量を減らして1人でやって行くよと言ってくれた。その後もレストランは繁盛して、大忙しの日々が続いた。そこで年に4回、8日間の休みを設ける事にした。つまり客の少ないシーズンにマリアファミリーを半分ずつ休ませると言う事にした。
8話:日本旅行と、子供達の結婚と孫の誕生
そのレストランの長期休暇を利用してレフが日本海の向こうの日本へ旅行してみようと友人のフョードルに提案しフョードルの奥さん・ポリーナがとても興味があると言うので日本見学の旅を決めた。1968年5月1日からにレフと妻アリサとフョードルと妻ポリーナが横浜港へ旅行へ出かけた。東京と横浜の以前の日本旅行でレフが感動した所を訪ねた。まるで、新婚旅行の様。まず、横浜から汽車に乗り、清水駅で降りて、美しい富士山の絶景を眺めた。その後、清水から電車で小田原へ、小田急に乗り換え、箱根湯本でおりて、湯元富士屋ホテルに泊まった。そこの宿の温泉が気持ちよくて天国にいるような心地だったと話した。翌日、芦ノ湖へ向かい、遊覧船に乗って、再度、富士山の絶景を鑑賞した。その後、小田原経由で鎌倉へ、大仏さんと長谷観音、銭洗い弁天、鶴岡八幡宮を見学して、横浜へ戻った。その晩は、ホテルニューグランドに泊まりシャリアピンステーキを食べた。
翌日は、東京へ行き、皇居を散歩して多くの写真を撮り、銀座のレストランで昼食をとり、浅草の浅草寺をお参りして、東京駅に戻り、日比谷のホテルに宿泊した。奥さん達は、和服を着た日本女性に、レフとフョードルは、築地市場の魚と日本のオモチャみたいに小さな自動車に興味をひかれた。日本車のデザインが良く、気に入った様で、車のディーラーで日本車のカタログをもらった。レストランで食べた日本食では、うまい米に感動して、お土産に精米した米を買って帰った。もちろん、鎌倉の大仏、神社の大きさと装飾の美しさ、富士山の絶景にも感激した。麺類、ラーメン、蕎麦にも驚いていた。駆け足で日本を回り8日目にウラジオストクへ戻った。
マリアとベロニカにそれぞれお土産を買ってきた中でマリアは日本のお米、蕎麦、うどんの乾麺、レフは日本車のカタログに特に興味を持った様でマリアは、お米を炊いてみて、その旨さに感激、乾麺の保存が効く事と調理が簡単なことに興味を持ちロシアに輸入したいと考えるほどだった。レフは日本の車の中古車を輸入できれば良い商売ができるだろうと考えた。ロシアでは、この頃からインフレがひどくなり、物の値段が上がってきて庶民生活が苦しくなった。
翌年の1969年にマリアとユーリとミラナとフョードルが日本旅行に出かけた。フョードルが昨年と、ほぼ同じコースで観光してまわった。富士山、箱根、鎌倉、横浜港、皇居、銀座、渋谷、浅草を案内して回った。ミラナは、長谷の大仏、皇居の大きさに驚いたようだった。食べ物では、日本そば、静岡のお茶、まんじゅう、中華街の本格的な中華そば、美味い珈琲、きれいで豪華な箱根湯元富士屋ホテル、横浜のホテルニューグランド、日比谷のホテルには驚かされた。また日本の文化の高さにソ連との違いを、まざまざと見せつけられたような気がした。こんな、小さな国、日本に、こんな、素敵な町、ホテル、自然があったとは全く知らなかった。マリアは、東京で食べた、お好み焼き、もんじゃ焼き、横浜中華街で食べた中華麺が印象に残ったようだ。ユーリは、女性達と別行動で自動車のディーラーや系列の中古車屋を見て回り、中古車の値段の安さに、日本車を輸入すれば良い商売ができると考えていたが、当局の許可が下りず実現できなかった。ミラナは銀座を歩く日本女性の美しさに驚き、着物が一目で気に入ってしまった。着物の古着屋を訪ね歩き、これが輸入できれば、儲かると考たが、これも中古車と同じで当局の許可が下りず、実現できなかった。帰る時には、マリアが蕎麦、うどんの乾麺をバッグいっぱいに詰め込んで、8日目にウラジオストクへ戻った。
9話:日本旅行と、子供達の結婚と孫の誕生
1970年代になり、ブレジネフ政権下、言論統制など、当局の締め付けが厳しくなっていった。そんな中でもマリアとレフのレストランは、地元ウラジオストクの数少ない、美味いレストランは、相変わらず、繁盛していた。しかし、地元の役所の上層部が来てても無料で豪華な食事を提供したため当局からの締め付けをかいくぐって営業を続けられた。この頃は、共産主義にも関わらず、共産党幹部の腐敗、汚職が多く、彼らを敵に回すわけにいかなかった。その、おこぼれとして、同時、手に入りにくい、野菜、肉、魚も不自由なく手に入れることができ、このレストランも繁盛していた。
マリア、ファミリーは、順調に商売で儲けていられた。もちろん、国民に全く知らされていなかったが、中国との国境紛争や、チェコスロバキアの民主化(プラハの春)に対して、ソ連が武力介入していた。1979年12月には、アフガニスタン侵攻という世界を敵に回しても、強硬策を取り続けた。
翌年1980年のモスクワ・オリンピックは、ソ連をあげて、開催に力を入れていたが、冷戦でソ連と対立するアメリカ合衆国のカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱した。その後、ソ連のアフガニスタン侵攻に反対して、日本、分断国家の西ドイツや韓国、中華人民共和国やイラン、サウジアラビア、パキスタンなどといったアフガニスタンでムジャヒディンを支援するイスラム教諸国、および反共的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた。これによって全くと言って良いほど、盛り上がらないオリンピックとなってしまった。
こんな暗い時代にも、マリア、レフの家族には、一筋の光明が差してきた。1978年にレフの長男マキシムがレストランで働いていた地元、ウラジオストク出身のイザベル(1958年生まれ20歳)と結婚することが決まった。マリアとレフは、レストランの儲けで、大きい中古の家を手に入れており、マリアの家に、マキシムとイザベルが住むようになった。
翌年1979年にはマキシムの長男ブルーナが誕生し、同じににレフの長女ソフィアとアンドレ(1957年生まれ22歳)が結婚した。住まいは、レフとアリサが住んでいる家に入ることになった。その後、レストランは順調に売り上げを上げていた。マリアのファミリーは、車2台を手に入れた。1980年にソフィアに長男のセルジオが誕生し、1981年にマキシムに長女アマンダが誕生した。ファミリーにとっては、めでたいこと続いた。
マリアはレストランとで忙しい冬の日、マリアが仕事中に倒れた。車で病院へ、運んで、病室で身体を温めて、ゆっくり休んだお陰で、意識をとり戻した。病名は軽度の心筋梗塞だった。医者が寒い環境で立ちっぱなしの仕事が、身体にこたえて、倒れたのだろうと言い、冬場は仕事を減らすようにと話した。できたら、もっと暖かい地域へ引っ越した方が良いかも知れないと言った。数週間後、マリアが、元気を取り戻し、顔に赤みがさし、笑顔を取り戻し、無事、退院してきた。その後、マリアとレフが、ファミリーの今後の事を話し合い、その結果1982年、レフの妻のアリサが、こんな寒いウラジオストックを出て彼女の故郷、ウクライナ南部、黒海に面した、温暖な避寒地、ヤルタへ行こう言い出した。
10話:ヤルタへ引越、仕事の手伝い
マリアも高齢になり寒さが身にしみる年になり、その意見には大賛成した。そこで、アリサがヤルタの実家に連絡して了解を得た。手にいれた大きな家と車2台も地域の共産党の高級幹部に売却して現金を手に入れた。その後、昔から、いろいろと世話になったユーリ家族に別れを告げた。別れの時は、マリアは、昔からの恩は絶対に忘れないと言い、レストランで儲けたお金から、お礼をした。ユーリも涙ながらに別れを惜しんでくれた。
1982年の7月にシベリア鉄道で7日かけてモスクワへ2日モスクワのホテルで休息して、ウクライナ・キエフへ向かい、その後、南下して2日かけてヤルタに到着した。当時、ソ連では、国民が長い旅をする事に当局が神経を尖らせていた。しかし病気療養のため書いた、医者の手紙を持ち歩いていた。検問を受けるとその事情を話して遠くの親戚の所へ引っ越すというと了解してもらった。そして11日かけた長旅を終えて、ヤルタに到着した。
まず、アリサが、両親に会い、次に、マリア、レフの家族が挨拶した。アリサの両親は、地元で土産物屋、遊覧船て観光業、レストランなどの商売を手広く営んでおり、5年前に自宅も増築して離れを建てた。その離れの4LDKの家をマリア家族に貸してくれた。マリアとレフの妹ベロニカ、娘のエミリアは刺繍の名人で土産物屋で販売する洋服の仕事を、レフはレストランでコックの手伝い、アリサは土産物屋の販売員として仕事をする事になった。その後、それぞれの職場で忙しく仕事をしていた。マリアのファミリーのソ連を横断した大移動の一年1982年が終わり、1983年を迎えた。特に、マリアと娘のエミリアの刺繍の入ったYシャツ、Tシャツ、ブラウス、カーディガンが評判が良く、飛ぶように売れていった。土産物屋で一番の売り上げを誇るようになり、そのうち、アリサも刺繍の仕方をマリアに教えてもらう様になり、一人前の針子になっていった。
