午後五時前のぼくとその後のきみ
もうあと十分経てば、八校時が終わる鐘がなる。
ぼくは、もう中身のないミルクの紙パックに差したストローを八重歯で噛んでいた。ストローの端は醜くひしゃげてぺちゃんこだ。それでもぼくは噛むことを止められなかった。
開け放たれた窓の外を眺める。三月に入って、日がずいぶん長くなった。永遠に続くと思えた冬にも終わりが来ると、あの太陽は言っていた。橙と赤を混ぜたような空に、ミルク色だった雲は簡単に影響を受け、擬態じみた変色を遂げている。ぼくもあんな風にかんたんに周りに溶け込めたら楽なんだろうか。
誰もいない教室にいるぼくは、きっと誰でもない。
規定の制服を無視して、僕は黒いパーカーのフードを頭にかぶる。春風はさむい。マスクをしていても、木製の椅子に体育座りをしていても。
ふと、強い風が教室に吹き付ける。ぼくの机に置いていたルーズリーフの束が、宙へ舞うのが、見なくても分かった。恋が開いたような音が耳に心地よく届いたから。
それとほぼ同時に、五時を知らせる鐘がけたたましく鳴る。鳴ることが分かっていたはずなのに、その瞬間を待ち望んでいたはずなのに、ぼくは驚いてミルクパックを口から落とした。すべてが床に落ちて、すべてが仕舞いだ。
風がさむかったから、ぼくはろくに動けなかった。何もかもを拾う気力がなかった。きみの気持ちを拾うこともできないのに。
そうして何分経ったのか分からない。たぶん三分も経っていない。数えていないから、真実は知らない。
教室のドアの片方が開く。振り向くと、仏頂面のきみが立っていた。ぼくはきみの笑顔を拝んだことがほとんどないんだ。
「さむ。」
口数少ないきみは、つかつかとぼくに歩み寄る。そして散らばったぼくの持ち物を見て、大きく溜息をついた。
「……。」
寒いとぼくは口も凍る。きみに言いたいことは山ほどあるのに、脳みそにはいくらでも言葉のストックがあるのに、大事な発言器官が役立たずだった。
きみは膝下のスカートを揺らしながら、ルーズリーフとミルクパックをいとも簡単に拾い上げた。不機嫌そうに見えるきみの眉毛は微動だにしない。
「待たなくて良いって、言ったよ。」
ぼくは小さくうなずいた。
先日もきみが同じことを言ったことをちゃんと覚えていた。それでも。
ぼくのクラスはとっくに授業が終わっても。きみのクラスはなかなか授業が終わらなくても。ぼくがきみを待ちたいという気持ちは、あの雲のように簡単に色を変えたりしない。
それに、五時の鐘さえ鳴れば、きみは来てくれるんだ。
「ぼくが、きみを待ちたいだけだ。」
マスク越しの声はくぐもっていて、カサカサしている。ああ、マスクも外さなくてはいけないのに。
そんなことを考えたとき、きみは既に動いていて、ぼくの耳に指をかけ、痛みひとつ残さず、大きすぎるマスクを外した。顔がさむかった。
かすかに口角の上がったきみのくちびるは紅をささずとも、春先の桜のようだった。ぼくはそのくちびるにしばし、見惚れる。
「あげるよ。」
きみがぼくの手の平になにかまるい物をのせた。軽くて冷たい物だ。それの正体は透明の石のついた銀色の指輪だ。ぼくの指になんとか収まりそうなサイズに見える。
ピアノの得意なきみの指が、その指輪をつまみ上げる。反対の手でぼくの左手を裏返す。そして、ゆっくりとぼくの薬指にその指輪を通した。冷たいその金属の塊はすんなりとぼくに収まった。
きみがにっこりと笑う。
ぼくは驚いて口を開けている。
目と目が合って、時間が止まる。
「××は男だけど、それ、似合うんじゃない。」
きみがぼくの名前を呼んで、指輪を褒め称えた。
いくら春でも日は沈む。あたりは暗闇に支配されつつあった。ミルク色の雲はやっぱり変わり身が早かった。
きみはいつだって、ぼくを驚かせる。
午後五時前のぼくとその後のきみ
ミルク、五時、指輪から連想しました。