海の家 (1)

「仕事辞めて海の家やろうと思うんだよね。一緒に来る?」
 そう聞かれて、反射的に首を横に振った自分をいまだに許せないでいる。



 家から20分ほど歩けば海へ出られるこの家は父方の実家だが、僕らにとっての祖父母はもう亡くなり、今では父母兄と僕の4人で暮らしている。四つ年上の兄は面倒見が良くて優しくて、小さいころからとてもよくできた人だった。弟の僕から見たらまさに完璧人間。欠点なんてないような人だった。そんな兄の欠点とは言えない特徴がのようなもの、それは海に対する関心の強さだった。
 海に近いこの家に住んでいれば、海が身近なものになるのは当然だった。僕も海開きが行われれば、すぐにでも海パンで家を飛び出し、友達や兄と一日中泳いでいた。僕も僕なりに海が好きだったし、大切に思っていた。しかし、兄の海好きは好きの範囲に収まらないようなものだった。
 兄にとって海はただ泳いで楽しむものではないらしい。雨の日は海に振る雨音を聴き、雪の日は海に溶ける雪を眺める。よく晴れた日であっても泳ぎにはいかずに、その青色をただ眺めているだけの日もあった。運動も得意な人だったから、マリンスポーツの誘いもたまには受けていたようだが、何か一つのものを続けることはしなかった。
 兄は穏やかな人であまり親に叱られることはなかったが、海のこととなると人が変わったように後先を考えずに行動することがあった。小学校の休み時間に抜け出して海へ行ったり、真夜中に海へ行っていたこともあった。その度に兄は叱られていたが、口をきゅっと結んで下を向き、謝ることはなかった。そのおかげで家中のドアには鍵がつけられ、夜や両親がいない日には施錠された。
 兄が12歳くらいの時に一度だけ家を抜けだしたことがある。その日はひどい嵐で、海も荒れていた。そんな日に海へ近づくなんて、当然許されるはずがない。父と母はその日どうしても仕事で家を空けなければならなかったから、隣の家のおばさんに兄の見張りを頼んだ。おばさんは優しいけれど、強い正義感みたいなものを持っている人で、僕はなんだか苦手だった。そんなおばさんが僕らにおやつを出してくれているとき、兄がおばさんの横をすり抜けて、家を飛び出した。おばさんはしばらくどうしよう、大変と繰り返してから、電話台へと飛びついた。おばさんが父に電話をかけている間に僕も兄の後を追って家を出た。遠く後ろでおばさんの怒鳴り声が聞こえたが、足は止めなかった。大粒の雨が叩き付けるように降り注ぐ。目を開けているのもやっとの激しい雨の中、兄は砂浜に座って空を見上げていた。まだそれほど波は高くなかったが、濁った波がいつもより強く砂を巻き込み打ち寄せていた。激しい雨を一身に受けながら、深い呼吸を繰り返す兄に呼びかけても反応はない。駆け寄って腕に触れてはじめて僕の存在を認識したようで、眠っているように閉じられていた瞼がびくりと震えて、雨の中大きく開けられた瞳がこちらへ向けられた。どうしてか、僕は帰ろうとは言えなくて、一緒になって砂浜に座り込んだ。雨でぬれた砂浜というのはなんだか不思議な感覚で、自分が海の底に暮らす貝のようなものにでもなった気分だった。どれくらいそこにいたのかはわからないが、ずぶぬれになった父に引きずられるようにして帰宅し、二人してひどく叱られたのを覚えている。それ以来、嵐の日には僕がゲームやレンタルしておいた映画で兄と部屋に閉じこもるようになった。
 一度だけ、兄にどうしてそんなに海が好きなのか聞いたことがある。兄はよくわからないけれど、どうしても海へ行かなきゃならないと強く思う時があるのだと、恥ずかしそうに教えてくれた。天気のいい日の昼間なんかの海はもちろん気持ちがいいけれど、嵐の日の海も、夜の海も好きなんだ。そう言って、羞恥から耳を真っ赤にしている兄を見て、それなら海へ行きたくなるのは仕方がないことだと僕は思った。それからは兄が両親に叱られないように、毎日天気予報を確認して、天気の悪い日は自分から兄を室内遊びに誘った。兄はそわそわとしていたけれど、部屋には鍵がかかっていたし、一度遊びに夢中になってしまえば時は経つのは早かった。カードゲームに漫画、テレビゲーム、映画、すごろく、合作で漫画を描いたこともあった。あの出来はなかなかだったと思う。僕は嵐の日だけ、兄より優位に立てている気がしていた。僕が兄を両親や隣のおばさんや荒れ狂う海から守ってあげていると思っていたのだ。