レフの方は、マリアに教えてもらった、ゆで卵を入れたものや、肉と野菜の入ったピロシキや、ビーツ(赤カブ)と肉、ベーコンの入ったボルシチ、寒いシベリアの名物料理ペリメニと言うロシア風の小ぶりな水餃子、マッシュポテトを添えたビーフストロガノフが評判であり、地元客だけでなく観光客のお客さんも増えてきた。土日、祭日になるとレストランではウオッカがを飲んでロシア民謡、踊りが始まり、大盛況だった。これには、アリサの父エゴールも大喜びであり、1983年になって、レストランの売り上げが倍増したが夏、秋の観光シーズに入り、更に繁盛していった。もちろん、給料も上げてくれた。あまりにお客さんが増えたのでコック長とレフだけでは手が足りなくなってきた。そこでレフがマリアとエミリアに応援を頼むようになった。マリアとエミリアはレフと違った、鹿肉、豚肉、鳥肉、牛肉など、肉料理の煮込みが上手で、その味付けと言ったら一度食べたらやみつきという程、旨かった。そのため、応援を頼んだはずが、かえって、もっと多くのお客さんを呼び込むことになってしまい、1984年に入り、お客さんがレストランには入れなくなり、長い行列ができるい様になった。
そこで1983年6月にエゴールが近くの土産屋を改装して、新たにマリアとエミリアのレストランを作った。そこは、海に近く景色も良くマリアとエミリアに肉と野菜の煮込み料理の専門店とした。もう一つのレフのいる店を魚料理、ボルシチ、ピロシキ、ビーフストラガノフの店と看板を上げた。人手が足りないのでマキシムとソフィアもレストランを応援するように要請した。若いコックもそれぞれの店に5人ずつ採用し料理の腕を鍛えた。料理の評判を聞きつけて遠くのソチからも観光客が来る様なり、この二つの店が、まるで競い合う様に、お客を二分して一年が経った。冬は、寒い地域からの避寒の観光客が増え売り上げは順調。エゴールに家を無料提供されていたので、マリアが家賃を支払うと言っても充分稼いでくれてるからといらないと、決して受け取らなかった。
11話:観光地ソチへの進出
その後もレストラン中心にエゴールの仕事は順風満帆でソ連・最高の観光地ソチ進出を考え始めた。1984年には地元でも有名なレストランに名前が挙がる様になり、あまりの繁盛ぶりにエゴールはソチにもレストランを出そうと出張し、地元の不動産屋でレストラン物件を探しを始めた。マリアとレフが育て上げた若手6人も腕を上げたのでソチに連れて行こうと考えた。その後、エゴールが売却予定のレストランを探しあてた。レフとエゴールが飛行機でソチに飛び、そのレストランの下見に出かけた。
場所は観光地の中にあり、以前の店主が、調理機材も全て込みで、販売価格を出していた。景色も良い所で、何故、店を売るのか、聞いてみると、賃料が高く、薄利多売でお客を増やしたのだが、利益が出なくなった様だ。そこでエゴールとレフが店を出すとしたら、高級店として看板目メニューを考えなくてはいけないと言った。そこで、エゴールがレフに、看板メニューについて意見を聞いた。レフが舌平目の ムニエル、牛肉の煮込み、ビーフカレー、最高級キャビア、にしんの酢漬け、スモークサーモン ビーフストロガノフ、紅玉リンゴとアーモンドクリームのタルト、バニラアイスのロシア風パンケーキなどがあげられる。しかし今の若手が作る高級料理として舌平目のムニエル、マリアの牛肉の煮込み、鶏肉の煮込み、ビーフカレー、最高の具材のピロシキ、ボルシチの六つ位かなと言い、紅玉リンゴとアーモンドクリームのタルト、バニラアイスのロシア風パンケーキなどのデザートは、材料の善し悪しで決まると言った。わかったと言いマリアとレフで、若手が慣れるまで、ソチのレストランで指導してくれないかと言った。
レフはOKだがマリアは高齢で無理だと言った。その後1984年4月から若手6人とレフが月の半分、出張という形で手伝った。3ヶ月が過ぎて若手達の料理の味が安定してきて、半年が経ち、そろそろ独立できる位の味になってきた。後はエゴールが良い材料を手に入れる腕次第となった。スモークサーモン、キャビア、鶏肉、牛肉、豚肉、鹿肉などは、素材次第で良くも悪くもなる。また、カレーや、煮込みに使うスパイスは、エゴールのコネで良い物が入るようになった。1985年9月、レフが若手達だけでもOKとの許可を出した。
この頃になるとエゴールの政治力でソチの有力者にレストランの良い評判を地元の新聞に書いてもらったりして、高級店の名前を宣伝してVIPクラスの来店も多くなった。その甲斐もあってソチの有名レストランの仲間入りでき利益も出してきたようだ。エゴールがレストランの名前を統一してブランド化する様に宣伝して回った。1985年にエゴールの商売の腕、政治力でレストランの名前は知れ渡り、繁盛していった。その後もエゴールは、ソチのレストランで儲かったお金で1986年3軒の高級レストランを買収した。そこにマリアとレフのレストランで修行を積んだ12名の若手コックが移動していき、料理を提供し始めた。
その中の1軒を高級ロシア料理店として、エビ、かに、サーモン、キャビア、高級ワイン、コニャック、高級なオリーブオイル、高級アイスクリームを使った最高のデザートなどを揃えた外人向け高級ロシア料理店として企画した。その開店記念に地元の共産党の幹部を無料で招待して良質の料理の材料を仕入れるルートを確保した。これが大当たりしてソ連、第一の観光地・ソチと言う事もあって高級料理の5星の名店として大きな利益を稼ぎ出した。
12話:アリサのご両親との別れ
1986年7月、マリアがレフに宝石の話をして、何とか国境を越えてヨーロッパへ行き持っている 水晶の様なダイヤの原石を研磨したいと言った。困ったレフは列車で行こうと思うので調べておくと言った。翌日、マリアはエゴールに昔の友人の結婚式に出るので、数日間、出かけてくると話した。ヤルタからキエフまで6時間キエフからワルシャワ一日、そこからベルリンへ八時間、またブリュッセルへ半日、二日半の旅でブリュッセルに着いた。例の水晶の様な物は、お土産用の四つの陶器製の人形の中に忍ばせてキエフの空港税関を抜けてブリュッセルに到着した。市内のホテルにチェックイン。
レフが英語でホテルのコンシェルジュに有名な宝石店を聞くと、ゴータムと言われて、その店に行き、袋からおもむろに十個の水晶の様な物を渡して宝石の鑑定を依頼した。依頼してから数分後、別の部屋に案内されて英語で、これどうしたんですかと質問してきた。我が家の家宝ですと答えると、それでは答えになってない。どこで手に入れたのかと言うのでシベリアと言うと納得した様で結論から言うと全部間違いなくダイアモンドの原石ですと言った。あまりに大きさに驚いていた。先祖の家宝なんですが、研磨してもらえませんかとお願いすると、良いですが、その後、会社の人に、そのダイアモンドを持って、国外に出るのは難しいよと言われた。
レフが逆にどうしたら良いかと聞いた。それで我が社で全部、研磨すると言う事で良いのですねと確認してきたのでお願いしますと言った。全部、研磨するのにどの位の時間がかるかと聞くと10個だと3ヶ月は最低かかると言った。でも持って帰るのは絶対にやめた方が良い、多分、どこかの税関に引っかかると言い我が社に預けておきませんかと言った。すると彼は名刺を渡してくれた。ゴータムの研磨場のペーター所長さんだった。そこで管理をお願したいというと何枚もの書類を書いてもらいますと言われ、個人情報の全てを書いて、持ち主、依頼人の書類にサインを書き、逆にゴータム社長の預かり印を押した書面を渡してくれた。この預かり証は、ゴータムとレフで一部づつ保管する事になっている。もちろん依頼書も同じで両者が持つことになっているので絶対になくさないで下さいねと念を押された。
マリアは長い間、心の中につかえていた物が取れた様な、例えようもない程の安堵感に包まれた。レフも、父、イワンとの約束を果たしたような、爽快な気持ちになった。その晩も、同じホテルに帰り、ワインで乾杯した。イワンとの思い出や、その後の辛い時代を回想し涙を流した。マリアは、ここ迄、来る事ができ本当に良かったと思い、レフのは数ヶ月後、研磨されたダイヤモンドをどうするか、まだまだ難問が残されていて完全に霧が晴れたとは決して言えない状態だった。
そこで、ヤルタを出てヨーロッパの暖かい国へ移住したいとマリアが言った。ヤルタに戻ったら、その話を妻のアリサと話してみると約束した。 翌朝、朝食をとりチェックアウトして、キエフ行きの飛行機で午後2時にキエフ到着、その後、列車でヤルタへ夜8時過ぎに家に着いた、その晩は、ゆっくりと休み翌朝ベルギーで買ってきた、チョコレート土産をアリサの両親と自分の家族に渡した。数ヶ月後、レフがアリサにダイヤの話とヤルタを出てヨーロッパの暖かい国へ移住したいと言う話をした。
アリサもソ連の重苦しい監視されている様な感じは嫌いだった様で、すぐ賛成してくれた。翌週アリサが、マリアとベロニカの体調が良くない事とソ連の雰囲気が嫌いだという事で、もっと暖かい、南ヨーロッパに移住したいという話を打ち明けた。最初は驚いていたが、そう言う気持ちもわかると言い、レフとアリサが決めた事なら、反対しないと言い、気持ち良く送り出すと言ってくれた。
13話:ダイヤの研磨とプラベートバンクの口座で投資開始
1986年10月、ゴータム社からレフ電話が入り、宝石の研磨が終了したと言う知らせが入った。 ヤルタ、出発の日、長い間世話になった、アリサの両親、エゴールとダリアにお礼を言った。するとエゴールが、こちらこそレフのお陰でレストラン事業で大儲けさせてもらい感謝していますと言ってくれた。マリアにお体を大切にとハグしてキスした。別れ際に、エゴールがマリアに厚い封筒に入った多額の現金とエゴールの大きな車を餞別として渡し、アリサには、自分の思う通り、自由に生きて欲しいと言った。
