体温、

 下校途中、突然の雨で制服は絞れるほどに濡れてしまった。
 春先の冷たい雨に体温がじわじわと奪われていく。水たまりに気を遣う余裕もなく、ローファーを浸水させながら家路を急いだ。
「ただいま」
 玄関を開けると電気のついていない廊下。おかしいな、鍵はあいていたからだれか先に帰っているはずなのに。ぐっしょりと濡れて重くなった靴下を手に持って、脱衣所へと向かう。
「ひっ」
 素足で踏んだのは床にできた小さく冷たい水たまりだった。足元をよく見れば点々といくつもできている。どうやら自分よりも早く帰った誰かさんもあの雨の犠牲になったらしい。
 水たまりを避けながら、たどり着いた脱衣所の扉を開ければ、その奥の風呂場からご機嫌な鼻歌が小さく聴こえた。
 とりあえず、制服をハンガーに掛けて、靴下とインナーを洗濯機に放り込む。鞄を確認すると、ファイルにはさまれたプリントはなんとか浸水を免れていた。中身を出して、外側をタオルで拭く。汗か雨かわからないが、こころなしか湿っている下着も脱いでしまおうと手をかけたところで、風呂場の扉が開き、温かく湿った空気と石鹸の香りに包み込まれた。
「あ、おかえり。マナも降られたの?部活は?」
 すっかり温まった様子の妹、マミは上機嫌だ。
「ただいま。初回だから早く終わったよ。マミこそ部活は?」
「ミーティングだけだったよ。15分もやらなかったかな」
 新年度を迎えて学年が一つ上がった私たちは二人そろって高校三年生になった。
 私は一年生からずっと放送部、マミはバトミントン部に所属していて、マミは年に何回か大会にも出場している。お互いにそろそろ引退だが、夏にバトミントンの大会があるから、マミが引退するのはその後になるだろう。
 入れ替わりで今度は私がお風呂に入った。冷え切った体に熱すぎるくらいのお湯が気持ちいい。お母さんが使っている高いコンディショナーのフタが開いていた。きっとマミがこっそり使ったのだろう。嘘がつけず、証拠隠滅が下手なマミはこういうことをしてよく怒られている。私はこっそりいい香りのするコンディショナーを少しだけ髪につけると、フタをきっちり閉めて元の場所に戻した。
 よく温まっていい気分でリビングに向かえば、マミがソファに寝ころんでいた。二人掛けのソファに体を小さく丸めて、眼を閉じている。
「ちょっと、風邪ひくよ」
 何度声をかけても肩をゆすっても、あ~とかう~とか意味のない言葉を返すばかりで一向に起きる気配がない。
「風邪ひいても知らないかね」
 軽く頭をはたいてそう言えば、ぐるんと体を回転させて、ソファの背もたれに埋まるようにしてまた寝始めた。少しだけ触れた髪はまだ水気を含んでいた。
「マミ、髪乾かさないと」
 返ってきたのは無言、もう起こすのは諦めて、マミの背中にもたれ掛かってソファに座る。座るといっても半分くらいソファからはみ出していたが、ほぼ全体重でもたれ掛かっているため、落ちることはない。小さいうめき声が聞こえたが気のせいにした。
 私もマミもさっきシャワーを浴びたばかりだから身に着けているのは、薄いTシャツとショートパンツだけで、触れ合った部分からそのまま体温が伝わってくる。それが温かくて気持ちよくて、さっき浴びたシャワーとはまた違う、湯船につかるような心地よさを感じていた。
 それはマミも同じようで、体重をかけているから重いはずなのに、ぴったりとくっついたまま動こうとしない。こうしていると、なんだか自分とマミの境目がぼやけてまじり合って、よくわからなくなる。

