ペチカの自販機

 昼過ぎに降り始めた粉雪は、今も止む気色なく、寧ろだんだん大きな塊となり、静かに街に降り注ぎ続けていました。道路を挟んだその奥にある公園は、既に真っ白になっていました。私の目の前のアスファルトは、まだなんとかその黒い面を覗かせていましたが、もう直きに雪で覆われてしまうことでしょう。
 間も無く年も明けるというような今、この道を行き交う者など殆どありません。ただ時折、ご近所さんの若い娘や息子たちが初詣に出かけるのに通るばかりです。
 不意にカリカリという音がして、その内それが大きくなり、やがて一台の自転車が私の前を通って公園に入って行きました。
 その自転車は沢山の荷物を纏っていました。まず目立っていたのは半透明の三つの大きな袋で、一つは前籠に無理やり乗せられていました。残りの二つは左右のハンドルに括り付けられ、自転車が左右に揺れるたびにガチャガチャと騒がしく音を立てていました。後ろの荷台には何層にもダンボールが敷かれ、その上に分厚い布やら、よくわからない袋やら、そんなものが紐で縛り付けられていました。
自転車には、男が一人乗っていました。けれども、男よりも明らかにそのたくさんの荷物の方が目立っていました。
 自転車の後ろ姿は酷く不安定で、白一色の広場にぐねぐね曲がった轍を残していました。しかし、もはや器用にというべきか、転倒することもなく、ともかく無事に私の視界から消えていきました。
 私は、ふっと溜息を付きました。もし私が人間でしたら、辺りに白い湯気が広がったことでしょう。
 冷たさが身に染みる静かな夜でした。
 しばらくすると、公園から先ほどの男がひょっこりひょこりと出てきました。男は破れたカーキのジャンパーを羽織り、そのポケットに手を突っ込んで、こちらに向かって歩いてきました。蟹股で少しばかり横柄に見えましたが、公園前の道路を横断する際は、こんな日にこの道を通る車など殆どないというのに、何度も左右を見回して、ポケットから赤い手を出し、はっきりと挙げて渡っていました。
 そうしてそのままその男は私の目の前までやって来ました。
「おうよ。おまいさんも元気にやっとるか。あんたはいつ見ても真っ赤で、まったく可笑しなやつだなあ」そう言って、私の右肩辺りをぺちりぺちりと叩きました。
 男の肌は何日も垢を落としていないようで、不健康に黒ずんでいました。不自然に伸びた髭には雪や小さなゴミが絡まり、その髭が動くと、時々不揃いの黄色い歯が見て取れました。清潔さということに関して、人様のことを言える私ではありませんが、この時ばかりは自分に鼻がないことを有り難く思いました。
 男はまたポケットに手を入れ、その中を探っていました。やがて、ポケットから手を抜くと同時にそのポケットから光るものがいくつか零れ落ち、甲高い音が街に響きました。
 男は何ということもないという風に、そこにしゃがみ込み、落ちた硬貨を一枚一枚拾いました。随分と手が震えていましたので、直ぐにというわけにはいきませんでしたが、しかしやがて、きちんと全てを拾い上げました。
 そして、そのまますっと私を見上げたのです。男は何気なく顔を上げたのでしょう。けれども、彼と私の目はかっちりと噛み合いました。
 不意に男に笑顔が広がりました。
「おまえさん、よく見ると立派な面構えだなあ。こんな冷やっこい日に背筋をしゃんとして。いやあ。見上げたやつじゃあ」そう言って男は立ち上がりました。
 男はそのまま腕を持ち上げ、私にお金を入れようとしました。
 その時、ごおーんと一突き、腹の底に染みる鐘の音が聞こえてきました。決して横暴な音ではありませんでしたが、澄み切ったこの夜にしっかりと響いていることを、私は肌に伝わる大気の微かな震えで感じました。
 男も手を止め、「ん?」と首を傾げると小さく舌を打ちました。