1986年10月にレフとマキシムが運転する車に荷物を積みレフ達はヤルタの地を後にした。ヤルタを出て、ウクライナ、ポーランドのヴロツワフでホテルに一泊して体調を整えた。その後、ポーランドの18号線をひたすら走り、最後の難関、オルシナ郊外のドイツ国境を通り抜ける事ができた。その後ハノーファーでホテルに1泊して、デュッセルドルフを経由して、アーヘン郊外のドイツとベルギーの国境を越えてブリュッセルに入った。ブリュッセルで、ホテルに止まり、祝杯をあげた。翌日、ゴーダム社に電話を入れて面会の約束を取り出かけた。ゴーダム社の応接室で研磨の終わったダイヤモンドも見せてもらうと神々しい光をはなち素晴らしいものに仕上がっていた。
その中の3つの大きなダイヤモンドを見せてくれた。見終わった後、担当者が、あなたたちが、これを持っていては危険だと言った。こんな大きな高額のダイヤモンドは必ず出所を調査され南アフリカ、ロシア産であったら大変な事になります。個人で保管するのは危険すぎると真面目な顔で言った。レフが大きなダイヤモンドの買い取り値段も聞くと全部で7百万ドルと言った。しかし個人の銀行口座に振り込むと税務所から、金の出所を聞かれて絶対に困るから、やめた方が良いと言った。
そこでレフは、どうしたら良いかペーター所長に相談した。彼はレフに安全な管理方法を提案してくれた。それはゴータム社のゴータム社長の紹介と言う事でジュネーブのPT銀行社にプライベートバンク口座を開設してダイヤモンドをゴーダム社に売却し、その金をあなたのプライベート口座に送金したら良いと教えてくれた。PT銀行社には私から電話しておくと言った。三十分後戻ってきてピーター所長の名刺に裏書きして渡してくれた。
PT銀行ではアーロンが担当してくれるのでジュネーブのPT銀行に言ってアーロンの所に案内してくれる様に受付に話せと言われた。ピーター所長が初回の支払い1万ドルずつ2人に合計2万ドルをお支払いしますと言い、少しして、百ドル札、百枚で1万ドルの入った封筒を受け取った。その晩ブリュッセルのホテルに泊まって、翌日、スイスのチューリッヒへ飛んだ。ジュネーブの空港からPT銀行までタクシーで向かった。会社の窓口でピーター所長の名刺を見せて、担当のアーロンに会わせて欲しいと言い案内してもらった。アーロンはゴータムからの連絡で、お話は伺っておりますと言い、個人情報と口座開設の書類など数枚の書類を下に写しを置いて時間をかけて彼の助けで完成した。
これでプライベートバンクに米ドル口座ができた。その口座番号を電話でゴータム社のピーターさんに伝えてレフの口座に498万ドル送ってもらう様にお願いし、1時間、話をしてる間にゴータム社がら送金があった。1986年11月、これで、レフ達の口座が正式にできた。レフの持ち金、100万ルーブルをも米ドルに交換して欲しいとお願いすると現在のレートで100万ドルになり両替した100万ドルを口座にいれた。口座証明書と預かり証をレフがもらいPT銀行とレフの両者で持つことになった。
合計で798万ドルになると言われた。アーロンが。現在、現金をどの位持ってますかと言われ2万ドルというと、1人1万ドル迄もてるから、9人分、9万ドルだから、7万ドル渡してくれた。残金合計7792万ドルとなった。レフが当面、使う金として200万ドルを毎月1万ドルずつ、マリア、ベロニカ、レフ、エミリア、マキシム、ソフィアの口座に入金するように指示した。残金の500万ドルを目標運用益年5%以上のXファンドで運用して、700万ドル以上になったら、200万ドルを今回と同じように、マリア、ベロニカ、レフ、エミリア、マキシム、ソフィアの口座に入金するように指示した。
14話:銀行口座開設とポルトガル移住へ
その後、レフが、我々はソ連を出てヨーロッパで定住する地を探していると話し、暖かい所で比較的治安が良く、経済が安定していて、移住し易い国を教えてもらいたいと話した。するとポルトガルが一番の候補になると言われ、投資ビザが最も手軽に手に入る国と教えてくれた。これで手続きと質問を終え、珈琲、紅茶とチョコレート、ケーキが出された。アーロンは米国人でアメリカのMBAを取ってスイスのPT銀行に就職したそうだ。レフの英語の上手なのに驚いて米国人ですかと聞いてきたのでロシア人と答えると信じられないと言った。
それ以上、プライベートな事には踏み込まない方針なのか、マリアファミリーにそれ以上、質問をしなかった。PT銀行の口座から自分たちの銀行口座に送金するときは連絡下さいと言われた。ホテルはとアーロンが聞くので、まだですと言うと、彼が電話を入れてホテルを取ってくれた。何故、そんなサービスしてくれるのか、また費用はと聞くとアーロンがプライベートバンクは全てのサービスは基本的に無料です。だから信用できる高額の預金者だけしか、プライベートバンクに口座を開けないのですと、きっぱりと言った。そしてPT銀行用意した豪華な車でホテルまで送ってくれた。その晩、ワインで乾杯し床についた。
翌朝、朝食をとって、ジュネーブを出発して、ポルトガルのリスボンまで飛行機で三時間程度と近かった。1986年11月。ポルトガル移民局に直接に行き、英語のできる担当者と話をした。ポルトガルは資金量よりも移住の動機・理由・意思が重視される様だ。レフがソ連時代の苦労話と自由を求めてヨーロッパの国を探し回っていたが、気候が温暖で、歴史があるポルトガルに移住を希望したと、打ち明け、家族7人が生活する資金は十分ある事などを書いた。移民局の担当者が移住したいという理由はわかった。一番簡単な方法は75万ドルの住居用住宅を購入するか、不動産の購入が合計で75万ドルなれば良いと言った。これで1家3代で移住する選択もでき居住権取得後5年で永住権、6年で帰化を申請ができますと教えてくれた。また、海外の口座からの送金についても免税となりますと説明してくれた。最近、移民の人達が増えてきていると話してくれた。
その後、リスボンだけでなく、コインブラ、ポルトなども素敵な町ですから行ってみて下さいと言いきっと気に入ると思いますよと笑顔で説明してくれた。そこでポルトガルで便利が良くて治安が良い場所の立派な家を探すためにレフとマリアが見て回る事にして残り人達はリスボンのホテルに長期に宿泊することにした。2泊3日かけてポルト、コインブラを見て回りリスボンと比較検討してみる事にした。リスボンが首都で商売もし易いが物価が高く治安もそれ程良くなく混み合った感じで落ち着かない。コインブラは名所、旧跡が多く、景色も良いが、小さな観光都市というを感じがした。ポルトは海に面して市街地もきれいで、大きな川が町中を流れ、景観規模も最高で、大きい素晴らしい都市である。
リスボンは有名な観光都市で都心部の繁華街で多少、治安が悪いが便利でポルトガルの首都でヨーロッパ最西端の素晴らしい都である。それらを総合するとポルトかリスボンのどちらかと言うことになった。そこで、滞在のホテルのコンシェルジュに聞くと、お金があるならリスボンの方が良いと言った。次に、大手不動産屋さんを訪ねて聞いてみることにした。購入理由はと聞かれ、海外からの3代の移住で一番下が5歳で全員で12名と言った。次に不動産の予算はと聞かれ50万ドルで2軒というと子供さんの留学も考えてますかと聞くので考えてますというと、それならリスボンですね、教育、交通、役所、全てポルトガルで一番ですからと答えた。ただ、25万ドルの家ですと街の中心というわけには行きませんといった。マンションと一軒家どっちが良いかと言うので一軒家と答えた。しかしリスボンではマンションが多いと言った。
15話:ポルトガル移住と住居探し
3階建てのマンションの売り物件を買うのも良いかも知れないと言った。賃貸マンションで買い手が減って困っている物件を買うのも良い選択だと言った。店舗付きマンションを聞くと、むしろそっちの方が売り物件が多いと言った。永住権なら75万ドルですねと言い、それだけあれば探せますよと言った。留学を考えているならシントラが良いと言った。ポルトガル一の名門、カルルーチ・アメリカン・インターナショナルスクール・オブ・リスボンという私立の米国系の学校が近くになると言った。そこを中心に見てみますかと言われた。海辺の景色の良いところと言うと、近すぎるの塩害で苦労するから、高台のマンションで、海から1km以上離れた所の方が良いと言った。
今、言われた条件で探してみると言った。店舗はレストラン系、洋品店など、どんな職種がよいかと聞かれた。レストラン系と答えた。わかりました、いつから家探しをしますかというので明日からでもと言った。何人で来るかと言われたので5人と言った。泊まっているホテルはと聞かれ、Kホテルと言うと、明日の朝10時に迎えに行きますので、ロビーで待ってって下さいと言われた。翌日8人乗りのワゴンでやってきた。乗り込んで、すぐに一応、条件に合いそうな物件7つ選びましたので、ごらん下さいと言った。最初にカルルーチ・アメリカン・インターナショナルスクールの近くの物件ですと言い、道の広い道路の店舗つき、三階建てのビル。次が狭い道の古い四階建ての店舗付きビル。その他、急な坂の上の古い4階建ての店舗付きビル、など、ほとんど同じ造りの建物ばかりだった。不動産屋に帰り、見たビルを全部、ポラロイドで撮っていたので並べてみた。エレベータなしと急坂の所は駄目。
