見て見ぬ、

この店の珈琲は、飲めたもんじゃないよ。

 中野の深夜喫茶は、非行にはしる少年少女であふれかえっていた。社会に対して中身のない不満を叫んで、未成熟な自分たちから目を背ける。こんなにも無意味な場所が、初めて来たときから僕は嫌いだった。
 それでもここに通うのは、ここでしか会えない人がいるからで、その人はまるで指定席みたいにカウンターの奥から二番目の席にいつも座っていた。
 僕が隣に座ると珈琲を混ぜていた手を止めて、こちらに瞳を滑らせる。一拍おいて、悪戯っぽい笑み。彼は、笑う時に右の口角だけを引き攣るように上げる癖があり、そのアンバランスな口元が嗜虐性を垣間見せているように感じられた。
「遅かったね」
「なかなか抜けられなくて」
「彼女?」
「うん、今日は映画を観てきた」
 彼女を置いてくるなんてひどい奴だと笑う彼は、顔に浮かぶ満足感を隠すことすらしない。そのままの表情で映画は面白かったか、彼女は喜んでいたか、なんて聞いてくるから、僕は彼のことがわからなくなってしまう。映画はそこまで面白くなかったけど彼女は喜んでいたよ、と答える僕に彼は、へぇ、とさっきまでとは違う笑みを見せる。初めて見たときには驚かされた尖った八重歯がちらちらとのぞく獰猛な笑み。見かけのみなら穏やかだと言える彼の中で、唯一攻撃的な印象を受けるのが口元で、それは彼が笑っているときに強調された。この笑みは先ほどの悪戯っぽい笑みなんかじゃない。僕は自分の足が床にはりついたように動けなくなり、それと同時に背中の奥の方、背骨のすぐ近くをビリビリと弱い電流が何往復もするような快感を感じていた。
 とっくに冷めていた珈琲を一気に飲み干して、お代をカウンターに置いた彼が、ゆるりと僕に巻き付く。首に回された腕はそんなに重くないはずなのに、振り払えない。まず、僕に振り払う気がないのだけど、基本的にスキンシップが苦手な僕は誰に対してもある程度距離を開けている。もちろんそれは家族や彼女に対しても変わらない。伸ばした腕一本弱、狭い場所や座っているとき以外はだいたい守っているその距離を、彼は決して守らせない。蛇のような、猫のような柔らかさであっという間に目の前に顔があることに、だんだんと慣れつつある自分に驚いている。
「一杯くらい飲んでいけばいのに」
「ごめん、もう出よう」
 僕が頼むようにそう言えば、君はいつまでたっても慣れないなと笑った。僕がこの場所を得意としていないことなんて彼はとっくに知っている。だからこそ、この場所で待ち合わせをしているのだ。彼は僕に罪を塗ることを楽しんでいるのだろう。
 行こう、とふんわり珈琲の香りをまとった彼に腕を引かれて、出口へと向かう。甲高い声で騒いでいる少女グループの間を縫ってなんとか扉を開ければ、冷たい夜風が吹きつけた。そのまま錆びた外階段を速足で上がり、彼がポケットから取り出した鍵で扉を開ける。そう、彼は深夜喫茶の上に住んでいる。そして、深夜喫茶の経営者は彼の叔父さんなのだ。
 手を引かれて足をもつれさせながら、靴を脱いでそのまま一直線に布団に連れていかれる。電気はつけていないから僕には何がどこにあるのかよくわからない。
「おい、ちょっと」
「なに」
 布団に座らせられ、急かすような目を向けられても困る。
「電気つけないとなにも見えないだろ」
「僕はわかるから平気」
「いや、僕はわからない、」
 意外と頑固な彼はこうなったら滅多なことがない限り電気をつけることはないだろう。
 手を伸ばしてなんとかカーテンを引く。わずかに開いた隙間から、うすぼんやりした夜の光が入ってきた。この窓は通りに面していないから、誰かに見られることはない。といっても、裏にある印刷所の二階にいる人が窓を開ければ、ばっちり見えてしまうけれど、この時間にそれはないだろう。
 僕を布団に座らせた彼は畳に立膝になって僕の髪を梳く。彼の癖っ毛とは真逆で真っすぐの髪は、彼の指に絡まることなくおちていく。
「立膝じゃあ痛いだろ」
「このくらい痛いうちに入らないよ」
 そう答えて髪を梳き続ける彼の腕を引いて、布団にあげる。
「ちょっと積極的すぎない」
「何言ってんだよ、ばか」
「はいはい、ごめんね坊ちゃん」
 右の口角がくくっと上がる。ほら、悪そうな笑顔だ。
「坊ちゃんはやめろよ」
 そう強めに言えば、はいはいと誠実さのかけらもない返事をよこして僕の首を指先で撫でた。
「真面目で可愛い坊ちゃん。こんなところにいていいのかい?」
「何言ってんだよ、連れてきたのはお前だろ」
 これは何度も繰り返してきた合言葉のようなやり取り。彼は彼の内にくすぶる欲望を、僕は背徳感を楽しむための魔法の言葉。
 シャツのボタンをゆっくり一つずつ外しながら、顔にいくつものキスが寄越される。目元、鼻、額に頬。なんだかむずがゆくて自分から彼の唇にキスをした。似合わない可愛らしいリップ音を思いっきり立てて唇を離してやれば、ニヤニヤとした笑みの中にはっきりと、自分を求めている顔があった。
 それからは何度も繰り返してきたとおりに、事は進んでいく。
 熱に浮かされて使い物にならなくなった頭をそれでもぐだぐだと働かせる。僕はそれなりの家柄に生まれて、将来を期待されている。可愛い許嫁もいて、何不自由ない生活をしているのだ。そしてそれはこれからも変わらないだろう。だいたいの恵まれた者は余程のへまをしない限り、恵まれたままにその一生を終える。自分はその中の一人であり、周りもそうであることを求めている。
 それなのに、今自分は何をしているのだろう。許嫁とデートをして家まで送り届け、あちらのお父さんに誘われた食事をあることないこと言って断り、その足で深夜喫茶を訪れた。そして、その目的は今、目の前にいる彼に会うためである。これは余程のへまに入るだろうか。
 考え事をしていても行為は止まらない。胸元を舐めあげる彼の頭をあまり力の入らない手で押さえる。時折小さくはねる体に彼は楽しそうに息をつく。それさえにも反応してしまうこの体は、カーテンから漏れ入る夜の光でぼんやりと発光しているように見えて、なんだか自分の物ではないように思えた。このまま人形にでもなってしまいたい、そんな微塵も望んでいないことを口に出せば、彼は器用に片方の眉を上げてから、のどぼとけのあたりに甘く歯をあてた。急所をぬるく脅かされていることに甘いしびれが脳を駆け巡る。
「叔父さん、帰ってくるんじゃないの」
「まだ夜の始まりでしょ、帰ってくるのは夜が明けてからだよ。深夜喫茶を閉じてから」
 これもいつものやり取り、ただの繰り返し。息継ぎみたいにお互いの立場を確認しながらすすめるのは、罪を犯していることに喜びを感じている自分がいるから。

 これは確実に、余程のへまに入るだろう。甘く苦しい圧迫感の中で、僕はそう確信した。

見て見ぬ、

見て見ぬ、

昭和30年代、中野の深夜喫茶で二人は逢瀬を重ねる。 (※同性同士の間接的な性的表現が含まれる青年向け作品です。苦手な方はご注意ください。)

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-03-24

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