 そんなちょっとおかしいまでの兄の海好きは、兄が高校生になったころにはだいぶ収まったようだった。東京の大学に通い出してからは、大学寮に入っていたからよくわからないが、電話口で東京の海は変な臭いがすると笑っていたのをよく覚えている。社会人になって兄は実家に帰ってきた。しばらく見ない間に兄は、写真で見た若い頃の父によく似た姿になっていた。勤め先は市役所で、まだ慣れていないからきついけど面白いよ、と笑っていた。社会人になった兄はほとんど海にはいかなくなった。たまの気晴らしに散歩する程度、そんな兄の姿に両親は安堵し、僕は密かにすこしだけ落胆していた。
 兄が帰ってきてから三年経って、大学四年生になった僕は就職活動を始めた。特に希望している業界もなく、なんとなくいいかなと思った企業にエントリーシートを送る。まわりの雰囲気もだんだんピリピリしてきて、すこし息苦しかった。なんとなく誰かに愚痴りたい気分になって、兄を散歩に誘ったのが5月の風が涼しい夜だ。
 夜の海岸をゆっくり歩きながら、就活の愚痴を聞いてもらった。兄も自分の就活のことを話してくれた。僕が知らなかっただけで、兄も就活中はいろいろと悩んでいたことにすこし驚いた。
「なんかすぐに就職先決まったイメージあったから、楽勝って感じなのかと思ってた」
「そんなわけないだろ、それなりにきつかったよ」
 サンダルを手にもって、裸足で歩く砂の上はひんやりと冷たい。波がとどくかどうかのぎりぎりのラインはたまにくる大きい波であっけなく超えられて、くるぶしを濡らす。夜の海は静かで真っ暗だ。濡れて黒っぽくなった砂は水との境目がよくわからなくなる。
「濡れるよ」
 その声に顔を上げれば、少し先を歩いていた兄が斜め前にいた。どうやら僕がどんどん海の方へ寄っていたらしい。
 夏の間だけ営業する海の家の横に放置されたままのベンチに腰掛ける。手持無沙汰で両足をこすり合わせれば、足に張り付いていた砂が乾いて落ちていく。兄はただただ真っ暗な海を眺めていた。
「あのさ、今日はありがとう。めっちゃ愚痴っちゃったけど……」
「いいよ、そういう時期だろ」
 少し照れ臭かったけどお礼を言えばいつも通りのなんだか困ったような顔で兄は笑った。
 そのあとはしょうもない笑い話をしながら海岸を引き返して家に帰った。