すると不動産屋が1番おすすめが道の広い道路の店舗つき3階建てのクリーム色の綺麗なビルをさして、これですが75万ドルでは買えないと言い、最低90万ドルと言った。そこで、それは高い75万ドルになりませんかと言うと難しいと言い支払い回数を多少、伸ばす位しかできないと言った。そこで即金で七十五万ドルで、お願いしたいというと80万ドルと言った。そこで仕方ない他の不動産に頼むかと言い席を立った。すると、ちょっと待ってと言い社長に聞いてくると言った。社長が出てきて痛いところ突いてきますねと言い、わかりました。75万ドルで売りましょうと言った。その不動産屋で契約書を書き振込先の口座情報をもらい、翌週中に入金して下さいと言われた。1986年12月、ホテルに戻ってスイスのPT銀行の担当者アーロンに電話をかけて、不動産屋の口座に75万ドル振り込んでくれと指示した。翌日、その不動産屋から入金あったと電話が来て、不動産屋の担当者が家の権利書と家の鍵と領収書を渡してくれた。これで住居が決まった。
レフは晴れ晴れした気持ちで、ここ迄の道のりを振り返り、ソファーで、ゆっくりとポルトガルワインを飲んだ。思えば本当に長い年月と長い道のりだった。これで、やっと、めざす新天地に、たどり着いて何も恐れずに暮らしていけるのだと思い、亡き父イワンを思いだした。毎日、働きづめで、ろくな食事も取れず懸命に暮らし続け、国が勝手に戦争を始め、命令で戦争に行き、戦場で無念の最後を遂げた。あまりに不幸な、私達を見かねてイエス様がダイヤを授けてくれたんだ。それによって地獄の様な生活から逃げて、こんな安全で、素敵で、なに不自由ない生活を得られたと思うと目頭が熱くなった。ワインを飲んで、強烈な睡魔に襲われてソファーで寝てしまった。翌朝、マリアが、レフに、あなた、昨晩、寝言で助けてとか神様ありがとう、とか寝言を言ってましたよと笑った。おもわずマリアを抱きしめて本当に長かったけれど、やっと幸せにたどり着いたねと言った。いろいろなことがあった1986年もクリスマスを迎えて盛大なパーティーを開いて、暮れていき、1987年を迎えた。
16話:レストラン開設と米国系のインターナショナル・スクールに入学
翌日からマリアとアリサ、エミリアをのせて、レフが車を運転して海の近くのシントラ通りの4階建てのビルへ出かけた。 レフは1階は、以前レストランだった様で水道が完備してあり、すぐ、レストランのイメージがわいた。そこで、椅子とテーブル、ガス、厨房設備を揃える事にした。近くのホームセンターへ行き、必要な物を揃えてきた。足らない冷蔵庫や電子レンジ、ミキサーなど電器屋に配達をお願いした。3日後に営業開始を目標にして行動した。その日の午後に、電化製品が運ばれてきた。手の空いた人達が、電化製品の動作確認などをしてまわった。
マキシムとアンドレに、トラックを借りて椅子、テーブルなどの備品の搬入をお願いした。トラックが着くと、ブルーナ、セルジオも椅子、テーブルをレストランに並べていった。これでレストランらしい雰囲気になってきた。冷蔵庫の設置が終わったので、レフトとアリサとソフィアがスーパーマケットに行き、ワインや肉、バケット、パン、パスタ卵、ハム、チーズ、ミルク、野菜、果物、調味料、オリーブオイル、魚など食材を買い込んだ。夕方には戻ってきて冷蔵庫に入れた。明日にレストランで調理のテストする事にした。試しに、ガスコンロ、電子レンジを使って、夕食を作ったが、問題なく作動したので、一安心した。
その頃までにアリサとソフィアは、自分たちの部屋決めをしていた。高齢のマリアの部屋とベロニカの部屋を2階のエレベータに近い部屋にした。レフとアリサの部屋、3階はマキシムとイザベル、ソフィアとアンドレの部屋を階にして、小さな部屋をアマンダの部屋、ブルーナとセルジオの部屋と倉庫部屋と備品置き場にした。各部屋の掃除とぞうきんがけをしてきれいにした。
また、翌日、レストランの方が一段落した間をぬってレフとマキシムがブルーナ、セルジオ、アマンダを連れて、移民局で教えてもらった私立の米国系の学校、カルルーチ・アメリカン・インターナショナルスクール・リスボンへ行って入学の手続きと必要書類をもらって来た。翌日に書類を書いて学校に届けた。
すると、翌週の水曜日に両親とお子さんを連れての面接をすると言われマキシムがイザベル、ソフィアとアンドレ、ブルーナ、セルジオ、アマンダを連れて水曜の8時に、職員室に行き2家族、別々の部屋で、面接試験をして、収入、入学の目的、宗教、出身国、移住の理由などを聞かれて、1時間後、合格と言われ、喜んで家に戻ってきた。そして、来月から子供達3人で徒歩で通学する事となった。
この日は、12時からの営業と看板を出していた。その後、レストランの方はレフととエミリアが中心になって料理をして、ホールをアリサとソフィアが担当し精算をアンドレに任せた。マキシムも料理上手でレフと交代で料理をした。
17話:ファド・レストランの営業開始
1987年になり、以前、ここでファドレストランをしていた様で、以前のファドレストランの関係者の方が店を訪ねてきた。立派な店をオープンしましたねとレフに言い、またファドを地元の人が歌えるようにして下さいと言った。了解しましたと言い、何を用意すれば良いですかというと、椅子を2~3つ、ギター伴奏者様に用意してと言われた。ギャラはと言うと地元の人でアマチュアですから必要ないと言い、食事と飲み物をサービスしてくれれば、それで良いと言った。レフが、それでだけで良いですかと聞きなおし、それなら了解ですというと、じゃー、早速、私がこの店でファドを歌えると仲間達に話しておくと言ってくれた。もし何か、あれば私に電話してと名刺をくれた。
翌日から2名のギター奏者と多くのお客さんが来てくれた。昨日の紳士も来て、ギター奏者2名に軽い食事だけ、お願いしますと言った。レストランが開場して30分も過ぎた頃、近所の高齢の女性と男性が身振り手振りで、独特のファドを歌い出した。店もファドを聴くために静かな雰囲気だった。ビール、ワイン、カクテル、ウイスキーなどの酒と料理の注文が増え出した。思ったよりも、ゆっくりとした雰囲気で注文もスムーズにこなせる程度で仕事がしやすかった。営業時間は17時開始で24時に閉店とした。
その後、お客さん達にはポルトガルにない料理が好まれた。更にリスボンでは暖かいので生ビールと、サーモン、小エビ、ハム、ソーセージ、サラミ入りの野菜サラダの注文が多かった。寒い日には、ロシア仕込みの牛肉、魚の煮込み料理、ボルシチ、ビーフストロガノフ、ピロシキも人気があった。レストランも順調な売れ行きで客の入りも増えていった。やがて春になり魚、肉、野菜の市場もわかり、安くて新鮮な食材が手に入り、お酒の格安ルートも教えてもらい原価が下がり、店の利益が増え出した。ソ連時代では考えられない良い材料が格安の値段で手に入った。
ただの1つの欠点は、駐車場が屋外で料金が高い事であった。そのため2台持っていた車を1台に減らして、町中は、路面電車、バスを使う様にした。少し足を伸ばせば、近くに観光地があり、周りの環境も良かった。お店の方は家族経営だが、人手があるのでモーニングサービスを始めた。珈琲、紅茶とパン、クロワッサンとゆで卵とサーモン、小エビ、ハム、ソーセージ、サラミ入りの野菜サラダのメニューで近所に、朝からやってる店がない様で、開店初日から大繁盛だった。特に持ち帰りの客が多くプラスチック容器、飲み物カップを用意した。特にロシアン・ティーは評判が良かった。
最初、朝、7時から9時までと考えていたが地元や観光客が切れないので従業員を交代しながら昼まで通しで営業した。その後、最終的には朝7時~夜12時まで連続営業する事になり。従業員を途中で交代させ、休ませながら連続営業で大忙しだった。あっという間に1年が過ぎて1988年を迎えた。その後、電話で注文を受けてバイクで宅配するサービスも始めて、店は繁盛していき、アルバイト従業員6人とコック見習い3人を雇った。
18話:レストランと孫の米国留学・大学入学
1990年には、リスボンの町中に、もう一店マキシムを店主にイザベル、アンドレ、ソフィアとアルバイト店員3人で開店させた。この店はカフェテリア形式で、サンドイッチ、各種サラダ、珈琲、紅茶に加えて、多くの種類の酒とカクテル、ビール、ワイン、コーラ、炭酸カクテルを用意した。利益の出る製品に絞った店として営業し持ち帰り宅配、若者向けの店として考えていた。数ヶ月して、そのコンセプトと通り高収益の店になっていった。この頃にはマキシムとイザベルが、給料も貯まり資金が貯まりレフ・ファミリーの大所帯のビルから出て生活を始めた。1990年には、もう一店、この店から離れたリスボンの新興住宅街にアンドレ、ソフィアが店主の店をアルバイト従業員4人とコック見習い2人を雇いオープンさせた。マキシムの店と同じ様に高収益の店をめざした。1991年、マキシムとアンドレの店も順調にに売り上げを伸ばしていった。
