余生

Mimei

余生

ダンボールを開けると、こびり付いた湿気の匂いがした。ツンと鼻につく香りが漂うアルバムや文庫本を積み上げる。
このダンボールに入っているものは全て、どうにも捨てられなかった「とりあえずとっておいた」ものばかりである。手に取った古本に滲んだ油脂が、指にべっとりと絡みつく。そもそもどうしてこの本を買ったのか、今では思い出せない程だと言うのに。
「櫂人、どう?一通り終わった?」
荷ほどきを共にしていた明利に声をかけられ、ひたいに滲んだ汗を手首で拭う。
「そろそろ休憩しようかな」
「あ、俺もそう思ってた」
無垢な笑みを浮かばせた彼の白いTシャツにも、多量の汗が染み込んでいた。
まだ6月後半と言えども、冷房器具の1つもない部屋は蒸し暑く、頭がクラクラする。
ついさっき設置してもらった冷蔵庫からウーロン茶を二本取り出す。勢いよく飲むと、冷え切ったそれは喉をじわぁっと潤した。明利にも手に持ったもう一本を渡す。
「荷ほどきは大変だなー....」
「荷造りは荷物詰めるだけだったしね」
「櫂人はやっぱり手際が良いよね。俺、もうどこから手をつけたらいいのかがイマイチ....」
「本当?良ければ、あとで手伝うよ」
もうすっかり夏が訪れた気分だった。決して綺麗とは言えないアパートの一角だが、新鮮な気持ちは一切衰えることがない。
今日から共に暮らす相手である明利も、心なしかそわそわとしているようだった。
「今日夕飯どうする?」
「どっか食べに行く?」
「んー、家でゆっくりしたいかなぁ...」
「それじゃあ僕が作るよ、何か冷蔵庫の余り物で適当に...」
そう言った後にハッとする。この季節という事もあり腐ってしまう恐れがあった為、冷蔵庫には飲み物以外のものが何一つ無かった。
「ちょっと材料買いに出かけてくるね」
「あ、俺も行くよ」
「わかった、何か食べたいものとかある?」
「んー、櫂人の作るものなら何でも好きだよ、俺」
照れ臭く感じて「それは困ったなぁ」とあしらいながらお気に入りのパーカーを着込む。袖が少し余ってしまうこの長さが、すごく着心地良い。
引越しは初めての経験では無かったが、誰かと二人きりで家に住むのは不思議な気分だ。だがこれからの自分の人生がここの玄関から始まっていくのだと、そう思い胸が高鳴った。