「また、あいつらじゃねえか。あのな、おまえさんもよく覚えとけ。あれは、日本軍の手先がやってんだ。ありゃ、俺たちを苦しめるための悪魔の音なんだ。ほら、証拠にあの音がなると、余計にあれが落ちてくるんだ。見ろよ、うえっ、ほら、ちめてぇ。ちめてぇよ」男は天井を指差し、続いて顔の前で何度も大きく手を振りました。
 確かに雪はいよいよその勢いを自身のものにして、白い片鱗を辺り構わず撒き散らしていました。
 しかし、私はそれが鐘の音とは何の関係も持たないことを知っていました。年の瀬の夜にはいつも鐘が鳴ることを知っていましたし、何よりもう日本軍などいないということも知っていました。
 人間より自動販売機が物知りだとはいったいどういうことだろう。私は考えました。
 男は震える手で私にお金を入れました。五十円玉二枚と十円玉二枚が私の中に転がり込みました。
 私はただ私の仕事をするだけでした。缶の飲み物が並んでいるところのボタンだけ赤くしました。
 男は何を飲むか迷っているようでした。そして、迷いながら言いました。
「なぁ、あんさんよ。確かに悪の手は止まねぇが、だからって決して気を落としちゃあいけねえよ。なあに、生きていりゃ、いいことの一つや二つはあるさ。だから、しゃんと前向いて生きてりゃいいんだよ」そう言って、私の肩を二、三度叩きました。
 男は私のボタンを押して冷たい珈琲を注文しました。冷えきったスチール缶は私の体内を通って直ぐに取り口に辿り着きました。
 男は「ありがとさんよ」と言い、それを拾い上げてポケットにしまい込みました。
 私は慌てて電光表示板のスロットを回し、「7」を三つ揃えました。
 私の身体中の赤や緑のカラフルなランプが一斉に点滅しました。それで少しばかり辺りがぼうっと明るくなりました。
 男もそれに気づきました。
「うお。綺麗なもんだなあ」男はそうして暫く、私をぼんやりと眺めていました。
 私は急いで当たりの飲み物を選びました。本当は男に好きな飲み物を選んで欲しかったのですが、何せこの様子だと、男が選ぶことを忘れてしまうような気がしたのです。
 それで私はあったかいポタージュを選びました。
いえ。それは決して憐れみの心ではありません。こんな孤独な夜の、冷たい自販機の、たった一人の話し相手になってくれたあなたに、何かお礼がしたかったのです。
 ポタージュ缶はゴトンと大きな音を立て、取り口に転がり出ました。
 男は屈んで不思議そうに取り口を覗き込み、缶を拾い上げました。
「うわぁ。ペチカじゃあねえか」男は右手左手と缶を握る手を交互にしながらそれを抱きしめました。
「雪の降る夜は楽しいペチカ、ってな。よく、かかあが言ってたもんよ」
 私はペチカが何であるのか全く知りませんでした。けれども、なんだかとても温かいものであるような気がしました。
 男は嬉しそうに缶を頰に当てました。髭にこびりついた粉雪が少し溶けて雫が滴り落ちました。
「それじゃあ、また。元気でな」男はそう言って私の横っちょを叩くと、また手を大きく挙げて、誰もいない道路を渡っていきました。その手にはしっかりと私の贈り物が握られていました。
 そんな風にして、彼は真っ白な公園に消えていったのです。
 道路にはまだ彼が通った足跡が残っていました。しかし、それもじきに雪が消してしまうことでしょう。
 また一つ、寺の鐘の音が響き、そのうち白い世界に吸い込まれていきました。

ペチカの自販機

ペチカの自販機

「雪の降る夜は楽しいペチカ~♪」これは北原白秋の「ペチカ」の一節ですが、ペチカとは、レンガなどで造られた暖炉のことだそうです。 暖炉の「ペチカ」と本文は全く関係ありませんが、少しだけ歌を思い浮かべながら書きました。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-24

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