この翌年1992年、祖国、ソ連が解体され、ソ連邦を構成していた共和国が、次々と独立していき、ヨーロッパの共産主義国家が消え、新しい民主主義の時代となった。1994年にアンドレ、ソフィアもマキシムと同様に、お金もできてレフの元から出て、別に住むようになった。そこでビルの中も2階だけしか使わなくなったのでレストランの従業員の宿舎として貸すことにした。レフはファミリーのために、何か交代で休むときに楽しめる施設を探して入る時、リスボンから車で3時間のポルトにあるヨットクラブ、コスタズ・メラルダを思い出した。早速、電話でヨットクラブのホテル、コテージ、レンタル条件、費用を聞いて、入会金と使用料を聞いてメンバーの手続きを取った。3つの店の経理をレフが取り仕切っていた。1992年から会員になって、ファミリーの休みを月に6日として、2回は、連続して休みとする様に考えた。人手はアルバイトの数を増やして手当てをした。月に1回ずつでもコスタズメラルダでゆっくり休んめる様にに配慮した。
これには若手が喜んでくれ孫のブルーナ、セルジオ、アマンダも大喜びだった。その後、仕事へのやる気が上がり一層、仕事に励んでくれた。翌年1993年はマキシムの長男ブルーナが米国の高校に留学することが決まり、その後ソフィアの長男・セルジオ、マキシムの長女・アマンダも続けて米国留学する予定をたてだ。1994年1月、スイス・ジュネーブのPT銀行のアーロンから電話があり、今年が定年で、この仕事を離れるので、後任のバートンに、この仕事を引き継ぎますと伝えてきた。レフは、アーロンに本当にご苦労さんでしたとお礼を述べた。
1994年には、レストランの給料支払後の純利益が100万ドルとなり臨時ボーナスを出し、盛大なパーティーを開いた。これには高齢のマリアもベロニカも、レフの功績に感謝した。と言う事でファミリーの仕事も、あまり無理をする事なく継続を考えていった。
19話:孫3人が米国1流の大学へ合格
1996年、三人の孫が、米国の高校に留学に旅だって、ちょっと寂しくなったが、ファミリーの店の経営も順調、あいかわらず金回りは良かった。この頃の世界経済は1996年9月には米国の証券大手リーマン・ブラザーズが経営破綻し11月には経営危機に瀕した「ビッグスリー」が政府に公的支援を求める有り様。まさに「百年に1度の危機」世界同時不況が到来。これに対し米国政府が米国の大手企業に巨額の融資、AIGを政府の管理下に置き、バンクオブアメリカが、米国証券最大手のメリルリンチを救済合併したり、矢継ぎ早に手を打ったが思う様に株価は上がってこなかった。
翌年の1997年、ブルーナが、米国、西海岸のカリフォルニアのシリコンバレーの近くの5つの大学に、受験資料を送り、受験してチャップマン大学のコンピューターサイエンス学部に入学できた。ブルーナは、コンピュータ・ソフトウェアを勉強したいと思っていた様で、その夢が叶い大喜びだった。その大学はオレンジカウンティにあり、ロサンゼルスやサンタモニカにも近い場所で、アジアからの留学生も比較的多かった。
翌年1998年は、セルジオの大学受験の年であり6つの大学に入学資料を送り受験した。彼は、経済、投資に興味を持っていて、希望通り、サンディエゴ大学のファイナンス学部に入学しできて、大喜びだった。その大学は、自然豊で、暖かい、サンディエゴの高台にある、白亜の大学であり、サンディエゴの中心街も近く、便利な場所にある。
その翌年、1998年は、アマンダの受験の年で、彼女も寒い、米国東海岸より西海岸カリフォルニアをめざした。6つの大学に入学資料を送り受験した。その中のメンロー・カレッジに合格した。彼女は、経済の中で市場調査に興味を持っておりマーケティングを勉強したいと思い、この大学のマーケティング学部に合格した。これによりマリアファミリーの孫達、全員がアメリカの1流大学に合格出てファミリー全員が喜んだのは言うもでもない。
この時の世界経済は1999年頃から、再びバブルの様相を呈し、海外旅行客も増えてきてレフの3つのレストランも忙しかった。1999年にポルトガルも含む11の国の通貨が全てユーロに変わった。スペイン、フランス、ベルギー、イタリア、ドイツ、オランダも同じ通貨ユーロとに統一された。しかし商売の世界で全く変わりがなくなった。ヨーロッパの近隣諸国への出入りが自由になった。2000年になりネットバブルが崩壊し、続いて20001年9月11日にアメリカ同時多発テロ、アメリカ合衆国の経済は深刻な不況へ突入した。株の値下がりは2002年過ぎまで続いた。
20話:孫に自立とマリアとベロニカの死
2002年にブルーナがチャップマン大学のコンピューターサイエンスを良い成績で卒業し念願のグーグルに入社してきたと連絡が入り、長い間、レフの経済的に支援に感謝していると話してくれた。2003年にセルジオからサンディエゴ大学のファイナンスを卒業し、米国の名門銀行、ウェルズ・ファーゴに採用されたと連絡が来た。彼も、レフに、今までの経済援助のお礼を書き、今後、自立してやっていけるので、経済援助を辞退すると書いてきた。2人がこんなに逞しい若者に育ってレフのファミリーは喜んでいた。レフが、また長期休暇の時にリスボンに来るように手紙を書いた。2004年にアマンダからメンロー・カレッジのマーケティングを卒業し、憧れのアマゾンに採用されたと連絡が入った。
これを見てレフは新しい時代へのバトンタッチの時期が近いことを悟った。2003年になりマリアも八十八歳になり、歩くのが辛くなってきた。そこで良かったら素敵な老施設に入らないかと奨めたがレフに達と一緒に暮らしたいと言った。最近は心臓の調子が悪くなり近くの病院にかかるようになり、それでも、調子の良い時は、レフと町のファド・レストランへ行き、ファドを静かに聞いて喜んでいた。
2004年の海風が寒さを増してきた12月マリアの看病でレフとアリサが付き添っていたがある朝、レフのリスボンのマリアの部屋のベッドに近づくと息をしていない。大慌てで近くの医者を呼んできたが、既に息を引き取っていた。近くの葬儀場で荼毘にふされリスボンで葬式を行った。生前マリアが仕事の手を休めちゃいけないと常々言っていた通りに葬式に出席できない人は後日、マリアの墓石にお参りすると言う事にした。葬儀を取り仕切った息子のレフは時代の変わりゆくのを肌で感じた。母マリアの死が、レフに、これから、お前がファミリーを引っ張って行く番だよと言ってる様な気がした。
2005年の10月、ブルーナとセルジオとアマンダが一緒にリスボンに帰ってきた。着いた直後に電話してきて、空港のレストランで食事をしながら話をした。レフとアリサが車で空港へ行き、久しぶりに会うと、すっかり一人前の大人になっていた。食事をしてマリアの墓参りにきたと言い、車で、食事後に行く事にした。食事しながら、彼らの近況を聞くと、仕事では忙しそうでだったが、プライベートでは、ブルーナもセルジオも彼女ができて、近いうちに結婚するかも知れないと教えてくれた。アマンダも同じ大学時代でアマゾンに入社した人と、つき合っているようだった。
21話:レフのプライベートバンク投資
セルジオがレフに、1986年にPT銀行にプライベートバンクの口座を作って、その後、ファンドに投資していた話を聞いた様で、興味深いので米国に帰る前に是非教えて欲しいと言われたのでザックリと、ダイヤの原石を数十年前にシベリアの奥地で探した事から話した。セルジオが良くダマされずに、あの時代のソ連を出てブリュッセルの宝石会社までたどり着けましたねとか言い、その上、一流の宝石会社で、一流の金融機関を教えてもらい、大成功でしたねと、まるで、冒険小説みたいな話ですねと笑った。
その後、投資先をリスクの少ないファンドだけに投資したのも立派と言い、レフが、それはPT銀行の人に教えてもらったのだと言うと流石にPT銀行最高の投資先でしたよと言った。レフさんが高齢でしょうから大変になったらいつでもファミリーの金庫番を交代しますよと言った。するとブルーナとアマンダが本当に信用できるのと大笑いした。失礼な金融マンとしては許しがたい侮辱とやり返した。でも米国に金融機関では、良い投資先がないので、PT銀行のプライベートバンクの方がよっぽど良いのも現実だと言った。レフが、わかったよ、体力に自信がなくなったら、君たち三人でに、これから先の資産運用とファミリーへの投資を任せるかも知れないと言った。
もし運用を交代すべき時が来たら3人に同じ書面を送るから3人で決めてくれと言った。旅行の概要を聞くと特に決めてないと言い、後3日で帰らなければならないと言った。そこでファミリーの保養施設、ポルトにあるコスタズメラルダを紹介したた。マリーナとホテルが一緒に楽しめる施設だから、ゆっくりしていったら良いと言った。3人は、それはありが達と言い明日から2泊したいので連絡しておいてくれれば助かるといったので、すぐに電話した。長話の後、車でリスボンの海の見える小高い丘にあるマリアのお墓を、みんなでお参りした。する、アマンダが海の方向を見て西の方向だからアメリカの方を見ているわと私たちの事を見守ってくれているんじゃないのというと、みんなが黙りこくった。アリサは涙を流しレフを始め、男性達は、じっと耐えるかのようにしているが、目に涙が浮かんでいた。
話してる本人のアマンダは葬式の時に来られなくて本当にごめんねと言い回りを気にせず大泣きした。それを見ていたアリサが、彼女の肩をしっかり抱いた。お墓参りを終えるとブルーナがレフにレンタカーの店で下ろしてくれますかと言うので、了解と言い、店の前で下ろして、さよならした。帰る時に見送るから知らせろよとレフが言った。セルジオはわかりました電話しますと答えて別れた。