 兄に愚痴を聞いてもらった夜から二か月後、立て続けに二社の内定をもらった僕は悩んだ末に、電気機器メーカーの営業を選んだ。入社してもう三年目になるが、今年は仕事にも慣れて後輩もできて、なんとかうまく回り出した、という感じだ。
 最近、残業が続き、帰宅するのが遅くなることが多かったが、今日は珍しく定時に近い時間で会社を出ることができた。家について野球中継を観ていた父と話していると、兄が帰ってきた。この時間に帰ってるなんて珍しいなと、ワイシャツを洗濯機に放り込みながら兄が笑う。つまみのような夕食を食べながら、三人でビールを飲んだ。去年亡くなった母の仏壇にも小さなグラスに注いだビールを供えると、父が自分のお気に入りのつまみであるアーモンドフィッシュを小皿にもって供えた。
 夕食も食べ終わり、ソファですっかり眠っている父に、近くに脱ぎ捨ててあった父のフリースをかけて、ちびちびと残りのビールを飲みほしていく。母が亡くなってから、うちの酒消費量は以前と比べてかなり増えている。みんな口には出さないが、夕食時が一番きついのだ。台所から明るい声が聞こえてきそうで、僕や兄に手伝ってとふきんやお箸を渡す温かい手を感じてしまいそうで、誰からということもなくビールを空ける。眠る父をみながら自分もうとうとし始めていたら、するりとビール缶を取り上げられた。
「明日休みだからって飲みすぎ。先に風呂入っていいよ」
 本当はあまり酔っていないし、このまま寝てしまいたい気分だったから、兄に先に入っていいよと言ったが、明日使う資料をちょっとまとめると言うから、渋々先に風呂に入った。眠気も飛んだすっきりした頭で風呂上がりのソーダアイスを手に、風呂が空いたことを伝える。
「風呂、空いたよ」
 資料まとめは終わっていたのか、兄は窓を開けてぼんやりと外を眺めていた。俺が掛けた声にゆっくり振り向くと、わかったと軽く右腕をあげた。
「父さんどうする?運ぶ?」
「あー、今日は暖かいし大丈夫じゃない?風呂あがったらまた起こしてみるよ」
 そう言いながら、ちょっとおっさんっぽい声を出して伸びをする兄は、なんだか疲れているように見えた。
「なに」
「なんか疲れてない?おっさんっぽいよ」
「おっさん!」
 眼を真ん丸にした兄は、畳に倒れこんでひとしきり笑い倒すと、ぽつりと呟いた。
「疲れてはいるよ」
 起き上がって三角座りになった兄は大きく息を吐いた。僕がタンスによりかかりながら床に座ると、いつもより少しだけゆっくり兄が話し始めた。なにやら真剣な話になりそうだったから、急いでソーダアイスを食べきる。30分くらいだろうか、兄の口から語られたのは後輩の女性から向けられた好意と、その人の死だった。
 僕はその後輩の女性が亡くなったことは知っていた。兄がお通夜にも葬式にも行っていたから。でも、好意を向けられていたことは知らなかった。きっと兄は僕以外に誰にもこのことを話していないだろう。そういう人だ。
「自分を責めるとかじゃないんだ、そんなの彼女に失礼だろうし。でも、なんか色々考えちゃって、たぶんまだ母さんのことも自分の中で整理がついてない」
 なんとなく母さんのことは、タブーじゃないけど話すのをみんなが避けていた。だから、久しぶりに兄の口から『母さん』という音が出て、僕はその懐かしさとあたたかさに無意識に体を固くしていた。
「それは、みんなそうだよ。整理なんかついてない」
 それから、お互いに目を合わせないまま、ぽつりぽつりと半分独白のように言葉を交わした。
 12時をまわるころ、兄は父さんを起こしてくると居間に向かった。僕は自分の部屋に入って、すっかり乾いたソーダアイスの棒をゴミ箱に投げ捨てた。兄は悩んでいるわけでも、後悔しているわけでもなかった。ただ、後輩の女性の死と母さんの死をどうやって受け入れていこうか考えているようだった。僕は目をそらしてばかりだ。できるだけ見ないように、感じないように、思い出さないように硬く硬く。
 風呂の扉を開く音がした。父さんは起きたのだろうか。歯を磨いてから居間のソファを見てみると、兄の努力むなしく深い眠りについている父がいた。父の部屋からタオルケットを持ってきてかける。三本のビール缶はどれも空で、片付けようとして掴み損ねた一本が床に転がり、寂しい音を立てた。その音がどうしてか耳にはりついて、僕は中学生の時みたいにイヤフォンで音楽を聴きながら眠りについた。
 朝、携帯のアラームが鳴っていないことに焦って飛び起きてから、今日が休日であることを思い出した。首にはイヤフォンがぐるぐるに絡まっていて、昨日のことを思い出す。居間に出ると、父はもう出かけていて、兄が遅めの朝食をとっていた。
八枚切りの食パンを一枚、トースターに放り込んでジャムを冷蔵庫から取り出す。冷凍食品のチャーハンを食べている兄を見て、朝からよくそんな重たいものが食えるなと感心する。トーストにジャムを塗って、兄の分までつくったインスタントコーヒーと一緒にテーブルに運べば、ちょうど食べ終わった兄がありがとう、とコーヒーに口をつけた。
「今日は一日空いてる?」
 兄の問いかけにトーストをかじりながら頷けば、コーヒーを一口飲んでから、ゆったりとした口調で誘われた。
「久しぶりに海に行こうか」
 兄の口から海という単語を聞いたのは久しぶりで、勢いで飲み込んだ咀嚼途中のトーストが喉をかすってひりひりした。
「いいけど、まだ海開きしてないよ」
「入りはしないよ、散歩散歩」
 本当は家でだらだらしたい気分だったが、昨日の兄の話がまだどんよりと肺の下にたまっている感覚があった僕はすぐに了承した。

<つづく>

海の家 (1)

海の家 (1)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-22

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