 眠いのか眠くないのか、よくわからないふわふわとした感覚の中、私は中学生の時をぼんやりと思い出した。中学では二人で放送委員会に入っていた。どちらかがお昼の放送当番だと、こっそり教室を抜け出して当番以外立ち入り禁止の放送室で、よく一緒にお弁当を食べた。当然、お母さんが作ってくれるお弁当は二人とも同じものが入っているのに、あ、そっちのお弁当、エビフライじゃん。いいな~。なんてふざけ合いながら、45分間の昼休みを楽しんだ。家に帰れば当たり前に話すことはできるけど、この45分間はなんとなく特別だった。たまにマイクを入れっぱなしにしていて、先生が怒りながら走ってくることもあったけど、そんなことさえも楽しかった。
 高校に入っても当たり前に一緒に放送部に入ると思っていた。しかし、マミにバトミントン部に入部した、と嬉しそうに報告されて、その時やっと、私たちは別々の人間で、これからはずっと一緒にいられるわけではないのだと理解した。
 高校での私たちは双子ではあるけれど、中身はあんまり似てないよねと周りから言われるようになった。一人で黙々と何かをするのが好きな私と、周りを巻き込んで物事を進めていくタイプのマミ。もしかしたらマミは放送委員なんてやりたくなかったのかもしれない、無理に私に合わせてくれていた部分があったのかもしれないと勝手に落ち込んで、マミを避けるように意識していた時期もあった。それは自立しなきゃ、という私の身勝手な焦りで、マミは突然自分を避けだした私に戸惑い、互いのフラストレーションはたまり続け、私たちはそれまでの人生で一番長い喧嘩をした。
 あの時、仲直りのきっかけをつくったのはマミだった。マミは部活の仲間と一緒に、私が急病のクラスメイトの代わりに出場した英語のスピーチ大会の応援に来てくれた。緊張しやすい私は、あの時マミとその仲間たちがつくり出してくれた柔らかい空気の中で、なんとか最後までやり遂げることができた。あの時に、仲間と一緒に面白い顔をしたり、おおげさなリアクションをして私の緊張をほぐそうとしてくれたマミを、壇上から見たことで、私はマミとの接し方を変えていこうと思えた。私とマミが別々の人間であることは悪いことではないし、今までみたいに四六時中一緒で、べたべたしていなくても、双子としてのよい関係は保つことができると思った。それを少し寂しく思うのは、内向的な自分の性格が原因で、きっとしばらくそうしていれば、マミが近くにいないことにも慣れ、私も自立することができると思ったのだ。
 それまでは、双子であっても一応姉である自分が妹を引っ張っていってやらないと、という思いがずっとあったけれど、それもあまり考えないようにした。元から社交的で何にでも挑戦するマミにとって、私が無理に頑張っていたことはありがた迷惑というものだったのかもしれないと今になって思う。
 マミに注意しておきながら、まだ湿っている自分の髪をタオルでゆるく拭く。
 部活を引退したらいよいよ受験勉強である。といっても、私たちが通っている高校は進学校であり、勉強はそれなりにずっとやってきてはいるが、なんだかやっぱり三年生になるといよいよ本番というか、周りや先生たちの緊張が日に日に増しているように感じた。マミは私より勉強している時間は短いけれど、要領がいい。部活を引退したら、きっとすぐに抜かれてしまうだろう。前までの自分だったら、姉として意地でも勉強は負けないように努力したと思う。もちろん今も精一杯努力はするけど、それは姉だからではなくて、自分の進みたい大学に受かるためだ。
「あのさ、」
 寝ていると思っていたマミが急に声をかけてきたのに驚いて肩が跳ねた。背中によりかかるのをやめれば、体をぐるりと回転させてマミがこっちを向いた。ソファのひじ掛けに頭をのせて眼をこするマミの頬にはソファの跡がついていた。
「なんだ、起きてたの」
「今起きた」
 まだ眠そうに欠伸をするマミ。バトミントンをしているからか、この二年間で私より少し身長が高くなった。
「あのさ、大学、どこみるかもう決めた?」
 少し前の自分ならかなりのダメージを受けていただろう質問が、マミの口からなんともないように吐き出される。
「いきなりだね。まだ何も決めてないけど」
「だよね、なんか先生に早めに決めろって言われて。無理じゃんね」
 はは、と笑うマミを見て、私はなんとなくマミは東京の大学に進学する気なんじゃないかと思った。
 社交的なマミはきっとどの大学でもうまくやっていくと思うし、どんどん私の知らない世界に進んでいくだろう。私は私でマミとは違う世界に進んでいく。まあ、たぶんマミよりはすこし暗めの世界かもしれないけれど。
「マナは」
 なんとなく会話は終わったと思っていたから、掛けられた声に反射的に顔を向けた。
「マナは頭いいから東京の大学とか行っちゃうの?もしくはここから近い国立大とか?」
 予想外の言葉にちょっと動きが止まってしまった。私はそんなに頭よくないし、東京に行きたいのはマミの方なんじゃないの?
 太陽を浴びすぎたのか、私の髪よりもずいぶんと茶色い髪が生乾きでごわごわになっている。
「マナが行きたい大学どこ?ちょっとでもいいかなって思ってるところないの?学部は?」
 矢継ぎ早に質問をくり出すマミを見ていると、なんだか笑えてきてしまう。別々の人間だとか、性格が全然違うとか、一人でごちゃごちゃ悩んでいたことが馬鹿らしくなるほどに、マミは無遠慮に私の心に侵入する。そんなマミをウェルカムモードで迎えている私は本当にどうしようもない。
 もし、この先マミに彼氏ができて、結婚することになったり、マミが仕事でどこか遠くに行ってしまったら、私はどうするのだろうか。いや、どうするもない。送り出すほかに道はないのだ。私はすぐ不安になるし、あまり自分に自信もない。ましてや姉としてマミを導くことなんてできやしない。だけど、マミと共に選択し、共に歩むことはできる。自立だとか、妹離れだとかはもうやめた。私は私のやり方で、一番近く一番遠いところにいるこの妹とそれぞれの幸せを見つけていけばいいのだ。
「土曜日、大学見学行こうよ。一緒に」
 頬にソファの跡をつけたままのマミが嬉しそうに頷いた。

体温、

体温、

双子の女の子の進路の話

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-23

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