3日目の昼12時の便で買えるというのでレンタカーの店で朝9時に待ち合わせて孫の三人をのせて、リスボン空港へ向かった。ついて、飛行機の乗車手続きを終え戻ってきたので珈琲を飲みながらアマンダが楽しい旅ができ本当にお世話になりましたと言ってくれた。セルジオが、なかなか素敵なマリーナで驚きましたと言い、もちろん精算は自分たちですませておきましたと笑うとブルーナが、そんなの当たり前、じゃないか、とおどけて言った。アマンダがレフさんもアリサさんもお元気でねと言い、また来ますと別れていった。
22話:昔の思い出話とベロニカのガンと死1
マリアの死からエミリアも元気がなくレストランの調理場にも出なくなってふさぎ込んでいた。そんな時、レフとアリサが2ヶ月に1回程度、車でポルトのコスタズメラルダ・ヨットクラブへ1~2泊の旅へ連れて行く様になった。2005年春に少しずつ元気を取り戻し調子の良い時はレストランの調理場を手伝う様になった。この年はエミリアも元気を取り戻したかに見えたのだが12月初旬、腹痛を訴え近くの病院の救急へ運ばれた。診察の結果、胃がんと診断された。2006年に入り放射線治療で髪の毛がなくなったのを悲しんでいたが体調は思わしくなかった。春になり体調の良い時、また海が見たいというのでポルトのコスタズメラルダ・ヨットクラブへ連れていった。
レフとアリサと同じ部屋に泊まって、なつかしそうに昔話をした。イワンがソ連のスターリンの命令でイワンが一家でシベリアのサハ共和国のオイミャコンのいく様に命じられマリアと私が小さなレフと手をつないでを連れて長いに道のりを歩いた。途中、何回も泣くので困ったものだった。それでも何とかオイミャコンについた。そこでは凍傷にならないように何枚も毛皮をきて生き抜いてきた。マリアが近くの山から食べられそうな野草と少しのジャガイモと川魚を入れた煮込み料理を作ってくれ、冷たくなった身体を温めてくれたのよ本当に美味しかったわ。マリアの手料理がなかったら飢え死にしたかもしれなかったんだよ。本当にマリアには感謝しなきゃと言った。
でも、その姉さんも天に召された。次は私の番だね、仕方ない、年だからねと薄笑いを浮かべた。早く天国に行って姉さんと昔の様に歌でも歌いたいものだよと言った。その後はレフ、あんたのお陰で、ソ連を脱出して、この暖かいポルトガルに来られて本当に幸せだよ、レストランも繁盛しているし、ファミリーに囲まれて、まるで天国にいる様だよと言い、こんな幸せな時間をイワンにも味わって欲しかったよと泣き出した。レフがイワンも天国から今までのファミリーの生活を見守ってくれて知ってるよと入った。今頃、天国にたどり着いたマリアと、昔の様に、仲むつまじく生活を始めているよと言った。私も、イワンとマリアの所へ、早く行きたいよと、また泣いた。
見にくく年を取っていくのは嫌だ、痛みに耐えるのも、こりごりさと言った。これにはレフもアリサも何も言えなくなってしまった。もう疲れたから寝ると、すっと寝てしまった。翌日はマリーナが見えるレストランの席で遠くの海を眺めていた。本当に綺麗な景色だね、こう言う時間がもてるなんて夢のようだと言った。するとレフトアリサが、また連れてきてあげるから長生きしましょうねと言うと、そうしたいが、残念ながら、私には、この世に残された時間が、もう少なそうだ。でも、この景色は忘れない様に、頭の中に焼き付けておきましょう笑った。その笑顔は、まるで童女のような、素敵な笑顔だった。
23話:昔の思い出話とベロニカのガンと死2
食事をしてマリーナ最後の夜、部屋に戻り昨晩と同じように昔話をし始めた。あれはオイミャコンの夏だったよね、私とマリアとレフとベロニカで山へピクニックへ行った時レフが何か光るものを見つけたんだよね、スコップとジャベルで掘ってみると硝子のような光るものを見つけたんだ。最初、水晶だったら良いなと思った。その後、幼いレフが、少し離れた場所をシャベルで掘ると同じ様なものが見つかった。合計で10個、見つけたんだよね。
3つが大きく、他は小さかった。その時マリアは驚いて、この事は絶対に他の人にしゃべっちゃいけないよと言った。多分、あの時、マリアはダイヤモンドだと直感したんだろうね。天の神様がマリア・ファミリーがあまりに可哀想だと思い私たちにプレゼントを下さったのだと感謝したのさ。その後、ウラジオストク、ヤルタとソ連を横断した。その後、レフがブリュッセルでその水晶の様なものがダイヤモンドだと調べてもらい、研磨して、マリア・ファミリーの宝物をスイスの銀行に預けてファミリーのみんなに分けてくれた。そして、今、暖かく安全な港町リスボンにたどり着いた。マリアに教えてもらった、刺繍と料理で、生計を立てて、いまは、最高に幸せな時間だといった。
ファミリーの子供達に更に素晴らしい人生を送ってもらいたいと言ってくれ。これは、みんなレフのお陰だよ、ありがとうよと、また泣いた。ちょっと疲れたからと言いベッドに入って少し話をして小さな寝息が聞こえ寝てしまった。翌朝、朝食をとり9時頃マリーナを出発して昼過ぎにリスボンの家に着いた。今年の夏は最近にはなく暑い夏だった。ベロニカが暑さで体調崩して二週間入院した。レフはベロニカが、可哀想な位、やつれた姿を見るに忍びなかった。
秋風が吹き、涼しいなってきて、レストランの方は変わらず、盛況で繁盛していた。寒い風が吹き始めた十一月、再びベロニカが、急に具合が悪くなり救急車で病院に運ばれた。入院の予定が2週間と言われたが体調が回復せず2006年12月24日、危篤状態になり、12月25日に亡くなった。マリアの時と同じ様に何があっても仕事の手を休めないよう質素に身内だけで仮葬儀をして2007年の年が明け、レストランが休みの日にファミリー総出で葬式を執り行った。遂にレフが、マリア・ファミリーの最長老になり、ファミリーの更なる発展を誓った。
マリア、ベロニカも亡くなり、レフとアリサだけで、店のビルに住む意味がなくなり、リスボン郊外の海辺の別荘に住む事を考え始め、その月の休みの日に不動産屋にいって数件見てコインブラに近いリスボン北部の海辺の町ナザレの高台にある戸建ての別荘を30万ドルで買う事を決めた。
24話:孫に自立とエミリアの死
2009年、ブルーナとセルジオとアマンダが一緒に、リスボンに帰ってきた。今回は3人とも、アベックで帰国した。以前、帰国したときに話していた、フィアンセと結婚した様だ。ブルーナとセルジオは、既に子供ができた様で今回は家に置いてきたそうだ。フィアンセの紹介をしてくれた。そこでレフが、君たちの口座に結婚祝いと出産祝いを送金しておくよと言った。それは助かりますとアマンダが言うと、かみさんになると、みんな、しっかりするんだからと大笑いした。今回もポルトのマリーナを2泊、取ってくれますかとセルジオがレフに聞いた、すぐ電話するからと言い電話で空きを確認してツインを3室予約した。交渉事は全てセルジオの役とアマンダが茶化した。車を連ねてマリアとベロニカのお墓をお参りして別れた。
この年はEUの加盟国の一つ、ギリシャで2010年5月に突然財政危機が表面化した。これは今まで数字を偽装して隠していたものが、昨年の政権交代で、新政権になって隠さずに、表する様になり発覚したものだった。
レフ74歳、妻のアリサも73歳になり結婚記念日2009年10月10日に長期休暇を取り地中海クルーズを初めて経験した。レフもアリサも十分に休むつもりで出かけたもののファミリーの仕事は大丈夫かとか心配で十分楽しめない。朝起きると真っ青な海と太陽こんな世界があるんだと驚きの連続。食事も良かったし何不自由のない生活なのだが、何か生きているという実感が乏しい7日間だった。ファミリーへのお土産を買いリスボンの港についてソフィアとアンドレにお土産を渡しクルーズの思い出を話した。マキシム、イザベルに土産とクルーズの話をした。するとレフの妹のエミリアが今度は私も連れてって言うので了解した。エミリアはリスボンからアメリカまでクルーズ船で行き、また、クルーズ船で帰ってきたいと言った。来年の春に出かける約束をした。
今年も寒い風が吹く季節12月がきてクリスマスを過ぎ2011年となった。エミリア73歳は風邪を引き、熱が出て、なかなか下がらず、とうとう病院に入院する事になった。インフルエンザだった。救急治療室に入り懸命の治療を施したが遂に、肺炎を併発して入院後8日目にあえなく帰らぬ人となった。あまりの早い死にファミリー全員も全く信じられない様子で死亡の確認に病院に出向いてあまりにむごい現実を知る事となった。彼女は亡きマリアの片腕として裁縫を手伝い、ある時はレフを手伝い、いつも誰かを助けていた人生だった。思い返せば1992年にウラジオストクからヤルタに移動する時、密かに思い続けたな男性がいたが彼と一緒に残るか、別れてファミリーに着いていくか悩んでいた。そして、最後にファミリーを選んでヤルタに移動した。
その後、ポルトガルに着きマリアの片腕として働いてくれた。彼女はいつの時でもマリヤ・ファミリーのために生きてきた。何とけなげ人生だったのだろう。レフは自分が、いかに回りに助けられて生きて来たかを思い知らされるのだった。そして生前エミリアが一番好きだったマリアに縫ってもらった綺麗な刺繍の入ったブラウスとカーディガンを亡くなったエミリヤに着せて、お別れする事にした。