外へ出ると、同じ階に一人の男性がいた。おそらくここのアパートの住人だろう。どっちみち後で挨拶へ行くつもりだったので、僕は男性に声をかけようとすると、向こうはすぐこちらに気付いたようで、
「あ、もしかしてここに引っ越された方?はじめまして〜」
と言い、手をひらひらとさせてくる。僕と明利はドキドキしつつもその場で軽くお辞儀をする。
「はじめまして、本日引っ越してきました、新城です」
「麻木です」
「よろしくね〜、佐々木といいます」
佐々木さんは僕らの顔を交互に眺めた後、顎に手を置きふむふむと納得したような表情を見せる。そして一歩こちらへ歩み寄り、
「君たちは付き合ってどれくらいなの?」
と何でもないように尋ねてくる。心臓が勢いで取れてしまいそうなくらい跳ね上がり、手汗まみれになっている事がすぐに確認出来た。
「あれ、違った?」
「あ、いや.....そうですけど.....っ、あ」
ついそう言ってしまった後、隣にいた明利は凄く驚いていた。同性同士で交際していることをなるべく隠したいと提言したのは、この僕だったからだ。
「パーソナルスペース、ね。それじゃあ困った事があったら何でも言ってね〜」
佐々木さんは独特の耳に残るねっとりとした口調でそう言い放ち、玄関の鍵を開けて中へ入っていった。
ぽかん、としていた明利は数秒の沈黙の後、吹き出すように笑い出した。
「まさかこんなに早く見破られるとは....」
「だよね..」
「そんなにオーラ出てたのかなぁ、俺たち」
「明利、最後に言ってた言葉の意味、わかった?パーソナル?なんとか...」
「ああ、パーソナルスペース。知ってるけど、ちょっと恥ずかしいから櫂人には言わない」
「何それ。余計に気になるな」
明利はにやけた口元を手首で押さえつけ、飛び跳ねるように階段を駆け下りていった。
ふと振り返ると自分の真後ろには「203」と書かれた扉があり、それはこれから毎日帰宅のたびに目にする数字で、それを見ているだけで何だか言い表せない喜びで心がいっぱいになった。何だか自分までにやけてしまう。
「ふふ」
「明利テンション高いね」
「え、そう?んーなんか、嬉しくて、さ」
「僕も今すっごい嬉しいよ」
「ほんとに?」
「明利と一緒に住めるなんて夢みたいだし」
「あー...。もちろん俺もそうだけどさ、そっちじゃなくてー、ほら、カップルとしてようやく認めてもらったような気がして」
明利は視線を落としており、その口調はとても初々しかった。
「からかわれなくて良かったよね」
「心からそう思う...あ、櫂人明日は?」
「明日は特に何もないかな、明後日はバイト」
「あ〜、俺は明日バイトだわ....」
明利は大げさなほどがっくりと肩を落とす。一緒に住み始めたのは良いものの、やはり2人でのんびりできる時間はいつも通りのようだ。
ただ毎晩一緒に居れるんだ、という事はちょっと図々しいような、恥ずかしいような気がするから言わないでおこう。
「あ、俺親子丼食べたいかも」
明利がそう笑いながら口にした。「わかったよ」と言いこちらも笑う。
スーパーへ続く河原には夕焼けの光が差し込み、幻想的とも言える情緒を感じた。
僕らが引っ越してきたここは、すごくのんびりとした町だった。都会に染まった若者が見れば圧倒的な物足りなさがあるだろうけど、このどこか寂しい町が凄く好きだ。
肩身の狭い僕らでものびのびと過ごせるような静かな場所に住もうと決めた時から、いくつかの町の住まいを見てきたが、ここの空は特に好きだった。
迫害されるまではいかずとも、発展と進化から取り残された風景に、いつからか自分の姿を重ねていたのだろうか。


二人でスーパーへ行き、必要な物をある程度買い揃え、帰路を辿った。
冷蔵庫の中身は文字通り空っぽで、二人がかりでもかなりの大荷物となった。
鶏肉と卵、玉ねぎ、醤油と味醂を台所に並べ、使い慣れたフライパンをコンロに置く。料理だけは恩人から培った、自分に唯一できることだった。
部屋では明利が荷ほどきの続きを始めていた。まだいくつか積まれた段ボールがあり、思わずこの先整頓するのを憂鬱に感じてしまう。
「ねぇ見て櫂人」
明利がとてとてとこちらへ駆け寄り、後ろから抱きついてくる。伸びた左手に数枚の写真が握られていた。
「これ見てよ、懐かしいよね」
「あ、店長がくれた写真だ、一年前くらいかな」
直立しぎこちない笑顔でピースサインを作る僕たちの写真だった。写真が趣味のバイト先の店長が撮ってくれたもので、改めて見返すとなんだかすごく照れくさかった。
「こっちの写真は櫂人だけだよ」
「こんなの撮ったっけ」
「ううん、店長が盗撮してくれたやつ!かっこよかったから印刷してもらったんだ」
「それすっげえ恥ずかしい」
「捨てちゃダメだよー、俺の宝物だから」
店長は僕に初めて居場所をくれた恩人だから、盗撮された事を知ってもその行為には決して逆らえない。
宝物。今日はちょっとした言葉によくときめく一日だ。背中から体温が伝わってくる。明利はとてもあったかい。
「親子丼作るのでどいてください」
「いやです、櫂人あったかいから」
「このまま動くよ」
「いいよ〜」
つゆの優しい香りと、じゅわっというフライパンの奏でる音が、卵と鶏肉をふわりと包み込む。

親子丼の香りは10年ほど前の古い記憶を呼び覚ましてくれる。
小さい頃養子として引き取られた先の家で、初めて食べた夕飯がこれだった。向こうの家の人は何も深い事を考えていなかっただろうが、僕にとっては施設以外で初めて口にした誰かの手料理だった。
こうして恋人と同棲する事を決めて家を出るまで、親子丼の味は変わらなかった。
明利はその事を知らないが、僕の得意料理だという事は知っていてくれていた。
「もうすぐ出来るから先に座ってて」
「はーい」
明利が去った後も、僕の背中には仄かな体温が残った。