数日の葬儀でレフがエミリアよ本当にご苦労さんと言うとファミリー参列者からすすり泣く声が聞こえた。エミリアの何ともけなげで、まるで笑っている様な死に顔を見ると、皆、むせび泣くばかりだった。その時、レフはマリアやエミリアの分まで人生を楽しんで生きていこうと決心した。エミリアの死後、彼女の口座の残金30万ドルはファミリーのために使わせてもらう様にした。
25話:クルーズ船でアメリカへ1
2010年4月、エミリアのために予約していたアメリカへのクルーズに妻にアリサと出かけた。二週間でニューヨークについてアメリカ国内、ラスベガス、サンディエゴ、シアトル、ワシントンを2週間かけて回って来た。亡きマリアとエミリアに見せるために写真を撮りまくった。アメリカ中を回り、その活気というか、バイタリティーに魅せられた。ニューヨークで、奥さんのアリサがブロードウェイ・ミュージカルを見たいというので、ホテルに2泊して2つの評判の高いミュージカルの迫力と素晴らしさに魅了された。
その後、飛行機でラスベガスへ行き5泊してシルクドソレイユのオーなど有名ミュージカルを楽しんだ。最終日には小型飛行機でグランドキャニオンへ行き雄大な風景を見て感動した。そこから、飛行機でサンディゴに飛び、シーワールド(水族館)、サンディエゴ動物園を見て回った。サンディエゴから、列車でロサンゼルスへ行き、そこからシアトルに飛び、有名なスペース・ニードルの最上階からシアトルの町をや、マウントレーニアの景色がよく見えた。その後、パイク・プレイス・マーケットでカニや、オイスター(牡蠣)を食べた。2泊したが、シアトルの食事、珈琲は、他の米国の都市に比べて美味しい。特にパンが美味しかった。
その後、ワシントンに立ち寄りニューヨークに戻り宿泊した。数日の後クルーズ船でニューヨークからリスボン行きのクルーズ船にのって2週間で着いた。1ヶ月の旅行で、いろんな事を学び、吸収してきた。帰った日の晩にリスボンのマキシムとソフィアの家により、お土産を渡しながらアメリカでの写真を見せた。今回は、疲れていけなかったが、次回は、オーランドのディズニーワールドや、マイアミ、ヒューストン、サンアントニオ、アルパカーキ、サンタフェなど、アメリカ南部をまわりたいと考えた。
翌年、2011年3月、ヨーロッパ出発して、リスボンに立ち寄り、マイアミ港に行く、クルーズ船を予約して出かける事にした。リスボンを出発して、マイアミ港に到着して、ツアーバスでキーウエストへ、キーラーゴ島に入り、異様に長い島を、ひたすら南下、途中で休憩しながら2時間かけて、キーウエストへ。何か、信じられない光景に驚かされた。島々を橋で渡して、ハイウェイを作るなんて、壮大なことをよく考えたと思うほどだった。
ツアーから戻ると、疲れていたせいか、軽食をとり、すぐ寝てしまった。翌日もツアーでエバーグレース公園へ行った。そこには、熱帯のワニや、亀、蛇がおり、見ると気持ちが悪い。その後は、エアーボートに乗って、湿地帯を猛スピードで走った、これは、爽快で楽しいものだった。
26話:クルーズ船でアメリカへ2
翌日は、オーランドまで飛び6泊してディズニーワールドとユニバーサルスタジオをまわった。どの遊園地も広大な敷地だった。ディズニーワールドは、エプコットで未来の世界を体験して、マジックキングダムでは昔からのキャラクター、ミッキー、シンデレラ城、ハリウッドスタジオでは、インディージョーンズのショー、美女と野獣のステージなどを楽しんだ。テーマパークだけでなく、パーク内を移動する、モノレール、船が、面白かった。また、花火大会も十分楽しめた。
ユニバーサル・スタジオ・オーランドでは、シュレック、ターミネータ、メインブラック、トランスフォーマーなど映画でおなじみのキャラクターの立体的映画をいくつも見て目が回ってきたのを思い出す。その後、ヒューストンで宇宙センターや、100年以上の歴史を誇るヒューストン自然科学博物館では、、実物サイズの恐竜の骨格などを見学することができ、楽しみながら恐竜について学べ「ウィス・エナジーホール」では、石油の街といわれているヒューストンならではの展示物を見てきた。
次に、全米一美しい町といわれるだけあり、アルバカーキは、強烈な太陽と、砂漠の砂の色、そして青い空の色が似合う素敵な町だった。次にプエブロ・インディアンの町、サンタフェ。この町では、建物はインディアン文化を伝える建築様式を取り入れたものにしなければならないよう、法律で決められている様だった。インディアン文化を払拭して発展してきたアメリカの他の地方の人にとっては、サンタフェのようにインディアン文化の基礎の上に成り立っている都市というのは珍しいようで気に入った。最後に、アルマカーキから近いのでセドナを訪れる事にした。
元々はネイティブ・アメリカンの聖地の一つで、砂漠に囲まれ、山と川もあり、自然豊かな大地の上にあります。科学的に証明されているわけではありませんが、セドナのパワーは渦を巻いているといわれています。レッドロックや奇岩、流れる川にもパワーが宿り、地中からパワーが湧き出ていると言うのだ。セドナは、「ボルテックス」が集中していると言われることがあります。ボルテックスとは、ラテン語で「渦巻き」を意味する単語で、そこから転じて大地の強いエネルギーが渦を巻いて放出されているポイント、いわゆるパワースポットを表す言葉として使われます。
世界のボルテックスの中でもセドナには特にパワーの強い4つのスポットがあります。4つのスポットとは、1:エアポートメサ、活力を与えるレッドロックと言われ、中心街からもアクセスしやすく、多くの観光客が訪れます。名前の通りエアポート(空港)の近くにあり、セドナを一望できるので、すばらしい朝日と夕日が見られる場所として人気です。2:ベルロック:その名の通りベル(鈴)の形をした可愛らしい岩ですが、転機を乗り切る直感や決断の山で、男性的で力強いパワーにみちあふれる場所として有名です。遊歩道が整っているので、ハイキングやトレイルランなど、登山しながらアクティブな時間を過ごしたい人におすすめです。3:ボイントンキャニオン:水と緑、大地と空の4大要素が集まった、セドナで最も強いパワーを感じられる場所とも言われています。ネイティブ・アメリカンの大地の守護神「カチーナ・ウーマン」という名のラクダのような形をした岩があることでも知られています。4:カセドラルロック:もっとも愛されている岩と言っても過言ではありません。その名の通りその姿はまるで、格式高い古い大聖堂のよう。頂上からはセドナの岩山たちを上から見下ろしながら眺めることができます。愛に迷った時に訪れると良いといわれていて、恋人同士や女性に人気があります。特に夕日に染まるカセドラルロックの美しさは定評があり、写真愛好家からも親しまれています。4つのボルテックスを巡ると、バランスよく心身が癒され、リフレッシュ出来るといわれていまえう。その後、セドナからラスベガス経由でマイアミへ行き、ロンドン行きのクルーズ船で、途中の寄港地リスボンまで乗って帰ってきた。約1ケ月の米国旅行だった。
27話:夏は、北欧、イギリスで避暑
暑い夏はレフとアリサは北欧の旅へ出かけ避暑地でゆっくりと過ごしていた。2012年は、リスボンからコペンハーゲンへ3時間半で飛び、コペンハーゲン16:30出発の豪華客船でオスロ到着は、翌朝9:45。コペンハーゲンから空路1時間でストックホルムへ。ストックホルムのコンドミニアムに14日間、宿泊した。スウェーデン王の狩猟地だった自然豊かなユールゴーデン島には、博物館やカフェ、遊園地、お散歩コースなどを歩いてまわった。水辺には散策路が整備されていて、ストックホルムの美しい風景を楽しめます。晴れた日は本当に気持ちが良い。
また、フィンナルビークスベリイェットというストックホルムが一望できる丘からの眺めは実にきれいで感動的。ストックホルム市内観光をして、避暑を楽しんでいた。その後、ロンドンへ飛び、イギリス北部の湖水地方で毎日の様にいろんな花を見ながらの街、ウインダーメアー湖クルーズを楽しんで14日間過ごして、リスボンに戻ってきた。
その後の世界情勢は混乱の渦に巻き込まれていった。2年後の冬、2013年11月に、ウクライナの首都キエフにて始まった反政府デモは、2014年2月21日に最高潮に達する。ロシアの圧力に屈したウクライナ政府、ヤヌコーヴィッチ前大統領は民衆の圧力を受け首都から逃亡、政権は崩壊した。以前、レフは、ヤルタに住んできた時に、やがて、ロシアの圧力が及ぶと思いヨーロッパを横断してボルトガルで生活を始めたのは間違いではなかった事が証明されたようだった。2014年、ロシアはウクライナのクリミア半島にある軍事施設を占領した。ウクライナとロシアの関係は悪くなり、NATOとロシア、米国との関係も悪なった。
2015年はギリシャ債務問題でユーロ危機、ギリシャで1月、反財政緊縮派政権が誕生し、欧州連合(EU)との金融支援交渉が難航、財政危機が深刻化した。 一時はデフォルト(債務不履行)状態に陥り、ユーロ圏離脱の危機が高まった。一方、ECBは3月、デフレ阻止のため国債を買い取る量的金融緩和策を初導入。12月には追加緩和に踏み切った。中国で景気減速、チャイナショック、日本など海外からの直接投資が減少し中国の製造業は過剰な生産と在庫、輸出入の不振に苦しんだ。
2015年パリ同時多発テロ、2015年11月13日、パリ中心部の劇場や飲食店などで市民を無差別に標的とするテロが相次いで起き130人が犠牲となった。「イスラム国」が犯行声明を出した。
COP21が「パリ協定」採択、フランスで開かれた国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)は12月12日、2020年以降の地球温暖化対策の新枠組み「パリ協定」を採択した。 条約加盟国のすべてが参加する枠組みは初めて。各国が温室効果ガス削減で自主的に目標を掲げ、世界の気温上昇を産業革命前から2度未満に抑えることを目指す。
28話:レフの金庫番の交代
2015年に、ブルーナ、セルジオ、 アマンダが、時間ができたので二日後、家族全員でリスボンへ行くとアマンダが電話してきた。電話の話では、ブルーナとセルジオ家では子供3人、アマンダ家では子供が2人だと話してくれた。リスボンの空港で待つと14人の大家族で孫家族達がやってきた。そこで車で宿泊予約したホテルへ直行。そのホテルのレストランでお話しすることになった。レストランで皆にレフとアリサが自己紹介した。
その後、ブルーナとセルジオをソフィアとレフ、アリサの5人で、少し話をする事にした。レフが、最初に、私も80、何時、体調を崩すかも知れない、そこで数年前に言った様にファミリーの資産の管理の権限を君たちに渡そうと思っていると話した。PT銀行の残高照会を見せた。そこには500万ドルと書いてあった。その後、君たち三人のうち、代表してPT銀行の担当者と交渉するのは誰にすると聞いた。するとブルーナがファイナンスの事はセルジオだから、お願いしたいというとソフィアも賛成した。セルジオが引き受けると言った。詳しいことは全て、書面で、メールで各自に送ると言った。これで、レフの役目は、終わって、肩の荷が下り、張り詰めてきた心の糸が、ゆるんでくる不思議な気持ちを味わった。これで話は終わりと言うと、今回も、あのマリーナを二泊、予約してもらえませんかと聞いてきたのでマリーナに電話して二泊の予約を取った。
すると、少しして大きなケーキがテーブルに運ばれてきた、レフが、何、これというと言うとソフィアが、レスさんへの感謝の気持ち、サンクス、アニバーサリー・ケーキですと言った。ケーキには、大きめのローソクが8本、火をつけたとたん、拍手がわいた。レフさん、火を消してというので、慌てて吹き消すと、おめでとう、ありがとうと声が聞こえ、おおきな拍手となった。思ってもみなかったことに、レフもアリサも驚かされた。レフが、ありがとうと言った。何か、あのピクニックの日から、ウラジオストク、ヤルタと思い出が走馬燈のように頭の中を駆け巡った。その画面には、若き日のマリア、ベロニカ、エミリアが生き生きと描き出されて、まるで映画を見ているようだった。そして、みんなが、レフの方をみて、ありがとうと礼を言っているのである。ほんの一瞬の出来事だったが、まるでスローモーションを見ているような不思議な感覚に襲われた。ぼーっとしているうちに、パーティーは終了した。
アリサがレフ大丈夫と耳元で大きな声で叫んだので我に返った。脳の血管でも切れたか思ったと笑いながら話した。三日後、孫達の大家族を、レフ、ファミリー大勢で見送った。そして、2015年も暮れて、2016年を迎えた。
2016年も世界情勢は波乱の幕開けだった。1月3日、サウジアラビアとイランが国交断絶を宣言した。その直接的なきっかけは、サウジ政府が反体制派と目したシーア派指導者を処刑したことを受けシーア派中心のイランでサウジ大使館が焼き討ちされた事でした。
また6月23日、EU離脱の賛否を問う英国の国民投票で、離脱派が勝利しました。国民投票の結果は英国経済の先行きを不透明にすると同時に、英国が抜けることはEUにとっても大きな経済的損失になります。その上、EUからの離脱を決定しながらも英国政府がEUとの「特別な」関係を求めていることに、他のEU加盟国は反発した。
続いて10月8日、米国で大統領選挙が行われ、共和党のトランプ候補が民主党のクリントン候補を破りました。「米国第一」「米国を再び偉大な国にする」ことを主張する一方で、外国人をはじめ女性や性的少数者への差別的な発言が物議をかもしながら、最終的にトランプ氏が当選した事は、世界に大きなインパクトを与える、貧困、格差、人種や宗派に基づく差別、対テロ戦争への厭戦感情など米国社会に蔓延する閉塞感と「強いリーダー」への渇望を印象付けました。
29話:天国の階段を昇るレフとアリサ
2017年、1月に正式にトランプ氏が米国大統領に就任して、嫌な予感が漂っていた。案の定、メキシコとの国境の壁を作る話が現実味を帯びてきた。(多国間貿易協定)TPP(温暖化ガス削減)パリ協定からの離脱と、次々と唖然とするような政策を実行してきた。何か、今後の世界情勢に大きな影を落としそうな気がしてならない。
2017年3月に、レフとアリサが毎年出かけるポルトのコスタズメラルダ・ヨットクラブの様な、海辺に近く、景色がきれいな所に、引っ越したいと考えるようになった。リスボンのレストランは、他の人に任せ、ゆっくりと老後の人生を送りたくなった。リスボンから海岸線を北上して約100kmの海岸沿いに、ナザレ(Nazare)というヨットハーバーのある港町を見つけた。公園もあり、ショッピングモールもあり、高台には、新しい家が建っていた。その高台から海岸を見下ろした景色が、ひと目で気に入った。ここが、良いねと、アリサに言うと、ほんとに素敵とこたえた。そこで、不動産会社を訪ねてみると、いくつかの売り物件が出ていた。不動産会社で、条件を聞かれ、大きな部屋の2-3LDKで、とにかく景色の良いところ言う条件を挙げた。
すると、港から、坂を上がった所にある2階建ての3LDKの家を見せてくれた。海に近い所も数件見たが、景色は坂の上の方が良かった。価格は23万ドルと言った。そこで現金で支払うから20万ドルと言うと、ちょっと渋い顔をしたが現金なら良いでしょうと言い購入できた。不動産屋の店に行き、契約書にサインし、不動産屋の口座番号を聞き入金する事にした。入金がされたのを確認して家のキーを渡すと言ってくれた。近くで、ホテルに1泊して、観光名所、病院、スーパーマーケットなどを場所を教えてもらった。
その後、4月から住み始め、ゆっくりとした夫婦だけの生活が始まった。用事があるときに車で1時間半のリスボンへ出かけた。スーパーで売ってる、魚、肉、野菜、果物が新鮮で美味しい料理もつくれて、充実した生活を送っていった。暑い夏は、アイルランド、イギリス、スウェーデンで避暑に出かけると言う、優雅な生活を送れるようになった。数ヶ月に1回、長女のソフィアや、長男のマキシムが訪ねてくる程度で静かな生活だった。2017年から2018年となった。この年もローマ、バルセロナ、パリ、ウイーンなどを回り、観光をしてまわった。夏はイギリスの湖水地方が気に入り綺麗な花が咲き草原を散歩したりカフェでゆっくり、お茶を楽しんで平穏な暮らしを楽しんだ。2018年9月に孫のブルーナとセルジオ、アマンダが車でポルトのコスタズメラルダ・ヨットクラブへ来ると連絡があり、車で出かけた。
そこで、レフの82歳のバースデー・パーティーを盛大に、祝ってくれた。ブルーナとセルジオ、アマンダもアメリカで成功して、家を持ち、充実した生活を送っている話を聞かされて、ファミリーの活躍を喜んだ。その晩は、いつもよりも楽しく、酒を飲み、ぐっすり寝てしまった。極寒の土地に、育ち、苦労を重ねてきた人生が、やっと80歳を過ぎて、花開いて、実を結んだと実感でき、もうやり残したことはないと感傷にふけった。翌日、家に帰る前に、1泊してポルトの町の観光して回った。
その後、ナザレの家に戻り、いつも通りの平穏な日々が続いた。そんな、2018年の10月の雨の日、レフがアリサがリスボンへ仕事の相談でソフィアに呼び出されリスボンに出かけた。リスボンに1泊してマキシムの店も見て回った。繁盛しており商売は順調だった。その後、リスボンから自宅のあるナザレの郊外の高台にある戸建ての別荘へ帰る途中、海沿いの道を走行中、反対車線の車が追い越しをかけてきて、それをよける様にしてガードレールを突き破ってレフの運転する車が海の中へ落ちた。すぐ警察を呼んでダイバーによる捜索をしたが遂に遺体が見つからなかった。現場に駆けつけたマキシムとソフィアは泣き崩れて茫然自失だった。これによってイワンから始まったシベリア生活からウラジオストク、ヤルタ、リスボンへの大移動、移住の話の詳細を知る人はいなくなった。
その日は異様に明るい満月の晩だった。その波間に、長く映る満月の影は、レフ達がマリア達の待つ天国へ続く、階段を照らすように、煌々と輝いていた。
極北のダイヤモンド
大きなスケールの小説を長期間にわたる小説を書きたいと思い、ソ連のシベリアから、ウラジオストク、バルカン半島のヤルタと大移動を続け、ソ連を抜け出して、ポルトガルに移住するというファミリーの話と、偶然、ピクニックで見つけたダイヤの原石、研磨して手に入れた富をスイス、プライベートバンクで運用してファミリーに分配し、、主人公ファミリーのレストラン経営通して、彼らの生き様を描こうとした。最後は、主人公の非業の死で結末を迎えるが、逞しいファミリーの商売精神と新天地をめざす大移動の歴史を描いたものである。