その日の夜、夢を見た。
日本がどこかの国と戦っていて、他のまた別のどこかの国へ避難しなければいけない、という状況だった。
すごくスケールが大きく、現実味のない話だったが、ここから一気に生々しさを帯びていく。
僕と明利が2人で空港の手続きを済ませようとしたその時、「同性のカップルは搭乗を認めることが出来ません」と言われ、飛行機に乗ることが出来なかったのだった。
その言葉だけが妙に心に突き刺さり、目が覚めてからもモヤモヤとした気持ちが収まらなかった。


「そんなこと、まぁないよな.....」
頭を抱え、朝食の準備をするために重たい体を起こす。
自分が幸せだと、その分の対価がどこかで跳ね返ってくるのではないかと心配してしまうのは、僕の悪癖だ。
最近は特にその傾向が強かったから、その思いが夢に反映されてしまったのかなと、我ながら冷静に分析する。
隣で寝ていた明利が布団からのっそりと起き上がり、ふわりと微笑んだ。
「櫂人おはよ」
「あ、おはよう」
「どうしたの?すごい顔色悪い」
「いや、大丈夫、何でもない」
明莉の顔からはスッと笑顔が消え、僕の肩を掴んだ。
「絶対嘘、考え込んでる顔してた」
「本当にくだらない事だから...」
「ほら、やっぱり何かあったんだ。話すまでどこにもいっちゃだめだから」
肩にかかる力が強まった。
同い年の明莉は僕の何倍も大人で、達観していて、僕の変化にすぐに気付く。そして絶対に僕を馬鹿にしない。施設の出身だとか、引き取られた先の家で上手くやれてなかった事、恋愛感情が全く理解できない事、全てを真剣に聞き受け入れてくれた。明莉はその時にゲイである事をカミングアウトしてくれた。お互いが感じていた生きることへの息苦しさを、優しく共有してくれた。
だから僕は、明莉に隠し事ができない。
「...俺たちの関係を、淡々と否定される夢を見たんだ」
「うん」
「それで、なんか怖くなって....」
真面目な顔をしていた明莉の顔が綻び、ふにゃっと笑った。
「心配した...夢で良かったよ」
「...そうだね」
「まあもし本当にそうなったら、佐々木さんに相談でもしようかな」
ふざけたように明莉はそう言ったが、その言葉にすごく安心感を覚えた。
昨日ものの数秒で僕たちのことを見破ったご近所さん。彼は僕らを見て、一般的な異性のカップルと同じ対応をしてくれた。夢をみるきっかけはそれだったのかもしれない。
泣きそうなほど感情が込み上げてきて、ポスっ、と明莉の胸に顔を埋めた。
「ありがとうね、明莉」
「いやいや、こちらこそ俺は櫂人にお世話になりっぱなしだよ」
優しい手つきで髪を混ぜられ、その心地よさに浸った。
荷ほどきはまだ終わっていないし、買い足さなければいけないものもたくさんだけど、しばらくはこうしてのんびり過ごしていきたいと思った。
「明莉、卵焼きとスクランブルエッグどっちが食べたい?」
「卵焼き!」
暖かい陽の光が差し込み、部屋の中をぽかぽかと照らす。グッ、と体を伸ばし、布団から立ち上がった。

ものさしから外れた僕らは、この先もずっと息苦しさと生きづらさから解放されることはない。これからも、隠し続けることの後ろめたさと、いつバレるかという圧迫感に耐えなければいけない。それが自分達で選んだ道だからだ。
けれど、今感じているこの幸せが、1日でも1分でも長く続いてくれたら、息苦しさも少しは薄れてくれることだろう。
今はまだ、こうして愛しい人と毎日の目覚めを共にできることの喜びを、ただただ噛み締めていたいと思った。

余生

2017年5月に途中でほったらかしていた文章を、読み切りサイズに改変して2018年3月に投稿しました。
交際している人間たちの描写を書くことがすごく難しかったです、ぶっちゃけニヤニヤしていました(笑)。
危うくiPhoneのメモ帳の中に眠り続けるところでしたが、無理矢理超掌編として区切りをつけることができて良かったです。たくさん考えて産み出した愛するキャラクター達なので、自然消滅だけは避けたかったです...。このカップルのエピソードはこれからもたくさん書いていきたいです。
少しでも胸があたたかくなるような、そんな文章になっていれば嬉しいです。

余生

お互いがお互いの人生の支えとなり、心の拠り所である。のんびりと穏やかな時に身をまかせる19歳の二人のお話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
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